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『徒然日誌』 2007年1月から12月

2007年12月31日Monday くもり
大晦日。 休みに入って日記の更新も止まっていたけど、最後なんで。
ゆとりを持って最後の一日を過ごそうなんて、結構前から抜かりなくやっているつもりなんだけど、どうもそういう風にはならないのである。なんだか慌ただしく晦日の日中。天候が芳しくない。昨日の雨と風と最後に霙には参った。ま、付けたシメが風に飛んでしまうことはなかったのは幸い。
働いて飲んで寝てなんて生活が28日から続いていると、今日あたりになると疲れが大分溜まってきていて、護摩を焚く時間まで持つだろうかなんて、51歳の歳の若くないことを自覚させられる。頭も刈ったので、少しさっぱりして、午後は早めに仕事を終えようと思う。書き物もまだ少しあるし、今夜の護摩の後のお話も何か考えなければならない。
Wさんにいただいた柚子で、今夜は風呂と柚子を入れた焼酎を飲もう。警察官の従兄にも少し持っていってもらった。今夜の勤務はないのだそうだ。「もう2年で定年だ」と話していった。
祖父が大正13年の正月に書いた三社天神の札を、僕も今年書いてみた。来年も僧になるための勉強を続けます。先ず今夜、誰もが幸せになって世界に平和が訪れるような護摩を焚きます。

2007年12月29日Saturday 晴れ
車が少ない。 おそらく今年最後の夜のウォーキング。夕べから朝にかけての雨は結構降ったみたい。今夜は星もきれい。オリオン座も見えたし、雲もあっていい空。歩き始めて静かなのに気付いた。車がほとんど走っていない。国道52号がこんなに静かなのには少々驚き。車の騒々しさとライトが少ない分だけ、空の暗さと星の瞬きを今年最後の贈り物のようにいただいて得した気がした。10月のある晩からはじめて2ヵ月半ほど。体重はほとんど変わらないが、ありがたいことに腹回りが少し楽になってきた。いつも穿いているズボンの裾が長くなったように感じ始めたのだが、これってその現われだったんですね。太り始めて、白衣の裾が短くなったと思ったら、腹回りが大きくなったことで、衣の裾が上に上がっちまったことがあって、今回はその逆になったので、これはこれはありがたいことでした。
休みに入って、また書くことめんどくさくなってきたので、後は大晦日にちょっと書くくらいになるでしょうか。

2007年12月26日Wednesday 晴れ
Led Zeppelin & Neil Young。 Led Zeppelinが12月10日に一夜だけの再結成ライブをした。EzTorrentにもたくさんのこの夜のLiveがアップされた。今夜やっと聴くことができたんだけど、うーん、なんて言うかな、そんなにも感激しなかった。懐かしさも感じられなくて、やっぱ僕の中じゃ、ZEPはこんなもんだったのだ。お騒がせ芸能人の沢尻エリカが、彼氏と一緒に仲良くZEPのコンサートに出かけて、お手てつないでお帰りなんて報道してたけど、まっ、それはそれでいいでしょう。
僕にはやっぱりNeil Youngのほうが今は大事。新しいアルバム「Chrome Dreams II」の発売に合わせたツアーが行われているが、このLiveも大人気で、たくさんアップされているが、これがまたいい。Acoustic Compilationなんてのを編集してアップしてくれる優しいどこかの外国の方も居られて、世界の平和を希求する思いのようなものが僕のこの寒い冬の部屋にも届けられる。

2007年12月25日Tuesday くもり
連休明け。 残り一週間だ。3連休が終わって、僕の仕事は今日を入れて後3日。27日の夕方宿直で、28日の明けは休ませてもらうことにした。
娘が冬休みで帰宅。息子はどうすることやら。22日は不動寺のおばあさんの3回忌に行き、翌23日は増穂の明王寺の「冬至祭」へ。前日の夕からの雨をご住職の標さんも大変に心配していたが、なんと10時過ぎくらいに雨が上がり陽が射し始めたではないか。凄い!天気回復に向けて、明王寺のお不動様と、大聖寺のお不動様がタッグを組んだ。僕も修験の衣体を持って、今年納めの山伏。相変わらず法螺貝は上達しない。こんな未熟者の加持でも、手を合わせて受けてくださる方が大勢いてくれる。お酒をいただいて、取り留めのない寺の今後のことなど話していると、時間の過ぎていくのがもったいなく感じてしまう。暖かな明王寺のご家族皆さんに送られてタクシーで帰宅。昨日の休日は、午後から御札書き。溜まっていたものになかなか手をつけることができなかったが、夕方まで集中して一気に書き上げた。マイルスなんか聴きながらね。御札を書いている最中に電話あって、「御札をお願いした者です。時々お参りさせてもらっていて、心洗われるような気がします」と。こちらこそそんな言葉を貰うと、ありがたく、この寺に在ることを嬉しく思う。残り一週間、一年をきれいに整理して、新しい年にまた思いを託したいと思う。偽りのない年にするってことだ。

2007年12月20日Thursday 晴れ
団体参拝あり。 午後2時ごろ「旅で仏教文化を知る会」の一行18名来山。今日は午後休みを取った。今年は「風林火山」ブームも手伝い、いくつか団参があった。これが今年の最後の大きな参拝者となるんだろう。例によってお寺の説明と、この会へだけは会の目的の一つでもあるらしいので、少しの時間説教もさせていただいた。僕にとっても一年の締めくくりのいい日となった。お布施もあげていただき、ご朱印も10名の希望があり、貧収入のお寺には、ありがたい年の瀬のいただき物となった。
帰ってから、5時頃まで、門松らしきものをちょっと工夫してこしらえてみたり、年末の仕事をさせてもらって充実充実。
日曜日の明王寺のお祭りの天候がちょっと心配。雨にならなければいいが。本堂前の境内で、檀家やご家族総出で、冬至のカボチャのほうとうを振舞ってくれるのだ。僕も納めの修験の日なので、何とか予報が外れてくれるといいと願っている。クリスマス・イブは別に雨でもいいでしょう。雨から雪にでも変われば、なお更いいんではないか?

2007年12月18日Tuesday 晴れ
ひどく一日眠たかったのだ。 布団の中に入っても、なかなか寝付けない。何が一番かというと、やはり冷えていることのようだ。眠気は十分にあるんだけれど、足が冷たかったりして、覚醒してしまう。玄関を出て、車庫に向かいながら本堂の扉が開いていないことに気付いた。うん?と思ったが、今朝は寒かったので、観音扉を開けずに勤行に入ったので、終わってそのまま退堂したのでこうなっているのだと思った。で、お堂に入って扉の前に行くと、なんと、かんぬきは外していつものところに立てかけてあるのだった。ということは、読経の後、扉を開けるつもりでかんぬきを外したが、うっかりそのまま、かんぬきだけ立てかけて出てしまったのだ。なんと!今朝も冷え込んでいたので、頭の回路がまだ温まっていなかったのだ。蝋燭をつけて線香を立てれば、経は自然と口をついて出てくるのだが、ターバンでカイロを頭に貼り付けておいたほうがよさそうだ。これは僕にしかわからないことで、誰に知られたわけでもないが、なんか少し今朝は固まっていたかな。それで出勤してからもひどく眠たかった。
夜支所と一緒に忘年会。10時過ぎに帰宅。でもいいこともあった。下部温泉に入った。途中抜けて30分ほど風呂に入った。普段は身体を洗う固形石鹸で頭も洗うところ、今夜は備え付けのボディーソープとシャンプーのどちらも液体洗剤で洗えたのだ。年の改まりを控えて、今夜の忘年会は風呂にこそ価値があった。とてもよかった。で、今またとても眠くて仕方がないので、寝ます。

2007年12月14日Friday 晴れ
柚子。
もいでもらえぬ柚子はさびしい。忘れられたかのような柚子の木が、むさ苦しく背だけが伸びて、山の傾斜畑に立っている。誰も採りに来ないのだろうか。冬日に柚子の黄がいっそう映える。これは、大炊平のあちこちの柚子のこと。師匠のブログを読んで、昼休みを大炊平の山側から、そして川伝いに歩いて清沢へ橋を渡った。河原に何台も軽トラが止まっていたのを見ると、おそらく鉄砲隊が山に入っているのだろう。今年は獣が里に下りてこないので、狩猟の成果が上がらないようだ。お陰でわが寺の回りも今年は、掘り返されたりしていないので、きれいになっている。このまま今年の冬は終わって欲しいな。
同僚のお父さんの訃報が入り、午前中、ご挨拶に行ってきた。山間集落である。道路に大根の食べ残しが2箇所落ちていた。猿だな。ここには猿が出てるんだな。と思うがよいか、我が家のほうにもそろそろ下りてくる時期になってきたのかと、用心すべきか。S君と二人で、ちょっと遠いが、坂道を歩き始めた。杉木立の日陰は、道路も湿ったままで風も冷たい。でも、坂を1キロほど上がっていくと暑くなってきた。
Y君の家は旧い。彼は今町営住宅に、奥さん子どもと住んでいるが、やがてはここに帰ってくるのだろうか。挨拶をして、僕らをお父さんの横たわる座敷に案内してくれて話した彼は、すでに覚悟ができていたようで、慌てている様子もなく、反ってこの旧い家の新しい主となる風格さえ漂っていたように感じた。もう10年位前になるだろうか、二人宿直だったある晩かな。飲みながら話を聞いたことがある。彼の家では、大晦日の晩に、奥座敷の床の間なのか、神棚の飾り付けをするのだが、これは男の役目で、飾り付けをしている間、家の女性はこの部屋に入れないのだと言った。祖父から親父に受け継いだことを、俺も親父から教わるのだと、誇らしそうに語ってくれた。このことはよーく覚えている。今日お父さんが眠っていた部屋がその部屋だったのだろうか。家を後にして、S君とまた今度は坂を下って、旧曙小の校庭で別れた。途中ここにも、実りたわわな柚子の木が数本あった。木に生ったままあの香りを発してくれたら、こんな風に、派手だけどさびしい様子にはならないだろうにと思った。

2007年12月13日Thursday くもり
吉凶。 来年の暦を読んだりしている。どうもこの暦という奴、吉凶で言えば凶に重点が置かれているように感ずる。この方角は悪い、工事をすると災いがあるとか。この方角はいいんですよという書き方はない。悪いことを知らせておいて、それを避けて生活しなさいという方針になっている。いいことより、悪いことを避けて生きたいというのが本音かもしれないね。いいことは、普通でさえありゃ、特別に望まなくてもいいものね。
今年の一字は、“偽”と発表されたが、そうね、今年は途切れることなく皆謝って頭下げてたもんね。白を切っても、結局最後にゃ謝ってるね。船場吉兆による賞味期限改ざんの不祥事もあった。吉兆は、めでたいことの前触れだけど、不吉な前兆の凶兆になって、謝ったね。でもあの創業者の娘さんとやらは、心底謝ってはいないようなオーバーアクションだったな。偽ることが日常茶飯事になってしまったら、誰も信用できなくなって、国は滅びるかもしれない。この辺りで、しっかりと踏ん張って元通りにしないと。
今日ケータイを忘れた。こんなときに限ってケータイにかかってくる。夕飯後にかかってきた電話に出たら、消防の部長のSさんからだった。新しい消防車が1月に入るので、入魂のお祓いをして欲しいとのこと。朝・昼と、2度電話しましたと彼の弁。謝って済むほどの近しい人なのでよかったが、鳴らないケータイでもやはり携帯しないといけませんな。

2007年12月12日Wednesday くもり
どん曇りだ。 今朝も重たい空である。ひょっとしたら、今日も雨になるかも。夜は御札作りになるか。
病気平癒の護摩を頼まれた。大晦日用に作っておいた護摩壇を、週末にもう一度焚くことになった。掃除するのは少しめんどくさいけれど、護摩を焚かせてもらえる機会が与えられたことをありがたく思う。それ以上に、願主の重い思いを軽くさせてあげたり、お不動様のお力によってその災いを取り除いてあげたいと思う。
年賀状も作らなければならない。ワンパターンの賀状なので、レイアウトしてしまえばそれで済むのではあるが、賀状を出すほとんどの人と会う機会はない。この一枚だけのつながりで、縁を繋いでいる人もある。子供たちの名を賀状に並べることもそろそろ終わりにする時期に来ているのかもしれない。
(22:08) 今夜も帰りつくころから降り始めたので、夕食後のウォークはなし。昼休みに歩いたのでまあいいか。となるとやる事はひとつで、御札書き。テレビじゃ夕べも今夜も、年末の歌番組なんかやっていた。どの歌も素通りしていく。旅番組の音声を聞いていたほうがよっぽど想像が湧く。墨をすって、一枚一枚丁寧に尺五寸札は木札書きからはじめなければならない。父の残した御札の字のほうが、枯れていていいなと毎年感じるが、今夜もやっぱりおんなじことを思った。焦ることはないか、彼の亡くなる年までまだ16年位ある。

2007年12月11日Tuesday くもり
久しぶりの雨。 天気予報が当る気配がないと思っていたら、お昼頃から降り始めた。弁当を食べて外に出たら、降り始めた雨はいつになく冷たい。坊主頭にも辛そうな雨なのでさっさと歩くのを諦めて事務所に戻った。ROH YU-PHI
ピアノのカセットテープを少し聴いて暇つぶし。昨日今日と集中して予算立て。午前中でひと段落着いた感があり、終業まで、栄典事務のことでお願いする明日の校長会への資料作り。
今夜は歩けないので、焼酎湯割り2杯飲んで、その後、護符や御札作り。夜なべも少ししなければならないか。暮れになってきたんだなぁ。

2007年12月10日Monday 晴れ
落ち葉を掻き集める。 ここに通い始めて3年目になるが、落ち葉を掻き集める光景を見ることが多い。今日も国道300号沿いの側溝の落ち葉を大きな袋に詰めている女性の姿を見た。側溝は綺麗になるし、いただく側は畑などの肥料になるわけだ。一色のつづら折りの坂道なんかは落ち葉の宝庫である。一度は、軽のワンボックスカーの運転席の裏に板で仕切りをして、後ろにダイレクトに落ち葉を放り込んでいるのなんかも見た。
実はうちの女房も落ち葉を大きなビニール袋に集めている。早川の久田子(くたし)の親戚から落ち葉を貰いにくるのだ。せっせと集めては、袋が溜まると集荷にそこの嫁さんが来る。久田子からは、キノコや山菜なんかをいただく。循環型社会が出来上がっている。自然との関わりや、お付き合いの中からも。さくさくと踏む落ち葉は、気持ちがいい。熊手で掻き集めたり、竹箒で掃いたり、身体も温まれば、腹も減る。酒も旨く飲める。桜の落ち葉はいい香りを放って燃える。落ち葉を恨むこともあれば、落ち葉に心和むときもある。生活なんてこんなものだよな。

2007年12月9日Sunday 晴れ
煤払い。 午前中本堂の掃除をしてから午後煤払い。気になっていることは済ませてしまわないとずっと気になる。やったという行為が大事なんだ。八幡神社の前と集会場では、恒例になってきた門松作りの集まり。僕はどうも作ることが苦手なので、寺のものも紙の門松や、百均で買ったものなどで済ませている。客殿・本堂・庫裏・鐘楼・山門・土蔵など、寺をぐるりと煤払いして回る。「お寺も広いから大変だぁ。」と、門松作りの衆。終えて落ち葉掃き。もう少しで葉は落ちきる。掃いても掃いても片付かない。5時前にヒデちゃん来て、暮れの付け届け置いてってくれる。「よくやるなぁ、ぼちぼち終わって、熱いやつやってちょうだい。」と。僕もそろそろ終おうと思っていたところ。お勤めを済ませて焼酎湯割。風林火山も来週が最終回だとは。一年は早いなぁ。

2007年12月7日Friday 晴れ
あたいあんたのあそこが好きだから。 電車通勤をしているが、中学生・高校生の態度や話し方がなっとらんとお叱りの電話がかかってきたのだ。特に女子学生がひどいと言う。言葉遣いが悪い。話している会話が何を言っているのか意味不明。学校では日本語教育をどのように施しているのだ!こんな子どもたちが、将来のニッポンを担っていくのか。背負っていけるのか?不安になってくる。
何故だ?何故この若者たちが将来のこの国をダメにすると決め付ける?あんたがあの世に行ってからのことなんか、気にしても詮無いことではないか?
彼女たちが電車の中でうるさくしていたら注意すればいい。これは乗車マナーの違反である。でも、何を話しているか意味不明ってのは、大きなお世話だろう。彼女たちの会話を異国の言葉のように聞いたか?大勢の学生たちに占拠された車内は、逆にあなた自身を異邦人のような錯覚にさせてしまったか。言葉は時代で変わるものだと、金田一春彦も言ってたぜ。酒席のエロ話の輪に加わりたくなかったら、自然と外れるでしょう?ケータイ持ってる?僕はKタイメールを去年から始めたけど、今もってデコメールとか、絵文字なんかを使ったメールはできないし、打ちたいとも思わない、それからそんなメールを貰っても、あなたのおっしゃるように「意味不明」で悩んでしまうこともある。でもね、これってスゲージャン!!彼らは学校で習う国語のほかに、彼らだけにしか解らない秘密の言語を持っているなんて、なんて素敵な事だってオモワネェ√。
感字だったり観字の感覚なのかなぁ。中国のナシ族には“トンパ文字”が伝わるし、象形文字の文化に先祖帰りするのだと思ってもいいんじゃねーのか?こんなことでビビッてちゃ、あなたのことの方が心配になる。9条を護ろうとしてるのか?(これこそ、急な展開に意味不明ですが)、これきしのことで憂いてはいけません。ひょっとしたら、彼らの方がずっとこの国の将来を考えているかもしれませんよ。僕はこんなことを想像してしまいました。
「あたいあんたのあそこが好きだから、戦争行かないでね」。こんな気持ちが、この国の曲がろうとしている道を、ちゃんと正してくれるかもしれません。不動明王の慈しみと剣と索羂を持つ心なのかもしれない。憲法9条を護ろう。そんな思いで、眺めるってのもおとなっちゅうもんでしょ。不一

2007年12月6日Thursday 晴れ
白菜の漬物。 誰かが持ってきておすそ分けしてくれたのだろう白菜の漬物が一皿。昼休みの時間3人になってしまったので、最初は「食べきれないね、困ったなぁ」なんていいながら弁当食べ始めたら、この白菜が旨くて、結局3人で一皿食べつくした。旨かった。夕べも女房と、「白菜旨いな」とか言いながら、ぽりぽりとしゃきしゃきと歯ごたえと冷たさの旨さを味わったけど、今日は今日でこれまた旨かった。お腹一杯になって、線路越えの山登りでカロリー消費の昼休み。さくさくと道の落ち葉踏んで、ひたすら坂道を上る。前人未到のではないが、僕の初めての場所まで。舗装が途切れて、この辺りが昼休みの限界の場所。まっ、こんなこと書いても、おそらく誰にもわかりませんが。
汗をかいて、頭と顔を洗って、気持ちよく午後の仕事に。新年度予算も少しずつ先が見えてきて、なんとなく順調。明日は金曜日だ。
あの方は、先週の飲み会を風邪で欠席したそうで、これは前代未聞の出来事だぞと、静かなる噂にもなったりもしたのかな?でも、すぐに復活してしまったそうで、きっと明日の晩は、仕切りなおしの敵討ちってな宴でも開かれるのだろうか?僕は炬燵で、しみじみと熱燗でもやりたい。

2007年12月5日Wednesday 晴れ
Led Zeppelinの「聖なる館」は、1973年の5作目。 夕べの「ニュース23」の特集で蓮池薫さんのインタビューを見た。彼の通った移転する前の中央大学のあった町を歩きながら、CDショップでは、Led Zeppelinの「聖なる館」なんかを懐かしそうに手にとっていた。彼は僕より二つぐらい下のようだ。1978年の7月31日に拉致された。帰国することなど考えないことにしていたと語った。恋人とともに連れて行かれた北朝鮮で、幸いにも二人の子を授かり、子どものためにだけ生きようと思ったのだという。
命の保障はあったかもしれないが、体中を縛られていたことは確かだろう。子どもたちとさえ、わずか6歳くらいまでしか一緒に生活できなかったのだと聞く。かつて地球の楽園だと宣伝して大量の帰国者を受けいれ、一握りの支配層だけが快楽を貪るために、搾取し続けてきたのだ(続けている)。
24年ぶりに帰国して、5年間を生活したこの国を、どのように思っているのか知らないが、必ずしも安住できる場所ではないことを僕は思う。生き難さと生き易さはいつも同居している。どちらかでは到底判断できない。これが不二を思うことに繋がるのか。この国の歩まんとする道のゴールを僕は見たくもない。ゴールなどせずに消滅のときまで曖昧に迷っていればいいと思っている。

2007年12月4日Tuesday 晴れ
値上げ。 宇佐美のガソリンも152円に値上がりした。どこまで上がり続けるのか。先日テレビを見ていたら、花の栽培農家を映していた。灯油が30円台だったのが、3倍近く跳ね上がり大変だという。暖房用燃料だけではなく、石油製品の高騰は、花の種を植えつけるポットや鉢などや、温室のビニールシートなんかにも影響しているのだそうである。それでも「花の値段に価格転化はできない」と、辛そうに話していた。年末に向けてシクラメンやシンビジウムの出荷を控えたりしているのだろうけど、値段がいつもに比べて高ければ、こういう観賞用の花なんかは買い控えしてしまうだろうし、僕なんかは、特別に花を観賞する気持ちは持ち合わせていない。花を買ったり、贈答用として使うのは、経済的なゆとりが無ければ、先ずはじめに切られてしまうような支出項目じゃないだろうか。
我が家でも、かつては灯油でお風呂を沸かしていたが、今は電気を使っている。こんなご時勢じゃ、電気のほうが安価である。夜の散歩をしてきて、湯船に身体を伸ばすとき、去年の冬のように暖冬であればいいなと思う。小さなことの積み重ねが大きく膨らんで、悲しみの連鎖を生んだりする。いま、毎日80人以上が自殺をしてるんだこの国では。
新年の護摩の祈願札承っております。どうぞよろしく。上の申し込みから。

2007年11月30日Friday くもり
言うことを聞いてくれよ。 爪を切ることにも苦労するようになって来た。ちっとも焦点が合わなくて、こんなもんでいいかみたいな、そんな感じで切ったりしている。老眼になってくるなんてことはどんなことなのか全くもってわかっていなかった。あーこれが老眼になるということかと自覚したのは、ここ1.2年のことだし、10月の初めに眼鏡を作り変えて、ここからなにやらとても過ごしにくくなった。今はだいぶ慣れてはきたんだけれど、言うことをきかない“目”って感じ。自分の体のパーツでありながら、僕の言うことをちっとも聞き入れてくれないのです。これは「徴兵制はあってしかるべきだ」なんて、宮崎のハゲ知事の言葉より、案外ずしりときたりしてるんですよ。

2007年11月29日Thursday くもり
雨になるかもしれないので。 落ち葉が雨に濡れて重たくなってしまうのが嫌なので、墓地への坂道と溝を掃除して、落ち葉焚き。曇り空の朝は冷え込みもなく寒くはない。20分ほどで少し汗ばんだ。大ケヤキにはまだ葉が少しあり、落ちてしまうことを逡巡しているように嫌々をして枝を揺すっている。
色んな事件が解決しては、またすぐにどこかで起こっている。今年も去年と変わらずの年だったな。
ドリコム・ブログが不具合です。

2007年11月28日Wednesday くもり
今日もちょっとやばかったんだ。 出勤したらOさんから「教育長が、『M木先生が亡くなったらしい』って、言ってました」と。まさか!一週間また来たかと思っちまった。そういえば、ホンの少し前に、来年の高齢叙勲の年齢者を拾い出していたら、M木先生のことも話題になったんだ。で、急いで旧町の栄転関係の書類をいくつか開いてみたけどさっぱり出てこない。でも、一週間以内に書類上げなきゃいけないので、とりあえず窓口に添付書類の公用申請だけ出して、その後、再び調べてみたら、平成9年の秋の叙勲を受けているので、今回は叙位だけになるので、また調査。結局午後になって県に「こういう事実があって、申請を上げるんだけど、どうも町で上申した形跡が見当たらない」と、恐る恐る申し上げてみた。電話なので相手の表情は分からないが、どうもいぶかしげにこちらの話を聞いているようだったが、「一旦切らせてもらって、調べて返事します」と相成った。30分ほどして回答があり、この先生、実は柔道会では名を成した先生で、「県のスポーツ健康課で、叙勲の上申を上げていた」とのこと。これで来月の3日までに出してくださいという書類作りは僕の手を完全に離れてくれた。夕方、件のスポ健課の職員から電話があり、公用申請の書類と遺族への意思確認をしてくれと頼まれたので、「どちらも大丈夫です」と応えたら、えらくありがたい言葉をいただいてしまった。これがやばいなぁと思った事の顛末。
今朝の新聞で、12月1日にBSデジタル放送が新たに2局開局するという記事を読んだ。BS11とBS12を使っての放送となる。帰ってきて見たら、試験電波発信中なる表示が出ていた。これは予備放送のようなものはなく、12月1日にならないと始めてくれないらしい。まあ、また選択肢が増えるってのは、それなりにに得した気分になるものだ。
EGBERTO GISMONTIのギターとピアノのソロLive。このブラジリアン、凄い才能のある人です。ヤン・ガルバレクと共演しているときのピアノがまた強烈に印象に残っているんだよね。うん、いい!

2007年11月27日Tuesday くもり
籾、黍いただく。 護摩の加持物用に、秋山さんから籾と黍をいただいた。それからもうひとつは、辛味用として唐辛子を挽いてもらった「一味」。今夜はちょうどうどんだったので、この新しい一味の赤がなんとも鮮やかで、辛味も効いてあったまった。葱もうまい時期だ。籾と黍は、ネズミにひかれてしまっては元も子もないので、夕食後本堂に行って、穀物を収める木箱に空壜に入れてしまってきた。こんな風に、自分で用意できないものがあって、それを助けてくれる人が友人でいてくれて感謝。
一味でHot Hotした身体の芯から熱が沸いてきて、今夜は歩き始めてすぐに汗ばんできた。韓国の人たちはよく唐辛子を摂取するので、新陳代謝してスタイルのよい美人が多いっていうよな。
今日は一日机での仕事に集中できたので、気になっていた仕事がひとつ片付いた。明日はまた、午後から適正配置の会議で外に行ったり内に入ったりだな。予算も立てなきゃならないし、寺の新年の護摩札の案内もそろそろ通知しなけりゃな。金曜は宿直で、土曜の宿直開けは、9時から原の秋葉山で、10時半からW屋の一周忌だ。そうして12月ってことだ。

2007年11月26日Monday 晴れ
柚子湯。 課長に貰った柚子を風呂に浮かべた。柚子湯。いい香りであったまった。今夜の月は雲に隠された。寒さはいつもより感じなかったが、暗い夜道で、年の瀬を感じるような夜だった。どちらもうちの檀家なのだが、そしてどちらも大工さん。先週、Kさんのところで、クリスマス飾りが点灯した。夕べ、M君とこのも点灯。今夜はその華やかな飾りを見上げて歩いた。毎年灯りが少しずつ増えていく傾向にあるようだ。西嶋の一角にももうすぐ点灯だそうである。
連休中は、23日が玄聖さんの披露宴に出席。24日が前述のM君のお父さんの七回忌の法事。どちらも昼から酒で、帰って夜も晩酌。23日は誕生日ということもあって、調子に乗りすぎて度を越した。24日の深夜2時半頃にどうにも我慢ならなくなって布団から出てトイレに向かったが、扉の手前で我慢しきれずに吐いてしまった。思い出してみてもおそらく10年ぶりくらいだ、酒で戻したのは。それから15分くらい口からの戻しが5度ほど続き、胃が空になった頃に今度は、下腹部から大波が押し寄せてきて、便座に5分ほど、ほとんど水状態の下痢。体から水分がほぼ出きってしまった状態で、やっと楽になって、再び水を摂取して布団に。翌日はまた法事の後、しっかりと午後3時頃までいただいてしまったのだ。
昨日の日曜は、娘の寮への帰りにあわせて女房も日帰りで上京したので、僕は朝から落ち葉吐き(ではなかった落ち葉掃き)等。落ち葉を焚いて、煙をボーっと眺めて暫し振り返って反省。文化財担当主催の「河内路を歩こう」なる講座の一行が10名ほどお昼前に来寺。担当のS君がほとんど解説してくれたので、僕はほんのちょっと。午後からも護摩木を割ったり。頭を刈って連休を〆。とこんなところ。阿保なオヤジである。

2007年11月23日Friday 晴れ
51歳になった。 50の歳を一年間過ごしてきたけど、特に何も代わることはなく、考え方もボケることなく、転向することなく、僕は誰でもない僕の生き方で過ごせたと思う。で、残りの50代もそのように生きたいと思うだけだ。
寒さには弱くなったかな。夕べは娘が帰省した。アルバイトをしてから帰ってきたので、帰ってきたのは、夜の8時近くになった。夜のフォークを、昨日は帰宅早々にしたのだった。どうもこの女房は、ウォーキング・ジャンキーの傾向。今日は11時からの披露宴というチト早めな宴に出席。瀧本院のご子息玄聖さんの結婚披露宴。誕生日と重なり、僕にとっても思い出となるはず。乾杯の発声を頼まれている。乾杯の酒がシャンパンから日本酒に変更になったので、それなら適任者は大聖寺のお兄さんしかいないですという、喜んでいいのかどうか複雑ないきさつ。
理趣経のお勤めを済ませ、朝食をとってPC。何を聞こうかと迷ったけど、やっぱり、ジェリー・ガルシアになった。

2007年11月22日Thursday 晴れ
給食にまで影響か。 原油高で給食を2日休食するなんて記事も目に入った。予算で賄えなくなるという事態だ。おそらく給食費の滞納なんかも微妙には影響しているのだろう。原油が上がるのはこの国だけの問題ではないけれど、滞納ってのはこれ、頭の痛い問題なんだよね。ちゃんとした給食を児童生徒に供給するためにも、給食費が徴収できなくなってくると、予算を立てた計画の中で、給食調理を賄うことができなくなる。これは大問題。この大問題が大々的に指摘されるとなると、「困るんですよ」程度では済まされなくなる。
この数日の冷え込みは異常。北陸東北では大雪になっている。冬の始まりとはいっても、まだ11月のうちだぜ。僕の誕生日はまだ明日だ。ここにも冬が早く来て、年内に雪の降ることもあるかもしれないなぁ。今日もまた県庁まで足を運ばなければならない。なんというか、小忙しくて、落ち着くことができなくて今週の仕事は終わってしまうんだなぁ。

2007年11月20日Tuesday 晴れ
今日は一日座り詰めで。 早めに出勤して、教育委員会の構成替えのインフォメーションを流して、近隣町や県教委などにも通知を発送。それから死亡叙勲の書類作りと平行して、該当者に軍歴がありそうなので、県の国保援護課にとりあえず電話で照会など。功績調書の作成で午後3時過ぎまで。くたびれたがまあ何とか仕上がり。県の担当課へメールで調書に不備はないか見てもらうために送って、明日の返事待ち。昨日歩けなかったので、今日の昼休みは気分転換に線路向こうの小高い墓地までの道を歩く。気持ちのよい風があった。
今夜は半月からちょっとお腹の出た月夜。これがまた明るくて、足元までしっかりと照らしてくれた。星も夜の飛行機も空の雲もくっきりと見えた。大気が清浄な印である。
瀧本院の玄聖さんの披露宴の乾杯のときの一言を考えなくては。短い奴でぐっと来る奴、なんてそんなに上手くはいかねぇか。あがり性なんだ、見かけによらず。酔っ払っていることが一番楽だ。

2007年11月19日Monday 晴れ
頭が寒いぞー!。 あーこんなに寒くなってきたのだ。土曜日の「ちりとてちん」を三度涙しながら見て、今朝のもまた引きずっていいなぁ。
昨日は護摩木づくりなどなど。
(21:34) 教育委員の歓送会があり、9時過ぎに帰宅。飲まないで飲み会の席を過ごすというのはなかなかにシンドイものがあるけど、飲まずに帰ってきてしまえば、やったなぁという達成感すら感じて、自分を褒めてやる。退任されたT先生は、曹洞宗の僧侶でもあったし、出会いのあったことに感謝している。新任のY先生は、高校時代の恩師でもある。教育委員という任も、学校再編など目の前の課題がありなかなか大変な職だなぁと感じる。旧下部の教育長をした方が亡くなり、特別叙勲の仕事が入ったので、今日は朝から忙しなかった。書類作りで多分明日も忙しい。早く寝よ。

2007年11月16日Friday くもり
金曜日だからねぇ、飲みたいねぇ。.....飲んだよ。 11時に下部教育会という、退職された下部地区の小中学校の先生方の集まりが11人来寺。中富地区を眺めて歩いたらしい。曙の林道からの紅葉とか。今日はどんよりとして、寒風もあって、葉も舞い落ちていて寒い日となった。パンツ一丁で「そんなのかんけーねー!」なんてはとても言ってられない。寒いものは寒い。パンツ一丁でこの時期人前に現れるのは常識を逸脱している。町に一つしかない真言宗の寺なので、そこんとこをよく知ってもらおうと、「風林火山」とも関係付けながら、今日は結構気合を入れてお話をさせてもらった。ちょっと皆さん寒そうな人もいましたが。石段のところで記念写真を撮ってお帰り。彼らはこれで終わって、和紙の里で昼食で解散のよう。結局12時を回ってしまって、資料館の戸締りを済ませて、ご飯食べて午後は通常業務。月曜日の教育委員会の準備やら、新年度予算のことを頭の中に思い描いてみたり(これって今日の半日で始めてみてもしょうもないと思ったんで)。
下部支所の午後はさぶくて、ひょっとしたら風花でも舞ってきそうな感じだったし、僕はもう酒を飲みたくて仕方が無かった。これをアル中というかなんて、それこそ俺にはカンケーネーだ!。5時30分にタイムカードを打刻して、6時前には家に着いて、6時5分にはもう日本酒を飲んでいた。熱燗にするほどの量が残っていなかったので、コップに残りを注いで飲んで、その後は芋焼酎。雨もそこそこに舞ってきて、夜のフォーキング・ジャンキーに陥りつつある女房も今夜の歩きは止めになった。もう、いささか喋りたくない感じ。

2007年11月15日Thursday 晴れ
30年という歳月とは。 今日から狩猟が解禁だそうで、朝一色の集落を過ぎるとき、揃いのオレンジ色のベストを着た人たちが固まっていた。今年はお陰様で今のところ、境内地への猪の掘り起しなどの被害はない。去年なんか、荒らされた場所を歩くと、獣臭がしてきたものな。このままの歳であってほしいと思う。これが本来の姿だし、お互いが距離をもって共存できることが本当は一番いいのだ。去年は、熊が出たことも何度かあったし、昼の散歩も山に行くのはなんだか怖かったが、今日はいつもの墓地への坂道を気分よく上がっていけたし、恐怖心もなかった。
午後、下部支所は、消防署による防災訓練があった。デイサービスのお年寄りや僕たちも避難。互助会で買ってもらったヘルメットを被って。ちょっとお粗末だったのは、旧支所の消火栓からホースを繋いで放水するのが、なかなか水が上がってこなくて、やっと来たかと思ったら筒先から遠慮気味にチョロッと出ただけで弾くというところまでには遠く及ばず、こりゃダメだわと、改めて貯水槽からポンプアップした水で放水したのだった。消火栓からの水に圧力がかからないんじゃ、いざって時にはどうなるんだろう。
横田めぐみさんが拉致されて30年が経った。お父さんの滋さんは、最近なんだか元気がないような感じだ。彼自身がもうおそらく諦め始めていることなんだろうと思うが、横田さん夫婦の思いは、僕には分かりますなんて軽々しく言葉で吐けないような気がするのだ。45歳だった滋さんは75歳になり、めぐみさんが生きていれば43歳になる。僕がそのとき21歳だった。こんな不条理な事件が起こっているなんて夢にも思わなかった。そして、30年間そのことを訴え闘ってきた人たちがいたなんてこともつい最近まで知らなかったのだ。善悪不二、生死一如の仏教をして、これを超えることができるか否かを判断することはできないというのが僕の正直な気持ちではある。

2007年11月14日Wednesday 晴れ
小朝と泰葉の離婚から考える。 今朝か、2人の金屏風を背にした離婚記者会見を見たのは。まあこういうこともあるのかなどと思ったり、弟いっ平の三平襲名が発表されたばかりなのに、ちょっと傷が付くなとか。で、夜を歩いて帰ってきて、風呂に浸かりながら思った。夕べ、護持会の通知を作ったり、今度の土日で、正月の門札なんかも作ろうと話していたのは、切羽詰ったところで、忙しく追いまくられるような生活はしたくないし、寺に住んではいても、できるだけのんびりとしていたいってのが僕の生き方だから、あとで楽なように早めに動き始めようとしているからだ。子供の頃から、寺の年末は嫌だった。大晦日の遅くまで、父も母も祖父も、掃除や年末年始の準備に追われ、僕も妹も遊んでなどいられなかった。寺の年末だけは、他所の家と比較するとどうも分が悪かった。今の時代になって、寺の生活も昔とは随分と様変わりしてきたし、檀家と寺の関係も簡略化されてはきた。寺を空けて年末年始を海外で過ごすなんてことはできないにしても、いい加減なところで手を打って、できるだけ穏やかに大晦日なんかも過ごしたいと思う。
落語家のおかみさんは大変でしたとは、泰葉さんの弁だった。本当の理由があるのかもしれないが、それは別にどうでもいい。確かに芸能界でも、仕来りを重んじる落語界や歌舞伎の世界なんかの女性の役割は厳しそうである。そう考えれば、田舎の寺暮らしなんてものは、比較にはならないくらい自由なものだなと思った。それでも簡単な改革でも、少しずつしていかないと自分で首を絞めてしまうことになりかねない。疎かにできない部分はあるが、きっちりと底辺を押さえておけばゆとりは見つけられる。音楽を聴くことも、ボーっとしている事だって、酒を飲むことも、悩みもたくさんあって、それも全部含めての坊主というものを、僕は僕の坊主の部分だと思っている。

2007年11月13日Tuesday 晴れ
お悔やみ欄に46人。 新聞休刊の昨日だったので、今朝のサンニチはのお悔やみ欄は、1ページの半分以上を占めて、46人もの死亡が伝えられていた。昨日の朝から急に冷え込みが強くなり、人間のいのちの営みにも、微妙に影響をもたらすんだろう。
台所には今朝も暖房を入れた。昨日は僕も車に暖房を入れた。頭には毛糸の帽子を被った。冷えた分だけ今朝は新鮮な青い空と、ケヤキの葉を揺らすいくらかの風。これで木枯らしが一陣吹けば、ケヤキの葉もほとんど落ちてしまうだろう。本格的に落ち葉を掃くときになる。
(21:45) 夜業というほどでもないが、護持会と寺からの年回忌の案内などの通知を封筒詰め。「ズバリ言うわよ!」の細木数子の説教など聴きながら。今夜の空もきれいでした。鎌のような月が見えた。

2007年11月12日Monday 晴れ
自己評価。 職場では昨年から自己評価制度というものが取り入れられている。半年ごとに自分自身に対して自己評価をし、「自己評定調書」なるものを課長に提出するのである。評定要素(例:理解力、責任感、勤勉性など)を5段階評定するのである。“特に優れている自慢できる”なんて5の評価は到底できないし、さほどこのこと自体に関心があるわけでもないので、自ずと「こんなものでいいだろう」くらいにつけて提出した。関心がないというより、どちらかというと嫌悪感のほうが強い。こういう制度の中に身を置くということがたまらなく嫌である。他人が僕を評価するのであればご自由に。それのほうがどんなにか楽なものか。Wikipediaで調べたら、「日本においては謙遜を重んじる慣習から、低めの自己評価をすることが美徳」、「欧米では、高めの自己評価を適切とする傾向」とあった。どうも僕も典型的な流れの中にあるようだ。いわゆるリーダーになるには、およそ不向きな人間である。
夜空をいくつもの飛行機が飛び交っている。今夜の空は澄み渡っている空で星もよく見えた。「旅に出るなら〜、夜の飛行機〜♪」と、下田さんのうたを頭の中で歌いつつ歩いた。

2007年11月10日Saturday くもり
風船のお礼届く。 先月、京都の亀岡市から飛んできた風船を拾って、運動会で風船を飛ばした太田保育園にハガキをだした。「拾ったらお手紙下さい」とのことだったので。昨日その保育園から、お礼状が届いた。園児の手紙と太田保育園の25周年記念誌も添えられて。なんと、170名もの園児が居るのだそうである。身延町では、町立の保育所も合併させなきゃなんて話になっているものな。
年長組の園児が書いてくれた手紙なんですけど、そうか字が書けたり書けなかったり、見て覚えて感覚で書いたような字だったり、「おぼおさんおてがみありがとう」なんてのは読めたけど、判読不能なんてものもありました。一昨日・昨日と、来年度の就学児童の健診の手伝いをしたけど、みんな小さくて可愛いよね。こういう人たちのことを無垢というんだろうなぁ。こういう子供たちに、生きていることは素晴らしいぞっていうような世界を残してあげなくちゃな。
老いぼれの使命はそんなところに残っているんだな。
何日かかったか忘れちゃったけど、ボブ・ディランの「ROLLIMG THUNDER REVUE」の映像を、やっとDLできて、おー若いディラン。そして白塗りのディラン。
それから今、今年中にはいけるかなんて気の遠くなるような、のんびりとしたDLを始めた。GRATEFUL DEADの1981年10月31日のLive映像。4枚組で14.75GB。これはもうのんびりとのんびりとです。

2007年11月9日Friday 晴れ
今夜は飲んで歩くのも休み。 女房は歩いてくると出ていった。残された旦那は、徳利に残った酒を飲み干してぼんやりとテレビを見ていたのだが、風呂に入って出てきて、もう少し飲もうと画策しているところである。

2007年11月8日Thursday 晴れ
清原さん。 「清原40%減提示も球団の誠意に感謝」なんてタイトル読むと、?と記事までザァーッと目を通してみたくなる。野球協約の減額制限の40%ダウンで、推定年俸2億円の彼への提示は1億2千万ということらしい。オリックスは清原の商品価値をまだ見込めると踏んでいるのだろう。そのオリックスに捨てられた男のドラマがあった。今年プロ野球の頂点に立った中日の中村紀洋だ。育成選手として中日に拾われ、落合監督の下で年俸600万、背番号99でシーズンを終え、日本シリーズでMVPをとった男。一寸先の保証もないプロの世界は厳しいかもしれない。常にその渦の中にいて、自分をアピールできるだけの技を持ち続けること。清原の過去の栄光を鑑みれば、今の清原は正視するに忍びない。100打席で1度のホームランが出れば、それで彼はユニホームを着続ける価値があるのか?たった一曲のヒット曲を人生の宝物として、神から与えられた宝物として背負いながら、どさ回りする歌い手もいるだろうが、清原はこれじゃぁ寂しいだろう。夢を与えた人間は、幕引きまでその夢の範疇に置かなければいけない。引き際も大事だと思う。引き際こそが大事なんだろう。2億円が1億2千万に減らされることを、どれだけの国民がそれを好意的に読むことができるだろう。今後、彼がインタビューに答える場面は、落ちぶれていくことの哀れ、過去の栄光にすがり続けることの醜さ、断ち切りがたい人間の欲望の悲しさだけを、我々に伝えることにだけなりそうな気がする。仮にユニフォームを脱ぐときがきても、格闘技界へ転身なんて、決して言ってほしくないよな。

2007年11月7日Wednesday 晴れ
年回忌。 来年の支度を少し。護持会の後期の積立の通知に、新年護摩札の案内と年回忌の案内を入れるため、過去帖などを繰って拾い出す。テレビでは、民主党の小沢さんの失笑劇の続きをやっていた。DOCOMOかしこも勝手にしやがれ!
回忌の案内を出しても、回帰の古いものには反応のない檀家が多い。せめて塔婆の1本も上げてくれるといいと思うのだが。ご先祖様への礼のため、それからお寺のためにも。春と秋の彼岸にも塔婆供養の案内をするが、はがき代を回収してトントンといったところが内実なのである。寺稼業を商売屋と考えるとすれば、僕には商才はない。商売は稀にみる下手くそといったところだろう。そのくせ、気持ちの底では何とか寺で生活をしたいとか、更に欲張って潤いたいなどと思ったりするのだから、何をかいわんやではある。
現実は深刻だと思いながらも、深刻な現実を見たくはない。金が天下を回っているなら、いつかは僕のところにも回ってくるかも知れないとそれを俄かに期待してはいる。六根清浄六根清浄。

2007年11月6日Tuesday くもり
Knockin' on Heaven's Door。 ロジャー・マッギン (Roger McGuinn)の歌う「天国の扉」も静かに淡々と流れていい。Dylanのオリジナルより好きなのは、ジェリー・ガルシア(Jerry Garcia)のもの。70年代後半から80年代初めに、彼のバンドのLiveでは、この「天国の扉」と「ザ・ハーダー・ゼイ・カム」が必ず演奏されていた。
雨の上がったひんやりとする秋の道を歩いていると、ランダム演奏のiPodからRoger McGuinnの「Knockin' on Heaven's Door」が流れてきたのだ。感情を極力抑え、あっさりとフォーク・ロック調に歌う、演奏も声もクレナイの風景に似合っていた。
なんて、生き辛い世の中になっちまったのか。この先まだまだ、生きていくことに辛い世の中になっていくのか。平穏で、平和で、少しの金があって、少しの幸せを欲して、争うことなく、互いが必要以上に干渉しあうことなく生きたいと願うだけのことに、なぜもこんなにためらいを感じなければならない。微々たる幸せを欲することになぜこんなに罪を感じて、鬱々とした生き方を強いられるか。
5日歩けなかった。結婚をする前に石畳の隙間でひねった右足の内くるぶしが、夜歩き始めて少ししたら炎症になった。痛みと違和感を感じていたが、痛いとこをかばいながら歩くと他に痛みがくるので、休んでいた。今日昼間歩いたら、意外と感じがよかったので、今夜は歩いた。無理をせずに決して走ることをせずに。女房は僕が歩かない日も、自分で短いルートをこしらえて2周したりしたようである。野良犬がどこからともなく現れて、付かず離れずガードをしてくれたらしい。その犬には僕も先週夕方遭っていたが、今夜は不思議と犬は現れなかった。

2007年11月5日Monday 晴れ
地蔵堂。 毎日の通勤でとても気になっていた場所があった。映画「阿弥陀堂だより」に出てくるようなお堂らしきものが、小高い杉林の中に見えていた。通るたびに、いつかは降りて行ってやろうと思っていたが、今日の昼休みに行ってきた。Aさんの家で祀ってあるお地蔵様のお堂だった。だから、Aさんの屋敷内から山道を上がっていくことになった。ちょうどお昼を食べていらしたので、お断りしてからお堂に上がった。格子戸を空けると正面奥に、お地蔵様を祀ってあった。中は畳敷きで、納めた厨子以外には何もなく、ちょっと拍子抜けがしたが、建っている場所には趣があった。
県道をはさんだ向かいには、一色地区の愛鷹神社があり、ここもついでに眺めてきた。もう一年以上も、気にしていた場所だったので、これで納得。写真は、上のphoto「下部支所の秋」にアップしてあるので、興味を持った方はどうぞ。
今夜聴くは、韓国のBlues Singer&Guitarist、Mok Kyung Kim(キム・モッキョン)。Bluesはもう国境を取っ払ってしまったな。これでいいんだ。

2007年11月4日Sunday 晴れ
宿直室も衣替え。 宿直にもコタツが立った。Tシャツに作務衣では、少し寒い。なにも事が起きなければ、宿直はのんびりだ。本を読んだり、音楽を聴いたり、何紙もの新聞を隅々まで目を通したり。自民・公明党との連立を持ちかけたのは、会談の中での小沢さんだったということがわかったが、今朝も何紙にも目を通したが、自民、民主とも地方意見は大方はNOである。同じ穴の狢ではあっても、意地を張るプライドがそれを許さないのが義の世界とでもいうのか。民主党幹部会でもこれをきっぱりと否定されてしまったのだから、小沢さんの値も少し下がった。舞台裏の事情がわかると、一気にこれで解散総選挙に持ち込むか“民主党”の図が、これでは少々趣が変わるってもんだ。
今朝の新聞には、教育委員会の生涯学習課長のお父さんの死亡が「おくやみ」欄に載っていた。今夜の通夜で済ませることにしよう。外はいい天気だ。昨日の朝とは違って午前中から暖かくなりそう。
GRATEFUL DEADの演奏は、時に長尺で退屈なんていわれることもあるけど、夕べと今朝も聞いているんだけど、とても実験的なことをやっていたり、僕にはどれも新鮮に聞こえるな。彼らの持ち続けたもの(持ち続けているもの)、GARCIAのやってきて残していった精神のようなものが、僕の胸を打ち、それを僕も自分の生き様の一つにしているからなんだな。
(17:10) 護摩を焚いた。特別なことがなければ今年はあと、12月初めと大晦日に護摩を焚く。炊き終えて頭を刈る。午後護摩壇の掃除とあわせて本堂の掃除も。本堂はやり始めるとなかなかチョチョイとは終わらない。今日もたっぷり2時間半。女房は境内の落ち葉掃き(焚き)。のぼる煙を見るのはこの季節の楽しみの一つ。本堂を終えて、庫裏の裏の池の周りの草を刈る。燃料が少し余分だったので、畑のコスモスを刈ったり、あちこち。2台の草刈り機のエンジンがストップして、これで本当に今年の使い納め。今年も過酷な働きご苦労様でした。来年も相変わらず元気で働いてください。小屋にしまい、フェイス・ガードも石鹸つけてたわしでゴシゴシ。キム・ヒョンシク聴きながら、小休止。6時になったら通夜に出かけよう。

2007年11月2日Friday くもり
木練柿は甘い甘い京都御所柿。 「訓(さと)しの柿」の件で、甲陽軍鑑を紐解いたらば、確かに記述されているページがあったのだ。(ないわけはないのだが)。こんな風に、
「一或夜信玄公宣ふは、澁柿をきりて、木練(柿の一種にして澁なきもの、五所柿の類)をつぐは、小身成者の、ことわざなり、中身よりうへの侍、殊に國持人は、猶以て澁柿にて、其用所達すること多し、但徳多しと申て、つぎてある木練を、きるにはあらず、一切の仕置、かくの分なるべきかと、のたまふなり、」
木練(きねり)を調べたら、渋柿なのに熟柿になる前に十分に甘くなる柿で、五所柿とも「御所柿」とも呼び名があり、京都御所にちなんだものらしい。甘い甘い熟柿は、砂糖などのない時代の貴重な栄養源であったり、漢方薬であったりしたようだ。なんだか勉強になりますね。
夕べの書き込みのなんともお粗末で恥ずかしいこと。でも本音が出てますね。これを消そうとは思いません。たら福の酒に酔ってでなければ、言えません書けません。彼女は相当迷惑そうでしたし、僕の痛いところもブスリと突きました。

2007年11月1日Thursday くもり
何が思い出になるか。 朝決めた。運転免許の更新に行こうかと。今日は父親が亡くなって10年目の日。僕はもうじき51。もうじき41になる僕が送った父は、10年経ってもあの壮絶な顔色のままであるが、僕はそれなりに衰えを自覚する歳になった。5年後の僕があるかどうか分からないが、僕は免許証の写真を見るとき何かを感じるだろう。そんな思いで運転免許証の更新をしてきた。

2007年10月31日Wednesday 晴れ
関心がない。 正直なところ関心がない。機構改革を行うということ。職員を削減する指標を立てるということ。このままでいくと、やがて我が町役場も倒産するということ。申し訳ないがあまり興味がない。昔からモラトリアム人間であったが、どうもその域は50を過ぎても出ないんである。与えられた仕事を懸命にこなすようにしますので、思し召しで構いません。私と家族が寺をも持ちながら、生きていけるだけの思し召しをどうか。
寺の預金を下ろすのに、証明するもの「法人登記簿謄本」を持ってこいと言われた。郵便局も民営化して随分と高飛車になったではないかと憤ってもみたが、とりあえず1000円をはたいて法務局で謄本を取ったのだ。何年かぶりで取ってみたら、A4サイズに印字されて1枚物で出てきたのにはちょっとびっくり。50万円以上の出し入れには云々というので、「毎回それに千円を使わなきゃならんのか」と問うと、「今回これをいただけば、次回以降は下ろす本人の確認で運転免許証の提示をいただければ」という。「あなたがここから居なくなったら、謄本を取らなきゃならんのか」「そうかもしれないですね」みたいなやり取りが続いて、あー僕も親方日の丸の構成員だったなと、これ以上のやり取りは止めにしようとなった。でも、もう役場は親方日の丸ではないんだよな。庁舎の屋上から日の丸下ろしてもいいんじゃないか?
なんだか、小さなことひとつが、大きなゲートをくぐって、まるで天皇の御名御璽でもなければ、扱ってもらえないような世の中になって、生き辛いったらありゃしない。

2007年10月30日Tuesday 晴れ夜雨
ポツポツと雨粒を受けて。 夕食後に例によって歩き始めたら、途中からポツポツときた。歩き始めたら、ゴールの家に戻るまでほとんど会話しないで早足で歩くので、雨粒の落ちはそんなに気にならなかった。少しくらい降り始めても平気な気持ち。汗をかくので、雨もまた気持ちがいい。
ガソリンが11月からどうも上がりそうなので、明日入れたらどうかとか。僕は仕事帰りに今日入れてきた。天井知らずの値上がりの様相を呈してきた。値上がりが始まったとき、一体リッターいくらだったのか、それすら忘れてしまった。110円台だったか、120円台だったか?戦争のために使う燃料には大反対。歩きで済ませられれば歩きで通したいけど、そうもいかない。坂本龍一や有名人のように、簡単にハイブリッド車に乗り換えるゆとりは到底ございません。できるだけ電力や燃料の節約には努めます。
さっささっさと歩いていると、某さん宅の角を曲がるとき、いつも畑の犬小屋前で2匹の犬が吠えるんだけど、今夜は一回も吠えなかった。回数にしたがって、吠える数が減ってきたけど、今夜はとうとう向こうもこっちを無視する、ゴロンふて腐れ石破やぶにらみモードになった。ハハッ、やっと静かになったかと、女房とその角を大手を振って曲がってやった。風呂に入って外を見たら、いい雨になっている。

2007年10月29日Monday 晴れ
うんざりだったな。 だいたいは予想はついていたけど、あそこまで嬉々として亀田家長男を吊るし上げるとは。モラルのない奴ってのは、あの報道する側であり、その先頭に立つ阿保共が俗に言うリポーターという奴らだ。最低だ。いくら飯の種とはいっても限度がある。あれでは皆が亀をかばってあげたくなってしまう。浦島太郎になっちまう。見ている(聞いている)側が限界になってしまうくらいだった。情けない。これじゃ公開処刑じゃねぇか。って、もういい加減亀の話題もうんざり。またまた出たよ賞味期限改ざん。「船場吉兆」という有名店らしいが、こんなことから想像すると、中小の会社なんかでは、日常的にこういうことやってるんじゃないかと思えてくる。無駄を出さずに効率よく回転させていくには、やめられないんじゃないのか。はたまたこの国の食品基準が厳しすぎるのか。時間切れを食える食えないを問わずに、惜しげもなく捨ててしまう国だ。亀田にも、食品会社にも、謝るくらいならはじめからやるなってことだろう。

2007年10月27日Saturday
こんな雨でもやるのだな。 そう考えると、なんとしてでも甲府に勝たせてやりたく思えてくる。応援する者も大変だ。普通ならこんな降りの日じゃ、止めとくかってことになるだろうが、この危機的状況じゃそんな弱気になっていられないもんなぁ。こんな僕なんかが一番いい加減なんだけど、応援してまっせ。熱燗でもやりながら、データ放送をチェックしながらね。
こんな雨が、ホームに微笑を与えてくれるかもしれない。くれるといいけど。
一日暗い日で、もう布団にくるまってじっと時間の過ぎるのを待っているような日。これからニール・ヤング聴きます。夕べは若大将。内藤君と久しぶりに熱燗を一杯いっぱい飲みました。マスターに送ってもらって、古関経由で家に。傘はしっかり持って帰ってきたんだよね、もうひとつの物が、ちょっとわからねぇんだなぁ。

2007年10月26日Friday
玉葱。 カーステレオがいつも鳴っているんだけど、カーブなんかに差し掛かるとガサガサと音がするので気になっていた。ショッピングバッグのなかに、無造作にCDRをたくさん放り込んであるので、それが動いて擦過音が聞こえているのかと思っていたが、今朝職場の駐車場で、助手席側のドアを空けて座席の下を確認してみたら、なんと玉葱とダイドーのコーヒー缶が転がっていた。玉葱の皮は少し剥がれていた。思い出した、思い出した。女房の姉さんの家に行ったときに、玉葱をたくさんいただいてきた。きっとそれが袋からこぼれたんだろう。コーヒー缶はその時一緒に貰ったものだったかもしれない。一件落着。今年の玉葱は豊作だったらしく、夏の頃も近所からもいただいたが、みな玉が大きかった。今年もたくさんの野菜を、檀家やご近所の方々に施していただきました。どうしても採れる物の時期が一緒なんで、食べるこちらがあっぷあっぷしてしまうこともありますが、できるだけ消費するように努めたいと思っています。来年もよろしく。
金曜の今日を、秋の遠足に当てていた学校からは、「延期します」との連絡。別の小学校では、今日スケート教室というところも。全国学力テストの結果が公表され、都道府県教委の一喜一憂している様が浮かぶが、のんびりしなさいとか、締めてかからなければいけないとか、あっちに押し付けこっちに押し付け、机上でサイコロ振っているように、子どもたちをもてあそんでいるように感じる。今回のこれが果たしてなんだ、と僕は思うのだ。50を過ぎて、今回の学力テストの問題にチャレンジしたら、「まあまあだな」と思う結果が出た。これでも十分なんだ。

2007年10月25日Thursday 晴れ
知る者は食わず、食うものは知らず。 山道を下りながら杉並木のカーブに差し掛かったところで、ガサッと音がしたので見ると、走ってヒューッと緑色の鮮やかなキジが飛んだ。坂を上がるときにも親子のキジを見た。こちらはササッと藪の中へ逃げ込んだ。キジは旨いという話を聞いたことがある。ところで比内鶏偽装。こんな話がぶくぶくぶくと湧いてきますなぁ。死のうと山をさまよったあげく、生還して報道陣に謝ることになった社長さん。比内地鶏を初めから商品に使っていなかったとは驚きの域を超えて、口があいた。ミートホープの社長も何故か昨日逮捕。「モラル捨てた『最後の職人』」なんて、逮捕の花道を飾ってあげるような見出しで報道してくれちゃってさ。真面目にこつこつと、嘘をつかずに、自分に正直であれってことなんだろうね。これが小さくてもいい花を咲かせる。人に愛される花は、野の花のようにつましくていい。足るを知る。
亀田家もこれとおんなじ。照度の強すぎた分だけ、足元は闇であった。それから共栄ジムの金平という会長。下瞼にクマつくって「我こそ被害者」然として喋っているが、お前もTBSと同罪だろうが。判決!道(タオ)に外れた人たちは、キョンシーのように腕を前に伸べて飛び続けていなさい。

2007年10月24日Wednesday 晴れ
GRATEFUL DEADを無性に。 デッドの病にかかっているかのように、一ヶ月に一度くらいは無性にデッドを聴きたくなる。今夜もそうだ。韓国のキム・ヒョンシクのアルバムを二度聴いているうちに、ガルシアの顔がちらちらと浮かんできて、今はデッドになった。果てのないデッドのLiveに浸っていると、いつだったかどこかでやった覚えのあるLSDの不思議な感じが蘇えってくる。僕はグラスもやるわけではないし、トリップするものが欲しい性質ではない。煙草もやめたし、吸いたいものはない。デッドを聞けば十分にトリップした心地に浸れるような、適当ないい加減な脳と体の構造だ。決してテクニックのあるギタリストではないと思うが、ガルシアのギターは、心を惹きつけて離さない。ガルシアのギターは、心と脳を解放してくれる。平和や愛を求める心を、自然に流れる涙のように引き出してくれる。包容力に溢れたギターだ。
何でデッドを若い頃は余り聴かなかったんだろう。40代になってから、デッドを好んで聴くようになり、Live音源をネットからDLできるようになってから、僕の部屋や庫裏の寺務する部屋にまで、GRATEFUL DEADは溢れている。積まれている。流れている。零れている。JERRY GARCIAの復活はもう望めないが、僕は僕の生ある限り、デッドの音楽を楽しむことはできるだろう。デッドの音楽は囚われた部屋で聴くものではない。デッドを聴ける環境がある限り、僕たちは望みある世界に生きている証と実感していいだろう。

2007年10月23日Tuesday 晴れ
礼儀ある人は美しい。 昨日の午後は本庁で会議があったので、昼食後に弁当箱を置きに家に寄った。本堂前の石段で昼食をとる何人かがあった。風も穏やかで、暖かい昼には外のお昼も気持ちのよいものであろう。寺には、夏場なんかも木陰を求めて昼食兼お昼寝に立ち寄る、電気工事関係の人たちとか結構いるのだ。寺の境内で昼食をとったり休憩をすることをとがめるつもりはないし、寺を憩いの場所として使ってもらうことは、寺の役割の一つであるとは考えている。ただ、少し困ることがある。駐車場に車を停めてくれる方たちには何も申し上げることはないが、寺の上まで車を乗り付けるグループもいる。昨日はその例だった。境内の隅に停めるのならともかく、昨日は本堂正面の石畳に沿って、2台のワゴン車を停めてあったので、、「申し訳ないが隅に停めなおすか、駐車場に停めてくれ」と申し上げた。それから「本堂の正面は寺にとって神聖な場所であり、その場所に躊躇いもなく車を停めるのは、少々礼に反するのではないか」と諫言させていただいた。
今日このことを書いたのは、いつも拝見させていただくブログに、甲府の県民プラザで行われている「風林火山博」に据えられている武田信玄公像の惨めな姿のことが書かれていたからである。寺と博覧会では趣きが異なるかもしれないが、マナーとか敬意を払うとかいうことにおいては同じことだと思う。
以前も書いたが、参詣者のなかにも、クルマを本堂前まで乗り付ける方もいる。こういう参詣者には「何をか言わんや」である。言葉は悪いが、「なーにが百八霊場巡りだ」「不動信仰だ」と思ってしまう。こういう者らに限って、許しも請わずに内陣まで入り込んでちゃっかり座っていたりする。これは完全に非礼なことである。外陣と内陣を隔てる格子戸があるが、普段は鍵はかけていないので、引けば中に入れるのであるが、やはりここから中に入るときは、住職の許可を得てからか、こちらが「お入りください」と招き入れた場合である。格子戸は結界の印でもある。先代が居たときに法具の五鈷杵を持ち去られたこともあった。
話は反れるが、少し前「ゲゲゲの鬼太郎」の像が調布市の商店街から盗まれる事件があった。水木しげるさんはインタビューで「盗んだ人に天罰が及ばぬとよいがなぁ」というようなことを言っていたように覚えている。五鈷杵を持っていった人に対して、僕と父も同じような気持ちだった。礼を軽んずると、思わぬ時と所でその反動に泣きを見ることになる。信玄公の扇を持ち帰って許されるものか、冷静に判断してみることだ。いけないことだと思ったら、やらないことだ。こんなことは子どもでもわかる。子どものほうがよく分かる。寺の本堂前までクルマを乗り付けることに万分の一でも躊躇いを感じたら、それを止めることだ。控え目で慎ましくを心がけておくことこそ肝心なのではないかと考える。礼儀ある人は美しい。少し大層に書きすぎたか、反省。

2007年10月22日Monday 晴れ
ヴァンフォーレ甲府に奇跡の風を起こせよ、山本勘助。 「格の違いで甲府5失点完敗」「甲府惨敗で自動降格圏内へ」などという見出しが目に付いた。まったく尻に火がついた感があるなぁ。大宮戦は絶対に落とせないぞ。甲府は落ちたら、上がれないかもしれない。財力も乏しい。せっかく「風林火山」ブームの一年だったのに、降格だなんてシャレにならない。軍師:山本勘助を現代に蘇えらせて、策を施してもらおうじゃねぇか。采配を振るってもらおうじゃねぇか。まだ間に合うぞ。
またも出たのが「比内地鶏偽装」。こんなの調べはじめたらとどまるところナシだよ。多分どこだって、程度の差はあってもやってんじゃねぇのかな。昨日ちょっと見たテレビで、上海蟹も、中国人は絶対食べないってのも面白かったな。こちらは偽装じゃなくて、環境汚染。汚染された海からの収穫は、残念ながら恵みではないのだね。上海蟹を食す機会は僕には縁ナシだけど。

2007年10月21日Sunday 晴れ
今日はなんといい秋晴れの空と気候だったことか。 9時過ぎに家を出て塩山の瀧本院へ。山梨の宗務所会議。前回10年前に、ご住職のお父さんの葬儀に父と伺って以来だったが、ナビがあるのでちょちょいのちょいと着くことができた。一面が葡萄の丘の中に瀧本院。ここは彼岸花でも有名。残念ながら彼岸花はすでにオシマイ。
集会は例の如く、山梨に割り当てられた宗費の各寺院への振り分け。何度も同じ事を繰り返してきているのだが、今日は、一度均等割りで宗費を各寺院へ課して欲しいということで話が落ち着いてしまった。なんか余り肯けるような気持ちにもならなかったが、そうおっしゃるなら一度そうして御覧なさいってとこ。うちは宗費が下がる。
お昼ご飯をいただいて急ぎ帰ってきた。八日市場のふれあい運動会があった。すでに運動会は終わるところで、その後の懇親会が1時間ほど広場であった。3組の組長なので女房にお願いしてあったが、僕も飲み会には参加。暑いくらいの日差しがあり、皆「今日はいい日だ」と。焼酎の水割りとビールをいただいて、しばし歓談。のどかのどかで、眠くなる。昨日の網戸で乾かなかった残りをお蔵に仕舞って日曜日はオシマイ。
10月も過ぎていくんだなと思ったけど、来週もう一回日曜があるんだ。護摩木でも割るか。

2007年10月19日Friday くもり
真実の心を育てる。 管内の教頭先生の月一回の定例の集まりがあった。冒頭で、代表の先生が加古川市で起きた小学2年生の女児刺殺事件に触れた。現場の先生方は、このような悲しい事件が発生すると、我が事のように身につまされているのだ。まったく一体どうなってしまっているのか。校舎の内外を隔離しても、通学途上、家庭、遊び場などなど、ここは安全という場所は存在しないのか。手の施しようのない重たい現実。子共たちも外に向かう気持ちが内に籠もりはじめる。外に出ることが危険→家に籠もる→友人と交わら(れ)ない→みな暗くなる。子供同士が暗い付き合いをする。大人を信じない。現実世界を信じることができない。こんな風に思いを巡らせて見ると、一方では、ものすごく時代が進歩して「“超”なんとかじゃん」と思うのに、足元はなんとも頼りなく、両手ですくわれたら、前後左右に如何様にも倒れてしまう。
人が人を信じられないってのは、すべてのことの否定に繋がり、崩壊に繋がる。現実があって、島国があって、地球があっても、何もないことと一緒である。
こんなことを書いても、なにも解決の糸口にもならないのかもしれないけれど、信じるところからの始まりが、いつの間にか「信じられないから、信じることなんてできないからこうするんだ」ってところが起点になってきている。教師の果たす役割は、とても重要。教師として承知している真実を、子供たちの無垢な心に、種をまいて、しっかりと育てていって欲しい。それから、親である僕も、僧侶の端くれである僕も、後ろからそれを支援する気持ちで水撒きを続けなければならない。

2007年10月18日Thursday 晴れ
関心事。 ネット広告で、「年収並みの月収」ってのがあった。それ以上は入らなかったけど、これって凄いことですよね。僕の年収の12倍が年収になってしまうってことだから凄すぎ。金儲けというか、金があればいいなぁとはよく思うもの。いま、こんな時代だと、こんな儲け話に飛びつくカエルも多いんだろうな。
夕べ、とある場所で飲みながら話した。高校1年生の男子を持つ友人。その高1の息子が毎朝家を出るまでが大変なそうである。髪形を決めるのに、起床して家を出るまでの時間をほぼこれに使い切るのだと。母親は、彼が鏡に向かっている2階の洗面所まで朝食を運んで置いておくのだそうだ。整髪料は、幾つも洗面所の棚に並んでいるらしい。鏡を覗き込みながら、時々朝食を口に運ぶ姿が想像できた。決めるのに時間がかかってしまった日には、電車に乗り遅れそうな時間になってしまうと、学校まで送っていくことになるとのことだった。
気になることは、世代世代で違うもの。高1は、格好良く生きるのが最大の関心事。サルやイノシシのことに関心事を奪われるなんて、だっせぇーことこの上ない。35年前の僕だって、こんなオヤジは「ダッセェ!」と思ったはずだ。

2007年10月17日Wednesday 晴れ
関係者みんなで反省だ。 あの試合が勝っていたら、まったくこんなことにはならなかっただろうし、またもうひとつ上に、亀田家は据え置かれたことだろう。負けても、ファイトマネーは億という数字が敗者に入り、勝者には一千万だという。
チャンプが右まぶた上を切ったとき、TBSのアナウンサーは、これで試合が止まったらチャンピオンの負けですとか、大毅の勝ちになりますと、何度も口走った。これに違和感を覚えた視聴者は僕だけではなかったろう。TBSが亀田に焦点を当ててこの試合を商品にしていることがよくわかった。翌朝の朝ズバ!のみのもんたの口のすべりはいつもの滑らかさに明らかに欠けた。彼に責任はないのかもしれないけど。
それで今度は亀田家への処分だ。亀田教の教祖の指導を妄信して、幼心に鍵をかけて、甘えることなく、この宗教を信ずれば明日が開けるとか何とか。この異様な一家にマスコミが飛びついて、知らぬ間に彼らの頭の一葉を蝕んでいったのだ。その結果がこうだ。ストレートに悪者を責めるだけがこの世の愚かな習わしなのか。背景を読み取ろうともしないで。面で叩かれて損をするのは、宗教法人にもなりえない亀田教だったのだ。
(18:55) 仕事から帰ってきて夜のニュースで、亀田親子と金平会長の謝罪会見を少し見たが、大毅は早々に抱えあげられて退席をしてしまう。これも彼ら独特のパフォーマンスなんだろうか?父親も上手く喋ることができない。おそらくこの父も子も、あんまり喋りは得意じゃないんだ。理路整然と話すなんてことはできなくて、行き詰れば「なんだてめぇこの野郎!」ぐらいになっちまうんだ。僕もそんなだったよ。だから、外と交わるのは難しいんだ。慎重にいかなきゃね。テレビに顔は出るってのは、芸能人と同じだから、人気商売なんだね。売れるも早けりゃ、捨てられる、飽きられるのも早いのがきっとこの世界の掟なんだ。心して渡れよ。

2007年10月16日Tuesday 晴れ
韓国にもすぐに通じてしまうんだ。 八幡神社の秋のお祭りの花作りの手伝いに。子供も男の子ばかりで、男の役割になった感じ。できるだけ手伝ってやろうと思う。
韓国に3日ほど出かけている友人がいて、終了後飲み始めてから、Y君が電話した。「呼んでる、呼んでるよ」で切ったら、向こうからかかってきた。韓国とケータイが繋がり、時差のないやり取りがあった。実際「何時か」と問うても時差はなかった。
※かなりお楽しみのようで、ご機嫌な様子が感じ取れたらしい。
こんなことをしたことがなかったので、あらためて「ふーーん」と、なんだかこういう事態に感心してしまった。近いんだなぁ、韓国は。って、どこの外国も今は近く感じる時代なんだろうな。時差のある生き方をしているのは僕なのだ。

2007年10月15日Monday 晴れ
そうか(創価)、宮本輝は学会員だったのか。 うーん、なんとも複雑な気分ではあるが、先ず、彼の小説は僕を大変に引き込み、魅力的ではあったし、満足させる作家ではあるし、これからも彼の小説には触れたいと思っていたのだ。でも、これが学会員である彼のなす業であるとしたら。あまり大声では言えないのだが、日蓮宗自体が僕の感性にそわない。他を排除する、批判する、否定的であるようなところに、僕の好き嫌いはストレートに反応してしまう。いまは日蓮宗の総本山の身延町の町民となっているのだが。まあ、例えば寺に生まれるにしても、「何宗のお寺にしてください」なんて希望を述べさせていただく訳ではないので、たまたまというやつである。日蓮宗の寺に生まれたら、僕はそれを肯定して育ったことだとは思うが。日蓮の教義に詳しくはない。ただ、この宗派から派生した様々な解釈やカルト的な教団の活動は、どうしても“?”と思わざるを得ない。真言宗だって、真如苑のような異端教団も存在するが、どうもね。僕の考えが、あまりコチコチカチカチに凝り固まった考えが嫌いなんで、たかが一坊主の責任のない発言なんですがね。
とあるブログで、「創価学会青年部講演会で、集まった若者を前に、宮本輝は年収を自慢。一億円を突破した」「きみたちも毎日、お題目をあげて、折伏(勧誘)したら、こうなれるでえ」などの書き込みを読むと、宮本輝の見方は、もうお目目パッチリと変化の兆しプンプンになっちまってます。

2007年10月14日Sunday くもり
京都から風船が飛んできた。 地区の山道つくりと河川公園の草刈りがあった。河川公園の土手はまさにセイタカアワダチソウの密生地と化していた。凄いものである。山は山で、これで大丈夫かというくらいに荒れ果て、いのちの営みを感じない。「これが現実だ」と、古老が口惜しそうに吐き捨てた。部屋の前の道に赤い物が落ちているので拾ってみたら、風船の割れた残骸で、紙切れが付けてあった。「今日は楽しい運動会をありがとう!この風船を拾って下さった方お頼りを下さい。10月13日 京都府亀岡市... 太田保育園」と書いてあった。13日って事は昨日じゃん。と女房と話し、京都からはるばる飛んできたのかぁ。琵琶湖を越えて飛んできたんだな。何か返事を書いてやりたい気持ちにはなったが、今日はちょっと書く気持ちにはならないので後日改めて。でも何かほっとした気分になるな。
女房が境内を掃いていて、落ち葉を焚くけむりとその匂い。もうまたすぐに、落葉の季節が始まる。落ち葉焚きは大変だけど、気分転換にはもってこいなのだ。煙が空に昇ってくのをボーっと眺めているだけで落ち着くしなぁ。サツマイモやジャガイモの焼き芋もできるしなぁ。
網戸も洗わなくちゃな。
ご朱印1件。自動車のお祓い1件。

2007年10月13日Saturday 晴れ
草刈りもこれで今年はオシマイです。 同志会の後方支援をすために、お祭りの花を付ける竹のひご作り。始めるとより細く、細くって気持ちになってくる。竹を2本切って、竹を割って、中山ラビとレナード・コーエン聞きながら作業。鉈をうまく使いながら、少し汗もかいたりして2時間半ほど。
その後墓地の竹林周辺の草刈り。お昼前まで、それからお昼休みして2時半頃から残りを刈って今年の寺の草刈りは終了。そうね、本堂の周りなんかで、少し刈りたいところもあるかもしれないけれど、概ね打ち止め。
暑くもなく、ちょうどいい塩梅の秋の日。お昼休みのときにはいい風が吹いた。スパゲッティが美味かったよ。
晩酌をして、盧裕喜のピアノを聞いている。生れてしまって嫌だったなんて事を思わないような、苦しまないような、恥ずかしく思わないような時代を引き寄せたいと思う秋の夜です。

2007年10月12日Friday 晴れ
金木犀香る。 支所の周辺を歩くと最近は、どこからともなく甘い香りが漂ってくる。金木犀だ。
彼岸花が土に消えていき、ススキ・コスモス・センニチコウ、それからセイタカアワダチソウが休耕田などにおびただしくその姿を見せ始めた。今朝墓地へ行ってみたが、もう一回草刈りをすればもういいだろうということになりそう。ツワブキの花ももうすぐ開きそうだ。
今日の昼は暑かった。常葉川にもう鮎釣りの姿はないけれど、通勤しながら富士川にまだ腰までつかる釣り人の姿を見る。彼らは、シーズン何回くらい川に出かけるのだろうか。釣りをする趣味はないが、この鮎釣りの光景はいつの夏も僕を楽しませてくれる。長い竿と、富士川だと胸辺りまで川に入る姿は、まるで自分のことのように涼しくて、ひんやりとした気持ちになる。来年の夏また、常葉川の釣り人を見ることができますかね。

2007年10月11日Thursday 晴れ
「負けたら切腹」。 「負けたら切腹」と啖呵をきったなら、ようし、亀田大毅に腹切らせてやろうじゃないかと、本気で思わなくとも、チャンピオンの内藤の勝利を応援したい気分にはなってくる。大毅君は“浪速乃弁慶”という触れ込みのようだが、あの大きな玉で作った数珠を首にかけている姿は、僕の祖父からの教えでは御法度。数珠を首かけることを祖父は厳しく禁じたというか、恥ずかしいことの範疇であったように思い返す。修験者や僧侶でも首にかけている姿を見るが、僕はこれだけは自身に禁じている。だから、それだけでも大毅君は僕にとっては、認められない人。
それから、あの親子は品がなく、場面場面で礼を欠いている。いくら闘志を燃やし、己を鼓舞し、倒すことを目的としても、もう少し、相手や見ている者に気を使って欲しいと思うのは僕だけではないだろう。
で、試合の結果はどうだったかというと、内藤の圧勝。判定の勝利だったけれども、内容も圧倒的に内藤。最終回には、倒せないことに焦った大樹が、内藤を抱えて持ち上げたりして、結局3ポイントもレフェリーから減点を食らうという恥ずかしいもの。ほうほうの体でリングを降りて引き上げる亀田親子軍団。この後、彼らからどんな愚痴や罵声が聞こえることか。
負け知らずの天狗の親子に、溜飲を下げた視聴者が圧倒的ではなかったか。僕もそのひとりではある。これをいい経験として謙虚になれば、亀田親子のボクシングは愛される方に変化するかもしれない。
ボクシングを見る前に、晩酌だった。息子から大学院試験に受かったとの連絡が夕方入ったとのこと。まあひと安心。ホントにこれがよかったのか、最善なのか、僕はこれを判断することは控えるが、親であるということはなかなかに微妙なものであります。

2007年10月10日Wednesday 晴れ
大聖寺不動明王の江戸出開帳。 これといった話題もないので、出開帳のことを書いておくことにする。大聖寺のお不動 様の江戸出開帳は最初が元禄9年(1696)である。これは、成田不動が深川の永代寺八幡宮 境内を開帳場所にした最初の江戸出開帳(元禄16年/1703)より7年歴史がふるい。
大聖寺不動尊の江戸出開帳
第1回 元禄九年(1696)
  夏、王子の金輪寺。期間不明。6月28日に、五代将軍綱吉の生母・桂昌院が弟の、本庄因幡守宗資(むねすけ)の宮津藩下屋敷で拝礼し、黄金百両と幡二旒を寄進。※宮津藩下屋敷は、後に安田財閥の祖、安田善次郎の所有した「旧安田庭園」の場所。
第2回 宝永8年(1711)
  夏、両国の回向院。期間不明。
第3回 安永7年(1778)
  大塚の護国寺。4月1日から6月21日。2年前に消失した伽藍再建のため。「開帳一件記録」「大名御参詣覚え」有り。
第4回 天保12年(1841)
  天保11年春から計画、出府して宿寺を深川の永代寺に決めたところまで記した住職の日記があるが、実現したかどうかは不明。
これが、出開帳の歴史なのであるが、天保12年の4度目は、計画倒れに終っているようである。最近、「江戸のお寺浮世草子」という書きもので、出開帳について詳しく書いてあるのでとても参考になっている。
大聖寺の4度目の計画で宿寺に予定をした永代寺を、成田不動で宿寺にした記録が残っているようである。宿寺となる寺はお堂を貸してはくれなかったので、本尊を安置して開帳する小屋を作る必要があったようである。「小規模の開帳でも、設営費が150両、土地のレンタル料が20両ですから、資金力のないお寺が江戸で開帳すると言うのは、夢のまた夢でした。江戸で開帳ができるのは、限られたお寺だけだったのです。」とも書いてあった。大聖寺の4度目はこんなことも理由になったのかもしれない。3度目の記録によると、15人位で出かけている。思うように浄財が集まらず、開帳期間を20日くらい延長させてもらったとも。とても消失した本堂の再建できるような資金の調達には到らなかったようである。それでも、出開帳ができたのは、「限られたお寺だけだった」という記述のように、今この寺を預かる者として、往時の住職や信者の皆さんの姿、お不動様の輝きなどが偲ばれ、僕の思いの中に時々浮かび上がってくる。

2007年10月9日Tuesday
昨日の夕には、5時半を暗いなぁと眺めて、つくづく仕事に行くことがイヤになったり。 3連休ってのは魅力だね。日曜の夜は喜田に御呼ばれで、若い友人たちと焼酎三昧。おでんの大根がよく浸みてて旨かった。
昨日は雨だったので、だらだらと蓑虫のように毛布に包まって本を読んだり、テレビを見たり。ミャンマーで凶弾に倒れた永井さんの葬儀の映像であったり。言うこときかなきゃ暴力で制裁してしまう。こんなことが、延々と果てのない時代を歩いているのだ。「風林火山」を見ていても、結局はこんな阿呆なことを、どこかに人物を評価する種を探しながら肯いてしまっているのだ。
ガソリンも宇佐美で140円になっているのだからな。あんたも辛い、こちらも厳しいの図だ。
金正日も相当なしらばっくれだからね。「拉致日本人はこれ以上いない」って、彼らしい発言だと思うし、こんなことをいちいちニュースにするなんて馬鹿げている。無視することのほうがよっぽど制裁になる。

2007年10月7日Sunday 晴れ
300号線で鹿が倒れていると。(宿直のこと) 忘れないうちに書いておこう。BSで「フォークの達人」、今夜は斉藤哲夫を見ていた。12時が回って少したった頃、電話だ。「なんだこんな時間に、クソッ」だった。佳境にきていたのに、ボリュームを絞り受話器を取る。「N部Kサツ署ですが、云々...」。事の次第は次のとおり。
国道300号線釜額入口バス停そばで、鹿が道路の真ん中で倒れている。まだ生きている。死んではいない。パトカーが現場に向かっている。役場で鹿を至急片付けにきてほしい。国道の真ん中で、交通に支障をきたしている。時間も時間だし、「どうしても行かなければいけないのか」と問うと、「そうだ」と応え。切ってから、産業課の有害鳥獣駆除担当の家に電話。あきらかに迷惑な話だといった受け答え。まあ、俺でもそうだろうな。Kサツからの伝言を伝える。Kサツ相当なもの,、どんだけぇ〜!。電話がすぐ入って「連絡は取れたか?」。「伝えた」と返事。少し間があってまた電話。「担当はもう現場に向かったか、それをすぐに確認して電話をよこせ」。担当に電話をする
と、「課長と二人で今出かける。国道じゃ、先ず建設省だろうが」と憤っている。それをそのまままたKサツに伝言。サツじゃ、「死んでないってことなんで、役場に電話したんです」と。こっちもそれ以上はやり取りする知識もないんで、「生きてる、死んでるはどうして?」と聞くと、「匿名の電話で通報があった」とのことであった。
すみません。夜も遅くに、こんな事件の宿直は、なんか後を引くよな。もう午前1時を回った。寝よっ!!
と、これは役場で書いて家にメールしておいたもの。今朝になって、日直さんとの交代は、なんと処理に出向いていただいた課長さんだった。到着したらすでに死んでいたということ。サツも、道端に寄せておくくらいできそうなもんだと、なすり合い大好きな公務員てか。俺もそうなんだけど、なんかこの辺もことって、線引きして在る域のことは、絶対に跨いで動くってことないのね。世界が狭いって言うのか、馬鹿まじめって言うのか。「私のそこくは世界です」とは到底言えんわ。

2007年10月6日Saturday 晴れ
メガネとラーメンである。 午前中、キウイの棚を撤去。摘果も手入れもしないまま10年も生りたい放題であった。僕の管轄ではなく母の。で、重さに耐え切れず棚の支えが折れたんである。今日の休みは朝からやるつもりでいたので、11時までかかって撤去。キウイもここ残りはあったが伐ってしまった。窓の前の畑がそれでも少しせいせいした感じ。
着替えて女房と甲府へ。メガネを受け取り、彼女の望みの上田屋でラーメン。ほー、土曜もこんなに混んでいるんだってくらいに込んでいた。僕はいつもと同じようにラーメンとネギもつのセット。女房はラーメン。旨かった。食べ終わってもうひとつのメガネのレンズを入れ替えてもらうために、リバーサイドのオギノ内のセイビドーへ。レンズのみで34,000円もする。感謝祭とかで、景品のくじコーナーがあって、11回ガラガラを回して、たった一つが当りで、富士屋ホテルのランチ券ペア。女房は喜んで逆立ち。娘と冬休みに行くそうである。
帰って少し働いてこれから宿直。

2007年10月5日Friday 晴れ
事務室のこと。 保健センターの2階の、料理実習室とカーテンレールで仕切られた本来は「栄養指導室」という狭い部屋に課長以下6人が押し込まれている。脇机を置くゆとりも無く、キチキチに詰めて事務机のみ配置してある。冷房はあるが、点けなければ自然と温まる。どうも下から熱が上がってくるように思るのである。10月に入り、エアコンを点けずに換気扇を回して、窓を開けて網戸から入る外気を幾分季節の風として快く感じてはいる。冬には想像するに寒い部屋だと思う。暖房を入れなければ過ごせないだろう。秋晴れのさわやかなFriday。事務を執る部屋から眺める景色がこんなものである。5月にここに来る前の事務所は、外が眺められる窓がなかったので、晴れているのか、曇りなのか、外の陽気すらわからなかったが、ここは眺望のできる窓がある分、「雨が降ってきたね」とか「今日は予報に反して、天気よくなったじゃん」なんて会話も出る。午後2時を過ぎると、隣の部屋に「学童保育」の子どもたちがやってくる。好奇心旺盛な女の子は、何度も「コピーさせてくださーい」なんて出入りしたりもする。愛すべき同居人たちは、皆仕事熱心である。僕にはあまりかかってこないが、僕以外には、日に何十回となく学校から電話がかかってくる。心憎いほどさわやかに受け答えし、フットワーク軽く現場(学校)に飛び出して行ったりもする。5時半までの仕事では、これから段々日暮れが早まるので、なんだか心細く嫌だなぁと、伝票に間違えないように僕ははんこを押している。「あっ?5時半になったよ」と、親分の声だ。始まりも終わりもここにはチャイムがないのである。

2007年10月4日Thursday 晴れ
大相撲のこと。 序の口、時太山(ときたいざん)が亡くなった件だけれど、どうもまどろっこしくて腑に落ちない。情報をさらっと右から左へ眺めてるが、核心に触れないというのか、国技相撲への権力の介入を阻む何かが動いているというのか、普通だったら、親方や先輩力士の行為は、完全に稽古の範囲を勇み足しているわけだから、相撲協会解雇とかよりも、不審死にもっと突っ込んでいって調べなきゃならんと思うんだけど、新聞ぱらっと見る限り、ニュースさらっと聞く限り、「殺しちゃったんだろ?」ってのが率直な感想ですよ。「リンチ殺人だろう!」って、声荒げられても言い返せないんじゃないかとは、田舎坊主の勝手な想像なんだけど。しっかりと真相を究明して、その結果が「プロ力士の稽古中の事故によるもの」という結論で幕が引かれるなら、それはそれで認めればよいのでしょうが、いまひとつしっくりときませんな。
新弟子検査に誰もいないってことも、最近はあるようだし、まわし一本のみを身につけるという姿も、最近の若者には敬遠されているとも聞く。でも、力士の姿をあれ以外に僕は想像できないんだけれど、カラーのサポーターを認めたり、はたまたタトゥーや金髪大銀杏なんてものありだったりすれば、いくらか見直されるってなもんでもないか。

2007年10月3日Wednesday くもり
学校の適正配置。 午後から3回目のその審議会。身延学区を町有バスで巡り、その後文化会館で会議となった。9小学校あるのだが、一番大きな学校が百人をどうにか超えている。来年の予定では、百人を全部が下回る。中でも著しく児童数の少ないT小学校がある。情報では、保護者の意見としては隣りのM小に通わせたほうがいいのではないかという意見が多数のようである。しかし、そのT小の地域全体の意見としては、学校閉校には消極的というより反対の意見があるようだ。これはどこのケースも同じようではある。
町が合併をして3年。まだまだ相当な時間がかかるのではないだろうか。町民一人ひとりが身延町の町の人と自覚するには。10年、20年、30年。旧い人間たちがそれを審議している。腹の中で綱を手繰ったり、緩めてみたり。互いの手の内をマジシャンのように。愛が欲しいのは次の世代の人間であり、そのために我々が道をつけてあげなければいけない。憲法第9条を護るのと同じように。まず、旧町の境界を真っ白な腺にしてしまうこと。境などどこにもないと思うこと。頭の柔らかい、純粋で純潔な者たちがこの町の将来を担う者であることを自覚すること。頭の柔らかい彼らが、交わって交わって、旧い町同士の混血児を生み出し、新しい町を創っていく。世界もそういうことだと僕は思う。

2007年10月2日Tuesday くもり
どんどん上昇。 どんどん防虫。こんなコマーシャルが秋風と共に薄く遠のいていく。「なのにあなたは京都へ行くの」じゃなかった、なのに値上げが止まらない止められない。自民党にも民主党にも、瑞穂ちゃんの社民党ならなおさらだ。よこしまな愛なら地球なんて救えない。24時間走り続けても、欽ちゃんは欽ちゃんを飛び出して大日如来になんてなれやしないんです。
どんどん膨脹。最近の国会には、おしくら饅頭の渦が巻いているだけで、救命丸にもなにもなりやしない。こんな膨脹だけが際限なく繰り返されている。コントロールできそうな奴らはそっぽを向いている。これは僧の世界にも通じていたりする。値上げがどんどん上昇。
袋麺・カップ麺 10〜15円値上げ。カレールー・レトルトカレー 10%値上げ。即席袋めん・カップめん 10〜20円値上げ。ゆうちょ 送金・決済手数料 10〜230円値上げ。
空が落ちてくると友部が歌い、ニッポンは昔処女だった、戦争に負けて日の丸になったとは三上寛。天上人となった高田渡は、さしずめこんな風にあの世から歌を落としてくるだろうか。♪あの世にゃ値上げはない。♪酒にも値上げはない、などと。お粗末。

2007年10月1日Monday くもり
神無月。 10月神無月の始まりです。10月は収穫の月で、神様に感謝する月で、神社のお祭りもあるのに、神様のお留守の月ってのはどうもね。旧暦とのずれなんだろうけど。カレンダーをながめてみるとなんだか変な感じだね。
箱根で震度5強の地震。郵政民営化スタート。NHK「ちりとてちん」始まる。公共料金の値上げ。ガソリンも落ち着かない。給料は上がらず何もいえない秋が深くなる。
週末の雨で、今日の10月1日は衣替えを実感させる朝の寒さだ。運動会はきっと今日もできないかもしれないけれど、残暑残暑と騒々しかったが、きっちりと帳尻合わせてきたな神無月。

2007年9月30日Sunday
めがね屋に行った。
昨日が雨、そして今朝も雨。地区と小学校との合同運動会は中止になった。僕のような子供を小学校から送り出してしまった親は、地区の運動会であってももうほとんど行くことがない。だから雨が降っても別にいいんだけれど、思い返してみれば自分のことだった時代、子供たちのそのとき、その最中にある者たちはこの大切な1日をどんなに大切に思い、練習をし、てるてる坊主を吊るし、晴れてくれることを切望していたことか。
昨日の朝も(土曜だったけれど)、小学生は学校に整列しながら通っていた。今朝のお勤めは、小雨に濡れた石畳を歩いて本堂に渡り、少々寂しい気持ちであった。
女房は娘の友人のT夫妻と一緒に上京。僕は甲府のめがね屋に行った。今のめがねを買った店とは違うネットで見つけたお店。欲しいめがねがありそうな気がした。(が、選択肢は少なかった)。個人経営のめがね屋さんだったし、開店から時間が経っていなかったこともあり、他にお客さんは居なかった。ご主人に丁寧にじっくりとゆっくりと時間をかけて検眼をしてもらった。「老眼になってきてるんです」とも話した。ジョン・レノンのような丸いめがねが欲しかった。似合うかどうかは別として、丸めがねを買いたかった。でも、正直その数は少なかった。でも一つを選んだのだが。老眼はもう決して元に戻ることはないということを、やさしく伝えてくれるご主人(HPでみたら、ここのご主人はクリスチャンなのだ)。肌がだんだんと艶を失っていき、眼が悪くなり、性根も悪くなる。なんだか、自分に言い聞かせるような時間。こんなことを、身をもって味わっていくのが年を取るということ。車を走らせ家に帰る道が雨に濡れていっそう寂しいもんだ。
午後は、友人にあげたいDVDの整理。ケースも買ってきたので、これで何回かは送れる。ヴァンフォーレの試合のことは、親爺さまからのお言葉もあったので、昨日と今朝いつものように必勝を祈願してあった。昨日、下位の大宮が横浜Mに勝っていて、今朝のサンニチの順位表は、無条件落ちの17位。午後3時からの対川崎戦の結果は1:1の引き分け。確認したら、取り合えず16位には順位が戻っていたが、15位の広島とは勝ち点で4点の開きがある。何とも厳しい試練の秋が深くなる。
というくらいで今夜は失礼を。

2007年9月28日Friday 晴れ
運転免許の更新の前に眼鏡屋に行くとするか。
まだもうしばらくはあるが、誕生日で更新になる。めがねがねぇというか、視力がねぇというのだろう。いっつも更新のときにやばいんだ。「ハイ」と差し棒するCマークにいい加減な受け応えをしていると、「仕方ないねぇ、こっち来て」なんて、別室で少し前から覗かせてもらって、「おまけだよ、(^0_0^)の度を変えてよね」なんてね。
余り見えすぎないくらいがちょうどいいんだけど、視力検査には不向きなんだな。ここんところが世の中の生きづらいところだ。
出不精のこと考えている。桜座に行かなければならんと考えるほど、それが億劫である。その演奏を目の当たりにしたいと思うが、掘っていくと、「別にどうでもいいや」っていう井戸に突き当たる。こうなると、物事自体がすべてこういう感じになってくるような気もする。答えにならない答えを自問自答している。
あんまり欲していないってところが本音かな。危機的メールは今夜も何発も届いてますが。

2007年9月26日Wednesday 晴れ
恍惚の人。
恍惚の人になりつつあるのか、なってしまったのか、なった振りを演じているのか。何れにしてもなんとも迷惑なことである。「あっ?そう...」とは、便利な言語パーツではある。「どんだけぇー」のプライドの塊を永久胎児のように抱えている。産み落としたくはないのだ。産み落として、己の信ずる運が逃げるのを恐れているのだ。「電話の使い方など知らなかった、電話など元々ここになかった」と言い、墓場の骨壷の中にまで持っていくラッキーコールには、涙を流して歓喜しているのだ。
「韓国製生ゴミギョーザ事件」というのを発見。中国のダンボール肉まんと対抗したような見出し。まあギョーザの具を想像すれば、生ゴミの千切りも似たようなものかって気はするけどね。口に入って、腹一杯になって、ウンコで出ちまえばそれで了解って気にもなるけどね。みなどこでも、程度の差こそあれ、似たようなことやっているんだ。わからなきゃいいじゃんみたいな。結局これは、正義の問題だからね。(
すんません、2004年に発覚した事件でした。)でもでも、正義の問題はなかなか底が深くて片付きませんなぁ。
支所を出ると半袖の腕にひんやり。K美ちゃんが「冷たいよ」と言ったか?ホントに今日の夕は冷たい夕暮れ。日暮が早くなる。5時半までの仕事はこれから年内中が何だか辛くなりそう。
帰ってきて、迷うことなくこの秋初めての熱燗とする。彼岸明け。風邪を引いていたと電話をくれたSさんが、寿司をつけて届けてくれた。「オレンジの月が上がった」と、炊事する窓辺の女房。僕もそっと台所を抜けて、部屋の窓から東の空眺める。オレンジ色の丸い月が稜線の上にあった。十五夜を一夜すぎて、十六夜の月。十六夜の熱燗。巻寿司もメッチャ
マイウ〜〜〜(^ム^)。
A山さんは、午後休みということだったが、稲刈りだったのか、それとももう脱穀作業だったのか。家にも女房の友達のDさんから、新米が届けられた。大切な命の米を、お裾分けしてくれる気持ちが有りがたい。友達の家が寺であれば、新米を届けることで布施につながることも、Dさんの気持ちの隅にはあるのだろう。つやつやとした秋の最高の収穫を、先師・仏様共々いただく。

2007年9月25日Tuesday 晴れ
檀家さんのことなど。
檀家のSさんから夕べ電話が入った。「いろいろすまなかった、風邪を引いて5日も寝てしまった」とまだ疲れが取れていないような重々しい声だった。実は心配していた。彼岸の法要にも足を向けてくれないのはおかしいなと。彼岸の墓地も、いつもなら前もって掃除に来て墓地をきれいにして、それから墓参に来るという人だったので、墓地が盆のままで、花瓶には枯れた花が入りっぱなしだったので、これは何かあったのかなと勘ぐっていたのだ。でも、本人からの電話で風邪だとわかり、事情もわかったので一安心。
檀家のK君が今週末に結婚をする。彼岸にお母さんと、配偶者となる方と3人で寺に寄ってくれた。地区には独身の仲間が何人か居る。正直彼についても、もうダメかなと思い始めていた。お母さんが一番喜んでいる。
それから坊さん仲間にも、お目出度がある。11月に結婚式とのこと。ご住職であるお父さんから、昨日電話をいただいた。仕事で県外にもう何年か住んでいたが、この機会に山梨に帰ってこれることにもなったそうで、ご住職も二重の喜びである。醍醐の僧侶は数も少ないので、みな兄弟のごとくである。
夜、ハイビジョン放送で「詩人・金時鐘(キム・シジョン)の60年」を見る。たんまりと腹にドスンと溜まるものをいただく。終えて、番組中流れていた「愛しのクレメンタイン」のピアノが原田依幸のものであった。まだ桜座に行くことを迷っているが、これが聴けるのであればというような気持ちにもなってきた。恐らくこれを読んでも誰も分からないことだとは思うが。金時鐘氏のことも、今夜は更に掘り進んで知ることができた。金太郎飴と違う飴玉を貰ったような夜。

2007年9月24日Monday くもり
前代未聞の病院からのお詫び会見だってさ。
これに合わせてテレビをつける。5時過ぎに現れ、20分余りの記者会見。特別な内容もなく、体調の悪かったことを弁明。記者団からもこれといった質問もなく、なんだか「もう忘れられてしまった過去の人」「飽きられて捨てられてしまった人」「信用するに値しない人」のような感じ。国民にお詫びしたいなんて、個人的には謝っていただくお付き合いもないんであるが、なんだか、秋の夕暮れのようにさびしく、彼のイメージするところの美しい国に抱かれて眠りについてしまうような、寂しく侘しい記者会見。
判官贔屓の国民だから、福田が優勢と聞けば「麻生!麻生!」コールだ。どちらをコールしても、それほど大差なく、どちらを引いても金太郎飴なのです。安倍も福田も麻生も自民も民主も、僕の中じゃ皆金太郎飴だ。
BSジャパンの「パッチギ!」見逃しのないようにしなくちゃ。こっちの方がよっぽど大事よ。明日は十五夜。韓国じゃ旧暦の8月15日が「秋夕(チュソク)」という大事な行事になるのだと、お寺にきた檀家さん。先祖を大事にする気持ちは、国境を越えているね。平和を思う気持ちだって同じだね。安心して眠れる夜が欲しいってこともおんなじだね。

2007年9月23日Sunday 晴れ
彼岸中日。
今朝も朝から暑くなりそうな予感。昨日のことを。
お不動様の信者の方から頼まれていた、病気平癒のための護摩を焚く。お札と護り札も作る。夏の衣ももう間もなく衣替えになるが、汗びっしょりで、絞れるほどになった。熱い。暑い。息子の進学のための祈願、カンボジアへ出かけた看護師さんの無事の祈願、それからサンフレッチェ戦に臨むヴァンフォーレの戦勝祈願もする。夜からの試合はホームゲームなのでなんとしても勝たせたい。夕方、門内のY電気さん来て、客殿の明かりのこと頼む。不動明王を拝したいというので案内。今朝護摩を焚いて、「実はヴァンフォーレのことも、祈ってるんですよ」と話すと、娘さんがサッカー好きで、「もう今夜の試合に出かけているはずだ」とも。夜、気になってデータ放送をまめにチェックして、2:1で勝った結果を確認。よかった。
護摩を焚き終えて、襦袢や白衣や衣、袈裟を風通しのよい場所に掛けたのだが、乾くまでに到らずに、檀家と老人クラブの皆さん集まって11時から客殿で彼岸の法要。20人も集まっていただき、いつになく賑やか。檀家だけで、この位の数が欲しいものではあるが、まあ無理も言えん。お茶を飲んでもらって解散。老人クラブはそれぞれ、区内の墓地の参ずる。それから、公会堂でのお昼に招待されてご馳走になる。法話をして美味しい冷たいお酒をいただいて、また汗をかいている。フラッシュを浴びているような午後の外に、庫裏で音楽聴きながら昼寝。
今朝の新聞で、ヴァンフォーレ16位に順位をひとつ上げている。でももうひとつ上に行かなくちゃね。

2007年9月21日Friday 晴れ
彼岸の赤飯。
今日の弁当は赤飯を持ってきた。彼岸に檀家のSさんとこで昨夕届けてくれた。おはぎの代わりですね。今朝も食べたし、お昼にも。でも弁当の中の赤飯は、押し込められて少し硬かったので、箸でちぎるのに苦労した。腹持ちがよすぎて、仕事が終る頃まで腹が苦労だった。
若い頃は、あまり赤飯など好まなかった。今思い返してみると、赤飯には「ごま塩」をふりかけるのが決まりで、僕はこの塩味が余り好きではなかったのだ。で、いつからか赤飯にごま塩をかけないで味わうようになり、僕は赤飯が好物になった。本当はもうひとつだけ注文をつけさせていただければ、「小豆」などの豆の入らない赤飯であればベストなんである。紅いご飯だけの赤飯が食べたいね。
そうそう、夕べテレビで「インスタントラーメンを食べさせるラーメン屋さん」を紹介してたのだが、数十種類のインスタントラーメンをお店に置いてあって、それを提供するのである。で、主人の顔が映ってよく見たら、合併前の上九一色村役場に勤めていたDさんだった。甲府市と富士河口湖町に分村合併する前に早期退職したということだった。インスタントラーメンを食べさせるお店ねぇ。二度行くかなぁってのが、僕と女房の共通した思いだった。
ネットで、こんな店があるのかと検索していたら、こんなコメントも。「福岡市内にありました。200円〜300円位だったと思います。普通にインスタントラーメンに少し味を足して食べさせてくれます。しかしすぐに潰れました。」だって。微妙...(^_^;)

2007年9月20日Thursday 晴れ
彼岸の入り。
今日も暑かった。朝忙しく彼岸の入りで、先師の墓所などを頼まれた塔婆などもって参る。毎朝彼岸花の赤が増えてくる。長い夏休みを家で過ごした娘が今夕学寮に戻るというので、出勤前に互いにさよならをする。少しアルバイトをして過ごすのだと。学校の始まりは10月1日からなのだ。
毎日飽きることがない、さまざまな世の中の動きで。飽きないというよりも、くたびれてしまうようなニュースのほうが圧倒的に多い。土俵に半身上がってしまった女性。取り組みの最中の乱入はいただけない。福岡県鞍手町で、酒気帯び運転で逮捕された小学校の教頭。飲酒運転の常習であった僕ですら、もう今は慎んでいるのに、あとをたたないなんともなお粗末。
だが僕の日常なんてものは、あくびが出るくらい淡々としたものだ。
恥ずかしいので、内容はここに書く気にはならないが、朝から気になることがあって、それを解決してしまおうと午後休んだが、見事に跳ね除けられて、汗かいただけでどん底に戻された。そうか、それでも今日は少しインパクトのあった日だったのか。
なんだか収拾のつかない文章である。僕の徒然は、時間のあるときに少し書いたりする。自宅であったり職場であったり。朝であったり、昼休みであったり、夜であったりする。それを繋いでまとめたりするのだが、今夜はひとり少なくなってちょっと寂しいので、まとまらなくってもいい。

2007年9月19日Wednesday 晴れ
なんか久しぶり。
別に太蔵君に興味を持っているわけじゃないけど、なんか久しぶり。なんだ?そうか?まだやってたのか?ってな感じね。自身のブログで(注:リンクなんかしたくないので)「最後の最後まで、じっくりと両候補者の政策主張に耳を傾け、いくら歳が若いからといっても国民を代表する政治家の一人として、投票のその瞬間まで自らの政治信条に照らし、私は一票を投じたいと思います。」なんて殊勝なこと言っちゃって。
残暑が狂わせているのか?秋田県。「秋田県は18日、天皇、皇后両陛下の訪問に関する知事名の案内状で、誤った表記のまま送付したとして、男性職員を訓告処分とした。「悪天候などの理由により」と表記すべき個所が誤って、「悪天皇…」と記されていた。」とは。
もう一丁、自民党山崎拓。「10月に(北朝鮮は)核実験をやった。あれは、私はあの、やらせてよかった」「核兵器を持っているのか持っていないのか、いろいろと憶測が乱れ飛ぶ限りでございましたが、それがはっきりした。そういう意味で良かった」とは、またネタになる。
『飲酒運転きょうから厳罰化』って、思い起こせば一年前。私は教育委員会にいる間は決して忘れません。今日の日を忘れません。心して晩酌しました。いただきものの「黄桜山廃仕込」。どなたにいただいたのか、覚えていません(申し訳ない)が、凄く旨いです。この酒。

2007年9月18日Tuesday 晴れ
鶏頭の十四五本もありぬべし。
いま鶏頭が盛りだ。この毛糸で編んだようななんともいえぬ装いの紅い花を、僕はイメージとして、暗く暗く抱いてきてしまった。正岡子規が長患いの床の中で詠んだこの歌を学校の授業で聞いてから、「正岡子規・病床・陰鬱・」などで出来上がっちまっている。四角い額縁のような景色を眺めるだけの己が日常で、「鶏頭の十四五本もありぬべし」と、「あー、また鶏頭の季節になったか、14.5本はあるのだろう」とは、なんとも想像するだけで暗鬱な気持ちになる。これがわずか36歳で去った男の、亡くなる2年前の作というから読む側もどん詰まりに陥る。率直な印象は、もう先の短い命を自覚している男の、嘆息を聞くような歌である。
僕の生活する所では、鶏頭の咲いている場所は墓地の一角になる。先のイメージと重なって、「墓地にある花」という印象がある。茎が太くて、がっしりと踏ん張っているので、その花言葉「色あせぬ恋」「おしゃれ」なんかは、あまりしっくりとこない。正岡子規も布団かぶって、「ムッ」とするのではないだろうか。でも、秋の青空にはその深紅は、ピッタリはまる。
今日も甲府では35度を越えた暑さで、同僚は「来年はもっと暑い夏らしいでよ」なんて。一体どうなっちまうんだ。暑さ寒さも彼岸までって、せめて暑さもほどほどの彼岸であって欲しいな。

2007年9月15日Saturday くもり晴れ
結局一日どこにも出られずに。
彼岸を前にして墓地の草刈をしなければいけなかった。朝小雨の中を刈り始めて昼前には暑くなって、お昼休みの後2時半から最後の仕上げと掃除。なんとかきれいになった。別にどこかに出かけたい訳でもないが、なんだか今夜は無性に、この草刈りが「どんだけー」と思えちまってるだ。
彼岸の塔婆も6本書く。明日の午前中には、群馬のKさんご夫妻来山。さっきは、甲府のSさんから護摩祈願の依頼あり。アクアブルー3本で、どんど疲れ酔い状態だ。ホント「どんだけー」って言い得て妙。

2007年9月14日Friday 晴れ
「どんど晴れ」もあと13回だ。
見始めると止められなくなってくるんだな。明日の土曜と、来週再来週で終わり。終局に来て加賀美屋の存続に暗雲立ち込めているのだ。伸一ぼっちゃまのビジネス・パートナーなる秋山さんに、旨く騙されてしまった。でも、秋山さんを演じる石原良純さんは、なんといっても現実には都知事のご子息ですからね。悪者のままじゃ終れません。夏美ちゃんに見つめられたら、悪者も改心します。夏美ちゃんは「座敷童」だからね。
天候が定まらないようだけれど、シルバーのお二人今朝来てくれて3日目。今日でオシマイ。後を頼むこと、礼を言って出勤。うーん、帰ってきたら、草刈りまでしてくれてあって大感激。涙、なみだです。
沢田研二をクルマで。「時の過ぎゆくままに」。記憶が確かなら、この歌が出てくる思い出がある。阿佐ヶ谷のN藤くんの三畳間に行った時。アパートのどこかの部屋から、この唄を歌っているのが聞こえてきた。「♪からだの傷なら治せるけれど、心の痛手は癒せはしない♬」なんて、ギター爪弾きながら哀愁漂う声だったな。ただそれだけのことなんだけど、何故かこの歌聴くと思い出す。先日テレビで見た元一風堂の土屋昌巳氏も、ジュリーがアイドルだったんだって。「楽屋訪ねたら、本物のおしん(田中裕子)が、お茶入れてくれたんだよー」なんて。僕もジュリー好きだなぁ。ヒット曲はだいたい歌えてしまうな。レコードも何枚も持っているしな。クルマの中は、気兼ねなく声張り上げられるから、しばらくはジュリーかなぁ。天下御免のカラオケ・ルームだもんなぁ。
すんげぇ!!!!「Joe Zawinul Syndicate The 75th Birthday Show Estival Jazz Piazza Della Riforma Lugano, Switzerland July 7, 2007」をDLして、今夜はこれからお楽しみだ。

2007年9月13日Thursday 晴れ
「どんど晴れ」を最後まで見られなかったじゃねぇか。
あなたのお粗末なていたらくのおかげで、朝のお楽しみの「どんど晴れ」が15分遅れだったので、途中で止めなけりゃいけなかったんだよ、ったくもう。
「新たな総理の下で、テロとの戦いを継続していく」なんて、およそこの国の何人がそんなことを火急の課題として考えているのでしょう?頭ひねってしまうわ。安倍ちゃん、ホントこれっておかしいよ。
昨日のウォーキングで撮った空は、まさに秋を思わせる空でした。朝の大降りの雨が上がり、深い青の空が天上に広がり、雲の描く機微をおもんぱかって眺めていました。人生には、上り坂・下り坂と“まさか”があるということをどこかで拾いましたが、午後の仕事が始まった直後に、「安倍さん辞めるんですねぇ」とは同僚のKちゃんの情報で、これが刹那に湧いた“まさか”なのでした。僕は、僕のスズメバチに刺された9.11を思い出しながら、「明日スズメバチの巣を取ろう」と9月11日夜考えたのでした。あなたの巡らす国家や地球的規模の思いとは、比較にならないちっちゃな僕の決意ですけどね。でも、あなたもニューヨークの9.11に思いを馳せながら、傍らにアッキーとHäagen-Dazsがあって、飲めないあなたは、アイスクリームすくいながら、「アッキー、もう僕疲れちゃったよ」なんて、甘えた愚痴こぼしたんでしょうね。民主党の小沢さんも呆れてました。自民党のピンクスーツの井脇ノブ子さんは、腰が抜けてへたりこんじまいました。あなたを擁護する弁も聞こえてきて、「なんだ、朝青龍と一緒かよ!」って正直思っちゃいましたよ。まっ、このくらいで止めましょう。実はそんなに関心はありません。
ジョー・ザビヌルが亡くなった新聞の小さな記事のほうが、どちらかというと僕の関心を引きました。だいぶ後になってから、僕はマイルス(Electricなやつね)や、ウェザー・リポートや、最近のザウィヌル・シンジケートなんかも聞いていた。時代は30年以上も遡るけれど、けっして褪せない音がある。「ジョー・ザビヌルは1932年7月7日に地上に生まれ、2007年9月11日に永遠のものに生まれ変わった」とは、息子エリク・ザビヌルの弁。

2007年9月12日Wednesday 晴れ
安倍晋三が辞すとした夜に、こんなことは取るに足らないことであるかもしれないが。
昨日は、アメリカ同時多発テロ事件から6年が経ったが、もうひとつ気付いてしまったのだ。実は2004.9.11に、僕はスズメバチに刺された。そして一晩だけだが、飯富病院に入院した。僕の忘れられない「9.11」があった。土曜日の夕方に事件が起きて日曜に午前中に退院した。町が合併する前日であった。喜田の姉さんは、僕が入院しているとも知らず、早朝にケータイに電話をしてきた。(明日の朝からの合併した町のための準備をしなければならないということで)。
昨日は、テロによる犠牲者の鎮魂のために、宿直から帰って本堂のお勤めを少し長くして太鼓をしばらく打った。忘れないように6年間打ち続けてきた。
仕事を終えて夕方家に戻ったら女房が、「蜂が巣を作っているようだ」と、土蔵の軒先を指した。外に出て薄暗い土蔵の壁を見上げると、土蔵から出ているトタンの軒下に、もう既に20センチ×20センチほどのスズメバチの巣ができあがっていた。まだまだこれから大きくなる。これは早いとこ取ってしまわなければ、危なくてかなわないと感じた。それで今朝出勤して、通称「ハチガード」を借りた。町が合併する前の何年か保健衛生の仕事をしていたときに、スズメバチの巣の駆除に何度も出向いたことがあった。だが、これを借りて駆除することに、僕自身は慣れてはいたが、僕の“9.11”は尻込みをさせたし、女房も消極的であった。実は、9.11に刺されたときに、アナフィラキシーショックにより、医師より「次回刺されたときには」、『命を賭す覚悟であれ』と言い渡されていたのだ。意識が遠のいていき、血圧が極度に下がり、呼吸が苦しくなった状況を今でもすぐに思い出せる。女房が必死で僕を呼んだことなども。笑い話のようになるが、その状況は僕ら夫婦と、医師と看護師しか知らない。全身が斑模様の蛇男のようになった。自分の体の恐ろしい変化に、笑えない恐ろしさを思い知らされたものだ。苦しい一夜が去ったら、これまた恐ろしいくらいヘーチャラで、夕方には草刈りもしてビールも飲んだのだった。女房は呆れて、心の内にある既婚届けを出す気にもなれなかったと。
今夜は無事に駆除。何年かぶりで着たので、思惑通りにはいかなかった。先ず、汗でメガネがずり下がってしまって、ヘルメットの内側の出来事を修正することができなかったので、自分のしていることをはっきりと確認することができなかった。巣を丸ごと取ってということもできなくて、軒下から削ぎ落としてしまったので、余計蜂が暴れた。動揺はなく、これを着ていることの安全性は十分に分かっていたので、スプレーを吹いて追い払いながら、ゴミ袋に巣を収納してオシマイ。
デジカメにおさめようと思って意気込んだけれども、なかなかうまくはいかないもの。終わってから娘にその姿を撮ってもらった。蜂の子を食す気分にはなれずこれでリポートは本当にオシマイ。

2007年9月11日Tuesday 晴れ
採用試験の結果、どんなんでしょう。
「今日、役場職員採用試験の第1次の発表の日なんですが、何時頃わかりますか?」と、ちょうど7時を回った頃に電話がかかってきた。ロビーで新聞を読んでいたのだが、この情報は宿直にはあらかじめ知らされていなくて、「8時半にもう一度総務課へ問合せ願いたい」と返事できないこと謝って伝えた。
役場も、去年と今年で3名しか採用していない。来年度についてもおそらく“若干名”とは、この位なものだろう。幾分景気も上向きになり、就職も状況が改善されてきているというような声も聞くが、底辺公務員の世界は今がどん底冷えである。町村合併による職員の削減が急務であり、採用は手控える傾向にある。今朝の電話の彼も、役場に採用になれば、こんな親孝行なことはないと考えているのかもしれない。矢も盾もたまらずに、朝7時の電話になったのであろう。
かく言う僕も御多分に洩れず、大学4年生の子を持つ親なのではある。だが、息子は就職を見送りたいという。分不相応にも思えるが、もう少し学生を続けたいというのだ。就職難の時代に、4年で学業を終えて就職する者と、2年位遅れて就職する者とでは、必ずしもそれが有利になるとは思わないし、どちらかといえば不利に働くことのほうが多くを占めるのではないか。息子も「それはわかっている」と言う。
今朝の彼にしてみても、我が息子にしてみても、それなりに真剣に考えていることはよく分かる。恥ずかしいが、僕がこの逃げられない事柄を、あまり真剣には考えなかった。その成れの果てがこの様(ざま)である。
もう既に今朝の彼には結果は伝わっているのだろうが、よい結果であったらよかったのにと思う。

2007年9月10日Monday
草を刈りながら漠として考えていた。
50になって、もうすぐその一年も過ぎようとしている。50代になっても特別に心境の変化はなかったし、生きている僕自身の生活も何も変わってはいない。40代、30代の頃とそう変わりはない。目の衰えが進むこと、メタボリックな腹になっていることなど、外見上や肉体的な年輪からくる衰えは否めようがない。ただ、思考や様々な思いには衰えも変化もないように感じている。
年齢や時間の区切りで生活を刻んでいないことではないかと思った。寺に居る生活には年齢は関係なく、主任や係長や課長のランクがないので、その時々に求められるような心や気持ちの変化は必要ない。寺に居て、僧侶として在る時間が淡々と流れているだけだ。大きな変化はなく、永遠運動でもしているように、経をあげ仏と対峙している。これに到達点はない。だから40代であろうが、50代になろうが、ことさらにそれを強く思い込む必要もなく、在るがままの自分でいられるのではないかと考えた。
雨になった月曜の朝。シルバー人材センターで、松と梅の剪定に来てくれることになっているが、恐らく今日は休みだろう。僕は思いのほかに草が伸びているこの夏に、昨日も早朝から爆音の中に居て、これは30代というわけにはいかなくて、かなり疲れが残ってまいっている。雨の冷たい朝が沁みるように気持ちよく感じる。

2007年9月7日Friday くもり
ここは何もなく通り過ぎる。
台風は何の爪あとも残さずにここを通り過ぎた。夏が来る前に一度台風が来たことがあったが、そのときも今回と同じだった。風も吹かず、大量の雨が降るでもなく、今ここに居て台風が来ているということを体験している状況と、テレビで刻々と切々と伝えられる状況とのギャップがそれほどに激しいのだ。まるでここだけが台風のときは洞穴に隠れてでもしまっているような感じ。
少しの雨が残ってはいるが、墓地も本堂や庫裏の周りもまったく問題なし。せっかく開いたリコリスが何輪かうな垂れてしまったことくらいがザンネン。池や沢から押し出されたザリガニや沢蟹が彷徨っているくらい。早く戻らねば、やがてやってくる暑い日差しが容赦なく身体を焼いてしまうぞ。物干し棹に残っている雨粒の輝き。盛りを過ぎた大ケヤキのミドリ葉のカサカサというそよぎ。天国への扉をノックする。♪KNOCK,KNOCK,KNOCKIN'ON HEAVEN'S DOOR♪。
蝉もまた鳴きはじめている朝。台風がひとつ過ぎて、秋がまた少し水かさを増したような気がする朝。

2007年9月5日Wednesday くもり
夜になって雨。
松本からの団体参拝があったので午後は休みを取ったのだが、そこまでしなくてもよかったような。でも、少しのんびりとしたかったというのがホンネ。夕方から雨。午後10時前。雨は足音を立てたり、静かになったり、落ち着かない。虫の鳴き声も聞こえている。JERRY GARCIA BANDを聴いている。
ソフトボールがあったのだが、雨で流れた。それで、夕飯時を「阿弥陀堂だより」見る。ちょうどよかった。何度見てもいい。テレビ画面が大きくなったので、今夜は以前より風景がきれいだった。阿弥陀堂のようなお堂ではないようだけれど、小屋を一色の集落の中に見つけている。少し道から離れているのだが、いつかちょっと行ってみたい気がしている。というか、必ず行くと決めているのだが、なかなかね。
もう1本今夜はこれから「かもめ食堂」を見る。お盆の頃の朝見たんだけど、終盤からだったので、今夜は眠気追い払って見なければ。小林聡美、片桐はいり、もたいまさこの三人が絶妙でした。
正月の3日に亡くなったWさんから電話があった。12月1日に一周忌をしたいと。もうそんなことを予定する時期になったのか。一年を暮らすということは、様々な習慣やしきたりを行いながら過ごすと、先を先を見て過ごすので、余計早足で過ぎていくように思える。今夜の雨は冷たさが心地よい。

2007年9月4日Tuesday 晴れ
玉置浩二new album「惑星」インタビューから。
昨日のサンニチに、玉置浩二のインタビュー記事が載っていた。新しいalbumのコンセプトなど語られていて、最後に以下のようなコメントがあった。
「戦争に反対の立場にあることを、歌に入れたかった」、「多くの人は『戦争はよくない』と思っていても、別に反対運動もせず、世論に流されてしまう。一人一人の個人が動かないと、世の中は変わらないと思う」と。
彼の歌を聴くことはほとんどないが、こういうコメントを出していることを評価したいと思う。彼のようなメジャーな音楽家が、新聞紙上や公のインタビューで発言することに大きな意味がある。また、彼の発言や生き方・思想に触発されるファンは国内で相当数に上がるだろう。これからの世の中の動きをじっくりと眺めていく大事な時に、玉置浩二の発言はとても重要である。
アーティストが積極的に、例えば反戦の発言をしていくことは、逆の言葉であったとしても、良くも悪くも牽引となる。玉置浩二のこの言葉への責任の永遠なることを願うと共に、彼のファンがこれに賛同することをも願いたいものである。

2007年9月3日Monday 晴れ
おそまつ君。
一週間で農水大臣の椅子からこけた遠藤武彦君。安倍君の問診に嘘をついたのがばれてしまったな。なんつっても初入閣だもんな、やっぱり自分が可愛いし、家族にも晴れ姿見せたいしな。何のために国会議員になったって、いつかは大臣になるためだもんな。少しは後ろめたい所があったって、問診には「白です」と答えるよな。安倍君の子飼いの番頭連の情報収集が甘かったな。
民主党だって、横峯パパなんかをどうして候補者に選定したのか、アホな国民ばかりじゃないから、反ってこれが識者の反発を買うってこともあるからな。今は正攻法が訴える時期ではないかなと思います。
夜の風が冷たくなってきて、夕べはさすがに網戸だけでは寒くて、窓を閉めて寝ました。
「シカよけ特効薬はライオンの糞」なんて記事を、職場では真剣に話したりしたんである。『日本の野生のシカが、見たこともないライオンの糞を避ける理由について、松原准教授は「恐らく、シカとライオンの先祖が出合っていて、シカは身を守るために避けようとするDNAが組み込まれているのではないか」と指摘する。』って、ほんとかなぁ?なんて思ったり、ライオンの糞で鹿除けになりゃ、こんなにいいことはないよな。でもその前に、できれば、サルとイノシシの特効薬が欲しいけどな。なんの糞がいいのでしょう。

2007年9月2日Sunday 晴れ
護符。
看護師の孫が医療支援のために、来週から一年間カンボジアへ行くので、お不動様に祈願をして、私にはどうしていいかわからないので、持っていられるお札を作ってほしいとの依頼を受けた。彼女の事を聞いて護符を作った。
地区の防災訓練が7時からあって、終わってから本堂で護摩を焚いて祈願をした。護符にもお不動様のお力をいただいた。今週いっぱい祈願をして、来週の土曜日におばあさんに渡そうと思う。一年もの長きを、カンボジアという見ず知らずの地に赴く孫娘を案じるおばあちゃんの気持ちは十分に伝わった。支援のグループに参加する気持ちの尊さもわかるし、不安に思う家族の気持ちもわかる。檀家ではないが、お不動様にすがるという気持ちを持つのは、この地区に住む者たちには、極々当たり前のことであったのだ。真言宗でも日蓮宗でもない、宗派を超えた不動信仰がある。そして、お不動様のあるこの地に在ることを誇らしく思ってくれている。ありがたいことである。こういう橋渡し役ができることを僕も誇らしく思う。

2007年8月31日Friday くもり
平穏な未来を残してあげたいと思うのだ。 夕べは娘の同級生が俄か喫茶「大聖寺」に集った。6人の女の子たちが、久しぶりに顔を合わせてにぎやかに楽しそうな声が聞こえた。高校を卒業し、専門学校や大学へ進学した者。また就職して既に社会人として働き始めている者も。小規模校で、同級生の数も極々少なかったので、互いを思いやる気持ちは深いのかもしれない。これから先は、少しずつそれぞれの進む方向が違ってくるかもしれないが、会えるうちはこうして機会のある毎に集まるといいと思う。
世界中を眺めれば、その国のおかれた状況は万別ではあるが、僕としては、子どもたちの未来に平穏な世の中を残してあげたいと思う。ヒロシマ、ナガサキに原爆が投下されて迎えた終戦から62年が過ぎ、人間の“いけない虫”がまたぞろ騒ぎ出してきたかのような。
十善戒の初めに「不殺生戒」が置かれている。釈尊の言葉を集めたダンマ・パタという原始仏教経典の中に、「一切の者は刀杖(武器)を恐れ、一切の者は死を恐る。己が身に思いくらべて、殺すなかれ、殺さしむなかれ」とある。仏教はここに始まりがある。
今この国が世界に示すことは、自衛隊を戦闘地に送り込むような支援ではなく、仏教徒として多くの先祖から伝えられた精神と、戦争放棄や戦力を持たないことをうたった憲法第9条を、改めて世界に示すべきである。この真実は、道を作ったり、水道を引いたりすることのように、形としてすぐに現れはしないが、一適の水が大河を成しうるように、やがてじわじわと世界の人々の心に染みてくること間違いなしと思うのだ。
今朝は少し雨があった。10時のお茶の時間に「今日は熱いのにしました」と、Kちゃんが淹れてくれたのはホット・コーヒー。雨が上がり、靄が山の稜線を流れていく景色と、この熱い飲み物が喉を落ちていくとき、確かな秋のはじまりを感じていた。これが平穏であるということだ。

2007年8月30日Thursday くもり
中部横断道の効果か。 松本の古寺巡礼グループが甲斐百八霊場巡りの10回目を、97番から103番まで回るということで、うちにも挨拶状が届いた。ご朱印の用紙も25枚同封されていた。今朝出勤前に書き始めたら途中で止められなくなって、出勤が慌ただしかった。それでも、涼しい風が入る部屋で、静かに書くということに没頭できる時間はありがたい。
同封されていた旅程表を見ると、最初の寺の慈観寺が8:55になっている。増穂まで高速道が延びたので、十分にこの効果が現れているようだ。長野から身延は近くなった気がする。「風林火山」ブームも温熱効果となっているのか。平日ではあるが、その時間寺に居られるようにしたいとは思うが。
参議院選挙が終って、新たな組閣なって、勝っても負けてもほっと一息なのか、連日国会議員のスキャンダル報道がにぎやかだ。せこくて嫌味な人種のるつぼのような国会は滑稽。御簾の内外は住む世界に大きな隔たりがある。
山口小夜子さんも亡くなりましたね。特段の関心があったわけではないけれど、ひとつだけ。1977年発売のスティーリー・ダンの「彩(エイジャ)aja」というアルバムのジャケットに彼女の幻想的な写真が使われて、かなり話題に上ったアルバムだった。当然レコードは持っている。音楽もとてもおしゃれでよかった。ジャケットに惹かれて買った人も多かったはず。もう一度聞いてみたいアルバムではあるな

2007年8月28日Tuesday 晴れ
鉄の塊を投げる。 まったくなぁ、それがなんだってんだ?って思わないでもないが、「世界陸上2007大阪」を見てるわけですよ。特に投擲競技ね。砲丸投げ。男子は7.260kgの鉄の球を投げる。ハンマー投げは同じ重さの玉にワイヤーがついているものを振り回して遠くへ飛ばす。まあ、単純な競技といえばそれまで。重量挙げだとか、この投擲なんかが、とても原点のようでいいな。夕べのハンマー投げ。室伏が出ていた。大男たちが最後に8人残って、力比べだ。80メートルを越えて、10センチや15センチに、一喜一憂する。お腹の出ている人のよさそうな選手が多い。鉄の塊を放り投げるのだから、どこでも練習ができるというわけにもいかないだろう。ランナーのように、どこでも走るって訳にもいかず、これは長距離ランナーの孤独なんてものじゃないかもな。どすんと大地をくぼませて、たたかい済んだそのあとに、「玉2個分俺が勝ったな、ラーメンおごれよ」、「明日は、俺がハーゲンダッツのコーン・ダブルいただくぜ」って、そんな会話が聞こえてきそうな映像だったな。そういえば、表彰式のシーンはまだ一度も見ていない。見ていないから、この大会が比較的新鮮に見えているのかも。でこぼこの台に上がって、メダルをかけてもらう場面には、あんまり興味が湧かない。大相撲だって、表彰式には興味が無い。朝青龍の睨みに、こちらも睨み返しているなんて事が楽しいんだ。モンゴルの草原で頭空っぽにして、そんでまた帰っておいで。金を稼ぐことはできてもねぇ、失うものも多いのよ、気がつかないうちに減ってしまってるもんだ。恐ろしい国だぜ。油断のならない国だぜ。目を良く開いて生きていくのが賢明だ。

2007年8月27日Monday 晴れ
八月最終週。 地区の小中学校は今日から2学期。中学生がバスに乗るために走っていく姿、小学生の列が通る。
昨日も酷暑日であったが、法事には大阪、山梨、栃木からと、遠路着ていただいた方も。土曜に下部温泉や甲府のホテルに泊まった方も居られたようであった。大阪に住んでいても、ここを先祖と、また自分たちの行く末の地として覚悟して、敬っていただいていることに感謝。坊主の僕などがここに入り込む余地のないことが分かった。たかだか、祖父と父と僕で百年足らず。檀家の皆さんには、それ以上に先祖から連綿と続いてきた家の歴史があったのだ。僕は今までこれを思うことがなかった。恥ずかしいと思う一方、彼らのためにも、寺を訪れることを楽しみにしていただけるような雰囲気づくりに努めなければならない。

2007年8月25日Saturday 晴れ
掃除掃除で一日。 明日法事がある。庫裏と客殿裏の掃除。今日も酷く暑かったが、日中だけ休んで午前と午後。雑木の枝おろしや植栽の刈り込み、草刈りなど。手がつけられないのか?否、手をつけたくないのだろう。そんな気持ちが見えないところは後回しになっていた。大阪高槻のSさんの法事はいい機会になった。これでよし。アクエリアス500ml3本飲み干す。飲んだあと水で薄めて冷やしたりもしたから、2リットルくらいは腹に収まったか。とにかく飲まなきゃ続けられない。
N君から近況報告と、ドラマー富樫さんを悼むmailが届いた。雑木を炊きながら、昇る煙で僕なりの送りをした。作業の間中、J.J.Spiritsをかけていた。不慮の事故による障害を克服しながらも、最後にはスティックを置かざるを得ないことになるとは、富樫氏自身も予想だにしていなかったのではないだろうか。富樫さんも8月の死者になってしまった。

2007年8月23日Thursday くもり
もう何度あなたに頭を割られたことか。 やっと今日は、30度を下回ったそうである。夜も涼しい。処暑。外には秋の虫が鳴き始めた。静かで、音楽も流れていない。
「さて、どちらへ行かう 風が吹く」(山頭火)なんて、悠長に迷っていられないような、脳天にくさびを打ち込まれる感じのその筋よりのお達しあり。ついては、本人に覚られないように事を運ぶべし。火曜日までにもってこい。出せませんなんて決して発せないのである。誤字脱字切痔疣痔の無いように、もういちど読み直して、パンツに出血していないか確認しなさいと。あたしゃ、人心を読めるような人間ではありません。もう何度も、突然背後から大鉈振るわれているので、幾分慣れっこになった気がしないでもないのですが、今日のこれは、忘れた頃にやってきたジェイソンの奇襲のようでした。がんばります。でも、いつか、なぜこのようなことになっているのか、この旧いシステムのこと、つまびらかにしておくんなまし。
なんて呑気なことを書いていたのだが、年に1・2度CDを買うことのあるBarBer Fujiからのメールに、詳細は分かりませんが、富樫雅彦さんが亡くなったそうですとあった。去年買った氏のトリオの「ライブ・アット・ケルン」は、2002年3月に富士市のケルンというお店でのLiveなのだが、この日共演したのが、山下洋輔(p)と水谷浩章(b)であった。山下さんのライナーに「この二枚組みCDは富樫雅彦がプレイヤーとして残した最後のライブの音だ。」とある。この直後から、富樫さんは車椅子でのプレイをすることができなくなり、主に作曲などをしていたらしいのだ。僕の手元には、このアルバムのほかに、J.J.SPIRITSが4枚ある。多くをじっくりと聞いてきたわけではないが、この国のジャズをリードしてきたのは確かである。きっと明日には、どこかで富樫さんの訃報の詳細を見ることができるだろう。ケルンでの最後の演奏を聞きながら、冥福を祈りたい。
(22:42) いろいろ検索かけて、「ウィキペディア」に行ったら、「2007年8月22日、心不全のため神奈川県内の自宅で死去。享年67歳。」と、過去帖にでも書き込まれたようにすでに載っていた。

2007年8月22日Wednesday 晴れ
NEIL YOUNGの新作が出る。 NEIL YOUNGがニュー・アルバム『CHROME DREAMS II』を10月にリリースという記事を発見。「1977年に制作したものの未発表に終わったアルバム『Chrome Dreams』の名を冠した本作は、クレイジー・ホースのラルフ・モリーナやベン・キースら、お馴染みのメンバーを伴って録音」とある。
ネットで検索していったNEIL YOUNG NEWSには、新譜は10月16日releaseで、10月13日から7週間のtourをすること、9月9日のFarm Aidと10月27〜28日のBridge School Benefit Concertに出演すること、それから2008年には、過去の音源による8枚のCDと3枚のDVD、それに160ページの本の入ったBOX SETを出すなんてことが書かれていた。(Yahoo!翻訳でなんとなく理解してしまうのよ)。うー(^_^)/~楽しみだなぁ。
もうひとつ、ほーっとうなっちまった記事。華厳宗別格本山:新薬師寺のごたごた。「賃金未払い巡り、副住職が父の貫主訴える」と。月給60万円の一年分の未払い720万円を要求したそうだ。年収がこれだけあればいいよなぁ。62歳と90歳の悶着。老いてもこんな風に、執着してしまうのかなぁ。本尊の薬師如来も知らん振りだ。

2007年8月21日Tuesday 晴れ
この夏は地デジにどっぷり。 盆中も大きな画面で、居ながらにしてNHKスペシャル「生中継 京都 五山送り火」も堪能。午後8時点火の東山如意ヶ嶽の大文字、それから10分後に、松ヶ崎西山、東山の「妙」「法」に点火。8時15分に西賀茂船山の舟形と大北山の左大文字に点火。8時20分に嵯峨鳥居本曼荼羅山の鳥居形。盆の送り火を、女房と居間の灯りを消して、僕はビール飲みながら、「この夏はテレビを買ってよかったなぁ」と話しながら楽しんだ。それから、愛知県豊川市・進雄(すさのお)神社例大祭での手筒花火祭り。これは、また大変に勇壮であった。夜空に花開く華やかさとは無縁だが、火を大切にしてきた思いの原点を見るようであった。それから、夢の美術館「うるわしのアジア 仏の美100選」(前後編)も見ごたえがあった。
昨日は最後の夏休みを取って、娘が処分をしたいものがあるというので、僕もこれから先、聴くことは無いだろうCDを選んだ。万代書店へ初めて持ち込んだ。ここは一回行ったことがあったが、中で迷子になりそうなくらい。衣類はもちろんだが、履き古した靴までも並んでいる。現代っ子たちの夏休みは、冷房の効いた何でもありのここで、マンガ読んだり、ゲームしたり、腹が減ればスナック菓子を買って食えばいい。こっちも眺め始めたら、なかなか帰れなくなっちまった。
午前と午後で、竹林の若竹の刈り払い。竹も、いのちを残すために、刈られれば刈られるだけ、時期を延ばしてまでも抵抗してくる。こんなに暑い盛りになってまで、竹を刈らなければ成長してしまいそうな状況に草刈機を振るったことはない。
終業後、支所と一緒の飲み会。生ビールと焼酎。最近はカラオケとはとんと縁がない。歌えないかもしれないと思いながら、今、聴きに行きたいとは思わない上田正樹「悲しい色やね」を頼んでしまう。今の僕は歌うことは経を唱えること以上に自信がなく恥ずかしい。

2007年8月17日Friday 晴れ
護持会。 午後2時からの護持会なので、地元の檀家の皆さん熱風の中をお寺に。寺の中も暑いことは暑い。暑すぎて、何故か皆さん早めにお出でになる。こっちは、白衣に紫の素絹まとって読経はじめたら、出るわ出るわの玉の汗(^_^;)。手の甲から、顔面から汗が噴出してくる。法要終えて、総会。いつものようにシャンシャンと終って直会。きりりと冷えたビールで喉潤して、あとは皆と焼酎。サル・イノシシ・シカ・クマの話を肴に飲む。15日に町内でクマに襲われた老人の話。命に別状は無かったようではあるが、出会い頭とはいえ、熊も暑さに相当頭の中がヒートアップしてたんだろうな。熱を飲んでいるような連日である。会が終ったあとに30分ほどの通り雨。盆のものすべて片付けて、寺はまたいつものように静になった。秋の彼岸までしばらくの沈黙。

2007年8月16日Thursday 晴れ
盆を送る。 また来年だ。猛暑が続く盆を送る。夕べの宿直は12時になる頃から、落雷と激しい雨に見舞われた。施錠をして電気の消えた庁舎の職員通用口を監視するモニターが、稲光で、何度も何度も閃光弾のように叩く雨の外を映した。数日前から読み始めていた宮本輝の小説を、途中で閉じることができなくなって、午前1時過ぎまでに読み終えた。どきどきと続いた胸の興奮が、小説の読了とあわせて静かに収まると、外の激しい雨もいつのまにか静かになっていた。
戦後62年が過ぎ、戦(いくさ)を好む虫たちがもぞもぞと動き始めている。何が良識であるのかは、個々がきちっと判断するべきであると思う。僕はその判断の正しからんことを神仏に祈りつづける。
午後からは護持会がある。3名が今年新たに過去帖へ加わった。永遠にそこから消えることはないのである。戦争で亡くなる者の死など、寺の住職として僕は書き記したいとは決して思わない。(朝記す)

2007年8月15日Wednesday 晴れ
昨日は150キロ走行。 土日とのんびりと盆前の準備をして、13日の午後から集落内の檀家の棚経。新盆が2軒。1軒はご主人が亡くなったので、残された奥さん独りになってしまった。盆休みで息子さんが帰ってきて、手が回らなくなった畑の延び放題の草を、炎天の元、13日の午後も刈っていた。こんな光景は多いのだ。寺の畑も然り。僕は畑に作付けしたいなんて気持ちにはまだとてもなれない。
連日の猛暑である。13日の午後も、歩いているのは坊主ぐらい。外に出る人なんかいない。昼寝の時間を邪魔するように、「ごめんなさいね、ごめんなさいね」と「そのままでいいですよ」と、棚経に歩いたのである。麦茶、ビールの接待で、いっとき喉は潤うが、外に出れば玉のような汗が吹きだしてくる。腹・背中・腕を汗が伝い、白衣は乾湿の繰り返し。寺の隣りの角屋のおじさんの新盆の経で最後を締める。終った後ゆっくりとビールをご馳走になる。檀家の人たちともゆっくりと話す機会なんてそんなにはないのだ。おじさんも縁取られた写真の人になってしまい、去年と今年の盆の違いはこんなところにあったのだと、勝手に納得してみたり。
昨日は7時40分発で、富士ヶ嶺から。本栖湖に出ると雲の間に富士山。気温は22度。おそらく日中でも、7度くらいは違うんじゃないだろうか。2件目に訊ねたMさんは、「盆中は家に居て、他所には行かないよ、ここに居たら動きたくなくなる」と。朝の風が吹き抜ける居間は、僕でさえ下界に戻りたくない気持ちになる。冷たさと心地よさを増してくれる風だ。精進湖から市川へ下り1軒。そこから甲府へ。或る檀家宅。きのうは車の移動だから、エアコンで汗なんてほとんどかかなかった。で、水分は下腹部に溜まって小便となる。トイレを借りた。なんと、ドアを開けたとたんに、便器の蓋が持ち上がるんである。TOTOもやってくれますなあ。ウォシュレットの便器は、外国でも大人気らしいな。そのうち、ズボンも自動で下げてくれるようになるかも。2時近くに家に戻り、お茶漬けをどんぶり1.5杯食べて、というか食欲の失せた腹に流し込んで、飯富・下山・後山へ。牛飼いのEさんは、この春に牛飼いをやめた。牛乳を出荷していたトラックやもちろん牛も手放して、奥さんと2人では十分な軽乗用車が庭に停めてあった。2軒3人が住む後山。ここも10年先は無いのかもしれない。Eさんとこでは、当たり前のようにゆっくりとビールをいただいて、話をしてくるのが常だったが、それもご時勢で封印。4時半頃にすべて終了で、盆の棚経終了。走行距離が150キロ。
シャワーを浴びて缶ビール飲みながらBucketheadのDVD観る。派手なステージではないが、なんかちょっと面白い。見ちまった。夜は村の盆のカラオケ大会。ここの所僕は、もう棚経疲れで、夜は元気が出ない。飲んでダウン。
それで今夜は勤めの後の宿直。明日、護持会の総会が終れば夏の仕事もオシマイ。

2007年8月10日Friday 晴れ
ガソリン。 値上げが続いている。残量が少ないランプがつき始めていたので、今朝6時過ぎにスタンドに行ってきた。さすがに早朝で僕のクルマしかなかった。1万円入金してちょうど50?入った。カードなので143円。2円安いのかもしれない。価格表示を見落としたのだ。多分2円安い。宇佐美は通常価格も他店よりは安いので、このスタンドの出店は随分と助かっている。夏場でエアコンも使うし、燃料の消費は進む。4100円の通勤旅費なんてとても間に合わない。盆の棚経で回れば、またガソリンを補給しなければならないだろう。でもなあ、これが200円になったところで、クルマ使わないってわけにもいかないしなぁ。
今日も暑いぞ。夕べは寝苦しすぎて、網戸の傍に身体を横たえたが、夜の静寂は無関心の無風状態。オマケに4時過ぎにはもう蝉がかなりはハイテンションで鳴き始めた。
午前中、身延学講座の来山がある。良い話ができればいいが。
(23:11)「みのぶ学講座」への参加者ご一行、9名来寺。生涯学習関係の事業なので、職免で寺にて待つが、結局11時を回ってからになる。隣りの民俗資料館がかなり盛り上がって時間超過したようである。寺の方は45分程度で終るが、もうお昼になってしまった。父の旧制中学の同級生のA先生も参加されていた。不動尊の江戸出開帳について、資料をもって説明する。大方好評のようでお帰りいただいた。今日はこの夏一番の暑さのように感じたが。午後から仕事に出かけるのが少し億劫であった。

2007年8月9日Thursday 晴れ
狂い咲き2007。岡林信康。 日比谷野音に岡林信康が35年ぶりに立つらしい。「狂い咲き2007」がタイトル。今このニュースを知って、行ってみたいとも思わないが、岡林のコンサートに行った思い出が一度ある。渋谷公会堂だったような気もするが定かではない。OSAMUチャンと、“ぴあ”かなんかで招待券を貰ったので二人で出かけた。この頃はもう岡林もだいぶ低迷していた時期で、会場には50人も入っていなかった。実は、僕もOSAMUチャンも、途中で聞くに堪えられずに出てきてしまったという、悲惨な思い出がある。
いま、また静かなフォークブームが到来しているが、岡林を再びという思いは僕の中には起きてこない。彼の初期の歌が、余りにもメッセージ性が強く、歌うに耐えられないのかもしれない。大学時代に少し被差別部落の研究会にも属したり、今もぶらくもんだいのほんを書店で見かけたりすると買うこともあるのだが、「手紙」を歌いたいとも聞いてみたいとも思わない。差別ということばは、部落問題以外にも、現代では少数派に対する偏見にも使われることが多い。今の僕は、これらのことは、僕の気持ちの中側で理解をすることを選ぶ。何故かと問われても答えられない。岡林は、これらの歌を71年の日比谷野音「狂い咲きコンサート」の時のように歌うのだろうか。岡林の歌は両極端で、彼が歌う以外に僕が口ずさめるようなものが見つからない。僕自身が余り攻撃的ではなくなった。積極的に政治に参加することにも興味がない。戦争にも原発にも反対ではあっても、運動の中に身を投じたいとは思わない。こんなことですかねえ。

2007年8月8日Wednesday 晴れ
立秋。 暦はもう秋を告げたが、いよいよ暑いといった数日だ。夏休み中に行っている町内教職員の地域研修。大聖寺へも予定に組み込まれていた。先ず下山の龍雲寺を拝観。ご住職の話しなれた法話をいただく。禅寺の趣きいっぱいにある。内も外も。元は真言宗の寺であったと聞く。華美な装飾を廃した堂内も僕は気に入った。人それぞれの好みもあるだろうが、僕はこのような雰囲気が好きだ。きらびやかではないが、落ち着いた中にもしっかりと仏法僧を尊ぶ者の荘厳の心が行き届いている。大聖寺もこうありたい。抱える檀家の数もうちとは比較にならないのであるが、へぇーと聞いたのが、「曹洞宗の寺の南の最後である」ということ。南部町(旧南部・旧富沢)にある禅寺は、すべて臨済宗なのだ。それで、日曜に寺に来たEさんから「南部の坊さんが中山の寺を兼務している」件。そうか、中山の寺も臨済宗だったな。
午後2時前に午後の部の研修会一行到着。はじめに歴史民俗資料館を見学してお寺へ。大河ドラマのこともあって、「信玄と大聖寺」を中心に話す。とてもそれだけでは1時間も持たないので、結局、江戸出開帳まで話はしたが。信玄の感状や短刀は、直接机に広げて皆に見てもらった。25名ほどの午後の参加があったが、熱心に聞いてくれてこちらも話しがいを感じて満足。帰りに女房が木陰に用意してくれてあった冷茶で皆さん喉を潤して次の目的地へ。「子供の受験合格をお願いしました」とある先生。「おー、大丈夫合格しますよ」と自信をもって答えると、安心したように肯かれた。これも僧侶の役割か。
皆帰ったあと、資料館を閉めて、本堂や茶の場所を片付け。仕事に戻る気はとうに消え失せ、2時間の時間休で本日はめでたく幕引き。
「暑いじゃんね。」が僕の口癖となり、アクアブルーを3本。

2007年8月6日Monday 晴れ
スポーツドリンクがよろしいでしょうか。 土曜も日曜も暑さは最高潮。その最高潮の絶頂の日を墓地の草や雑木の片付けに費やした。脱水症状を起さないように頻繁に水分補給をするが、水を飲んだだけでは体内の塩分濃度が薄くなるだけなので、倒れてしまうこともあるそうだ。スポーツドリンクを摂取するほうがいいようである。なるほど、ポカリなんかだと、500mlくらい一息で体の中に落ちてしまう。冷茶ではこうはいかない。体の不思議をテレビの教えと同じように身をもって味わった。疲れも極みに達していて、声も出ない、食欲も出ない、酒も余り飲みたくない。身体を冷水に浸して、体の火照りを冷まし、水を飲むだけ。
寺に残る資料を少し捜すべく長持を開けたのであるが、あった、あった。信玄の感状が出てきた。年度末に文化財担当から聞かれていたんだが、捜してみようという気分にもなれなかったのだ。世が「風林火山」ブームで、今週の8日と10日に町内の二つのグループの拝観案内を頼まれている。大聖寺と武田信玄に関するものと、大聖寺のお不動様の江戸出開帳に関するもの。江戸出開帳に関しては、父の資料やインターネットでの資料集めなどから、これはこれで十分に面白いもので興味が湧いてきた。
1696年の最初の江戸出開帳は、成田不動の江戸出開帳の歴史を7年もさかのぼるものである。出開帳を実現するためには、一年以上前から申請をしておかなければならず、それがすべてが認められるものでもない。名の知れたお不動様であればこそである。富士川を下り、箱根を越え、江戸に向かう不動行列を想像すれば、如何にこの不動明王の霊験があらたかであったのかということがわかるものである。
昨日来山した檀家さんは、この寺に仏像が少なくて余りにも殺風景で寂しいというようなことを話していかれたが、こういった感想を聞くのは、初めてのことであり、いままで僕自身は考えたことも無かった。寺に仏像が溢れることが寺の格を高くするのか。まさか!十人十色の考え方があるのだから、別段気にすることもないが、この不思議な意見は少し僕の頭を混乱させた。1000年の孤独のように座り続けている不動明王以外のことを思ったこともなかったのだ。
僧侶であることへの後悔などは微塵も無く、僧侶であることの今を僕は、よかったと思っている。でも、そのこととは別に、僧侶は寺にあって、長居をし過ぎてはいけないということも別な感情として抱き始めた。寺に長居をすれば、寺から離れられなくなる。僧が妻帯しなかったということは、こんなことも因の一つとしてあるのではないかと考えている。寺を継いでゆくことは、僕の家族に託されたことではないと思っても、確かに周りからは託されているのだ。今僕は、僕自身が僧侶であることは否定しないにしても、僕の家族に、寺の後を託すことは、それぞれの生きる選択に任せたいと思う。祖父・父そして僕と、100年をこの寺にあれば、1000年の歴史の寺に、次の寺を例えば誰かに託すことになろうと、僕や僕の家族が何を恥じ入ることがあろうかと思う。答えが出るわけでも、答えを今すぐ出したいわけでもない。ただ、慎重すぎるほどの僕の感情は、僕自身もこの寺にあって、とみに1000年の孤独を感じるほどに、重く、時に荒々しく波打つのである。こんな心の思いにも、スポーツドリンクが効くのだろうか。

2007年8月4日Friday くもり
やっといくつかのことが片付いた。 英語の指導助手の引取りから3日で、やっと少し事が落ち着いた。部屋の電話とインターネット環境は来週にずれ込むことになったが、ケータイが手に入って夕方届けた。使い方の英語版をDLしてこれも渡す。彼曰く「インターネットができないのは致命的です」と。分かったから来週には何とかね。帰ろうとすると、「おみやげだ」と言って、国から持ってきたのであろうCDRを6枚くれた。Bela Fleck、Benevent/Russo Duo、Jazz Mandolin Project、Galactic。これらのミュージシャンは僕も好んで聴いているものだ。JAZZやJam Bandが好きだといっていたので、言葉は余り通じないが、バンドやプレイヤーの名前なんかを言うと、共通していて「イェー!」なんて俄かに盛り上がるのだ。あとErnest Ranglin、Avishai Cohenは始めて聞く人だったが、いい感じだった。僕も彼に、この国のイカしたバンドをお知らせしなくちゃ。
後退する前のAdamは、ベースボールやバスケットやフットボールが大好きで、思うところの、典型的なアメリカ人て感じがしたけれど、今度のSethは、「小さいときにバッターボックスに入って、ピッチャーの球が足に当たって痛かったから野球は嫌いです」と、Adamとは正反対な正確なようだ。短い時間しか接していないが、ケータイを決めるときにも機種や料金設定なんかもとても細かく気にして慎重だったし、車の運転も、座席を後ろに下げるどころか、前に引き出して、しっかりとハンドルを握って、一つ一つ確かめるように動かすところなんか、彼の性格の表れのように感じた。面白いものだ。
ケーターを手渡して、その足で税務署に「租税条約に関する届け」を出しに行った。アメリカは2年間は税金が免除される。税務署の出口に設置されていた電動靴磨きで、疲れた靴を磨いてやった。

2007年8月2日Thursday 晴れ
非常に疲れてしまって。 英語の会話のできない僕と、29日に来日して、なおかつほとんど日本語を解さない者とが、約2時間半ほどをアパートと買い物で過ごしたのだ。身振りや辞書片手に伝え合うことに玄界灘で溺れそうなくらい。大波食らって、8時前に帰って、早々に飯食って風呂入って寝てしまった。予想以上に頭も疲れたのかもしれない。頭を使ったというよりか、使えそうな頭のどこかを探し回って、やっぱり何もなかった。頭の中を引っ掻き回し多分だけ頭が疲れてしまったというところか。
事務所の階段の途中でお初にお目にかかった、Wさんのお顔もすでに記憶の底にぼんやりとしているような状態である。でもまあ好青年で、学校長も英語教師も第1印象は良かったようで何より。セルバヘ食料の買出しに連れて行ったが、若者は牛乳、果物ジュース、ジャム、ピーナツバター、リンゴ、アメリカンチェリー、ちらし寿司、「シリアル」と言ってコーンフレイクなどを買った。なかでもリンゴは銘柄が“ふじ”だったが、アメリカにもあるらしくて、「ふじがベストだ」と言って満足そうであった。何はともあれ昨日はこれで解放となったのである。チャン!。

2007年8月1日Wednesday 晴れ
八月に入る。 今朝は陽射しがある。とうとう梅雨明けの声を聞くこともなく8月に入った。今日は暑くなりそうだ。
今日新しくアメリカから迎える英語指導助手のアパートの部屋の窓を開けてきた。畳の表替えをしたので、い草の匂いが篭る。僕には新しい畳の感じが心地よいが、異国の人にはどうなんだろうかと少々気になっている。助手たちが受け継いで乗ってきた車のエンジンも大丈夫。今日、明日と英語のできない僕が彼にかかわらなければならないだろうと思うと気が重い。学校は授業のことだけを考えればいいが、こちらはこの国や町のルールに従った生活をしてもらわないと苦情が出る。ゴミの出し方とか。
雨でないことが幸い。死者たちの8月。韓国の人質の早期解放を祈りたい。盆の月。よい8月であればよい。
お大師様と歩く。8月の月を歩く。ご一緒させていただく。

2007年7月30日Monday
林栄一/birds and bees。 林さんの「birds and bees」(鳥とミツバチ)というアルバムが久々にStudio Weeから出て、特典CDRとともに我が手にも届いた。今回のは、alto・soprano・baritone saxでの多重録音。それと、半分を外山明(ds)とduo。名曲「ナーダム」もあり。ナーダムの終演近くに、遠くから「アリラン」のフレーズが静かに聞こえてきて、ナーダムの曲と交差して終わる。今日は朝から一日中雨だった。朝から雷が鳴った。ALTの部屋のカーテンのクリーニングが仕上がり、夕方それを部屋に取り付けに行った。雨が上がってこのまま蒸し暑い夜になるのかと思っていたが、夕飯時になってまた激しい雨だった。丑の日のうなぎを、娘は「久しぶりで美味しい」と洩らした。娘も自身のアリラン峠を上りはじめているのだ。Studio Weeの作品はどれもがみな素晴らしい。

2007年7月29日Sunday 晴れ
盆前の草刈終わる。 恒例の檀家との草刈りを済ませた。7時半からだったが、6時半頃雨が降りはじめたので心配したが、蒸し暑い陽気の中で短時間に済ますことができた。チェーンソーの持ち込みもあって、墓地の山側をかなり刈り込んで、明るく風通しも良くなった。来年はこの隣りをしようと積極的な意見。
木を切って片付けたはいいが、これが墓地の沢沿いの空き地に山と積まれた。暇を見て枯れたところでこれは少しずつ僕が片付けなければ仕方がない。
雨は無く、夕方までもった。雷が遠くで鳴ったので、これから夕立があるかもしれない。投票所はまだ8時までたっぷりと時間がある。隣りのお宮の境内で、育成会のバーベキューが賑やかだ。雨が来なければいいが。
NHKBS-ハイビジョンで、長谷川きよしのliveの再放送があり、これ見たら、「DVDデッキも欲しいなぁ」と、欲は底をつかない。夕飯までの時間を浜田真理子。
で、すぐに雨が来たのだ。急襲する甲斐・武田軍のように。なぜにああまでも戦を好むもののふ達であったのだろう。

2007年7月26日Thursday 晴れ
地デジ。 身延山からの地デジの試験放送が始まったということを聞いていた。新し物好きなので、早速食いついてしまった。いくつかの要件がこうさせたのだが。僕の家は相変わらずアンテナからのテレビを見ていて、CATVには加入していなかった。UHFのアンテナから地デジが取れるということを聞いたので、最近会う機会の多かったYデンキさんにも話を聞いて、僕の家でも十分に電波を受信することができることがわかったので、女房に恐る恐る相談してみたら、意外やOKが出た。
今までより大きなテレビ。薄型。そして、アンテナの工事も要らなくて、地デジ生活が夕べからスタートした。そんなに多い時間テレビを見るわけではないが、居間にこの環境が整った。今までのNHKふたつ、民法ふたつ、NHK-BS、WOWOW(WOWOWは僕の部屋のみ)が地デジに変わり、プラスNHKハイビジョン、BS日テレ、BS朝日、BS-i、BSジャパン、BSフジ、それに静岡第1テレビも受信。それからCSのテレビショッピングみたいなのがふたつぐらい映る。こんなに増えて視聴料は今までと変わらないのであるから、少し早いが我が家で地デジをスタートしたことはラッキーなタイミングではなかったか。それで僕は夕べ、早速BSフジで、元一風堂の土屋昌巳が「すみれセプテンバーラブ」をLiveするのを堪能することができたんである。

2007年7月25日Wednesday 晴れ
梅雨明けならず。 梅雨前線が微妙に影響しているらしく、門外漢の僕の肌感覚とは違い、関東甲信は梅雨明けにはならない。昨日は8時まで期日前投票の事務に当たったので、外に出ることはなく、冷房の聴いた快適な部屋で、「相当熱いんでしょうね」などと思いながら、汗を拭きながら投票に来るお年寄りたちを眺めていた。58人が投票に来た。話好きの投票管理者の方がいて、11時間30分ほとんど語りとおした。豊富な知識もあるのだろうが、声のトーンも落ちず、語りとおした結果に最後は驚きと敬意をも表したくなるようではあった。僕には到底できない。僕は4冊の本を持参して一日過ごした。
今日も暑くなるようではあるが、パンツ一枚でパソコンに向かっている僕の身体に朝の風は冷たく心地よい。毎日は続けられないが、今朝は早く目が覚めて起きてしまったので、理趣経を一巻。
韓国人ボランティアのアフガニスタンでの拉致問題。ボランティア側にもいくつかの問題があったにせよ。処刑してしまうって結末はあってはならないことだと思う。ただ、こういう活動にもよほどの慎重さが要求されるということだけは覚悟しなければいけないとは思うが。

2007年7月23日Monday 晴れ
土日のことを。 休日はどうも書く気にならない。草刈りなんかして草臥れると、飲んでしまえば、もうパソコンと向き合うのは真っ平ごめんになってしまう。
土曜の昼は、女房と下山のうどん屋へ食いにいくかということになって出かけたのだが、実はもう店じまいであった。というか、もう営業していないようであった。多分。
勝手にこちらは、いつでもやっていると思い込んでいるから、こんなことになる。結局、「めん丸」で生ビールとつけ麺になった。このつけ麺がまた旨くない。温かいのにすればよかったなと二人で会話。こんなもんだ。夕方畑の草刈りに取り掛かる。
昨日は午前中、午後と畑の草を刈る。耕作をしていない畑は、ただ伸びる草を刈るのみである。途中で止められずに5時過ぎまでかかって刈り終える。相撲の千秋楽を見たいと思っていたが、もう既に終っていて、終れば結局、朝青龍の優勝で幕なのであった。
息子が珍しく帰宅。就職するつもりの無い彼は「就活」は無し。更に勉強を続けたいのだというが、それが可能になる結果はまだこれからのことなんである。私は、お不動様に祈ることぐらいしか応援できないんである。一日草を刈って、僕は首の後ろが日に焼けて、少しばかりヒリヒリ。
地デジを生活に取り入れる計画を練っている。
奇特なことがあるものだ。「玄関ポストに、現金1000万円入りの封筒」だって。貧しい寺に、黙ってこんなことをしていってくれる人が現れないだろうか。

2007年7月20日Friday 晴れ
富士川の風。 寝たのはもう午前2時を回っていた頃。音楽を聴いたりテレビ画面の映像をボーっと眺めていたりで。寝不足だったかもしれない、6時に目が覚めた。小便をして、庁舎の施錠を解いて、窓を
開け放つと、富士川の早朝のひんやりとした川風が入ってくる。これはいつも感じることだけどメッチャ心地よい。
夕べは、宿直室の下の川原で、夜釣りをする光が9時ごろまであった。久しぶりのいい天気だったので、姉さんのところにでも行って飲みたいと思いながら、「あっ、宿直か」なんて思っていたりしたのだ。思うことはおんなじで、昨日の夏の暑さは誰もが「今夜は冷たいのを飲もうかな」と思わせたようで、宿直に入って午後7時半頃にPCで、僕のところにアクセスしたら、「今夜飲みませんか」なんてね。ザンネン!!
選挙事務の総務課は夕べも遅くまで。選挙そのものに興味が湧かなくなったが、昨日、宿直に入るときに役場の駐車場で、檀家のNさんに会った。「今日は何ですか?」と訊くと、「期日前投票だ」と言う。おそらく彼は、自分の投票と一緒に、近所のお年寄りも乗せてきていたから、外で待っていたんだ。選挙は身近になるほどに熱くなる。選挙は、年金暮らしで暇をもてあましている人たちには、格好の道楽のような感じが今でもあるのかもしれない。でも、随分と様変わりしてきているとは思うが。

2007年7月19日Thursday くもり
やらせだなんて。 中国の段ボール肉まん騒動が、実はテレビ局のやらせだったとの一転の報道。正直「ほんとかなぁ」って思う人がほとんどじゃないだろうか。謝罪しただけでは事はすまないだろう。これを認めてしまった責任者は、彼の国の判断では即刻処刑ではないか。十分に相当する悪戯を越えた犯罪であって、自国を擁護する彼の国にあって、段ボールの混ざった肉まんなんてのは、国辱的行為の最たるものだ。即刻公開処刑である。こういう結果が予測されることを判断できない大人ではないだろう。お気楽な僕の国のお笑い番組ならまだしも、あの中国でこんなことをするなんて俄かには信じられないよな。結果を予測したら、恐ろしすぎて絶対できないことなんじゃないだろうか。
お昼の番組で、在日の中国の識者2人が、それぞれ相反する側から最近の食品問題等について意見を戦わせていたけど、「日本だって、メチルアルコールを混ぜた合成酒なんかを闇で売ったりした時代があったじゃないか、それとおんなじだよ」「進化する過程で仕方のないことだ」「人口が多いので、貧富の格差がとても激しく、貧困層が相当比を占めているのだ」とか。でもいまさらなぁ、半世紀も前のこの国のことと比較されてもなぁ。オリンピックや万博を来年以降に控えている国なんだからなぁって思ってしまうし、なお更それがあれば、世界に国の恥をわざわざひけらかすようなことをするかなぁ。
ここ数日晴れ間が見えず、涼しいというより、冷えているといったほうがいいような気候。今朝もそうである。からっと夏の青空が欲しいね。

2007年7月17日Tuesday
3日間のことを。 14日。6時6分に甲斐岩間からの電車で甲府。この朝も、身延線の運賃は受け取ってもらえず。甲府から八王子経由で町田へ。雨なので、歩きづらい。Kさんのアパートに伺い、皆さんのお元気そうな顔を見て安心。お母さんのアパートに子供たちが都合をつけて集まる。「風林火山」がらみから、信玄と大聖寺の話など少し話して次へ。女房は娘と会うために直接新宿まで。午後5時発の電車まで、僕はいつものように「新宿diskunion」へ。中古4枚仕入れる。井上ケン一/レイジー・ベイビー・ケニーは、20年来手に入れたくて入れられなかったというか、なぜか出会いやタイミングがなかった奴。雨に降られてびしょ濡れ状態で、仕方なく選択しちまった食堂で生ビール。それから本日お勧めの「うな丼定食」。これがまずくて、ひょっとして中国産だったかもなと、後悔。車の運転の心配がないので、帰りの「あずさ」でワンカップ2本。紀伊国屋で買った「道の手帖」の「中井英夫‐虚実の闇に生きた作家‐」読む。大学を卒業した年の夏だったか、1年後輩のK君が、僕の友人の紹介で、中井英夫の書生になった。1年か2年くらい続いたのであったか。思い出したら、1度彼に中井宅へ連れて行ってもらって、確か風呂に入ったような記憶がよみがえった。あいにくと中井氏本人は不在であったが。雨強くなる夜に帰宅。
15日。台風接近。5時過ぎに起きて、境内の見回り。側溝の詰まりなんかを見回るのだが、墓地の側溝は勢いが強いことが幸いしてか、非常に気持ちよく流れていた。庫裏の裏の側溝の落ち葉を除き、流れをよくする。グーッと、音を立てて溜まり水が飲み込まれていく。本堂周り、参道と見回り、雨合羽の下は汗びっしょり。「なんにもすることできねぇな」と、飯のあとにテレビ見ながらごろんとなる。昼過ぎに台風通過して雨が上がり、青空も見え始める。今日は一日のんびりしようぜという気持ちで僕は何もせず。
16日。8時半過ぎに総合文化会館へ。今日の講演会のための準備。ステージに掲げる横看板が大きくて長すぎて、看板に張り切れないということで行ったのだが、新しく印刷しようと思ったが、うまく作動してくれず、苦肉の策で、「講演会」の文字をカットして看板を掲げる。10時過ぎに帰宅して、竹林の竹の子刈りと参道の草刈り。台風一過でもからっといい天気にはならない。12時前に終えてシャワーを浴びてテレビをつけると、地震の報道。新潟・長野で大きな地震。テレビは終日地震報道。朝まで流れていた台風報道はまったく無くなってしまっている。動いているだけだ。動いているものに追いかけられている。
今朝。また雨だ。被災地にも雨。僕に力があればこの容赦のない自然の為す悪戯に、ストップをかけることができるのに。なすすべもなくうな垂れて、仏にすがるしかない。仏に祈りを乞うしかない。雨、あがれ。

2007年7月13日Friday
携帯。 娘から朝早くに電話があり、携帯電話が壊れてしまったので、明日我々が上京する際に新しいのを買ってくれと。盆の棚経で僕が上京するのに合わせて、二人で行くことになっている。電話を取ると、彼女はかなり逼迫した感じで、「お母さんと代わって!」とケータイ依存症が発症したような。
少し前から調子が悪かったようで、月末に帰省したときに、K美ちゃんに頼んで新しいのを買おうということのようだったが、事態が急変。無ければ無いなりになるんだろうが、今はそうもいかないようだ。僕も持ってはいるが、ほとんど使わないし、かかってもこないしかけもしない。つまり電話をかける用が無い訳で、僕を必要とする人もいない訳である。これは携帯が存在しない頃からの延長であり、殊更携帯を持ち始めて用事が増えるなんてことはない訳である。携帯電話って、必要に迫られてかけてるとか使ってるって訳じゃないように僕には思えて仕方がないんである。
でも、新しい機種ってのは、なんとなく手にとって見たいって気持ちにはなるよなぁ。「って、あんたケータイ必要ないでしょ」って、女房に言われるよな。

2007年7月12日Thursday
荒っぽいよなぁ。 出るわ出るわって感じだよな。肉まんに段ボールだ。使用済み段ボール紙を煮込んで詰めた肉まんが堂々と街頭屋台で売られていた。カセイソーダの溶液に浸して黒っぽく変色させて、煮込んで柔らかくして、段ボール紙と豚肉の比率は約6対4だって。
賄賂を受領した国家食品薬品監督管理局長は、スピード判決で死刑執行だ。この点は中国は早いな。抹消してしまえば一件落着みたいなところも感じるがね。
マナーでは、オリンピックを控えて、北京じゃ毎月11日を「整列の日」と定めて、整列乗車の普及に努めているんだとか。でも監視員がいなければ全然ダメらしい。
ディズニーのキャラクターの無断使用や、マンション開発がらみで、立ち退きを拒否している住民の家の周囲を掘って孤島にしてしまったり、荒っぽいね。
使用済みの楊枝を洗っただけで再商品化したり、レストランの紙ナプキンも、使用済みナプキンや病院から廃棄されたガーゼなんかも原料にして、また紙ナプキンを作っていたりするってんだから、こりゃ驚きの世界を通り越して、賞味期限切れや「ミートホープ」なんか、まだまだ可愛いなって気分になってくるから、あら不思議。

2007年7月10日Tuesday
曖昧な判断基準。 年金保険料の納付記録が不明のものに対する、年金支給の判断基準が出されたが、まあ余りにも曖昧で、「社会通念に照らして明らかに不合理ではなく、一応確からしい」ことを基本に記録漏れの訂正を行いとされ、「人柄や態度」という、到底「かんけぇねぇだろう」人物判断さえも判定材料になるのだと。いい加減なことをしているからこの付けが回ってきたので、不正なく処理をしていってもらいたいものだが、申立はかなり出てくるだろうな。「ダメ元でいっちょやってみるか」なんて、これで受給が認められれば、生涯お小遣い貰い続けるようなもんだからな。この年金記録の判定で、また疑惑が発覚したりしてな。話題にゃ、事欠かんわ。
今夜は、「第2回町立小中学校適正配置審議会」で夜の仕事。午後7時半から10時10分前に終了。机や椅子を片付けて10時に解散。余り書いてもいけないので、まあいろんな意見が出ます。スピードアップでお願いねという気持ち。じっくりやろうよという気持ち。いろんな気持ちが雨の夜の部屋をゆらゆらしました。

2007年7月9日Monday くもり
中国から入ってくる野菜・うなぎ・土鍋。 今、急高度成長期にある中国は、わが国が過去歩んだ過ちの道をそのまま同じように歩いている気がする。困ったことに、世界最先端の文明と、30年以上も前のような歩みが、背中合わせで走っている。環境や食の安全に敏感になっている時期で、僕の家でも、女房は「中国産は買い控える」という。学校給食の現場でも、安全が確認できるまでは、中国産食品の納入を止めるように業者に指示が出された。
国によって安全の基準の相違もあるようだが、概して中国自体が甘いのではないか。国土や人口の壮大さから、まとめきれないということもあるだろうが、これを良しとしてしまう国是だ。北京五輪を1年後に控えているのに、安心して中国のものを食べられないなんて状況じゃ、こりゃまずいよな。ここも、一握りの女王蜂と、数多の働き蜂によって形成されている構図。大気や河川が汚染されて、水俣病のような悲劇が起こらなければよいけど。

2007年7月8日Sunday 晴れ
醍醐夏の陣。 金曜の夜の恒例「醍醐夏の陣」も無事終了。もう何回目になるのだろう。今年は女房も連れて行った。ベルクラシック甲府のサマーバイキング。坊さんや公務員や葬儀屋さんなど入り乱れて集まる。生ビールもそうそうたくさん飲めるものではない。途中から芋焼酎。
標さんから写真を送っていただいた。ステージもあった。ベリーダンス。でも、30分くらい強烈な中近東の乾いたパーカッションと腰振りで、こちらの会話なんかは途切れてしまった。ステージは5分か10分だな、彼女たちには可哀想だけど。飲んで食べて、1年にいっぺん。七夕の再会のようなものか。醍醐派は飲み会でがんばるしかないもんなぁ。

2007年7月6日Friday 晴れ
快便、快食、快便。 気になることがあったので、いつもより早く起床。お勤めを済ませて、一輪車に空気を入れて、早朝から石なんかを持ち上げて積んで運んでと腰にくる作業。思い立ったときにやってしまわないと明日の天気も分からないし、とにかく僕は怠惰だ。時間はそんなにかからなかったし、汗をかくほどでもなかったが、勤行の後で声も出て頭も身体も起きていたし、体の内外動いたので、朝食の卓につくまでの我慢がならずに排便。快便。そして、国会が閉幕したニュースなどぼんやりと聞きながら快食。洗面後に再び排便となる。こういう朝は何より気持ちがいい。内閣の支持率は32%まで落ちたらしい。でも、選挙で自民党が大敗するとはどうしても思えない。投票に出向かない国民が増えるだけのような気がしている。
今夜は、「醍醐夏の陣」と銘打った納涼会。ベルクラシック甲府。丸坊主がたくさん集まって飲みます。

2007年7月5日Thursday 晴れ
「下田逸郎:ひとひら通信」に。 http://www.t-chest.jp/shimoda/hitohira/ (下田通信所)
下田さんのHP 「ひとひらconnection」の「ひとひら通信7月号」に、大聖寺での3月20日の「さしむかいライブ」の僕の感想を掲載していただきました。この徒然に書いたものをほとんどそのまま使ったものですが、もしよろしかったらどうぞ。
下田通信所を管理しているN谷さんからも、「
ひとひら通信のページをご覧下さい。いい文章といい写真です。参加して下さった方々にもみてもらって下さい。」と、コメントをいただきました。
稚拙な頭と生き方しかありませんので、さほど面白くはないかとも思いますが、こういうお付き合いを続けていたら、きっとまた客殿に歌いに来てくれますよきっと。お待ちください。採用写真はいいものです。

2007年7月4日Wednesday くもり
災いの元が口なのに。 辞職の会見の中で、まだ「あれは方言での表現であった」などと、自己防衛省に終始する態度は許せないし恥ずかしい。事もあろうに長崎選挙区を地盤として、おそらく被爆者やその家族縁者からも多くの支持を得ながら国会議員になった者が、この程度の発言だ。未練タラタラの会見で、また彼の口からは災いがよだれのように垂れてしまっているのだ。こういう輩を即刻首にもせず、擁護発言に終始して事を納めてしまおうというような態度で居る安倍のお坊ちゃまにも困ったものだ。彼にこの国を委ねるには無理があったのだろう。
ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下なんてのは無差別殺人の一番のいい例ではなかったのか。こんなことは地球崩壊のときまで許されようはずも、まして、「しょうがない」なんて得心できるはずは無い。
(19:30) 実は先々週だったか、元外国語指導助手の国税の還付金を送金するため銀行へ行った際、女性週刊誌を開いたら、上田正樹に関する記事があったんで、軽く目を通したんだが、SAX奏者の朝本千可と最近離婚したらしいんだが、その原因が創価学会という。「妻の折伏に失敗して離婚」とかね。今日所用で、総合文化会館へ行くことがあった。実は、ここで9月に上田正樹のコンサートがある。同僚に、銀行で読んだ週刊誌の話をした。別にこれが影響しているわけじゃないだろうが、チケットの売れ行きは芳しくないらしい。
そうだなぁ、僕も上田正樹は“サウス・トウ・サウス”以後のソロ活動には余り興味がない。いま、上田正樹を聞きたいと感じる人がいるかどうかの問題だな。俺はNo, thank you。
学会員の芸能人は相当数存在するらしいが、個人の名前に併記して創価学会の名が載ったりすると、余りいい感じはしないよなぁ。日蓮宗の総本山と学会は対極にあるって噂も聞いているしなぁ。

2007年7月2日Monday くもり
手のひらのiPodがくれた。 イヤホンを忘れて歩き始めてしまったので、仕方なく、雨の止んだ道を「法弓の願文」や「修祓の文」「観音経偈」などを諳んじながら歩いた。
iPodには、RUSHという30年選手のストレートなRockバンドが入っているんだけど、今日は鳥の声や早苗田に鳴く蛙の声などをも聞きながら歩いた。大学を出て、醍醐寺に行ったとき、僕は般若心経すらまったく知らなかった。読んだことなどなかったし、経本を手に取ったことさえなかったのだ。三度の食事時に般若心経を唱えるのであるが、覚えるまでに約一ヶ月ほどかかった。別に恥ずかしいとは思わなかったが、こんな俺が僧侶になるのかと、後悔したことは覚えている。僧侶になりたいと本当に思えるようになるまでには、更にそこから20年近くはかかったような気がする。先代が亡くなってからは、毎朝の勤行で、繰り返し唱えながら、ひとつずつ経も様々な願文や文などを暗記してきた。頭の中に引き出しが増えて、iPodほど優秀ではないにしても、まあまあな坊主の頭になりつつあるかもしれない。恥ずかしながら。

2007年7月1日Sunday 晴れ
蛇の抜け殻をいただくという気持ち。 毎月1日に月参りに来るご夫婦が居る。たまたま休みなので、ご夫婦と会うことになったが。本堂への渡り廊下に、何日か前に脱皮した蛇の抜け殻がそのままになっていた。奥さんはその抜け殻を見つけて、お不動様からいただいた贈り物だと、お札の袋に入れて持ち帰ったという。縁起がよく、会社の業務繁栄にも繋がると。本堂の渡り廊下で脱皮した蛇のの抜け殻は、これまた特別なものであったろう。熱心な信者にはこのような思いがけない喜びが贈られる。掃いて捨ててしまわなくてよかったと思った。早朝に護摩を焚いて、昼前から掃除を始めた、その時であれば抜け殻もゴミとして捨ててしまったであろうが、その前に拾われていった。
護摩を1時間焚いて、炉の灰が静かにおさまって冷えてから掃除をする。掃除の方がはるかに時間がかかる。昨日も2時間掃除に費やした。BGMは山崎ハコ。祈るということも結構大変なんですよ。護摩を焚いたら、必ず後をきれいに掃除して仏前の荘厳をしておかなければならない。
毎日新聞旅行のツアー客が15名ほど来山。お客さんが、無線のイヤホンで添乗者の解説を聞いているのだ。初めてで驚いた。「風林火山」のこれも影響なんですが、江戸への出開帳の話をすると、みな興味深そうに聞いてくれた。東京からのバスだったので、王子の金輪寺とか話しても、よくわかってくれて、お不動様も久しぶりに笑顔。


2007年6月29日Fridayくもり
じゃがいも。
今日は隣りの部屋の調理実習室で、食生活改善推進員の伝達講習会があったのだ。なぜか途中で停電になってしまったりもして少し慌てたが。
弁当を食べていると、今日の献立のひとつ「じゃがまるくん」を2つずつ差し入れてくれた。つぶして丸めたジャガイモの中に豚のひき肉を入れて、からりと揚げたもの。生姜の隠し味がさわやかで旨かった。新ジャガの時期で、夕べうちの食卓は『肉じゃが』だった。今年は玉葱やジャガイモの出来が例年よりよいらしくて、檀家や近所からたくさんいただいている。カレーのジャガイモも旨い。カレーはどうしても一皿で終らなくて、半分くらいはおかわりをしてしまう。あの世でカレーが食べられないとしたら...、なんだか考えただけでしぼむ気持ちになってきた。

2007年6月28日Thursday晴れ
店じまい。
昨日の新聞に、下山の食品スーパーが閉店するチラシが入っていた。やがてこうなるだろうことは予測していたが、しのぎをけずるこの世界で、生き残っていくことは大変なことだと改めて考えさせられた。飯富に大きなスーパーが出店して、ドラッグ・スーパーや酒の安売り店、弁当屋、クリーニング店、DIY店などが並んで、そこに行けばほとんどの用が済んでしまうことになった。一箇所で用が足りればそこに行くようになるのは当たり前だのクラッカー。一時期は、このスーパーにもよく通ったんだ。他になかったから。子どもたちがまだ保育園と小学生の頃だったか。消費者が一度目を逸らして他所を向いたら、もう余程の起死回生のホームランでもなければ元には戻らない。
余談になるが、この店の精肉売り場に、僕の知り合いの息子さん(愚息と同級生)は、高校から大学とアルバイトに通っていると以前聞いたことがある。彼も大学4年だから、就活でバイトなんかしてないだろうか。また道を逸れるが、うちの息子は就活をしていない...らしい。
人の道に背いて儲けに走ったがことによる転落という、会社の自分勝手な経営で職を失う社員と、もうどうにもしようのない崖っぷちで、ともし火消えていく会社の社員もいて、僕たちは社会の中で、明日はわからない、決して確かな約束なんかされていない、ごちゃ混ぜのミンチ状態になっているのだ。全体も大事だけど、一人だって大切なんだよな。

2007年6月26日Tuesday晴れ
悪いことは成就しないものだ。
「ミートホープ」の従業員60人が全員解雇されたらしい。予期せぬ突然の失職ということにはなるが、まさか「俺たちは知らなかった」なんてことは言えないのではないだろうか。元工場長が「雲の上の人」の指示ですからと、偽装を知ってはいても進言できないところが雇用関係の悲しいところだ。他の混ぜ物をしてもばれなきゃ良い訳で、それで通れば発想の転換で更なる利潤を生み出す。いったん儲けだしたら止まらない。何でも混ぜちまえってことになる。「ミートホープ」の従業員は、おそらく誰もが知っていたはずだ。きっと給与もよかったかもしれないし、口にチャックさえして、黙って働いてさえいりゃ何事も丸く収まっていたんだ。「俺はうちの製品は絶対に食わない」なんて心の中で思いながらね。自分で食う分には農薬を使わない、野菜農家のようなものだ。「ミートホープ」のミンチは、「動物満載の血みどろのジュリアナ東京だぁ!」みたいなね。悪いことは決して成就しないものだ。悪いことには必ずその結末が訪れる。その嫌な予感を常に抱きながら、「ミートホープ」の田中親子は発射してしまった弾丸の放物線の頂点に到達してしまった。あとは一気に落下するのみだ。落下するときには、打ち上げたときの地面をも深く、地の底まで落ちていくということになっている。
解雇された人たちは、これからその身体に染み付いた垢を落として、真実の道を歩くことを始めたら、きっとよい方向に開けていくことを信じたい。何を信じていいかわからなくなってしまうようなことをしてはいけないということ。

2007年6月25日Monday晴れ
竹の子を食う。竹の子を刈る。
竹の子が美味い。食べるのに飽きるまではまだまだ美味い。弁当のおかずにもよし、酒の肴にもよし。
終業してすぐに帰ってきて、1時間ほど竹林に入り、刈り払い機で1時間ほど竹の子を刈った。竹林の外へ外へと伸びる竹の子のおびただしい数を、容赦なく刈り払う。雨が上がっていい天気になったので、夕方の作業は涼しく楽しかった。墓地の草ももうかなり伸びてきている。こんなことばかりが気にかかる。
ボーナスの支給明細の空袋をもらう。毎月の給料もそうだが、僕は数字を見ない。というか余り興味がない。欲しいときには女房から貰えばいいし、ネットで買ったものは、「あと払っといて」で済ませることも多い。音楽があって、酒があって、ゴロンとしていて、お経も読んで、草を刈っていることが全てかもしれない。
人気者というだけの取り柄で、国会議員になった奴にさえ、愛想尽かされてしまう国会なのである。元ヤンキーも行列のできる弁護士も自民党だ。さくらパパは民主党だ。懲りずに新しい駒を拾ってきては盤面に打つ。出す方も出る方もおかしい。肉屋が「全て牛肉です」と偽って、実は豚も鶏も鴨も混ぜて売っているようなのとさほど違わないような気もするが。

2007年6月24日Sunday
泥棒も気を遣ってくれたのか。
先週、Mアルプス所の刑事が二人で「賽銭泥棒」の供述の裏を取りに来た。たまたま葬儀に出かける予定で早退して帰ってきたところだったので、手短にお願いした。昨年の10月頃で、金額は3千円ちょっとの金額だった。先ず驚いたのは、金額の高さである。「はっきり申しまして」と、僕は丁寧に寺の賽銭実情を白状した。こちらのほうが恥ずかしかったか。訪れる人も少ないし、寺のお祭りか正月以外で賽銭が千円以上入っていることなど滅多にないので、この金額が盗られたということは先ずないでしょうと応えた。賽銭箱を壊されるほうがよっぽど痛いので、鍵は掛けていない。夕にお堂を閉めるときに、入っているかどうか分からないが、賽銭箱の中は毎日確認して、10円であってもありがたくいただいて、お堂の中の須弥壇にある金属製の小さな賽銭箱に入れておく。100円だったり、500円玉が入っていたりすると、もうそれは晩飯時の報告事項に値する。であるから、この泥棒さんは、私の寺の伽藍の大きさに敬意を表してか、気遣ってくれたのか、「あー、あそこの寺からは3千円盗りました」なんて言ってくれたんだろう。なんだかその光景が思い浮かぶようで、我が家の賽銭が彼に一食をもたらしてくれたのなら、それはそれでよかったのではないかと思ったのだ。
昨日の結婚披露宴、ありがたく楽しく、食事もお酒も会話も楽しく、また新しいカップルの若さから栄養を分けてもらったような気分でした。今日は朝から雨になっているけど、昨日の宴終了後に「ベルクラシック甲府」の外を見たら、午後6時半だというのに陽射しが残っていたので、「あーまだ飲み足りない時間なのかなぁ」と、岩間でまた4人で飲んじまいました。僕にもいつか息子や娘が結婚をする日が来るのかなぁと、ボーっと湯船に浸かりながら思った。

2007年6月22日Fridayくもり
仕事をいい加減に思っているわけでもないのだが。
夕べ電話があり、属す宗派の山梨宗務所長の奥様が亡くなられたことを知った。新聞のお悔やみ欄も見落としていたので、知らせてもらってよかった。今日も休みをもらっていかなければならない。今週は一昨日も葬儀の手伝い。昨日は一日帰国するALTのための諸々の手続きのために外に出っ放しだった。気が引ける思いであるが、こういう職業柄も、そして一応家の代表でもあるので、こういう付き合いはこれからも増えていくことになるかもしれない。時々煩わしさに押し潰されそうにもなるが、自分の中でうまく気持ちのバランスを保っていかなければならない。

2007年6月20日Wednesday晴れ
たいみんぐ。
叔父の檀家の葬儀の手伝いにいってきた。空梅雨の暑い日が続き、今日もそう。でもホール葬なので涼しい。今までのこの時期の葬儀は、汗びっしょりになった。早川のお寺に手伝いに行くときなんぞは、葬儀が済むと、衣や袈裟を陰干しにしてもらい、着替えて冷たいビールをゆっくりといただいたものだ。檀家の名物爺さんが付きっ切りで、僕らにお酌をしてくれて、こちらもゆっくりと遠慮なくいただいた。衣が乾いて、帰りにも手作りのご馳走をいただいて、もちろん酒気帯び運転のまま早川の道を中富へと下った。もうこんなことができなくなったが、自宅で葬儀をすることがだんだん少なくなってきたのだ。
で、今日の話。なんというタイミングの妙なのか、弔問に来た男性が、まさに焼香の番になって、香をつまもうとするところへ「ケータイ」の呼び出し音が鳴り響いた。音の主が焼香代の前に立つ男性だったのである。悲しみの中に少々の笑いを誘い、男性は顔を真っ赤にして、呼び出し音を止めて、焼香を済ませて去っていった。なんという絶妙のタイミング。まさか彼の一部始終を見ながら恥をかかせようと、知り合いが悪戯したわけでもないだろうが、困るようなぁ、こういうの。焼香の列に並ぶときにも、「電源を切るか、マナーモードに切り替えてください」とホールの職員も言ったほうがいいのかな。で、こういうことが起きると、ほとんどの人がケータイを取り出して、自分のは大丈夫かなって確認するんだよね。賑やかな音楽物は特に恥ずかしいね。

2007年6月18日Mondayくもり
ザ・バンドは大好きなバンドだったけど。
レヴォン・ヘルム(ザ・バンド)が咽頭癌を患っていて、彼のために寄付を募っているという。知名度があると、それだけでこんなことがあっという間に世界を駆け巡る。世界的にも有名なバンドのドラマーが、そんなに生活に困窮するのかとも詮索してしまうが、個人や団体から500ドルの寄付を募っているのだ。500ドルは日本円で6万円位になるらしい。これはかなり大金である。
先日亡くなった、私の心の兄は、噂によると国保の保険証すら所持できていなかったらしい。医療機関を受診することもできず、野垂れ死にのように布団の中で絶えていたのだ。愛が地球を矢のように駆け巡って、レヴォン・ヘルムは金に困らなくなるかもしれない。愛は行き倒れを救わない。愛は地球を巣食う。
日暮しの銭を稼ぎ、酒に消え、お前はバカかといわれ、ついには何も語らずに勝手に逝ってしまうことは滑稽か?。やっぱ滑稽か。んなこたぁねぇだろ。

2007年6月17日Sunday晴れ
PINK FLOYD。
昨日は丸1日。今日は午前中で自らの体を解放した。世間じゃ「父の日」であったらしい。昨日から、畑の草刈、池の周りや境内の植栽の刈り込み。本堂の掃除。まあ、僕はここの生活が好きだ。寺に生きることにためらいは今微塵も無く、ここで生きることが僕の人生の役割であったと思う。さて、いつまでやり遂げられるかはわからぬが。
夕方の酒を飲みながら、PINK FLOYDの1987年のliveDVDを見ている。先週は、NEIL YOUNGとこれと、どちらも2枚の映像もバッチリのものをDLできた。Nくんの休日の酒の友に、コピーしてあげようと思っている。DVDケースも発注してあるんだ。シド・バレットが亡くなって1年が経つ。この映像は、「クレイジー・ダイヤモンド」から始まる。デビッド・ギルモアのギターが震えながら切ない。シドも命を削りながらその代償として、ピンク・フロイドを走り抜けたのだろうか?
二日間の疲労は、今はどちらかといえば心地よく夕の風邪に癒されている。酒もいい。音楽もいい。女房は「今夜は鰻にしたよ」と言う。出不精だから、スーパーの鰻であっても、鰻に変わりはないので、僕はこれがいい。

2007年6月15日Friday晴れ
梅雨入りしたとたん。
翌日である今日は、一転夏の日になった。出かけるときには曇っていたが、昼には最高潮。清沢一周のフルコースを歩いて、気持ちよく汗もかく。オーディオ・ルームからの眺めも今日は昨日と反対。事務室は狭くて暑くて光量も少ないので、居心地はいいわけないのだが、ひとつだけ、2階なので眺めがいい。ひと月前までの支所のときは、外の眺めが全くできなかった。良いこともあったり、悪いこともあったり、どちらもどこでも半分ずつってことか。
今日は、電気屋さんが来て、エアコンの試運転なんかもあったのだ。夏突入だな。カラ梅雨なんだろうか。

2007年6月14日Thursday
護摩焚きを見てもらう。
町内の学校の先生方の研究会で、寺の見学を依頼されて、きっと余り見たことがないだろうからと、護摩を見ていただいた。
原小の児童にもしてもらったように、先生方にも護摩木に願い事を書いていただき、今日は直接炉に入れていただいた。前段は今朝修しておいたので、点火から20分余りを見ていただいた。終わって寺の由緒などを説明したが、結局1時間強の滞在となり、引き上げるときに丁度5時のチャイムが流れた。いくらかでも興味をもってくれたのであろうか、これはこれで僕としてはやりがいのあった貴重な時間であった。
雨で少々寒いくらいの本堂であったけれども、みなあったかくなって帰っていただくことができたように思う。お不動様もきっと喜んでくれた。

2007年6月13日Wednesday晴れ
夕べは久しぶりに。
T君を招いて飲む。情報交換とやらを楽しみながら飲む。送っていきながら、一色のホタルを見に行く。風が少し強く、もう9時を回っていたので、人出も少ないだろうと思っていたが、結構居るんだ。3人でしばしホタルの舞う光の描く自由な線を楽しむ。こんなことでもなければ、わざわざ夜ホタルを見たいとは思わない。
今朝は今朝で、カメラマン氏。去年ブッポウソウが飛来した情報がかなり出回っているらしく、電話で問い合わせがあったり、カメラもって早朝から来る人もある。残念ながら今年ブッポウソウはこの杜に現れない。その飛来や声を気にもせずに昨年までは聞いていたが、こんなに貴重でなかなかお目にかかれない鳥だと分かったら、来ない今年がなぜか寂しくて、来年以降もダメだろうかと案じてしまう。僕の怠け癖を叱ってくれる「ブッポウソウ」と啼くコノハヅクは居る。過度に反応しないことがいいんだろう。互い干渉しなくて、踏み込まないで、あっ今年もやってきましたねってのがいいんだろう。今日も暑い日になりそう。昨日午後県庁へ行ってきたが、甲府は暑さが違うように感じた。今朝あらためて、寺の建物の中は涼しいなと感じた。
NEIL YOUNG & CRAZY HORSESの2001年のライブDVDを、猛烈なスピードでDLできた。2枚組みである。Proshotだから画質もよい。またしばらくニール・ヤングにはまりそうだ。ブルース・コバーンも最近聞いてよかったし、カナダのシンガーは質が高い。

2007年6月11日Monday晴れ
快晴である。
テレビじゃ、東京は傘をさしていたが、こちら快晴。土日の雨をたっぷりと吸って、竹の子も伸びてきた。本堂の扉を開くと長く長く朝日が射してきた。アジサイも一日一日色を増す。洗濯物が今日はよく乾きそうだ。気温も30度近くまで上がるとか。昨日の夕方草を刈った畑から、草いきれが流れてくる。自己満足の僕はこれが気持ちいい。
こんな記事を拾った。「レノン最期の言葉は「息子に会いたい」=ヨーコさんが秘話明かす」。
(20:00) 午後5時半まで仕事なので、帰ってきてから稼ぐことがなかなかできない。それでも日が長くなったので、今日は30分ほど、道の幅の竹の子刈りと、庭の梅の木の枝を切る。その日暮らしで、毎日追いかけっこのようで、面白いんだか、面白くないんだか、感覚が麻痺してしまったような節々の痛み。

2007年6月9日Saturday
飲むは易く言うは難し。
法事。夕べで雨が上がればよかろうものに、7時過ぎには降ってくる。9時頃にはいよいよ最高潮。施主夫婦が新しい位牌と写真など持ってきて、「あんまり大降りじゃ、代表の墓参てことにするか」などと話す。僕は風呂で頭を刈る。10時半より法事。40人強の参会者。終わって壇を下りて池のほうを見ると雨が上がったのか明るい気配。墓参りの時間は幸いにも雨が止まる。こんなことがあるから、自然というものと生きている者との関係の不思議。亡者がこの時間を用意してくれたか。終わって場所を移して御斎。始めに法話。「モガリ」の話などしたが、適当ではなかったか、まとまりがつかなかった。もっとシンプルにいけばよかったか。少し悔いが残った。法話無しの飲酒はご法度なのだ。祖父・父からの遺訓。毎度のことであるが、言うは難し。飲むは易し。斎場のカプセルのような会場で、まったく外の状況分からず。雨なのか晴れたのか、寒いのか暑くなったのかも分からずに日本酒いただく。日本人は大きなもの大好きなのねと、大きな紙の手提げいただいて帰る。ひとつ済ませてホッ。

2007年6月8日Friday晴れ
コノハヅク啼く。
去年飛来したブッポウソウは、もう諦めるしかないようだ。姿はとてもすっきりと美しかった。でも、声の仏法僧は、今朝も「ブッポウソウ」と寺の杜で啼いている。自然に生きる繋がる命から、戒めをいただいているような気がしている。今朝は空が特別に青いように見える。ひこうき雲が見えて、そうだ、明日には雨になる。隣りの佐田家のおじさんの七七日忌がある。法事の時間だけでもせめて雨が控えてくれるといいが。
この寺を思える限りは、ここに対して責任があるのだな。社会保険庁とは違うもんなぁ。
(22:50)外は大降りだ。雷も聞こえる。今夜たくさん降ってしまって、明朝回復してくれると良いのになぁ。角屋のおじさんのために、いい天気の中で七七日忌の法事をしたいのにな。Warren Haynesのギターはホントにいいなぁ。年金やら介護保険やら、弱者にとっては頭の痛い、気の重くなる話が多い。せめて金曜の夜は、寝坊してもよく、音楽を聴いていようか。

2007年6月7日Thursdayくもり
1年生と給食を食べる。
昨日は学校訪問で、原小学校で給食をいただいた。1年生の教室で一緒に食べた。よく喋る子や静かに食べる子や、箸を二度も落とす子も。教師やスクールカウンセラーたちは、授業だけではなく学校生活の全体を見ながら、子どもらの心を読み取っているらしい。とても大事な仕事になる。かつて教師は聖職であり、霞を食って生きるなんて言われていたような事があったようであるが、遠くないなぁと思う。

2007年6月5日Tuesday晴れ
悔いを残したくはなかった。
きっちりと僕の満足で修ちゃんと別れたかった。午後の仕事を休んで焼香をした。梅雨の前の夏空に吸い込まれていった。時間は当然余ったので草刈りをした。修ちゃんに遊んでもらった小学校の低学年の頃を思ったり、僕が成人してから何度か会う機会があったりしたことも思い出しながら。今日も初夏のようなよい天気でよかったよね。
何にも、誰にも、約束なんかされていなくてさびしい。

2007年6月4日Monday晴れ
修ちゃんを送る。
修一兄ちゃんが亡くなった。修(シュー)ちゃんの訃報を職場で知ることとなった。55歳。幼い日によく遊んでもらった。そうか四つか五つ違いだったんだ。三吉屋に行ったときには、隣りの修ちゃんのところに行くことが楽しみだった。ご飯もご馳走になったし、小さくて、狭くて、貧しい家だったけど、すこぶる居心地がよかった。修ちゃんと最後に会ったのは、5年ほど前のタカシの結婚披露宴だった。修ちゃんと飲むことなんてなかった。多分あの、短い時間で話して飲んだのが、大人になってからの修ちゃんとの初めての交わりだったような気がする。僕を呼び捨てにする人間がまたひとり居なくなった。
通夜に行き、話を聞いたら、元気だったのに突然亡くなってしまったという。なんで、こんなにもあっさりと、さっぱりと、簡単に逝ってしまえるものだ。高校進学ができずに、山交バスの車掌から働き始めた修ちゃんを見ながら、今も大昔も変わらぬ馬鹿だった僕は、「俺も高校には行きたくない」と親に話して怒られたことがあった。好きな人やうまく付き合っていけそうな人を、どうしても選択してしまったり、人付き合いが苦手だったりする。修ちゃんとは、あの世でまた会えたら、ゆっくりと飲んで話そうと思う。修ちゃんと会えたのも、天からの贈り物だったんだ。心安らかに。

2007年6月3日Sunday晴れ
法事1件あり。
世田谷に住むSさんの法事あり。お母さんの50回忌。若大将にてあとの膳の支度をしてもらう。とても繊細な膳でみな喜んでくれる。僕も美味しくいただく。この主人は料理することが本当に好きだ。僕のいい加減はこの人の前でポキッと折れる。

2007年6月2日Saturday晴れ
結婚記念日だったんだ。
お昼を食べた後、部屋で寝転んでいると、「今日は何の日か知ってるけ?」と訊くので、わかってはいたが応えもしなかった。「よく21年ももったよね」と続いたので、こちらも声には出さず頭の中で「まあな」と応えておいた。大体は僕がわがままなので、大人の彼女の振る舞いが時間の経過で僕を静まらせてくれるのだ。こんなことが20年繰り返されているんだ。同い年の阿吽の呼吸とでもいうのか、高校のクラスメイトの気楽さというのか。ありがたいなとは感謝はしているのだ。
夕べも取り留めのない話をしたな。
午後涼しくなってから本道の裏を草刈りして、汗をかいて、頭を刈ってシャワーを浴びる。風が気持ちいい。彼女は午後5時なってから、「少し草取りをしてくる」と外に出た。こんな生活がいいのだ、これでいいのだ。

2007年6月1日Friday晴れ
六月に入る。
カルメン・マキ&OZに「六月の詩」がある。別に名人の脈絡もないのであるが。時々無性に彼女の歌が聞きたくなる。僕はやはり、古い歌が好きだ。フラワー・トラベリン・バンドなんかも年に何度か。
今朝出勤したら、Sさんが「早いもんですね、もう6月だもんね」と。確かに過ぎてしまうと早いよなと感じてしまう。一日が早く過ぎてくれればいいと思いながら、過ぎてしまえば、時の去ってゆくことが惜しくてたまらなくなる。先には楽しみもあるが、先の展望がもうそんなにないことを考えると、気分が滅入ってくることもある。
2日間、雨の午後だったので、今日の一日は晴れてよかった。昨日は雷も鳴った。昨日東京じゃ、自転車に乗った人のメガネに落雷があったのだと。命に別状はなかったようであるが、雷はメガネから右腕を通って、自転車に抜けていったのだと聞いた。
今月は、おめでたが一つある。法事が二つある。今年はブッポウソウは寺の杜に来ないようだ。朝見上げる空が青ければ、それでいいやなんて考えている。
マヨネーズが値上がりする。ティッシュも、ガソリンも。住民税もドカンと取られる。女房と結末に至らない果てのない話をする。僕は日本酒で頭がぐるぐると回っている。

2007年5月29日Tuesday晴れ
阿弥陀堂だより。 夕べのBSで「阿弥陀堂だより」見る。二度目だったが夕べもよかった。役者がみな素晴らしくよかった。北林谷栄の堂守りの「おうめ」さんは、少々狂気的な印象もあったが、シャーマンとはこんなものかと、あとになってから思い返したりした。田村高廣は、昨年鬼籍に入った。寺尾聰も樋口可南子も見る者を引きずり込む力を持っていた。
昨日、「殯(もがり)の森」でカンヌ国際映画祭(審査員特別賞)を受賞した河瀬直美監督は、娯楽として消費される作品は作りたくないと過去に語っているが、これがまたきっと難しいのであろう。本年と建て前の狭間で生きていくのが世の慣わしなのであろうか。
「モガリ」といえば、午後、教育委員の先生方を研修会に連れて行った間に、いま読んでいる「戒名と日本人」の中に、「モガリ」の記述を偶然見つけた。かつての日本人は、死を強く恐れていたあまり、死を積極的に見つめなかったようで、死体を見えないところに放置する「野捨て」を行っていたという。そういう死体は野犬や獣に食われてしまう。この状況は後になって、聖僧などが遺体を集めて荼毘に伏すことになり、これが始まりになったようだ。で、この「モガリ」。高貴な人の葬送儀礼で、「死の完成といわれる白骨化まで見届ける」のがモガリ葬法だと。「モガリ」の期間は長ければ長いほうがよいとされ、数ヶ月から2年以上にも及ぶ、モガリもあったらしい。遺体の変化をもろに目の当たりにするので、かなり強烈な葬送儀礼であったらしいが。

2007年5月21日Monday晴れ
先週末の土曜は「ラ・カーニャ」で。 上京して娘と合流し、夜は下北沢「ラ・カーニャ」で、下田さんのライブ。60名限定でも地下の店内は狭いのでいっぱい。1時間半余りの弾き語りのライブを味わう。年齢層はやはり高い。娘が一番若く、みな他はほとんどが僕なんかと同世代、もしくはそれ以上。終演後、下田さんの59歳の誕生会。内輪のお祝いのようで、この夜のラ・カーニャはライブ後は閉店。下田通信所の西谷さんともお会いして、僕たち3人はそのまま店に残って祝宴に同席させてもらう。楽しいひとときを過ごさせていただいた。「来年また行くよ」と言ってくれた。来年は還暦祝いなんだ。
下北沢は、今も昔と変わらぬ若者の街の雰囲気だ。町は大きくなっただろうが、ここの持つ思いはそれぞれに100%なんじゃないだろうか。

2007年5月16日Wednesday晴れ
雑感。 親殺しがあり、子捨てがあり、国民投票法案が可決された。教育基本法を改めて、従順な子どもたちを作り上げ、それから憲法第9条にも手をつける。安倍晋三は妻のアッキーとアイスクリーム舐めながら、「やったね」と子を持たぬ親の無責任な会話が弾ませるのか。うつ状態がどん底で、二日休んだ。職場に出たら出たで、午後には少し回復。たまった仕事がどっさりとあった。警告を発する声が余り聞こえないような気がする。代わりに改憲への靴音が、現実味を帯びて僕の頭をカツカツカツカツと巡る。石破茂は、徴兵制なんて布かないよといった。職業軍人を組織するのだと、確かにそうかもしれないが、いざ事が起こったときに、この弓の島全土が戦場になると行くことは、間違いないのであろうし、そうなれば、一般人であっても、戦いの犠牲者となることは避けられないのではないか。一体何故にこんな愚かなことを繰り返しているのか。

2007年5月8日Tuesday晴れ
大善寺藤切祭典。 暑い暑い一日になった。勝沼:大善寺の藤切祭典に出仕。朝とても道が混んでいたので、途中仕方なく一宮ICから勝沼ICまで5分ほど高速に乗った。祭りの内容が少し今年は変わったので、僕たち醍醐の法印は、昨年までのように直接関わることが少なくなった。これも時代の変化であろうし、今日実際に祭りを体験して、これはこれでなかなか良いものであると実感した。古い船も新しい水夫が新しく舵取りをしていくのだ。船はそうしてまた新しい船へと形を変えていくものなのだろう。来年このお祭りに僕が必要であるのかどうかはわからない。とてもよい天気で暑いくらい。今日は今日で藤切の祭りを楽しませていただいた。感謝。
午後7時半過ぎに帰宅。ビールを飲んで、それから8:45からのNHKニュースでの祭典の録画を見る。チラッと映っていた。喜田の姉さんと、「学校教育課のK井です」のために藤蔓も貰ってきた。ところ変われば人の気持ちも大きく変わるなというのが、毎度の事ながら、家のお祭りとこの峡東地区のお祭りの違いなのである。
往きも帰りもボブ・マーリーで、軽快に飛ばした。そういえば僕は5月に亡くなったのであったな。

2007年5月7日Mondayくもり
今日からまた日常生活に戻らなければならない。 と言っているのに僕はまた明日休みをいただいているのだ。今夕は、檀家のSさんの屋敷神さんのお祭り。6時過ぎても良いからということなんである。
昨日はだいぶ雨が降って、飛び石連休ではじめて外出。3時間ばかし。娘がバスケットボール部に入るということで、カムイ・スポーツ館まで。さすがに昨日の午前中は雨も降っていたし、連休最後の日だし、ジェットコースターの事故もあったし?、で道は空いていた。夕方娘は長い連休の帰省を終えて、学寮に戻っていった。19日に今度はこちらが上京して、下北沢での下田逸郎さんのライブへ行く予定になっているのだ。先月末の檀家の葬儀から祭典があり、片付けなんかも一通り済んで、頼まれていたお札を今日発送すればすべて終わりだ。寺が元の静けさに戻って、少し草を刈ったり、書き物をしたり、音楽を聴いたりと休みを過ごした。雨が降ってまた生活がリセットされたような感じ。
通常のサラリーマンの仕事があって、休みの日には今月も来月もチョコチョコと法事なんかがある。
ケヤキの緑はすっかり深くなった。祭典の導師を10回務めたことになり、次の10回を務めるだけの体力と気力が維持できたらいいなと思っている。

2007年4月27日Friday晴れ
葬儀終わる。 慌ただしく昨日今日と過ぎた。無事葬儀も終了。5人で葬儀をしたのは、元々檀家の少ないわが寺では、思い出せないくらい久しぶりのこと。叔父と従弟の固定メンバー+不動院、花園院のご住職。聞けば2人とも外の仕事をお辞めになったのだという。うーーうらやましい。そんなこんなで一時間の客殿での葬儀を終え、皆で感想。「やはりホール葬なんかより、いいね」だった。僕も今日はとても気持ちよく、こうあるのが本来だよなと思いながら導師を務めた。誰よりも故人がこれを喜んでくれているのだと思う。よかった。
隣りの集会所での初七日を終えて、客殿の片づけを済ませ、ついでに頭も刈ってしまう。シャワーを浴びて5時半になってからごろんとテレビ見ながらうたた寝。祭りの護摩壇用にヒノキの枝ををお願いしてあるMさんに6時15分頃電話。「おー、葬式で大変だったな、実は明日出かけなければならなくなったので、今から見に来るか」と言われ、すぐにクルマ走らせる。飲んでなくてよかった。でもホントは、初七日でコップ1杯ほどビールを飲んだ。「早く着いたな」とMさんは道沿いの檜林で待ってくれていた。薄暮のヒノキの林に、枝卸しされた枝が詰まれていた。「十分です、明日いただきに来ます」と礼を言って分かれる。別れ際に聞いた言葉が忘れられない。これはとてもありがたい言葉だった。「もうひと月ふた月早ければな」と。木にも枝打ちの時期があるのだ。で、僕はこう言った。「今が4月29日だけど、本来は3月28日がお祭りだったんです」と。これで僕も納得。柴燈護摩を行う春の祭りは、枝打ちの季節でもあり、それを利用して祭りに使ったのだ。自然のサイクルと無関係ではなかった。興味深い話であった。山に伏す修験者のこと故、自然に逆らうようなことはしないはずだ。
一日の締めくくりがとてもよい。風呂に入って、今日は早く休むことにする。

2007年4月26日Thursday晴れ
檀家の葬儀になったのである。 寺の隣りのK屋のおじさんが昨日の夕方亡くなって、ばたばたと一日が過ぎた。夕飯を終えたところに、亡くなった報せが入り、すぐに枕経をあげに伺う。実は昨日、「明日休みを貰います」と休暇届を出し、今日を使ってお祭りの準備をしようと計画していたのだ。だが、それが思わぬ展開となって、結局明日も休むことになり、今月の出勤は昨日で終わっちまった。土曜は友引なので「明日の通夜、あさっての本葬でどうか」という話になり、こちらも日延べをすることまでは考えたくなかったので、GO。夕べはなかなか寝付けずに、結局枕元で虎の巻なども参考にしながら、戒名を考え、諷誦文の大まかな下書きもしたのだった。
で、僕も女房も「まあ、ホール葬だろう」と、高を括っていたのだが、なんと「生前の故人の希望で、僧侶5人で寺で葬儀を」と、従来の葬儀を希望していたとのことで、喪主自身も「コリャしかないわ」みたいなところで、僕は更に思案。庫裏も客殿ももうお祭りモードになっている。それから僧侶4人がなかなか都合つかない。叔父に僧侶の確保をお願いする。組長なので、女房は組内へ弔事の連絡をする。今朝は朝から書き物。支所へ行き、事情を話してもう一日休みを貰う。お昼前にセレモニーホールの職員が客殿の掃除と会場作りに来てくれる。僕はパソコンと客殿と庫裏を行ったり来たり。次第を考え、諷誦文を午後3時半からの納棺の前に仕上げる。忙しい忙しい。6時から通夜。7時に帰り、片付けや明日の準備をして、残りのお札を書く。今日のところは心残りなく終わる。うーん、疲れた。こんなものだ、これが人生という奴だ。明日もう一日朝から。

2007年4月24日Tuesdayくもり
お札を書いて夜の時間が過ぎる。 夕方帰って同僚のお父さんの通夜に行く。小雨が混じる夕方は、道が混んでいる。6時半近くなって葬祭場に着くと、もう大分参列者の数も少なくなっていた。ほとんど待つことなく焼香。N君のところは曹洞宗の檀家であることは前から聞いて知っていた。喪主である彼に頭を下げ、焼香。通夜の導師がちょうど観音経の偈をお唱えしているところだった。随分とゆっくりなのんびりとしたような読経に感じた。豪傑な故人の写真が焼香台で微笑んでいた。N君ももうこれで父親と晩酌することは永遠にできなくなった。僕も十年以上の一人の晩酌である。
晩酌をせずに夕飯を食べ、食後にすぐ御札書きに励む。書きながら祭りの当日までのことを頭の中で考える。木曜日を一日休もうかと思う。金曜には教育委員会があるのだ。一日仕事のつもりで取り組めば土曜に焦ることなくことが運ぶ。庫裏の外の水道で筆を洗うと、雨の音がするので、本降りになったかと思ったが、こうしている今はもう止んでいるみたいだ。これまたのんびりとしたJERRY GARCIAのアコースティックな演奏を聴いている。意外と夜は長いんだ。

2007年4月23日Monday晴れ
土日のことなど。 金曜の夜に若大将で飲んだので、翌日の土曜の午前中はほとんど機能せずに過ごす。それでも、五大明王を新しく折ってみたりする。毎年作るのも厄介だが、せめて3年ぐらいには作り変えるか。父が亡くなって僕が導師を始めて今年で10回目になる。日曜の雨が予想されたので、外の準備も一人でこつこつとやった。明けて昨日の朝。檀家の人たち集まって祭りの準備。当日まで一週間あるので、幟の棹を立てて、護摩壇の結界の杭だけを打ってもらい、受付のテントと松明作り。女性には本堂の拭き掃除と草取り。
11時前には解散。例年お昼を出していたが、今年からお茶だけで帰ってもらうことにした、いなり寿しの二個入パックとペットボトルのお茶を付けて。雨は結局降らずに一日が終る。風の強い日で、本堂の扉は締め切りにする。僕はお札を書き、庫裏の襖・障子を外したり。ガソリンを買いにいき、今年初の草刈もする。裏の池の周りがどうにもむさくるしい。刈って汗をかいて、頭を刈って、飲んで、「風林火山」観て、選挙速報なんぞも耳にしながら寝てしまう。
昨日の朝にはこんなこともあった。歳若い檀家が集まらなくて、というか、若い衆は八日市の準備の方を優先してしまっていて。長老たちは怒っていた。本末転倒もはなはだしい。お不動さんのお祭りがあって、八日市もくっついてくるのだろうに。僕も同じ感想でした。もう少しよく理解してくれなくちゃね。

2007年4月19日Thursday晴れ
近くの山には雪があった。 夕べから今朝にかけて富士五湖では積雪があったようであるが、僕の目にする景色の中にも雪があった。山肌が白く雪に覆われていた。さまざまなことがひっくり返ったり、例年のデータなんかを覆してしまったり、愛する心を失ってしまったり。
ニール・ヤングを聞きながら歩く。ニール・ヤングはここずっとお気に入りだ。クレイジー・ホースとの演奏も良いけれど、ソロはこちらも震えるように良い。放棄された山の斜面の日当たりのよい畑に、たくさんのタンポポが咲いているのを眺めながら、ニール・ヤングを聞くのである。遥かのあの場所に思いを馳せるのである。
夕方帰って御幣を作る。本のものではなく、祖父や父が作っていた古いものを見本にして作った。これで来年もよし。御幣は神変大菩薩から相承したものであるという祓いの件がある。週末はまた天候が崩れそう。祭りの準備もあるのだが。

2007年4月18日Wednesday
寒くて冬に逆戻りだ。 3日続きの雨。でも今朝は小降り。肌寒い。暖かいトックリのシャツを中に着込んだ。こんな日が続けば、気持ちは萎える。
娘が居た頃は、夕食が済むとたいてい僕は部屋に戻って、パソコンをしてすぐに風呂に入って布団の中で夜を過ごすことが多かった。ちょうど今はお祭りの前で、御札の申し込みがあるので、夕食後に墨をすって食卓で書いている。米国のバージニア工科大学で銃の乱射事件が起こったことは知っていたが、夕べは、長崎市長が暴漢に銃撃されるという悲劇を知ることとなった。今朝方亡くなったそうであるが、重いニュースばかりである。これを「欧米化」というのか?銃は、刃を交え互いの呼吸を感じることよりも、あっさりと事に決着がつけられるのかもしれない。互いの逡巡を待つ(望む)(読む)ことをもさせない。武士や騎士には、交える間に相手を許す感情や止めようとする心も湧いたかもしれないなぁと想像する。銃の社会は、結果がすぐに出てしまうので、引き返せない。後悔することの多々ある者らにとっては、とんでもない代物であるように思える。

2007年4月16日Monday
今日もまた雨の一日、嫌になる寒さだ。 午前中には雨になった。支所は寒い。ストーブの使用ももう抑えてきているので、灯油が切れている。寒くても“おしくらまんじゅう”しながら我慢するしかない。僕は貧乏ゆすりが止められない。
わが町の小学校はいささかずれが生じているようで、今日もインフルエンザで学級閉鎖措置がされた。先週も2校あった。まあ、13人のクラスのうち11人が休んでます。学級閉鎖します。1クラスしかないので、必然的に学年閉鎖ですとなる。
昨日、木を運んだりした疲れが出たのか、今朝は6時過ぎまで熟睡。雨になりそうなので、本堂はお勤めを済ませて今日は堂を開けず。雨が続いても、29日に晴れてくれりゃいいやと思う。

2007年4月15日Sunday晴れ
やっと少し書く気持ちがもどったような。 土日でお祭りの準備も大分はかどった。柴燈護摩壇の下準備も済ませた。製材所で端材をもらっていたが、4年位前から裏山から、立ち枯れの木を引き摺り下ろして護摩壇を作っている。山に立ち入らなくなって久しい。フィールドアスレチックなんかもあったのだ。今裏山を闊歩するのは獣だけだ。イノシシが歩き始めた山は、少し登ると独特な獣の臭いがする。動かない重い臭いに背筋が寒くなる思いも湧いてくる。落ち葉の道をわざと音を立てて歩いていく。雑木林に入り、立ち枯れの木を何本も根元で切ったり、折ったりして、午前中何往復もして本堂前に下ろした。余ったもので護摩木もたくさん作れた。女房は午前と夕方草取りをする。二人で黙ってする静かな時間だけど、祭りに取り掛かる気持ちを少しずつこうやりながら作っていくのだ。
昨日はお不動様や信玄像の撮影がひとつと、県立文学館の学芸員のKさんも来山。隣りの資料館の鍵を預かることになったので、早速展示室の除湿機の溜まった水を捨てる。八日市の会場図面を区長・副区長と確認。30回目の八日市。よく30年も続けたな。感心。
今夜、「区会議員・組長会議」に出る。今年3組の組長。他所の地区に誇れるような時代物が一つここの地区にはあった。「ハエ・蚊の一斉消毒」。夏場3回、ミケゾールを薄めて散布してまわるのだ。天秤棒で薄め液の入ったでかいバケツ担いで、手押しポンプをあおって散布する。今こんなことをやっている地区はここ以外ありません。今夜そのことに反対意見を述べようと思っていたが、最初に区長の挨拶の中でこの件が出てきたのだった。で、僕は用意しておいた意見を述べたら、何人か同じ意見で、結局終息宣言が出たのだ。意外とあっさりと「おしまい」の結論が出てしまった。帰って女房にこのことを告げると、「よかったぁー」である。若い人たちには不評だったもんなぁ。でも、みんな言えないんだよね。
今夜の「風林火山」はたった今午後10時から。富山のノブ君からケータイにメールあり。風邪だとか。明日はまた天気が崩れるという。
金曜の宿直で、「神祇講式」を読んだが、今だから分かるようなところもあったし、何せこの長い読み物を、過去にはすらすらと読むことさえできなかったのだ。清瀧権現での恥ずかしい昔だ。

2007年4月10日Tuesday晴れ
神祇講式を読むぞ。 新聞の配達が遅くて、出かける前に読むことができないでいたが、配達してくれるだけでもありがたいのでそれ以上のことを訴えることは控えていたが、年度が改まってから少し早くなって、7時過ぎには配達されている。これで目を通すことができるようになった。長く続いて欲しいと願っている。寒いときや雨の日は、きっといやだもんなぁ。
もう随分と読むこともなかったが、毎朝法螺貝を吹いていて、今朝不意に「神祇講式」を読みたいと思った。朝々に自分の得たいもの覚えたいものなどを混ぜながらお勤めをしている。一つずつ確かに覚えていくと、しっかりと頭の中に引き出しが増えていく。これがある限りボケてもいられないのではないかと思っている。多分死ぬまで行き着くところなんてないのだから。
「真言密教は、国家神道などの過激な思想とはっきりと一線を画す一方で、本来のおだやかな神道の信仰とは融和し、密教の理念のもとで神々を敬い」という、大法輪に書かれていた一文で潤ったな。

2007年4月8日Sunday晴れ
BOOK-OFFは高い。 甲府:華光院のお祭りの帰りにBOOK-OFFに寄って、何かないかなぁと漁った。Amazonでカートに入れてある「梶芽衣子全曲集」があったので、これは掘り出し物。でも2600円は高い。DAVID BOWIE/ALADDIN SANE。SANTANA/Welcome。3枚買う。でもどうも他のも見たが、高い。もっと安くなきゃOFFじゃねぇじゃねぇかの疑問。まあ、ジャケット開いて梶芽衣子の写真見てるから許すか。アラジン・セインもよく聞いたなぁ。ユキエさんは、ビートルズより、ストーンズだったり、ボウイも早くから聞いていたよな。ALADDIN SANEは1972年releaseだから35年前。Mike Garsonのピアノがとても前衛的でものすごく印象に残ったけど、今日聴いてもこれは褪せてなくてとってもいかす。ストーンズの「夜をぶっ飛ばせ」のカバーがこれまた秀逸なんである。
そういえば、ガラッと変わるけど、夕べの「フォークの達人」友川カズキもよかったな。ビデオに録ったりしない分だけ、一生懸命見ちまったよ。彼もフォークの前衛的歌い手だ。

2007年4月7日Saturday晴れ
普通ならまだやる気にならないんだけど。 身体の調子が悪かったので結果得したというのか、落ち着いてじっくりと一日お札を書いて過ごした。檀家と寺院の分と、いま申し込みのある分を書くことができた。まだまだお札を書く気分になんて例年はならないが、今日は特別だ。その分だけ後が楽になった。
境内のサクラはもう終わりになる。ご朱印ひとり。春の遍路がポツポツとある。頭を刈ってシャワーを浴びて出ると、雨になっていた。信玄公祭りの夜は雨になる確率が高い。でも明日は大丈夫。甲府:華光院の祭典。稚児も出て、お昼には終わるので甲府の昼前は風も少なくていいのだ。護摩の火も大きく上がるけど大丈夫。
僕を呪い殺すと言い放った奴から電話があったのだと女房から聞いた。どうやら呪いの縄がほどかれたようでよかった。山吹色のような小便が出て、身体は何日か呪詛のダメージを受けていたのかもしれないな。俺を呪っても仕方のないことが分かったんだな。冷静になって考えてみりゃわかるってもんだ。こっちも“ホッ”だぜ。

2007年4月4日Wednesday晴れ
温度差があって、身体が慣れない。 夕べも夜まで付き合うとなんだかもうぐったりとしてしまう。気温が低かったり急に上昇してみたりで、身体がきつい。
年度初めでやっつけ仕事がいくつかあって、それだけにゆっくりと関われずにいるので、そのストレスもあるのか。明日は一日中「期日前投票事務」に拘束されるので、今日は片付けたいな。
お祭りのことも頭の3分の1くらいに膨らみ始めてきている。娘の入学式から帰った女房とゆっくり話もしないけど、寂しい気持ちは結局日々の暮らしで薄めていくしかない。ここんとこパコ・デ・ルシアとか聞いてるんだ。なぜかかけっぱなしでほっとするような心地になれる。空の青さがハッキリしてきて、朝日が熱く頬にあたる。さて。

2007年4月3日Tuesdayくもり
大学の入学式だ。 夕べ7時過ぎに女房と娘から電話。無事に入寮を済ませ、夕べは今日の入学式に備え、2人で近くのビジネスホテル泊まり。
茨城の方との同部屋となったようで、隣り部屋の方は静岡出身で、買い物をしていたらそのお母さんから声をかけられたそうだ。皆一様に少々の不安を親も子も持っているようであるが、大勢の入っている寮なので、履修のことなんかでも随分と助かるのではないだろうか。今朝は曇りだ。
昨日僕の方は、宿直明けの年度初め式で、家に戻らずにそのまま教育委員会の人事発令などに関わった。県議選の期日前投票も始まっているので、そちらの仕事に就く者もいたのだ。
昼は正風軒でチャーハン。今日も弁当ナシなので、なんにするかなぁ。午後からは異動教職員の挨拶があり、教育委員会の年度初め式があり、夕刻からは学校管理職の歓送迎会がある。
昨日から仕事が午後5時30分までとなり、午後4時半になってから「ハローワーク」へ雇用保険の手続きに出かけたりした。5時に終えて5時15分に帰るのと、正味5時半までとでは随分と違うような感じだった。
冷たいご飯を温めて、「あけがらし」とインスタント味噌汁の朝食。女房と娘は、また今朝は今朝で少し緊張しながら、ホテルの朝食を取っているのだろう。彼女の大学生活を守り給えと、僕は今朝のお勤め。

2007年4月1日Sunday晴れ
それぞれの未来にまっすぐに進め。 息子は夕べ帰ってきて、今日免許の更新をするために午後早々と女房と娘と出かけてそのまま相模原だ。娘は明日入寮式、あさって入学式のため上京する。今夜が最後の夜になるも、ぼくはこれから宿直である。
暖かな一日の終わりの時間になって、空が少し曇ってきた。法螺貝を吹き、本堂を閉める。
お祭りへの案内を今日発送。少しずつすることを片付けていく。西海さんが奉納してくれた弓の弦が切れてしまったので、少し考え込んでいたが、案ずるより何とかで自分で修理した。もう12年も使っているので弦のテグスも古くなっていたのだ。3本とも新しくする。これでよし。

2007年3月29日Thursday晴れ
もう残りは3日間だ。 娘の転出の手続きをし、夕方には急逝した同僚の息子さんの通夜に向かった。春休みに入ったということもあるのか、高校のクラスメイトや同級生なども多く弔問に訪れていた。国道沿いにある葬祭場は薄い闇に包まれ、国道を忙しなく行き交う車のライトや騒音と対照的に、読経は聴こえるが、ここだけ異空間のような静けさも感じた。同僚夫婦の泣きはらした顔には、まだ困惑の表情も残っているようであった。この2人の気丈に振舞う姿をもうこれ以上見て入られないと感じた。焼香台の小さな遺影は高校2年生の彼の笑い顔があり、位牌には行年18歳とある。
なんとこの生きている世界の割り切れないことか。なぜ強く生きようとしている者を連れて行く。何もないのであるなら、なぜ命あるものなどこの世に生み出したのだと問いたくなる。僧であってもこの不可解な事象の前ではまったくの無知で無力であるのだ。
大きな悲しみがあれば、反対に大きな喜びがあり、喜怒哀楽は四六時中世界を駆け巡っている。どんな言葉をもっても解決には決して到らない。

2007年3月28日Wednesday晴れ
サクラの時期には悲しいことも多く起きてしまうな。 植木等さんが亡くなったというニュース。地震による災害も発生。夕べ布団の中でテレビを見ていたらケータイ。「桜の花が咲く時期は訃報が多くて嫌だね」と。また一つ僕のところにもこんな報せが届いた。
心ときめく季節でありながら、桜の花びらの色には、うすーくもやもやとした、言葉では言い尽くせないようなさびし色がある。3月の末から4月上旬にかけて、この10年くらいの間に何人もの大切な人を失った。
娘は今日大学の寮に向けて荷物を発送するのだ。親としてはこれだけのことでも、何か少し寂しい感じがある。入寮のために転出もして、渋谷区に住民票も移さなければならないのだと。これも少しさびしいことではある。「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」とある。新しく芽吹くあらゆるいのちをいつくしむ時節なのだ。僕たちはこの時期を大切にしなければいけない時期としてとらえ、いのちのことを改まって考えてみるべきなのかもしれない。

2007年3月25日Sunday晴れ
晴れ間が覗いてきた。 昨日の夕から昼過ぎまで雨であった。乾いていたから、寒くはなく暖かな雨で、インフルエンザの流行もこの雨で少し静まるのではないかと。
女房と娘は大学の寮への荷造りで忙しい。それからクルマの免許の筆記試験がまだ残っているのだ。こちらも大学に入る前に是非受かってしまって欲しいところ。
甲府の玄法院の春の祭典のお手伝いに行ってきた。雨が残っていたがびしょ濡れではなかったが衣はかなり雨を吸った。先週の西光寺での護摩のときの火の粉で、頭の頂が火ぶくれになっている。法弓の大事を受け持つ。初めてであったが何とかやり過ごす。昼食をいただいて、お土産をたくさんいただいて帰ってきた。途中コジマに寄って、DVDケースとプリンターのインクと娘にメモリー・スティックを買う。抽選で千円の商品券が当たった。年度末で家電の店は混んでいる。息子の時は相模原で、テレビ・洗濯機・冷蔵庫などたくさん買ったが、娘は4年間寮暮らしでいいとのことなのでこの点は助かった。でも結構たくさんのダンボールが部屋の片隅に詰まれて、送られる日を待っている。
雨が上がり少し晴れ間も見えてきた。枝垂れは満開である。他の桜もポツポツと開き始めた。
玄法院の居間で昼食をいただきながら、華光院のご住職と少し寺の行く末を話した。何処も同じような悩みは尽きないようである。「再来週は、うちのお祭り頼みますよ」と言われて、「ハイ承知していますと」応える。「お父様には僕の寺の29日もお願いします」と、僧侶として、寺としての行く末を案じながらも僕たちは、寺を楽しむことを今現実のこととして支え合うのだ。

2007年3月22日Thursday晴れ
下田逸郎Live盛会に終わる。 来てくれた人、僕の家族、それから下田さん本人を入れて、ちょうどぴったり30人。でもこれだけ集まってもらってよかった。ちょうどいいという表現が当てはまる会場。客殿の奥の間に雛壇があって、その前に下田さんが居て、扇型に皆が座る。当日の午後会場作りをしたのだ。彼は視覚にもこだわり、和紙の行灯なんかを出して雰囲気作り。暗くなり始めてからもう一度灯りを確認。「少し明るすぎるから、ひとつは障子の外に置いて間接的にしようか」とか。
僕の友人や、女房の友人、娘の同級生も来てくれて1時間余りのライブ。ナイロン弦のギターの弾き語り。生の声。旅の話や唄の話も織り込みながら、僕たちは下田逸郎を間近に眺めながら、或いは芋焼酎を舐めながら、或いはビールを飲みながら、恋の唄を聴き、贅沢な時間を共有した。「あと2曲で終ります。2曲目はアンコールだと思ってください」と、そして終った。短いような感じもあったけれど、弾き語りなので、1時間の間でもたくさんの唄を聴けたのだ。下田さんが部屋に戻った後、僕が少し話しをしてライブは終了。その後は宴会。ほとんどが女性だったが、飲める人は酒を飲んだ。毎回来てくれている山宮さんに「乾杯の発声」をしていただいた。彼からも少し興奮しているような余韻がこぼれた。
なんて良かったんだろう。学校給食のリーダーは、「宮本輝を今読んでいて、下田さんの歌と小説の情景が重なるようで、とてもよかった」と話してくれた。お母さんの手打ちうどんを持ってきてくれた喜田の姉さんは、最後まで残り、この夜はいつもより深く酔っていた。早く帰らなければならない人たちも、寺から駐車場までを歩くとき、下田さんの唄を頭の中で反芻しただろうし、きっと寒くはなかったはずだ。
「焚き火」で十分に満足した下田さんの、俄か寺男はとても似合っていた。ズボンは火の粉で穴が開いた。「この場所はいいよ」「また来たい場所になるはずだ」というようなことも言ってくれた。
翌朝、10時前の電車で東京に向けて出発。僕たちは、下北沢の「ラ・カーニャ」で何ヶ月か先に再会することを約束した。その時にまた次のことを話そうと。下田逸郎はいつも歩いていて、いつも新しい歌を作り続けている。60を間近にした男は、「まだ50だろう?」と、僕の曖昧を見抜いていった。
昨日の午後は、彼岸の法要だったが、檀家が一人しか来なくて、母と女房と4人。それでも決めたことだから、しっかりと勤めて、法話もした。誰も来なくても仕方がないわけで、超然といこうと思えたのだ。僕は寺と遊ぶのです。

2007年3月20日Tuesday晴れ
下田逸郎さん到着。 ゆっくりと話をさせてもらって、芋焼酎飲みながら楽しい夜を過ごさせていただいた。BGMは「下田逸郎」であった。
女房と娘も一緒に、娘が4月に行く大学の周辺のことなども教えていただく。旅する人の話は盛りだくさんで面白い。
彼は「焚き火をしたい」という。午後は風が強くなる時期なので、午前中なら大丈夫だと応え、きっと、僕がこれから小学校の卒業式に行っている時間に、ゆっくりと起きだした下田さんは、山から枯れ枝を拾ってきて、今夜の唄のための焚き火を始めるのだろう。
今日も暖かなよい天気になりそうだ。余り大勢が来てくれるとは思わないけど、きっといいライブになります。

2007年3月19日Monday晴れ
下田逸郎さん到着。 僕のたわごとをよく聞いていただきまして、ありがとう。夢のような気分で駅に迎えに行って、下田逸郎in DAISHOJI。明日の夜は、僕たちの心に残る歌をたくさん歌ってくれそうです。

2007年3月18日Sunday晴れ
くたびれた。 掟破りということでもないだろうが、お祭りをふたつ掛け持ちした。昼に八田の長谷寺の観音祭り。午後2時ほんのちょっと前に終わって、修験の衣体のままクルマを運転して市川三郷まで戻って西光寺で、3時からのお祭り。午後4時から柴燈護摩となる。瀧本院、松鶴院のお2人には例年以上に今年はお世話になった。風の少ない日だなどと思っていたら、護摩壇に点火してからは風が舞い降りて、導師の僕にも風が思い切り当たる。頭皮はもちろんのこと、袴の前も上衣も、背中も火の粉を受ける。めっちゃ熱くて、それから痛い。それでも終わった後の爽快感は格別なもの。狭い道場でも、地域の人たち大勢集まって火渡りもしてくれて、これは一番ありがたい。
掛け持ちはちょっときつかったけど、いい経験。帰ってきて八田のお祭りはNHKのニュースで僕もちょっと画に出ていた。今日はお祭りで酒をいただいていなかったので飲む。「あけがらし」も今日届いていて、ラッキーな酒の肴。
下田逸郎さんの荷物も到着。彼岸の入りで寺も少しウキウキ。明日は夕に下田さん到着であります。

2007年3月15日Thursday晴れ
こんなところで唄ってもらおうと思ってます。 下田逸郎さんのライブが迫ってきている。客殿に雛を飾って、女房はその前で唄ってほしいという。それがいいと、僕も娘も賛同した。
下田さんは、前日の夕に電車で来ることになっている。「何を飲みますか?」と、下田通信所へお聞きしたら、何でも食べます。酒は“芋焼酎”ですという返事だった。僕らも芋焼酎が大好きだ。
来週の火曜あたりは枝垂れサクラが見頃になるかもしれない。
夕べも、じっくりと墨をすって塔婆を何本か書く。祭典のお札の申し込みもある。春になってか、別問題なのか、心穏やかならずの電話が飛び込んでくることもある。
(23:10) 明日の朝も寒いんだろうか?ここ何日か朝がホントに冷えて寒い。頭も首筋も冷たくてならない。もう明日になってしまう時間だが、今日は教育長も課長も風邪で休んだ。二人ともかなり高熱のようだ。小学校の1校でも、学級閉鎖にするという。卒業式の予行ができないなんて話も出ていた。僕の風邪や花粉症?の兆候は静まりつつある。くしゃみもほとんど出ない。何だったのだ。明日は3月議会の委員会審議があるので、午前中本庁詰めだ。それが終われば、祭りとライブだ。髭が伸びた。

2007年3月15日Thursday晴れ
こんなところで唄ってもらおうと思ってます。 下田逸郎さんのライブが迫ってきている。客殿に雛を飾って、女房はその前で唄ってほしいという。それがいいと、僕も娘も賛同した。
下田さんは、前日の夕に電車で来ることになっている。「何を飲みますか?」と、下田通信所へお聞きしたら、何でも食べます。酒は“芋焼酎”ですという返事だった。僕らも芋焼酎が大好きだ。
来週の火曜あたりは枝垂れサクラが見頃になるかもしれない。
夕べも、じっくりと墨をすって塔婆を何本か書く。祭典のお札の申し込みもある。春になってか、別問題なのか、心穏やかならずの電話が飛び込んでくることもある。

2007年3月14日Wednesday晴れ
内申書書き。 昨日で固まった教職員の異動の「内申書書き」という作業に午後から行ってきた。14校もあるので、退職される先生なども含めて大勢。「出」の先生、「入り」の先生などしゃべりながら、書き手とチェックする役とかしながら、2時間半ぐらいかかった。学校も町が合併したりとか、児童生徒数の減少などによる学校の統廃合のあおりを食って、教頭や校長の数が減ってきているので、管理職の登用試験を受けても、非常に狭い門になっているようだ。学校へ求められる要求は増えて、その対応には苦慮するようであり、何処も窮屈に生きることを余儀なくされてしまう。別に飲んで遊んで公務員なんて生き方を求めるわけではないが、僕が思い描く像ってのは、なんか少し違うんだよなぁ。

2007年3月13日Tuesday晴れ
所詮異邦人のような居心地の悪さ。 今日もまた昨日の話になってしまう。
たまたま職場に訪れた方の相談を聞いていたのだ。話の詳細は省くが。その方の檀那寺は数年前に住職が亡くなり、今は無住だそうである。多分近くの寺院が兼務住職をしているのだと思うが。その方の話を聞いていると、まさに気が重く切なく胸の詰まる思いがしてきた。「住職なんてものは関係ない。檀家の役員が決めればいいことで、住職なんてものは住まわせてやっているのだから」であった。
書いたこの話は私の寺のことではないが、僕自身も最近特に感じてしまうことがある。寺と檀家という関係にはやはりそれなりの溝がある。「住まわせてやっている」という感覚は、僧なんてものも「どうせ無宿者」の範疇で捕らえられているのではないか。長く住んではいても所詮この場所で僕たち寺に住まうものは、エトランゼである。確固とした理由や言い訳があるわけでもないが、精一杯にこの寺のために尽くしている(と自負しているのだが)にしては、なんか微妙な居心地の悪さがある。
この気持ちの先や果てまで今考えても仕方のないことだが、この先も、もち続けていかなければならないことは確かなのだ。

2007年3月12日Monday晴れ
風林火山見ながら眠りの井戸に引き込まれる。 不動寺の20回目の春の祭典。矢来の雨も9時前には上がって、好天気になる。Windows VistaとiTunesの相性の悪さから、iPodshuffleが再生不能となってしまい、僕の知識ではどうにも解決ならなくなってappleに電話する。日曜でもやってるんだな。で、結局新しいものと交換してもらうことになる。出掛け前にこんなことで時間食ってしまった。でも結果落着。不具合は3月5日のiTunes7.1でも、完全OKversionではないので使用を控えてほしいとのことであった。
不動寺の祭典も20回か。僕も20歳若かったのだな。御詠歌を奉納してくださる方々も、失礼ながら声が出なくなったり、それ相応にお年を召されている。寝たきりになってしまった方やお亡くなりになった方もいる。祭りは年をとらないが、それに関わる僕たちは毎年毎年移り変わりゆくものなのだ。炬燵にあたって、孫の話に花を咲かせる会話の渦に僕も知らず知らず居場所を見つけたりするのだ。
帰ってきて、軽く飲んで軽く食べて風呂に入ると、もう布団にもぐりこみ「風林火山」を待つこととなった。風林火山後に或る方から電話が入るから頼むねと言われていながら、僕は重く眠り王子となってしまった。あな不覚。

2007年3月10日Saturday晴れ
墨をすってゆっくりと塔婆を書く。 気持ちが休まって、安い塔婆だけども墨ののりもよい。3本書いた。少しのゆとりがこんなにいい結果をもたらしてくれる。不思議なものだ。自分で見比べてみても一昨日の夜書いたものよりはるかにいい。
蛙がもう鳴いている。一日中鳴いている。早く急ぎ足で春も自然も植物界も動物界も。お不動様は今年の春をどんな風に受け取っておられるだろう。明日はおじの寺、不動寺の祭典。天気がよければいいが、今夜崩れるかもしれないという。

2007年3月9日Friday晴れ
朝が寒くて寒くて。 7時半ちょっと前、向かいの山から朝日が昇れば温かい。昨日も今朝も明け方前からもう首筋や頭が寒くて目が覚めてしまうのだ。起きてからも指先にさえなかなか温見が戻らない。本堂も寒い。この感覚は俺だけなんだろうかと、家族にさえ問えずにいる。「どこか悪いんじゃないの」なんて云われるのが落ちだ。
安倍晋三の支持率は下がりっぱなしだなぁ。アメリカにさえも反感を買うようでは先が見えたか。彼の発言には恥というものがない。あくまでも私感ではあるが、言葉に慎みがなく回りへの配慮にも欠ける。彼は彼の思うことを言葉に出してしまう。他人に指摘されても、それを過ちであったとか認めることがきっと嫌なんだ。
法螺貝がよく鳴らなければ、次はよく鳴るようにと、僕は自分の与えられた役をしっかりと精進することだけだ。夕べ墨汁で書いた塔婆が滲んだ。液が薄かったのかもしれない。墨の成分が下に貯まっていたのかも知れない。墨汁であっても色の濃さを確認して薄ければ墨を擦って濃くしなければいけない。夕べの反省だ。

2007年3月8日Thursday晴れ
Windows Vista。 せっかく新しいものが出るのだからと、vista搭載のノートを娘に買ったが、これがなかなか手に負えない代物である。まったく新しい使いようになっていたり、今までの呼称が変更されていたりする。これは使いながら彼女が大学生活の中で覚えるしかない。きっと、あっけなく覚えてしまうんだろうけど。僕の固まりつつある頭は、なかなか新しいものに順応できないし、新しいものに挑戦したくない気持ちが先にたってしまうのだ。vistaを僕が必要とするときもくるんだろうけど、まだまだ嫌だなとか、職場でもこれに変わるときは皆戸惑って2歩進もうとした足が、5歩くらい退いてしまうような予感がする。
割り込みね。「丸山和也弁護士(61)が8日、立候補届け出書類を入手していたことが分かった」なんていう画面が覗いているではないか。ホントかよ。
vistaはより慎重になっていて、iTunesのインストールにも手こずった。いまさらアナログに戻れない吊り橋の真ん中で困っているワタシ。

2007年3月7日Wednesday晴れ
どうやら今年は。 花粉に悩まされそうな兆候が現れてきた。2月の末から少し感じていたが、ここ数日いつもの年よりもくしゃみや鼻水がたくさん出る。目も少しかゆい。昨日なんかも歩いてきてから午後の仕事が始まってしばらくは鼻をかみ続ける。目の前に居る同僚が相当に花粉に敏感な奴なので、今年は去年よりは多いことは多いようだという情報を聞かされてはいたのだが、こんなに僕にも顕著に現れるとは。お陰様というか、飲んで鼻づまりになって生きている不快感を味わうことはないのだが。
体が季節の変化の格差に順応できていないのだろう。昨日はぬるい朝だったが、今朝は冷たさを感じた。今は朝日が昇った。大地に生きている生き物たちは僕なんかよりはもっと大変なんだろうけど。雪のない冬のしっぺ返しはこの後必ず僕らの身の上に降りかかってくるのだ。巷では、ガードレールや鉄筋なんかの盗難が頻発している。中国の北京五輪や上海万博準備の関係で不足しているらしい。お墓のステンレスの皿や花立なんかも盗まれてしまうのだと。こんなこと誰も考えてはいなかったのに。時代が急ぎすぎて、気がついたら僕は実際には知らないけれど、終戦直後の鉄くず拾いの時代に戻ってしまっているようだ。そういえば僕がまだ小学校に上がる前、記憶の中に、「赤(銅線)は金になる」なんて年上の友達から教えられたような気がする。

2007年3月5日Mondayくもり
生暖かい風強い月曜の朝。 昨日は好天気で、梯子を掛けて屋根に上がって樋の掃除をしたりしたが、今日は天気は悪くなるらしい。昨日はTシャツ1枚でほぼ一日を過ごしていたが、今朝は喉が痛い。風邪を引いたのか。本堂から帰って今、くしゃみの連発だ。風が強いので今日は本堂は開けないでおく。
来週から日曜はお祭り続きである。その準備やらを土曜にも。女房はお雛様の居る場所で下田さんに歌ってもらおうと、客殿に雛を飾り始めた。これもいいかもしれない。僕はポスターのようなものを和紙に印刷した。
今夜は3月最後の宿直。気温が上がったり、少しまた寒くなってみたりで、体が季節に馴染まないのだろう。目がかゆかったり、少し僕も花粉に影響されてる。高校受験生は今週入試がある。お不動様に願をかける者も何人か居るようなのだ。

2007年3月2日Friday晴れ
通信表。 娘の高校の卒業式が終わって今朝のことであるが、昨日最後にもらってきた通信表を見てくれということであった。「もう見なくていいじゃねぇか」というと、2人とも不満そうに、女房は「最後にがんばったから見てやってくれ」という。押し出されてしまったのだからもう成績がどうのなんてのにはこちらは興味がないが、それでも覗いてみると、見て欲しいのも頷けるほどの数字が並んでいた。
昨日の朝は、3年間朝の駅までの送りをお世話になったTさんが、最後の迎えに来てくれて女房は礼を述べて送り出したのだ。
紅梅は木の上部にだけ花が咲きほとんど花のない木になった。とうとう今年も盛んな花を眺めることはできそうもない。これも命あるものとしての宿命なのだろうか。一度に僕の上にこんなことが打ち寄せてきているように、大変心重く受け止めているのが今の僕だ。僕の心のうちにも大きな波や小さな波が絶えず寄せては返している。3歳までに性格が形成されるのだとしたら、僕の生後三年は一体どうなっていたのだと、思い出せない記憶にまたあせってしまう。
3月に入りました。下田さんのライブも何とかお客さんが望めそうな感じかな。20人くらい。まだもう少し入ってほしいところです。

2007年2月27日Tuesday晴れ
今夜は牧丘へ。 明日も天気がよいといい。「風林火山」ブームが少しずつ盛り上がっていているようで、上求寺には今年もCATVの取材が入るのだという。小さな寺はこんなことでもなければ、ほとんど世間に気にかけてもらえるようなことはない。私の寺とてそうである。拝観希望が平日であるのは大変に困る。サラリーマン坊主には、仕事を休んでまで拝観に対応するゆとりもメリットもない。止むを得ずお断りしたりすることもある。大概は不動明王の開帳を希望するのだが、こればかりは家族にも任せることをしていないので、先方はかなり残念がる。仕方が無いと思う。私の生きることと僧侶であり続けることは同じ道にあるので、サラリーマンであることも致し方のないことなのである。

2007年2月26日Monday晴れ
沖縄じゃ冷房なんだそうである。 夕べというか日付が今日になった時間に2人が帰ってきた。沖縄からの帰りの飛行機に遅れがあったので、新宿を9時の電車になったという。僕はもう寝たので、朝食に少し話をきいた。今朝はまたちょっと特別寒かったな。そんなこともあったので、余計ギャップを感じたのかもしれないが、沖縄はホテルもクルマも冷房が入っているという。こんな小さな国でもこんな風に違うものなんだな。
女房はもう現実に戻り寒い外に出て洗濯物を干している。外はよい天気になって青い空だ。沖縄の青い空に負けない空だとは思うが。

2007年2月25日Sunday晴れ
少し寒かったぞ。 風も冷たくて梅の花はここ何日も足踏みだ。老木の紅梅は木に力がないのかなかなか花を開くところまでいかない。どうも今年は花の数も少なそう。老木を再生させてやるだけの力も僕にはない。いくらかの肥料を施し後は祈るしかない。
洗濯をしてお勤めを済ませ朝飯を食って、今日はダラダラと過ごさないで、体を促して竹林の整理に午前中過ごした。今年は雪のないおかげで雪折れの竹はなく済んだが、何年も前の雪折れの竹の根からの腐りが始まっているようで、何本も風で倒れ始めた。竹林を傘を差して歩けるようにするには僕のこれからのライフワークになってしまう。真っ平御免だ。
今をどう切り抜けていくかだ。28日に上求寺へ行く修験の衣体などのしたくも済ませた。頭もさっぱりとした。やっぱdeadいいなぁ。

2007年2月24日Saturday晴れ
懐かしい店でおにぎり。 秋山さんがなめこのほだ木を持ってきてくれた。♪な〜めこ。な〜めこ。みたいな感じね。いつ生るのって聞いたら、来年の秋だと。そうか、そんなに待つんだ。元気で居なきゃな。なめこは猿が食わないのだと。椎茸は食うのにな。ねばぬるが気持ち悪いのかな。
長谷川きよしさんを聞きにいって、岡島で「レコード・コレクターズ」買って、晩飯は米を食おうと、おにぎり屋に入った。結婚する前に女房と何回か入った店で、その頃はビールを2本くらい飲んでおにぎり食うのが当たり前だったけど、今夜はなめこ汁とおにぎり5個。おかか・昆布・わさび漬け・鮭・たらこ。結構腹いっぱいで、でも懐かしさで食っちまったんだなぁ。

2007年2月23日Friday晴れ
沖縄は暑い。山梨は寒い。 朝5時半に起きる。いつもはもっと遅いが今朝は一人なので起床。雨は降っていない。6時ごろに降り始めた。台所でストーブを点けて、ポットの湯をやかんに移してストーブの上に置く。味噌汁とカレーを温めなおして朝飯となる。
昨日から今朝のニュースで印象に残っているのは、建築家の黒川紀章が都知事選への立候補を考えているという報道。皇太子の47歳の誕生日が今日であること。鹿児島県志布志市の公選法違反に問われている被告12人に対する判決が出されるという件。公選法違反事件については、被告全員が無罪判決を受けたという。警察が自白を強要したり、踏み絵ならぬ「踏み字」をさせたりしたらしい。奄美とかあっちの方じゃ、いつも選挙なんかでは住民を二分するような土地柄だと聞いたことがあるが、鹿児島あたりでも、似たようなことがあったんだろうな。
昼前に娘からメールが入った。沖縄は“めっちゃ暑い”そうだ。こっちは寒いので、下部温泉街に出向いて「あ○○や」という掘建て小屋のような食堂で「天ぷらうどん」であったまってきた。でも天ぷらもたくさんあって、安かったかも。
仕事を終えて変える頃には雨が上がる。沖縄からの乾いた風が吹いてきた。夜は「若大将」で。

2007年2月22日Thursdayくもり
一日をもう終おうとする。 女房と娘は沖縄へ出かけた。日曜日までのんびりである。夕飯を済ませ風呂に入り、もう一日の幕を下ろしてしまうこととする。帰ってきてからずっと、「BUDDHIST CHANTS & PEACE MUSIC」が流れている。何年もこんなに心地の良い音楽に出会ったことはなかった。先週全くの見ず知らずの飛び込みサイトからこのCDをmp3で拾ったのだ。で、amazonで検索してすぐに注文。
Bit Torrentがないと落とせないが、mp3音源はここにある。「mininova」
それからこれも最近の拾いなんだけど、「ネパールの無料音楽配信-真実のミュージック・ダウンロード サイト「HBC 94 fm」」というのがあって、DLしてWindows Media Playerで、まんまネパールのFM放送を楽しむことができます。ここはgoodです。

2007年2月21日Wednesday晴れ
ここのところ寺の環境が少しずつ崩壊していくようでならないのだが。 帰ってきて暗くなってしまう前にやってしまいたいことがあった。参道の側溝に積み石が崩れ落ちて、ゴミがたくさん詰まっていた。たまたま昨日の夕刻に迎えの車を待っていて発見した。その時には片付けるゆとりもなかったので、今朝からこれが僕の頭の全部を支配していた。石を持ち上げて片付けると、石柱の周りのセメントも剥げ方が著しくて、「もうこれも何とかしなきゃならんな」と。檀家の人たちの理解と僕の理解には随分と隔たりがあるようであるが、最近こんな風にあちこち修理をしなくちゃなという箇所が目に付く。石積みなんかの崩れがあちこちにある。灯篭や石柱に、長い年月の風雪による衰えがある。気になることばかりで酒の量が増える。上唇の裏側に口内炎ができている。
天井裏でごそごそとネズミ。フキ味噌とカレーライスと酒二合。俺を殺せるものなら殺してしまえと、梅の香をかすかに乗せた風。

2007年2月20日Tuesday晴れ
ふき味噌。 飲んで帰ってきた。もう遅いだろうと玄関に鍵をして風呂に入っていたら、「お父さん開けてちょうだい」と声が聞こえた。女房が娘を教習所へ迎えに行っていたのだ。
でも彼女はふき味噌の美味しいのを作っていてくれた。飲んできたのだが、ふき味噌でまた飲んでしまった。
作りたてのふき味噌をお礼にあげたいと思う。こんな瓶も二人で考えた。

2007年2月19日Monday晴れ
逡巡していた気持ちを決心させるもの。 昨日の七七日忌の法事は朝からやはり雨で、幾分憂鬱な気分であったが、9時を回った頃には雨が上がり陽が射し始めた。
40人を越える参加者で、久しぶりに寺にも活気がよみがえった。椅子を50脚揃えたけれど、だんだん寺が使われなくなって、この椅子も出番が余りないのかなと感じていたが、昨日はよかった。
Wさんの奥さんも、ひと月余が経ち、少しずつ元気回復だ。49日が終わると春の彼岸、夏には新盆、秋の彼岸、多分年内に一周忌になりますかねと話すと、仏事が続くことで、残された者たちも悲しみに暮れてばかりいられないこともありますかねと言われた。なるほどそういうこともあるかもしれないなと感じた。
新しい月曜の朝だ。天気はよさそう。

2007年2月16日Friday晴れ
「祈りなさい」。 大法輪に掲載されていた渡辺一枝さんの「束の間の出会いであれど」というエッセイがよかった。チベットにあこがれる少女時代を送り、やがてチベットに行くことになり、チベットに通いつめ、チベットを馬で旅し、旅の途上で76歳の尼僧と出会い、その別れの時に、涙する渡辺さんに老尼僧は「泣かないで。泣くことは何もない。後は祈りなさい。祈っていればいつも、幸福な心でいられる。祈りなさい。元気なときも、病気のときも、祈りなさい。そしていつも、幸せな心を保ちなさい」と話したという。これが特別な言葉でないことはわかる。でも、今日という、今瞬きのときに、「僕の心はこの言葉を吸い取った」。祈るということの当たり前を、ある時、カツンと思い起こさせられるのだ。日曜にはこのことの思いを胸に、法事ができよう。

2007年2月15日Thursday晴れ
ディズニーランドへ。 娘は今朝早く、何人かの同級生と「東京DL」へ一泊で出かけた。多分出かけた仲間は皆進路が決まったのであろう。彼女は仮免が受かって、昨日初めて路上教習に出たという。着々と事が進行し、その結末に向かっている。ちょうど2週間後には高校の卒業式だ。
午後からもかなりの強風が何度も吹いて、年老いた支所を叩いていった。「春から支所の事務は保健センターに行くらしいけど、俺たちは一体どうなるんだ?」なんて、春一番に聞こえたら、一気に吹き壊されてしまいそうな話をひそひそと。
夕刻戻ると、案の定境内は杉の葉が散乱。家の前の側溝には葉っぱや杉っ葉や、どこからか舞ってきたトロ箱に畑の作物用のビニールなんかが詰まっていた。暗くなってしまう前に、目に付いたものだけを片付ける。富士川を遡ってくる春の風は、特にこの春先が酷いんだけど、枝を落としたり、大木が倒れてきそうな不安な気持ちにさせてくれるので嫌いです。

2007年2月14日Wednesday
久しぶりの雨で、風邪引きさんも治るかも。 私の親方さん風邪引きさんで、声もガラガラである。一年に一度のバレンタインデーが雨になった。別に俺にはどうってことない。できれば無い方がありがたい。無視したい日の1だ。長い物に巻かれなきゃならんのが今日で、巻かれた帯を解いて解放されるのが「ホワイトデー」か。
自由登校の娘が学校に行くというので、「バレンタインデーだからか?」と女房に話すと、水曜日が登校日になっていて、たまたま今日が重なったということだった。それでも日曜に作ったお菓子を友達と分け合うために持っていったらしい。
雨の上がった夜は寒い。三上寛を聞きながら、「この人もバレンタインデーには縁がねぇだろうな」と勝手に思う。古いアルバムを2枚買ったのだ。「寛」と「夕焼けの記憶から(ライブ)」。どちらも秀作。
ポリスはどうやら30年ぶりにツアーを始めるらしい。日本にも来るかもしれないという。ま、聞きにまでいくことはないだろうけど、でも楽しみだなぁ。グラミー賞の翌日の2月12日に、ロサンゼルスの「Whisky A Go Go」で、記者会見と公開ライヴ・リハーサルを行なった模様がネット上にあるんだけど、「早く落ちねぇかなぁ」。

2007年2月13日Tuesday晴れ
ポリスが帰ってきたぞ。 遂にポリスまでが帰ってきた。昨日のグラミー賞で「ロクサーヌ」を演奏。WOWOWは見逃しちまったけど、今夜その映像が手に入った。スティングのベースは、30年前から使い続けているようなボディの塗りもはげてしまっているものだった。
スチュワート・コープランドもアンディー・サマーズもそれなりに歳を重ねた風貌に変わってはいたが、どうせこちらもおんなじに年を食ってきた。21歳くらいで初めて接した「THE POLICE」と何も変わっていないような感じ。たった1曲だけだったが、僕も30年前に戻ったような気分。彼らの30年ぶりのツアーも始まるのかもしれない。もう1本、恐ろしいほどの数が、2月12日の「The Police rehearsal」に食いついている。僕もそれをまた楽しみに待つこととする。

2007年2月12日Monday晴れ
連休もオシマイ。終わってほしくない連休の夕が来る。 秋山家からのお客さんが2回やってきて、お不動さんをお開帳。夜にはお酒もご馳走になった。暖かな連休中だった。梅の開花も間近かな。
昼過ぎに本堂の周りを歩いていると、毎年のいつもの場所に「ふきのとう」だ。黄緑色は目立たないようでよく目に付く。他の濃い緑とまたちょっと違うので。ここがいつも一番早い。「あー今年も出たな」って感じ。
WOWOWで東京ヴォードヴィルショーの「エキストラ」。途中でやめられなくなって最後まで見てしまった。笑いの中に悲しみを旨く表現している。

2007年2月9日Friday晴れ
少し霞んだ空がまたいい。 今朝の空もいい。東の空は少し霞んでいる。反対側の本堂の上に眺める空は青い。空が互いに向かい合って、春の空の美しさを競っているように見える。地上には花の固い蕾が日に日にちょっとずつ大きくなっている。地中の自然のフキノトウももぞもぞとしているだろう。
全てに「ありがとう」と感謝をしたくなるような早春の光景である。
外に見えない部分の寂しさだけがもやもやと心の内に淀んでいる。これさえ何とかなればな。

2007年2月8日Thursday晴れ
水かけ菜。 都留から年に何度もお参りに来てくれるTさんが、「水かけ菜」を持ってきてくれた。お浸しにすると緑がいっそう鮮やかになる。しゃきしゃきと口当たりもよく瑞々しい。富士山の湧水豊富な地域こその作物のようである。そういえばクレソン栽培にも適しているはずだったな。水かけ菜は水田に作付けることが多いらしく、「水田の高度利用云々」と県のHPに紹介されているが、でも、栽培面積は年々減少してきているということだ。
イノシシやクマの話題が途絶えているので、陽気もいいので、久しぶりに駅の向うの共同墓地まで歩いた。落ち葉を踏む山道も気持ちいい。墓地には何基か背の高い柱があって、それを見ると、戦死した若者の柱である。功績が刻まれ、大きな柱を建立した親族の気持ちが幾葉にか読み取れるようにも感じたが、概して「誉れ高い栄誉の戦死」への賛美と、他者への誇示くらいかなぁと。これも悲しい歴史の忘れ物。墓石が永劫に残っても、若者たちから奪い去ってしまった明日は戻らないし。
再びこのような時代が来るのかもしれないと予感したら、女たちは子を産むことを拒否するかもしれない。だとしたら、これが機械でない証拠になる。

2007年2月7日Wednesday晴れ
春霞。 外から帰った同僚が、「黄砂が舞っているように霞んでいる」と言うので、陽気がよくて、地表の温度も上がっているので、塵が大気中に巻き上がっているのではないかと、どこかで仕入れたようなネタを頭の中で巡らせた。春霞。鼻炎に悩まされる者らにとっては、もやもやとした頭痛の種の季節になってきたな。
上求寺の小父さんから、「今年もお祭りに来てくれるかな」と連絡があった。もちろん僕は行く予定で、そして前日の夕に行ってゆっくりと酒も飲ませてもらおうと思っている。「今年もCATVの取材が入る」という話だったので、今年はもう少しよい音で法螺貝を吹けるように精進しなくちゃならない。
(19:30) どうせ檀家なんかが本気で思ってくれてないなんて、端っから分かっている。ここに生きていることなんて所詮水物である。檀家の上に生きるなんてことはできないのである。別に檀家の上に生きたいわけではないが、ここまでのことなら、いっそのこと嫌われてでも、法外な葬儀料や戒名料を取って、俄かブル坊主の壇上の胡座具合でも楽しめばよかった。クソッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

2007年2月6日Tuesday晴れ
アパホテル西麻布。 我が家にもアパホテル問題が影響してきた。4月の大学の入学式で上京するため、女房と娘が営業停止をするアパホテルを予約してあったのだ。今朝のテレビで情報を得た。アパのHPで見て確認。
早めでよかった。別の宿泊先を今夜にでも探さなければ。

2007年2月5日Monday晴れ
もう12名の予約が入ったぞ。 昨日のメール案内の反響があって、12名の予約申し込みがあった。意外と30名は軽くクリアかななんて思えたりして。甲府のTさんからは、「30人なんて、もっと大勢が聞きに行きたいはずだよー
(住職訳)」ってな、ありがたいメールもいただいた。確かに。山梨では下田逸郎を聞ける機会はほとんどないかもしれない。今回の新年のライブが今月初めから始まっているようで、ライブハウスの入りなんかを検索して調べてみたら、盛況のようである。僕はそれが当たり前だと思う。僕は、詞も声も切ないほどに締め付けてくる「ラブ・ソングの達人」を、20歳の頃から聞き続けているのだ。仕事を休んででも聞きに行きたいと思う。
残念ながら、僕の周りに居る友人たちは、下田逸郎の良さを知る以前に、下田逸郎の存在を知らないのだ。これはこれで、何にも問題がない。知らないものにはなんら責任はない。でも、今回この僕の玉手箱の蓋を開けるような気持ちを、友人の多くに知ってほしいと思っている。
おぼろな春の宵。紅梅もいいでしょう。エドヒガンザクラの老木の枝垂れにも魅せられていただきましょう。セクシィな下田さんの歌が何より一番の夜になるでしょう。

2007年2月3日Saturday晴れ
節分。 夕べBSで長谷川きよしのライブを見た。若い頃とほとんど変わらないようなギターテクニックと声量だったと思う。今月桜座に来るので、行きたいなぁと思っているのだが。今朝、クルマを6ヶ月点検に出しに行くので長谷川きよしのCDを捜したら、隣りに収まっているのは下田逸郎だった。僕の中で長谷川きよしと下田逸郎は同じ位置にあったのだということだ。どちらも大切な唄の達人である。
特によかったのは、「死んだ男の残したものは」だった。アルバム「アコンテッシ」からの曲が歌われるのかなと思っていたら、まさに肩透かしであったが、見方によっては、彼の思いの根幹にある強いものを見せられたように感じて嬉しかった。
今日は法事が11時から1件。車を点検に出して帰ってきてから庫裏の風呂場で真っ裸になって頭を刈った。寒かったがきれいになって法事に望みたかった。午後から下田逸郎のライブの告知ページ作り。点検後の車を持ちにいったり、午後5時を回って夕のお勤めと1人で豆撒きになったので、HP作りは明日回し。昨日今朝と朝が寒い。水道も凍った。
節分を終えてこれから本当に春に向かう。上求寺のK永からメール。彼女の生きることの重さを僕はないがしろにはできない。これからがもっと大変になる。彼女にとっても僕にとっても。それはさて置き、今月の晦日には大瀧不動のお祭りだ。もちろん休みを取ってお手伝いに行く。そうそう、今日の夕のお勤めは法螺貝を吹いたんだ。

2007年2月1日Thursday晴れ
教室に児童が居ないってのはなんだ? インフルエンザで学級閉鎖にでもなったんだろうか?って思いますがね。新聞に載っていた写真。東京の或る小学校の6年生の教室内。児童がほとんど居ない中で先生が黒板の前で授業をしている。記事はこんなことだった。中学受験で児童が集団で休みを取ってしまうんだって。児童数は減っているのに、私学の中学への受験は伸びているのだそうな。さっきもテレビを見ていたら、「ビリでもいいから何とか受かりたい」って、みな老成した受け応えだ。こんな子供たちばかりになったら、もう僕のしゃしゃり出る幕はない。
ノラ・ジョーンズの「Not Too Late」が発売になったので聴きたいと思っていたところに、早速、「Studio 104, Maison de Radio-France 2007-01-20 Paris, FRANCE」なるFM放送の音源が出た。世界中のマニアが群がって吸いまくったので、あっという間にDL終了。ピアノの弾き語りはとってもジャズしてるね。

2007年1月31日Wednesday晴れ
1月晦日。 正月の月も今日でオシマイ。サンニチには1月の叙位叙勲決定者の名前が掲載されていて、3日に亡くなった檀家のWさんの名前も載っていたし、88歳の高齢者叙勲の申請をしていた大炊平のWさんの名前もあった。先ずはほっとした。
暖かな日続きで空も青い。土の下でもう待ちきれない虫たちがもぞもぞ始めているような音が聞こえてきそうだ。土の道端なんかを歩くと、心持ちふんわりとしているような足裏の感触。
夕べは蕗味噌を味わった。農協直売所に蕗が出ていたんだそうだ。少し苦味があって、熱燗がすすんだ。そんなことを思い出しながら昼の弁当を開けると、ご飯の上に蕗味噌がのっていた。温かいご飯ならもっと旨かったかもしれないが、でも十分に蕗から早春の味を再び。我が家のフキノトウも今年はすこし早いかもしれない。

2007年1月30日Tuesday晴れ
藍も18歳。 娘の誕生日。その今日も学校から教習所通いで、19時から20時の最終で車に乗るということなので、僕は勝手に飲んで食べてハイさようなら。
歳を食うことが楽しみな時代と、歳を食われることを厭う時があるんだ。家族全員でそれぞれの誕生日を祝ってあげることはもうないかもしれない。
生きていくことを寂しいと思ったのは、僕が小学校に入る前だったらしい。死の事を父から聞いて、「じゃ、生れてこなかったほうがよかった」と、「永明がさめざめと泣きながら俺に訴えた」と、死を直前にした父が話してくれた。50歳になって僕はまた僕の死のことを真剣に思い始めている。世間的には何もない死であっても、僕が生きていたと感じられたらいいと思ってはいるのだが。

2007年1月29日Monday晴れ
ぽかぽか陽気。 目の前の同僚は風邪なのか休んだ。もう1人の課長も同じようだ。風邪が流行ってきたのか。鳥インフルエンザばかりではない。
でも外はあたたかい。陽だまりに猫が居眠りをしたり、恋の季節を迎えてもいるのだろうか。
月曜の朝はいつも気持ちが重いのだが、漸くに体を仕事に持っていく。その前の本堂のお勤め。観音扉を開けようとしたら、“踏んだ”!カメムシ。本堂に居るんだ。青くない本堂の黒ずみと同化したような、嫌な奴。筆ペン2本を握って挟んで捨てた。お勤めを済ませて部屋に戻りPCしていると、やっぱり足の裏が臭い。でもこの臭いままに出勤。一日無事に終わる。

2007年1月28日Sundayくもり
初不動。 今朝のお勤めは初不動ということで、休みでもあったし少し丁寧に。お参りも遠くから数組あり。午前中、檀家総代と護持会役員を呼んで、境内ののケヤキ他大木の今後について検討願った。以前から何度も考えてもらっていて、実際枝卸しも何度か行ってきた。枝卸し程度だと、結局寺の持ち出しになってしまう。今後もこれが続くことは容易に予測できるし、伐らずにすめば済ませたいが、通学路もあり、枝が落ちる心配やそれ以上に老ケヤキについては、樹勢の衰えとともに倒木の危険性を感じているのだ。特に春先は富士川から上がってくる風の通り道で怖い。夫婦杉もあって、これも憂鬱の種。相談はかけたが、やはり「突拍子もないことを言い出したな」という受け止め方の役員がほとんどで、一部はほとんど聞く耳持たぬ半けんか腰の言いっぷしでくる。僕がこれを決断するには、寺の積み立てなどがほとんどない状態の中で、枝卸しごとに金を使っていくことには賛成できないからだ。ゆとりがあればそれもいいかもしれないが、わが寺は厳しい。この件については、「特別な徴収をするも止むを得ないかもしれない」と言ってくれたので期待したいところである。とにかく相談の投げかけをさせていただいて、皆に真剣に考えてもらいたいと思ったので、これはこれでよかったのかもしれないが。同系の寺院を近隣に持たない寺の存在は今後の存続そのものに大きな不安があるが、50年先は考えない。僕は5年ごとくらいを考えて今を見ていかなければならないと思っている。
猿やイノシシの事も苦痛の種だが、大きな緑陰と心地よい風を送ってくれて、寺の景観にとっても欠かすことのできない欅ではあるが、僕のここ心の中にこの存在が、神であったり、そうでないものに姿を変えてきているのも本音である。永遠の命がないことは誰でもが承知しているが、「俺の目の黒いうちはそれを避けたい」と思ってしまうものである。なんとも思い気持ちの初不動にはなった。

2007年1月27日Saturday晴れ
こんないいフレーズに今日は感激。 お札を作ったり塔婆を書いたりしながら、久しぶりに沖縄のミュージシャンたちのものを聴いていた。知念良吉の「泥の花」の一節がやけに心に沁みた。
  「あんなにも高いところで光っている星よ 張りつめて闇で息する者の胸に降りて来い」

僕にもまだこんな詩を書きたいと思う気持ちがある。まだ書くことができるだろうか。知念良吉もいいシンガーだ。一年の半分を旅して歌っていると聞く。
夕方のニュースで、喜納昌吉が正月の小沢一郎邸での新年会に、立ち上がって「花」を歌っている映像が流れたが、いまいちいただけないんだなぁ。昌吉!何でそんな臭いの違う奴らと徒党を組んでいるんだ。早く目を覚ませてこっちに戻って来いってところかな。

2007年1月26日Friday晴れ
教習所通い始まる。 娘の自動車免許取得のための教習所通いが始まった。学校からの許可を貰って教習所通いが昨日から始まった。3月末までにはきっと大丈夫だと思うが、もうこんな年になったのかと改めて感じる思いである。先を楽しみにできるということなのだな。先を楽しみにできないような僕と比較しても仕方のないことだが、わが息子と娘がうらやましい気がする。25年役場に勤めて50歳になり、先の25年を思うと75歳である。75まで生きられたとして25年。確実に終焉のときが一歩一歩近づいてきているのは確かだ。
暖冬のようで、水道が凍ったりしないのはありがたいが、一度くらいは雪も欲しい。梅の蕾はまだまだ家では固い。紅梅の勢いが今年の春には戻ってくれて、たくさんの花を咲かせてくれるといいけど。秋の施肥の効果が出てくれるといけどな。

2007年1月25日Thursday晴れ
昼は暖かくなりそうだ。 今朝はいつもより冷えるなぁ、寒いなぁと思ったら、夕べ頭を刈ったので、その分寒いのだと布団の中で了解。毛糸の帽子が離せない。仕事中も被っていたいぐらいだ。仕事をそれなりに遂行できれば、余り外観にとらわれなくてもいいんじゃないかと思う。
一昨日教育委員との懇親会をしたときにも、「僕はネクタイなんかが嫌でね、いいじゃないですか、懇親会の席なんてのは無礼講でいきましょうよ」と話してくれた委員さんもいた。それから「あなたの寺を訪ねたときに、維持管理していくのは大変だろうなと感じました。あなたが息子さんに寺を継いで欲しくないと感じていることは分かりましたが、息子さんにもそれを考えるだけの時間を用意しておくことも必要でしょう。余り性急に事を結論しないことを望みます」と言われた。まったくその通りかもしれないと、涙がこぼれた。
気になる種はいっぱいある。

2007年1月22日Monday晴れ
下田通信所から連絡が入りました。 3月に来ていただくことになっている、下田逸郎さんの事務所からメールが入りました。「さしむかいライブ」は3月20日(火)に決定になりました。メールには「恒例、下田さんの曲作りの季節、25曲生まれたようです。」とありました。春を待つ楽しみと平行しながら、下田さんの歌を寺で聴ける日を待ちたいと思います。
もう少し、下田通信所とやり取りをしたあとで、はっきりとした告知をしたいと思いますので、もうしばらくお待ちください。
帰ってきて新聞を開いたら、今日の予定という欄に、「ジャズの日」とあった。検索したWikipediaに、「JaはJanuary (1月) の略、ZZは22日に見えるから。」とあった。へーなるほど...。今夜もマイケル・ブレッカー聴いてます。で、今夜はお持ち帰りの仕事を少ししなければなりません。

2007年1月21日Sunday晴れ
納豆ダイエット。 知事選の事務のために早起き。5時のニュースで、「ダイエット効果がある」として納豆を取り上げたテレビ番組「発掘!あるある大事典2」は、実験が「捏造(ねつぞう)」だったというもの。家の彼女もそれを2週間続けていて、これで一件落着ね。今朝食取ったら、ゴミ袋に夕べ食べたのであろう空の納豆のカップが入っていた。先日彼女のお兄さんが来たときに、街中のスーパーでは納豆が品薄だといっていたし、地元のスーパーでも「ダイエット効果」をアピールする貼紙があって、購買を煽っていたとか確か昨日の夕方も話したんだけど、こんな幼稚なこと。
今日は6時半に部屋の道前の集会所で夜8時まで選挙事務。その後に開票事務。長い長い一日になる。納豆のように粘り強く一日を投票所で過ごさなければならない。

2007年1月18日Thursday晴れ
Michael Brecker逝く。 マイケル・ブレッカーが白血病で亡くなったニュースが入ってきた。享年57歳。フュージョン・ミュージック全盛期の頃に兄のランディ・ブレッカーと、Brecker Brothersとして活躍した時代よりも、ソロになってからの演奏の方が僕にも友人にも好印象であった。利用しているDLサイトには、ここ数日彼のLiveが幾つもアップロードされている。
海外のFMで流された音源をいくつかDLした。DVDもあったので、これも少し時間がかかるが楽しみ。マイケルは多くのミュージシャンと競演をし、また親日家でもあったようである。なんでもSMAPのアルバムにも参加していたとか。ブランフォード・マルサリスがGrateful Deadのステージに多く立ったように、マイケルもまた幅広く、おおらかに彼の音楽生活を楽しんでいたのだと思う。遺作となったアルバムが逝く2週間前に完成し、3月頃に発売になるらしい。
相変わらず歳が改まっても陰惨なニュースばかりだ。女房が「毎日殺人なんていう報道ばかりだね」と言ったが、まさにその通り。祖母と一緒にいた3歳児をさらって抱きかかえて歩道橋から道路に投げ捨てるなんて。みのもんたは、こんな奴を野放しにしておくか!と声荒く今朝も語ったが、臭いものには蓋をして座敷牢に縛りおけというのでは解決に至らんだろう。この国の病んでいる源をしっかりと改めなければいけないんじゃないだろうか。美しい国を作るためには、病む者を闇に葬れというのが安倍の思想の根源にあるような気がしてならないが。

2007年1月17日Wednesday
三上寛の夜だ。 雨が降って気温がいつもより高いのだろう。今年は暖冬だと耳にすることが多い。海外からも暖冬のニュースが入ってくる。一昨年末に庫裏の水回りを凍らせてしまってから、去年の正月から2月初旬にかけては、水道屋さんの忠告どおりに、水を出しっぱなしにしておく夜が幾晩もあったが、今年は一度もまだそれをしていない。気には掛けているんだけど、身体で感じる寒さが、そのレベルまでいかないんだ。
内藤君から「撥」を貰って、僕は「寛」「夕焼けの記憶から」をまた手に入れた。なかなか難しくなっている寛さんだけど、どうしても昔の作品のほうがしっくりくる。僕自身が余り成長しない証拠かもしれないと思う。大体において、僕は以前のものが好きで、今のものにはなかなかついていけない感じがある。若いときに聴いた詩や歌が僕を形成して、もう50になった僕には特別に新しいものは要らないような気がする。

2007年1月16日Tuesday晴れ
「胸の香り」。 知事選の期日前投票事務で一日。午後8時まで。果たして今日がよい天気であったのかなんてことは夜の8時過ぎに支所を出るまで分からずじまいで、鳩打隧道を夜通るのは嫌だなぁなんて考えながら帰ってきた。
通常の仕事はできなかったが、のんびりとした事務にあたりながら宮本輝の「胸の香り」を読む。短編7作が収められたものだったが、一気に読んでしまった。今年初めての小説で、砂が水を吸い込むようにぐいぐいと読み終えた。読み初めに短編は心地よかった。やはり宮本輝はいい。こういうものを読むと気持ちが落ち着くというか、悪い心も善い心に変わろうというもの。
50歳になった女房が友人からいただいたというシンビジュームの一鉢を眺めながら、熱燗を飲むのもいい。浜田真理子を聞きながらゆらゆらと揺れてしまう心もいい。そんなこんなで、選挙なんてものはと考えもしなかった一日。終わる。

2007年1月15日Monday晴れ
富士市まで葬儀に。 早川町の宝竜寺の葬儀の手伝いで富士市まで行ってきた。カーナビがあるのでなんなく目的地へ着くことができる。便利なものだ。施主の家の近くから富士山を拝んで写真を一枚。珍しく家での葬儀。早川から富士に出て建具屋を営む家である。東名高速のすぐ下に家がある。ナビだと高速上に目的地を設定しますかと問われた。まさか!1階が作業場で2階が住居となっていて、2階で葬儀告別式なのだが、一般の弔問者は2階に上がってもらうことができないので、下で焼香をしていただいて、親族だけが2階の祭壇の間に居るという変則的な葬儀になったが、出棺の後、火葬場に向かう車まで、葬列をなすことができて、僕は葬儀の後に、出棺の準備の間を「前讃」をうたい鉢を突く。これも随分と久しぶり。11時からの葬儀であたたかく、富士山からの霊気(冷気)をいただいて、気持ちよく葬儀にあたることができた。控え所となった隣の家で昼食をいただいて、帰りは1時間15分ほどで寺に戻った。県からの書類が今日発送という連絡が入り、「じゃ、仕事にいっても仕方がないので行きません」と、家のことなど。

2007年1月14日Sunday晴れ
獅子舞。 明日休まなければならないので、気にかかることが一つあったので下部支所に行ってきた。土曜にも県からの郵便は届かなかったようなので、結局片付けてしまうことはできなかった。課長に明日休みを貰いますと電話を入れた。繰越を入れて40日の年次休暇の取得が可能なので、今月3日の休みは問題ないのだが、さすがに休みが続くと気が引ける。
同志会も会長を終えて退会するばかりで、新たに入る者がいない。居ないので、また退会者が戻ってきて会の活動を支援している。Y君は会計を引き受けた。僕も一昨年、昨年と獅子舞に付き合ったが、50歳になったので、今年はもう遠慮させてもらうことにした。それでもまだまだ後方で支援できることはある。いつものように会長になったM君がお祓いをして庫裏に入ってくる。獅子が上がって舞う。同志会ジュニアクラブとでも言ったがいいかもしれない小学生たちが大勢同行している。人数が減っても、付いて歩く子供たちが居れば賑やかだ。11時を回っていたので、家ではお酒は1本だけつけて、あとは例年通り女房がコーヒーを供する。家でのコーヒー・ブレークはなかなかに評判がいい。
彼らを送り、昨日の続きの護摩木割。昼食後再開。熱を入れてやったら、百八支が11束も作れた。当分護摩木作りの必要なし。風もなく穏やかな小正月。浜田真理子の新譜「夜も昼も」を買ったので、それを聞きながら。あーいいなぁ。明日の葬儀の次第を考えなくちゃ。

2007年1月13日Saturday晴れ
駐在さんが来た。 墓石・灯篭倒しが近辺寺院でも発生したので、駐在さんがお昼前に我が家にもやってきた。話は分かるんだが、家族構成までしっかりと聞いていく。名前・生年月日・大学に行っている息子まで。これがなぜ墓石倒し事件に繋がるのだろう。これだからKサツは胡散臭い。
一応墓地を僕も午後見回ったが被害には遭っていない。なぜこんなことをするのか?報道では、甲府近辺から東山梨にかけて発生した始めの事件を模倣したのではないかという見方をしているようである。被害に遭った市川大門の花園院は、真言宗の寺でよく存じている寺なので、これもまた心痛む。
今年初めての護摩木を割った。明日も続けるつもり。早川の宝竜寺より電話があり、15日(月)に富士市での葬儀に来てくれという。ここは僕が何とか都合をつけないといけないので、また休みを貰うのは気が引けるが仕方が無い。明日、気になっている仕事が一つあるので片付けてこようと思う。
女房と娘は大学の指定された制服を仕立てるために上京。電車の遅れなどがあったようだが夜9時頃に帰宅。

2007年1月12日Fridayくもり
里に柳。 小正月の柳が立った。下部地区はこれがあるから歩くのが楽しい。こういう風習はできるだけ長く続けていって欲しいものだ。一月の青空に高く幟が立って、しんなりとした青竹の柳が装飾されて立つ。道祖神も新しいシメで飾られる。柳の下でそれを誇らしげに眺める老人たちがいる。
年が明けてからも悲惨なニュースばかり耳に入る。誰も好んでそれをしているわけではないだろうに、我慢が足りなかったり、欲が先に出てしまったり。

2007年1月9日Tuesday晴れ
また墓石倒しだ。 何が面白くてこれをやるのか不思議でならない。墓石・灯篭122基。昨日また甲府の寺院と周辺の霊園墓地で見つかったそうである。墓石を倒すのも早々楽ではないだろうに、またこの真冬に人に見つからないように実行するには、夜だとか冷え込みの厳しい時間に違いないのに、ご苦労なこった。
実行犯はこの現実を目の当たりにする寺や遺族の思いをどんな風に想像するのだろうか。

2007年1月8日Monday晴れ
これで明日から出勤だ。 葬儀が終わって、昨日は2時間ほど職場へ出向いて仕事を片付けてきた。午後から前日延期した納骨をW家族としてこれでとりあえず幕。七七日忌は2月18日と決まる。
今日は甲府の玄法院へお願い事。BIRDLANDは店じまいしたのか。もう何度か訪ねたが閉まっている。楽しみの場所が減った。お昼近くになって悪いかなと思いながらも訪ねて、案の定お昼までご馳走になってしまった。でもお話ができてよかった。いつ会っても、結局出てくるのは寺の将来への不安であり、本山への愚痴になっちまう。まっ、それはそれでいいんだけどね。寒風の外では、息子さんが護摩木を割っていた。僕もまた割るかな。新年になって、葬儀以外はグターッとしてきたので、そろそろ頭を切り替えなくっちゃ。
帰りにはお土産までいただくことになり、なんとも面目なく遥かの富士山を眺めながら帰ってきた。

2007年1月4日Thursday晴れ
仕事始めが檀家の葬儀の準備になってしまった。 今朝のために早めに床に就いていたが夜9時前に檀家のM君から連絡があり、隣のWさんが病院で亡くなったとのことであった。離れている病院のため、ご遺体が帰宅する時間も遅くなるだろうから明朝にしたらどうかと話し、8時に枕経をあげに行き、葬儀の予定など相談することとした。
これが僕の今年の仕事始めとなった。今日と明日休みを貰わなければならなくなった。同僚には迷惑をかけることとなるが致し方ない。

2007年1月1日Monday晴れ
明けましておめでとうございます。 月のきれいな年越しの夜でした。「冷えるなぁ」と喋っていましたが、いざ護摩を焚き始めると僕は寒さを感じることなく、そのまま一気に元旦の護摩を終えるまでいっちまいました。今1:43.片付けをして明日の明日のためにそろそろ寝ます。
佳い年になりますように。
(9:48) 穏やかな朝がきた。体を布団から抜け出させるのに、年々時間を要するようになってきた。寒い朝もこの時間は太陽が出て、きっちりと元日の朝になってきた。