徒然に戻る

『徒然日誌』 2008年1月から12月

2008年12月31日Wednesday 晴れ
大晦日。 息子は29日に帰ってきたのだが、顔を合わせたのが本日晦日のお昼ご飯のとき。互いに留守であったりしたので。本堂の準備を済ませ、昨日と今日の護摩札の残りを書いて、庫裏も客殿も飾り付けを済ませた。正月の準備万端。もう間もなく午後4時。郵便を出しに飯富へ行き、KOMERIで買い物をした。いやあ、午前中から駐車場いっぱいに混んでます。不景気なんてないように皆どの顔も今日は笑顔で、裏側にあることを忘れてしまいそう。今夜の護摩は不景気を吹き飛ばすこと、平和な世の中になること、そんな護摩を焚きたいと思う。家族一同よく暮れを働きました。ご苦労さん。

2008年12月30日Tuesday 晴れ
護摩札56枚書き終え。ありがたい暮れ30日の下部支所日直だった。休みが早かったのに、連日外仕事に費やしてしまい、御札を書く作業に手がつけられなかったのだ。夕べの内にコンテナに御札と申込のノートや墨汁、筆、硯など一式と音楽セットを入れて、今朝7時半過ぎに家を出て、先ず、102円の宇佐美のガソリンで車を腹一杯にしてやり、ローソンで昼食の弁当(チャーハン)とカップの「吉田のうどん」を買い込んだ。
8時半に本庁へ連絡を入れ、そこから御札書きの開始、途中2時間半ほど、山ちゃん来て仕事する。正午に帰る。僕も1時間ほど昼食休憩して、1時から再開。午後3時前に夕べまでに申込のあった枚数56枚書き終える。体の安めにもなったし、仕事も捗った。大法輪を読み、年越し護摩の後のお話のことも少し考えられた。足の爪も切った。これはなかなか家でも切るぞという決断をいつも先延ばしにしてしまいたい奴だ。何かまだあるかもしれないと思ったら、裸になって全身を眺めて見るのもいいかもしれない。まさか、支所で裸にはなっていないが。少々苦になっていた日直だったが、かえって集中できてよかった。 明日の大晦日が日直だという喜田の姉さんから、文字どおり走りながらのケータイがかかってきた。電話の声も上ずっているんである。別にかけてこなくてもいいじゃんて思いながらも、今年最後の会話になったんだなぁ、多分。

2008年12月29日Monday 晴れ
あれもこれも、気にかかる寄り道の年の瀬。 なんてこった、いつもより長い休みがどんなゆとり効果を俺に与えたっていうのか?なんにも。なんにもくれなかったぜ。Oh今日も一日9to5だったぜ。位牌の開眼を朝一でして、今日のスケジュールを漠然と立てるも、気にかかる部分があるとそれてしまうので、予定通りには運ばぬ。庫裏の裏の溝の掃除をして、頼まれた護符を作り、ようやく午後2時になってから本堂の掃除に取り掛かる。で、結局掃除を終えて、大晦日の護摩を焚き準備まで済ませて5時。5時に仕事を終えて、今年最後の頭を刈って5時半。明日の日直に護摩札書きをがんばることにする。何もない明日でありますように。

2008年12月28日Sunday 晴れ
納め不動。 例年28日まで仕事なので、こんなときは滅多にない。今日の納め不動、今年は護摩を焚いた。一年の荒事を鎮めようと思った。来年に持ち越さないように。11時からEさんの七七日忌の法事。結構ハードな年の瀬ではある。門松を仕上げ、歳神様の飾りつけも済ませた。門松をエルクの夫婦が気に入ってくれて1本お持ち帰り。よしこれで毎年行こう。シンプルで美しい。それに不器用な僕にもこれなら簡単に作ることができる。
Ah今日も一日よく働いてあっという間に5時を過ぎた。後は焼酎をあおるだけの日曜日。正月間近なので、頭は明日か明後日に刈ることにする。明日は護摩壇の掃除と本堂の掃除。新年の護摩の準備。疲れるけれど、これがなかなかに充実しているのだ。これを喜びに感じているのだから、完全にいかれてしまったか。KIYOSHIから何やらいかれたメールが届いた。ナナオはまだそこいらを眺めて浮遊しているか。もうあと残りの3日間を遊ぶ。

2008年12月27日Saturday 晴れ
年末年始休暇初日。 外の掃除が意外と時間かかっている。枝下ろしの作業の影響がかなり甚だしく境内に残った。これも仕方がない。隣りおばさんが入院したことを知った。帰省した娘さんに聞いたら、24日の夕のことだったという。Kくんが居てよかったではないか!。おばさんにとって君はあの晩、とてもありがたいクリスマス・イヴのサンタになったな。僕からも礼をいいたい。あの時、僕が君を誘ってしまって、「うちで、じゃちょっと飲まないか?」なんて言わなくてよかった。実は僕は、誘えばよかったかななんて思ったものだ。まさか、そんなことになっていようとは。でも、早い措置でよかったというし。
今日は、富士豊茂のA君が軽トラの御払いに来た。今朝は今年一番の冷え込みで、うちも池が氷るし水道も凍った。豊茂も寒かったらしい。終わってから二人でお茶を飲みながら30分くらい話しをした。世相のこと、仕事のこと、お寺のことなど。風がないと昼近くになると暖かい。1月の4日にお札を持っていくと話してさよならする。
午後も外の掃除。4時過ぎまでかかり、終わってから明日の護摩の準備。年末の休みが長くてこれはありがたいと思った年末年始休暇の初日であった。くたびれて焼酎。

2008年12月26日Friday 晴れ
ナナオを送る。 サカキナナオの朗読を最後に聞いたのは、2000年10月7日の東京御茶の水:湯島聖堂であった。アメリカからゲーリー・スナイダーを迎えての「亀の島から弓の島へ」と題したポエトリー・リーディングだった。ゲーリー・スナイダー(亀の島)、ナナオ・サカキ(ヤポネシア)、長沢哲夫(諏訪之瀬島)、山尾三省(屋久島)。中3の息子と、小6の娘と女房と出かけた。夜の湯島聖堂の石畳は、直に尻を下すにはいささか冷たすぎたが、僕たち家族は身体を寄せ合いながら詩人たちの声を、物語を聞いた。子どもたちはわからなかっただろうが、この機会でもないとこんなメンバーに会えることはできないと思った。その3年前に父を送った僕は、心熱く、これからの自分の道とダブらせながら、詩人たちの生き方、来し方を掬うように聞いた。齢80に届かんとするナナオの低く深く響く声は、僕の背中にすっと回って、僕の肩を揉んでくれるようだった。
あちこちへ最早出かける機会は失せてしまってはいるが、僕には「生きる」ということの原点を常に教えてくれたような詩人であった。三省はこの翌年の8月に旅立っていった。ナナオも決して不死身の人ではなかったのだ。死んでしまうのは最後の最後のナナオらしい往き方だと何故か思えてならない。
若い友人に新たな家族ができたことは喜ばしい。ナナオが天に昇ったことも、ナナオのポエトリーの終章だったと思えば、天晴れ完結と喜ぶべきことかもしれない。早川町の峰隔てた長野県大鹿村で葬儀が営まれた。青空のそのまた向うに僕は手を合わせる。

2008年12月25日Thursday 晴れ
数日のことを。 パソコンのトラブルでインターネットができなかった。今夜まとめて。23日は枝下しの3日目。一番ハードな日。杉の大木2本を切り倒す。親方がクレーンで杉木に吊り上げられ、順番に上から切り落としていく。クレーンで下されたのを、他の作業員が手順よく小さく切りそろえてゆく。全く無駄なく作業が進められていくのは、見ていて気持ちがよかった。10時半になって、僕は増穂の明王寺へ。今年の僕の終いの祭典。例年と同じく、真っ青な空が広がり、寺周辺を巡拝して本堂へ。副住職導師で護摩法要。僕は修験で途中から錫杖加持。気持ちのいいお祭りが終わり酒宴。標住職と暫し語らい飲む。午後4時半に中富方面に用のある方の車で送ってもらう。帰ると夕暮れの中にもう2本の杉はなく、大きな切り株だけがあり、風邪を引きそうな景色。さびしさもあるが、これは決断のひとつで、今回を逃すといつ切れるかまたわからなくなる。この日娘も冬休みに入り帰省。
24日、作業最後の日。僕も午後休み最後に礼を言う。午後1時前にツカサ君からケータイに連絡が入り、男の子が生まれたと。よかったよかった。クリスマス・イヴに新しい後の誕生。早速女房にも伝える。作業員の人達が、女房が所望していた椅子やテーブルになりように、大木をたくさん切ったり細工してくれたりして置いていってくれた。20トンを超えるレッカー車が入ったので、あちこちに大きな窪みができたり、杉の葉が大量に散乱しているので、夕暮れまで庭掃除をした。もう暗くなり始めた境内で昇る煙を追っていると、角屋からE君カメラを抱えてやってくる。きめの粗くなった風景の中で暫く会話。そのうち一度飲みましょう。しめ鯖肴に。
今日は今日で、相変わらずインターネットができず、娘が居たのでモデムをNTTで診に来てもらい、結局故障ではなく、LANケーブルがいかれていたとのことで、彼らの手持ちのケーブルと交換していってくれて一件落着。サクサクと今夜はネット。御札作りもそれなりに。

2008年12月22日Monday 晴れ
風にも負けず。 強風の夜を過ぎて、朝になってもまだ強い風が吹き荒れていて、朝のお勤め後も本堂の扉を閉めたままにした。雨はなかったがこの風では作業がないだろうと思っていたら、2人作業員が来ていて、尋ねると「親方の指示待ち」だという。しばらくして親方も見え、風が強いので、本堂周辺の桜の枯れ木の処理をするという。僕はそのまま勤めに出る。
本庁での午後の会議が終わって3時半過ぎにちょっと覗きにやってくると、たった今引き上げたところだと女房が言う。本堂上の桜と、周辺の枯れ木もきれいに片付けられて、さっぱりと明るくなった。十分、十分。また桜をこの周りに植えよう。
明日はいよいよメインの、山門のケヤキの枝下ろしと2本の杉の切り倒し。11時前には明王寺の冬至祭りに行かなければならない。段取りよく危険なく終わることだけ祈ろう。

2008年12月21日Sunday くもり
枝下ろし。 生温かい風が吹いて、雨も舞った。朝から森林組合の作業員とレッカー車が来てケヤキなどの枝下ろし作業はじまる。2本の杉木も見てもらい、これもこの際伐ってしまうことにする。これで作業日程が一日増え4日間になるというも、またいつこれをしなければならないかわからないので、来てくれた護持会の役員にも相談して決める。夕方から天候か崩れそうだということだったので、明日の月曜の作業は中止。それでも、南側のケヤキ2本と茅の枝下ろしを終えた。見上げるケヤキの大木の先端に、レッカーに吊り上げられながら作業員が上がっていき、腰からロープで下げたチェーンソーを片手で操りながら、枝を落としていくのはまさに圧巻であった。
今年初めての大風が吹き、生温かい風が流れ、寺の庫裏のほうが冷えを感じた。「いつもなら、頬っかむりをしないと耐えられないのに、おかしな天気だ」と作業を終えてお茶を飲みながら話した。
僕は、一日頭上の作業を眺めたり、年賀状を平行して作り、それから門松も仕上げた。なかなかに充実した日曜日。「篤姫」の終わってしまった日曜の夜を、女房と「なんだか楽しみがなくなったね」と話し、クリスマス用に、柿の葉寿司をネットで注文した。

2008年12月20日Saturday 晴れ
暮れの掃除掃除。 土曜休日。一日外。落ち葉を片付け、竹を一本切って煤払い用に。今年はうまく煤払いの竹が作れた。何年もやっていれば、いくらかでも上達してくるか。やろうやろうと思いながらなかなか果たせないのが煤払いだが、今年は早めにできた。煤払いに使った竹を、門松に使う。女房の見ていた「婦人画報」に載っていた青竹を一本使ったシンプルな門松を作ることにした。これなら僕でも何とかなりそう。長谷川きよしのCDを鳴らしながら外での仕事。遅くまで。
本堂のお勤め済ませ、外の火を確かめて、さて飲もうかなと思っていたところに、Wさん。柚子を持って訪ねてくれた。実家の近所で昨日火災があり、今日も帰ってきたのだという。マッチを所望され、女房が線香と一緒に持っていっていただく。線香ほしいなんて、お寺にとって、うれしいことじゃありませんか。仏壇の火は、ライターでなくマッチでなんて家がまだまだ、こだわってあるようである。よく一日働きました。

2008年12月19日Friday 晴れ
勲章で寂しさなんて紛らすことできるだろうか。 88歳の高齢者叙勲を申請していたAさんの、勲記と勲章を受け取りに県庁に行った。good timing。新しいメガネを明日取りに行くことになっていたが、県庁の後に回って受け取り。早速新しいのをかけて車の運転。Aさん宅にて届けると、「まあ、上がってお茶でも飲んでいってくれ」という。一人暮らしの高齢者に素気無く断りを入れるのも悪いかなとお邪魔する。叙勲が公表された後、たくさんの各種団体や業者から電話やダイレクトメールや訪問があるのだという。でも言葉は嬉しさを隠せないようだ。「実は今日もこんな方が午前中訪ねてきて」と、僕に名刺を見せてくれて、本らしいのだが、65,000円也の領収書まで見せてくれて、「思い出だから」と買ったのだと話してくれた。そんなに嬉しいものなのか。帰り際に、「大変に厄介になったから」と、缶ビールが何本か入ったビニール袋を手渡してくれた。断るのも申し訳なさそうに感じたので、ありがたく頂戴した。去年奥さんを亡くし、一人暮らしの年の瀬は寂しいものだ。勲章は寂しさを紛らすグッズとなりうるだろうか?

2008年12月17日Wednesday
DEEP PURPLE。 訳あって、今年の秋口からDEEP PURPLEをよく聴いた。(何、訳なんて実は何にもないのだ)。若い頃はHard Rockをほとんど聴かないで過ごしてきたので、今になって聴いてとても新鮮。Progressive RockとClassicが程よく調合されて、Classic音楽の根底に流れるヨーロッパの人達の音楽観が実に良くわかる。シャウトするハイトーンのボーカル部分より、長尺なインストにどちらかというと惹かれるのだが、50を過ぎて寛容になった僕は、好き嫌いなくなんでも聴くようになった。DEEP PURPLEもまた、日々の寺暮らしにOK。でも、今の時代の若者向けの音楽は、僕虜にするだけに魅力に欠けるので、もっぱら70年代や80年代へ遡って、その当時聴かなかったジャンルを片っ端から受け入れてみるみたいなところなんだが。思い出した。中野の駅前にあった「Disc Otsuka」でアルバイトをしていた時期があり、その頃流行っていたのが、ディープ・パープルを去ったRICHIE BLACKMOREの新たなバンドRainbowの「虹を翔る覇者」だったり、Camelの「The Snow Goose」、JEFF BECKの「Wired」、The J. Geils Bandの「Sanctuary」、Tai-Phongのデビューアルバム(これものすごく切なく美しいメロディーで、CD再発で買っちゃいましたけど)、おっと忘れちゃいけないEagles「Hotel California」などなど。
このアルバイトの時に、ほとんど聴いたことのなかった洋楽をたっぷりと昼から夜まで毎日聴かせてもらった。1976年のことである。DEEP PURPLEってバンド名の通り、その深い紫を想像させるに足るだけの音楽性と技量と詩心を兼ね備えたバンドだったんだ。

2008年12月16日Tuesday 晴れ
生きていけるだけの保障を。 夜明けは少し早くなったな。夕暮れも少し遅くなったように感じる。昨日も今朝も、本堂の裏山の上天にある明けの月が、くっきりと鮮やかだった。
100年に一度の大不況だということを聞いた。この辺に関してはまったく無知である。ただ、毎日毎日繰り返し報じられて、この師走の寒風の中に放り出されるかのような、一方的な解雇通知による失業者のことを思うと身が締め付けられるように辛い。解決策を見出せないままに、不況のことを扱う番組があり、それが番組が終わると、番組の繋ぎにNHKでさえも「大晦日は紅白で!」なんて、配慮も何もあったもんじゃない。そこそこに生きていられる僕らには、明日から住む部屋もなくなるという人たちの気持ちが、何か別な異次元の事態のように、本当にそれをわかることができないのかもしれない。現実も辛いが、それを遠く聞くような自分の暮らしと今の在り様が、なんとも複雑である。祈るしかないのである。好転することと、生き抜いていける保障を祈るだけである。

2008年12月15日Monday 晴れ
冷え込み厳しい朝。 今朝は寒い。寒かったというよりまだ朝なので寒い。頭も刈ったばかりなので、今朝の本堂は頭の天辺から寒さが尻の穴へ沁みた。こんな日が続くのはかなわんなぁと思いながらも、これが僕のなすべきことでもある。
風もなく穏やかな朝で、もう樹木にほとんど葉はなく、今週末に枝おろしが3日間予定されているので、しっかりと目に焼き付けておかなければならない。新年を迎える前に、許しを乞うて、ケヤキの枝を下ろし、枯れた桜、樅木を倒す。もう半月で終わってしまう2008年を締めるために少しずつ始めなければいけない。遊びすぎているか、手を付けるのが億劫になっているか、昨日は5時過ぎてから庫裏の便所の掃除を始めた。おかげできれいになった。やればやっただけの見返りはあるものだ。

2008年12月14日Sunday 晴れ
メガネのこと再び。 メガネのことをもう少し。僕は大酒飲みで、その上前後の見境なくなるまで酔うて、車を壁にぶつけて壊すは、けんかはするは、メガネは壊すはで、買って一週間で壊して、眼鏡屋が見かねて半額で僕に新しいのを提供してくれたこともあった。だから、今かけているエアチタニウムのメガネは、まさに救世主だった。「フレームの広がらない、壊れないメガネってないですかね?」といつだったか相談したら、このグワーンと曲げてもなんともならない、元に戻るエアチタニウムのフレームを紹介してくれた。フレームは高かったですよ。確か7万くらいはしたように覚えている。レンズは別途だから、はじめは10万近くかかったのだろうけど、もうこのフレームで12年くらいもっている。レンズは4回くらい変えた。もうひとつ、このエアチタニウムのフレームは、レンズの枠がないので、耳にかける2本と鼻の部分だけなので、レンズはまん丸のものを頼めたのだ。だから、酔ってかけたまま寝てしまっても平気。それに丸いレンズと、まさに一石二鳥の夢のようなメガネだったんだ。いやぁ、来週が楽しみです。新しいメガネ。これからはエアチタニウムを休ませて、新しいのをかけるようになるかもしれない。去年作ったものは、草刈り時の専用にしようと、これはこれで大切にしないと。

2008年12月13日Saturday 晴れ
丸メガネへの思い。 似合う似合わないは別にして、やっぱりまん丸のメガネがどうしてもほしくなった。去年メガネを買った甲府の「メガネ・トケイのユキエ」に行ってきた。まん丸のメガネがなかったら、まん丸のメガネをいくつか取り寄せてもらおうと思って出かけた。ご主人はよく僕のことを覚えてくれていて、やはり「真円のメガネフレームのをどうしてもかけたい」と言うと、なんと、待ってましたとばかりに在庫の戸棚からまん丸のフレームの群れを取り出してきたのだ。丸メガネ研究会で、オリジナルのまん丸メガネを作ったばかりということだった。実にタイミングがよかった。早速その一つを買うことに決めた。これで、他人にはわからない、つまらないことかもしれないが、一年間のちょっとしたもやもやに決着できる。受け取りは来週末。
腕時計も壊れて持っていないので、ひとつついでに購入。これもデザインよく、おそらく一生使うことになるかもしれない。

2008年12月11日Thursday 晴れ
予算要求のヒアリング。 学校の来年度予算のヒアリングを始めた。教育長が変わり、僕にも出ろということなんだろうか。極小規模校は、統合問題も抱えているので、今日受けた感じは、「早く結論付けてくれれば、こちらも腹を括るわよ」みたいな思いのよう。財政的に逼迫しているので、前年比5%減などというし、きっとどこの学校も、かなり切り詰めて予算を立ててきているとは思うが、学校が存在している間は、その学校を疎かにはできない。修繕の必要箇所があればそれを要求してくるし、先ず第一に、児童生徒の学校生活の安全を考えるなら、ガラスの飛散防止フィルムを施してほしいというのは、至極当たり前の要求のように思えるし、要求される側は、「それは難しい」としか言えないようなもどかしさがある。学校の要求を教育委員会として聞き入れても、この後に、財政課とのヒアリングがあれば、バッサリと有無言わせずに斬られて、こちらも倒れてしまわなければならない。予算0になるまで、減額しろとはならないわけだが、いま一番難しい時代を歩いているのだ。

2008年12月10日Wednesday 晴れ
カタログもカレンダーも景気低迷の煽りを真っ先に受けているか。 県庁へ行ってきた。死亡叙勲を受けた2名の方の「位記」「勲記」「勲章」を受け取りに。新平和通沿いのガソリンスタンドがかなり安い値段になっていた。107円、109円という看板が一番安そうだった。今までの値段はなんだったんだ。昼になってしまったので、家に寄って弁当を食べたが、宇佐美の値段は112円だった。
県庁前の宝くじ売り場は少し並んで買い求めていた。僕はそれに興味がないが、一攫千金の夢を買う人の中で、必ず当たりの人が出るってことは確かなんだからな。何十年と買い続けても当らない人がいたり、初めて買った1枚が一等だったなんてこともあるかもしれない。夢でも見なきゃやってられない世の中か。今日が公務員のボーナスの支給日で、当然僕も貰ったわけだが、支給日より前に支給明細を貰ってしまうし、現金でいただくわけではないので、特別な感慨があるわけでもない。「そうかぁ」「ふーん」なんてものである。
先日の葬儀で伺った当屋に、半帽子を置き忘れてきたようであるが、貰いに行くのもめんどくさくて、古かったし、正絹で黄ばみも激しかったので、ネットでシルックの2枚で6300円のを注文した。ここ2年くらい、僕の寺には法衣・仏具の販売カタログが送られてこなくなった。どこもみな立派なカラー刷りのカタログだったので、きっと作るのにもお金がかかるだろうし、僕のところのような、何年に一度くらいしか何かを頼まないような寺院には、カタログを送らなくなったのだろう。衣にしても仏具にしても、一枚あればそれが僕の一生の着物であり、何枚も持っていても着る機会も少ないので、そうしょっちゅう法衣店とお付き合いなんかする必要もないわけだ。まっ、今はインターネットもあるしね。「今年は、貰うカレンダーが少ない」なんてことを職場で話した。こんなところから経費削減をしている状況なんだろうな。でも、クリスマスの電飾の家が増えてるってのはどういうことなんだ?

2008年12月8日Monday 晴れ
週末のこと。 今朝も冷えている。冷えているから夕べの夜空の星もくっきりと鮮やかだった。ぐったりと疲れるほどの金曜の会議を終えて、というか威圧的な。まったくクソ喰らえだ。土曜は9時から原の秋葉社の火伏せの事。長く続けていってもらいたい。止めてしまえば、ハイ、それまーでーよだ。11時からW家の法事。昼食も庫裏で取っていただく。若大将の手抜きのない誠実な法事の料理。大好評。参加者の幼いころの話に、こちらも夢中になって聞きながら飲む。日曜は朝8時から富士川クラフトパークでの「みのぶ健康マラソン」の手伝い。中学生3名の参加者はあまりにもさびしい。期末試験前とかで、学校側から参加できないことがあらかじめ主催側に伝えられたのだそうだ。ふーん、こんなことも当たり前になったのか。皆が走り終わってから僕もコースの3kmを歩いてみる。初めて眺める場所もいくつかあり、クラフトパークの広さをあらためて知った思い。風のない好天気の芝生で、トン汁とお弁当を食べて帰る。帰宅後は、2時間半ほど落ち葉掃き。結構これも運動になる。
篤姫も来週が最終回。江戸時代の幕引きをする女性の一生を一年間楽しませてもらった。寒くて亡くなる人が多いようで、今日もまた叔父の寺の葬儀の手伝いに行く。午前中の仕事がんばらなくては。

2008年12月5日Friday くもり
暖かい朝。 暖かい朝だ。天気が悪くなるのかもしれない。今日は定例の会議がある。どうもここしばらくのこの会議が憂鬱でずしんと重い。
本堂に参拝者に書いてもらう芳名帳を置いている。皆が書いてくれるわけでもないが、それでも少しずつ繰られていく。時には、道ならぬ恋にあるような二人の名が書いてあったり、護摩木にそれぞれの思いが書かれていたりする。それを否定も肯定もしないが、人が生きていくうえでの因縁の下にこれもあるのだとしたら、それはそれで仕方のないことかもしれない。お不動様はすべてを受け入れて、しっかりと生きなさいと、語りかけてくれているに違いない。これもまた不動の慈しみの眼差しであろう。
明日の朝に雨が残らぬよう祈っていよう。秋葉社で火伏せの祈りがある。?雨であればそれが叶うってことであれば仕方のないことか。

2008年12月4日Thursday 晴れ
誰も入ってこれない時間。 ガソリンの値下げが続いているという。2005年6月水準まで落ちたそうだ。宇佐美もびっくりする値段。115円だ。いったいこれまでの価格は何だったのだというほか、僕には経済のことはわからない。でも、ガソリンの価格が下がっただけでも、師走の気持ちがホカホカしてくるようである。
今朝はあまり寒くはなかった。そういえば昨日の朝も。落ち葉を掃いた。もみじも散り始めた。風のない朝の空へ真っ白な煙が上っていくのを見るのは楽しみだ。いつまでもそれを眺めていたい気持ちになる。難しいことを考えなくていい時間。あるものを片付けてさえいればいい時間。誰も入ってこれない時間。今年のもみじの紅葉はあまりキレイではなかった。隣りの角屋のもみじもいつものように鮮やかではなかった。これも温暖化の影響なのだろうか。
夕べはテレビを見ながら甲府の遠藤さんのところの塔婆を2本書いた。夜は女房と二人だけの時間だ。書き終わって、BSで空から眺める山々の紅葉を見ながら、冷酒をコップ2杯飲んだ。

2008年12月3日Wednesday 晴れ 夕べのWOWOWの、生中継!桑田佳祐 Act Against AIDS 2008「昭和八十三年度! ひとり紅白歌合戦」に釘付けになってしまい、7時から10時までトイレに行くこともなく見てしまった。サザンは僕の興味の範疇ではなかったが、桑田佳祐という人は、ホントの芸人というのかな、サービス精神旺盛で。観客を飽きさせずに最後までテンション下がらずに歌いきった。歌謡曲からポップスから演歌に到るまで、ひとり紅白だから男性と女性の持ち歌を交互に、3時間一体何曲歌ったのか、歌詞を覚えるだけでも彼の引き出しの整理された頭の中を見た思いだ。Yahooで検索したら、「3時間15分全61曲」ということだ。無条件に面白かったっていうのが率直な感想。
世相の暗さを吹き飛ばしてくれるのがこの桑田佳祐という歌い手の役割なのかもしれないな。
師走に入り、夕べも2件の檀家から電話があり、今月中の法事のこと、檀家の継承者の変更の相談などあった。一般の方への護摩札の案内詰めを行い、寒くなっていく毎日を、懐手しながら時々手を出して、それでも少しずつでも仕事を進めていかなくては。

2008年12月3日Wednesday 晴れ 夕べのWOWOWの、生中継!桑田佳祐 Act Against AIDS 2008「昭和八十三年度! ひとり紅白歌合戦」に釘付けになってしまい、7時から10時までトイレに行くこともなく見てしまった。サザンは僕の興味の範疇ではなかったが、桑田佳祐という人は、ホントの芸人というのかな、サービス精神旺盛で。観客を飽きさせずに最後までテンション下がらずに歌いきった。歌謡曲からポップスから演歌に到るまで、ひとり紅白だから男性と女性の持ち歌を交互に、3時間一体何曲歌ったのか、歌詞を覚えるだけでも彼の引き出しの整理された頭の中を見た思いだ。Yahooで検索したら、「3時間15分全61曲」ということだ。無条件に面白かったっていうのが率直な感想。
世相の暗さを吹き飛ばしてくれるのがこの桑田佳祐という歌い手の役割なのかもしれないな。
師走に入り、夕べも2件の檀家から電話があり、今月中の法事のこと、檀家の継承者の変更の相談などあった。一般の方への護摩札の案内詰めを行い、寒くなっていく毎日を、懐手しながら時々手を出して、それでも少しずつでも仕事を進めていかなくては。

2008年12月2日Tuesday 晴れ
師走入る。 師走に入って2日。冷え込みも一段と厳しくなってきた。一年の締めくくりの一ヶ月、また慌しく終わっていくのかもしれない。法事が2件ある。牧丘も訪ねたい。明王寺の冬至祭りがある。30日には日直もある。今年は仕事納めが2日早く、新年も1日遅い。新しい年の準備をするにはこのカレンダーはありがたい。お札も作らなければならない。煤払いもある。雑木の伐採を森林組合がいつ始めてくれるのか。
役場の仕事も寺の仕事もしっかりとやって、きっちりと終えて、今年に悔いを残さないこと。

2008年12月2日Tuesday 晴れ
師走入る。 師走に入って2日。冷え込みも一段と厳しくなってきた。一年の締めくくりの一ヶ月、また慌しく終わっていくのかもしれない。法事が2件ある。牧丘も訪ねたい。明王寺の冬至祭りがある。30日には日直もある。今年は仕事納めが2日早く、新年も1日遅い。新しい年の準備をするにはこのカレンダーはありがたい。お札も作らなければならない。煤払いもある。雑木の伐採を森林組合がいつ始めてくれるのか。
役場の仕事もきっちりと終えて、今年に悔いを残さないこと。

2008年11月30日Sunday 晴れ
94歳を送る。
壮絶な人生だった。結婚相手の写真一枚をもって単身中国に渡り、そこで4人の子をもうけ、戦後帰国したという叔母のお母さんの葬儀。敗戦を知った中国の地で、幼い子らを抱え、自信は頭を剃り、男子のような姿で過ごしてきたという。
僕は2週続きの葬儀と「ふじかわ聖苑」。落ち着いてとても静かないいホール。
不動寺での葬儀も、風も穏やかでとてもよかった。叔父と永啓と僕の葬儀はきっと今が旬かもしれない。これがとこしえに続くわけではないが、愛おしいものを抱えるように、僕はこの3人のときを大切にしっかりと心に刻みたいと思っている。葬儀を終えて、初七日の法事。読経を終えてやっとビール一杯。まったくの異郷の地の話を聞きながらビール。でも人が生きてきた命のつながりの不思議、今日は女房と帰ってきてからも話しました。「篤姫」もいっそうよかったよ。明日はもう師走。

2008年11月29日Saturday 晴れ
雨も降ったりしたが、狐の嫁入りのような日で。
雨がケヤキの葉を9割がた落とした。これから木枯らしが吹けば裸になってしまう。最後にモミジの葉だ。護摩を焚こうかと考えていたが、外回りの仕事なんかをしていたらもう無理になった。12月に入ってからだ。
夕べは喜田で鍋パーティー。熱燗をちびりちびりやった。お化けなめこが絶品で、ここまで大きくするなんて僕にはとても待てないけど、考え方を改めて、「なめこなんかあったっけ?」なんて思っていれば、来年はこんなに大きな椎茸のようななめこが家でも収穫できるかもしれない。何せ大きくたって坊やだったって、味やぬめりにはまったくかわりがないんだから、大きいほうがいいに決まってる。それからヨシヒデくんが今年初めて仕留めたという、イノシシの肉もいただいた。旨かった。
今日は夕方には叔父の寺に通夜でいくので、早めに頭も刈った。裸になって、少々寒さをこらえつつ、身をよじりながら、バリカンを滑らせた。今夜は寒くなりそうだ。

2008年11月28日Friday 晴れ
中途半端に一週間の仕事を終えてしまった。
夕べからの雨は今朝まで続き、大分降った。側溝に溜まった落ち葉が流れずに堰になって水を止めてしまっていたのを見つけたが、出勤前で片付けることできず、明日の土曜の仕事としようなどと思いつつ出かける。始業後すぐにケータイにHくんから電話。叔父さんの奥さんのお母さんが亡くなった知らせ。葬儀の手伝いに来て欲しいということ。午後2時半に仕事を早退して女房と不動寺へお悔やみに行く。月末の仕事を片付けようと思ったが、学校とPTAからの要望書の受け取りなどで時間を食ってしまい、捗らずに今日はもう諦め。不動寺に行くと、93歳の小さくなった老婦人が眠っていた。話をして明日の通夜と明後日の葬儀は、出棺から同行させてもらうことにした。
八ヶ岳の裾がやけにくっきりときれいだった。2周続きで葬儀に立ち会うこととなった。何が起きてもいいように、溜めずにできるだけ早め早めに寺のこともしておかなければいけない。夕べの御札書きは手始めによかったな。
喜田の姉さんから、なめこがたくさん出ていたから、「あんたも見てきたほうがいいよ」とメールがあり、不動寺から帰ってすぐに女房が見に行ったが、空のザルで帰ってきた。我が家のは今年はどうやら打ち止めの坊やになった。

2008年11月27日Thursday くもり
僕には飾る錦の当てもない。
夜明けが一段と遅くなった。6時を過ぎても白々ともしてこない。昨日大量に現れたという猿たちも山に眠っているのか、ごそりとも音はしない。別な場所へ移動したか?昨日は午後天気がよく暑かったが、今日からはまた天気が下り坂になるらしい。だからか、今朝の本堂は寒くはなかった。今日は地方交付税検査があるので、Sさんと午前中本庁だ。夕べ寝床に入ってから、遅いニュース番組を見ていたら、安馬の大関昇進を知った。日馬富士(はるまふじ)と四股名も変えて、益々いい相撲を見せてほしい。厳しいだろうが千代の富士のように横綱も狙えるよ。○○になって故郷に錦を飾るなんて言葉を聞きながら育ってきたけど、いまこんな言葉死後になったな。外国からの就労者(相撲取りやスポーツ選手も含め)がここへ来て、こつこつと働いたり、己の才能を武器に金を稼ぐ時代になった。彼らがまさに今「故郷に錦を飾る」の人たちだ。僕は故郷がこの寺なので、飾るものもなく、故郷に骨を埋めるくらいのものだろうか。これとて、坊主である身では約束できない。

2008年11月26日Wednesday 晴れ
尻の穴から力が抜けていく気持ちは、猿のせい。
「今日は猿がたくさん来た」と、ほとほと疲れたように女房が力なく言った。柿の木に上ったり、本堂の屋根に上ったりと。先日兄弟を亡くしたEさんと、火葬をしている間に話した。よく寺で遊んで、本堂の屋根にはしごをかけて上って、「ギャーギャーの卵」を取ったりしたと。昔はいたずら小僧たちが毎日寺を遊び場として、私の祖父の目を盗んでは屋根に上ったり、時には見つかってこっぴどく怒られもした。僕は高いところが苦手で、いともなくすっすっと上って、斜度のある本堂の屋根を軽業師のように歩く彼らを羨ましく眺めたもんだ。昔はいたずら小僧で、今は猿だ。とんでもない時代になった。「ギャーギャーの卵」とは、いつだったか話していて、おそらくブッポウソウの卵だろうと思った。2年前にひとつがいが寺に来て依頼、この杜でブッポウソウを見ることがなくなってはいるが、子供のころには毎年何羽か来ていた。それで、あの美しい鳥の卵を、どこに産んでいたのか知らないが、屋根のどこからか取っていたのだろう。ブッポウソウは、巣作りをしないで、ケヤキの洞なんかを利用するらしいのだが、本堂のどこかをも利用していたのだろうか。
猿たちに怒ってみたところで、奴らが撤退してくれるわけではないだろうが、本堂の屋根に上ってボスよろしく遠見をする姿や、回廊を飛び回る姿は、神仏を恐れぬ行いの極みで、僕はあれを見る度に、体の力がスーッと尻の穴から抜けていくような気分になってしまう。

2008年11月25日Tuesday 晴れ
「だんだん」の飛び過ぎ」。
朝の連続テレビ小説のこと。飛躍しすぎだわ。ここまで世間の常識から脱線してしまっては、視聴率稼げないのは当たり前。双子が別々に暮らし、或る時出会ったのは物語として許せるも、今日は父親がプロボクサーへカムバックしたいとか、別れた妻が、元夫に、「助けてください」なんて、これは飛び過ぎも酷すぎる。脚本の森脇京子さんに?を呈するしかない。これを3月まで見るのかと思うと胃が痛くなるような気分である。女房は「見なければいいじゃない」というが、朝の習慣になっているのでね。女房曰く「西物は面白い」というのが、朝のこの番組なんである。確かに関西で製作した物語のほうが面白かったのだ。だけど、今のところ、この「だんだん」は最低だ。マナカナにも期待していただけに、物語の展開にどうにもこうにも着いていけない。すみません、ほんとに個人的な評価です。

2008年11月24日Monday
クールダウン。
葬儀の昨日が過ぎて、振り替え休日をのんびりとしている。葬儀に当たるのも一種の興奮状態にあるので、クールダウンみたいなものか。雨が落ちてきそうで落ちてこない。DLして溜まった音源をCDRに焼きながら、ヤマダで買った小さなスピーカーをつないで聞いている。小さくてもスピーカーはノートの声とは段違いである。今、ハービー・ハンコック。レナード・コーエンのMP3も焼き終わったので、明日あたりNくんに送ろう。
昨日は帰ると、「誕生日プレゼントが届いているよ」と女房。おー!!!世田谷の佐田さんから泡盛6本詰め合わせだ。8月にもいただいて楽しんだが、その後に痛風で痛い目を見た。今度は慎重に。前回お裾分けできなかった方たちにも。昨日の葬儀は叔父と二人であったが、「追弔和讃」という普段、葬儀にはやらないご詠歌をやったけどとてもよかった。最近僕は、この「追弔和讃」を通夜の席では唱えるようにしている。叔父さんから四国の話を聞いたり、世間話をしたり。11年を過ぎた父の死を、叔父は昨日もふと思い出したように、「それでも少し早かったね」と、詩人である叔父が古いページを繰るように愛おしく言葉にしてくれて、兄を思う弟の僕にはわからない兄弟愛が伝わってきたのだ。嬉しかった。52歳になったのだと話すと、「永明は申だよね、私も申だから」と、24歳の年の差を僕はそんなに遠くはないなと後になって思い返してみた。
今日、サンニチ新聞に投稿した「上求寺(じょうぐじ)」という詩が載った。上求寺へのオマージュだ。長兄である僕の祖父を支えるために、物心両面で弟たちががんばってきてくれたお陰で今の僕がこうして生きている。その昔のことを僕がいまさらどんなに恥じても、悔いても仕方のないことだけれど、この寺に僕もやがて帰って、「永」の一字を受け継いだ者として、その永遠なるサンガに暮らすのだ。

2008年11月23日Sunday 晴れ
夜に起きる。
5時前に起床。本堂で勤行。この時間だと完全に夜。朝ではない。欠けた月と星々が真っ暗な空にくっきりと輝いている。今日は52歳の誕生日である。なんとまあよくもここまで。手の甲を見ると、もう皺だらけで若い感じはとうの昔に失せている。お陰様で朝の理趣経読みの勤行はとりあえず今のところ途切れずに続いている。あんまり自信はないんだけど、どの辺までいけるか試しているってところ。今朝の早起きは今日が葬儀で、セレモニーホールへ7時15分までに行かなければならない。40分くらいはかかりそうなので、秀ちゃんと相談して6時半出発。秀ちゃんが迎えに来てくれる。一日、この僕の誕生日を56歳で去る無念のために、そして無念を払拭して、清々しく旅立っていけるよう導こうと思う。

2008年11月22日Saturday 晴れ
昼間はあたたかい、あたたかい。
部屋の中は風もなくあったかいので、なんだか外に出るのが億劫になる。遠藤家の葬儀の準備。お手伝いを頼む不動寺のおじさんのケータイに電話をしたら、「いま四国遍路で高松に居るんだが、明日帰るから」と、頼むことはできた。まさか四国に居るとは思わなかった。でも、その時、「やったー!!」という思いが底から湧いた。なぜかわからないが、とっさにそう思えた。四国遍路を終えて帰った坊さんに葬儀をしてもらえば、きっと個人も喜んでくれるという風にかな。
今日は3時から納棺、通夜。明日午後1時の葬儀。しっかりとまじめに勤める。これが力のない坊主の唯一の僧として存在する理由。これから頭を刈って少し早めに出かけて、ヤマダ電機で少し買い物だ。
明王寺から冬至祭り祭典の案内が届いた。12月23日。こちらは年の収めのお祭り。毎年の楽しみ。お祭りも後の酒も。師走の空に法螺貝の吹き収め。ここもまじめに勤めるのが僕の存在する証となる。

2008年11月21日Friday 晴れ
命葉枝落つ。
今朝は昨日をさらに上回るかのような寒さ。本堂は暖を取ることができないので、厚着をするしかない。でも手袋をはめるわけにも行かないので、ここは耐えるしかない。終わりの護身法は、もう指先がかじかんで印を組むのもやっと。こんな日の連続になるのだ。
夕べ10時前に電話があり、心配だった檀家の亡くなったことを知らされた。甲府に住んでいるので、八日市場に住む弟さんも「今電話を受けたところ」だったので、今夜は連絡までということになった。急に列島を寒波が襲い、こんな気温の変化なんかに、体がついていけないことがあるようだ。今朝もう一度連絡を貰うことになっているが、月曜までの連休のうちに済ますことになるだろう。長く病と闘ってきたからだ、ゆっくりと休ませてあげたいと思う。冥福。

2008年11月20日Thursday 晴れ
薄氷張る。
今朝も寒かった。合掌する指先に冷たさが登った。この冬初めての感覚。もう冬と言っていいんだな。落ち葉掃きに出た外の水道の流しに、薄く氷が張っていた。これも初めて。落ち葉を掃きながら昨日の会議のことを思い返した。議案は難なく終えたのだが、その他に移ってからのほうが重かった。それが昨日の午後もずっと会議録を作りながらまた聞き返して、ずしんと重かった。性善説にたって物を考えたい僕からすると、まさにその逆と言い切ってもいいような、僕たちは初めから嘘つきでいるというようなところから物語が始まってでもいるといいたいような威圧感を受けたのは確かだ。そんなに管理統制したいのであれば、あなた方がやればよいではないか。だが、これが本来のルールであるとしたら、僕のような者はもうこの世界に自分を置くことに限界を感じる。行政の末端にいる僕たちを見る世間の目は最近とみに厳しい。まるで昔から嘘つきで、油断ならぬ集団で、犯罪者のような。先々週の役場での会議でも、会議の冒頭から当りが強い。でも割と、裏のない言いっ放しというか、責任を端から持つ気持ちのない、好き勝手言いたい放題の集まりの、役場人間糾弾大会のような。かつての部落開放同盟のそれのように。それでも、もうしばらくはここで「自分の生活の基盤を何とかせにゃならん」というのが本音だ。さて今日も一日。
「サルビアの花」を今日の心の糧とした。

2008年11月19日Wednesday 晴れ
穏やかな年末を迎えたい。
今朝は冷えていた。起きる前に天気予報をテレビで見たが、関東周辺が晴れて10度を超える程度で、東北、北陸、北海道、長野、四国までも気温は一桁で、今日遅くには雪になるという予報。既に降っているところも。まだ真冬に入り込むのはちょっと勘弁だぜ。お勤めを終えて、今朝はストーブをつけてポットの残り湯に水を足して、やかんをかける。その後、落ち葉掃き。最近女房は、落ち葉を焚かないで大きなビニール袋に詰めてためておく。親戚が堆肥にするために貰いにきてくれる。僕も今朝二袋の落ち葉を詰めた。
昨日は教育長が退任し、今朝9時から新しい教育委員で、教育委員会を構成するための臨時会がある。元厚生事務次官を襲う事件が起きたが、年末に向けて厳しい生活を強いられる者たちへの連帯のメッセージなのか。穏やかな年末にしたいと思うのに、こんな事件がまた続出するのかな。なんの解決にもならんぞということだけは言えるだろう。 
(18:30) 新しい教育委員構成を決めて、一日この関連の事務処理で終わる。なんともコメントもなし。

2008年11月18日Tuesday 晴れ
通知を配る。
今朝はちょっと寝坊をした。5時38分になっていた。急いで起きてお勤め。お勤めを終えて村内の檀家へ護持会の通知を配る。自転車のタイヤの空気圧は夕べのうちに確認しておいたのでOK。今朝もそんなに寒くはない。エルクの長靴ブーツを履いて。まだ完全に空は明けきってはいない。夕べはWOWOWで録画しておいた「プリズナー」というサスペンスドラマの第1回を見た。東南アジアの架空の国を設定したもので、金が全ての腐りきった国で、警察も金。大使館はやる気ナシの無表情。そんなめちゃくちゃな国で犯罪者に仕立てられてゆく。それで寝坊をしてしまった。
どこの家もまだ静かで、郵便受けに封筒をそっと差し込んできた。台所に明かりが点いている家。早朝のウォーキングに出かける姿もあった。あとはみーんな静かにまだ今日をはじめてはいないようだった。今朝は霧もなく、もう太陽が顔を出した。夕べは月明かりはなく、歩く足元が暗かった。星はあった。ガソリンの値段表示は125円になっていた。安馬は昨日も勝った。党首会談が行われても、この落ち葉に埋もれる寺への影響は何もない。

2008年11月17日Monday 晴れ
踏ん張れ。
今朝は余り寒さを感じなかった。富士川の霧が集落にまで流れてきて、明けはじめの紫色の朝に霞んでいた。夕べも雨が降ったのかケヤキの葉が随分と落ち、一面に敷き詰められていた。きっと女房の午後は落ち葉掃きになるなと思いながら出かけた。宮木から一色の集落を抜ける頃は、道路から山へと霞がなびいていて、ちょうどキース・ジャレットのソロを聴いていたので、音楽と風景に軽くトリップしたような気分になった。鳩打隧道を抜けて出口の踏切を渡ると、常葉川の霧がまた良くて、職場に行かずにこのままバイパスを本栖湖に向けて走っていってしまいたいような朝だった。
一週間前に「何かあったら頼む」とお願いされて、朝のお勤めに、快癒とまではいかずとも病状の安定を祈っているが、果たしてどうなのだろう。一週間は越えた。更にまた一週間を越えられるか。土俵際を家族が支えている。しっかりと踏ん張れ。

2008年11月16日Sunday
雨。
そぼそぼと雨なので、暮れの準備をした。護持会の通知。お札作りなど。体は動かさないでいると冷えてくるのか、寒い。渋さ知らズの新しいアルバムが届いたが、「うるさい」と女房の拒否反応が出てしまい止む無く断念。喜多郎ならOK。Leonard Cohenのmp3があったのでDLはじめる。これが落ちたら、内藤君にもコピーしてやろう。そうか、こんな日はレナード・コーエンもいいかもな。天皇杯サッカーのガンバ大阪とヴァンフォーレ甲府の試合。今前半の32分で、1点とって勝っている。これからどうなるかわからないけど、このまま前半が終わったら、後半は見ないでおこう。負けの結果を知るのは明日の新聞でいい。
新年を迎える準備が一つ終わりほっとした。なかなか思っていても手がつけられないんだな、毎年。曇りでどんよりと沈んでいるような日に、気持ちを切り替えて片付けてしまうのがどうもいいようだ。

2008年11月15日Saturday くもり
大滝不動まで。
思い立って早川の大滝不動に参った。一年振り。法螺貝・頭襟・結袈裟も持つ。紅葉の林の中を女房と登る。相変わらず圧倒の滝と変わらぬお不動様。一年に何回かは訊ねたいと思いながら、こんなふうに1回くらいしか行くことができない。行けば行ったで凄く力ももらえるし、いいんだけどね。温かいそばを食べて、なめこのパックを買って、帰りにギャラリー・オゴンで木のぐい呑を1個求めた。今夜はこれで一杯やる。
今日は午前中、甲府の佐田さんの法事。11時からだったので、その前に墓地や庭の落ち葉掃き。掃いても掃いてもまた元の木阿弥。草刈にしろ、落ち葉掃きにしろ、同じことの繰り返しだわ。焦らずに、飽きずに。早川の帰りにコメリで少し大きめのブルーベリーの苗1本。夕暮れの中でカサカサと音立てて、石段の落ち葉掃き。今日も一日終わりました。

2008年11月14日Friday 晴れ
FLAC→WAV。
女房のVISTAは、なかなか使い勝手が難しいというか、ご機嫌とるのが容易でないというのか、DLしたFLACの音楽ファイルをWAVに変換するために、FlacをDLして僕のPCのようにファイルをドラッグしてもエラーが出てしまってうまくいかない。諦めて、ここでDLしたのは、外付けのハードに入れなおして僕の方で変換していたのだが、夕べ遊んでいるときに、変換できるソフトが実はたくさんあることを知った。当然フリーソフトである。「K本的に無料ソフト」というサイトの「音楽ファイル変換・エンコーダー」で、FLAC→WAVができると書いてある、とりあえずここの一番上にあったやつをDLして試してみたら、なんとまあ、口から入れたものがすぐに尻から出てしまう気持ちよさのように、あっさりと変換できてしまったのである。一年近くも僕は何をこせこせと、徒労を繰り返していたのか、知識の浅い自分をまた知ってしまったのだ。興味のある方はどうぞ。ソフトは「Xrecode」。で、いくつもの音楽ファイルのDLサイトを使っているが、最近ハマっているのが、「mininova」というところ。
ここは、Live音源のトレードサイトではなく、市販されているCDを圧縮してUploadしてある。法に反しているのかもしれないが、サイト事態は至極健全のようには感じている。怪しさの欠けらもない。mp3の太平洋である。mp3の万国博覧会やぁ。mp3の音でよければ、上に書いた変換ソフトも必要なく、落としたらそのまま再生できる。ipodは、mp3のような軽いファイルを更にAACで軽くするので、ipod使っている人には特にお勧め。僕は最近は、ここでじっくりとジャンル別に検索しまくって、FLACでアップしてあるファイルを落としている。そして落としてからこれをWAVファイルに変換してCDRに焼いたりするのである。おーっと驚くような掘り出し物もたくさんあって、最近の満足は、「Keith Jarrett - Nine Solo Concerts」というタイトルで出ていたもの。「The Köln concert」「Sun Bear Concerts:6枚」「Paris concert」「Vienna concert」のCD9枚分。FLACはmp3と違って、CDのままの音質を保持しているので、これは感動ものである。それから、「Miles Davis - The Cellar Door Sessions」6枚組み。これも高いので、金を出して買うには少しためらいがある。大感激だったのだ。キースのもマイルスのも、このファイルは、FLACのままで保管してある。変換すればいつでもまたコピーすることが可能。こんな楽しい趣味のことを書いていると筆が止まらなくなる。朝までは書きたくないので、この辺りで。

2008年11月13日Thursday 晴れ
定額給付金のこと。
聞いていると、成程というような事をコメンターはいう。口座に振り込まれた金を果たして下ろして使うだろうか?役所は相当というか、想像もつかないほど事務に混乱をきたすのではないだろうか。チケットで、期限があれば使うだろうけど。給付額を1人当たり1万2000円で、家は母に8000円の加算がある。娘は大学の寮に住所を移してあるので、渋谷区で手続きして受給することになるとして、息子は住所がここにあるので、それでも彼の権利だから、毎月の仕送りに1万2000円を上乗せして送らないと請求の電話がかかってきたりするか?お袋には2万円を渡したほうがいいか?僕はこれでCDを買わせてもらうことができるだろうか?夕べ女房と話していたら、「128円だよ。何だったんだろうね?」なんて、ガソリンの価格に一喜一憂していた時期をもう懐かしむ気持ちになっている。夜月明かりの中を気持ちよく歩き、スタンド宇佐美の看板を見たら、「1? 128円」と、数字は夜の国道に胸を張って立っていた。混乱の中で1万2000円貰うより、誰にも無理や迷惑をかけずに、具体的に誰もがそれを感じる方法で、「ありがたいな」と思われるような方法がいいんでしょうね。それで一票もらえたら最高じゃん。
今日はいい天気になりそうだ。久しぶりにもう陽が射している。午前7時26分。夕べの月明かりはとてもよかったし、空もきれいに晴れていた。
(21:00) 今夜上に書いた看板の128は、さらにマイナスされて126となり、月夜に威嚇するように吠えておりました。風呂からの月がちょうどよかった。メガネがないのではっきりとは見えないけれど、それなりに月の世を楽しみました。来客があったので別々に歩いたのだけど、今夜女房は、イノシシ3頭を見たそうである。楽しい田舎暮らしだ。

2008年11月12日Wednesday 晴れ
解体工事が始まった。
僕が2年間事務を執った下部支所(旧下部町役場)の木造庁舎の解体取り壊しが始まった。初めて入ったときは、下部支所と学校教育課だけだったので、人も少なくて、みしみしと軋む気の床が、なんだか寂しくて暗くて地の果てに追いやられたような気分だったけど、通う内に、そこで仕事をするうちに、古い建物に愛着が湧いて、僕はそこにもう少し居たいと思った。今は道を隔てた保健センターの中に居るけれど。油を塗った床の臭いの懐かしさや、冬期には暖房設備がないので、幾つも旧い石油ストーブを並べて暖を取った。昼の弁当を食い終わると何もすることがなくて、それで初めは知らない地域を探検するような感じで歩き始めた。はじめは、どのくらいの距離歩けるのか検討もつかなかったけど、2か月ほど歩いていると、今日はどこまで行ってみようとか、遠く眺める、あそこまで行ってみたいとか思うようになり、実際僕は、おそらく3キロちょっとは昼休み時間に歩けるようになったのではないかと思っている。
建物が片付けられて更地になるのは、年末か年明けになるのだろうが、これが少しずつ小さな町のあったことに止めを刺していくということなのだろう。僕はさびしい思い出ではなく、この木造庁舎で仕事ができたことを、とてもよい思い出になると思っている。

2008年11月11日Tuesday 晴れ
教育委員会ありました。
今日午後から定例の教育委員会。教育長と教育委員長には今回が最後の会議。今日の午前中に、臨時議会で新しい教育委員2名の選任がされた。今回から1名は、いわゆる保護者代表ということで、未成年を後見する者が教育委員となる。45歳の僧侶の方が教育委員となることになった。来週19日に臨時の教育委員会を開いて、新しい体制となる。今日の定例会は、小中学校の適正配置のことを最後に委員方で討議をして、教育委員会としてどう進めていくかということを確認した。あくまでも教育委員会の意見であり、これを町長がどう支持(指示)するかはまた別物なので、まだ少し進めていく方向付けには時間が必要だ。終わって、僕は議事録作成に移るも、なんか寒くて少々疲れて音を拾うことに集中できなくて、全部まとめることできずに明日に持ち越し。でもいいか。
寒い日が続く。実は、朝5時半に起床するのも、まだ暗くて少々気持ちが萎えはじめている。まっ、でもいけるところまでいく。今朝は久しぶりにバナナを食べてからお勤めをした。寒いので、墓地への坂の落ち葉も掃いた。頭には毛糸の帽子だ。朝が遅く帳が早く、この時期は毎年さびしいとつくづく感じる。こんな時期に僕は生まれていた。

2008年11月10日Monday 晴れ
夢は枯野をかけ廻る。
セイタカアワダチソウも枯れてきて、大炊平から清澤へと続く野道は、枯野の様相に変化してきた。かつてはこの道が本道だったらしいので、こんな狭い道を毎日大勢の人が行き交ったのかと往時を偲んでみる。僕が時々歩く以外に誰か歩く人があるだろうか?せっせせっせと僕は土の道を歩く。いつかまた大勢が歩けるような道でいてくれとか、道は眠らないでいてほしいとか、大地をノックしながら歩く。獣たちだけに歩かせておくには惜しい道のくねりと、靴底に気持ちのいい草や土の凸凹がある。「TOSHIROGAWA」の流れは、夏は勿論いいが、秋も凛として清々しい。まっすぐな流れではなく、蛇行する川の形状がまた僕をわくわくさせる。水の豊かな場所に住むことは、僕の昔からの憧れだ。それと、こんなにも信仰に篤いのかと驚かされる石仏の点在。何故こういう場所を離れていくのか。こんな場所にいたじゃぁダメだという時代がきっとここにもあったのだ。ただ、土地の人には怒られるかもしれないけど、僕は富士川の右岸に住んでいて、こちら側を左岸として考えると、なんとなく、「裏」っていう感覚で見てしまうんだな。テレビの電波が弱いとか、店がないとか。地上波が終わってしまうと、下部地区はテレビが見られなくなるかもしれないなんて、こんな「まさかー?」ってなことが、ホントに心配されていたりする。同じ町の住人であっても、僕もここじゃ他所もんのようなもの。裏でも表であっても、ここじゃ大差ないわ。ここに居れという、今を楽しめばいいか。今夜は月明かりがあり、歩くのが楽だった。月の明かりがあればどこまでも夜を行ける。富士川に映る月が、たったいま同じ時間に栃代川にも浮かんでいる不思議を思いながら歩いた。

2008年11月9日Sunday くもり
今日も一日寒くて。
どんよりとした日曜日。寒くて何をする気力もなくなる。昨日雨が降ったので、今朝見に行ってみると、なめこがまたたくさん大きくなり始めている。昨日の夕方お勤めをしているところへ、檀家のHちゃんがやってきて、お兄さんの病状のことを話していった。何かあったら頼むと。祈るしかないんである。筑紫さんを追悼する映像もこの週末いくつか見たが、最後の最後には、それを認めるしかないんだな。それをしっかりと受け入れるしかないんだな。悲しみの連鎖のような重く寒い一日。少し身体を動かそうと、護摩木を割る。粉雪のような雨に遭う。それでも寺を訪う人あり。御朱印しっかりとはっきりと力強く書く。それぞれの思いを心で聞けと自戒する。

2008年11月8日Saturday くもり
筑紫哲也さん逝く。
「NEWS23」のメイン・キャスターだった筑紫さん。今朝の新聞でその死を知った。癌を告白して、闘病生活の合間にも何度かテレビに出たけど、もうこれで彼の「多事争論」を聞くことはない。今朝は休みなので、お勤めも朝食後だった。筑紫さんを供養した。冷たい雨が降り、寒い一日となり、外に出られないので中の仕事。法事の塔婆を書き、炬燵を立て、ストーブを出して灯油も入れ、シメを切り、五大尊の幣を仕上げ、そうこうする内にお昼。焼きそばを食べ終わると、敬さんから電話があり岩間の駅まで迎えに行く。飯富の法事で来ることになっていて、その前に大聖寺によりお墓参りしたいとのことで連絡をもらっていた。2時間ほど話す。お互いに歳を重ね、家族の話や仕事の話など。一緒に墓参し経をあげる。こんな風にポツンとやってきてくれる親戚が嬉しく思えるような秋の日だった。
ストーブも早いかと思ったが、点けたら心地よく眠れそうな寒い日で、実際には点けなかったが、いよいよ冬に入っていくようだ。モミジの葉も随分と紅くなりはじめた。外を見たり歩いたりするのが楽しくなる。内の仕事が少し片付き、静かな土曜日。

2008年11月7日Friday 晴れ
お前じゃ埒あかんわ。
午後課長に代わって、地域審議会に出席する。学校適正配置の答申について説明を求められる。説明をしたが、その後のスケジュールをどうするとか、教育委員会としてどうするつもりかなどは、「諸事情が重なり、今のところストップしている」と応えて了解してもらう。つまり、町長が交代したこと。教育長、教育委員長が今月18日で任期が修了するなどの理由で、具体的な計画に手がつけられない状況にあるということ。彼らが一番知りたがったことを応えられないと先にこちらから言ってしまったので、向うも、こりゃ埒があかんわといった感じだったか?でも、これ仕方がない。「答申には、10年3段階で小学校2、中学校1にするとしてあるが、いっぺんにしてしまったらどうだ」なんて。段階踏みながらでも、住民への説明は何度だって同じように大変だよきっとというような意見だったと思う。僕には未知の世界だけれど、これが三人三様で、聞き分けのいい人達ばかりではないっていうことなんだろう。
朝方雨が降っていたので、今朝は明けは遅かったけどいつもより暖かく感じた。天候が早く回復して、昼にはいい天気になった。いつもどおりに歩く。歩きながら、考え巡らせている方が性にあっている。
今夜は、ありがたやのおかみさんが、きっちりと「しめ鯖」を用意してくれてあったので、お不動さんにあがっていた純米酒グラスに何度も注いで、僕の中の正しい金曜日。御免。

2008年11月6日Thursday 晴れ
補正予算立て、今日は引き分けってとこか。
昨日挫折した補正予算づくりのリベンジを始めて、約1時間ほどして妙なる数字の差引の世界に落着を見た。でも、ホントはこれからなんだよね。5時半までかかってようやく9割というところまでいった。後は明日だ。明日はもう金曜日。
9時半から事務職さんが他の定例会があり、2階の会議室へ入ると陽が差し込んでいて暖かかった。下の事務室は、窓が北と西にしかないので午前中冷えたままで寒い。天気予報じゃ今日も日中は気温が上がるって言ってたけど、昼に歩いたときにはそうでもなかった。明日からは下り坂らしい。
頭の中の引き出しが、いまいくつも開いていて、みな手を付け始めたけれど最後までいってはいない。そんな状態。でもこれがなんとなく快感で、追い詰められたら、やってやらぁってな気持ちになってくる。でも、この追い詰められた状態の、引き出しの開け具合って、勝手に僕だけが思っているものですからね。きっとそんなに大したことはない。

2008年11月5日Wednesday 晴れ
補正予算立て、今日は敗戦。
アメリカではエキサイティングなことが起こった。黒人の大統領が誕生する。凄いことだと思う。黒人だからといって、アメリカのとる政策がガラッと変わるわけではないだろうが、無意味な争いごとに顔を突っ込んで、収拾のつかないようなことばかり起こすのはぜひ謹んでもらいたいと思うのだ。心配がひとつある。これによって、新たな人種差別の事件が起こらないよう祈りたい。
12月補正予算を作り始めたのだが、補助金の減額をしなければならず、歳入歳出の数字を導き出す妙が、どうにも頭がこんがらがってしまって、僕の能力では太刀打ちできなかった。仕方なく今日は負けを認めて帰ってきた。以前からこの手のことがとても苦手で、答えがこうなればいいと解っていても、その答えに至るまでの過程を描き出せないのである。弱ったもんだ。「わからずの底」に完全にはまり込んでしまって、今日は惨敗、明日また出直しだ。

2008年11月4日Tuesday 晴れ
寒い人に「なめこの味噌汁」と「ほうとう」を。
昨日楽しかった分だけ、今朝は気持ちに凹みがあった。それでも5時半前には起きて、本堂と客殿でのお勤め。ホントに夜明けが遅くなった。寒さもきつくなった。終えて、そのまま客殿の絨毯を脇から運んで敷く。凸凹丸みがあり、重ねた座布団やテーブルを逆さにして重みとする。これも早起きの徳なり。女房はなめこを採ってくる。僕は植えた苗木たちの様子見に。寒くなってきているので、根付きがうまくいくのかが目下の気がかり。朝採りのなめこの味噌汁は最高。音楽プロデューサー小室哲哉氏が、著作権売買に関する詐欺容疑で逮捕されるらしいとの報道。「金なんか有り余ってるだろうに?」ってのが率直な感想。でも、持っている方は金遣いも相当な荒っぽさだってことだ。「預金通帳の桁は10桁までしかないので、その上の数字が幾つになっているのかわからない」なんてことを全盛時にはのたまっていたらしい。10桁は10億だから数百億の預金が存在していたわけだ。こんな寒い人にこそ、「なめこの味噌汁」一杯飲ませてあげたいな。
真っ白な地粉の入った袋と、伸したうどんの色が余りにも違うので、ほうとうに並ぶ人から、「こんなに色が変わるの?」とか、「何か混ぜているのですか?」なんて声が何度となくきかれた。黒っぽく変化するのが本来なので、白い粉から白いうどんは、漂白した粉だということがはじめて僕にもよくわかった。白いうどんを見慣れていたり、うどんは白いものと思ったりしていることの常識とやらを覆されちゃったんだよね。そうだな、ほうとうも寒い人に食べさせてあげたいよな。

2008年11月3日Monday 晴れ
県立博物館へ。
3連休最後の一日。県立博物館へ。いま「甲州食べもの紀行」という特別展をやっていて、その事業の一環として、味の見本市という週末だけのイベントがあり、食生活改善の会や個人やグループが自慢の郷土食を振舞うというもの。そこに喜田のお母さんの地粉手打ちうどんのほうとうも参戦した。準備は11月1日から始まり、うちの家内もうどん作りの手伝いに行った。9時前に出発。どんよりとした天気だったけど、ほうとうを食べれば温まる、ほうとうが欲しくなるような日和。他には昇仙峡の御嶽そばの保存会。都留の食改の人たち。うどんは伸したものを長方形に切り分けてラップで包み、会場でそれをうどん状に切って煮込むというもの。野菜も全て準備したものを持ち込む。椎茸だけは会場で細切りに。肉厚の椎茸は、他のグループがいただいて帰りたいというほどの立派なもの。午後1時の開始時間を少し早めてもらって振る舞いを始める。パラパラとしかいなかった人が、いつの間にか会場のテラスに列を成し始める。何処から沸いてくるというのか。お客さんも大勢だったが、博物館に勤めている人たちも相当数居るようで、いつかお世話になった学芸員のI女史にもお会いした。薄日の空からはっきりとした空に変わると暑くなった。紅葉には少し早いようだが、博物館の庭は僕が気に入っている場所なので、久しぶりによかった。女性人6人に、後から来たツカサ君夫妻も手伝ってくれて、食べる人たちも、僕たちも賑やかに和気藹々。大きな鍋に一つが結局余ることになったが、ほうとう好きな職員が皆で後食べてくれることになった。まじめにたくさん準備をしていったのだ。小出しに、短時間でおしまいっていうのは、久成の喜田の流儀には合わないっていう心意気だった。午後4時過ぎに帰宅。5時から一日を振り返っての反省会(飲み会)。ここまできっちりやるのも喜田流。

2008年11月2日Sunday 晴れ
一日植えた。 ツツジと金木犀とブルーベリーの苗を植えた。金木犀は外のトイレの隠しにしたいと思う。ツツジを犬走と農道端に植えた。ブルーベリーは畑に。結構一日かかるもんだ。大体になって、今度は空の酒瓶を片付けて芋焼酎を買いに。コメリに寄ったら、「十月桜」の苗があって花開いてきれいだったのでこれも2本買ってしまう。また長靴をはいてこの桜のために穴掘りから始めた。午後4時半を回ったところで終了。日暮れが早い。お勤めを済ませていま5時だ。頭を刈ってから晩酌としよう。明日は県立博物館。

2008年11月1日Saturday 晴れ
父の命日。 おとっつぁん、それはいいっこなしでしょ。ガッチョーンみたいなもんでしょ。政府の皆さん誰もが内心肯定していることでも、それだけは喉まで出掛かっても吐いちゃいけない、ぐっと呑み込んでって。「我が国が侵略国家だったというのはぬれぎぬ」発言。まあ、こんな風に自由にモノが言えるってのがこの国のよさなんだ。10人いれば10人が違う考えを持っているのが当たり前で、それを押さえつけちゃあいけない。でもね、立場上ってもんだ。またこれで、大阪の知事なんか「よく言った!」なんて、援護射撃発言したりするだろうな。
父の命日だ。晴れてよかった。これを書いているのは下部支所。今日日直で、一日監禁だ。お札を作ったので、午後にはシメを切る。年末の仕事が捗る。朝お勤めの後墓参。線香を手向けて心経一巻。11年が経った。僧侶であっても、死のことを父は恐れていたようだ。恐れるという言い方が適当かどうか、イヤ、もう少しもう少し生きる時間がほしかったという悔いであったのだろう。これでよしという年齢の定義を知らないが、僕も、もう少し僧として生きる時間を父にあげたかった。11年たっても僕にもこんな風に悔いが残っている。さびしいもんだ。マイルスのラッパがマシンガンのようにこうして書いている僕の胸を撃つ。もっと撃ってくれ!今日は思い切り撃たれていい。そんな日だ。

2008年10月31日Friday 晴れ
往く10月を惜しんで徒然なるがままに。
金曜の夜は我慢した酒だ。10月も今日で終わり。眺める範囲が狭い分だけ時の流れが短く感じる。当たり前のことか。歳をとると、思考が狭くなったり、長期的な展望ができなくなったり、その日暮の今生きているって感じ?、今日も無事終わってありがとうみたいなもんで、悠久の流れを感じて、達観するようなことができない。僧侶であれば、達観するような構えでなければ、世間の皆様に申し訳ないようにも思うが、なかなかそうもいかないんである。
もうあと2か月の内に、職場の仕事も12月の予算補正があったり、新年度の予算づくりがあったり、新しい教育委員の構成になったりする予定もあるので、ちょっとは忙しかったりもするだろう。寺の暮れの準備や新年の準備も並行しなければならない。毎年のことではあっても、尻が重くなって前もって済ませるということがなかなかできない。
今年の秋は、シルバー人材センターにいつもの年より多くお世話になった。庭木の剪定のほかに、軒先のトタンと庫裏に続く来客用の風呂便所部分の屋根の塗り替えをしてもらった。なるべく自分でできることはやろうと心がけているが、手先の不器用と、高いところが苦手なことはどうにも解決・克服することができない。シルバーでも、来てくれた方は元その道のプロで、3日かかるよというところを2日で仕上げてくれた。天候にも恵まれて、女房から後で聞いたが、彼曰く「今頃の時期が一番よくて、これから先になると寒くなって、仕事が捗らなくなる」ということと、お昼休みの時間も惜しんで仕上げてくれたということだった。寺のメンテナンスなど普段余り考えもしないが、毎年少しずつ、あそこにここに草臥れが顔を出してくる。2日で終わったので、覚悟していた1日分の日当は不要となり助かった。出費が少ないにこしたことはない。明王寺の屋根も塗ったことがあるということらしかったので、標さんには申し訳ないが、「真言宗の檀家の少ない似たような寺で、どげんかせにゃならんなぁ」なんて職人気質に思ってくれたのかもしれない。てなことで、10月の「徒然」に幕を下ろす。今月は完走でした。

2008年10月30日Thursday 晴れ
苗木の注文。
ネットで見た苗木の生産農家に注文を出した。ツツジとブルーベリーと垣根用にプリペットというモクセイ科の植物。先方から返事が来たときに、プリペットについての知識がないので質問をしたら、「プリペットは生育旺盛で、何度か刈り込まないと大木になります。」と丁寧に応えてくれ、「キンモクセイはいかがですか?」と提案いただいた。早朝の6時から午前中一杯畑に出るので、携帯に連絡をということだったので、今朝出かける前に電話をした。ここでも丁寧に応えてくれて、結局、プリペットをやめてキンモクセイにすることにした。メールの中に、「サツキピンクは紅葉しますが、サツキ白は冬でも緑葉です。池の景観に合っていますか?一個人宅なら緊張もしませんが、お客様も見える場所に植えられるなら責任があります。お金をかけて造園屋さんに手直ししてもらった方が良いのではと思います。」とさりげなく書いてくれてあったが、今朝電話をしたときに、「由緒はあるけど金はないんです。僕が自分で決めてやればいいのです。」と伝えた。三重県鈴鹿市の畑で僕と話をするFさんの、半信半疑のような笑い声が聞こえた。
いいんですよ。僕が自前で遊びをかねて植物を育てたいと発心したのですから。もう少し早く、こんな気持ちが起きていたらよかったなとは思うけれど。

2008年10月29日Wednesday 晴れ 今夜は上流からの風が強かった。10月も終わり近づき、だんだん強い風も吹いてくる。家に帰ったら台所にコタツが作ってあった。今日カズミちゃんと「寒くなってきたな」「コタツ欲しいですよね」なんて会話をしてたんだ。大体11月に移る頃がコタツを立てる時期なんだな。まだコンセントは外してあるが、立っている姿を眺めるだけで、Hotするから不思議だ。身体も気持ちも、花や木や季節の風物に素直に順応するんだな。
義兄のところから柿をもらった。渋柿を甘くした柿で、これが旨い。酒飲みにの僕が柿を食べるなんて余りないことだ。うん?いま書きながら、ホントに酒飲みながらでも食べられそうな柿かもしれない。渋柿を如何に美味くして食べるかという研究をしているそうで、この柿なんと、ブランデーを霧吹きで吹かれて、ビニール袋に入れて熟成させてある。焼酎とかでも試したらしいが、ブランデーがいいらしい。今夜も歩いた後コタツで食べたが、風味がよく甘い。ブランデーの香りが上等な果実の高級感を醸し出す。生きることを楽しむことは、何処かに探しに行かなくても身近に、「見つけて!」って顔を出しているものなんだ。空海の伝えた「般若心経秘鍵」にある「夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し」に似ているものだと思った。

2008年10月28日Tuesday 晴れ
外灯。
僕の住んでいるところは、一周2キロ強のラグビーボールのような集落である。北から南に富士川の流れがあり、川から内側へ国道52号線、町道、集落農道と3本が走っている。僕と女房は夜ここを歩いている。僕は月木の4日間を基本とし、残りの3日は飲む。女房は体調よければほぼ毎日歩いている。僕は気持ちや意思にムラがあるので、書いたことを鵜呑みにしてもらっては困る程度のウォーカーである。僕が歩くときは、隣の集落まで行くので、ラグビーボールからちょっとはみ出す距離になる。こんなことをグダグダと書き始めたが、話はウォーキングのことではない。夕べも歩きながら感じていたのだが、たまたま職場の課長が今朝、「集落の街灯を減らす相談をした。夜歩く者もいないし、街灯の維持費もバカにならないので、どこを減らすか検討した」と話した。集落は楕円の中に収まっているので、他の集落と接する南北とは、はっきりと分かれている。8つの組があり、上・仲・下の宿に分かれている。8組は町営団地なので少し趣を異にはしているが。僕のところは仲宿の3組である。ちょうど真ん中に位置する。街灯なんだが、街の灯りというよりも外灯の呼び方がふさわしいような気もする。コンクリート電柱の外灯や、木柱に取り付けられた外灯。まあ、歩いていれば何度か感じていたことなんだが、とにかく暗い。寂しさを越えた暗さとでも形容したいような。とくに空き家が続くような場所に灯りがない。灯りは必要ないということなのか。外灯が間引きされているのかなということを僕も考えなくはなかったが、やっぱり間引かれてしまっていたのかな。「暗いから点けてください」と言えなくもないが、区会で確認されていることであれば仕方ないと思うしかない。寂れゆく空間に灯りがないのは、過疎を助長するように感じてならない。さびしい空間にこそ明かりがほしい。元気を出せと、区民が自らを鼓舞するような思いで、明かりがほしいと思うのだ。外灯が、そこに帰る者を真っ先に迎える標となるものであるなら、経費よりも外灯という思いがそこを愛する者の心意気として欲しいと思う。

2008年10月27日Monday 晴れ
哀れな果樹にしてしまうのは心が痛む。
道端のドングリを踏むとサクサクと音がして靴底から伝わる感触がとても気持ちいい。刈り田の稲株とか霜柱を踏むような感触。丸いのは硬くてダメで、ピーナツ様のものがベスト。下岩欠まで歩いていったが、今年も柚子はよさそうだ。柿の実もいっぱい生ったまま。雑木や蔓草におおわれた荒地の柿の木なんてのは、まったく哀れなものだ。実が楽しませてくれるのに、実を採ってもらえぬ果樹は「忘れられた女」のようなもの。うちにも柿の木が1本残っているが、残念ながら僕もそれを採るほどの興味がない。でもこう考えると、数個は残しても、ある程度は採ってあげなくちゃという気持ちにはなってくる。修行大師像の前に供えたが、位牌堂や本堂の供えにもできるではないか。歩きながらこんなことを考えた。
開墾した耕地が荒れ放題になって林に変わっていく。家族を育ててくれた場所への感謝として植樹して森に戻そうとする。方法は違うが、どちらももうそこに戻らないよというメッセージは同じだ。こんな期間が恐らくわずか100年足らずのことで終結してしまう。一体この先どこに向かおうとしているのか、僕にもわからない。

2008年10月26日Sunday くもり
護摩を焚く。
早起きして5時半前にお勤め。天気が悪かったので、まだ夜のような5時半前だった。雨は降っていなかったが、集落の八幡神社の祭典の日なので、子供神輿が出せなくなるのはちょっと可哀想だなと思ったら、7時過ぎには降り始めたが、天気予報どおりに、大降りにならない雨で9時頃にはあがった。僕は8時前から護摩を焚く。本堂でひとり静かに厨子の中のお不動様と向き合うひと時。キヨシローの病気はどうなんだろうかと、少し考えながら護摩木を炉に投げ込む。高岡君の音楽の旅の安全、家族の健康、友人の丈夫な子どもの出産、友人の家族の健康など、百八支を投げ込みながら思いつく限りの人たちのことを脳裏に浮かべる。
終わって、30分ほどしてから片付けと本堂の掃除。こちらのほうがよほど時間がかかる。これで午前中はもうおしまい。でも、気分も堂内もきれいにさっぱり。どんよりとした日だったけど、僕の気持ちは秋の空の青。
ケヤキの葉も紅葉してきている。風がなければまだまだ素足で外は大丈夫。

2008年10月25日Saturday くもり
139円。
ガソリンの値段。安いよな。昨日から感謝祭だそうで、僕もいま入れてきた。この宇佐美のスタンドだけは、同じ村にできて助かっている。新しいカードも作った。139円で入れて、さらにそこから会員値引きになっているので、きっと安いんだ。
夕べは喜田に久しぶりに行って、なめこ三昧でした。カツもエビも旨かった。何でもかんでも旨かった。最後のうどんも絶品でした。11月3日に県立博物館でおばさんのうどんを振舞うのにもお手伝いすることになった。5月に水周りの改修を始めるときに、お祓いに行って以来だったので、ホントに久しぶりだった。たくさん話もしたし、娘の成人式の着物を着た写真も見てもらった。
というわけで、かなりな二日酔いの休日の朝となったが、うちのなめこもお昼前に採って、お昼のうどんもまた格別に旨かった。護摩木を割る。ZZ TOP聴きながら、曇り空にRock 'N' Rollした。子どもらが祭りの花を配りに来て、配り終えた後、珍しく大勢がザリガニ釣りをしている。お寺は遊び場だったんだ。お不動様も喜んでいる。お大師様もニコニコと歩いている。

2008年10月24日Friday
とろんのPAI通信。
「こんな自分のどうしようもない生き様をこのまま続行してゆくこと」という一行が脳に焼きついた。とろんのPAI通信は、半年ほど前から定期的に読ませていただいている。どうしようもない生き様は、自分がそう思うのであり、他人がそう思うのは勝手であり、自分が思う分には誰にも迷惑にはならない。僕も僕の生き様は「どうしようもない」と常々思っている。もうどうにも後戻りできないとも。とろんは僕よりも年上だから、彼もきっとそうに違いない。悔いることなく残りを「どうしようもない」自分のままに生きていくということだ。
高石ともやのCDが発売されて、早速買って聴いた。新しいものではなく、レコードだったものが、CDでようやく発売されたってもの。僕は、信州の美麻村で2年近くを過ごした時期があって、その悶々としていた頃に、内藤君がナターシャセブンのテープを持ってきてくれて、雪に埋もれた廃校舎の給食室だった厨房で、「白馬錦」なんかを飲みながらよく聴いた。笠木透の作った「私の子どもたちへ」は、僕の玉手箱の中に収めた歌で、こんな歌詞である「生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは 目をとじてごらんなさい 山が見えるでしょう 近づいてごらんなさい コブシの花があるでしょう」。どうしようもない生き方の中で、僕はこんな歌も片側では聴いているわけだが、なかなかこのような自分の片側にある思いを子どもたちに伝えることができない。こんな思いも、玉手箱にしまったままに逝ってしまうのかもしれない。意味ねーじゃんという評価であっても「仕方がないか」と思うより仕方がない。「どうしようもない」自分が歩いているのだから。

2008年10月23日Thursday
想定外を想定する。
給食のパンを喉に詰まらせて男子児童が亡くなった件を受けて、昨日校長会で、教育長は、「我々の想定外はもう通用しなくなった。常に想定外の事も想定する必要があると述べた。僕も小学校の頃、友達と早食い競争をして、パンを両手で手のひらの中に押し潰して、それを一口か二口で食べて飲み込んだことがあった。幸い喉に詰まらせることなく今こうして生きているが、恐らくこれは、今も昔も教師にとっては「想定外」のことだろう。幼い僕が自己責任を考えている訳もなく、亡くなった児童もきっとそうだ。でも、いつの時代でも、子どものやることはその時代を普通に生きるようになってしまった大人には、思いもつかない「想定外」のことだ。だからといって、想定外のことをいつもびくびくしながら思って児童の学校生活に注意を払うなんて実際できるんだろうか?目の届かないとこで、案外こんなことは通常起こるものだ。
喉に物が詰まると苦しかったり呼吸が困難になるというようなことは、成長する過程で、自ずから理解していくことの範疇に入るのではないか。不幸にして児童が亡くなってしまったという結果は、自己学習して、身体に覚えこませるということが、今の時代余りにも浅くなってしまっているのではないかと思わざるを得ない。
「餅で喉を詰まらせてお年寄りが死亡」なんて記事は、毎年数件あって、年末年始の定番記事のようにも思えるが、これで、餅の販売を規制するようなことは起こらない。こんにゃくゼリーを僕は食べたことはないが、凍らせたこんにゃくゼリーを飲み込んだ幼児が亡くなった件は、メーカー責任より、これを食べさせる親に責任というか落ち度があるように思える。悲劇の裏には親の責任の欠落が存在している。二日酔いで仕事に支障をきたさないように飲むのも自己責任なのだ。
町長と副町長が退任した。式に出席したが、始まりから送り出しまで30分で終わった。もっと長くなるだろうと漠然と思いながら本庁に向かったが、拍子抜けした思いだった。でも、よく考えてみたらこんなものでいいんだ。去り行く者はもうその場所に何も残さないし、何を語ることもしない。だから「さよなら」だけでいいんだ。さっぱりとさわやかに2人は庁舎を去っていった。天候は悪かったけど、清々しく感じた。

2008年10月22日Wednesday くもり
雑木伐採の下見。
森林組合から伐採の下見に来てもらった。通学路の頭上に枝が伸びているケヤキの枯れ枝なんかを伐ってもらおうというもの。護持会役員と総代の何名かが立ち会ってくれた。見上げれば、ここもあそこもと言うような状況。本堂周りのサクラなんかほとんど枯れてしまっている。これも一緒に伐ってもらうことにした。もちろん人に事故が起こることは避けなきゃならないが、自然の生き物も人も、いまがちょうど入れ替わりの時期になってきているのか、心配事の種は尽きない。花も愛でるだけではなく、その終わりもしっかりとこちらが見届けてやり、新しいいのちと交代させてやらなければならない。
大ケヤキは、青葉が茂り、夏には風をくれ日陰を作ってくれる。秋には葉が落ちて、畑にすきこみ腐葉土となり、落ち葉を掃いて焼き芋をしたり、落ち葉を炊きながら静かに思索させてくれる。いいこともあれば、めんどくさいその反対もあるってことか。午後2時半まで仕事をして早退したので、思わず自由な時間ができた。これを書きながら、森田童子。終わったら法螺貝を吹く夕のお勤めをしよう。
10年先、15年後のことなんて考えなくてもいい、そんなことを、大木を見上げながら思った日だ。

2008年10月21日Tuesday 晴れ
しめ鯖。
新しい靴が気持ちいい。天気も最高によくて、青い、暑い、広い。靴底の厚さが心地よ い。靴底が厚いということがこんなにも嬉しく飛び跳ねたくなるような幸せだったとは。どこまでも歩いていけそうな気持ちで歩いた。
こんななんでもないようなことが幸せだったりするんだから、幸せになるきっかけなん か、ほんの小さなことであるように思える。家族が一緒に暮らすことであったり、家族 が食事を共にすることであったり。話はコロッと変わってしまう。僕は子どもの頃か ら、刺身が好きではなかった。マグロの刺身は特に苦手で、(別に子どもが刺身を食わ なくてもいいわけだが)、赤身に入っている白い筋が硬くていやで、大人になってもマグロは、好物にならなかった。いまでも、マグロの刺身を食いたいと思うようなことはあまりない。ただ、マグロをたたいたのは口にあった。ネギトロとか、大人になってから美味いと思うようになった。脂ののった高いものほど苦手だったので、法事のときなんかに出される上寿司に閉口したこともある。それが今はいつの間にか、息子に会いに行ったときにはじめて町田の寿司屋で食べた大トロを、まさに絶品だと思ってしまったのである。大トロは些細な幸せの範疇からははみ出しているかもしれない。それから、ヒカリモノも好きではなかったが、好物の安くて薄いネタの、小僧寿しのバッテラを食べたら美味くて、鯖寿司とかも食べるようになって、最近のお気に入りは、しめ鯖なんです。セルバのしめ鯖でもう十分にご機嫌。今週の金曜の夜は、しめ鯖をあてに熱燗をやりたいものだ。これで十分に幸せな秋の夜をつくれる。「酒のあて」は、よく大阪の高岡君が使うが、あては肴のことだろう。山梨じゃほとんど聞くことはないが、大きな交通事故に遭遇してからまだ日の浅い彼が、欧州から北アフリカへの音楽の旅に出るというはなむけに、「あて」を使ってみた。高岡君のチューバを寺で聴くのも、僕のささやかな幸せのひとつだ。よい音楽のたびを。(と、ここまでは昼休みから暇をみて書いたもの)。
家に帰ったら、その高岡君からメールが届いていた。「行ってきます。高岡です。明日から旅に出てきます。欧州から北アフリカまで、初めての単身渡欧です。無事に帰ってまたこの国で音を生み出したいと思います。またお会いすることを楽しみにしています。永明さんもご家族の皆さんも、心よりご健康をお祈りしております。」

2008年10月20日Monday 晴れ
大阪府知事という...。
「口ばっかりで、人の悪口ばっかり言っているような朝日新聞のような大人が増えれば、日本はだめになる」か。玉座に就くとこうも堂々と、誰憚ることなく、物が言えるようになるのか。成程、この椅子に座りたいと椅子取りゲームに夢中になるわけだ。こんな奴が居ると益々生きにくくなる。売られたけんかであっても、いちいちそれにこんな風な子どもじみた応えをしているんでは、2回目の椅子のときには、周りがもうそれを許さないだろう。椅子の脚にノコギリ引かれはじめていることを自覚しろ。こんな記事を読んで腹たっている僕も同じ穴のムジナだな。
県庁へ行く。栄典の事務が連続して発生している。ガソリンの値段が下がってきていて、145という表示が最低だったが、八日市場の宇佐美は確か147だったような。一時の上がりようでは、年末には200円になっても仕方ねぇかなんて思っていたけど、40円台くらいになると、現金なもんだね、頭はすっかり高いなんて事を忘れようとしている。困ったもんだ。夜歩く。汗かいて、冷たいお茶が旨い。今夜は飲まない。星が薄く見える空だった。

2008年10月19日Sunday 晴れ
風がザーッと吹いて過ぎた。
夕のお勤めを済ませて法螺貝を吹いて、観音扉を閉めるとき、風が落ち葉を巻き上げてザーッと通り過ぎた。木枯らしにはまだ間があるだろうが、秋がだんだん深くなることを教えられる。今日は集落の山道つくりで、8時から。夕べの酒が大分残っていて、朝のお勤めも休もうかなとぐずぐずしていたが、何とか起こしていつもどおりに。ちょっといま自分を試している期間中ね。山は毎年入るたびに荒れていく。猪の走り回った後が大分酷い。中沢川公園の土手の草刈で終わって、そのまま風呂場で頭を刈ってシャワー。ビールが飲みたくなって缶を2本。
テレビ見ながらうつらうつらと。3時過ぎから境内の草刈。もう今年の草刈はぼちぼちおしまいにしたいのだが。終わってシャワーを浴びて、夕のお勤め。
夕のお勤めができるときは、「
密厳院發露懺悔文」を最後に唱える。
「我等懺悔す 無始よりこのかた妄想に纏われて衆罪を造る 身口意の業常に顛倒して誤って無量不善の業を犯す 珍財を慳悋して施しを行ぜず 意に任せて放逸にして戒を持せず 屡々忿怒を起して忍辱ならず 多く懈怠を生じて精進ならず 心意散乱して座禅せず 実相に違背して慧を修せず 恒にかくの如くの六度の行を退して還て流転三途の業を作る 名を比丘に仮て伽藍を穢し 形を沙門に比して信施を受く 受くる所の戒品は忘れて持せず 学すべき律儀は廃して好むこと無し 諸佛の厭悪し給う所を慚ぢず 菩薩の苦悩する所を畏れず 遊戯笑語して徒らに年を送り 詔誑詐偽して空しく日を過ぐ 善友に随わずして痴人に親しみ 善根を勤めずして悪行を営む 利養を得んと欲して自徳を讃し 勝徳の者を見ては嫉妬を懐き 卑賤の人を見ては驕慢を生じ 富饒の所を聞ては希望を起し 貧乏の類を聞ては常に厭離す 故らに殺し誤って殺す有情の命 顕はに取り密かに取る他人の財 触れても触れずしても非梵の行を犯す 口四意三互に相続し佛を観念する時は攀縁を発し 経を読誦する時は文句を錯る 若し善根を作せば有相に住し 還て輪廻生死の因と成る 行住坐臥知ると知らざると犯す所のかくの如くの無量の罪 今三宝に対して皆発露し奉る 慈悲哀愍して消除せしめ給え 皆悉く発露し尽く懺悔し奉る 乃至法界の諸の衆生三業所作のかくの如くの罪 我れ皆相代って尽く懺悔し奉る 更に亦其の報を受けしめ給わざれ」。

2008年10月18日Saturday 晴れ
サンクチュアリを認めるならそれなりに、ね。
僕は真言宗の僧侶だから。今朝、地区内に住む女性が立正佼成会の機関紙のようなものを持ってきた。頼まれたから届けにきた受け取ってくれという。以前から郵便受けに入っていたことは知っているが、今朝はたまたま僕が外にいたので手渡そうと思ったに違いない。で、僕は受け取りを拒んだ。黙って受け取ってもいいわけだが、はっきりと「いらない」と伝えれば、次回はもうその女性も、集会の折に、「大聖寺は受け取らないから、私にもその分渡さないでくれ」と言える。「貰ってくれんきゃ、あたしん困るじゃん」は、あまりにも悲しい。「こけぇ、置いとくから」と、機関紙の入った封筒を石畳に置こうとするから、はっきりと断った。「貰って、あと燃してくりょぉ」ときたから、それもはっきりと断った。いまさら日蓮に縁を結ぶ団体のものを読みたいとは思わない。立正佼成会を否定するわけではない。でも、ここはお互いを認め合って、不可侵でいこうじゃないか。今から僕が日蓮宗の僧侶もしくは信徒になろうとは思わない。まるっきりないという事ではないかもしれないが、そのときにはこの寺も真言宗の僧侶も捨てるということだ。エホバの証人だってそう。外から見ればここが仏教寺院だってことはわかるはず。それなのに訪ねてきて冊子を手渡そうとする。僕は「隠れエホバ」になってこの寺の住職を続けるなんてできません。そんなことになったら、数は少なくても、檀家の人たちが路頭に迷うことになる。エホバの証人たちの呪われた運命を享受しようとは思わない。個人的な思いだが、もっと愉快に楽しみながら、真言宗に縁を結ぶ僧侶として生きていきたい。

2008年10月17日Friday 晴れ
「大阪府による保育園イモ畑撤去強制代執行」の無情。
大阪府が第二京阪道路用地にある保育園の畑を、強制代執行で撤去した件だ。サツマイモの収穫までのあと2週間が待てなかった。園長や保護者や園児たちまでもが訴える中を強行した。夕べテレビで見たんだけど、この後の橋下知事のこの件に関するコメントが、彼の非情さをまさに示していた。何故2週間前で収穫ができないかとか、2週間遅らせると損失が7億円だとか。
今このような非情さが、時としては首長に求められる時代でもあるし、それを決断しなければならないのが首長の仕事でもあることはわかる。でもなぁ、7億損しようと、秋の収穫を楽しみに待っていた園児たちには、他の何ものでも償えないほどの「悲しみの穴」をあけてしまったような気がする。グイグイグイグイ、思うようにリードしていくことも彼の考えかもしれないが、子だくさんの彼にしては、ちょっと酷すぎるトップの行為ではなかったか。抵抗を続けるということではなく、園側も事の理解はできていて、サツマイモの収穫まで待ってほしいということだけだったんでしょ。心より7億を取る時代になっちまったんだなぁ。

2008年10月16日Thursday 晴れ
誇りをもって生きる。
夕べ歩いて帰ってきたら、ちょうど玄法院のご住職からの電話が鳴って、話しの内容を聞くと、向うも可笑しさをこらえているようで、僕も可笑しくなって笑ってしまった。うー!ここに書けそうもないんだけど、なんだかんだいっても坊主も小さな生きもんに変わりはない、といったようなこと。
その後風呂に入って、10時からNHKで「その時歴史が動いた」を見た。「神々のうた 大地にふたたび〜アイヌ少女・知里幸恵の闘い〜」というタイトル。19歳のアイヌの少女が言語学者の金田一京助と出会い、文字を持たぬアイヌの言葉による伝承をローマ字によってそのまま聞き書きし、隣りにそれを和訳し、儀礼であれば、その様子なども書いたという。病を押して東京に行き、金田一の下で『アイヌ神謡集』の執筆に携わり、完成したその夜に亡くなってしまう。フィクションのようなノンフィクション。彼女は、余暇に都内を歩くたびに、都会で生活する人達と自分を見比べ、「自分がアイヌであることの幸福を強く感じた」という。彼女は、都会人の生活に何も魅力を見出せなかったようである。数によって少数派を呑込んでしまう、排除してしまう、土人として蔑むことを平気で行う。少数であってもその豊かさは、そこに生きる人達の価値観であれば、地球の大きさをも凌ぐ。そのことの理解が長い時間かけなければできなかったんだ。チベットの問題もその中に括られるかもしれない。誰をとったって、個になってしまえばエンドレスな地平線上のつながりなのにね。
そのアイヌの少女、知里幸恵(チリユキエ)さんが金田一京助の宛てた手紙の抜粋を読んでほしいと思う。
大正九年六月二十四日付(旭川発信)。
「先生度々綺麗な御はがきを下さいましてほんとうに有難くふかく御礼を申上げます。御はがきは先週の土曜に戴きましたけれど小包は今日着きましたので、つい御無沙汰をいたしました。私の病も此の頃では別に苦しい事もなく暮して居りますから御安心下さいませ。
私はローマ字を学校では教はりませんでしたので読むにはよみますが書く事が出来ませんのです。それで此の間から練習をして居りますがなかなか書けません。今暫くして少し書けるようになりましたらすぐにアイヌ語を書く事にいたします。私は後世の学者へのおきみやげなどいふ大きな事は思ふことも出来ませんけれど、ただ山程もある昔からのいろ/\な伝説、さういふものが、生存競争のはげしさにたえかねてほろびゆく私等アイヌ種族と共になくなってしまふことは私たちにとってはほんとうに悲しい事なので御座います。ですからさういふ事を研究して下さる先生方には、私たちはふかい/\感謝の念をもっているので御座います。私の書きます中のウエペケレの一つでもが先生の御研究の少しの足しにでもなる事が出来ますならば、それより嬉しい事は御座いません。そのつもりで私の知ってゐる事は何でもオイナでもユカラでも何でも書かふと思ふて、それをたのしみに毎日ローマ字を練習して居ります。あのノートブック一ぱいに書きおへるまで幾月かかるかわかりませんけれどきっと書きます。」
(後略)。

2008年10月15日Wednesday 晴れ 母校である高校の同窓会が近づいている。個人的には関心がないが、今年その当番幹事になっている同僚から話を聞いた。今年は赤字になってしまうというので理由を聞いたら、100万円の大口協賛をしてくれていたNプロという医療機器会社が、野球部を甲子園にという後押しも含め撤退してしまったのだと。何が理由かはわからないが、卒業生であるS社長と学校間で、両者の思惑に相違があったのであろう。伝統を重んじる学校も、何も毎年同窓会を開催しなくてもいいだろうに、器に見合ったやり方に少しずつ変えていくっても一つの策だ。余計なおせっかいとごり押しで、自分の欲や名誉風を吹かせたいのなら、こんなものは、成り上がり一代記をゴーストライターに書かせるための話の種にしかならない。これをもし社会的貢献というならお笑いだ。
雨が上がって、今日はシルバー人材の人たちも昨日できなかった分をと早くからやってきた。天候は回復して、今日は暑くなるとの予報。僕は今日、本栖湖畔の清掃活動に参加する。富士山が楽しみだ。

2008年10月14日Tuesday
つめたい雨。
天気の崩れが心配だったが、お昼前から降り始めた。出掛けに、シルバー人材の人達と話したが、おそらくほとんど仕事にならなかったのではないか。この秋は雨がよく降る。お昼も歩くことできなくて読書。島尾敏雄の「死の棘」を読み始めたんだが、こんな天気にこれはいっそう気が滅入った。課長から椎茸をもらい、夜バター炒めで一杯。美味い、実に美味い。秋の幸せで琉球の酒。確かに美味かったが、連休に本気(マジ)で飲んだ酒が堆積して体のあちこちで祟っているのか、湯割り2杯で耳朶まで熱くなって今夜は投了。ノックアウト。こんな夜もマッいいか。
冷たく降る雨の夜に、行蔵院のご住職からいただいた「瞽女(ごぜ)うた」のCD。単調な歌声に三味線が走ったり退いてみたり。目の見えない彼女たちがつなぎあって列なしてゆく秋を想像します。何もかも分かったような振りをして、その実何も分かっていない世の中なんだ。

2008年10月13日Monday 晴れ
金は天下のなんとかよ。
まあ大体は、「へぇー」とか「ほー」とか「ふーーん」とか言葉にもならぬようなものを小さく発してお帰りになるんである。秋の行楽シーズンからか、連休中にこの寺を訪れる人たちが何組かあった。見上げて、ぐるっと周りを見回して、本堂に手を合わせ、もしくは外陣(げじん)まで上がって本堂の中を格子戸越しに眺めたり。僕たち夫婦は外に居ても別に声を掛けるようなことはなく、今日も午前中は女房は草取り。僕は網戸洗いの第2弾。網戸を洗うにはちょうどいい日和で、全部お蔵にしまった。月曜が休みで、のんびりしながら気が向いたときに外に出て何かするというような日で、午後は読書の後、参道や境内の植え木の枝下ろしなんかを。
夕のお勤めを少し早めに済ます。賽銭箱には、連日2、3百円くらい。ありがとうございます。ロウソクや線香代になるんです十分。賽銭箱に鍵はかけてありません。毎日賽銭箱は開けてますから、賽銭が堆積してるようなことはないんです。もし必要な方は入っていたら持っていってもかまいません。お金なんて巡り巡っているもんですからね。

2008年10月12日Sunday 晴れ
宗務所会議。
午前中、K家の墓碑の開眼供養。よい天気。お供養日和。お父さんの骨を3人の息子が墓地に納める。グラスの酒を3人が回し飲みして、お父さんへの安心を誓ったのだろうか。奥さんは念願の墓の建ったことを、ホントに嬉しそうだったし、でもこれで、ご主人がホントに亡くなったんだってことを改めて実感したようでもあったのかな。ご兄弟も参列してくれて、青空の下で、穏やかな日和でよかった。僕は、萎れていく彼岸花の下から出ている緑の葉を皆に説明しながら、相思花(サンチェ)の話をした。
午後から甲府の玄法院で宗務所会議があったので、法事の後すぐに出かける準備をしたが、こんなときに限って「ご朱印をいただけますか」だ。男性が、「息子が四国遍路に行っていたのですが、無事帰ってきました。ここのお不動様のお姿のお守りをもっていっていましたので、お礼参りにきました。お酒を1本あげさせていただきました」と。さっき甲府から帰ってきて、夕方のお勤めの後に芳名帳を見たら、清水市の方だった。ゆとりがあればお開帳して差し上げればよかったとすいこし後悔した。
宗務所会議は毎年と同じで単調なものだったが、ある寺のご住職が、山梨の宗務所から外れたいというので、こう書くのもおかしいかもしれないが、皆で賛成して気持ちよく途中で退席いただいた。こんな風なこともある。醍醐寺の小さな末寺たちのお話。

2008年10月11日Saturday くもり
秋も枯れていくのか。
シルバー人材で剪定に来てくれることになっていたが、朝方雨が降ったので月曜になった。今日の天気はちょっと降ったりやんでみたり、晴れ間が見えたり。明日K岡家の墓地の開眼と納骨があるので、午後3時過ぎてから墓地の掃除に行ってきた。まだ落葉には少々早いが、桜の老木の葉が大分落ちていた。落ち葉を集めて焚き火を始めると、煙が斜め上になったり、すーっと天に昇るように静かに一筋となったり。秋も枯れていくのだなとふと思った。静かな場所で静かなことをして静かに思い巡らす。こんな時間が一番好きだ。

2008年10月10日Friday くもり
七瀬ふたたび。
夕べからNHKドラマ「七瀬ふたたび」がはじまり、晩飯を食いながら、録画中の番組を再生しながら見た。これがなんとも便利なもの。で、はじめちょっと内容が思い出せなくて戸惑ったけど、薄っすらとこちらも超能力がよみがえってくるように、筒井さんの小説や多岐川裕美の時のドラマも思い出してきた。全10話という事なので、終わる頃は師走に入る。
木々の葉が紅葉はじめたり、落葉したり、セイタカアワダチソウが耕作放棄地に繁茂する光景などがある。飯富橋を渡って、宮木、一色を抜け、鳩打隧道を抜け、出口に下って、常葉川を見ながら常葉駅前を左折して支所に向かう日々をもう3年半も続けている。昼食後に歩き始めてからも3年以上経つ。特に僕がこの常葉周辺で気に入っているのは、川を囲む風景。常葉川やその上流の栃代川に架かるいくつかの橋からの、上流や下流に広がる景色がとてもいい。河岸に葦などが茂っているのも心和ませる。この風景の中に、夏は鮎釣りたちの、長い長い釣竿が並ぶ。富士川右岸の僕の住む地域のほうが、過疎の町の中でも、ちょっとだけ開発が進んでいて、プチ・ショッピングセンターがあって便利で、この常葉周辺は、正直寂れた感を否めない。それでも、昨日の山尾三省の言葉のように、この地区には「大切な静かさ」が大事にされているような気がする。ここに感じる静かさは、勿論風景もだけれど、道祖神などの路傍の石仏であったり、小正月や祇園の行事を大切に、ここに暮らしている人達であったりする。きっと役場を辞めた後も、僕はここでの数年をとても大切にするのではないかと思う。

2008年10月9日Thursday 晴れ
山尾三省生誕70年祭。
このような案内が「山尾三省生誕70年祭実行委員会」から届いた。生きていれば10月11日が三省の70歳の誕生日に当たるそうだ。それにあわせて、お茶の水の全電通ホールで集いが行われるということだ。案内の中に、「月間新聞MORGEN」の2001年7月7日号のコピーが同封されていた。「リレーエッセイ 父の遺言・母の遺言 子供達への遺言・妻への遺言 第7回 山尾三省」のコピー。これに、約2か月後の8月28日に亡くなった三省の「遺言」が掲載されている。この遺言については、僕はここにも、ブログにも書いたように思うので内容の詳細は省くが、改めて読み返し、このエッセイの最後の最後の部分を、どうしてもここに書いておきたくなった。三省は、妻と子らに伝える遺言の終わりに、「死が近づくに従って、どんどんはっきりしてきてることですが、ぼくは本当にあなた達を愛し、世界を愛しています。けれども、だからと言って、この三つの遺言にあなた方が責任を感じることも、負担を感じる必要もありません。あなた達はあなた達のやり方で世界を愛すればよいのです。市民運動も悪くはないけど、もっともっと豊かな“個人運動”があることを、ぼく達は知っているよね。その個人運動のひとつの形としてぼくは死んでいくわけですから。」と結んでいる。僕はこの文章を読むたびに、この最後の部分にどうしようもないくらいに惹かれて、震えてしまう。「豊かな“個人運動”」を僕も常々僕の基本としているからだ。三省は詩の中で「この世でいちばん大切なものは 静かさ である」(「静かさについて」から)という。憲法の改悪に反対していくことも、一介の田舎寺の坊主の“個人運動”として捉えていこうと考えている。静かな寺の中で僕なりの大切なものを見つめ続けていくつもりだ。三省は確かに僕に生きる指針を示してくれた。感謝であり、大感動であり、大大愉快である。

2008年10月8日Wednesday くもり
相思華。
彼岸花が終わり土の中に消えはじめた。花の倒れた下には、緑の葉が現れはじめた。春には葉も枯れて消えてしまい、9月に茎が伸びて花開くまで何もなくなってしまう。花が枯れると同時に、葉が現れる。韓国での呼び名、相思華(サンチェ)にまつわる言葉が大好きだ。「葉は花を思い、花は葉を思う」。互いに出会うことはないが、こうやって永遠に互いを思いやるのだ。この花の不思議な自然の営みを知ってから、僕は彼岸花を大切に思うようになり、同種のリコリスの球根も2年仕入れて境内のあちこちに植えた。彼岸花の時期の前後に、白や黄や紅のリコリスが顔を出す。これもじわじわと歳を重ねて増えていってほしいものだ。
俳優の緒形拳さんが亡くなったが、好きな俳優だった。昨年の大河ドラマ「風林火山」にも出演していた。恐らく病魔はその頃には体を蝕み始めていたのだろうと想像するけど、役者として生き抜いたという強い感銘を受けた。緒形拳の姿はなくなり、残った役者の息子たちと、サンチェの花言葉のように、決して交わることのできない場所に生きるながら、互いを思いやるのだ。冥福を祈る。

2008年10月7日Tuesday 晴れ
関心が湧かない。
ニューヨーク株、1万ドル割れというニュースを聞いても、見出しの新聞を開いても、まったく僕には関心がない。新聞の見出しの中に入っていこうという気持ちにならない。大体僕は給料をいくら貰っているのかさえわかっていない。毎月課長から、その時期になると明細だけが印刷された給料袋を手渡してもらうのだが、受け取ると鞄に入れて、家に帰るとそれを取り出して女房の鏡台の上に置いておくだけなので、明細についての数字をいちいち眺めることはないので、本俸についてもいくらなのか大体承知していない。多分僕にはこんなことに無頓着で生きなさいという性質が備わっているのかもしれない。100人が全部株の下落に頭を抱えたりしていたら困るだろう。それを精神的に支えたりする役目の者も必要だろう。僕はどちらかというと、そっち側に属している人間なのかもしれない。「緒形拳さん死去」の報には驚いた。夢の話であってくれたらと思うほどだった。

2008年10月6日Monday くもり
もう今夜は早く眠ろう。
何をしたということでもないが、昨日一日の疲れがまだ取りきれていないのか、月曜の一日を終えて疲れてしまった。死亡叙勲の書類もとりあえず明日までに届けろということになったので、目途がついて一安心。風呂にも入ったし、「死の棘」を読みながら寝てしまおう。何日か前から枕元にCDテレコを置いて、キース・ジャレットを聴いている。ケルン・コンサート。ソロ・コンサート。恐らくこのCDをプレイヤーに乗せたのは10数年ぶりのことだと思う。心地もよいが、すぐに眠れてしまう。普遍の愛に包まれているような気分になれる。いいものはいい。

2008年10月5日Sunday くもり
町長選。
4時半に起きお勤めを済ませて6時過ぎに原保育所へ。町長選の投票所事務。午後8時まで。1000票ほどあるところだが、既に期日前投票を済ませた票が250ほどあって、投票用紙730枚を預かった。地元から候補が出ていたので、若い人たちも大勢来たように思え、関心が高かった感じ。保育所にはテレビがなかったので、一日NHK-FM。これもまあ久しぶりで可もなく不可もなく。僕は合間を見ながら「島尾敏雄/死の棘」に挑戦中。ただ、これ3分の1ほど読んだが、読むほどにつらく重い気持ちになってくる。このまま最後までいくんだろうか?
夕方になって雨が降ってきて、強くなったり弱くなったり。午後8時に投票所占めたら、すぐに当確が出るんだろうかと立会人方と話したが、帰ってから遅い晩飯と晩酌をしながらテレビを見ても、そんなことはなく、午後9時からの開票事務が始まってから、途中経過の速報があったりで、雨の中を待ちの各所から八日市場に集まってくる支持者も大変だなと。おっといけねぇ。地元候補当選。先ずはめでたしめでたし。

2008年10月4日Saturday 晴れ
新しい檀家がひとつ。
地元の方ではないが、以前からそんなお話しがあって、昨日見えて檀家になってくれた。日蓮宗ではないし、人口増加地には少し遠いし、墓地を分譲すれば「あっ」という間に売れてしまうという寺とは天地の差がある。その差を僕自身がどう捉えるかということにもあるんだろうけど、まあ僕自身は、仕方がないという程度の思いだ。檀家がたくさんあるに越したことはないが、その為に、宣伝したり、墓地を整備したりというところまでにはならない。資金もないのではあるが。でも、今日のことは嬉しかった。この寺の姿を知ってくれて、それを承知して檀家になってくれるのだから。僕は住職としての仕事を日々勤めていけばいい。
客殿の網戸を洗った。家中だとたくさんなので、今年は2回に分けて、必要なくなったところから片付けることにした。ヒデちゃんのお兄さんから教わったとおり、コンパネを敷いてその上で洗う。天気もよく、網戸洗いは快適だった。明日は、町長選の投票所事務のために朝が早い。

2008年10月3日Friday 晴れ
半袖シャツ。
9月の終わりに袖を通そうと思ったが、雨の朝で、長袖シャツに換えたのだ。それでそのままになっていた半袖シャツを、昨日のように天気がよくなって日中の気温も上がるだろうから、着ていこうかと迷ったが、やはり、朝の空気は半袖シャツを良しとしない冷たさに代わってしまった。畳んで箪笥にしまうのもなんだか躊躇われて放っておいたら、「首のとこもうほころびてるから捨てよう」ということになってしまった。今朝出す可燃物のビニール袋に即捨てられた。僕はネクタイが嫌なのでスーツを一着か二着くらいしかもっていない。だから、普段着のシャツは、スタンドカラーのシャツばかりで、長く着ていると、首周りがほころびてくる。長袖だったら、野良に着てからポイということにもなるが、半袖はなかなか活用が難しい。で今朝の結果になった。出勤する途上、爆音で「ディープ・パープル/Made in Japan」を聴きながら、この半袖シャツに申し訳なかったかなという気持ちになった。無理をしてでも着てあげたらよかったのに。まさか今朝、焼却場行きになってしまう運目になるとは予測できなかった。死亡叙勲の書類をとりあえず作成し終わった午前中10時半頃には、僕はもう腕まくりしていた。という、なんでもないようなこと。

2008年10月2日Thursday 晴れ
なんだかごめん。
思えば思うほど、選挙なんかいやぁーね。
朝からまた亡くなった人の死後の栄誉のためのお仕事。この方は生きているときこんなに人のためになる仕事をたくさんしました。「死亡叙勲」に値します。あの世で困ったときに勲章が質草になるように、持たせてあげましょうって。そんな仕事を朝から夕方6時過ぎまで。一日で終わらなかった。明日残りをがんばろう。今日の職場は静か。二人が町長選の期日前投票の事務で留守。ひとりはお休み、だったが、実は行方不明者の捜索に借り出されていたらしい。Sさんは、僕の仕事になった件の亡くなった先生の隣保組長で、葬儀準備のため午後から休み。結局僕とEくんで、黙々と自分のなすべき仕事に没頭しながら、時々かかってくる学校からの電話に、「○○さんは、今日は居ないので明日にしてください」と。こんなとき何にも役に立たないのが僕だ。
どちらが町長になっても、僕はその下で働かなくちゃならないし、特別にこの人でなければいやだなんてことは思わない。ましてや、僕が票を投じた人が落ちたら、僕は仕事を辞めますなんてことにはならない。だから、選挙なんていやぁね。投票所が少なくなってホントによかったと思う。一つの村に一つの投票所ってのは、誰が来た、誰はまだ来ていないってのを、立会人さん方が読んでしまう。こんな選挙のときって、ホント僕は異邦人になりたいと思う。でも言っとくけど、何も誰からもプレッシャーかけられてるわけでもなんでもないの。ただ、いやぁねって今夜の気分。

2008年10月1日Wednesday 小雨
10月始まる。
今朝もまだ細い雨が降っている。九州方面はまた台風被害を受けているようだ。こちらは今年台風がない。ほどほどに例年のように繰り返して欲しいと思うが、これが崩壊前夜の宇宙の前兆なのだろうか。これで、朝起きて鳥も鳴かない朝であったりしたら、それこそ大変だ。一日参りのSさん夫婦を迎えるために、お勤めの後本堂に雑巾をかけた。女房は盆に湯飲みと菓子を乗せ、庫裏の上がり端に置く。二人とも出かけてしまうので、午前中にお見えになるご夫妻と僕らが会う機会は土日に当らないとほとんどない。「変なお寺」と言われても仕方がないかもしれないが、それでも仕方がないのである。

2008年9月30日Tuesday くもり
今日も一日寒い日。
町長選が告示された。地元の八日市場からM氏が立候補して、下部地区からのT氏との一騎打ち。でも、僕だけではなく、おそらく大方の予想はM氏の圧勝と見ているのではないだろうか。T氏は出馬表明が遅かった。何せこちらの候補は元日の八幡神社での新年互礼会に立候補を公にした。
日曜から天候も悪く、急に冷えてきている。仕事から帰ってきて靴下が脱げない。明日から10月。娘が寮生活に戻り、また女房との静かな暮らしが始まった。秋の夜は長い。読書でもすればいいのだが、どうも活字を追うことに最近は気が向かない。老眼になって、メガネを外さないと活字が追えなくて、そんなことも原因だろうか。島尾敏雄を買ってきたのだが、まだ開けない。
選挙カーからの声を聞くことなく僕の今日は終わった。マイルスを聴きたくなった。

2008年9月29日Monday
上求(じょうぐ)寺へ。
昨日、長い夏休みを終えて、娘はまた学生生活に戻っていった。甲府駅まで送る。名前は忘れてしまったけど、飛び込みで入った中華食堂が大変な混みようで、これはいい店を見つけたと思った。で、女房と娘はチャーハンを。僕は中華丼を頼んだんだけど、常連客らしき他のお客さんは、ほとんどが、タンメンを頼んでいたので、次に行ったときには、ぜひタンメンを食さなければ。店の外まで待ち客がいたり、店員は、どんどん合い席で中に呼び込むし。
娘を甲府駅で降ろし、牧丘の上求寺へ。いま、400年の歴史のある住居を改装中である。骨だけになった家に、新しい材料で補強がされたりしていた。僕の祖父の生家である。僕の命はこの家に源がある。文化財の家をおじさん夫婦は、住み心地のよい家に改装できないでいたが、いよいよ、人生の集大成としてまたここを更に長く後世に伝えるために、発願して取り掛かった。石田姓の僕たちが、僧侶となる始まりがここにあり、家の裏には、永の字をもった法印たちが眠る五輪塔が建ち、胸を張って遠くの富士に向かっている。またここは巨峰の産地である。牧丘のこの倉科一帯が巨峰を育てる一等地なんだそうだ。昨年よりブドウ栽培を縮小したが、それでも忙しそうに箱詰めをしていた。身延からは一時間以上かかるので、そうそう頻繁に出向くことはできないが、僕の後半生で最も大切にしなければならない場所である。お茶をたくさん飲んで、巨峰をいただいて、新ジャガも美味しかった。お土産の巨峰を甲西町の叔父の不動寺にも届けると、米をいただいた。たくさん貰って、お腹も気持ちも一杯になった。28日はお不動様の縁日で、初冬のような冷え込んだ一日だったけれど、佳い日になった。

2008年9月27日Saturday 晴れ
夏を閉める。
朝8時から護摩を焚く。これよりはやく、女房と娘は、成人式の着物の写真を撮りに出かける。いまは、先撮りすることが多くなってきているとのこと。夏の終わりの護摩は、汗をかくことなくすんだ。掃除は後にして、護摩のあと客殿裏の庭園と竹林の草刈り。お昼を挟んで3時半ころまで。これで本当に夏を閉めたって感じ。よく働いてきれいにした。アジサイの挿し木のプランターと、ミツバツツジの若芽の育ち具合を眺め、頭を刈って、それから本堂の護摩のあとの掃除。仏器を洗って、掃除機をかけて、本堂も夏にさよなら。
明日は夏の着物をしまおう。9月ももう数日でおしまい。年度の後半が始まり、今年もあと三ヶ月。

2008年9月26日Friday くもり
魅せられて。
お昼に高岡大祐君のブログを読んだ。彼の音楽仲間の死のことが書いてあった。概して音楽家というのは早世するケースが多いように感じる。音楽は魅するのである。僕はプレイをしないので、ひたすら聴くだけなので、ミュージシャンには遠く及ばないと思うが、音楽に魅せられている。一昨年当たりから、過去には興味のなかったソウルミュージックやFUNK系も聴き始めた。何故にソウルミュージックは熱いのかなんて月並みだけど、ノックアウトされちまっているのだ。なので、自らプレイするミュージシャンは、音楽にも楽器にも魅せられてしまい、音楽に見も心も乗っ取られてしまうのかもしれない。高岡君は、死に至ってもおかしくないような大事故に巻き込まれても、不死身の大巨人のように再生して、チューバとともに音楽の旅を続けている。
魅せられた音楽に呑み込まれてしまわないように、365日吹き続けていなければならない宿命のようにも僕は感じてしまったのだ。こんな奴らの音楽を聴いたら、本堂でだって客殿であろうと、飲み踊り狂いながら、スタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットよろしく、拳を振り上げて彼らと勝負しなきゃならんのだ。鈴木新氏に追悼合掌。

2008年9月25日Thursday 晴れ
東京JAZZの空っぽ。
BShiで5日間に渡って今年の「東京JAZZ 2008」を放送している。3日間分を見たが、全く面白くない。文部省唱歌を聴いているようであるが、懐かしさも湧かない。僕を興奮させる何もないというのが正直な感想。唯一上原ひろみのグループ「上原ひろみ〜HIROMI’S SONICBLOOM」が良かったぐらい。でも彼女だって、その日の昼にタップダンサーとの共演で「Raphsody in Blue」やったのなんて、ほんのお愛嬌だったのかまったく面白くなかった。中味空っぽ。こんなJAZZ屋ばかりを集めて演奏させているんだから、何も刺激しあうこともなく、だらだらと終わって、互いに拍手しあって終わりになるの構図なんだろうけど、こんなLiveを見に行く奴らの気が知れないってもんだ。僕は刺激のないJAZZは嫌いだ。僕の生きている今の時間に、共鳴し合えるJAZZでなければもったいない。こんなLiveに3日間も通ったら、耳も目も頭もトローンと白けたまま溶けてしまう。ロン・カーター、ハンク・ジョーンズなんて「兵馬俑」か「モアイ像」みたいなもんだろう。まあ、彼らに僕のような思いを望むほうが無理ってものだろうけど、若い人たちはもっと自由に刺激し合えるJAZZをプレイしなくちゃ。でも、日本の若手だって、北欧の若手だって、こんな屁のようなジャズばかりではないからね。NHK!こんなくだらないLive放送してないで、もっと新しいJAZZに目を向けろよって言いたい。

2008年9月24日Wednesday 晴れ
今日のこと懐かしい思い出のこと。
きのうの彼岸の中日の休みをはさんで、今日もほぼ一日死亡叙勲の申請事務。県の所管課へ該当者の軍歴を問い合わせ、見つかったのでそれをFAXで送ってもらい、その後本庁まで除籍抄本と刑罰等調書の出来上がりを貰いに。今日は秋らしい一日で、昼のウォーキング時も気温が上がって暑いくらいだった。午後から定例教育委員会。案件も厄介なものがなかったので珍しく1時間ちょっとで終了。叙勲の所管課のS氏とメールや電話でのやり取りを再開し、終業間際のメールで先方からのOKが出る。「金曜が出張なので、本音を言えば明日中に書類を届けていただけると助かる云々」と追伸も。難しい御仁かと想像していたが、ちょっとだけ素顔が覗けたような感じがしてプッ!こちらもできればそうしたいところ。軍歴証明書が明日早めに届けば、県庁まで行ける。
僕が、寺であるこの家に住み始めたのは小学4年になった時からであった。それまで身延の母の実家の近くに借家住まいしていたが、いよいよ家に戻る決心を父がしたのだった。身延小から原小へ転校したが、4年生は2学級で50人を欠けていた。学級は月組・星組という呼び名で、なんだか言葉にするのも恥ずかしく田舎臭く感じて馴染めなかったのを覚えている。そのときの担任がK先生で、水玉のワンピースを着ていたことがひどく印象に残っている。当時GSが流行っていて、テンプターズが水玉の衣装を着ていて、ショーケンの「エメラルドの伝説」に憧れたりしたし、水玉模様が流行っていたのかもしれない。そのK先生のために、明日の朝は元気のための祈りをしようと思う。もう40年も前の話しになるんだな。早川義夫が25年の時を経て出したアルバム「この世で一番キレイなもの」に入っている「赤色のワンピース」が僕は好きだ。懐かしい時代が渦を巻いてよみがえってくる。フーン、フフーーン。

2008年9月23日Tuesday 晴れ
午後になって太陽が顔を出した。久しぶりってな感じ。
午後1時半から彼岸の法要。檀家6人来てくれる。多くを望んでも仕方がないし、こんなもん。経をあげお茶を飲み世間話を交わして解散。本堂で護摩焚きの準備。土曜日に焚けるか。夏が終わる。陽の射す庭で、ミツバツツジの萌芽を時間の経つのを忘れて眺めてしまう。こんな風に変化してしまうものか人間て者は。でもいつまで続くか自分でもわからんが。動物より植物がいいのは語らずに吠えずに、宇宙の縦糸と横糸の隙間からいのちを芽吹かせるような神秘なところかもしれない。JAPANのデヴィッド・シルビアンの深いボーカルに引き込まれた。

2008年9月22日Monday くもり
長月の雨。
9月は降雨量が多いというから雨が続くのももっともなんだろうけど、回復しそうな素振りを見せたり、ザーッと降らせてみたり。
朝から一日死亡叙勲の書類作成にて過ごす。息抜きに伝票を処理したり。故人の兵役を調べるために電話したら、担当部署の職員が飛び石連休の谷間を休んでいたり。よく気持ちはわかる。知らなければ何の罪もないし、こちらもそれを怨むわけにもいかない。逆の立場であれば僕もそうしたいもの。天気が悪いと職場の雰囲気もなんとなく沈殿しているようで、静かに静かに一日が過ぎる。終業間際になって県の担当とやり取りして、FAXを送ったり電話で話したり。職務とはいえ、こんなにも気を遣わなければいけんものかと、この栄典の事務という奴、こちらは恨めしく思えたり。

2008年9月21日Sunday
雨で墓参もまばら。
午前中は何とか天気がもっていたが、午後から雨になった。けっこう激しい降りだったりした。土曜の夜に課長から連絡があったので、ちょっと気になってしまったので、8時半前に職場へ行き書類等の確認。死亡叙勲該当の方の死亡があった。履歴書はあるが功績に関する調書ができていない。これでは何も書けそうもない。裏の手を使うしかない。家族に意思確認をすると、兵役の期間もあったらしく、位階もあるとのことで、位階を日直に届けていただくことにした。履歴書を持ち帰って、午前中いっぱいかかってパソコン打ち完了。明日の段取りなどを頭の中でめぐらす。
昼食後過ぎに広場に車が増えだす。町長選に立候補予定者が総合会館で決起総会を開くため、役場の駐車場に置ききれない分うちの駐車場から会場へピストン輸送するとのことであった。雨が強くなっていたりで、三々五々集まる動員の人たちも大変そう。彼岸中なので僕は自宅に。雨になり墓参の人たちもほとんどない。午前中早めに出かけてきた人が多かったのか、天候が悪いと、直接墓地へ車で行く人も多い。彼岸や盆の時くらいはできれば寺の正面から入って墓地へと行ってほしいものだ。
ミツバツツジのもう一株にやっと芽吹きがあった。これできっと大丈夫。なんといってもこれに花のつくのが僕の春を待つ一番の楽しみなんである。「篤姫」を見た後に、巨人戦もダラーっとみる。10連勝で首位阪神に並んだ。ほとんど興味がないが、やはり野球は巨人というのが、頭に刷り込まれてしまっている感覚だ。

2008年9月20日Saturday くもり
彼岸入り。
雨は朝には行ってしまい、下山小の運動会もきっと開催できたな。残りの畑の草刈をお昼前に済ませる。朝食後に頼まれた塔婆を書き、その後、草刈り機のパーツの注文品が来たので受け取りに。ついでにコメリで2サイクルエンジンオイルも一缶買う。資料館の前の草も伸び放題になっているので、参道端を少し刈っておいたら、午後になったら松田先生が来て残りを刈っていった。きっと昨日古文書を調べに資料館に来たので、伸び放題を放っておけなかったんだな。雨は上がったけど、いまひとつハッキリしない天気。いま午後3時前。お墓参りと、頼まれた塔婆を立ててきた。墓参もちらほら。お墓で1本塔婆を頼まれた。ありがたいありがたい。
墓地をここに取りたいなんて話も1件あるので、実現してくれるとホントに嬉しい。Kさんの墓地も既に出来上がっていて、後は納骨と開眼供養だ。
「方丈さん、いつも草を刈ってくれてありがとう」と。これはこれでこちらも感謝の声だ。

2008年9月18日Thursday
今朝の雨は冷たい。
雨なので本堂に行くのを、玄関から傘をさして行こうか、客殿からいつものようにスリッパで石畳を歩いていこうか迷った。で、晴れている時と同じにした。少々濡れたがあまり気にならなかった。雨の朝の本堂は外の明るさがないのでロウソクだけでは暗い。電気を点けるほどのこともないのでいつも点けない。理趣経は、経本を開いておけば、少々暗くても読める。昨日久しぶりに会ったT君夫婦の新しい“いのち”のこと。年内に出産予定とのこと。それからKちゃんのこと。大きな流れが押し寄せているようだ。どちらのことも僕の大切な人たちのこと。事がうまく運びますよう祈らせてもらいました。
新聞。「みぎわ」の上野主宰が亡くなられた。僕が短歌を何年か続けていた時期があって、サンニチの歌壇には随分とお世話になり、選者の上野久雄先生には拙い歌を拾っていただき、指導も励ましもいただいてきた。短歌があったから僕は家族をもてたようなものでもある。心よりご冥福を祈りたい。

2008年9月17日Wednesday 晴れ
エイズやC型肝炎や拉致家族が、端緒となるほどのものなのか?
薬害肝炎訴訟原告の女性が、次期衆院選に長崎2区から民主党公認で立候補する意向を固めたと聞くが、どうもこういったマドンナを集めるとか、時の人を擁立して一議席を確保したいという作戦を必ず仕込んでくるんだけど、仮にこれで彼女が当選したとして、彼女はどう民主党の中で働くというのか。恐らくは、民主のイエス・ウーマンで、民主党の政策に一票を投ずることだけでしかないのではないか。議席を確保することだけで、有名女子ゴルファーの父親が、或る日突然国会議員になってみたりする。当然に思想もビジョンもあるわけがない。C型肝炎訴訟で顔が売れたからって、それが国の政を左右する場所に即飛び込んでいって、何かできるってもんでもないだろうに。こんな低レベル放射能国会だから、関心も薄らハゲになっていくってもんだ。
この間WOWOWでたまたま見たんだけど、こんな馬鹿馬鹿しい奴らより、RIZEの「heiwa」の方が、がんがん熱く胸を打ったし、若者たちもこんな奴らがいる限り、何とかなりそうだって気がしてきた。何が大事かって事を「椅子取りゲームが一番大事だ」っていう奴らのなんて恥も知らぬ薄っぺらなものか。

2008年9月16日Tuesday
見苦しくないほどの環境は作ったので今朝の雨は心休まる。
風もなく雨だけが強くも弱くもなく木の葉を打つ音だけを響かせて降っている。ケヤキの老木の包容力のなせる業か、からだの火照りも疲れも不思議となく気持ちも穏やかに僕の今朝はある。9月も半月が過ぎ、日々彼岸花の数が増えていく。昨日参道脇の畑の草刈りをしていると、Wさんが寺を訪うてくれて、彼岸花を撮っていった。「草を刈っているのが住職だとは思わなかった」という言葉に、「まさか住職が草刈なんてしないだろう」なんて気持ちもあったのだろうか。この寺では草刈も庭木の剪定刈り込みも、落ち葉掃きも、法事も葬儀も全て住職とその家族がこなさなければならんのです。それをこなしながら死ぬときまで修行させてもらっています。とこんな風に書くとかっこいい。
残りの半月も早起きを継続すること。怠けもんだから、半月くらいずつの目標が僕にはいい。

2008年9月15日Monday 晴れ
敬老の日。
土曜日。8時からK家の墓地建立のための作法。地の神から墓地を取ることを許してもらっていただく。K家からは奥さん。息子二人。次男の奥さん。土建業をしているので、基礎はこの日、日没ごろまでかかったが済ませてしまう。東京から石屋さんが来る日程が決まっているのだという。猪口のお酒を飲み交わしたあと、「和尚さん、こんなときになんですが、結婚しまして嫁さんです」と、次男より奥さんを紹介された。お母さんからは「新しい家族が増えました」と添えられた。ご主人が一夜にして亡くなってしまうという悲劇から数年が経ち、念願の墓地建立まできた。
僕はこの後、一日中墓地の草刈り。全部刈り終えることができなかったので昨日も。天気がよかったので捗った。今日敬老の日で月曜も休みなのでありがたい。参道脇の畑にも草刈りの手をつけたいのだが、三日間これをすることにもいささかの抵抗もあるが、気分はさてどんな風に落ち着くやら。(午前6時58分)。

2008年9月12日Friday 晴れ
墓地取り。
明日の朝8時から墓地を建立する施主のために、墓地を取る地取りの作法しなければならないので、書き物をしたり幣を作ったりした。こんなことをしながら夜がまたひとつ過ぎてしまう。明日は、彼岸前の休日なので、草刈りをしようと思ってはいたが、墓地の造成を始めるにあたって、いきなり夕べ電話がかかってきて「どうしましょう」もないと思うが、新しい檀家はこのような手順について疎いことはわかるが、墓地を作りたいと話のあったとき、実際にここに墓地を取るということを決めたとき、こういう手順を踏んでくださいということは話しておいたつもりだが、なかなか早目に連絡をくれるということは無理なようだ。ただ、こちらはこちらのしなければならないことは、しっかりとやっておきたいので、明日朝8時からのために、夜なべをしてでも準備はしっかりと済ませておきたい。

2008年9月11日Thursday 晴れ
青く空はるか浄土までつながっているか。
5時過ぎに起き朝のお勤め。理趣経の音に暫く太鼓を打つ。朝の明けがだんだん遅くなる。そして朝の冷たさが少しずつ増している。この時間になると風や空がハッキリしてきて、ケヤキの緑が揺れている。空はどこまでも青く、世界中を区切ることなくつながっていることが実感できる。この空が浄土へもつながっていることも感じる。この空を見上げて誰が醜い争いごとを本心から望もうものか。事故米を精製して売ることより、己が心を精製することの大切を学ばなければ、虫歯になるから雨はなめるななどと、幼らに話すことはできないだろう。
女房と娘は今日から九州へ義兄・義姉とともに出かけた。夕べ遅くに義兄宅に行き、10時半頃には長崎に着くのだそうである。土曜の帰宅まで暫しののんびりだ。議会の委員会が今日あるので、それも済んでしまえばこっちも気が楽になるというもの。でも酒は飲めないな。

2008年9月10日Wednesday 晴れ
藤井日達上人を思い出し。
今朝「瞳」を見ていたら、なんか木鉦のような音が近くでカンカンするんだけど、沢向うの日蓮宗のHくんのところからでは、こんなに大きく聞こえるはずがないが、でも確かに木鉦の音で、独特の打ち方は読経にあわせて打っているんである。出勤のため車庫まで行ってようやく事情がわかった。私の寺の隣りに日蓮宗の墓地があって、墓地でお経を上げていたのだ。朝早くからなぁ。彼岸にはまだ早いし、彼岸前に墓地でも治すために、お寺さんに経を上げていただいていたのかも。木鉦はカンカンカンと、よく鳴ってよく響いてよく聞こえる。日蓮宗のお経に勢いがあるのは、木鉦であったり、隊列しながら打つ団扇太鼓であったりするような気がしている。すでにお亡くなりになられた日本山妙法寺の藤井日達上人の「撃鼓宣令」は、まさに団扇太鼓を撃ちながら歩くことであった。いまでも日本山の僧侶らが、世界中で核廃絶や平和のための撃鼓行脚を続けている。明日9月11日は、アメリカ同時多発テロ事件から7年目の日になる。僕もこの朝には、本堂で鎮魂と平和のための太鼓を打つ。誰が、悲しみや貧困や死に怯える毎日を望むだろうか。幼い頃は、彼岸花が現れると、桑の枝なんかで、花を切り倒すことにその時の生きがいを感じていたことがあったが、いまこの時期に少しずつ開き始める彼岸花は、テロや戦争に巻き込まれて命を落とした魂の蘇りのように映る。おびただしい数に埋め尽くされる境内の何日かの光景を、愛おしく思うとともに、平和への思いを新たにできる時と、ここに居ることに感謝できるのだ。日本山の方々とは手段は違っても、僕は僕なりの平和への祈りを重ねていこうと思う。

2008年9月8日Monday 晴れ
酒を愛する者への甚だしい裏切りだ。
そもそも何故このような事故米などというようなものが存在して、それを売り買いしているのか、これが素朴な疑問だった。調べたら、『「事故米」は、ウルグアイラウンド合意で、日本が外国からの購入を義務づけられた「輸入米」』で、中国、米国、タイ、豪州、ベトナムから輸入しているとのこと。今回の「メタミドホス」が検出された「米」は中国産のもち米らしい。「事故米」は、合板接着用の「工業用のり」などへの使用に限るということになっていたようだが、なんと食用米として米菓メーカーや焼酎メーカーに売られていたのだ。バカヤロウであり、人の道を踏み外したこの天や神をも恐れぬ行為。絶対に地獄に落ちる。焼酎メーカーは知らなかったと言っている。そりゃぁそうだろう。でも買い取り価格が通常の米より安かったというようなことはなかったのだろうか。安かったとしたら、これを?と、疑わなかったということであれば問題だ。飲む側は、僕に限ってだけであれば、まったく疑わずに「うまい、うまい」と飲んでいくだけだ。六調子なんて、有名な焼酎メーカーではないか。食べられない米なんてものが何故存在して、それを承知でそれを買わなければいけないなんて、到底田舎もんの無知なる我には、それを理解する気持ちの余白なんてない。食品偽装や食品に関する黒い話はとどまるところを知らない。何を信じたらいいのか。食べ物も飲み物も信じられなくなったら、いよいよ桑持て自ら耕せということを始めなければならんのだろうか。

2008年9月7日Sunday 晴れ
雨降り始める。
日中は暑かったが、4時半頃から降り始める。午前中に外の仕事を済ませて大正解。昼からは暑すぎて仕事できなかったかも。久しぶりに身体を使って外の作業をしたので、足に疲れが出る。午後は3時過ぎまでゴロンタ君。重い身体を起こしてその後彼岸の塔婆書き。喜多郎聴きながら書く。書き終えて筆を洗ってポツポツと降り始めたので、本堂で少し早いが夕のお勤め。今これを書く前に、雨の音を聞きながら足の爪きり。爪切りもけっこう覚悟を決めないとなかなか億劫なもの。縁で、雨の涼しさを受けながらパチパチと擦り擦り。足を洗ってこれで日曜もとりあえずおしまい。

2008年9月6日Saturday 晴れ
栗ご飯。
朝はこの秋初の栗飯。甘くてうまい。炊き込みご飯ていうのは、それだけで一品料理であり、何もおかずもいらないような合理的な飯だ。食べきれなかった分の栗飯が、夕餉にはおにぎりになって食卓に上がった。これはまたこれでうまい。
山に食べ物が豊富な秋であれば、獣が里に下りてこなくてすむ。去年の秋はそんな風であったので、今年は2年続きでそううまい具合にいくかどうかわからないけど、なんとかそうであることを願いたい。
今日も残暑。昨日より暑い。午後3時ごろから墓地へ行き、それぞれの墓地から盆の幡を飾った竹や、枯れた花なんかの片付け。草を刈ろうかどうか思案のしどころであったが、彼岸までを考えて一週送ることにした。これを刈れば例年だと草の刈り収めになる。汗をかいて、頭を刈って、夕のお勤めを済ませて、軽く熱燗。

2008年9月5日Friday 晴れ
気温上がる。
外に出ると暑い。今日本庁の切石では31度超え。ALTの車の名義変更や自動車の保険のお金を立て替えたので、中富中まで行く。明日から学園祭なので、校内は教師も生徒も和やかなのんびりとした雰囲気。グランドでは、何年生か、10人11脚の横並びの競争の練習に余念がない。ようやく3人の新しく迎えたALTの細々したものも終わりそう。迎えれば迎えたで、すぐにインターネットを始めたいとか、彼らの要求は彼らがほぼ満足するまで待つことを知らない。正直うんざりだ。クルマの調子が悪いというので、診てもらって、ブレーキパッド(僕にはこれがなんなのかわからないんだが)を交換したのだが、昨日、お金を貰いに行くといったら、「どこを直したのか、直す前と症状に改善がみられない」というので、勝手に自分で自工へ持ちこんで診てもらえと言ってやった。
このやり取りは、英語科教師が間に入っているのだが、うんざりとする残暑のように体力を消耗してしまうかのような我が儘放題だ。ホントうんざり。
今夜は夜の蒸し暑さも格別。山下洋輔のピアノに、富樫さんの詩情豊かなブラッシング。秋、更けてゆけ。

2008年9月4日Thursday くもり
気は優しくて力持ち。
仕事が終わって、金太郎で飲みながら大相撲中継を見て星取表なんかを付けていた時期もあった。千代の富士だっただろうか。北の湖や小錦もいただろうか。小兵の舞の海や、夢を捨てきれず教師を辞めて角界に入った智乃花なんかも居たのかな。
土俵のニュースより、土俵の外のニュースのほうが多くてうんざりだね。若貴兄弟の確執なんかが、こんな相撲界に様変わりしてきた走りなんかになっているのかもしれない。伝統あるものは時代に淘汰されて様変わりしていくこと必至なのか。柔道着だって、今じゃ白と青は国際競技では当たり前になっているものな。帯の上に赤白を見分ける紅白の帯を巻いて闘っている状況には、僕は割と昔から違和感があった。
北の湖は強かったけど、理事長職を続けていくのには少々難があるのではないか。場所開催を取り止めにしろなんて声も囁かれている。こりゃ一大事だぜ。気は優しくて力持ちのお相撲さん。そんな絵本の中に描かれたようなお相撲さんは、国際化する中で、この狭い国だけで通っていた常識が通用しなくなってきたってことだろうか。部屋を維持して、部屋を大きくするために、外国から強くなりそうな人材を連れてくるなんて、そこまでしてお相撲さんの世界を続けなきゃならないんだろうか。表のきれいなとこだけが見えていたのだろうけど、裏側も見せてくれなんて誰も言っていないのにね。内に秘めた闘志だからよかったんだ。勝敗がついてノーサイドになっても、肩で小突きあってみたり、こんなのが一番見苦しい。勝っても負けても潔いのがお相撲さん。

2008年9月3日Wednesday 晴れ
マリファナ吸引が非犯罪化されている国であれば。
ロシアからの兄弟力士、露鵬と白露山から大麻の陽性反応が出たというが、家宅捜索をして結局ブツは出なかったようだ。出なければ彼らを拘束することはできない。ロシアは大麻に関しては非犯罪化しているらしいと聞いたことがあるので、先場所から新場所の始まるこの間に帰国して、気分転換に一服したことも考えられるだろう。ただ、陽性反応が出るのは、ここ数日官の吸引がなければというようなことも言ってはいたが。でもまあ、国が違えば国の掟もまちまちであるので、彼らが帰国の折に吸ったことまで咎められないだろう。大麻に関してはちょっと過敏反応しすぎているのではないかと思うが。ただ角界の現体制がもう崩落しているのだけは事実のようで、相撲という国技自体に、後継はもう魅力を持っていないのかもしれない。北の湖理事長には余り頭の良さを感じない。
今朝は朝から残暑の一日になるなぁなんて朝の陽射しだ。不思議と今朝は少し調子がよい。日柄です日柄です。こんなことを呪文のように言い聞かせながら、朝のお勤めをしている。

2008年9月2日Tuesday 晴れ
福田さん辞任。
福田さんの辞任は、まるで今の世相の王道を行くかのようなもので、逆切れもあり、無差別殺人の起こるようなのと、なんら隔たりのないような、お粗末で幼稚のように思えたが、如何なものなんでしょうか。9月1日にこだわっての決断だったのか、特にそういう訳でもなかったのか。お辞めになった総理の比較で、久しぶりに安倍さんの辞任の映像も流れたりして、この時には、福田さんは「労せず、流れが俺にきた」位に内心ほくそ笑んでいただろうに、まさか一年のわずか手前で、苦渋の決断をとることになろうとは。去ろうとする人を誰も引き止めず、冷ややかに見送るは世の習いである。もう麻生さんは総裁選に意欲を見せているというが、どうもこの時期の宰相にならんとする人は、相当の覚悟が必要なのではないか。結果的に「俺が貧乏くじを引いた」ってのが、どうも福田さんの言葉の端々に受け取れたんである。冒頭から「不祥事続きで云々....」と、ボヤキからはじまっていたもんなぁ。ちなみに今日9月2日は「くじの日」である。新たなくじ引きはもう始まっている(引く時には、誰もみな「福引き」だと信じたいものだ)。福島瑞穂というか、社民党のお得意な「国民切り捨て内閣」のような発言も、相当カビが生えている感じだけど、彼らの胃袋は麻痺して強固だから、まったくお構いなしなんだねぇ。

2008年9月1日Monday 晴れ
九月。
今月も早起きを続けることを目標としよう。7月8月と早起きができていたので、継続したい。早起きすると朝の時間にゆとりが出る。朝のお勤めもゆっくりとできる。理趣経を読むこと。できるかぎり理趣経を一巻読むこと。7月8月はこれがほぼできていたので、9月になってもこれが維持できるようきちんと生活すること。十分に承知はしていることだが、酒を控えめにすること。日柄経なければ体調が元には戻らない。今この老いはじめた身体を、誰ではなく自分自身で恥じ入るように感じている。
本を読むこと。よい音楽を吸収すること。寺を学ぶこと。寺で学ぶこと。自身も伸びようとすること。

2008年8月31日Sunday 晴れ
八月最後は夏を締めくくるような暑い日になった。
昨日も一日雨だったので、今日の晴天は気持ちよかったし、暑い日となって、寺の建物回りもぐるっと戸を開け放って風を入れた。ケヤキの葉を揺らす風は秋の風だ。松本で買ったカリンバのCDが気持ちいい。今日は昼ご飯を食べて早めに頭を刈ってさっぱりとした。本堂も掃除をし、暑かった八月にもサラバだ。

2008年8月29日Friday 晴れ
木喰。
木喰の生家のあった丸畑からそう遠くないところに今の職場がある。28日は山尾三省の命日だった。数日前に、Amazonで山下洋輔トリオの「木喰」を買っていた。1970年1月に録音された山下トリオの2作目であるが、CDになってはじめて手にして聴いた。それからタイトルの「木喰」は第一期トリオのサックス奏者である中村誠一が、山尾三省の長編詩「東京1」の第13章「木喰上人の踊り」に感化されてできた曲であることを知った。山下トリオは、僕が20代に一番よく聴いたJAZZのグループであったが、第一期のトリオは僕が大学に入ったときには既に終わっていた。僕は第二期の坂田明が管で入ったトリオ以降のレコードを聴いたり、生のステージを見たりした。僕にとってのフリージャズとは、山下トリオからはじまった。いまもって僕の聴くジャズはほとんどがフリーである。
「木喰」のジャケット裏に印刷された三省の「街に木喰上人がやってきた」ではじまる詩を読みながら、20分超の曲を聴きながら、このめぐり合わせの妙に感謝しながら三省の命日を感じた。三省を心に感じながら、アフガニスタンで拉致殺害された「ペシャワール会」の伊藤和也さんの魂の安らかに昇らんことも祈らなければならなかった。弓の島は、昨日の午後から今朝にかけて、各地でゲリラ豪雨に見舞われた。いくら歩いても辿り着けないトンネルの出口を探して、もう間もなく9月になってしまう。

2008年8月26日Tuesday 晴れ
本山火災その後。
夕べ宗務所長から電話があった。話の内容は多分そうだろうとは思ったが、本山上醍醐の火事見舞いの件であった。本山では早速、宗務所玄関に記帳所を設けたということである。本山の意向は、理源大師の御遠忌終了後に再建に取り掛かるということであるし、見舞いをするということが見舞金を出すということであるなら、本山からの何らかの伝達がなされてからでもいいではないかと応えた。今見舞いをしても、再建についての趣意書かなんかが回ってきて、「これだけ集めたい」「勧募したい」と示されることも十分予測できるし、我ら末寺は、いま開山の御遠忌の勧募金のことをどうにかしなければならんと頭をひねっている時期なんだ。幸い僕のところでは、先日の護持会総会で、各家6,000円の拠出を願うということで話が決しているが、准胝堂の再建のことまでは、正直檀家に相談できないと思うのだ。
山梨は小さな寺院の集合体で、本山からの見返りなんてものはほとんどない。こちらから差し出すものはあっても、こちらに還されてくるものなんて、領収書だけだ。大きな事業をすることばかりに躍起になっているから、今回の火事だって、理源大師からの苦言だったかもしれないと思いたくもなってくるってもんだ。
今夜も宗務所長から電話があり、結局とりあえず、火事見舞いの電報を打つということで落着した。

2008年8月25日Monday
2日続きの雨。
月曜で、この辺りは今日から小中学校の2学期の始まりだ。なんとなく行きたくないような朝かもしれない。僕も昨日が日直だったので、休んでいたいような雨の朝だ。北京五輪が終わった。
2日続きの雨ですっかり周りの熱が下がった。オリンピックの熱も一気に下降だな。日直の午後本を読みつつ眠ってしまっていたら、「こんにちは」に起こされるという失態。「死亡届です」と、寝ぼけた頭のまま届けを受け取り、受付書類の入った箱を開けると、前日のSさんの時にも届けがあったので、それを参考に埋火葬の証明書を出す。曇りや雨の日はメガネの具合がとても悪い。最近はメガネを外さないと書類などにペンを走らすことができない。まったく老いていくということのこの不自由さは、まだある先のことを思うとさらに頭が重くなる。
寒い夜で、寒がりの僕は夕べ毛布を出した。夏掛け1枚では朝方の寒さが耐えられそうもなかった。4時過ぎには頭が起きはじめるので、今朝の毛布はやはり大正解。女房寒くはないんじゃないの?というが、こればっかりは別々な生き物なので。というか、僕の場合は、特に酒を大量に飲むので、その反発で、朝方急激に体が冷えてきたりするようだ。酒を慎んでいたが、8時から篤姫の2度見を始めたときに、焼酎のロックを1杯飲んだ。これが朝まで効いていて珍しく頭痛。トイレで考えたが、25度の焼酎をロックで飲み始めると、25度という強さを頭や体が麻痺してしまうんではないかと。多分そうだ。
上醍醐の准胝堂が全焼してしまい、仲田総長がテレビのインタビューに応えていた。醍醐寺は、来年開基の聖宝理源大師の千百年の御遠忌を計画しているところで、今回の火災は大きなショックだとは思うけれど、落雷の自然災害による火災では誰を怨みようもない。本山執行部と遠く山梨の末寺に住む僕とでは、考え方にも相当な開きがある。准胝堂は、御遠忌後に再建をというようなことらしいが、また寄付を求められるとしたら、これは二日酔いの頭痛どころの痛さではすまされない。

2008年8月23日Saturday くもり
松本までほんのひとっ走り買い物に、。
8時20分に家を出て、10時40分には中町通りの駐車場に車を入れていた。あっという間の松本であった。松本に出かけたのは6年か7年ぶりくらいらしい。一番のお目当ては、「ちきりや」でガラスのコップを買うこと。ここのコップが我が家の愛用で、8個を買ってこれで補充なりました。ちきりやの店のお兄さんは、朝から完熟睡で、少々お体も力士並みに大きくいらしたので、単なる店番は身体にも脳波にも微妙な影響を与えているんだろ思います。遠慮しながら女房がお声を掛けても起きません。しっかり声掛けをしました。
お昼を「野麦」という蕎麦屋で食べました。冷麦か素麺のような細切りで、こんな蕎麦には初めてでしたが、いやぁ旨かった。外に丸椅子が5脚ほど並べてあったけど、僕らが入るときは外には待っていなくて、店の中で3人ほどお待ちでしたが、僕らが食べ終えて出るときには外にも10人くらい順番待ちをしていました。これが12時20分頃で、1時半まで自由行動にして僕は中古CD屋漁り。山下洋輔と富樫雅彦の「兆」他3枚。「兆」は、居間なかなか手に入らなさそうなCDだったし、聞きたかったので、松本まで出かけたかいがあったというもの。女房と娘は二人でショッピングーー。なかなかの上機嫌でありました。僕も久しぶりの松本楽しかった。以前よりももっと近くなった感じなんで、これからちょいちょい行けるかも。午後3時半前にはもう家に帰ってきました。時折雨があり、今日は太陽に会わない一日となり、夏の終わりの小旅行といった雰囲気でしたか。

2008年8月22日Friday くもり
今日は歩かずに、昼を静かに読書で。
夜ももう9時半を過ぎたというのに、どこからか花火をしている音が聞こえてくる。家庭用の打ち上げか。大分涼しい夜でもあり、それから子供たちにとってはもうあと2日で終わってしまう夏休みであり、花火の音が夏を惜しむ子どもらの複雑な気持ちの表れのように聞こえる。運動会や学園祭の2学期が待ってるよ。
今日の昼休みは左足に痛みがあったので、外に出ずに事務所で本を読んだり、オリンピックの野球:対韓国戦を見たりした。今日は風もあった。天候は下り坂だ。今はもう痛みはすっかり引いた。
午後から定例の教育委員会があり、そこに、学校適正配置審議会からの答申がされた。さて、これからこの答申を尊重すべく新たな展開が始まるのだ。

2008年8月21日Thursday 晴れ
夜は夜で涼しいと言うよりも、肌寒いくらいで。
女子ソフトボールの金メダルを見届けて風呂に入った。39度の湯温は僕には今夜ぬるかったので、2度上げて温まった。じっくりと湯船に使って温まるということだから、今夜の肌寒さがわかるだろう。網戸ではなく、窓も締めてしまって、TIM BERNEのアヴァンギャルドなサックスを聴いている。この人好きなんだけど、検索してもAmazonでは1枚しか出てこない。HMVだと、けっこうたくさん出てくるんだけどね。Amazonて、ちょっとマニアックな奴の品揃えが貧弱なんだよね。この点が僕にとっての不満なところ。まあいいや。
ソフトボール見ていたんだけど、まさに波に乗った者勝ちの典型的なゲームだった。途中降雨で中断されたけど、これが再試合になんてなっていたら分からなかっただろうし、米国の1回の攻めで、得点できていたとしたら、波は圧倒的有利に米国に来ていただろうなんて思った。4年に一度のお祭りに向けて、そして自分が出場するときに最高のコンディションにもっていくことってのは、ホント今回見ていて、難しいことなんだなぁって。夕べのソフトボールで2回投げただけなのに、キャッチボールもせずに臨んだ僕は、もう筋肉痛になって体が重い。足も微妙な痛みがあったりね。きれいな月が出ている。論語の本を読もう。

2008年8月20日Wednesday 晴れ
痛風になりました。
日曜の昼寝から醒めたときに、右膝に痛みを感じた。座卓に足を乗せて仰向けに寝ていたので、足が伸びきったのだろうかなどっと思いながらも、いっこうに痛みの引かない足のことを思ってはいたが、月曜は職場に行き、叔父の寺の葬儀の手伝いがあることを伝え、そのまま夏休みをもらって、お昼前に葬儀会場に向かった。正座する葬儀だったら僕は無理だったけれども、椅子席なので、右膝の痛みは問題ではなかった。叔父にこのことを話すと、「使いすぎだよ、寺のことをよく働くから痛くなる。私だってもう歳だから、膝が痛いなんてことはしょっちゅうだ」と、優しい言葉を掛けてくれて、僕もこれを痛風だとは思いたくはなかった。しかし、この夜から、左右の足の甲に少しずつ違和感を感じ始め、それが痛みに変わり始めたとき、やはりこれは痛風だなと納得するしかなかった。翌朝は、両足に痛みがあり立ち上がることもおぼつかなく、結局恥ずかしい話だが休みをもう一日もらうこととなった。これで夏休みを使い切った。
一日寝ていながら、読まずに放っておいた「竹林の七賢」と「寝床で読む『論語』」を読み進むことができた。遥か中国の偉人の生き様を読みながら、この無様を反省。痛み止め効果のある漢方を服し、今朝は仕事に行けそうである。痛風は足ばかりではなく、手にも来るそうで、関節の痛みを感じたら僕の場合は「痛風」と思えといったことになるか。不摂生を控えずに何度も続くなら、「もう薬はやらん」と女房は薬局の店主に叱られたと言う。愚かな旦那のために、女房が苦言を呈され、それを伝えられ、僕はなかなか遠退いていかない痛みをじれったく思い、「もう飲まねぇよ」と繰り返すしかなかった。これが盆開け数日の顛末である。
(21:47) 地区のナイターソフトボールがあって、病み上がっていないけれど、選手不足で呼び出され行ってきた。ホントに不足していて、フル出場。最後の2回はピッチャー。シングルヒット2本。反省会は断り家に戻った。そしたら、僕が出かけるときに5回裏だった女子ソフトボールは、延長12回になってまだ続いていた。この後すぐに、サヨナラ勝ちで終わったのだが。月火水と酒を控えて、気持ちのよい汗をかいて風呂に入って、さて、「論語」を少し読み進めて気持ちのよい眠りにつこう。

2008年8月15日Friday 晴れ
引越し。
波木井の県営住宅の303から404への引越し。日通に頼んであるのでほとんど手伝うこともなく、今回の予算措置はホントにありがたかった。9時半から初めて12時過ぎに移転終了。Jもやっと新しい自分の部屋での生活を始められた。僕はそのまま旧い部屋の最終の掃除をして、住宅供給公社へ鍵の返還。これで退去完了。甲府は暑い。今週は水曜日を除いて甲府へ4日も行ったことになる。珍しい。盆中で休んでいる者が多く、職場も静かだった。僕はほとんど今日居ることはなかったが、終業前1時間くらい。出金伝票を起こしたり。
15日なのに、もうすっかり村の中は静かになってしまったようだ。盆の過ごし方や迎え方も様変わりしたんだなと思う。やっとのんびり感を味わいながら、ビール、焼酎だらだらと。オリンピック見ながら。面白くもなければ、そんなにつまらなくもないオリンピック。電力の果てしない無駄遣い。

2008年8月14日Thursday 晴れ
棚経。
昨日の午後村内を済ませ、今朝は外回り。5時起床でお勤めを済ませ、水遣り。朝食済ませ7時20分出発。一路本栖湖へ向かう。富士豊茂の遠藤さん宅へ。きれいな富士山も見えたし、一番はなんといっても涼しさ。本栖湖の気温は21度。快適そのもの。遠藤さん宅から望月さんの家に行く。望月さんは「これから中央市へ行かなければならないが、暑いそうなところへ降りていきたくない」と、本当に憂鬱そうに話した。あー僕もこれからも本栖を下り、市川大門から甲府へと向かう道中のことを思うと気が滅入りそうだった。実際今日は暑かった。訪ねる家々で水ばかりを飲む。親戚と知人宅への新盆の挨拶に行く用があったので、いつもよりすこし早め早めに動いた。昼食を食べそこね、まあいいやと最後まで回った。200キロ近くを走り、寺に戻ったのが午後4時過ぎ。空腹も余り感じなかったが、さすがに水物だけでは、体が持ちそうになかった。最近これが旨いと感じているんだが、しめ鯖。これで缶ビールをやったら一気に腹が減ってきた。年々この棚経の外回りは疲れる。夜の盆祭りもご祝儀だけ渡して草々に引き上げた。親戚も、新しい家族が増えたりするともう僕にはわからないようになってくる。これはお互い様のことで、親戚のつながりも、縁が薄くなったり、新しい枝からの縁が深くなったりする。盆周りが終わりひと段落。あと16日の護持会総会。暑さだけが体の元気を奪っていく。歳は取りたくないもんだ。

2008年8月13日Wednesday くもり
曇り空の朝になった。
5時前に起きお勤め。終えて墓地に盆の紙幡を付けに行く。曇り空。静かな墓地で先日とって墓地ごとに立てておいた細竹の枝に一枚一枚結んで付けていく。女房も起きて寺の墓の掃除やら草取りを始める。今年は盆中本尊の扉を開けておくことにした。帰省した人も関心をもってくれるかもしれないし、会いたい人も居るだろうし。

2008年8月12日Tuesday 晴れ
蜂の巣の駆除。
7時30に出勤し、ALT3人の県内オリエンテーションのため県庁まで送る。帰りたいと言っていたオーストラリアのJも、大分気持ちが落ち着いてきたようで、大丈夫とのことでひと安心。帰りがけに本庁で用事を済ませ、昼までにいくつかのことを片付け、JETALTのことも大体ひと段落着いたので、午後から休暇をもらうこととした。朝ちょっと気になるものを発見してしまい、これを何とかせねば盆中も気になってしまうこと必至である。蜂の巣だ。台所の出窓の下をスズメバチが出入りしている。覗くも巣は見当たらない。よく見ると板の隙間からその中に出入りしているようで、巣はその空間に作っているらしい。これは厄介。と言うことで、蜂駆除用の服を借りて、昼過ぎに駆除開始。蜂ジェットを使うも、巣がわからないので、出てくる蜂に噴霧するくらい。側にあった細い鉄の棒を隙間から差し込んで何回か感触を確かめると、4度目くらいに当った。左右に振り払うと巣が落ちてきた。まだそんなに大きくはなっていなかった。こんなものが大きくなって飛び回られてたんじゃとても適わない。20分ほどで終了。汗びっしょりだが、この服を着ていればまったく蜂を恐れることはない。この夏ふたつ目のスズメバチの巣を駆除。夕までに時間があったので、このパソコンの台の上を何ヶ月ぶりかで整理。CDやDVDがほったらかしになっていたが、やっと片付けた。
夕方、水遣りと外便所の掃除。八日市場にも盆の帰省が増えているようだ。なんとなく村が浮き足立っているような感じ。明日の午後から棚経。

2008年8月10日Sunday 晴れ
雨もパラパラとあり、過ごしやすい一日となる。
昨日の雷雨の後だから反動で猛暑になるかと思っていたがそうでもなかった。参道の草取りや草刈。鐘楼にシメを張ったが、風で千切れてしまったのもあるので補修。昼前に久々に屋根に上がり、樋の掃除なんかも。屋根に猿ばかりに上がられるのは癪に障る。インスタントカレーを食べながら缶ビール飲んで、庫裏の奥の間で昼寝。ここは涼しい。台所から庫裏に入るだけで温度が明らかに違う。庫裏でも客殿でも好きなところにゴロリとなればいいのだが、誰かが訪ねてきたときに、姿の見えないところがいい。JAZZが心地よくホントに寝入ってしまった。電話で起こされ、よくある不動産投資という奴。「ナガアキさん居ますか」と言うから、当分帰ってこないと言って切った。午後3時を過ぎてパラパラと降っているし、遠くに雷も聞こえるので、今日もくるかなぁと思いながらも、気になる箇所の草刈。これでよし。盆を迎えられる。汗を流し、夕のお勤めを済ませ、「篤姫」まで、E.S.T.のライブ見ながらビール。オリンピックもなんだか空々しい。新聞の見出しは、「ママでも金」がダメになっても「ママでもメダル」ときたもんだ。

2008年8月7日Thursday 晴れ
山アジサイを。
鳩打隧道の入り口手前に山アジサイを見つけた。何故気が付かなかったのか自分でもよくわからんが、車を停めてその花をよくみてみたら、その咲き様というか開き様が少しわかった。少し枝を失敬して挿し木にした。時期的に遅いのかもしれないけど、こんな目立たずひっそりと静かに咲いているアジサイを、是非増やして見たいものだと思う。
JETALTの事務で今日も一日外に出ていた。同僚二人にも一日別な用事をお願いして協力してもらった。なんだか、今日はきつくて疲れた。

2008年8月6日Wednesday 晴れ
交通事故。
高岡君のブログを見て、彼とワタンベが交通事故に遭っていたことを知った。5月に家でライブをしてくれた大事なミュージシャンである。ワタンベは軽症のようだが、高岡君は頭を縫い、鞭打ちもあり、彼の命のチューバも相当なダメージを受けているらしい。大阪に帰っているようだが、ライブは当分できそうにない。でも彼の頑丈な肉体と精神と音楽に欠ける熱意は、きっと猛スピードで、彼をまた彼のフィールドへ戻してくれるだろう。彼の傷の早く癒えんことを僕はここで祈ろう。

2008年8月5日Tuesday 晴れ
盆間近。
夕べは降った降った。職場から戻ってからも、降りそうな振りだけで終わるかなってな感じだったけど、降り始めたら、まあ、力強く降ってくれて、猛暑の昼だったので、お陰で過ごしやすい夜となった。昨日の午後は、Jの入居する家の草刈を済ませ、男のJの入るアパートを確認に行き、明日二人を迎えるための準備。
今朝はいつもより少し早く起きて、雨の後の見回り。墓地から中沢川を少し上がった。墓地も本堂周りもすべてよし。池の水位も満タン。庫裏に戻って、シメを切り始めたら、作務衣の下から汗が噴出してきた。上着を脱いで裸になって切り始めたが、腕、手の甲の毛穴からも噴出してくる。盆も近づき、盆幡の仕度もしなければならない。

2008年8月4日Monday 晴れ
週末報告。
金曜の夜は支所に勤務する職員の暑気除けの会。20人ほどで、久しぶりに楽しい宴会だった。T君ともほんとに久しぶりで、宴後に温泉にも入り、彼の娘さんに家まで送ってもらった。
土曜はちと二日酔いであったが、宝竜寺の葬儀の助法で南甲府天昇殿へ。ホールの作りにも関係があるんだろうが、葬儀の間中会話する声が聞こえていて耳障りだった。こちらが読経しているときは気にならないが、黙っているときには、「これは何とかしたいな」という気持ちが湧いた。どうしようもなかったが、まっ、葬儀をどう捉えるかという基本的な問題だしな。
藍が夏休みで夜帰省。この前に、長野へ子供たちのキャンプのボランティアで参加してきたらしい。日曜は、朝、Sの入居した団地の草刈があるので自転車で行く。組長に彼女を紹介。その後、墓地に行って先週切った木の枝なんかの片付け。暑さで身体が崩壊してしまいそうなくらい。水を補給しに戻り、庫裏の軒下を見上げると、まだ10センチくらいのスズメバチの巣を発見。急いで竹竿を持ってきてそれで払い落とした。こんなところで巨大化されたらたまったものではない。今週はALT二人が来る。忙しない一週間となる。今日も暑くなりそうである。

2008年7月31日Thursday 晴れ
今夜雨はないけれど涼しくて気持ちがいい。
昨日来たSのために朝からお付き合い。モーガンが来てくれた。docomoでケータイを買う。登録原票記載事項証明という難しい名前の証明書と、あとは、メジャーなカードで決済することを承知すればその場で電話を求めることができる。厄介なこと一つ終わる。二人をアパートまで送り、家で昼飯を食って住宅供給公社へ行きキムのアパートの退去届け完了。帰って事務処理してまたSのアパートに行き、車の関係のこと。いちいちここに書くことすらメンドクサイ。もういいや、寝る。

2008年7月30日Wednesday 晴れ
イチローの居るシアトルからS。
JETプログラムの外国語指導助手としてSを国際交流センターで引き取る。甲府駅のロータリーを回って、県庁はここだと言い、「えびす」で回転すしを食い我が町へ。教育長を表敬し、その後中富へ戻り外国人登録。飯富のスーパーで食料の調達。無事にアパートに落ち着かせる。22歳の可愛い女の子。ケータイを欲しかったが、近くのDocomoは定休。auでもいいと、COMAに行ったら、なんとCOMAそのものが7月31日で営業を終えてしまうというビックリした状況にあった。当然ケ−タイを求めることもできず断念。明日また、久那土のALTを同伴させてDocomoに行く予定。中学校の英語の教師の都合で明日のスケジュールは月を跨ぐことになり、僕も明日はケータイが無難に買えたら、住宅供給公社に行きたいのであります。

2008年7月29日Tuesday 晴れ
暑さ復活。
朝から家庭内でごたごた。暑いので余計でうんざりする。肉親であっても、それから僕は僧侶という立場ではあっても、この母親という存在を認めることができない。ここだけは、本当に一個の俺というものになってしまう。まあいい。このプライドだけ高い女性の人生は僕の人生とは別物である。
デスクワークは、もう何日もほとんど片手間仕事のようになっていて、ALTを迎える3つのアパートを行ったり来たりしながら、事務所に寄ったときに伝票を起こしたりしている。キムのアパートからJの住居への完全引越しがなったので、キムの部屋を明日掃除してもらえば、アパートの退去手続きに行ける。予定通りに運べば31日に。明日は、セスの居た部屋にSが来る。国際交流センターまで迎えだ。その後、外国人登録など諸々、食材などの買出しなどという手順。
暑さが戻った。今日は汗をかいた。夕方帰ったら、29日参りのご夫妻。都留から毎月、ご苦労様です。実は鳥取からも4人家族が少し前に寺に来たと女房から。8時間ほどかかって車で山梨に来たらしい。大聖寺はどうも家族の目的地の一つであったようだ。輪袈裟持参で、熱心に夫婦は経をあげていったと聞いた。今夜甲府に泊まって、明日、恵林寺に参るのだそうだ。こんなときは、寺に居ない自分をもどかしく思えてならない。どうしようもないことだが。どうしようもないことはどうもしようがないか。

2008年7月28日Monday 晴れ時々雨
キムの部屋引越し。
キムが借りていた県営住宅から、Jの入居する家に一切の引越し。3年前はこの引越し作業を全て職員でやっていたが、今回は日通のプロにお願いできることになった。大きなトラックがやってきて、5人ほどで手際よく家具や冷蔵庫などを梱包して車に積み込みの作業。僕はその間に前庭の草を刈った。アパートに庭付きはいいが、関心のない者にとっては、厄介な雑草生い茂るジャングルと化していた。日曜に豪雨があり、今日も気温が上がらないので、草刈には都合がよかった。草を刈り終え、庭隅に積み上げたあたりでポツポツと雨が落ちてきて、日通の皆さんと、「今日は涼しくていいでしょう」「この夏初めての作業しやすい日ですね」なんて会話していると、ザーッと大降りになってきた。びしょ濡れになり、草刈り機や鎌を家に戻した。タイミングはよかった。Jの入る家に荷物は引っ越したが、エアコンの取り外しと取り付けをする工事部の職員が結局今日は来られないこととなり、その分だけ明日に持ち越し。
午後6時に八日市場団地でセスと待ち合わせて車の鍵を受け取りさようなら。セスはガソリンが余り入っていないので、次のSのために、満タンにしておいて欲しいとお金を託された。この辺が几帳面な彼の性格の表れのような気がした。セスを友人宅に送るため来ていたモーガンとも久しぶりに話す。奴は4年目の勤務を受けてくれた手のかからない指導助手だ。
夜も涼しく、汗をかかない一日が過ぎた。局地的な集中豪雨による災害があちこちで起きて、川に流された命も何人か。平塚駅構内でまた通り魔。

2008年7月27日Sunday 晴れ夕立
おー!雨だ。
今朝は墓地の草刈り。檀家さん大勢来てくれる。暑くなる予感なので早めに動いて早く終わりましょうと。9時20分頃終了。枯れた松の木も1本倒してもらいありがたかった。盆の棚経や護持会の総会の件など話して解散。11時から高槻の佐田さんの法事。大阪から栃木から16人来てくれて法事。墓参は暑いピーク。サルの糞が墓の隅でからからに干乾びていた。お昼は若大将から来てくれて家で食べることになっていたが、マスターから電話があり、「こう暑くては、生ものが心配なので店に来てくれませんかと」。これぞ職人!妥協を許さないほんま者の意気を感じた。佐田さんも快く承知してくれて、移動して食事。冷房の程よく効いた部屋でビール飲みつつ、極楽極楽。午後1時半に解散。暑い寺に戻って着替えてごろん。そのうちになにやら気配がして、雷が鳴り、ホッホントに久しぶりに雨。雨雨雨。風と雨で一時土砂降り。30分位で終わるかなーと思っていたけど、けっこう引っ張って降ってます。恵みの雨になりました。

2008年7月24日Thursday 晴れ
悪の連鎖。
また大きな地震があり、ガソリンは190円台になるという。暑くていらいらしながらも、そうっと生きていたいのに、心乱す出来事ばかりだ。
自らの苛立ちを、何の縁もない他人に向けて突き刺すなんて考えられないことだ。こんなことが日常頻発していたら、誰もが人を信じることができなくなる。やがて銃社会のように己を守るために刃を持つなんてことになってくるかもしれない。無価値な坊主のように自分の存在を眺めているだけの僕だ。サルの暴挙に成す術もなく、テレビからの報道にもうろたえてそれを耳で聞く以外に何もない。5時過ぎに起き、本堂と客殿で朝のお勤めを済ませ、花に水をやり、サルの来ていない朝の匂いをかいで飯を食う。多くを思って抱えたくなるのが人間かもしれないが、案外何もできないものだ。僕の目に見える範囲のことくらいしかできない。今夜、戒名もらえずに旅立った人のために法要をする。戒名を授け、その妻と子に安心を持って帰ってもらう。

2008年7月22日Tuesday 晴れ
朝からサルだ。
朝だからサルなんだというべきか。奴らの朝は僕よりずっと早いらしい。我々が起き出す前に、一仕事悪さをしてしまおうという魂胆だろう。ドンとかドスンとかいう音がする。本堂に向かいながら客殿を振り返ると屋根にサル。屋根からモミジの木を伝って山に姿を隠す。手の入らなくなった鬱蒼とした杜が格好の隠れ家。手の打ちようがない。モワーッとした夏の空気に、信じられないかもしれないけど、獣の匂いが漂っているんだから、この酷い状況が伝わるだろうか。ウンコもあちこちにあって、それも臭いの一つになっているんだろう。サルの雄叫びのように、近所から追い払う怒声が聞こえた。その声の内に、半ば諦めと頭を抱えるしかない農をする者らの泣き声もあった。まったく酷すぎる。

2008年7月20日Sunday 晴れ
猿盛ん。
先週あたりから猿が降りてくるようになった。通勤途上でも鳩打隧道の両側で見かけた。いよいよ食い物がなくなって里に降りてくるようになったか。今朝も騒々しかった。本堂へと外へ出たら、庫裏と客殿の渡り廊下の屋根の雨樋が軒下に落ちていた。見回すと、あちこちに猿だ。客殿の屋根にも猿。猿猿猿。お勤めを済ませて、雨樋の繋ぎ目を接着剤で付けなおし、ビニールテープでしっかり止めて屋根に上がった。なにやら臭うのでまた見回すと、ウンコだ。朝の食事を済ませて腹一杯になったあとのお土産をしっかりと屋根に置いていきやがった。梯子を降りてからも臭うのでサンダルの裏を見ると、小さなのを踏んでいた。臭いわけだ。先週も夕方、本堂の雨樋を下から伝って上る小猿を3匹見た。悪知恵の働く奴らというか、手の打ちようがない。近所からは猿を追い払う声と、缶を打ち鳴らす音が響いたが、効き目はほとんどない。気持ちの萎える日曜の朝である。

2008年7月19日Saturday 晴れ
清志郎のために護摩を焚く。
梅雨が明けた。護摩壇を支度して11時過ぎから護摩を焚く。暑い。キヨシローが再入院したので、どうしても今日は護摩を焚いておきたかった。お願いできるものすべてにお願いをしたいという気持ちだ。点火の直前に、堂内が少し騒がしくなり、何かなと思っていたら建物が揺れ始めた。地震だ。昼ごはんのときにニュースを見たらやはり地震だった。いよいよこの辺りにも来るかなと。熱い。炉の右側に置く五穀などを入れてある護摩器は、混沌するにもう熱くて器が持てない。汗も腕を流れる。病と闘う者に、お不動様の大いなる慈悲と安心を届けたい。キヨシローが早く歌に戻ってこられますように。

2008年7月18日Friday くもり
少し曇っているがやがて暑くなりだすか。
挿し木や庭に植えた気に水遣りをする日課が続いている。朝夕。ミツバツツジの葉が落ち始めたのを放っていたが、どうもこれは管理の手落ちのようで、水捌けのよい土地を好むが、水遣りは必須らしい。これを完全に怠っていたのだ。で、慌てて化成肥料をあたえて、地面には剪定したアジサイの枝を暑さ除けに敷き詰めた。これで保水も少し保たれるし、夜露が優しく滲み込むってもんだ。などと勝手に考えているが、このまま枯れずに生き残ってほしいというのが一番の気持ち。来年の春花を咲かせてほしいってこと。ミツバツツジの美しさに心を奪われました。大きな木になって咲いているミツバツツジの家があって、そこのを2年続けて見て、これは何という花かと訊ねたら、ミツバツツジであった。ヤフオクなんかにも出品されているようだがけっこう高い。大事に大切に育てたい。
暑い日になるだろうか。今は曇っている朝だけど。

2008年7月15日Tuesday 晴れ
キヨシロー待ってるぜ。
癌の再発により、フジロックへの出演も取りやめになったというニュースだ。忌野清志郎にどんなにか愛をもらっただろう。彼のために僕は護摩を焚いて回復を祈ろう。今週末。キヨシローの復活を全国のソウルブラザーが、それぞれのやり方で祈り始めているに違いない。梅雨明け間近の週末、ステージのキヨシローのようにいっぱいの汗をかきながら、僕は僕の役割を果たそう。
早起きしてお勤めを済ませて、ツツジの新芽を数本摘んだ。今日帰ったら挿し木にするつもり。夕べの帰宅は10時前。鳩打隧道の中は靄が立ち込めて、ちょっと薄気味悪いくらいで、窓を閉めて冷房にした。キヨシローのニュースが嘘であればいいのにと思いたかった。帰って遅い晩飯を食べ、夜のニュース番組を見てたら、それは本当のことだった。気持ちの重い朝ではあるが、護摩を焚こうという気持ちと、新芽を挿して、これを命としてつなげてみたいと切に思った。

2008年7月14日Monday 晴れ
休日のこと。
12日は4時半起で、6時5分の身延線。八王子から八高線で町田へ。バスで藤の台団地へ。ここで1軒目。町田までバスで戻って、小田急で成城学園前へ。タクシーで多摩川沿いのS家が2軒目。冷たい日本酒と軽いつまみ、素麺をご馳走になる。タクシーで南武線の武蔵溝ノ口へ。ここから川崎駅へ。川崎駅は改札口が一つでわかりやすいが、乗降客がここに集中して来るので大変な混みよう。迎えに来てくれたHさんと携帯で連絡を取るも、騒音で声もよく聞き取れずって感じ。でここで3軒目。ここでも冷たい日本酒。川崎から東京のはずれ東大島へ。最後の4軒目。新宿に戻って、帰りは午後6時の「あずさ」。新宿発、八王子停車で、次が甲府だから早かったが、身延線の連絡が悪く、家に着いたらもう9時を回っていた。何の話かって、盆の棚経の話。
昨日は疲れにも負けないで通常に起床。電気バリカンで生垣の苅込や竹林の草刈り。梅雨明けのようであっても梅雨明けではないという。午後またコメリに行き、98円のサツキを二鉢買う。平戸つつじの横に植える。サツキは安いだけあって、苗は小さい。形状からよく考えてみたら、盆栽用の鉢苗だったようだ。でも、まあ98円。その後女房と、教わったばかりのあじさいの刈り込みをする。花の咲かないあじさいではやはりあじさいにも申し訳ない。来年は何とか。挿し木も順調に増えました。
夜お楽しみの「篤姫」。「切なくなるなぁ」といって見終わる。

2008年7月10日Thursday くもり
不殺生戒。
寺の住職が妻に絞殺されるという事件が山梨で起きた。住職である夫は末期がんで、その苦痛を見るに見かねたことによる行動であるらしいが、不殺生は十善戒の先ず初めにある戒めなんである。妻とはいえ、寺に生活をしているものが、殺生をしてしまったことは許されることではない。ただ、家庭内の事情を想像してみると、二人だけの生活の24時間のことを思うと何とも切なく胸が苦しくなる思いが強い。思いつきで、人を殺傷してしまうことが当たり前に起きている時代だ。互いの胸の内を知りながらの二人にしかわからない時間や会話があったのかと思うと、秋葉原の事件などとは比較にならない、人の死に尊厳をもって臨んだ(挑んだ)とでも納得させたくなるような、大海原の荒れと凪の心を見るように思える。それでも、殺生してしまったことは決して許されるべきものではなく、また同情もされるべきものではないとは考えるが。

2008年7月9日Wednesday くもり
布施するという行為。
近所のおばあさんが、とうもろこしを2本かいて持ってきてくれた。畑でとれた初物であったのかもしれない。2本だからなんとなくそう思う。檀家でもないけど、同じ組内だから、きっとお不動様に献上するような気持ちで届けてくれたのだろう。今年も畑の作物が成るに伴い、じゃがいもやら玉葱やら、たくさんの物があちこちから届けられる。ありがたいことである。黙って家の外に置いていくご近所さんもあるが、それぞれ置く場所が違うので、女房には、誰がくれたのかすぐわかるとのことだ。
僕たち家族に届けてくれるのだけど、その思いの向うには、お不動様やご先祖様に差し上げるという気持ちがあるのだと思う。様々な布施をいただいて、僕も女房も、またそれぞれの寺での役割をしている。
今朝は、盆前の寺の環境整備(草刈り)と、盆の棚行・護持会の通知を村内に配った。さらさらと雨が舞っていたが、早朝の自転車は気持ちがよかった。
(21:16) と、上の文を昼休みに書いていたのだが、帰宅してからとんでもないことに気が付いた。今朝配った通知を眺めたら、清掃日が違っていたのだ。うっかり去年のをそのまま使ってしまった。両面にふたつの通知を書いたのだが、掃除の方が去年のままだった。早速護持会長から電話があり、出しなおしたほうがいいなと言われ、訂正のはがきを作って、甲斐岩間の峡南郵便局まで出しにいってきた。また早起きで、朝から自転車で汗かくのはさすがにちょっとためらいがある。実は明日の朝、ガソリンを給油しなくちゃと思っていたところなので、そんなに苦にならなかった。小雨の夜のドライブと、夜9時近くのスタンドは車も断然少ない。酒を飲んでいない夜には、こんな突発にもへっちゃらなんだなぁ。

2008年7月8日Tuesday 晴れ
くいだおれ太郎。
お店がきょう閉店したそうだ。くいだおれ太郎を初めて知ったのは、「上田正樹と有山淳司/ぼちぼちいこか」のジャケット写真からだった。こんな面白い人形が大阪の町には立っているんだなって。関西のソウルやブルースシーンがとっても面白い時代だった。このアルバムも僕は今でも聞いているし、名盤中の名盤である。ネットを見ていたら、今日の午後には上田正樹のコンサートもあったようだ。上田正樹も、サウス・トゥ・サウスがよかったね。いま、新興宗教かぶれみたいな噂が表立っているようで興味は無い。でも有山はずっといいよ。
「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」ってタイトルに曳かれてテレビをつけたら、なんだ戦争を題材とした番組だった。夏になると毎年こんなドラマがよくあるけど、僕はまったく興味が無いので見ない。っていうか、見たくないって気持ちのほうが強いか。見始めてもこんなものは見続ける気力が途切れてしまう。
洞爺湖G8を嘆く神の嗚咽が、南の果ての奄美に地震をもたらした。なんというこったい。地震が頻発してるし、局地的な大雨のニュースも伝わる。今夜は、護持会通知し上げて僕は満足。

2008年7月7日Monday 晴れ
頭の回転が悪いのが月曜日。
なんてことを話しながら、JETALTの寝具などを買いにJマートへ。敷き・掛け・枕がセットになっているものがあり、3組買う。予算よりも安かったので、スリッパも合わせて。店の中は夏模様で、キャンプ用品などが真ん中に。
JETの皆さんのお迎えのなんと煩わしいことか。送り出しもそのとおり。通り一遍のことを喋ってくる住宅K社の職員にも腹も立たん。県税事務所では、日本に初めて来る人に、ましてまだ来ていないのに、県税に滞納が有るも無いも、「ナンセンスでしょう」ときた。まったくこの上に行けば行くほどの官の図式ってのはどういうこったい。
月曜日は頭の働きが悪いってのに、頭の回転に逆ねじ食らうようでがまんがまんの一日。
七夕の夜はライトダウンをの呼びかけに、僕もロウソクを点してみたりしたが、ライトダウンをネタに歌番組なんかやってるNHKってのもどうなんだ?って気にもなったが、僕はそれを暗い部屋で見ていたんだものな。

2008年7月5日Saturday 晴れ
夕べは楽しい夜でした。
夜出かけることなんて滅多にないし、ここ数年この夏のはじまりの生ビールの夜は楽しみ。高橋君を誘ってベルクラシック甲府。毎年より少ない集まりだったが、今年は教昌寺の此田君ともゆっくり話せてよかった。こんなどうしようもない僕でも、彼らが大事に、頼る存在として認めてくれていることに驚きも感じたし、若干の戸惑いもある。
昨日は夏休みを取ってあったので、本堂で護摩を焚き、その後庭の梅の伸びた枝を剪定してお昼。アジサイを挿し木してみようとプランターと土を買いに出かけ、値段が安くなって298円だった平戸ツツジ4本買う。石畳横の犬走り植える。住環境、寺環境をエコだECOだ。
今朝女房は娘とのデートのために上京。僕は暑苦しい部屋でゴロゴロしている。午後何かしなくては。

2008年7月3日Thursday くもり
「東京特許許可局」。
今朝は、「東京特許許可局」と啼くホトトギスの声がよく聞こえた。本当に「東京特許許可局」と聞こえるから不思議なもんだ。なんで「 トウキョウトッキョキョカキョク」なんて鳴き声をするんだと聞き返したくなるように「東京特許許可局」。
雨が落ち始めた。天気は下り坂。昨日帰ってから、部屋の前庭のつつじを刈り込んで正解だったようだ。もうひとつ。昨日家に帰る前に本庁へ寄ったら、終業後の掃除しながら、A課長が「夏だよ、夏」って言ってたのを聞いたからかどうかわからないけど、居間に蚊が一匹いて、どうにもうるさいので蚊取り線香を出した。焼酎のロックと線香の煙が夏だねぇって雰囲気をかもし出した。7月だもんなぁ。

2008年7月2日Wednesday 晴れ
三宝の声 一鳥に聞く 。
明王寺のご住職からいただく智山派のカレンダーをトイレに吊るしてあるんだけど、その一ヶ月間の表紙になっている「今月の法話」を楽しみにそれを読んでいる。座っている目の前に否応なくカレンダーがあり、法話があるんだが、一ヶ月眺め続けても飽きない。7月に入り、「三宝(さんぼう)の声 一鳥(いっちょう)に聞く」に変わった。実はその法話がここに詳しい。解説は「夏の朝、少し早く目を覚(さ)ましてごらん。眩(さまゆ)いばかりの日の光に照らされた風景。そして、静けさの中に聞こえる鳥の声。自然に身をおき、耳を傾けると、大きないのちの流れを身体(からだ)いっぱいで感じることができる。」ということである。夏の時期になって、割と早起きをするようになった。早起きをすると時間がたっぷりとあるので、朝のお勤めも、ゆっくりと本堂と客殿と経が読める。法螺貝も吹く。たまには早朝の掃除や樒の入れ替えなんかも。鶯の鳴き声や、色んな野鳥の声が耳に入ってくる。鳥の声や樹木の葉のそよぎや本堂の静かさが僕にも三宝の声として聴こえてくる。
今朝は、月参りの信者さんから、昨日いささかの難題をいただいたので、さてどうしたものかなどという悩みもちょっとあったが、朝から悩み事を解いていくことに時間を費やすこともあるまい。仕事がはかどらなくなるので、時改めて考えることにする。

2008年7月1日Tuesday くもり
2008年も半年過ぎて。
7月1日。今年ももう半年が過ぎた。過ぎてしまったものを振り返ると、早いなぁという思いが湧いて、なんだか力が抜けて虚しくなることが多くなった。これから先、大きく何かが展開していくようなことはおそらくなく、先細っていく人生なんだ。先に生まれた者が、いつまでも我が物顔もないだろう。でも虚しい気分は払拭できない。正直、仏と向かっても、この気持ちの落ち着くことはない。
今朝は、勤行の後本堂に掃除機をかけた。風が吹くと、建物の天井裏から、誇りやゴミが隙間から落ちてくる。今もだろうか、ムササビなんかが出入りしていることもあった。
今日からまた値上げ、値上げ。値が上がっても黙ってガソリンを入れるしかない。車に乗らない日々なんかもう手離せないから。納得できない気持ちで自分を納得させて生きるなんて、なんて不自然なこと。せめて、2008年の残りの半年に、凶悪な事件の起こらないことのみ願いたい。

2008年6月27日Friday 晴れ
責任を持ってその人のために考えてあげるということ。
恥ずかしいと感じた会議の最後だった。a.b.c小学校の小学生はA中学校に進学する。学校の適正配置を考えていく上で、a.b小を統合し、c小は、d小と一緒になるのが望ましい。そんな図式を描いていたのだが、c.dが一緒になった小学校はどこの中学校に進学するのだという意見が出た。現在d小は、B中に進学しているが、B中は生徒数が極端に少ないため、C中にまとめてしまったほうがいいということになっている。現在のd小がC中に進学するのは、さほど困難はないような気もするが、c小を飲み込んだd小の卒業児童がC中に進学するには、相当な困難が予想される。こんなことは考えてもいなかったし、話し合いの俎上に上がったこともなかった。まさに現場にいる教師だからこそ、このことが指摘できたのだ。ガツーンとやられた思いがして、ソシテハズカシイトイウオモイガ湧いた。
会議はここで堂々巡りをして結局終局に到ることができなかった。いくら人口減少がさらに進むことが予測できても、学校が必要なだけの児童生徒が存在している限り、その者らの為の最上の策を考えていかなければならない。そんな意味では、ぼくは電子時計の表示が22:00を示したときまでたっぷりとかかった夕べの会議を、よかったと考えざるを得ない。またし切りなおしになることになるかもしれないにしても。

2008年6月26日Thursday くもり
人間よーか。
今朝の“瞳”。将太がローズのママに向かって、「おじさんておばさんなの?」。応えは「人間よー」だった。将太が「ぼくも」って応えると、「友だちね」ってママ。これは今朝の新鮮な聞き心地がした。曇り空だけど、少しひんやりとして、この言葉はよけい身体の芯に滲みた。
よい一日であらんことを。今日はいやな事件が起こりませんように。国境も人種も男も女の区別もなく、平和な一日でありますように。

2008年6月25日Wednesday 晴れ
家で仕事になった。
夕飯食べて今夜はのんびりとせずに、直後からパソコンに向かって功績調書作り。なんと、ある表彰に候補者を推薦しなければならなくなった、急遽。こっちはまったく準備がなく、いきなりの電話である。なんかこんなのってどういうこと?って、聞き返して、こんな情報こっちが臨んでいないんだから、何にも準備のないところに、いきなり振ってくるなよって言いたかった。これば末端に居るどん詰まり族の宿命みたいなところか。10時前まで向かって、功績調書は何とか形になった。明日職場で再確認。履歴書は何とかなりそうだ。うまくいけば明日中に仕上がるかもしれない。明日の夜は、久々の夜の会議だな。
風呂出てからテレビ見てるんだけど、美のカリスマIKKOさんて、美を維持するために努力してるんだな。朝5時から1時間のウォーキング(雨の日も傘さして)。夜も帰宅して11頃から1時間ウォーキング。男がもう一つの性である女を維持するってのは、こりゃ大変なことだ。僕はもう男であることも自覚できなくなって、おっさんへと変化した。退化と呼ぶのかもしれない。もう少し歩くことに時間を費やさなくちゃいけないな。IKKOさんの歩き方は、僕が実践している早歩きと似ているようだった。少しだけ接点を感じられたので、まあいいか。

2008年6月24日Tuesday 晴れ
鮎釣りたちの夏。
気温上昇。雨が上がった常葉川に鮎釣り。長い竿。鮎釣りたちの夏が始まった。富士川は前日の雨で水嵩もあるが泥水。これでは鮎は釣れない。常葉川も透明とはいえないけれど、釣り日和のようだ。僕は釣りはしないが、この鮎釣りたちの菅笠に長い竿を伸べる風景は好きだ。川原の草も繁茂していて、夏。
外国語指導助手3名の帰国の打ち合わせと、迎える3名の準備などしていて、これが毎度のことでめんどくさい。何せ直接言葉を伝えることができない。意外と学校側は関わりが希薄。誰がやることになっても、きっとうんざりする。ここにも上意下達の縮図が厳然とあり、公営住宅に入居するにも、横の連携などは一切なく、こちらは言われるがままに、「ヘイヘイ、ソーデスカイ」だ。
帰宅後、竹林で40分ほど草刈り機振るう。クソッたれなことを吹っ切るにはこれが一番だ。細い竹を刈り、竹の子採りに今一番精を出している女房のために歩きやすくしてやる。毎日竹の子を食う。もうすぐ飽きてくるが、今年は細いのなんかを茹でてマヨネーズで発泡酒のツマミにしたり、いつもの年より食傷することが意外と長持ちしている。
ボーっとテレビをつけておくと、知りたくなかったなぁなんていうニュースを否応なく知ることになる。今夜もそんなのがあった。

2008年6月23日Monday
若大将の夜。
土曜の夜は若大将で飲んだ。増穂から来た標さんと。若大将のマスターのお父さんが標さんの中学時代の恩師で、前から一度行きたいといっていたのがやっと実現。午後6時過ぎにうちに来てくれたときには、さくらんぼを土産に持ってきてくれた。ここ数年いただいているのだが、彼の友人がさくらんぼ農家で、出荷に適さない実を持ってきてくれる。店頭に並ぶものよりも糖度は遥かに上回る。甘い。木でじっくりと熟れた実だからとても甘い。普段果物を食べない僕も、昨日の朝10粒くらい食べた。
で、若大将。生ビールで乾杯していると、マスターが連絡してくれて先生がやってきた。標さんのことはすぐに思い出したようであった。彼の寺にも何度か行ったことがあったようで、先代の住職のことなども話題に上った。新鮮な刺身と焼き鳥で、この夜は日本酒。こちらは常温の徳利で飲み始めたが、先生は熱燗だったので、お酌してくれる熱燗と常温が混ざって、なんとも不思議な日本酒になった。でも、二人の話を聞いていることが退屈ではなく、ほのぼのと心地よく感じられた。懐かしい時代に、僕も一緒に遊んだような気持ちになる。中学を出て、もう37年になるなぁなんて、過去のことが30年以上経つなんてことを、かつての僕は想像もしていなかったはずなのに、時代は容赦なく笑いながら時を刻んでいく。僕は女房に迎えに来てもらって、標さんは代行でさよなら。いい夜だったよなぁ。

2008年6月20日Friday くもり
棚経の通知書く。
今朝は4時過ぎには目が覚めてしまい、仕方がないので起きて、7月の東京方面への棚経の通知を書いた。軒数はわずか4軒なのだが、東京の端から端までを移動するので、朝6時に家を出て、帰ってくるのが夜の8時頃になってしまう。今年はもう少し遅くなるかもしれない。
外の空気からも、パソコンの中の情報からも夏が近づいてくる。
アウン・サン・スー・チーさん63歳の誕生日を祝福します。自宅軟禁の即刻解除を名もない山寺の本堂から今朝は祈りました。寺の回りに棲む鳥や虫たちにも、あなたへ思いを馳せるよう念じました。自由に生きることの当たり前を拘束されるなんて、絶対にあってはならないことです。

2008年6月19日Thursday くもり
桜桃忌。
太宰治が亡くなってちょうど60年。桜桃忌は、入水した太宰が発見された日で、19日が太宰の誕生日でもあったとは知らなんだ。ちなみに、存命なら99歳の誕生日だ。なんだかこんなことがわかって、今日は嬉しくなった。大学に入って上京して、友人たちと三鷹の禅林寺の太宰の墓を何度か参った。もちろん桜桃忌にも出かけた。酒を持って、墓の前で、皆で飲んだ。太宰を高校時代にはよく読んだ。中也も朔太郎も同じ重さで僕の心の中にあった。大学の卒論は中原中也を選んだ。無頼にはまり、無頼なる生き方を僕も歩みたかった。基本的には、僕は今も同じだ。太宰がもし仮に、99歳で生きていたら、こんな今の時代をどう思いどんな発言をしただろうか。「あっしには関係のねぇコト」「勝手にしやがれ」って、そんな風に言うかなぁ。達観してしまうんだろうな。
帰宅後、母の実家の縁で通夜へ。今年は葬儀に出向くことが随分と多い。50歳を過ぎた僕と直接の縁があったり、親たちの縁があったりする人たちの亡くなる報せが増えてきた。葬祭業はきっと儲かるなってなことを話しながら晩飯を食う。

2008年6月17日Tuesday 晴れ
死刑執行3人。
幼女誘拐殺人の宮崎君他2名の死刑が執行された。法に則り粛々と刑を執行していくのが法相たる私の務めと、鳩山さんになってから13人の死刑執行がなされた。今年中にまだ2回はありそうな予感。僕はただ単純に、法が裁いても、法は人を殺すところまであってはならないだろうという思いがしているだけだ。
宮崎君の事件は、オタクの起こす事件の頻発する、その魁となったような事件だったらしい。秋葉原の事件もこれと接点があるようにも思われるし、タイミングもいいよな。心が読めなくなってくるということは、進化しているのか、ヒトはその時その時で都合よくそれを回避してうまく収めてしまうような技に長けてきたのだろうか。本当のことが何もわからないままに、一方的に終わってしまう(終わらせてしまう)ような出来事が多くなった。
中学校の通学路に熊が出たという放送があったので、そちらのほうも気になったが、熊は別にヒトの都合など考えて行動しているわけではなく、熊の都合のみにて現れたり、遠ざかってみたりするのだろうから、これまた、互いにそつうをはかるなんてことはやはり難しいのだ。
大阪:橋下知事「中堅職員の自衛隊体験を検討したい」と発言したそうだが、宮崎:東国原知事の「徴兵制を布くべきだ」発言もあったし、権力を掌握するってことは、一方でこんな発言も言い放題なんだな。

2008年6月16日Monday 晴れ
タイヤを入れ替えることにしたが。
今月末に息子のところへ不要になったものを運び出しに行くことになった。かねてからタイヤの磨耗が気になっていたので、高速を走るのに少し不安になってきたので、入れ替えることにした。1本2万円を超える額になるという。うーんこれはなかなか厳しい値段ではあるが、いつまでもこのままという訳にもいかないので注文した。燃料代は天井知らずの状態だし、身の回りの物価は上がり続けている。給料のアップは望めない。こうなるとこれはいよいよ真剣に車のことも考えねばならない。若くはないのだから、好みだけで車に乗り続けていられるだろうか。初めての車検が終わって半年たらずである。この車にはまだまだ乗り続けたい気持ちも強い。できるだけ無駄な使い方だけは謹んでいこうと思う。公用車が空いていない時に自分の車で出かけてしまうことも多かったが、これも馬鹿にはならない。本庁の車の空き情報なんかもcheckすることにする。
梅雨の合間の上天気。夏を思わせる暑さだった。県庁に車を置き、住宅供給公社にいってきたが、甲府も暑かった。午後事務に戻り、初めての扇風機を回した。回っていれば少しはいいかなくらいのものではあるが、夏になるんだなぁ。
岩手・宮城内陸地震の報道が流れるが、東海地震はいつやってくるのだ。来たときには静岡から新潟まで、列島が避けてしまうのではないだろうか。なんてことを考える。

2008年6月15日Saturday 晴れ
何も変わっちゃいない。
嫌な事件が毎日のように起こるから、嫌な事件も右から左へ流されていってしまう。今日は支所の日直だったので、こんなことを少し思い出すように、音楽を聴きながらじっくりとネット・サーフィン。
チベットのこと。3ヶ月か経過したが、チベット僧の静かな抗議に対して、暴力による拘束は相変わらず続いているようだ。四川の地震だって、予防線を張って外国のメディアを排除しているし、あれでは内側からの不満が噴出して当たり前だ。それにしても、この現実のスピードの速さ。クルクル展開の速さ。田舎暮らしののんびり頭じゃ、新聞の活字追っている間に、また事件発生だ。四川の地震に救援金を送ろうなんて、実際にその金が直接、その困窮者の方々に届くのであればいいが、現地まで入れないのなら、その金はどこにどのように使われるのか見届けられない。ってことで、今回の場合は僕はこの件に関しては、特に慎重にならなければいけないんじゃないかと考える。サンニチにも載ってたよ「身○山高校生徒会、身○山三門で募金、100,0197円」。そのほかにも。金は手っ取り早いけど、渡してしまって、山梨日日新聞社、どこへどのように届けて、どういうところへ使われたかの顛末までやってもらいたいもんだ。
と、昼こんなことを書いていたら、遅ればせながら、東北の地震の報道を知ることとなった。四川から今度は、弓の島の災害へと目が向けられることになる。

2008年6月10日Tuesday 晴れ
どうにもこうにもこれだけは何とかしたいという気持ち。
母子は突然に現れた。昨日の午後職場を訪ねてきたのだ。僕は初対面。職場に来る前に寺に寄って、お骨もとりあえず置いてきたという。何のことやら子細わからずであったが、先方は僕の夕方の予定が気になったらしく、通常に帰るという僕の返事に午後6時頃に再び寺を訪ねるということでいったん別れた。母子の母の方は、父の幼い時の子守をしてくれた人であった。千葉から訪ねてきたという。で、お骨はというと、彼女のご主人とのことであった。
帰宅後に母子を迎え、詳しい話を伺った。2月4日に亡くなったのだが、家族内の事情があり、母子のみで葬儀を済ませた。戒名もなく、僧侶に経もあげていただいてはいないとのこと。娘さんによると、お母さんが山梨の大聖寺に行けば何とかなると切望したらしい。父の幼い面影が彼女の中に鮮明に残っていて、斑にボケ始めているらしい会話の中に、時折涙もあった。父の死の直前、偶然にもその「子守のKちゃん」は、父と再会することができていた。どのような事情でそうなったのか、僕はその場面にいなかったので分からないのだが、父はその少し年上のKちゃんとの幼い頃の思い出をまた手に入れて旅立っていったのだ。
貧しい時代を越えて結婚もして、遠く千葉にありながらも、父のことを片時も忘れることなく、この窮地を乗り越えるための拠り所として、父の息子である僕を頼って訪ねてきたのだ。納める所のない遺骨を、いきなりここに置いていくのかと、気になったことを問うと、それはないといい、経をあげてもらうために骨も持参したのだといった。戒名を付けることを約し、日を改めてもう一度来てもらったときに、法要をするということで話が収まった。位牌堂にお骨を納めて、小降りになった紅の夕を母子は帰っていった。
どちらでもいい話しなどどちらでもよかった。「子守のKちゃん」に安心を届けたいという気持ちだけである。この人たちを素気無く追い返してしまうような坊主になっていなくてよかった。

2008年6月9日Monday
なんともやりきれないできごと。
こんなありふれた表現しかできなかったのだ。「なんともやりきれない」としか。月並みだけれど、都会で暮らすわが子のことを重ね合わせてみたりもして、じゃあ一体どうしろというのだと問われても、出くわしてしまったら、甘んじてその結果を受け入れるしかないんだなと。避けるに避けられないことは、こんな凶悪な事件ばかりでなく、相手が故意でなくても、交通事故に遭うことだってあるものな。子を心配するなら子を作らなければよかったとか、寺の事だって、出かけている間に、不動明王が盗まれる事だってあるかもしれない。むしゃくしゃしたという輩に、本堂に火を放たれるということも決してない話じゃない。そしたらもうそれは、そのときの話なんだな。雨降って、2日間の肉体労働で火照った身体を、外からの冷気が鎮めてくれる。本堂で亡くなった方たちの冥福を祈った。狩猟民族の血が蘇えるということはこのことか。
(20:30) クマの目撃情報があって朝から校長が訪ねてきたりしたんだが、クマの目撃情報が広報無線であったらしい。で、情報源に問い合わせたら、宮之平あたりの300号線沿いだったらしい。近いじゃんか。雨が上がりそうな気配で、日向山の墓地の方へと歩き始めたが、墓地の少し手前で、クマのことを思い出したら、もうそこで引き返すしかなかった。足がもう坂道を進めなくなっちまった。臆病もんである僕は。でも、万が一クマと遭遇したら、ケータイとiPodじゃ、到底盾にはならん。お日様顔を出した坂道を下って、宮之平の橋を渡って、目撃されたあたりから国道を歩いたが、こんな所に出たっていうのが本当だったら、うっかり外も歩けんなぁ。犬かなんかとの、見間違えであればいいんだが。これで当分、僕の山行きはstopになっちまいそうだ。

2008年6月6日Friday 晴れ
融通のきかぬ石頭。
融通がきかんというのか、それが個々人のこだわりだとでも誇らしげに考えているのか。行き着くところは同じなのに、今度は右岸から飛び込めという。「前回は左岸の低いところからいってもいいとご指導いただいたんですが」。「それは前回の見解で、今回に当てはめてもらっては困る、今回はあくまでも、左岸の絶壁から飛び込んでもらいます」ってな具合だ。あーそうですかと、無学無能無一文の末端素浪人なる我。
まっ、なるようにしかなりません。正しいものが正しいということではなくて、「私が正しい」というのが「財務省383人、深夜のタクシー運転手からビールや現金」ということなんだろう。モグラは叩かれてまた暗い穴に戻りましたとさ。
今日はかなり暑くなるようだ。頭の中沸騰して怒り汗かいたり、冷や汗かいたり、ぞっとするより、歩いていい汗かきたいもんだ。

2008年6月5日Thursday くもり
労せずして減員できている。
またひとり職員が辞めたらしい。らしいって変な書き方だけど、名前を告げられても、まったく思い浮かばないってのは、町が違っていたことと、合併後の職場にほとんど接点がなかったためだ。中途で辞めるってのにはそれぞれの止むに止まれぬ事情が存在しているんだろうけど、穴の開いたほころびに当て布はしてくれないので、少々形が変になっても穴の開いた両端を糸で括って応急処置しなければならない。で、そこに次に配置があるかというと、きっとそんなことにはならないんじゃないだろうか。「ひとり減でも、何とかなったじゃねぇか」ってことになる。職員を何とか減らしていきたい側にとっては、労せずして減員できちゃってるんだから、こんなにいいことはない。救おうとする気運よりも、排斥する気運のほうが重くなっているのかもしれない。気をつけろよベイビー!って感じかな?

2008年6月2日Monday くもり
梅雨入り。
午後ハローワークからの帰りのラジオで、梅雨入りしたことを知った。去年より12日早い梅雨入りだ。これから鬱陶しい日が続くのかな。土日が雨になると、草が刈れなかったりするので困るんだよね。土日は晴れてもらいたいし、平日だってお昼はウォーキングができるくらいに天候を保ってもらいたいんである。クールビズったって、こんなに冷え冷えとしていたんじゃ、半袖になんかとてもなれないし、我が家の台所からは電気炬燵が片付けられない。(スイッチ・オンにすることはほとんどないが)。
Kさんから、先週のライブの夜の録音物が届けられた。とてもいい。凄くいい音で録れている。高岡君たちの東京での演奏会も、順調に進んでいるようだ。

2008年5月31日Saturday くもり
よく降る雨。 10時から新車のお祓い。富士ヶ嶺のEさん。燃費が悪くなってね、買い換えたんだとか。そうだな、明日からまた上がるっていうしな。200円くらいまでいくんじゃないかな。200円になろうがガソリン入れなきゃなんないしな。まったくどうにもこうにも、このいらいら景気はぶつけようがない。酪農も大変なようだ。僕の回りで知っている限り、景気の良さそうな人はいないなぁ。僕の車だって燃費の悪い車なんだけど、でも、帰り際にどのくらい走るの?って訊いたら、「10キロ位ですかね」という答えだったんで意外だった。前の車はどのくらい走っていたんだろう。でも久しぶりに会ったので、庫裏でお茶飲んでもらって、車の話やら、子供の話なんかも。なかなかに生きていくのに困難な時代ですなぁ。
お昼を下山にラーメン食べに行って、帰りにコメリで苗木を買う。吉野桜3本、白樺1本、久留米つつじ2本。値段が下がっていたので買ったが、やっぱり一度にたくさんは買えないよな。雨上がりの庭に、場所をさがして丁寧に心を込めて植えた。しっかりと根付いて、桜は訪れる人を和ませてくれるように。つつじは池の端で、他のつつじやさつきとともに花開いてくれるように。白樺は、大丈夫のようだったら、もう何本か植えてみたいななんてね。境内の桜もそろそろ、次世代のものと交代する時期に来ているようだ。僕もあと20年くらいは大丈夫だろうか。

2008年5月30日Thursday 晴れ
よく雨が降る。 今年は随分と雨量が多いのではないだろうか。週末にもまた降るというし。外国語指導助手の担当者会があり県庁まで。午後には雨が上がった。帰りに買った本。「チベット大虐殺の真実」。内容の事は書かないが、一点だけどうなんだろうと微妙な記事。ジャーナリストの江藤剛という人の書いた文。朝日新聞の「朝日川柳」に『五輪前どうにも邪魔な生き仏』という投稿川柳が掲載されたことに対して、彼は「これはどう読んでも、平和の祭典オリンピックを前にわざわざ問題を起こすダライ・ラマ、邪魔で仕方がない、という意味だろう」と感想を載せている。それから「チベット仏教に対する軽蔑の念」「「明らかにチベットを愚弄する内容」「不謹慎な川柳」を載せた朝日新聞に抗議の電話を入れ担当者の考えを問うたそうだ。当然の如く朝日の広報は、「中国のことを風刺した川柳です」と答えたとある。これって僕も、ちっべとに対する不謹慎な川柳には読めないんだよね。朝日と同じ感想です。それぞれの読み方感じ方なんだろうけど、僕は朝日がそれをジャーナリストのようにとらえて載せているとは思えない。僕は川柳なんかはこんな風に書くのも一つの手段なんだろうと当然の如く感じるんだけど。どうなんだろう。

2008年5月26日Monday 晴れ
BOILERZ(高岡大祐tuba+ワタンベds)、渓gさん、ありがとう。 泥酔して全身の力が抜けてしまった手に負えない僕が僕に圧し掛かっているようだ。Keiさんの彼女からいただいた「雑賀」4合ビンを、1時間足らずで空にした付けが月曜という最悪な朝に残った。
賑やかな夜が去って、片づけを済ませると、女房と二人の夜では少しさびしい。高岡君の音楽は全力疾走である。今回もかくのごとし。チューバをワタンベ(ds)もKeiさん(g)も素晴らしかった。旅用に削ぎ落とされたドラムセットではあっても、なんと豊かな表現をしてくれるのだ。表情も豊かに饒舌だ。初対面ではあったが、ワタンベは好青年だ。Keiさんのギター弾く姿を見ていたら、70年代前半へ僕の頭は焼酎の酔いとともに戻っていた。言葉豊かに語ることができないのだが、自ら選択した人生ではあっても、足を止めたいときも僕には多々あるのに、年若い彼らから伝わってくるものは、溢れるほどの勢いである。発泡酒、ワイン、あやしい葡萄酒、焼酎も、女房の出すものもすべて平らげてくれた。高岡君の旅日記をどうぞお読みください。どうぞいい演奏を続けてください。Keiさんは40歳の誕生日の今日、レコーディングという。ミニ版の五大明王をスタジオに飾るといって、貰っていってくれた。聴きに来てくれた僕や女房の友人たちにも大感謝。特に、小諸からわざわざ下部に宿までとって聴きにきてくれたKさんご夫妻には、山のような感謝。ありがとう。

2008年5月23日Friday 晴れ
BOILERS+Kei LIVE明日の晩です。 小諸からも一組聞きに来てくれるメールが入った。Kさん。遠くからなんでこんな田舎の寺にまでなんて、僕から野暮なことは言わない。ありがたく来てくれることを喜んで感謝です。
昨日の夕方会ったALTのキムも、ライブのあることを知っていた。そしたら、先日の文化会館でのJAZZのライブの時に誰かから情報を貰ったらしい。Yさんかしら。こんな風に知らないところで僕の試みを応援してくれる人たちがいるんだんぁ。
高岡君一行、今夜到着です。

2008年5月20日Tuesday 晴れ
アマガエル大合唱の夜。 夕べからの雨は明け方から午前中いっぱい大降りとなった。富士川も常葉川も水量がかなり増していた。僕もいつもより早起きして、墓地や寺周りの排水路や樋を見回り。雨樋は落ち葉や杉の葉なんかが詰まって、中で詰まって飲み込んでくれないところもあり、仕方なく梯子掛けて、ずぶぬれになって貫通させたり、落ち葉の詰まった水路の流れを良くしたりと。こんな大降りの日なのに、午後には雨が上がると予報だった。今日は中富地区の教育委員の学校訪問で、8時半に支所を出て最初の原小へ。原小を出るときには雨が上がって青空がのぞき始めた。天気予報最近はよく当る。児童数の少ない学校ばかりなので、教室に15人位いると、「大勢だな」なんて感覚に陥る。慣れというのは不思議なものだ。やがて学校の統廃合が始まるだろう。もうそんなに遠くない未来に。
泥色の富士川は水量が増えて頼もしい流れ。ゴミもいっぱい流れていく。この位の水量が常時あればいいなぁなんて話してたけど、ほんとにそうだな。墓地の横を流れる中沢川も、河川公園なんていうのは名ばかりで、水無し川なのに、今朝は堂々とした流れがあって、この沢こそもう少し水があって欲しいものだと思う。
久しぶりに女房と夕飯後歩く。アマガエルの大合唱だ。夜もあたたかい。河川公園の水銀灯が、草を刈ってきれいになった墓地を映し出して、眠る人たちの気持ち良さそうな顔がそこにあるようにも思えたし、先師らの和やかな読経の姿も見えるような灯りでもあった。

2008年5月19日Monday くもり
疲労なく月曜の朝。 不思議なくらいに爽やか。5時前にはすっきりと目覚めてしまったが、5時半前まで布団にいて、起きてお勤め。腰の痛みも腕の疲れもほとんど無い。墓地の草刈りは終了。今日の午後あたりから明日にかけてまた雨になるかもしれないという。ちょうどいいタイミングだったかもね。昨日はK岡家の皆さんお出でになって、いよいよ墓地を建てるその下見。施工業者も連れて。お父さん(故人)の喜ぶ墓地を建ててあげてくださいと。墓地も家を建てるのと同じだ。そうそう何度も建て替えるというわけにはいかないから、悔いの残らない墓地を建てること。
草を刈り、草を集めて、その草に火をつけ、その匂いと煙の行方を楽しむ。これが僕の中では、一連の楽しみになっているんですね。陽射しもそう強くなく、夏場のようにぶっ倒れるような脱水症状にまでは到らなくて、ファンキーな音楽もよかった。
来週末は、高岡君のBOILERSである。ほとんど反応がなくて、何人くらい聴きに来てくれるんだろうって、僕は人集めは苦手だ。まあ、僕が楽しめたらいいか。高岡君も絶賛のギタリスト渓さんのギターがとても楽しみ。

2008年5月18日Sunday 晴れ
さあ、今日も草を刈るぞ。 昨日一日草刈りをして、草刈り機の重さが指先までも疲れさせてくれたので、今朝は腰も痛いし、起きられないかと思っていたら、何ともなく、帰って早起きができた。お勤めを済ませ、本堂の掃除まで朝飯前にできちまったのである。翌日に疲れが来ないで、2日後くらいに現れるという奴だろうか?うーん、でも今日もよい天気。昨日は夜少し雨が降って、今日はかなり気温が上がりそうだ。残りを刈ってしまおうと思う。DEFUNKTなんかの、ファンキーな音楽を聴きながらやっている。今朝は、菊地雅章の「ススト」なんかも入れて、さてこれから始めるとしよう。

2008年5月14日Wednesday 晴れ
共産党国家の名の下に、体面を保つとは。 「温家宝首相が被災現場で転倒。温首相は四川省都江堰で救助活動を指揮中、転倒して手から出血した。温首相は治療を拒否し、そのまま救助活動の指揮を続けたと報じられている。報道によると、温首相は救助活動が進展しない状況に苛立ちを隠しておらず、部下に電話で怒鳴る姿を見せているという」。なるほどね。この大災害に際しても、世界に応援を要請できないという、これこそ体面を保つということの窮みではないか。ううぅ!身をよじっても何も絞れ出てこない。
人的支援は要らないか。金で支援するのはそれでいいんだろうか?その金は確かに、被災者たちのために使われるのだろうか。門戸を開かない国には、慎重な対応をしなければならないと考える。踏んだり蹴ったりだなぁ。聖火リレーも縮小するというが、これって当たり前じゃないか。オリンピックよりも優先しなければいけない事態が起こっているんだからな。人命救助の遅々として進まない状況は、世界の笑いものになってしまう。「何故なんだろう?中国」。

2008年5月13日Tuesday くもり
中国で大地震だ。 夕べ、税の滞納者家庭への督促訪問とやらで歩いてきた後、夜11時過ぎにニュースで中国四川省での大地震のことを知った。このときに真っ先に思ったのが、一連の騒動に地下の龍の怒りがあったという根拠も何もない思いだった。まさかチベット仏教との調伏でもなかろうにとも。でも、こんなときに起こるのは、自然の成すことを超えた宇宙の力というか、人間と宇宙との微妙な関係の中での、宇宙の発する警告とでも言うのだろうか。ただ、ここで犠牲となった人たちは一介の市民である。北京にまで痛みは伝達されてはいない。全土を牛耳る北京の一党ということだ。死者の数字はニュースの時間ごとに増大して伝わってくる。最早、北京五輪を楽しむゆとりなんかは無くなったと言わざるを得ないだろう。体裁を繕う奴らはこの事態をどんな風にして覆ってしまうのだろう。この国にもこの時期には珍しく、台風で大きな雨風が吹いている。今朝もここは曇り空だ。天候を確かめるように洗濯物を干している。誰もがそこに今すぐにでも駆けつけて手伝いたい気分にはなっているのかもしれないが、それを拒むようなこれまでの経緯や、「党と軍の総力をもって事態の収拾に当る」などという、溝板の底から上気してくるような鼻つまみの言葉を、宇宙はどのように聞いているだろうか。

2008年5月12日Monday くもり
暖房を入れたりなんぞして。 冷えて寒い土日だった。ありがたい雨だったとも聞いたが、夏物に替わった家の中で、薄着になってしまっていたので、格好を変えるのもめんどくさくて、コタツに入って丸まっていた。急激な気温の変化に体が付いていけないのだ。昨日は、11時過ぎにSさんの家の屋敷神の祭祀。本当は3時からだったが、用事が早く済んだので頼みたいということで、まあこちらも早く用事を済ませたほうがありがたい。法螺貝を持ち、神道の経本も持って、神祇講式などから始めて裏庭に作られた小さな祠の前でゆっくりとお勤めをする。終わって、外でお神酒をいただく。「終わってほっとした」とSさん。やはりこの時期、このお祭りをしないと、心が落ち着かないようだ。昔はこのような家が何件かあったようだが、うちではもうここ1件しかない。供物を段ボール箱でいただいてくる。なんとスイカまである。赤飯も大盛にたっぷり。とても家族で食べ切れそうにない。客殿に供え、女房は赤飯を友人の家に届けに行く。僕は赤飯が好きなので、昼がカレーだったから、赤飯カレーとした。これも旨い。夜、焼酎を飲みながら、胡麻塩のかかっているところを食べたら、なんと美味だった。酒にも合う。赤飯に胡麻塩が好きではなかったが、胡麻塩だけなら、赤飯だけで他におかずは何もいらないのだ。と、こういう発見をした休みであった。

2008年5月9日Friday 晴れ
大善寺へ藤切り祭り。昨日。 今年の春の最後の祭りである。7時45分に家を出たが、市川からの土手の道がとても混んでいる。毎朝こうなんだろうか?着けるか?甲府南のインター近くの交差点を抜けると渋滞が不思議なくらいに解消され、そこからは順調に。9時過ぎに大善寺に着く。
傾斜の丘に建つ古刹。駐車場が拡張されて、出仕の僧侶の駐車場は確保されていてありがたい。すでに、瀧本院・松鶴院ご住職は見えていた。どうも朝の排便が中途のようで、挨拶もそこそこにトイレに座る。さっぱりとしてお茶をいただいて、修験の衣体に着替えて行者祭りに本堂への石段を上がる。テキヤも午後から学校が休みとなっているので、それまでの準備に忙しそう。行者堂での読経の後に、本日の祭りのメインの藤蔓の大蛇が吊るされる。今年のものも随分大きな藤蔓だ。昼食のワインは自家製のもの。甘酸っぱく、冷えているのでものすごく口当たりが爽やか。これは飲みすぎてしまう。
程々にして少し休んで、集落の中に3人で向かい、毎年のように1件の家で切り払いなど行う。松鶴院さんで一休みさせていただく。寺に戻り、2時から祭りの打ち合わせ、「藤切り会祭典」自体の文化財指定を目指しているとの事で、昨年から、大蛇退治の夕方からの祭りの進行は、ある種ドラマ仕立てとなっている。修験・稚児・僧侶の順列をなし、法螺貝の音を先頭に本堂に上がる。本堂での法楽の後、修験者は稚児堂にて、修験の各法を修法。山伏問答はこれも素晴らしかった。本堂の護摩法要と外の修験の修法が並行して流れる。私の祖父らはこの祭りの修験の役割に長く関わってきたらしい。
副住職が高さ三間半の御神木(御薬木)に勢いよく上り、いよいよ大蛇退治である。真剣にてその吊るされた大蛇を模した太い藤蔓が切り落とされると、一斉に大蛇の頭を取ろうと観衆が殺到する。血気盛んな若い衆が怒号の中で奪い合う。土埃が立ち、一方では、副住職が降りた御神木に、巻き付けられた藤蔓を取ろうと数名の若者が上っていく。下はもう観客も大騒ぎ。消防団が鋸を片手に、長き切り落とされた藤蔓を、小分けにして両者に分け与えるなどするも、これがまた、血の煮えたぎった者等には、「てめぇー、なにょーするだぁー、よこせぇー!!!」てなことになる。僕らは、行者堂前で、錫杖振りながら、般若心経をひたすら唱え続ける。なので、午後4時からの祭りはタップリと2時間近くを要する。終わって、作務衣に着替えて軽く膳をいただいてすぐに帰路についた。薄紫になった20号線を石和からまた土手道に入って帰る。あー、また来年かぁというような気持ちになって、缶ビール2本飲んで風呂入って寝る。それにしても困るのは、同じ真言宗でも、智山派と我が醍醐派は、お経の読み方やその抑揚が微妙に違う。新義は、やはり何かの違いを出さなければいけなかったということなんだろうなと思いつつ寝る。

2008年5月7日Wednesday 晴れ
夏モードに切替。 連休中は、清里方面に一度出かけただけで、後は家で過ごした。祭りの礼状を出し、病気平癒の護摩を焚き、護摩木を割り、網戸を入れた。温暖化の影響なのだろうか、5月の声を聞いたらもう網戸を入れたくなった。窓を開けて風を入れないと、部屋の中で耐えられないような気分。僕の記憶の中にも、5月の連休中に網戸を入れたことは無い。女房は、冬物と夏物の入れ替えだ。僕ももういいやと、冬の衣をしまった。一日仕事をして、明日はまた休みを貰って、春の最後のお祭りだ。

2008年5月3日Saturday 晴れ
礼状出しなど。 出かけようと予定していたが、娘が風邪気味で調子が悪いというので明日に延期した。で、祭りの礼状を出したり、放っておいた片付けなども全部済ますことができた。これで今年の祭りとは縁が切れた。女房も送るお札の発送の準備をしてくれた。都留からYさん他2人来る。もう8年になるという、この寺のお不動様を参拝するようになって。Tさんは、「明日、お不動様に会えると思っていただけで、思いがけぬ仕事が入った」と、今の仕事がとても順調にいっていることを話してくれた。僕は何も力がないので、お札を書いたり、護摩を焚くだけなのだが、「信じていられる間は信じてくれたらいいですよ、ここがダメになったら、いつでもどこかへ行ってくれてもいいですよ」といつだったか話した。互いにそれを負担とすることなく付き合ってくれたらいいんである。僕はこんな気楽な考え方である。
護摩を焚く準備もして、夕方近くになって少し裏山など歩く。汗をかいて気持ちがよかった。国道の甲府方面行きは、早川の山菜祭りから帰る車で渋滞していた。毎年の同じ光景で、でも早川町を訪う人たちがたくさんあることは嬉しい。雨でなくてよかった。
喜田からは「焼き鯖」が届けられた。俊一君夫婦が来ているのだそうで、明日の夜のお誘いがあった。

2008年5月2日Friday くもり
やっとすっきりとした気分の朝になった。 夕べの酒は控えめにしたので、今朝はようやく何日かぶりですっきりとした。こういう朝は法螺貝の鳴りもいい。つつじの赤やピンクや黄が池の周りを彩り始めた。祭りが終わると昨年もそうだったが、暫くしてから一気に気持ちが下降したりする。今年は気をつけなくちゃ。息子から電話があったが、彼も彼なりに帰省できなかったことの責を感じているようではある。電話の内容はというと、X-JAPANの再放送をもう一度録っておいてくれとのことだったが。金森幸介のLIVE CD-Rの2枚組みを7セット買ったので、連休中はこれを聴くことになる。連休中にも護摩を焚いて病気平癒の祈願もしなければならない。祭りへの礼状や草刈りも、できたら護摩木づくりも。今日はまた午後休まなくちゃならない。8日には、大善寺の藤切りへ今年も行くことになっている。もう10日も年次休暇を消化してしまった。どちらも本職にできないような宙ぶらりんではあるが、傾き方や心は寺の方がずっと重い。祭りを終えて気の置けない僧侶方とゆっくりと飲んだ。だがこの日、最後の最後に突然の来訪者があった。伝説のヒッピー:キヨシの来訪であった。忍野deadの帰りを初めて訪ねてきたのだった。どこかでいつ会ったのか忘れてしまってはいたが、おそらく15年位は会ったことがなかったはず。信州に流れ着いた僕を彼が拾ってくれたのだった。24歳の頃だった。もう30年近い歳月が経った。グレイトフル・デッドの音楽をこよなく愛し、デッド・ヘッズ・ジャパンの代表とかでもあったのかな?キヨシは若い友人二人を伴って、1時間位居て友人の待つ大鹿村へと去っていった。もうそんなに何度も会うことはないだろうが、いつでもどこかで会いたいような不思議な人物だ。会いたくない時ももちろんあるし、突然の電話に辟易としたことだってある。また会おう。
今年もいい祭りだった。チベットのことへの理解をも話ができたし、僕は僕の思いのままにこの寺では在ることができる。内藤君もそれを「よい」と認めてくれている。喜田の手打ちうどんもいつものように、大勢が喜んでくれたし、若大将のオードブルも好評だった。また来年だ。一年にいっぺんのお祭りをあと何年だ。とりあえず来年だ。

2008年4月27日Sunday 晴れ
祭りの準備。
昨日は5時前に起きて、お勤めを済ませてから朝食をとらずに矢細工へ桧の葉を貰いに出かけた。前日に望月さんと話してあったので、昨年と同じ場所に行くと、2箇所に十分なだけの桧葉を積んでくれてあった。去年は喜田の軽トラがパンクしていて、ヒデー目にあったんだよな。でも今年は順調で、午前中にたくさんの仕事が片付いた。天候があまりよくないという予報だったので急いだのと、母方の親戚の葬儀に参列しなければいけなくなったことも理由だった。「義理を欠く」とか「義理がたたない」って言葉を親戚からいただき、午前中の仕事を済ませて出かけた。雨が降ったり止んだりという気まぐれの天気だったが、夕方から本格的な雨になってきたので、護摩壇にもまたブルーシートを掛け直し、桧葉は鐘楼の屋根の下に避難させた。
今朝は檀家の皆さんと祭りの準備。幟や受付の準備、松明なども作ってもらった。大体の下準備をしておくので、そんなに時間もかからない。今年も2時間ほどでおしまい。昨年から昼食を用意しないこととしたが、皆もこれで言いという。こちらも準備や片付けがない分ありがたい。大分風が出ている。天候は良さそうだが、風の強いのだけは避けられたら避けたい。
松明はいつも「何故こんなに大きいのか」というくらい、大きなものを作ってくれていたので、今年は「片手で持てる程度のものにして欲しい」と頼んだら、それなりの大きさにしてくれた。松明は、護摩壇に火を移す役目だけのものだから、巨大化したものは全然必要ないんだ。これで来年はOKだな。お札も全て書き終えたし、明日、札加持の護摩を焚いて、それで準備万端といったところか。

2008年4月24日Thursday
雨になった。
朝の勤行で、理趣経を一巻読み終えないうちに、鼻水が垂れてきてしまう。何か無性に鼻の内側がむず痒い。くしゃみが何度か出て、鼻水がそのうちに流れ出てくる。鼻紙が側にないので、すすりながら、時には舐めながら、我慢でお勤めを続けることになる。今朝もそうであった。毎朝、「明日の朝は、ティッシュを置いておこう」と思うのだが、これが毎朝うっかりするんである。鼻水垂れても、誰もいないんだからいいやってのが、僕の頭の奥の考えなんだろうけど、厨子の内側にいるお不動様や、僕を直接見ている制叱迦童子・矜迦羅童子はそれを不快に思っているかもしれない。「いい年をした大人がなんて様だ」なんてね。
天気予報はよく当る。今朝も7時前から降り始めた。今夜は課の歓送迎会。桧の間引きを貰いに行ってくれば、準備もほとんど済みってところになる。

2008年4月22日Tuesday 晴れ
これが切り捨てていくということか。
昨日まで支所の隣りにあった山梨中銀のATMが今日撤去された。僕はキャッシュカードを持たないし、財布の金は女房からもらうだけなので、特に困ったりはしないが、ここに勤めている職員で「不便になるね」って声は、撤去されるという知らせがあってからは聞こえていた。朝出勤すると、トラックと重機と作業員が何人もで作業が始まっていた。昼過ぎには、ATMのコーナー(建物)は既に跡形も無く片付けられ、基礎のコンクリートを剥がす作業なんかが始まっていた。これが地方を切り捨てていくということなんだろう。地方という言葉は適当でないかもしれないが、新しい町としてこの下部地区を眺めると、富士川の左岸の下部は、どうしても辺鄙な地域として見られてしまう感が否めない。実際この常葉の駅からの通りだってさびしいもんだ。下部町役場が無くなり、今下部支所には教育委員会と支所の職員と併せて、20名ちょっと居るだけだ。地域は、教育委員会も本庁にやがて移ってしまうのではないかと心配している。円周率は「目的に応じて3を用い」るなどという学習指導要領も、今はまた「円周率は3.14とする」に戻っている。だーが、一度壊れてしまったところはほとんど再生がきかない。使用頻度の少ないところは、どんどん撤去だ。郵便局だって不便になったと聞く。地方の地方をどんどん切っていく。斬っていきながらの荒っぽさは、枯葉剤を撒き散らしてその生殖能力さえも奪ってしまうかのようだ。種を巻いて、挿し木や接木もして、この土壌を守り育てていかなければ、この町は何れどこも同じように死に絶えてしまうだろう。農村を捨てて総都会人となれというか。食糧を自給できない国に未来は無いというに、プラスチックでも食って生きていける世の中に変化させていくとでも考えているのか。

2008年4月21日Monday 晴れ
お祭りまであと一週間なので、いよいよ気持ちが落ち着かなくなってきた。
気持ちも落ち着かないが、準備もなんだか忙しない。土日のこと。土曜日には横浜のH山さんのお父さんの七七日忌と納骨。天候も回復し、新緑のいい日和の中で納骨を済ますことができた。お斎は庫裏で。若大将にお願い。マスターは気合十分で、法要をして墓参を済ますまでの1時間をたっぷりと使って、配膳してくれた。刺身は、まな板持参で、ここに来てから切って盛り付けてくれたようである。心配りというか、料理人の意気をいつも感じる。この人にお任せしておいたら、都会人もびっくりである。皆驚きと感激の食事を堪能。僕は、H山さん持参のお酒をひとりいただく。この朝、今年初めての草刈りをしたのである。雨が上がって、障子を外した庫裏からの裏の池の周りの草が気になって仕方がなかった。ガソリンを買いに行き、草刈り機を小屋から出して、今年初めてのエンジンのかかり具合を確かめ、「おー今年もこれこれ。この音がなんとも頼もしい。」と、爆音とどろかせて草刈り。また半年草を刈り続けることになる。
日曜は、朝7時半に兵庫からの4名が来山。朱印を書く間に、「先生」なんて会話が聞こえたので、大学の先生とそのゼミの学生であったのかもしれないなどと想像。その後本堂でお開帳。数珠持参の方たちであったため、般若心経を一緒にあげる。帰り間際に、この「先生」、「袋の用意もないが、お布施を」といって、裸で手渡された。見て驚いたのは、なんと1万円であった。「こんなに結構です」と辞退はしたが、向こうも引けなかったのか、そのまま押し切られた。貧しそうな寺に感じ入ったのか、はたまた、僕が中国のチベット弾圧に抗議するメッセージを書いて本堂や庫裏に貼ったものを読まれたのか、本意はわからぬが、ありがたく頂戴した。お不動様のおかげである。お不動様を護り、お不動様とともに生かせて貰うのだ。御札を書いたり、本堂の掃除をしたり、境内の草刈りをしたりで一日が終わる。
そうそう、これを忘れてはいけないのだ。
高岡大祐君が、17ヶ月ぶりに寺でライブしてくれることになった。ワタンベのドラムと、ケイさんのギターのトリオ。楽しい土曜の夜にしたいもんじゃねぇか。夜風もあたたかいかもしれない。ビールが美味いかもしれない。「BOILERS + kei」。お待ちしております。案内メールはまだ出してありませんが。

2008年4月17日Thursday くもり
情けなくも思うが。
26日の長野での五輪聖火リレーに、生徒の安全が確保できないかもしれないからと、善光寺の近くにある、私立長野清泉女学院高校が臨時休校にしたという。26日は土曜なので、公立は休みなんだろうが、私立だから土曜も学校があるのだな。でもなぁ、休校にする必要があるんだろうか。26日のことを予測する目はないが、仮にデモがあったとしても、僕は秩序を持って行動するだろうと思っている。騒動に発展するとは思いたくない。
本当にそれを危惧するなら、聖火リレーを中止すればいいのだ。聖火リレーの受け入れを拒んで、中国政府への不快感を表明するのもいいのではないか。中国政府は「聖火防衛隊」なる水色集団を送り込んで、訳のわからん対面作りに躍起になっている。静かに抗議すればいい。静かに抗議の祈りをすればいい。ダライ・ラマの言葉に涙する者もいれば、ダライ・ラマの言葉に怒りの拳を上げようとするものもいるだろう。考えて行動することだ。僕はそれは静かであれば静かであるほどいいと思うし、一人ひとりの持つ行動であることがいいと思う。

2008年4月15日Tuesday 晴れ
廊下が落ちてしまったら大変。
昨日の雨は昼前に止んで、晴れ間が見え始めた。弁当を食べてから歩き始めたが、もう頭の中にはこのことしかなかったのだ。日曜に庫裏の北側の廊下がえらく沈んでしまっていることに気付いた。戸を開けて腹ばいになって縁の下を覗いてみると、廊下の支えの横棒(なんと呼ぶのかわからないので)が外れて落ち終っている。お祭りで大勢の人が通るし、その前に今週末の土曜に法事がある。何とか急場をしのがなければならない。前にもそうしたように、ブロックを積んで、支えにしようと思った。で、急遽休みをいただいて、コメリに寄ってブロックを買って帰った。車のジャッキで沈んだ廊下を持ち上げておいて、狭くて低い縁の下にもぐりこんで、腹ばいになってブロックを2箇所積み上げ、その上に厚い横板を渡して、ちょうどいい具合に調整して応急処置。まあ、技術のない僕としては上出来。これで法事も祭りも大丈夫。午後の時間が少し余ったので、護摩札書きを始めた。休みの日には休みたい気持ちがどうしても優先してしまう。こんなときに始めるのが一番よいのだ。今日は仕事の日だから、夕方までは仕事をする。役場のではなく、寺の仕事に専念する。で、十分にはかどった。
今朝も早起きで、お勤めをしてから、御札が書けた。今日は暑くいい天気になるようだ。新緑の季節。でもまた、後半は崩れるのだといっている。東京から納骨にみえる檀家には、雨具を用意してくるように伝えた。必要にならないことが一番よいのだが。

2008年4月14日Monday
今朝は雨。
ほんとに飛び石のように雨が降る。
金曜からのことを。やっと2階から1階への引越しが終わる。生涯学習課と同じフロアになった。賑やかではあるが、前の狭い部屋以上に狭いスペースに押し込まれたって感じ。課をぐるっと一周できないのだ。この部屋に当初は教育長も入っていたなんて考えられない。夜は喜田の姉さんのお祝い。若大将で。祭典の料理の注文などの用事もあった。若大将はマスターが熱心なので、どの料理も好評である。今週末の法事のお斎の料理もお願いしてある。
土曜日は、富士川へ野竹を採りに行って、祭典の幣などを仕上げてしまう。今までこの野竹に目が向かなかったのだが、これからは野竹を利用することとする。川原に生えているのは、太さもちょうどいい。富士川に下りたのも何年かぶりだった気がする。御札を10枚も頼んでくれた望月武さんの家が、対岸の小田原にある。望月さんは丁寧に手紙も添えてくれて、家族一同が元気に暮らせていけるのも、お不動様の加護のお陰であると結んでくれていた。ありがたい。お不動様は毎日毎日、対岸の望月さんのお家も眺めているのだ。今週末の法事のため、客殿の絨毯をしまい、ストーブも片付け、庫裏のコタツも片付ける。夏バージョンへの切り替え。女房は草を取り、除草剤を撒く。農協のものがよく効くようだ。
日曜日。甲府:華光院の三寳荒神の祭典へ。年々賑やかさを増している。柴燈護摩の後の火渡りの列がなかなか途切れない。天候が下り坂だというにもかかわらず、暑い日となってよいお祭りだった。放光寺のご住職(この日最終となる塩山から甲府行きのD51に乗車するんだといっていた)とは、互いの29日の祭典の好い日となることを話す。華光院のご住職には、祭典の助法のお願い。瀧本院の副住職も今年はうちの祭りにOK。帰ってから放送設備なんかの準備他。あー御札を今日あたりから書かなくちゃな。

2008年4月10日Thursday
チベット弾圧は許されない。
それぞれの信教の自由の中で行っているものを、一方的に弾圧するということは絶対に許されるべきものではない。宗教する行為までをも監視する。僧をも信者までも。寺院に香の煙はなかっと聞く。日光修験道では、【 チベット弾圧に対する憤りと抗議 】という声明を出した。大きな仏教教団からは、中国側を意識した表明しか出されてはいないようであるが、ところが、天台宗の別格本山の寺院僧侶が、関西テレビ「ぶったま!」に生出演して、まさに命を賭してチベットの信仰の自由を訴えた。youtubeで見ることができるが、声明の全文が公開されているのでここにも転載を許していただくとする。
今、私達日本の仏教者の真価が問われています。チベットでの中国の武力行動によって、宗教の自由が失われることに心から悲しみと、やむにやまれぬ抗議を表明せずにはいられません。私たちは、あくまでも宗教者、仏教者として、僧侶を始めとするチベット人の苦しみをもはや、黙って見過ごす事が出来ません。
チベット仏教の宗教的伝統を、チベット人の自由な意思で護ると言うことが、大切な基本です。皆さんは、日本の全国のお坊さんどうしているのかとお思いでしょう。日本の各宗派、教団は日中国交回復のあと、中国各地でご縁のある寺院の復興に力を注いで来ました。私も中国の寺院の復興に携わりました。しかし、中国の寺院との交流は、全て北京を通さないと出来ません。殆ど自由は無かった。 これからもそうだと全国の殆どの僧侶は知っています。
そして日本の仏教教団が、ダライラマ法王と交流することを、北京は不快に思うこともよく知られています。あくまでも宗教の自由の問題こそ重大であると、私は考えています。しかし、チベットの事件以来、3週間以上が過ぎて尚、日本の仏教会に目立った行動は見られません。中国仏教会が大切な友人であるなら、どうして何も言わない、しないで良いのでしょうか。
ダライラマ法王中心に仏教国の歴史を重ねてきたチベットが、今無くなろうとしています。私たちは宗教者、仏教者として草の根から声を挙げていかなければなりません。しかし、私の所属する宗派が、中国の仏教界関係者から抗議を受けて、私はお叱りを受ける可能性が高いでしょう。
このように申し上げるのは、私達と行動を共にしましょうということではないのです。それぞれの御住職、檀信徒の皆さんが、これをきっかけに自ら考えて戴きたいのです。オリンピックにあわせて、中国の交流のある寺院に参拝予定の僧侶もいらっしゃるでしょう。この情勢の中、中国でどんなお話をされるのでしょう。もしも、宗教者として毅然とした態度で臨めないならば、私たちは、これから、信者さん、檀家さんに、どのようなことを、説いていけるのでしょうか。私たちにとって、これが宗教者、仏教者であるための最後の機会かも知れません。
書寫山圓教寺 執事長 大樹玄承 平成20年4月5日
』。
僕は、とにかく自由であることを尊びたい。

2008年4月9日Wednesday 晴れ
2度目の引越しを。
学校教育課2度目の引越しを敢行。去年の5月に引っ越してまた1年経って、今度は2階から、社会福祉協議会の去った部屋に生涯学習課と一緒になるべく引越し。明日からまた天候が崩れるという予報なので、かつての支所からのロッカーなどを運んだり。ついでに2階からも全て1階に移動してしまった。折り畳みの長机を並べて、明日は簡易的な俄か仕事に臨む。三つの町が合併してからすでに千人以上減少してるんだから、またいつ、「本庁舎に来い」なんてお達しがあるかわからない。根を生やさずに、浅く植わっていよう。すぐに己を引っこ抜けるように。
そんな明日の天気を予感させるかのように、今夜は星のない夜空。でも暖かくなった陽気に、羽虫が舞い始めた。自然とともに生きる虫たちはほんとに敏感だ。僕は風呂の窓を開けて夜風がほしいので、「網戸を入れようか」なんて、追いかける人間の頭になった。

2008年4月8日Tuesday
花散らしの雨。
夕べからの雨が降り続いている。久しぶりのまとまった雨だ。花散らしの雨となり、境内の桜の花びらも大分落ちた。雨の「花祭り」。
チベットで端を発した騒動が、地球を一回りしそうだ。北京五輪の聖火リレー。詳しいことは僕にはよくわからないが、気になるものは一括りに抑えつけてしまえみたいな考え方はどうも苦手だ。抑圧の反動が今回のような形で噴出したのだろう。
概ね世界がこのチベット民族の氾濫に賛同しているということは、中国政府の考え方や報道に頭を傾げることが多いからだろう。お釈迦様の誕生された日である。よい方向に解決していってほしいと思う。抑えつけて閉じ込めてしまうのでなく、それぞれの民族の持つ人間性や思想を理解しあう歩み寄りが中国政府にはほしいと思う。花祭りの花はまた来年も必ず開くのだ。
今朝の雨にボブ・ディランが似合う。

2008年4月6日Sunday 晴れ
支所日直。
下部支所の日直。前回は2月3日の節分の日で、雪だった。その時も、一日中音楽かけて、祭典用のシメなんかを切っていたが、今日もまさにそれと同じ。シメを切ったりしている。ただいまは11時を回ったところ。午後からは祈願札を書く。本庁の日直はA山課長。仕事をすると、誰かと交替したのだそうだ。
昨日のことを少し。鋸の歯が折れてしまったのでコメリに買いに行く。外の庭木の苗がとても目に付いた。桜や梅なんか。以前から少し植えたいと思っていた。植栽のことなんかも、檀家に相談すれば、少しは買ってもらえるだろうかとも思ってはいたが、余り余計なことの相談はしたくないという気持ちがどうしても先にたってしまう。鋸の替え刃を買って帰って、本堂の裏山に、柴燈護摩用の柴を刈りにいく。久しぶりの樹木の空間。静かで時間が止まったように佇んでいる。木も僕も。立ち枯れのものや枝が邪魔になっているものなどを切り、ロープで何本かずつ括って、引き摺り下ろした。ロープは肩に食い込む。汗は流れ出す。何も考えなくていい。ただそれをすることのためにだけある僕のその時間。猪の獣道があちこちにある。この冬は余り里に下りてこなかったが、裏山は奴らの聖域として確実にあった。6往復して境内の端っこに柴の山を作った。昼食を済ませ、もう一度コメリへ。勿論、苗木を買いにである。吉野桜2本、八重桜2本、枝垂桜2本、ミツバツツジ2本、紅梅1本、花桃1本、サンシュユ1本買う。2時間ほどかけて女房と植樹祭。こんなことでも、不思議と何か感動があるんだな。記念植樹のような気分になる。美味く根付いてくれるといいが、この世に生きた証を植えたような気分になった。

2008年4月4日Friday 晴れ
清明。
二晩泊まって息子は新たな大学院生生活に戻っていった。新しいスーツを買い、よくわからんが、教授の学会とやらへ同行して秋田に行くのだそうだ。ほーたいそう立派になったものだと、馬鹿な親は思う。好きなことをして過ごすことが身体にも心にも一番いいのだと思う。
驚いたことに、X-JAPANの復活Liveに3日とも全部通ったらしい。「録っておいてくれ」とWOWOWの中継を頼まれたが、初日のこの放送は2時間遅れとなった。まさにハードならではの録画となった。会場を見ながら、「あの前のところで見た」などと話した。好きなことをして過ごすのがよい。
娘も2年生からは学寮で個室を与えられ、パソコンでテレビも見られるようになったと電話があったと聞いた。それぞれに謳歌すればいい。僕もまた、同じような時間をかつては過ごしてきたのだ。50を過ぎても胸が切なくなるような時間のことを時々思い出す。先日も甲府の帰りを太田裕美聴きながら、うかつにも落涙した。甲府盆地から八ヶ岳を望む景の中で、「木綿のハンカチーフ」に涙が二すじこぼれたのだ。なんたる。助手席には法螺貝を置いている修験の親父がだ。まあ、俺はまだ好きなことをやれているという自負がある。
今日は二十四節気の「清明」。「桜花爛漫、転地万物清新の気が満ち溢れてきます」と高島暦にある。まさにその通りだ。新しい作務衣を買う。

2008年4月1日Tuesday 晴れ
春の種を下す。
「春の種を下さずんば 秋の実如何が獲ん」。トイレのカレンダー。明王寺のお祭りでいただいたものであるが、とても勉強になっている。4月の言葉がこれ。空海の言葉を集めた「 秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく) 」にある言葉。秋の収穫を得るためには、春に種を蒔くことからはじめなければならない。私たちの生活もこれと同じで、失敗を恐れずに一歩を先ず踏み出すことから始め、それがやがて実を結ぶことになるのだということ。
寺には年度などというものはないが、役場勤めは今日から新年度である。娘は今朝電車で新年度の始まりの大学生活へと戻ってゆく。今夜には息子が帰ってくる。家族間ケータイが無料になったと、Kikumiさんから。値上げ値上げの折、女房はこれを嬉しいと喜んでいる。さて、我が地区にあるガソリンスタンドは、果たして値下がりしたのであろうか。

2008年3月31日Monday 晴れ
玄法院祭典。
昨日。玄法院祭典。招いていただいて今回が2回目。奥様が初夏に亡くなられたので、ご住職は大変に寂しさにいる。思いがけず宝剣の大事をやらせていただくことになり、願文も練習をして諳んじることができるようになっていたので、張り切ってやらせてもらった。玄法院は三代がそろい踏みで、法灯はこの先も引き継がれてゆく。羨ましくもある。
昼食をいただいて帰り、すぐに本堂の掃除に取り掛かる。午後からは雲行きが怪しくなり、ぽつぽつと落ちてきた。1時間ほどで完了。後は野となれ山となれ。
で、今日。山宮所長も退職。なんだか明日から寂しくなる。藍も明日は東京で2年目の生活。夕飯を済ませた頃に開より、明日帰る電話。そうかそうか。

2008年3月29日Saturday 晴れ
峡東まで。
行きがけに鰍沢の骨董屋さんを覗く。偶然にKさんとも会う。きっとこんな日に来るんだろうなと思っていたら、まさの大当たり。かなりの骨董通である。牧丘に行く途中、甲府の山梨学院の近くで昼食。インドカレーのお店。お昼のバイキング880円。3人で4種類のカレーを楽しんだ。焼きたてのナンが美味しかった。中央本線にかかる高架橋を渡る時、カメラを持った人たちが大勢いるのではじめ分からなかったが、今、甲府−塩山間をSLのD51が走っているので、その運行時間に合わせて鉄道マニアが集まっていたのだ。
で、我がルーツの寺へ。おじさんを見舞う。長期入院の過酷さが伺えた。僕たちが行く前とその後も、見舞いの方が何人もお見えになった。1時間ほどで辞す。放光寺に寄り、お雛様を見せていただく。奥様がいたが、ご住職は「霊場の会」の引率でお出かけとのことだった。何人ものお掃除の方が境内に働いていた。大きなお寺の大変さも伺え、また労働力を賄えることの羨ましさもちょっぴり。
帰って、朝焚いた護摩壇の掃除を少し。残りは明日の午後に持ち越し。息子の国家試験合格のお礼の護摩を朝焚いた。29日参りの方のお酒が外陣に供えられていた。夜は息子に頼まれて録ったX-JAPANの映像などを。なんだか芝居仕立てのようで、バカバカしくもあり。

2008年3月28日Friday 晴れ
「君が代」が歌えるようになることが愛国心か。
今朝の新聞に、新学習指導要領告示で、愛国心さらに強調などと出ている。で、昨日のことを思い出した。春休みに入り、朝から執務室の隣りの和室へ、春休み中の小学生たちが来ている。賑やかなのはいいが、昨日の午後、変に耳障りなことを感じていて、それを静かに確かめた。オルガンで「君が代」を弾いているのだった。原小の卒業式のときも、児童は全員が「君が代」を歌えていた。だから、教師たちも本意かどうかはわからないが、この国家という位置づけになっている歌を覚えさせているのだ。国を愛するなんてことは、指導したり強要するものではない。児童の弾く「君が代」は反吐を吐きたくなるほど、うんざりした。虚しい頭の者に教え込むことの恐ろしさを、まざまざと思い知らされた例だった。

2008年3月26日Wednesday 晴れ
進みたいけど足踏みをしてしまうもの。
これが小中学校の適正規模・適正配置問題の問題となるところなんだな。今夜は久しぶりに夜のこの会議で、帰宅は午後10時を少し回った。このデリケートな問題は、どうしても総論は理解できても各論に入ろうとすると、ためらいが現れたり、個々の持つお家の事情なんかが邪魔したりする。足踏みをして365歩のマーチのようでもある。以上。
年度末でなんだか慌ただしくなってきていて、狭い机に、毎朝ドンと引き出しから色んな書類を出しては、片付けていくんだが、どこからともなく新たに仕事が自然発火したりするので、なかなか落ち着く暇はない。春の気まぐれが、今日も雨をポツと降らせてみたり。昼歩くことで、気持ちのバランスを保っていたりする。
ここのところ新しい新聞配達の少年が早く配ってくれたので、朝食後にすぐ新聞が読めていたが、今朝は出勤前にはとうとう配達されなかった。車で車庫を出て、配達する少年と会った。春休みに今日から入ったので、それでゆっくりだったんだ。明日もそうなのかよー?と、訴えてみたい気持ちで眠りに付くとする。

2008年3月25日Tuesday 晴れ
エドヒガンの枝垂れも開き始める。
薄いピンクの花が今年も咲き始めた。エドヒガンの古木である。嫗とでも形容したくなる姿。この花の下を通って客殿から本堂へと歩く。
今日の午後には息子の国家試験の合格発表があるのだが、結果はどうだろうか。受かっていたら礼の護摩を焚こう。
年度末の人事異動が発表になったので、昨日の職場はなんとなく浮き足立っているよう。4月からの支所の日直の輪番も配られた。お祭りがあるので、ここが気になっていたのだが、見事に予定している日にさわることなく、4月6日の日曜日。2週の日曜から4月の日曜は全てが僕には予定が入っていた。よかった。
夕べは娘の同級生が集まって、それぞれの近況報告があったようだ。遠くへ出かけずに、寺に寄っていただけばそれがいい。寺はそれで喜ぶ。

2008年3月22日Saturday 晴れ
葬儀終わって、帰ってもう眠い眠い。
一泊の東京での葬儀。初七日の法要まで終えて、今、かいじ号。午後3時30分に乗ることができた。昨日ちょうど3時半に、葬儀会場の目黒の「羅漢ホール」に着いたので、24時間の滞在。昨日は、午後職場の異動内示があるということだったので、5時半前にKちゃんに電話したら僕は異動なし。
通夜を終えて、ご親族と食事。H家はもともと土地の人ではなかったが、養蚕に関わる仕事をしていたHさんが最後を暮らし、大聖寺の墓地に入ったという経緯だ。宿に入り、渋谷のディスク・ユニオンにでも行ってみようかとも思ったが、なんか疲れて早々に寝てしまった。明けて今日。11時から葬儀。終って火葬。火葬斎場は、途切れることなく棺が運び込まれ、オートメーション化された工場の流れ作業の様。焼かれて、骨壺に納められて、ところ天のように、「ハイお疲れさん」と押し出される。この光景はなかなかに愉快だった。人の一生の哀れでさっぱりさばさば。
(22:38)Up。

2008年3月20日Thursday
彼岸中日。
朝から雨。一日雨。やむ気配なく夜まで雨。彼岸の中日で、午後から毎度の彼岸法要。今日は参加者多数。六人。おー立派立派。雨の降る花冷えの中をやってきていただいてありがとさん。感謝感激、雨あめアメ。
実は東京に住む檀家さんに不幸があって、昨日の朝連絡があったのだ。こちらの生活事情も察していただいているので、明日出かけて明後日の葬儀。明日は原小学校(我が母校)の卒業式に教育委員会の代表として出席して送別の言葉を述べ、その後に上京予定。一泊で葬儀。
彼岸の中日は、思いがけない来寺があったり。うーん、なかなか家(寺)を留守にはしておけない。

2008年3月18日Tuesday 晴れ
蛙鳴く。
池で蛙が鳴き始めた。ヒキガエル。月に照らされた神聖な境内で、ヒキガエルの愛の営み。僕が子供の頃は、今でも忘れられない。もう境内足の踏み場もないといっていいくらい、ヒキガエルが出た。知り合いのおじさんは“かます”を持ってきて、蛙を捕っていった。食用蛙というわけだ。蛙を避けながら歩いても、あのグロテスクな奴が、ゴム草履の素足の足の甲にドスンと乗ってきたりしたときには、ギャーッと喚いてしまったものだ。今はもうそんな光景はない。細々と絶えないくらいに生息している。でも時期にはそれが鳴かないと何か変なので、可笑しなもんだ。
樹村みのりさんのコミックをほんとに久しぶりで買った。もう描いていないのかと思っていた。新作が3話と旧作が2話収められている「見送りの後で」。樹村みのりは、大学時代から30過ぎまで、本当によく読んだ。僕は大学時代から、少女マンガしか読まなかった。「りぼん」や「別マ」もよく買っていた。小説のように深く、今、吉田秋生なんかが飛び抜けているが、その前には樹村みのりだった。
マンガも音楽もこんな風に僕を幸せにしてくれるので、歳は取ってもやめられない。BGMは、シカラムータの「生蝉 2006LIVE」。

2008年3月17日Monday 晴れ
西光寺祭典。
午後4時少し前に始める。風だけが心配。いつも凄い。おかげで、袴の前は火の粉で穴だらけだ。ここだけに着る修験の衣になってしまった。今年も点火したとたんに、サーッと、一陣の風が導師の側に吹き抜けた。煙で一瞬何も見えなくなり、その後観衆は「ワーッ」と四方に散らばった。逃げも隠れもできない導師はそこに根を生やして居座っていなければならない。18回目の祭典ということだった。立川先生が「高校を卒業する年齢になった」とお話された。先代の住職より僕の参加のほうが多くなった。このお祭りで春を感じ、修験の始まりとするような感じになっている。今年もよい護摩が焚けた。拙い僕を助法してくださる瀧本院、松鶴院のご住職にも感謝である。
彼岸に入った。今日もよい天気。仕事では、議会の常任委員会が午後からある。事無く終わって、寺のことをしたいと思うばかりだ。
チベットに安穏を。

2008年3月15日Saturday 晴れ
快晴快晴、あたたか、暑くなりそうだぞー。
「ちりとてちん」。小草若がやっと正気を取り戻した。沈んだままでは終われないもんなぁ。BSで二度見。終わってちょうどよく腹の中で朝飯がこなれてトイレへ。トイレのラジオをつけると驚きのタイミングで、マイ・シャローナ流れてくる。便器に腰掛けて、両足を宙にばたばたさせながら快便。マイ・シャローナ → SOH BANDの図式が頭をよぎる。リーダーの宗修司は37歳で天に駆け上がってしまった。2枚目のアルバム「死ネバ馬鹿モ治ル」を出して、本当に死んじまったのである。狂気のドラマーはあの世で、狂喜のドラムを叩いているに違いない。あーこんな人の嵐のような音楽に出会えてとても幸せだ。俺の馬鹿も死によって終息となるのだろうが、まだその地点には行き着かない。
今日はこれから法事。松安義さんの七七日忌。春になればまたいつものように復活して、電気4輪車運転しながら、「方丈さん」なんて寺に来るだろうと思っていたが、叶わなかったな。安義さん、昨日の大雨で今朝は朝から好天気だ。最高の七七日忌となったよ。あなたもまたこれで娑婆世界との縁を切って、奥さんの住む世界に旅立てる。この世に思いなんか残しちゃいけない。すっぱりと飛んでいってください。はなむけの紅梅が今日の午後には花開くよ。

2008年3月12日Wednesday 晴れ
夕べの三日月。
夕べの夜の月はよかった。三日月。西の山の稜線の上に、手漕ぎボートのように浮かび、くっきりと春の宵に揺れていた。北東の上天には北斗七星。この冬は、10月の中旬から夜のウォーキングを妻とはじめて、よく夜空を眺めた。眺めたときもあり、夜空の星や月とともに歩いたときも。メタボの腹を何とかしたいという思いで歩いているこの愚かな男は、悠久の世界にある星々たちには、蟻の彷徨くらいにしか見えないんだろうな。こんな神のような世界に今日はまたスペースシャトルが飛んでいった。ただ、宇宙はこれが果てない宇宙だとしても、真言の世界の宇宙は、大日如来の世界で、宇宙よりも果てない宇宙がある。宇宙より果てない宇宙とはどんなものか。「そんなことをいちいち気にしなくてもよい」というものが、大日如来の宇宙ではないのだろうか、なんて今朝は夕べの空を思い出しながら思うのだ。

2008年3月10日Monday 晴れ
開誕生日。
土曜日、法事。80を越えたご夫婦が、奥さんのご両親の17回忌の供養。奥さんが亡くなって何ヶ月もたたないうちにご主人も亡くなった。男ってのは、一人じゃ生きられないんだな。23回忌をするときには、もう居ないかもしれないなんて会話も。フキノトウの天ぷらいただいて、ビール。
昨日、日曜日。不動寺の祭典。洒水加持の前に一言。「虚往実帰」を。一部好評だったよう。おじさんの知り合いのALTが二人、この密教セレモニーを観覧。護摩の炉に点火用の杉の葉が役立った。来年も覚えておいて、持っていくこととしよう。畑に置かれたみかんとりんごに、野鳥が群がっている光景が面白かった。オナガやヒヨドリが来るんだけど、それぞれに相手を牽制しあって餌にありつく。これがなんとも面白くてね。
お祭り終わって、飲む。寺を継いでゆくこと。坊主としてあること。深く果てない。話せば話すほど、その先は更に先に去ってしまう。
今日は息子の22歳の誕生日である。4年前、進学する大学は9月には決まっていたが、車の免許を取るのに教習所に行くのはかなり待たされた。もう4年が経つのか。月日の流れが一段と早くなった。息子や娘にとっての流れは、遅いくらいなんだろうが。雨の朝が、午後から回復して夕にはよい天気になった。梅や桜の開花にも、拍車がかかるだろう。今月一度帰省すると連絡があったそうだ。大学院に入りまた2年だ。「学会にお供することになっている云々」とは、「ほー、偉くなったもんだ」と女房と笑う。

セキュリティーのことだけに躍起になっている者と、何故だ何故そこまでしなければいけないんだと思う僕の頭の溝はなかなか縮まらないと思うが、忘れそうにない息子の大学4年の誕生日にはなった。

2008年3月6日Thursday 晴れ
Shockふたつ。
「コミヤマ工業が破産、全社員を解雇」のサンニチの一面の見出しは、少なからずショックであった。旧くからの知り合いが勤めている(いた)。去年5月に民事再生法の適用を申請する事態に陥ったが、とうとうこの日が来たのかという思いだ。知り合いは地元のK高校を卒業して橋梁の大手、横河橋梁に就職した。みっちりと7年位で橋屋として鍛え上げられ、長男であった彼は、30年位前には当たり前のことであったUターンをし、当時の小宮山鐵工所に再就職した。横河で培ったノウハウを全て吐き出しながら、今日のコミヤマの橋梁部門の中心となって会社発展に尽くしてきたのだ。「これはお父さんが作った橋だ」と子供に語れるのは羨ましいことだと僕は感じていた。おそらく30年を勤め上げるような年月ではなかったか。
「フレッツ光の嘘」が、もう一つのショック。夕べ電話で「NTT東日本」を名乗る女性から、光回線が開通するので、現在契約しているADSLから、光に回線を代える事をお勧めすると伝えられた。ちょうどいつも世話になっているPCのT屋さんが来ていたので、「らしいです」と話したら、「確認してこちらで手続きとります」とのことだった。よくかかってくる、電話料が安くなる、NTTの子会社云々という胡散臭さは皆無だったので、グッと信用してしまったのだ。が、今夜帰ってきてT屋さんと電話で話したら、「どうもガセネタだ」とのこと。市川大門が3月に開通するらしいが、中富方面は、今のところ予定がないとのことだと。電話しながら、どっと疲れが吹き出た重い感じに陥った。これがもう一つのショック。
だが、理解できたことも一つ。DVDレコーダーで、普通のDVD−Rにダビングができないことがどうにもよくわからなかった。勝手に、NHKハイビジョン放送がデジタルというような思い込みで、BS朝日とかフジなどの放送は、アナログではないかと思い込んでいた。これが違っていたんですね。地デジで見ている番組は、全部がデジタル放送なんだってね。だから安価なDVD−Rにはダビングができなかったんだということ。

2008年3月5日Wednesday 晴れ
嘘。
「ちりとてちん」。草々の弟子の木曽山勇助。嘘つきもあそこまで酷いと正直辟易する。ここまで描かないと、もう20回足らずで終わるドラマが締められないのか。視聴率が関東・関西ともに上がっているらしい。余り突き抜けすぎた演出はどうも苦手だ。毎朝が楽しみで、夜にもまた見たりするが、どうもこの木曽山が出て嘘から嘘の話を当たり前のように喋る場面には会いたくない。作り手側の意図的なものもあるのだろうが、単純な僕にはここは苦手だ。そんでも、NHKの朝ドラは見出すと見逃せないなぁ。今楽しみに見ているテレビは、NHKだけ。「ちりとてちん」・大河ドラマ「篤姫」。土曜ドラマ「刑事の現場」。土曜ドラマは、前回の「フルスイング」その前の「ひとがた流し」「ジャッジ」ともに見応えがあった。60分をたっぷりと見させてくれるのも、毎回の満足の一つではある。総合かハイビジョンで見逃しても再度観る機会があるってのも僕が見る要因にはなっている。レコーダーを買ったので、これからは予約でいつでも繰り返し見ることもできるのはありがたい。

2008年3月3日Monday 晴れ
虚しく往きて実ちて帰る。
3月に入った。トイレのカレンダーは、「虚しく往(ゆ)きて実(み)ちて帰る」にかわった。3月は別れの季節である。何年かを過ごした師や友人たちと別れて己が道へと歩みを進める季節である。初めのむなしさは、実っていまの季節になる。私の息子は昨日国家試験だった。妻も心配な様子だったが、電話を入れると「渋谷で遊んで帰ってきた」とのことだった。一日の試験を終えて、解放されたのであろう。彼はこれから大学院へと進むが、友との別れもあるのだろう。国家試験は4年間を学んだその集大成ではある。山梨の田舎で虚しかったかどうかはわからないが、大学へ行き、実り多い収穫があったはずだ。更に2年。実を更に大きくして、己が道を歩んでほしいと思う。支援できるだけをしてやるのが僕たち夫婦の務めと思っている。
下田逸郎さんの出た「フォークの達人」を観た。去年寺に来てもらってもう1年が経つ。「フォークの達人」からの出演依頼はないんですか?と訊いたら、「あるんだよ」と言っていたけど、奇しくも最終回への出演となった。斉藤ノブの(Per)。渡辺香津美の(g)。ゲストで一曲、なんと石川セリ。下田さんの好きなところは、常に今の自分と向き合い、新しい作品を生み出しているというところだ。一年が過ぎるのは早い。

2008年2月29日Friday 晴れ
29日参り。 都留から毎月29日にお不動さんをお参りしてくれる夫婦がいる。Tさんである。今日は2月29日、大安。2月晦日、閏年に来るオマケの一日。月参りのご夫婦は今日も来るだろうかと朝考えていた。昨日来なかったのだから、今日来るつもりでいるのだろうと考えた。帰ってきて本堂に行くと、酒が一本納められてあった。本当は28日がお不動様の縁日なのである。だから、昨日は大瀧不動のお祭りがあったわけだ。でもこの方は、僕の寺の祭典が4月29日にあるので、どうもそれに縁を感じてわざわざ29日参りを続けてくれているようだ。そういうことを始めると、28日に参るよりも、29日に参ったほうがご利益に繋がるような気持ちになるのだろう。都留から1時間半以上かけて毎月来てくれるのだから、これは住職冥利にも尽きるし、お不動様もにんまりとしているに違いない。
寺の祭典は本当は3月28日で、やはりお不動様の縁日にあったのだが、集落で地名の八日市場にあやかった「八日市」を始めて数年した頃に、3月28日は年度末で勤め人が忙しいこと。それと、平日であってもお祭りになることから、当時の天皇誕生日の4月29日まで、1ヵ月延ばしてくれという申し出があった。村の人たちの関わりの大きさが解っていたので、それを承諾することにした。でも、今になって感じるのは、4月29日は気候がよければ、初夏の雰囲気すらある。春を待ち焦がれて祭りをするというような感情は薄れた。僕は毎年4月28日に、不動尊縁日の護摩を焚いて、護摩の札などの加持をする。
明日が3月。寺の祭典も2ヵ月後である。3月は法事や祭りの手伝いなどで、土日のほとんどに予定が入っている。4年後の2月29日には何を書けるだろうか。

2008年2月28日Thursday 晴れ
法螺貝。 今朝、牧丘の上求寺の祭典があるので、勤行の後法螺貝を吹いて、今日一人で祭りを行う妹弟子のためにPOWERを送った。6時半の外は寒かったが、風は凪いでいて、気はピンと澄み切っていて、法螺貝はよく鳴った。紛うかたなく牧丘へひとっ飛びしたことだろう。昼休みの終わりにこんなことを書いていたら、本人からメールが届いた。
「一人祭典です。雪の中奥の院と雄瀧、雌瀧の氷と流れる瀧の潔さに春への希望が感じられます。閏年の本年は後1日の我慢を越え春への活力と致します。信徒の方々はじめ、皆様方のご多幸を祈願勤めました。合掌・貴永 敬白…法螺の音色ははまだまだでした。」と。
ご苦労様でした。一年休みとなりましたが、来春は必ずや行かせてもらいます。一年に一度は、一年に何度もできないのですから、一年に一度の事を20回行えば、僕は齢70を越えます。一年に一度のことはだから大事です。

2008年2月27日Wednesday 晴れ
はしか。 昨年あたりから俄かに流行しだした“はしか”が、今年もその兆しを見せているようだ。今年に入って南関東を中心に既に2,200人の患者が出ているという。大学が休校になったり、海外への修学旅行生から発症が見つかり、現地に足止めを食らうなんてニュースも去年あったように記憶している。息子からも「母子手帳を送って欲しい」と言ってきたそうである。麻疹の予防接種歴を確認するためらしい。
予防接種に関しては、自然治癒力を信じて、一切の予防接種を受けさせないという親もいるらしい。それから、ほぼ発症例がないようなものについては、接種率が低下傾向にあったり、指導する側も、安心の範囲にあるという思い込みをすることもあるのかもしれない。で、これが突然表に出てくると大変なんである。結核患者が相変わらずあること、ポリオの発症があったり。子は、受けるも受けたくないとも意思表示しないので、当然これの責任は親にあると思わざるを得ない。ただ単に、予防接種への参加を怠けている無責任な親も多いのかもしれない。母子手帳を目にしたとき、「なんだ受けていないのか」と落胆する子の顔は見たくないものである。「一体お前は何をして子育てと向き合っていたのだ」なんて、抗議の眼差しを向けられるなんて事は避けたいものだ。
ニューヨーク・フィルが北朝鮮で公演したら、今度はエリック・クラプトンも北朝鮮公演を承諾したらしい。どうも、将軍の二男のジョンチョルがクラプトンのファンらしい。地下で大量に麻薬を製造しているらしい彼の国で、「コカイン」のフレーズを大合唱というのも一興かもしれんなぁ。

2008年2月26日Tuesday くもり
今朝は薄曇り。 これから天候が下り坂になるらしい。傘の用意だ。週末の春一番の大風が突然の役を運んできた。先ずは土曜日から。女房と娘は、義兄・義姉と一緒に1泊旅行へ。僕は午前中に護摩を一座焚き、息子の国家試験合格と療養中の方々の早期回復を願った。午後3時に放光寺の巡礼の会の参拝があったので、護摩の後片付けと本堂の掃除。午後1時から檀家の墓地の開眼があり、掃除を一時中断。そして掃除を再開しようとしたところへ、組内のKさん見えて、同じ組内のKさんが亡くなって今自宅に戻ってきたので、打ち合わせがあるから急いでくるようにと。実は今年度うちが組長をやっている。だからこっちが中心になって段取りを話し合う必要があった。檀家ではないので、葬儀のお手伝いをするということ。葬祭屋さんを頼むので、特に手伝いこともないが、1件ひとりが手伝いとして出ることとし、日曜の通夜、月曜の告別式と決まった。僕は一旦帰り、放光寺の巡礼の会の方々に説明など。終わって組内に配り物や、区長さん、他の組長さんに葬儀の日程を伝達。夕方少し歩いてその晩は、一人飲みながら、THE POLICEのLive。3人ともかっこよかったよ。
日曜。お不動様を研究のため拝観したいと約束していた、名古屋大生から「天候不順により、新幹線が通常運行となっておらず、身延線との連絡がうまくいきそうにないので、日を改めたい」と電話くる。この日は、随分と列島各地で天災があったようだ。午後3時半からの納棺に立会い、そのまま棺を会場の円光寺へ移動する手伝い。安置して正装に着替えて通夜の受付。風強く酷く冷たい夜。終わって再び棺を自宅に戻しこれでこの夜は終了。開けて昨日の朝。8時半に火葬場への出棺の手伝い。お見送りして一旦解散。正午に参集して告別式の裏方。組長の僕は、式始まりの別れの盃の介添え。大役大役。終了して初七日のお斎の席の献杯の発声も。日蓮宗円光寺のご住職は、つい先日、日蓮宗でもっとも厳しい修行、百日間の荒行を成満してお帰りになったばかりである。声は枯れ、その過酷さが伺える。そんなご住職に引導をいただいて、故人もさぞ喜んでいることだろうと話した。土日月と、のんびりと慌ただしく3日間が過ぎた。気持ちを入れ替えて、今日はこれから出勤。午後には教育委員会がある。

2008年2月21日Thursday 晴れ
今夜満月。 歩きながら見上げた満月は朧月。これもやんわりといい月だ。今夜はそんなに寒くなかったぜ。春になるんだなぁ。
今朝のテレビ。最近のはやり言葉に、超〜神(チョーカミ)があるらしい。秀でた人とか、想像以上のものを表現するときに使うらしい。若者文化のこの留まることを知らない、際限のない、制約されることのない、節操のない、自由奔放な言語感覚に、僕はチョー脱帽。ちなみに超〜民(チョータミ)もあるらしい。ボキャブラリーの貧困な僕は、「超〜民」以下かもしれない。戦後教育を受けるの中で、しっかり枡の中に正四角形に収まってしまっている僕の感覚の、なんて恐ろしい皇室のような中味なんだろう。

2008年2月19日Tuesday 晴れ
福無量。 この歳になると、由無し事に時間を費やしてみたり、様々なことを覚悟したり、決心したりしなければならなくなったりする。そういう年齢に到達しているということなのだろう。もうそう遠くない先には、決心することなど何もなくなってしまうかもしれない。家族のことであったり、寺のことであったり、自分のことであったり、友人や親戚のことに思いを馳せてみたり、心乱れることもある。他人の決心を聞かされるときもある。決心を迫られる時だってある。
どうにも仕方のないことはあるもので、老いや病を避けて通ることは先ずできないことだ。病については、以下に僧侶とて泰然と構えることが容易ではなかったりする。父もそうであったようだ。オロオロうろたえるという事ではなかったが、命を刻む時計の終焉が近づくにつれ、命を惜しみ、命乞いするような感じは伺えた。これは命を与えられた者にとっては、なかなかすんなりとは受け入れがたいのではないだろうか。順番どおりに、目上の者から去ってゆき、それを何度か繰り返しながら、自分の番になってくる。覚悟したり、決心したり、自分を説き伏せて去り行かなければならんのだ。
僕には今、気になる二人が存在する。どちらも、命に関わる事態につながる深刻さを秘めている。福寿海無量(ふくじゅかいむりょう)。観音経では福聚海無量。観音の徳は海の如く無量であるということだが、福寿海無量の方は、善行と寿命は海の如くに無量であるという。先日、長野の地酒「福無量」を飲む機会があった。或る病院の院長が、看取る患者の末期に、この酒を一口飲ませたあげたのだと聞いた。末期の水ならぬ末期の酒。最後に唇を濡らしたこの酒が永遠の味になって、その先にも福寿無量の世界が広がったのではないかと考える。

2008年2月18日Monday 晴れ
週末は少しのんびりと過ごさせてもらった。 土曜には「エルク」のガラクタ市に出かけた。デッキチェア2脚と、毛糸の帽子をひとつ。お店は中高年の方々で大変に混んでいた。中高年とは、僕より10歳くらいは上そうな人たちのこと。中高年のトレッキングブームなんかも手伝っているのだろうけど、この方々が目を輝かせながら、ウェアやブーツを手に取り語り合っているのだ。中高年のアイドルが綾小路きみまろなら、さしずめエルクは、中高年の生き生きサロンみたいなものだろうか。エルクは、私の従姉がオーナーに嫁いでいる店なので、年に何度か行くんだけど、お店の中をうろうろとするだけでも楽しいお店。大人が楽しめるお店ってのがいいね。本屋、レコード屋、アウトドアショップ。僕も楽しめるのはこのくらいかな。
土曜の夜は久々に開店の喜田へ。キムチ鍋、レバ刺、美味い日本酒。美味い日本酒は冷ですね。最後にお母さんのいつものうどん。さてさてたんまりといただきましたと思ったら、オーナーの一言で、さびしく宿直をするY君の部屋へ。ちょっと悲しいお話なんぞを聞いてあげて、ご苦労様。いやぁ、車を何度も走らせてくれた女房に感謝でした。
実は、ブルーレイディーガという優れものを手に入れたんである。今週末にTHE POLICEのLIVEの放送があるんで、これに合わせて手に入れたんだが凄い。ハードディスクも、50時間近く録れるらしいし。まっ、POLICEは恐らくこれが最後だろうし、ちょっと高い買い物だけど、東京公演見に行ったつもりになればね。ポリス見に行ったんだよね。すげぇ衝撃だったよな。スティングのベースとボーカルは当然よかったけど、アンディ・サマーズのギターのカッティングがメッチャかっこよく聞こえたな。
残念なことは、2月28日の上求寺の大瀧不動の祭典が、ご住職の都合で今年は取り止めにすると連絡があったこと。伺うつもりで楽しみにしていたが、今年は我慢するしかないか。夕べは初フキノトウ。フキ味噌で一杯。今夜はてんぷら。

2008年2月15日Friday 晴れ
被害者であるという感情の残る限り。 「友達の友達はアルカイダ」っていう、個性的な友だちの輪をお作りになっている鳩山法務大臣。「自動的に死刑が執行できないか」と自論をぶちまけ、絞首台へのエレベーターを常に運行させたいなんていう人非人。就任2か月で2度の死刑を執行し、今度は、鹿児島県議選の買収無罪事件(志布志事件)について、「冤罪と呼ぶべきではないと考えている」と発言した。権力のでっち上げにより1年以上拘置された者や、任意取り調べ中に親族の名前を書いた紙を踏まされた「踏み字」が行われたりした。まさか、百年も前の世じゃあるまいに。でっち上げのストーリーは書いてしまったら、筆を折るわけにはいかんというのが権力の姿勢なのか。馬鹿馬鹿しい。これに輪をかけたバカが、アルカイダの友達を持つ友達がいる鳩山邦夫だ。鳩は平和の象徴なのに...。
殺してはいけない。殺させてはいけない。殺すことに手を貸してはいけない。これが仏教徒の第1の不殺生戒の掟である。多くの国に迷惑をかけ、悲しみの出来事を作ってきたこの国。被害者であるという感情が相手に残る限り、この国に生まれた者は加害者である。加害者は地球上に身を晒しながら、戦争に反対していかなければならない。

2008年2月14日Thursday 晴れ
八ヶ岳。 ふたつの書類の提出があって、県庁の教育庁総務課と国際課へ行ってきた。相変わらず校内は混んでいて、駐車場所を見つけるのに2周してやっと確保。県庁の渡り廊下の外にある喫煙所は、行く度に思うがいつも混んでいる。側を通るだけでも煙が目に沁みるくらいだ。ま、どうでもいい。さっと出してささっと車に乗った。苦手な場所は早くに退散だ。で、一箇所寄りたかった場所に寄って急いだ。午後1時半からの役場での小会議を一つ済ませてからの県庁行きだったので、帰ればもう終業時刻近くになってしまう。途中浅原橋の上で渋滞。用意していたカメラで遠方の雲に覆われた八ヶ岳を収めた。八ヶ岳まで盆地の風景は何も遮るものがない。橋下の釜無川の風景もよかった。
何か力になりたくても、聞くことしかできず、そこの重みの中に入っていけないことはある。己が無力を思い知らされるときだが、今日もこんなことがあった。今夜は歩きながら、こんなことから次々といろんなことを思い巡らせてみた。そうそう、車でFM-FUJI聴いていたら、DJの西本淑子が「私は義理チョコはしない」と言った。「互いにそれを負担に感じたりすることが嫌だ」というようなことを言ったが、僕もそれには同感。今日がそんなに大事な日だったら、本当に好きな人にだけチョコレートをあげて気持ちを伝えるべきだ。負担に感じることの永久運動だ。永遠に踊らされている必要はどこにもない。今大切なことと、まったく「なんだこりゃ」みたいなもんがごちゃ混ぜになっていて、僕は今見つめなきゃいけないものを、うっかりと見過ごしてしまいそうな気がする。これでは困るんである。51にもなってふらふらしてはいかん。八ヶ岳の厳しさに恥じないように生きるべし。

2008年2月13日Wednesday 晴れ
檜の枝卸。 朝も風があったが、昼の常葉の風も一段と冷たかった。線路を越えていつもの山の墓地方面へ歩いていったのだが、檜の枝卸の時期らしく、公社造林地の枝卸に来た職人さんたちが昼休みをしていた。今なら柴燈護摩壇用の檜は十分にある。早春にお祭りをした自然や人間の暮らしとのかかわりが、この枝卸一つを知ることでもよく理解できる。
2月4日に開いた教育委員会の会議録がやっと仕上がった。途中葬儀で休んじまったりしていたのと、今回の議事録は、内容が少々厄介だったのでいつもより時間がかかった。私心を挟まずに、やり取りのすべてを羅列することとした。JETプログラムのALTの意向調査により、4人中3人の帰国意思が確認できた。残る一人は4年目を勤務してくれることになった。意外だったのは昨年の夏に来日した奴。まっ、慣れないというのなら仕方がないことだけど、でもなぁ、せめて2年は勤めてもらいたいよな。アメリカ人よりカナダ人の方が信頼に値するかなってのが僕の感想。アパートの契約のこととか結構めんどくさい仕事が待ってるんだぜ!ってなこと思いながら、
Dirty Dozen Brass Bandの「What's Going On」で、坂道スキップしながら下った。

2008年2月12日Tuesday くもり
また雪になるかもしれないような朝。 天気予報じゃ午前中雪になるとも言っているし、もう正面に見える醍醐山の頂は時雨れているような白い幕に覆われている。水曜の午後から木金、3連休とずっと休んじまった。葬儀があり、土曜日の雪を挟んで日曜には法事。別に遊び呆けていたわけではなく、本来の僕の役割をこなしていたのだ。週末に護摩を焚こうと予定していたが、葬儀疲れや土曜の雪があったので、先に延ばした。今回の雪は積もったが、サラサラの雪だったので、日曜の天候がよかったのですぐに溶けた。日曜の朝は5時半前に起きてお勤めをしてから参道の雪かき、墓地への道の雪かきなどで8時過ぎまで。翌日腰にくるかと思ったが、ウォーキングの効果だろうか、余り酷くはなかった。(翌々日くらいにくるかもよ)なんて女房に言われたが、今朝も大丈夫だ。2年ぶりに雪が降り、今日も降るかもしれないなんてね。
沖縄じゃまた、米兵による中学生少女の強姦があったと聞く。事実なら到底その行為は許されるべきものじゃないだろうけど、それから特権によって逃げてしまわれることなくことは運ばれなければならない。が、しかしだ。余りにも軽率で無防備ではないか。面識のない男のオートバイに乗って家に送ってもらうなど、それが必ず安全なものかどうかぐらいの判断は中学3年生ならできるはずだと考え込んでしまう。米兵だからではない。こんなことは日本人とだって一緒だと思う。米兵の行為は許されるべきものではないが、この女子中学生の行動が一番の問題だ。一緒にいた友人もなぜこれを止めることができなかったか。これが不思議でかなわないというのが僕の率直な感想。沖縄にも雪を降らせて、頭の中少し冷やして、冷静な判断ができるようにさせてあげたいとも思う。

2008年2月9日Saturday
大雪になりそう。 大雪になりはじめた。葬儀は昨日でよかった。もう7.8センチ積もっているが、昨日は納骨が今時分(16:45)だったから、まったくもって昨日でよかった。
適当な時間に止んでほしいが、どうなるんだろう。自然に対しては無力だからな。これはきっと竹が相当折れそう。雪かきも必要になるか。沖縄で遊んでいる人たちはいいなぁ。僕も芋焼酎早めに飲み始めるか。

2008年2月7日Thursday 晴れ
松さんの通夜。 午後3時半から納棺。そして通夜。馬鹿な僕は袈裟を持っていくのを忘れて、通夜の始まる直前になってないことに気づき、女房に電話して、最悪、輪袈裟でも仕方ねぇかと思いながらも奇跡を信じ、なんと6時3分前に届いたのであった。イカンイカン、ボケが来たのではないぞ、しっかり確認しなくちゃ。
通夜を済ませ帰ってくると、なんだか少し疲れ。悲しみも徐々に湧いてくる。熱燗をつけ飲みながら、再放送の「ちりとてちん」は、これまた師匠の入院シーンで、今日のは泣かせるのだ。終わって、これではいかんと、キース・リチャードのLive観る。1時間半ほどしっかりとご機嫌に楽しんだ。Showだね。1993年のLiveだったけど、やっぱキースいいわ。ぐれ方もチョー一流だ。キーボードのアイバン・ネビルもいかしてた。
これでさっぱりして風呂入ってさっぱりして、明日の葬儀はばっちりね。

2008年2月6日Wednesday くもり雪など
高松安義さん逝く。 天候が崩れてきそうな昼休みを、寒い寒いと歩いて事務室に戻ったら、窓の外に雪が舞ってきた。午後の仕事を始めて数分後にケータイが鳴って女房からで、高松さんが亡くなったという知らせ。とうとう逝ってしまったか。寒い時期だもんなぁ。ということは後の予定を考えながら、課長にこのまま明日、明後日も休みになると思うと伝えて帰宅。昨日の午後から、ちょっと厄介だった教育委員会の議事録を作っていたところだけど中断。他に今週中は特別な仕事もなし。帰って着替えて枕経に行く。昼前に息を引き取ったということで、すでに組の方たちも集まって、葬儀の相談などもしていたようだ。(というか、僕の都合などは無視ですでに予定が葬儀社含めて出来上がっていた)。サラリーマンの僕にとってはこのことはホントは困ります。でも、こっちの予定もすでに確認済みだったのでOK。明日の通夜、明後日の告別式。いずれも下山のセレモニーホール。脇僧に不動寺の叔父親子を頼む。ここもOK。
祖父がすでに逆修で戒名を授けていたのでこれも考えなくていい。高松さん夫婦には子供がいなかったので、先に亡くなった奥さんと、早くに祖父に戒名を付けてもらっていたのだ。「大寿院高観安泰居士」。届けられた塔婆に名を書いて、なんかスケールのでかい戒名だなぁと。僕にはこんな戒名まだ付ける事ができないな。でも、明日の通夜、明後日の告別式しっかりやらなくちゃな。

2008年2月5日Tuesday 晴れ
息子の大学のHPを覗いてみた。 こんな告知がされていた。
「至急!【4年生全員】就職システムへの入力について [2008.01.11] 以下の情報を、就職システムに未入力の4年生は、大至急入力すること。
●進路カード(全員)
●内定報告(就職内定者・進学決定者)
●試験報告(就職試験・進学試験受験者)
なお、「就職内定届」を指導教員に提出していない学生は、至急提出すること。」


女房から、息子から電話があって、卒論の提出も済ませたと聞いた。既に大学院への進学が決まってはいるが、まあこれで大学は無事卒業の見通しはついたか。後は臨床工学技師の国家試験が3月2日に待っている。一ヵ月後に向けて、勉強にも励んでいることだろうとは思う。彼には全く手がかからなかった。大学を選択するのも、自分でインターネットしながら情報を得て、希望する大学のAO入試に臨んだ。AO入試など親は知る由もなかったが、自己推薦というシステムで、基本的に学校から推薦してもらう必要はなかったのである。アウトロー的な生き方の彼なればこその選択と、かつてのヒッピー親父はそれを頼もしく思ったものだ。高校3年の6月頃から作文や面接などが何度かあり、作文の添削なども手伝いながら、AO入試とやらをこちらも少し楽しんだ。9月の彼岸に合格の発表があり、無事合格。卒業までの半年以上を残して彼はもう、高校生活への未練など断ち切って、半独立の生活への期待だけではなかったろうか。彼が家を離れたかった一つには、僕との軋轢もあった。
みんな昨日のことのようではあるが、息子には何も心配がなかった。定期的な仕送りさえ滞らなければそれでよかったのである。アルバイトをするには厳しい学校生活を送りながらも、それなりに音楽も楽しみ、長期休暇にはアルバイトもし、盆暮れには家に帰り、4年生の始まりから、数ヶ月の臨床実習もし、彼は彼の生き方を模索する中で、大学院への進学を決意した。僕も女房も彼の進もうとする道を折ろうとは思わない。寺に生まれたが故に、僧侶にならなければいけないという時代ではない。人一人亡くなれば空き家になってしまう集落の、少ない檀家は、櫛の歯の欠けるが如くである。欠けた歯は戻ることがない。むしろ僧侶を選択するより、資格でも得て、若い時代を羽ばたけと後押ししたいと思う。
僕はこんな風に彼のことを思いながら、行蔵院のご住職からいただいた琵琶盲僧:永田法順師の和讃を朝に夜に聴いている。弥勅和讃・弘法大師和讃・入定和讃・弘法大師母御前の和讃・光明真言和讃。僧侶になって僧侶として生きて終わるということの容易ならざることが、今の僕の日々の明け暮れ。

2008年2月4日Monday 晴れ
立春の青空、立春の星空。 雪の翌日は晴れ。だが今朝の道路は最悪だった。Keith RichardsのDLした映像をDVDに焼く時間の計算誤りで、早く出かけるつもりが8時を過ぎてしまったので、いつもの一色周りを選択したのだが、もう車庫に行く道から道路は凍てついている。町道もそう。新聞配達の女の子も、足元を確かめながら滑らないように歩いている。一色の上りから随道を抜けて下り。路面の凍結はちょっと怖いくらいで、そろそろそろそろと下った。昨日の午後からは雨だったので、雪はそんなに残ってはいないが、道路の凍てつきだけは酷かった。
昼休みに清澤から大炊平へ。空は真っ青天気もよし。立春の青空。
午後は1月の雪で延期した教育委員会。1時半から5時近くまでみっちりと内容濃く。終わってどっと疲れ。それから小便も腹に満タンだった。
帰宅後BSで「元祖でぶや」見ながら晩飯。我が家は月曜にこれを見るのが決まりになった。なんだかほっとするんだよな。決して粗末ではないが、画面の向こうで食っているのがこちらの食事にも漂ってくるようで。
夕飯後星空見ながらウォーキング。オリオン座が今夜は鮮やか。きりりと冴えた冷たい立春の星空。今日からがまた新しい一年なんだな。

2008年2月1日Friday 晴れ
如月の春呼び列車出発。 2月に入って、今日はあたたかい日和だった。厳寒期だけれども、天候さえよければ日中は気温が上がる。梅の開花も早くなり、我慢しきれなくなったフキノトウも顔を出すかもしれない。3月のお祭りの予定が2つ決まった。9日に不動寺の祭典。16日には西光寺秋葉山の祭典。西光寺は柴灯護摩。瀧本院、松鶴院ご住職にも助法いただける。やっぱりお祭りに臨めることは楽しみだ。春が来るのは、幾つになっても心浮き浮きする。日曜日が初の支所での日直なので、長い一日をどう過ごそうかと考えたら、西光寺とうちの祭りに使う、御幣やシメを切るのにちょうどいいと思いついた。
如月(きさらぎ)という呼び名がなぜか昔から好きで、調べてみたら、今のこの厳寒期には、着物の上に更に着物を重ね着するようなことから「着更着(きさらぎ)」という説があるそうだ。

2008年1月31日Thursday晴れ
旅費を助けてください。戸締りをしようとしたところへ、旅の途中の男性が現れて「旅費を何とか助けて欲しい」と、懇願された女房が僕のところへ相談に来た。「飯か?」と聞いたら、金だという。500円を渡すことにした。今朝改めて夕べのことを聞いたら、寒い中を歩いてきたらしく、顔も手も指先も真っ黒であったという。これは凍傷にでもなり始めていたのだろうか。国道52号を季節によって、南北に通過するこのようなホームレスの人たちが昔から寺には訪ねてくることがある。かつては、ご飯を食べさせてもらえないかというようなものであったが、近年は、ストレートに金をいくら欲しいというようなことを言ってくる者もある。欲しい側には、私たちが何を差し出そうが、それを先に指定することなどできないはずだと思うが、そうではなくなりつつある。以前、社会福祉協議会にいたときにも、年に何度か金を貸してくれと来る者がいたが、町々の社協に寄れば、懐はかなり温くもなったことだろう。こちらもそれを見抜けないわけではないので、周辺の社協と「このような風体の者が訪ねるが、わが社協で千円を貸したので断ってもいいだろう」などの連絡を取り合ったりもした。貸せないというと、逆に凄んでみたりする横柄な輩もいた。大抵金は返ってこなかったが、極稀に、千円貸す時に持たせた「振替用紙」で一年位してから戻ってくることもあった。このような人は、ここで借りたことをいつも気持ちの片隅に置き、自立することに相当がんばってきたのだろうなと、その一年間が偲ばれた。
今の時代は、人が人を信ずることからではなく、訝しむことから入っていくことが多くなった。無下に断って、こちらが危険な状況に陥ることも想定しなければならないので、我が寺では、金を所望されたときには、500円なら渡そうと女房と決めてある。ただ寺では、先述の社協での経験のような、望みがかなわないと開き直る輩が訪ねてきたことはない。布施されたものを、困窮者に返して差し上げるという寺守の気持ちは、言葉なくとも、山門に入るときの指切りとなっているのかもしれない。
余談:私の祖父にまつわる行路人との話である。戦後はこのような人たちが多く、寺にはよく現れたということだった。或る時訪れた男が、寺の作務を手伝うので暫く置いてほしいと願い出た。祖父はまあいいだろうと使ってやることにした。夜になって、食事を取りながら酒を飲むかと訊いたら、「焼酎がいい」と応えたらしい。それで次の日に焼酎を買って飲ませてあげたらしい。祖父はそのときまで焼酎はたしなまなかったらしいが、一緒に飲んでみたら、旨かったらしい。その時から祖父の晩酌は焼酎になったという話し。僕の酒好きは祖父からの遺伝である。父も好きだったが、とことん飲むという性格というか、酒癖は「親父はパスした」。祖父は、昼にも湯呑に焼酎を一杯飲んだ。朝も飲んでいたかもしれない。夕は自室で晩酌し、晩御飯を食べに台所へ集まるときには、湯呑の焼酎を手にしてきて飲んだ。無くなると僕か妹が、100メートルほど離れた一宮商店へ布袋に2本空ビンを提げて買いに行った。100円が駄賃だった。祖父の焼酎は今の飲み方とは違い。ビンから湯呑に注いだ焼酎をそのまま飲んでいた。祖父の酒好きはかなり高齢になっても続いていた。檀家によばれた夜なども、しこたま飲んで、石畳ではなく、端の犬走を、石垣に身体を任せながら歩いて戻ることもあった。僕は、こんな祖父を頭の奥底で「こんな風になりたい」と思っていたのかもしれない。祖父:石田永城(1896-1988)。

2008年1月30日Wednesday晴れ
会計検査。 文部科学省の会計検査があったのだが、拍子抜けするくらいの短時間で終わってしまって、検査官も何日も連続仕事をしていると、緊張を持続できなくなってきてしまうのだろうなと、「やっぱり官僚も人間の子だわ」と、「これで検査をすべて終了します」と挨拶して、S小学校の玄関から帰っていった20代後半位の年恰好の彼の心中をなんとなく察したのだ。肩でもポンと叩いて、栄養ドリンクでも渡しながら、「お疲れ!」なんて発してみたかったが、こういうものは、触らぬ神に祟り無しなのである。
大量の書類を本庁の2階に運んで、またそれを車に運んで支所に戻ってきた。主担当のSリーダーの「お疲れ様でした」は心がこもっていた。年末の情報入りから今日までのことを思うと、彼もやっと安堵できるのではないか。彼こそに僕たちが「お疲れ様」と言わなければいけなかったのだろう。帰ってきた狭い執務室には当然暖房も入っていたが、なんだかホッとホッとした、クリオネのようなものが回遊しているような気がした。

2008年1月29日Tuesdayくもりくもり
エイサー。 沖縄っぽいネーミングだよね、カタカナで書くと。acerのノートPCを新しく買った。僕が社協に行くときに買ったノートを、台所で女房が使っているけれど、いよいよ動きが鈍くなってきたり、キーボードのキーが剥がれてしまったりしてきた。彼女は主に、ネット検索と、生協の注文のために使っているので、ワードとかエクセルも入っていないPCを買うことにした。いつもお願いしているT屋さんから、エイサーの機種が安くていいと勧められた。10万円をかなり下回る安さである。10年前に買ったノートは、消防団の退職金40万円をほぼ全額つぎ込んで買った。それが、今回届けられたものは、はるかに高級感に溢れてもいるし、容量も比較にならない。日進月歩を感じた。10年か11年ほど前に初めて買ってから、もうこれがないと寺の仕事もできなくなって、子どもたちにも早くに触れさせてきた。数えてみたらもう7台目である。時代が大きく変わった。

2008年1月28日Monday晴れ
護摩木。 土曜に節分のお札作り。昨日は護摩木作り。今日は『初不動』。厳しい冷え込みの日が続く。テックス・メックスやブラスバンド物など聞きながら、鋸、鉈、斧振るう。寒いがしばらくすると体の芯から熱が湧いてくる。これが生きていることの実感だ。百八支は、作るのにかなりなロスが出るが、これらも点火の補助用にできるだけ取っておく。雪の翌日に強い風が吹いたので、これまた、点火用の杉っ葉も拾い集める。午後3時過ぎにウォーキングに出かける。途中梅の古木に花がちらほら開き始めているのを確認。古木の胴には、新年の松とシメが縄で巻かれており、神の宿る木の梅は早いのかなとも思う。1時間ほどで帰り、そのまま風呂場で頭を刈る。メッチャ寒いという度を通り越して、指が千切れそうなくらい。熱いシャワーを浴びてから、本堂で終いのお勤め。悔いの残ること一つ。土曜に寄ったコメリで、ツツジとサツキの苗が、値が下がって全部50円になっていたので、買おうかなと思いながらも帰ってきたのだが、昨日、本堂の護摩壇の支度の後に、思い立って11時頃買いに行ったら、ちょうど先客が、ほとんどの花木をみな買い占めてしまっているところだった。お目当ての苗も全部ダメで、がっかりしてUターン。ちょっとショックね。後悔は先にたたず。立春でまた運気が変わるかもしれない。1月最後の一週間を手堅く過ごそう。娘は昨日の夜春休みで帰省。女房もノロウィルスが下火になり、今日から晴れて職場復帰。

2008年1月24日Thursday晴れ
コピー用紙が...。 日本製紙による「年賀再生紙はがき」の古紙の配合率問題が発覚して、自治体へもその影響が現れた。グリーン購入が課せられているので、当然、偽りの古紙再生コピー用紙は使えなくなるし、業者もそれを納入できなくなっている。管財から、新たな契約を進めているので、在庫が乏しい場合にはほんの短い期間なので我慢してくれと。
食の偽装からの流れが、ここにまで及んだ。この偽装というやつ、これは止まることを知らんな。だって、わからなきゃいいんだもんね。わからなきゃいいってのは、果てがない。中沢川の河川公園でこの間見つけた、洗濯機もそう。昼休み歩く道路の空き缶もそう。僕が時々する、庭に出ての立ちションもそうだ。(この立ちションは、今日みたいな快晴で気温が上昇し、雪解けの進む日には、蒸気となって上がるときムワーッと臭気を発する。実は、30年程前に、喜多郎の所へ居候をしていたとき、汲み取り便所しかなかったので、小便はいつも庭に出て、谷底へ飛ばすような気持ちでしていた。彼曰く、「小便をしておけば蛇避けになる」だった。)脱線した話の方が面白いか。偽装ねぇ。例えば、無農薬食材のレストランで、菜食主義者たちが満足げに食事をしていて、うんちくも垂れて、でも、実は「農薬タップリの食材だった」なんてことがわかったとしたら、どんな顔をすればいいんだろう。恐らく味覚で判断なんかできないんじゃないだろうか。真摯(紳士)であれということに尽きるのではないだろうか。

2008年1月23日Wednesday
雪の一日。 止む様子はなく、力強く降っている。明日の朝は凍って道路が厳しいだろう。雪用の長靴を持ってきたので、昼休み履き替えに行き、そのまま少し傘を持って歩いてきた。屋根の雪も、南天の雪も、集落の風景もきれいだ。寺の竹林はこの湿り気を十分に含んだ重い雪で、爆竹のように音を立てて折れて割れている頃だ。
(12:45)
(17:38)久那土中の英語指導助手が、ストーブ一つでは寒くてかなわないと泣きを入れてきた。ついこの間、ストーブが壊れたといって、役場の古いのを一つ持っていってあげたときは、年末年始でカナダに帰国した彼は、「カナダは寒かった」と言っていたのに、温度に慣れてしまうと、この国も寒い国だったか。今日もまた古いのを一つ持っていってあげた。峠越えの県道を走るのは少しためらいがあったので、遠回りでも下部温泉から、下山経由で国道へ出て、西島から鴨狩経由で久那土へ行った。久那土中の校長先生がひとりで、駐車場の雪かきをしていた。校長ってのは、学校のお父さんだから、何でもしなければならんのだ。上に立つ人はある意味孤独なんだよね。2時間ほど早く帰らせてもらったので、参道の雪かきをしようと思っていたが、すでに女房が雪かきをしてくれていた。時間は長く降ったが、思ったほど積もらなかったのだ。僕は女房のカーポートの屋根の雪をホースの水で流し落とした。竹林も雪折れの竹はなく、何本か首を垂れて、先を雪に突っ込んでいたので、払って上にソレーッと、身体を戻してやった。熱燗を飲もう。

2008年1月22日Tuesday晴れ
JAZZの日。 「JAZZの"JA"が"January"(1月)の先頭2文字であり、"ZZ"が"22"に似ていることから。」とは(ウィキペディア)から。朝ラジオを聴いていたら、今日はカレーの日でもあるようだ。1月22日の数字の並びは、カレーとは縁がなさそうで、学校給食で今日をカレー献立の日にしようということが発端のようである。
目の前にあるジャズ関係ものは、Nils Petter MolvaerのDVD。Miles Davis Quintetの1969年11月7日のベルリンでのLiveのDVD。Mahavishnu Orchestra。Egberto Gismontiなんか。ほとんど統一性がない。でも、僕の中では大きな位置を占めているジャズの音たちではある。で、今書きながら聴いているのはボブ・ディラン。
で、今朝は、阿佐ヶ谷で40年以上もJAZZにこだわり続けているYさんからのメールが、これまた僕のJAZZの師匠より転送されてきたのだ。ジャズの日。

2008年1月21日Mondayくもり
いくつかのこと。 昨日は、檀家の墓地改修にあたる「撥遣作法」を午前中。午後2時から、消防自動車の入魂式。墓地の改修は、亡くなったご主人の生前の希望を奥さんが適えるというもので、二人の夫婦墓を建立する。○○家の墓という、墓碑はもちろん建っているが、隣りに二人のものを作るのだという。あらかじめ調べておいたので、作法が終わって、代理で来られた娘さんに「刻む建立者の名は、お母さんより、墓の後継者にするのがいいのではないか」と話したら、「墓地の後継は望めないかもしれない」と返ってきた。いささかびっくりしたが、なるほどそれも在り得るかなと、今のおうちの状況を思うと肯ける思いがした。冷たい風が吹く墓地に、なお更にこの地に生きることの難しさが思われた。檀家の数が減ってはこなくても、後をとる者のない家が多い。後継がなければやがては無縁墓となってしまう。檀家は物心両面ともに、寺を支えることはできないだろう。何でこの場所はこんなに疲弊してしまったのか。車でわずか1時間も走れば、人口が増えて、檀家も増えていっている寺は幾つもあるのに。決して暮らしにくい場所ではないが、どうも就労問題に一番の難があるようだ。消防車の入魂の後に、下山の養老乃瀧で飲みながらこの話もしたが、一様に働き場所がないことを憂えていた。
養老乃瀧なんて、何年ぶりに入ったろう。ここでも送迎をしてくれている。飲んで話をして、この愛すべき仲間たちは、タイミングよく退団してしまった僕よりも、ずっと長く団員として勤めている。後が入らないと、やめられない事情が一番大きい。ここにもあそこにも、どこにもいっぱいここの暮らしの、古木の洞の空気が浮いている。

2008年1月17日Thursday晴れ
阪神大震災から13年。 職員健診があるので今朝はご飯を食べる必要がなかった。早朝のテレビでは、震災から13年の今朝の祈りの風景を映し出していた。「千の風になって」も流れてきた。ご飯を食べる必要がないので、ゆっくりと朝のお勤めをした。理趣経を一巻あげ太鼓を打ち、僕なりの鎮魂の思いを送った。ここのところ朝の冷えは厳しい。震災の朝もこんなに厳しい寒さがあったのだろうか。そして家を失い、家族を失った多くの被災者の、その日の朝以降の暮らしのことを思うと切ない思いが湧いてくる。
今朝の八日市場には、薄い青空がある。神戸も夜が明けて、青い空と白い雲があるだろうか。それでも生きてゆかねばならぬのだということだろうか。

2008年1月15日Tuesday晴れ
ノロウイルス禍。 ノロウイルスの煽りを食らったのが女房である。今週は仕事を干された。ノロウイルスが流行っているので、配食サービスが今週は中止になった。午前中この弁当づくりに行っている彼女は、体調は頗るよいのだが休むこととなった。仕事がなければないで、これ幸いと、家のこととかやることはあるのだろう。別に落ち込むほどの問題ではない。
ノロウイルスに罹患した入所者や働いている方が、一番の被害者なのである。インフルエンザとか、このウイルスとか、近年の冬は結構これらが重篤だったりする。我が家でもインフルエンザの予防注射を受けていないのは僕だけで、職場の仲間も大勢受けているようなのだ。ただ、ありがたいことに僕は余り風邪を引かない。坊主頭はいつも冷えているし、週に一度は、真っ裸になって冷たい風呂場で頭を刈ったりしているのが予防になっているのかもしれないと、勝手に思い込んでいる。
ポール・サイモンの「ソングブック」を買った。先週、BSで見た「サウンド・オブ・サイレンス」にまつわる番組がよかったからだ。S&Gのアルバムは持っているが、ソロのものは持っていなかったし、ポールのこのアルバムのことも知らなかった。S&Gの1st「水曜の朝、午前3時」が不発に終わって、ポールはイギリスに渡り、そこで全編彼のギター1本のみのアルバムを作る。「サウンド・オブ・サイレンス」も収められている。改めて彼の詞を読んでみたが、若いがゆえに書ける詩であり、ギターテクニックも、詩人としても秀でた才能を感じさせる。しょっちゅう聴く物ではないかもしれないけれど、1965年発売という、40年以上も前の作品だが、全く褪せていない本物を聴いたことは確かだ。

2008年1月14日Mondayくもり
寒い、寒い。 雨は昨日も今日もなかったが、気温が上がらない。太陽がない。外はめちゃくちゃ寒い。
昨日は獅子舞。同志会の諸君らは、一日をかけてゆっくりという腹積もりで、寺に来たのはいつもより30分以上遅く、正午を回った頃だった。最近は小学生たちが大勢付いてくれているので、賑やかでいい。僕はもう完全に後方支援に廻った。
午後3時前に、Wさん親子来て、2月からのブラジル留学のために、旅行安全・学業成就の護摩を焚く。息子さんはちょうど成人になられた方。護摩を終えて、庫裏でお茶を飲んでいただいた。Wさんとは「禁酒塔」が縁をもってくれた。下部の実家に寄るのだといって、親子3人でまたお帰りになった。20歳の青年は細身の身体に細身のスーツを着込み、Mods lookのようで、僕が20代の頃に聞いた英国のパンクロックの匂いがした。
若者は、何を着ても似合う。そして何にでもどーんと向かっていける。うちの息子も同じだ。赤い髪をして、長く垂れたイヤリングをしても、それが十分に似合っている。
寒くて嫌だったが、元気を振り絞って護摩壇をきれいにした。何をしてももう似合わないかもしれないが、よい護摩だけは焚きたいと思っている。

2008年1月11日Friday晴れ
週末の天候が心配。 明日の夕のどんど焼き、明後日の獅子舞と、小正月の行事が続くのに、天気予報は情けない。何とかもってほしいし、回復してくれたらと願わずにいられない。直接の関わりはないにしても、それを過去携わった者として、いまの後継者らを明るく照らし続けていたいと思うからだ。
「ちりとてちん」でクローズアップされている。若狭の「焼き鯖」を友人からお裾分けいただいた。立派な一匹で、夕べは食べなかったので、今夜一杯と一緒にね。焼き鯖で検索していたら、「若狭の焼き鯖寿司」は出てくるのだが、丸々一匹のこの焼いてある魚は、温めて、身をほぐしてからでも食べたらいいのだろうか。
見つけた!生姜醤油、大根おろしなどで食すといいと書いてある。おー、今夜が、たッ楽しみだぁー!!

2008年1月9日Wednesday晴れ
白馬錦。 夕べは、小正月の獅子舞の練習が始まるということで、僕がここ何年かは、会長が持つお宮の幣(ぬさ)の垂(しで)を切ってあげているので、作って持っていった。歩いた後だったので、ビールが旨くて、その後焼酎になり、そろそろ引き上げようかという頃になって、「白馬錦買ってきてあるんですよ」という話で、そりゃぁ飲みたいなという懐かしい気持ちになって飲み始めたら、結局11時30分を超えてしまった。
長野で落ちぶれていた時期があったが、その時に飲んでいたのが白馬錦であり、「大雪渓」「南アルプス」「金襴黒部」などの安曇野の酒だった。中でも、白馬錦はもうほとんど毎晩であった。冬の夜にストーブの部屋で、野沢菜をつまみにコップ酒するこの冷たい酒が凄く旨かった。もう、28年位前の話ではあるが。
年末年始の山岳遭難が、過去5年で最も多い20件だったらしい。毎年同じようなニュースを聞くが、登山に興味の無い僕にはわからないことだが、遭難や命を落とすことまで想定して登ることがあるだろうか。あるかもしれない...。冬山の天候の気まぐれと厳しさを十分に理解しながら、それでも魅力のある山の自然なんだろうけど、悲劇を聞く側としては、こういうニュースは聞くに堪えないものがある。安全に、十分に安全な準備と登山計画と行程をとってほしいと思う。
箱根駅伝で3校が途中棄権という、史上初の汚名を残す結果となったが、この件に関しても識者からの意見を読むことができた。脱水症状を起した選手、踏み切りで爪先を痛めた選手とも、そこに至る理由があったようである。選手自体の体調が十分ではなかった。シューズが足にしっくりときてなかったなど。波乱のあるのは、ドラマを見るより遥かに視聴者にとっては、どきどきと面白いものではあるが、健康を害してまでやらなければならないものではあるまい。山だって駅伝だって、命があってその価値が報われるってもんだろうに。

2008年1月8日Tuesdayくもり
夕べの雨で今朝は寒さがゆるい。 富士川は霧に包まれているのだろう。寺の方にも流れてくる。物干し竿に雨粒が残っている。凍ってはいないので冷え込みは少ないのだ。身体もそれを正直に感じる。まだいけるか。この感覚がなくなったらいよいよ赤信号なんだろうな。
今朝のお勤めには、寺の信者さんのところで、お一人の手術があるので、無事に成功して元気になることを祈った。暮れには護摩も焚いたので、きっとお不動様が手術室まで飛んでいって、見守ってくれるのだと思う。観想するという概念が真言宗にはある。ポジティブに物事をとらえていくのである。Positive vibrationだ。Bob Marleyなんである。「「ラスタマンバイブレーションはポジティブ I&I(みんな)前向きだ 人間の想像力は永遠だ   ポジティブバイブレーションはゆるぎない」。

2008年1月7日Mondayくもり
七草粥。 朝、粥になるのかと思っていたのだが、そうではなかった。支所周辺の小正月の柳を見歩きながら、七草粥ではなかったなと思ったりしていた。終業近くなって冷たい雨が降り始めた。今夜は歩けないなと思いながら帰宅すると、「粥」だった。“せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ”ではないが、すずな・すずしろの蕪・大根は入っている。確かに胃は暴飲で疲れきっている。正月からはじめて飲まなかった。粥を2杯食べて、優しく身体を元に戻すのね。
ERIC CLAPTON「Wonderful Tonight」も、耳に身体に頭に&ハートにやさしくいいね。

2008年1月6日Sunday晴れ
少し寂しくなった。 天気はよかった。娘が東京へ戻り、正月の飾りも休日なので片付けた。華やかさがなくなり人も少なくなって、冬枯れの景色ばかりが目に付いて、なんだか少し寂しくなった。護摩壇をきれいにして、来週の日曜に焚く護摩の支度を済ませた。午後3時から1時間ほど歩いて、気持ちのいい汗をかいた。汗をかいた身体で風呂で頭を刈った。初刈り。明日からはまた平常の勤務だ。
今夜からは新しいNHKの大河ドラマを見ることにする。

2008年1月5日Saturday晴れ
他村への御札配りにいく。 朝8時過ぎに家を出て先ずは、富士ヶ嶺へ。曇り空だ。本栖湖へのトンネルを抜けても、正面に見えるはずの富士は隠れていた。湖畔を走る道路の端には、雪が残っていた。気温は0度。Eさんの家に着くも寒い。地面が凍っている。新年の挨拶をして御札を差し上げ、15分ほどお茶を飲みながらお話して辞した。「昨日の朝は富士が好く見えた」と、帰省中の娘さんが話してくれた。精進湖線を下りて、いつもは市川大門の檀家によるのだが、今日はそのまま中道まで下って甲府の檀家を先に回ることにした。精進湖は湖畔縁が結氷していた。雪があってもおかしくない季節だし、実際雪道の精進湖線を気をつけながら下ったこともある。右左口に出る辺りから甲府盆地が望めて、陽が射してきた。暖房を一旦止めた。エベレストでも活躍というズボン下が暑くなった。留守の家もあったが、4軒に御札を配って戻る。土曜なので道は少し混んでいたように思えた。
昼食を家でとって午後1時に後山へ。2軒だけの集落。2軒で集落といえるのかどうか疑問だが、2軒で3人が暮らす。どちらもうちの檀家。不思議なことに行政区分上は、曙地域に属すのだが、後山(うしろやま)の字は、うちと同じ八日市場なのだ。Eさん夫婦は高齢となり、身体の調子も芳しくないので、一昨年の秋に酪農を辞めた。彼からも「限界集落」なる言葉は、コタツでおしゃべりをする間に何度も聞かれた。なんでこんなに狭い国土なのに、人の集中する場所と人の住まなくなってしまった場所の格差が激しいのか。寺も檀家もそのうち立ち行かなくなる。車で一時間程度の人口の増えている同じ真言宗の寺では、墓地を区画分譲すれば、すぐに売れてしまうのだという。頭を抱える坊主頭は、こんな情報を耳にすると耳ばかりが大きくピンとなるが、すぐに象の耳のように垂れ下がってしまう。

2008年1月4日Friday晴れ
仕事始め。 毎年の事ながら、暮れは慌ただしく諸準備などで追われ、「早く新年になって欲しい」なんて思うけど、年が明けてしまうと、なんともあっけなく3が日が過ぎてしまう。息子も昨日大学生活に戻っていき、娘は6日に戻ることになる。息子には大学の卒業と、3月に国家試験という大きな目標が残っている。何も手伝ってあげることはできないが、新年の護摩に僕の思いも託した。彼も護摩木に何か祈願して炉に入れたようだった。大学院の生活が始まる予定なので、あと2年は学生の身分である。
上り坂にある者の溌剌とした生き様の一方に、もう若くは無い僕の残りの人生がある。昨年は3が日が明けて、檀家に不幸があり、6日に葬儀をした。6日の朝は雪の景色となっていた。寒さ冷たさが、この冬は余計に辛く感じてしまうような弱体である。どうも気になって、午後2時半で時間給を貰って帰宅。やっぱり4日に配るものは配りたいという気持ちが湧いてくる。集落内の檀家への札配りを済ませる。心残りのない一年にしなければ。さて、さて、さて、気持ちも身体も日常モードに切替えなくちゃな、と思いつつも今夜も飲んでしまったが。

2008年1月2日Wednesday晴れ
暖かな正月です。 大晦日の夜は寒さを余り感じなかったので、お参りの方も例年のようにあったようで、都留と大月からも、いつもの方々が来てくれた。戊(つちのえ)子(ね)歳。戊には、「万物が繁茂して栄える」の意があるようなので、ネズミのように細やかに、まめに仕事をしていけば、鼠算式に飛躍的に成長して栄えるのではないかと思う。
今朝は早くから、東京から増穂の実家に里帰りする途中だという、加賀美さんという方の4人が立ち寄ってくれた。加賀美の子孫だという。大聖寺のことは知っていたようだが、初めて寄ってみたといって、40分ほど本堂でお話をさせていただいた。こんな出会いがあることを新年早々の、吉兆のように思えるのである。
箱根駅伝も、山梨学院が今4区に入って、首位をキープしている。久しぶりの快走ではないか。このまま往路の最後5区の坂登りも制して勝ってほしいと思う。