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『徒然日誌』 2009年1月から12月

2009年12月31日Thursday くもり
晦日、これで終わりにします。
皆さん一年間いろいろとお世話になりました。キリがないので、今年もこの辺りで締めとさせていただきます。
朝から御札の申し込みが何枚かあって、こちらとしては嬉しい限りでした。昨日まで出ほとんど済ませてしまっていたので、余裕からか、午前中には護摩木を割ったり、ゆっくりと墓参もできました。寺の墓地から、上下のお地蔵様、無縁仏などを回ることができました。暖かな日になることを予想していたのですが、風花の舞う寒い日となっております。大雪に見舞われている列島の町もあると思いますので、ここのこのくらいは大したことないのです。結局大晦日までには、風邪の症状からの完全回復はならなかったようで、強い声を発することができず、これだけが残してしまいそうな悔いです。
後8時間後には年越しの護摩を焚きます。僕につながってきた人たちの健康であること、世界の平和などを、53歳心をこめて祈らせていただきます。合掌。

2009年12月30日Wednesday 晴れ
ほぼ年越しの準備終わる。
暖かな年の暮れだと思う。寒くないのはありがたい。体を動かすのも楽だ。朝の勤行の後、7時過ぎにクルマへの給油に行く。さすがに他には1台しかいなかった。息子は夕べ11時半過ぎに、友人に送ってもらって帰ってきたとのこと。全員が揃ったのは去年の年末以来だ。兄妹が同時に帰ってくることはほとんど無い。こんなことにも慣れてしまったな。30日の今日、鐘楼、三社天神、庚申堂へシメを飾った。シメをあまり早く付けてしまうと、風で飛ばされてしまったりする。今日も午後3時ころから少し強い風が吹いてきたが、なんとかもっている。
11時に、武士兄ちゃん、豪一兄ちゃん来る。見送りのときに見た武士兄ちゃんのクルマのナンバーは「634」で、これは孫のムサシから希望したナンバーだということがわかった。
昼過ぎにはK美ちゃん来てくれる、アクアブルー持って。彼女にとっては悲しみの癒えない一年だった。お父さんを亡くし、秋にはお母さんも旅立たれた。「寂しいだろうからって、おばさんが来てくれてるの」と話してくれた。年が明けても彼女には、一周忌やら法事が来年も重なることだろう。時々はまた、ビールでも飲みに羽を伸ばしておいでよ。
午後からみなよく働いた。僕はお札を書いてしまい、正月の準備で中のことを。子供と女房は、駐車場の溝まできれいに掃除をしてくれた。よい暮れだ。もう今夜が大晦日であっても、用意万端である。

2009年12月29日Tuesday 晴れ
病院受診。
快方に向かっているとは思っているが、時々咳き込んで痰が出る。胸が切ないので、女房に促されてI病院に行って来た。今日からここもホントは休みであるが、日直の先生がいる。副院長であった。予約を入れて、「病院の駐車場に着いたら、そこからまた病院に電話してください」とのこと。車を停めて電話をすると、ナンバーと車種を聞かれた。車の中で待っていると僕の車に事務員がやってきて、今から準備をしますのでもう少しお待ちくださいといい去っていく。しばらくすると副院長がやってきて、西側の入り口から一緒に入り、診察室へ案内された。問診と触診を受け、レントゲンを撮りましょうという事になった....のだが、レントゲン技師も休みなのであろう、副院長が機械を作動させるも、撮影できる状態にもっていくことができず、結局15分ほど待たされて、「機械の調子が悪くて...」ということで、「まあさっきの触診で痰の絡みもたいしたことは無いと思うので、抗生剤と痰を抑える薬を処方しますので、それで様子を見てください」で終わった。薬局で5日分の薬を貰い帰宅。早速抗生剤2錠と痰の薬1カプセルを飲む。
午前中は本堂の回り廊下の掃除など。穏やかな暖かな日差しになった。午後またこれでがんばれるぞ。
(20:15) なるほど、今日の病院行きはよかった。薬も効いたのか、午後の仕事も順調にこなし、夕方には頭も刈った。これで新年が迎えられる。医は仁術なりというが、まさにそれを実感した感じだ。医者に話を聞いてもらったり、身体に触れてもらったりするだけで、僕の頭は悩みや苦から解放され、身体も素直に医師の触診に反応したのではないか。25日以降、発泡酒一本とか、泡盛の湯割り一杯という夜で、ほとんど飲みたいと思わなかったし、飲んでもうまくなかったが、あら不思議?今夜の酒は復活の旨み満載の味である。でもほどほどよ。

2009年12月28日Monday
28日朝、雨。
雨の朝は寒さが退いてありがたい。6時半に起きてお勤め。今日で職場の仕事は終わり。明日から6日間は大聖寺の住職・寺男である。
風邪は軽くはなってきているが症状に少しずつ違いが出てきている。今朝は身体の節々が痛い。それから寝ていて急に咳き込むことが何回かあった。「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」の正岡子規の句を思い出した。夕べ「坂の上の雲」を見ていて、病に臥す子規のことが強烈に印象に残っていたこともあるだろうが、土曜・夕べと、痰を繰り返し吐かなければならなくて、肺は痛くなるし、息を吸うにもぜぇぜぇと。読経するにも、息継ぎがうまくできず、大きく息を吸い込むと激しく咳き込んでしまう。こんなに風邪に打ちのめされたのは余り記憶にない。今朝の症状は、少し寒気があり、身体の節々が痛く、時々咳き込み、痰は30分に一度くらいになり、鼻水が出るようになった。
息子が明日帰ってくるので、「ティッシュをたくさん買っておいたほうがいいぞ、俺も使うからな」と女房と笑った。息子は家に帰ってくると、鼻の調子が悪くなるようで、彼が戻った後の部屋のゴミ箱は、ティッシュが畳にまでこぼれている。まあそれでも、久しぶりの一家集合の短い年越しが始まる。楽しみでもあり。

2009年12月27日Sunday 晴れ
最後の法事。
今日は午後陽も出て暖かだった。午後1時から今年最後の法事。K家のご主人の七回忌。奥さんとその子供である3人の男子は、この6年の間にそれぞれ結婚をしたり結婚の約束をしたりで、パートナーを連れての法事となった。若くして急逝してしまったご主人であったけれど、奥さんも子供らの成長を眺めながら新しい生き方をしていることだろう。
風邪はだいぶよくなったが、タンが絡み、経を読んでいても突然咳き込んでしまうことが何度かあった。申し訳なく思ったがこればかりはどうしようもない。健康にも気をつけなければ住職は務まらないってことを痛感した思い。
週末の頭刈りは、今日は大事をとってやめておく。30日か晦日に刈ればいい。やっとよくなりかけているのに、元に戻ってしまったらこの3日間は何だったのだということになってしまう。
明日は仕事納め。でも、だいぶ寺のことは済ますことができた。3日あれば十分だ。晦日は早めに体を休めることができると思う。

2009年12月26日Saturday 晴れ
新型インフルエンザかななんて思ったりもして。
今朝の体温が37.7度。夕べは余り深く眠りにつけず、「発熱・悪寒・筋肉痛」をかんじながら、「ハツネツ オカン キンニクツウ」と呪文のように朝方まで頭の中で繰り返していた。K薬局から女房がいただいてきた漢方系の風邪薬が効いたのか、朝には節々の痛みは大分和らいでいたが、今日は午前中も休んでいた。昼食前後に少し起きて明日の法事の塔婆を書いたり、護摩札を書いたり。午後気温が上がったので、一時間ほど外で過ごした。風邪で寝込んだのは何とも久しぶりで、ひょっとしたら新型インフルエンザに感染したのかもしれないとも思った。今4時半で、大分よくなったみたいだが、大事を取って今夜も早めに休むことにしようと思う。結局昨日は、職場に電話をして夜の説明会への参加を休ませてもらった。年末休暇に入ってからこの有様では何にもならない。ここでしっかりと治しておかなければ。

2009年12月25日Friday 晴れ
どうやら風邪を引いたみたいで。
昨日の午後からちょっと身体に寒気を感じていた。今日は休みを取って年末年始のことをしようと予定していた。どうも完全に風邪だ。鼻水が出て身体が重い。午前中少しゆっくりと寝ていて、その後、門松用の松を探しに裏山に行く。落ち葉の道はさくさくと気持ちがいい。梅の枝も数本取る。まだ蕾は小さくて硬い。そんなことをしたり、午後からは溝の落ち葉掃きやシメの縄を張り替えたり、歳神様を飾り変えたり。少し年末のことを早めに済ます。今夜また、下山地区への説明会には出なければならない。

2009年12月24日Thursday 晴れ
樅ノ木まつり。
今夜はクリスマスイブで、仏教寺院である我が家でも、それなりのクリスマスという雰囲気はある。ケーキを食べる。普段より夕食は豪華。子どもたちが家を離れているので、もうツリーを出すことはないが、晩酌もいつもより許される。先日法事のときに、セレモニーホールの職員から、あるお寺では、子どもたちを寺に招いてクリスマス会をするんですが、「樅ノ木まつり」と称しているそうですとは、なかなか愉快なお話しであった。今晩の我が家の樅ノ木まつりには、年末で娘が帰省した。女房にも僕にも、彼女の帰りはクリスマスプレゼントのようなものだ。子どもたちは子どもたちの時間の中に重きを置くようになるだろうし、それが自然というものだと思っている。特別に裕福ではないが、貧困でもない。そこそこの暮らしはできている。でも忘れてはならないのは、この寒空に帰る家もなく、死と隣り合わせのような年の瀬を過ごしている人達が、この国にも相当数居るという現実だ。他者への思いやりを忘れずに、俄かクリスチャンでもいいが、祈りつつご馳走を楽しもうではないか。

2009年12月23日Wednesday 晴れ
冬至祭。
明王寺の暮れの祭典「冬至祭」。10時半に伺う。毎年の事ながら今日も快晴。四脚門の屋根の改修と土台の補強が行われたとのことだった。ここでは冬至のかぼちゃのほうとうが振舞われるので、11時前にはもう外に並べられたテーブルについて皆舌鼓を打ち始める。ご利益のあるほうとうである。ご住職も大変にお元気。弟さんも毎年の場所でお守りなどに対応されている。奥様もお子様方も皆で祭りを働いている。しっかりと僕は今日の祭りを勤めなければならない。お父さんもお母さんもお元気そうである。午後1時から寺の周りを歩いて歴代住職の墓地、神社に参拝して寺の本堂へ。お父さんが導師で護摩一座。途中から僕は錫杖加持を始める。長谷寺さんの太鼓は今年は一段と気合が入る。お父様がお亡くなりになり、今後の寺を背負う自らを奮い立たせているかのような力強く太い太鼓である。終わってから僕はこれまた毎年の如くゆっくりと酒をいただく。帰りのタクシー代までご厄介になってしまった。
たまたま同い年なのではあるが、同じ志と役割を負った者同士、これからも長くお付き合いさせていただきたいと思っている。よい一日であった。

2009年12月22日Tuesday 晴れ
ここに住む僕らが寒いと感じているのだから、まして沖縄から来たとなると。
本日、沖縄県八重瀬町から小中学生などの交流団がやってくる。八重瀬町役場の所在地の天気を調べてみたら18℃位、もう少し暖かければ20℃位の時間帯もある。こちらは朝は零下になる日もあり、暖かくなっても10℃位にしか上がらない。これだけ気温差があると、相当寒く冷たく感じるのではないか。今夜宿泊する施設は青少年自然の里で、さらに高地に位置している。先日準備に出かけたときには風花が舞っていたし、どちらかというとこの施設は、夏場向きの体験宿泊施設なのである。寒冷地仕様ではない。暖房も無い。布団さえ十分ではない。交流団は明日は長野へスキーに行く日程になっているようなので、スキーウェアでも着たままで一晩過ごしたほうがいいかもしれない。
(11:40) 沖縄引率者たちの夕飯が済んで、宿舎に送り届けて帰ってきた。迎えに行くまでは、今夜は家で祈願札をかけたのでよかった。今夜は無能の飲む人と化してしまわずもうけもんの夜だったといえるかもしれない。今夜も寒い夜で、暖かくぐっすりなんて眠れないだろうな。でも、楽しい夜か。明日も朝ちょっと手伝いに行くので、こちらは飲まずに今日を終う。

2009年12月21日Monday 晴れ
貧困。
年賀状を仕上げた。これで投函すればひとつ年末のことが済む。寒い日が続いて、前に進みたくない気持ちが僕を覆っている。夜の報道ニュースで、この国の貧困の状況が伝えられた。これが本当にこの国に起こっている事実なのかと思うような現実。「おなかがすいた」と繰り返し書く子供がいて、学校の給食以外家では食事が無いのだという。テレビの中の遠い話ではない。北朝鮮で飢えを凌いでいる子供たちではない。僕が息をするこの国に現実に起こっていることだった。僕の町の中でも、リストラにあい、厳しい生活を余儀なくされ始めた世帯のことが学校から伝えられたりもしている。どうなっちまったんだ。僕はテレビのなかの小学3年生が、保健室で前日の給食の残りのパンと牛乳を貪り食う映像に、涙することしかないのか。苦しくなって、テレビを消してしまいたくなってくる。見たくは無いものであるし、見てはいけないものを見せられたような、憤りのようなものを感じながらも、さて、僧である僕の今なすべきことを僕は真摯に年を越えても考え続けていかねばならない。

2009年12月20日Sunday 晴れ
元気で頭は自分で刈れ。
何だかひとつ歳をとったら、年末の気候や気温のことがわからなくなってしまったのか、エラク寒いのを、今年が特別なように感じてしまう。これって、ひとつ年を重ねたことによるんだろうか?
誰に迷惑をかけているわけではなく、午前中は二日酔いのままに布団と抱き合っていた。女房に飯だけ食ってまた寝てくれといわれたので、それには従わざるをえなかった。
今日の昨日の続きのような日で暖かくはならない。本堂の昨日の護摩のあとを掃除して、仏器を洗い、あーこれですべての掃除を済ませたのだ。晦日に護摩を焚く準備を後はするだけだ。
さぶいさぶいとぶつぶついいながら、今日を閉まった。最後に頭を刈った。今日の散髪は沁みたなぁ。週末は年間で45回くらいあるのだろうか。同じだけ頭を刈っている。来週が今年最後のバリカン。独り散髪はもう年季が入っているよ。先代が亡くなる前からだもの。女房元気で、俺も元気で頭は自分で刈れ!ってのは、勝手に作った人生訓である。

2009年12月19日Saturday 晴れ
池に氷の張る日数日。
午後少し陽が出たが、一日寒い日だった。女房は布団を外に広げたけれど、午後早々に仕舞い込んだ。気温がなにせ上がらない。寒い、寒い、さぶい、さぶい。午前中護摩を焚いて、午後少しのんびりしてから門松の支度。去年のとおりに作ろうと思いPCで確認して作業。まだ仕上げは早いので、竹の頭を斜めに切ってそれだけおさめる場所に付けて一日終わり。土曜の今朝は少し遅く起きたが、池の氷は薄く張っているし気温も上がらない。こんな状況は今までの経験からして年末がメッチャ心配。抜かりなくしっかりと寺を管理しなければ。
お陰さまで、御札の申し込みも前年並みに来ておりますが、どうぞさらにさらに、お不動様のお力をいただける護摩祈願の申し込みをお願いいたします。

2009年12月18日Friday 晴れ
本堂の揺れ。
6時少し早い時間だったと思う、本堂でのお勤めの最後の回向文を唱え終わって、護身法を解くあたりで堂を響かすずしんという音がして、たいしたことはなかったが揺れが走った。客殿のお勤めを終えてテレビを点けると、静岡県・伊豆半島沖で夕べ遅くに地震があったことを伝えていた。今、Yahooの地震情報を見ると、「午前5時41分頃、栃木南部を震源とする地震があり、茨城県結城市や栃木県日光市などで震度4を観測した」とある。これの影響だったかもしれない。今年は、以前にも本堂での揺れを感じたことがあった。堂の太い柱たちの軋む音は太く、地下から突き上げてくる不気味さを感じる。自然界からのこのメッセージには成す術がない。ちっぽけな虫のような儚さを思う。
12月18日。もう2週間もない今年。今朝も冷え込みは辛かった。職場での仕事も片付けてしまわなければな。

2009年12月17日Thursday 晴れ
霜一面。
今週の朝の冷たさは、起きることを渋らせるに十分で、5時半起がせいぜいだ。今朝は外の水道も凍っていた。年末に向かって、水道の管理には気を配らなくちゃならない。冷える夜には水を少し流しておくことも必要。
僕が毎朝使う庫裏の洗面所の温度計は0℃。この洗面所は庫裏の北側の寒い場所に位置しているため、家族は使わない。来客でもなければ使うことのない場所なので、水道や便所、毎週の散発に、水周りの管理をしながら使っているのだ。ここを凍らせてしまうととても厄介。なんどかひどい目にもあったし、父が元気な頃は父の管理。その後は僕。
外は一面の霜だ。静かに語らずにじっと寒さに耐えながら、陽が昇るのを待っているかのようだ。

2009年12月16日Wednesday 晴れ
心療内科。
今朝はどんよりとした寒い朝で、今にも雪でも落ちてきそうな風景であった。午後休んで、母を心療内科へ連れて行くことになっていたので、こんなどんよりとした朝なんだとも思った。主治医より、心療内科を受診するように指示があり、僕にも同行するようにいわれていた。本人は心療内科がどのようなものであるのかはわからないらしく、いよいよ意思との面談が始まると、その気の強さからか、いささか不満気のようでもあった。「息子さんと少し話をしたいので、部屋の外でお待ちください」ということになり、僕と医師とで話を始めた。アルツハイマーであるということ。妄想癖もある。過去から現在までの行動についても僕は話した。母はよほど僕らの話しが気になったのか、待ちきれずに部屋に入ってきて、持論を述べ始めた。ただ、今日の医師との面談では、特別に何か手を打つというようなことにも到らず、今処方されている薬にも、物忘れ用の薬も入っているからということで、また暫く様子を見てみようということになった。
老いを迎える者の横に寄り添いながら、適度に距離を置いて、これから先どの位の時間になるのだろうか。
病院へ行く前の時間があったので、昼食後、境内の落ち葉を掃き、それから門松用の太い竹も一本切り出した。少し暮れの仕事ができたことだけはよかったな。

2009年12月15日Tuesday 晴れ
安くて安心な部屋探しています。
娘は、就活をするために拠点となる部屋を借りなければならない。学生寮は、春休み中は閉鎖になってしまうので、少なくても1月下旬から3月下旬までの約2ヶ月は、どこかに住まなければならない。いままでは帰省していればよかったが、4年生になる前の新春は就活の大事な時期になる。田舎で冬眠なんかしているわけにはいかないんだ。都下に親戚がないわけでもないが、気兼ねなく過ごさせるには賃貸物件を捜すしかないだろう。でもこれが結構高い。レオパレス21をちょっと覗いてみたが、マンスリーというヤツで、ひと月10万円を切る物件はない。妻にやりくりを願いながら、就活に投資してやらねばならない。企業への説明会にも彼女はかなり足を運んでもいるようだ。職が決まれば万々歳にはなるけどな。妹は真剣に不況の只中に漕ぎ出し始めたが、兄は不況の嵐を完全に避けて、学問に身を投じるという、掟破りの道を今は選択している。
世の中のことが少しずつぼやけて見え始めた母に、やっとクルマの運転を諦めさせることにした。父が亡くなる前の年に買ったクルマを廃車する。僕たち夫婦の生活もまた変化してくるのかもしれない。金もないが悩みもないってのがそこそこに生きる上の基本なのかもしれないな。

2009年12月14日Monday 晴れ
ジムニー。
もう30年も前に、信州で世を儚んでいる時期に、拾ってくれたキヨシの乗っていたジムニー(彼が渡米後は、主に僕が使っていた。その後喜多郎に。)は、燃料はガソリンだが、暖房には灯油を入れたような記憶があって、こんなことは時々思い出したり、忘れたりするもんだから、調べてみようというところにまで至らなかったが、不確かな記憶だったとか、思い違いだったかなと思い、今日ネットで調べてみた。ありました。まさに写真のようなヤツで、幌付きの車。後ろの荷台には、座椅子のような物が一つ付いていたように記憶する。そして冬。ガソリンを入れて、別口から灯油を入れてもらってヒーター入れたんだ。記憶は間違いではなかった。実はこの車、僕が管理した後、喜多郎が引き受けてくれて、そして6月のある日、喜多郎のバンドメンバーで、バイオリンを弾いていた小島さんがカーブを曲がり切れずに道下に落ちて死んでしまったのだ。それで廃車に。喜多郎の住む集落の農休みの日で、一日、明日香荘で風呂入って飲んで、喜多郎の家に帰るところで事故ってしまったのだ。僕も喜多郎も実はそれを二人で見ていて、夢のような出来事だった。喜多郎が、「おい、オコジ(小島)どうしたい?」なんて言いながら下を覗くと、反転したジープの脇に小島君の彼女が助手席から振り落とされて、呆然と立っていた。小島君は首の骨を折り即死だった。灯油のヒーターは、快適に暖かかったな。ついでにいろんなこと思い出した。ちょっとこれは辛い思い出ですが。

2009年12月13日Sunday くもり
法事一件。
寒い日。雪が舞ってきてもおかしくないような日中で、気温も上がらず。W家の七七日法事。45人の法事のおときを寺でする。アピオですべて準備してくれたが、こんな大人数の法事を寺でするのは初めてだったが、面白いことに、テーブルの置き方を変えるだけで、いとも簡単に収まるようにしつらえてくれて、ははぁ、こんなものに頭をやわらかく使わなければいけないいんだなと実感。来年のお祭りもこういう風にしてみようと女房と話す。
寒い日の法事は熱燗で、ゆっくりといただき、終わってアピオの方たちと一緒に片づけをし、少し寝転んだ後に便所の掃除。これで庫裏の便所は新年までOK。
夕暮れになり本堂に行こうとしているときに、修験行者現る。本堂に上がっていただき一緒に夕のお勤めをしていただく。酒が入っていたので、「懺悔文」がうまく唱えることできず、終わった後で、行者さんに謝る。まったく恥ずかしい限り。こんな体たらくでありながら、「半僧半俗であるのは実にいいことであります」なんぞと語ってしまい、相手はえらくこちらを気にしてくれていたのだが、自分で振り返ってみて、まあこんなではどうにもこうにも隠れる場所もなく恥ずかしいと思いつつも反省の一杯。悪僧世に詫び。

2009年12月12日Saturday 晴れ
蔑まれても譲れない生き方。
愚息は来年の春から博士課程へ進むことになった。昨日合否の結果発表があったのだが、おそらくこれはもう学内で、出来上がっているということもあるのだろう。彼のやりたいことの道へ進むことを、もう僕たち夫婦は認めてあげようと思う。後方支援はそう長くはできないかもしれないが、彼自身も自分で選ぶ道の険しさや容易ならざることを感じているはずだろう。これは、(余り早く結論付けるなといわれるが)私たち夫婦もこの先、身の処し方を模索せねばならんということであるから、それなりにこれからは暮らしを考えていかねばならない。
師走の日直で、年末年始の寺務をこなしている。シメを切ったり、御札を作ったり。二人の職員が訪れて、一人は仕事を家に持ち帰ったのであろうか、もう一人は仕事をしているようだ。彼は僕が日直のときにはだいたいいつも来ている。仕事熱心と片付けてしまえばそれでいいのかもしれないし、お互いに干渉しっこなしであれば、別にどうってことないけど、でも僕はあまり感心しない。週七日をフルに使って求めていくような仕事なのか。家に居てもやることないから仕事に来ているのか、僕なら何もすることがなければ、本を読み、音楽を聴いて、酒を飲む。自堕落と蔑まれようが、僕ならそういう生き方を貫きたい。

2009年12月11日Friday
火事なんて。
夜の10時になる頃に役場の防災無線のサイレンが鳴った。僕はそれを聞き流してしまったけど、女房は「火事なんじゃない?」と。すぐに「下田原地区で民家火災です、第2分団の出動を要請します」という放送があった。ここは3分団なので団員の出動はない。雨は上がっているが、一日降っていたので、大きな火事でないことを祈った。師走の火災は嫌なものだ。僕が分団長をしている師走にも2回火事があった。12月の第1週の土曜の夜と大晦日の昼の山火事。消防の忘年会から帰ってきて、風呂上りの頃に出動要請があった。部の団員の何人かは、2次会へまた出かけた者もいたが、携帯で呼び戻された。もう手の施しようがなく、家が焼け落ちるのを眺めていたようなものだった。当家の息子も、所属は違ったが、この夜消防の忘年会で留守にしていた。それから大晦日の昼には山火事で曙の山林に出動した。猟に来ているハンターの煙草の投げ捨てではないかなどと噂された。
当たり前に静かに過ぎてこそそれが一番だ。何も特別な盛り上がりなんか必要ない。そこそこに幸せで、昨日からの今日が明日につながって年を跨いでゆけたらそれでいいのだ。風呂に温まりながらもう10年も前にもなることを思い出した。

2009年12月10日Thursday 晴れ
浜田真理子newアルバム。
12月21日に「うたかた」がリリースされる。浜田真理子の歌の世界が僕は好き。歌う姿勢も好き。チューバ吹きの高岡君も好きだといっていた。3年ぶりのアルバムで、今日から通信販売の受付が始まった。年末これで楽しめるなぁ。彼女ブログ「本日のハマダマリコ的こころU」で試聴が始まっているので、聴いていただけるとよいと思います。
今日職場に叔父から電話があって、葬儀の助法を頼みたいということであったが、土曜とのことで、「支所の日直になっているので」と断った。「誰かに交替してもらえないか?」といわれたが、ダメだと断った。本当なら手伝いにいきたいところである。前もって予定の立たないのが葬儀。明後日の交替はちょっときついし、年末でそれぞれに予定もあるだろうし、日曜は家の法事にもなっている。明後日のことを頼むのであっても、これは僕の勝手な思い込みかもしれないが、相手は、「また葬式で稼ぐのだろう」という風に思われたくないというか、そんな後ろめたさも正直あった。
それから、社民党と民主党のちぐはぐな事、相容れることができるほうがおかしい。民主党は自民党だもの。それより僕にはもっとしっかりと問いただしたいことがある。民主党の国会議員である喜納昌吉に。お前は何を考えて国会議員に成り下がったのだ。

2009年12月9日Wednesday 晴れ
歳相応に。
夕べの説明会は40分で終わったので、8時半過ぎには帰ってきた。晩飯後に、もう何もする予定もないのでだらだらとテレビを見始めた。「うたばん」という番組に森進一が出ていて、実は以前から彼の顔がどうも若返っているような気がしていたのだが、夕べはちょっとじっくりと観察させていただいた。やはり整形をしているとしか見えないのだ。伸ばしたり、皺を取ったりしているのだろう。こりゃ完全に「プチ・マイケル」だわってのが率直な感想。ここまでしていいのかよって感じだ。それで、番組の中で紹介するのが、彼が最近出したというカバー・アルバムで、尾崎豊の「 I LOVE YOU 」を歌ったのだが、そりゃあひどいもんだ。誰でもカバー・アルバム出せば売れるってもんでもないだろうに。歳相応に老いていきたいものである。

2009年12月8日Tuesday 晴れ
霜に氷。12月8日。
庫裏の玄関の外の水道の流しに残った水は今朝氷っていた。6時25分、半分になりかけたレモンのような月が天にある。夜が少しずつ明けてゆくのがわかる。畑も、裏の竹林も一面霜だ。寒くなってきた。夕べの夜の説明会の帰りもひどく冷え込んで、熱い酒が飲みたかった。
今朝は早くから、ジョン・レノンを聞き始めた。たくさん聞くことはないが、今日の日だけは特別である。ジョンの魂が望むことを僕はこの寺にあるかぎり自分なりに継承していこうと考えている。すなわち、「世界の平和」を今朝の祈りにこめた。叶わないことだから続けるのではなく、叶うと思いを続けることが大事なのだと思える。

2009年12月7日Monday 晴れ
こういう時期なんだと言い聞かせるしかないような気分。
歴史に幕を下ろすということは、その地区の人たちにとっては相当なダメージがあるのだ。そのことをしっかりとこちらも受け止めなければならない。もう決まったのだから、いつまでもぐじぐじ言ってるんじゃねぇなんてことは、気持ちで思ってはいても口には出せない。共通の理解ができているのだろうと思って会合に臨んでも、いつの間にかまた元に戻ってしまったかのような発言がいくつも飛び出してくる。正直こちらが首を傾げたくなるような状況にもなりかねないのだ。だから、そこの苦しい一線を誰もが越えたくないのだ。認めてしまえば歴史を否定することにでもなるとでも言いたげな。よかったのか、失敗だったのかなんて結果は、この先何年か過ぎてみなければ誰にも答えが出せないのかもしれない。永遠に肯定なんかされない問題かもしれない。

2009年12月6日Sunday 晴れ
QUEEN。
「Queen Hammersmith Odeon, London December 24, 1975」という映像をDLして楽しんでいる。僕が大学1年のクリスマスライブということになる。映像もすごくきれいでいいんですよ。なつかしいなぁ。しっかし、フレディはホントに出っ歯だったんだな。あんなに出ているとは思わなかった。パンタロンの裾が1メートル近くになるじゃねぇかという衣装。ブライアン・メイのギターは、フレディのボーカルと絶妙なコンビネーション。フレディの後にも先にもフレディはいないね。フレディのピアノもよかった。クイーンて、貴公子だな。そのものだ。ディープ・パープルにしても、ベースにクラシックがあるというヨーロッパの歴史の重みが音に現れている。
週末、ヴァンフォーレ甲府の1部昇格はならなかったけど、甲府勝利の護摩の祈りは届いたようだ。今年最後の護摩は、あと、息子のためにもよい結果をもたらしてくれると嬉しい。女房は、墓地の2体のお地蔵様に新しい前掛けを作って交換した。裏には、息子の学業や娘の就職活動の成就の願が掛けられていた。こういう親の心をいくらかでも知ってくれているのであろうか?いやいや、離れてはいても、気持ちのどこかにそれはきっと置いているのだと信じている。

2009年12月5日Saturday
残念。
ヴァンフォーレ甲府残念。今朝勝利を記念して護摩を焚いた。祈りは通じたようで勝利を収めたが、湘南ベルマーレも試合に勝ち、惜しくも甲府の一部返り咲きはならなかった。でも両チームとも意地をみせて勝ちを収めたのは立派だ。これは湘南に拍手を送るしかない。さばさばとまた来期の昇格を目指したらよい。
今朝の護摩は今年最後の護摩。後は晦日の年越し護摩だ。今朝の護摩は、ヴァンフォーレのこともあったが、東京の若い友人夫妻の初めてのお子さんの出産予定が元日ということもあり、安産を祈願した。それからまだ学問を続けたいという息子の博士課程への試験が今日だったこともあった。親馬鹿と思われるかもしれないが、でもそれでもいいやってなもんである。やるならとことんやってみろってなもんである。10年大学に行こうがやってみろってなもんである。(女房は、歴代住職の墓に墓参)。今年最後の護摩を焚き、お不動様にも感謝をした。
雨になり、天野家の法事後の御斎はそのまま庫裏で行ったのでゆっくりできた。寒かったので熱燗がよかった。前の方も隣の方も僕よりは随分と年長の方であったが、皆さん飲める方で、僕にはありがたかった。たくさんいただいて、ちょうど法事が終わって皆さんがお帰りになって、ヴァンフォーレの昇格ならずがわかって、でも天気とは裏腹に、なんだかさわやかに「来年があるじゃん」ていう気持ちになった。そんなもんでしょ。

2009年12月4日Friday 晴れ
明日の朝にはこれに願いを掛けなければならない。
いよいよ最終の第51節。ヴァンフォーレ甲府の勝利を祈る。ただ、J1昇格を競う湘南ベルマーレの敗戦を祈るのは、ルール違反なので控えるつもり。サッカーだってノーサイドの精神であらねばならない。VF甲府vsロアッソ熊本、湘南vs水戸ホーリーホック戦とも12:30の試合開始。この時間僕は、A家の七七日忌の法事後の御斎(おとき)の席に着いている。明日は明日の運に任せよう。
午後休んで、予約してあった飯富病院を受診。痛風の定期受診。今日は血液検査があった。実は夕べ職場の忘年会で、12月3日に忘年会を予定したといわれたとき、「これは弱った」と思った。酒飲みには辛い。何故金曜の夜にしないのか。とことん飲めないではないか。それに2ヶ月前に、受診する予約を入れてある。ビールの乾杯後に、ひたすら食うことに専念したが、終わり近くになって、麦焼酎を少し飲んだ。血液検査のあるのがなぜか引っかかってしまっていたのだ。でも、月曜から酒を控え、夕べもそんなに飲まなかったので、「どうでしょうか?」みたいな感じで診察室に呼ばれて入ったとき、「2錠にしなくてもよかったですね、尿酸値は正常値に戻っています」だった。実は4ヶ月前の血液検査では、尿酸値がオーバーしていたので気になっていた。ただ、僕自身としては「ほんまかいな」って、振り返ってみると???がたくさんになってしまうのだが、まあでもよかった。次回2月の予約を入れて、女医のK先生は「よいお年をお迎えください」と笑顔で、僕は「こちらこそ、どうもありがとうございました」と、すべてを見透かされているような気分もちょっと。薬局で薬を貰い帰りながら、父が病になった或るとき、「医者と弁護士が友達にいたらいいな」と言ったことを思い出した。

2009年12月3日Thursday 晴れ
もう師走3日。
雨が降り始めていたようだったが、5時過ぎに起きたときには止んでいた。今朝はちょっと寒く感じた。降っていたら少しあたたかく感じたかもしれない。もう師走3日。一日一日、過ぎた日をながめて暦を見れば、「おーこれはのんびりしてらんねぇ」と思ってしまう。というわけでもないが、夕べは尺5寸札を15枚ほど書いた。これだけあれば手書き札の申し込みを受けても十分に足りる。真っ白名札に不動明王の種字カンマンを先ず書き、そこから下に「奉修不動明王護摩供所願成就祈攸」と書き、成就祈攸の左右の余白に「三守皇山 大聖寺」と寺の山号と寺号を入れる。ちなみにこの寺の院号は長光王院といい、フルネームは三守皇山長光王院大聖寺となる。その歴史だけが重い寺ではある。
昨日気になった記事があったので書いておきたいと思う。浜岡原発のこと。健康被害がないから、ちょっとぐらいのお漏らしなら問題ないだろうってことにはならんだろう。どうも自分の生活を中心にのほほんとしていると、或る日突然の事故報告とかで、「ハッ」とすることが間々ある。原発のことも、襖一枚の隣り合わせの暮らしではないので、その危険性をとかく忘れがちで、遠いところのことと思いがちである。「浜岡原発 廃液漏れ21人被ばく 基準の324倍放射能」、「点検にあたっていた作業員4人と現場に駆け付けるなどした職員ら19人の計23人のうち、21人が最大0.05ミリシーベルト被ばくしたが、健康への影響はないレベル。放射線管理区域外への影響もない」。ミリ単位の穴からの漏水が、やがて水道管破裂に繋がるようなこともある。仕事に携わる者たちも、この位の量なら安全だという驕りが、取り返しのつかない事故を引き起こす危険性は十分に予測できる。命と引き換えにしなければならんことなどないだろうに。子どものおねしょは大きくなればなくなるが、原発のおねしょは笑って済ませられるような可愛さではない。

2009年12月2日Wednesday 晴れ
満月の夜に猿吠える。
女房から猿の話を聞いていたが、深夜になっても猿の奇声が続いた。月に吠える猿でもあるまいに、満月の煌々とした月明かりの下で、奴らは休むことなく命の営みのことを続けていたようだ。2時頃になっても斥候の猿がいるのか、甲高い声で奇声を発していた。こんな声を深夜に長く聞いたのは初めてだった。こちらは眠りながらだったが、おそらく3時前には静まっていたのかと思う。5時過ぎに起きるとやはり杜は静まり返っていたが、6時前には一匹の猿が鳴きはじめ、その後に高木のあちこちで奴らが揺すれ出した。甲高い奇声や、身体でもぶつけ合うかのようなゴツンとしたような吠え声。霜の降りたこの寒村にはもうほとんど彼らの欲しいものは転がっていないだろう。軒下に干された大根や干し柿でも狙うか。生きている人間様はそんなにたびたび許さないだろう。帰るところへ帰らないといけない。しっかりと棲む場所を互いが認識して共存できたらいいのだが。
猿の集団を見ると、ロケット弾を打ち込むのが当たり前になっていたり、徒労と知りながら、空の一斗缶を棒切れで延々と打ち続ける老いたちの姿もある。
止まってくれることのない宇宙の動きは、容赦のない厳しさを与えてくる。猿の出没が繰り返すこと、自然の動きが一周すること、花が咲いて散って、鳥が渡りまた帰ってゆくこと。猿たちの生きるという真剣さを拾ってあげるなら、僕もこの師走をまたしっかりと生きることだけなのか。

2009年12月1日Tuesday くもり
師走入る。
今朝の冷えもさすが師走といった感あり。6時を回っても空は明けない。本堂の回廊の落ち葉を掃こうと思っているが、この暗さでは廊下にいる自分を想像するだけで笑えてくるので止めだ。出かける前にできたらすることにしよう。(7時を過ぎて掃除をしてきた)。
今朝は深く靄が降りている。墓地の竹林の姿は霞んで、読んでいた空海の言葉をかみ締めるに十分であった。「空際(くうさい)は人の察する無く、法身(ほっしん)のみ独り能(よ)く詳(つまび)らかにす。」(この世界の果てがどうなっているか誰もそれをはかり知ることはできない。この世界そのものである法身大日如来だけが隅々までご存知だ。)
宇宙そのものを大日如来とする考え方が真言密教である。なんにもわからんでもいい。体の芯まで痺れさせてくれる朝の風景の中に自分を置いて、あとはもう大日如来に任すほかない。化身である不動明王の慈悲を観じ、この残りの一ヶ月を過ごしていこう。

2009年11月30日Monday 晴れ
風邪には気をつけましょう。
午後12月議会に出す補正予算の財政課のヒアリングがあったので本庁に出向いた。新型インフルエンザで休んでいる職員も何人か居るようだ。或る職員は、子供からうつされたんじゃなくて、自分ひとりが家族内で罹患しているのだと聞いた。いろいろなんだな。タミフルを5日分処方され、とにかく5日は出勤してはならんとも。いよいよ学校も授業時間確保に影響が出始めているようで、学年によって2学期の終業日を変えるなんて報告もあった。12月24日と25日を授業日とする報告。また或る中学校は、「授業時間数大丈夫ですか?」ときくと、校長が「うちは毎週一時間ずつ余計に授業を組んでいるので、その点は大丈夫です」なんて応えもある。これまた学校間のそれぞれだ。
今日は鳩打隧道から下る九十九折りで、懸命に落ち葉を掃き集めて袋詰めしている老人にあった。カラカラに乾いた広葉樹の落ち葉は、きっと畑の栄養の源となるんだろうな。うちでも女房がたくさん詰めてストックしてある。彼女の親戚の久田子の従兄が毎年これを貰いに来る。そんで畑の作物をまた寺に持ってきてくれるのだ。こういうのはエコな循環だね。11月晦日。明日は師走だ。

2009年11月29日Sunday 晴れ
扁額。
客殿に掛けてある扁額をアクリル板で覆ってあるんだけど、その板が枠から外れてしまって、何年かテープで止めたりしていたけど、昨日見上げたら、もう放置できないような状態になっていて、お金もかかるかもしれないが、直しておかなければならんと甲府の山鏡堂画廊へ持ち込んだ。このお店は加賀美性で、加賀美次郎の末裔になるというので、この手の類はお願いをしていたお店である。僕は当然最初もここへ頼んだのだろうと思っていたが、「これには覚えがない」とのことで、なるほど、持ち込むには大きすぎて、僕のクルマの座席を畳んでようやく中に入れたのであるから、おそらく先代が乗っていた乗用車には積めなかったのではないかと想像した。扁額をアクリル板で覆うというのは、早い話が、通常はやらないことだそうで、元々無理のあることだといわれた。アクリルが夏には伸びて冬には縮むので、ミリ単位で枠に収まっているので、こういうこともあるそうだ。でも、結局は何とかしましょうということで話が済んだ。目の前のことばかりでなく、見上げるところにも悩みの種のある寺の生活である。
帰ってから二人で落ち葉掃きをしていると、都留から月参りのTさんご夫妻。今年も一年よくお参りしてくださいました。今年の残りは大晦日ね。ほんとに遠くから頭が下がります。精進しなければ。

2009年11月28日Saturday 晴れ
世界を慈しめばいいことがある。
ユッスー・ンドゥールはセネガル出身の歌手。宗教はイスラム。彼を聴いたのはもう10年は経つであろう。節操なくなんでも聴く僕に、アフリカの音は歯切れよく、打楽器を多用して心地よく響いた。彼はグリオの家系で、この国でいうと、歌舞伎役者や伝承音楽の家系に生まれたとでも扱ったらいいのだろうか。彼はニューヨークでのテロが起きたとき、発売する予定でいた「エジプト」というアルバムの発売を延期した。いまBSで彼の番組を見ている。「世界を慈しめばいいことがある」とユッスーはいう。慈悲の仏は私が仕える寺の本尊不動明王。慈しみの一滴が大地にこぼれ、それが細い水の道となり、やがて大地に浸透して再び地上に現れて、小さな流れがだんだんと大きくなり、地球上の大地を等しく潤す。その慈悲の水の道は、仏教もイスラム教もキリスト教も、あらゆる宗教をも超える。何のための命か。まさか殺しあうために生まれたわけではないだろう。これだけは確かだ。ネルソン・マンデラが解放されたとき、世界中の良心のミュージシャンが祝福した。表現やそこに行き着く過程は異なっても、誰もが想像する世界は同じなんだと思う。月が替われば、ジョンの命日が来る。彼も世界を慈しむことを第一義としてきたのだ。

2009年11月27日Friday 晴れ
ミニミニミニ事業仕分けみたいなもんが十分予測される予算立て時期。
事業仕分けが行われていて、今日は、元祖ロックンローラーの内田裕也も会場に行ったようだ。蓮舫の歯切れのいい「バッサリ」トークも耳慣れてきたのだが、こんなことが今までは密室の中で、双方向かい合って、でも、密約の微笑みの交し合いで出来上がっていたのだろうな。億とかいう円の単位が、あっさりと生まれてきてしまったりして、これってホントにこの国はどん底なのかい?と疑いたくなるのは、庶民であれば当たり前のことだろう。
今、私の職場も来年度当初予算案の作成時期なのである。あのコもこのコもあっちのコも欲しいって、こっちは考えているからその分の人件費を要求したいと思うのであるが、さて、同じ職場に居ても、涙隠して人を切るみたいな部署に、必殺仕分け人は腕組みで仁王立ちしているようなのである。まずい。やばい。で、とりあえず、よくがんばったでしょうの金曜の夜だ。

2009年11月26日Thursday 晴れ
フリフリくん。
今朝のズームインで、「フリフリくん」というケータイワールドで流行っているキャラクターの紹介をしていたので、ネットで捜してみた。あった。こういうのがゆるキャラというのだろうか。ついでに年賀状も作らなければならないので、来年の干支の寅のイラストもいくつか拾ってきた。年賀状の時期が間もなくやってくるが、その前の欠礼状ももう10枚ほど届いている。今日も2枚来ていた。もう僕たちくらいの年齢になると、両親もしくは片親の無いのは極当たり前のように思う。それから、先代から引き継いで年賀状のやり取りをしている人たちの中からも、喪中のはがきが届く。新たに年賀状を出す人ってのは増えていくことはないと思われる。それから子供たち分の年賀はがきも必要なくなった。だから年賀状を買うのも今は100枚ちょっと。寺を持つ身なので、僕自身の交友からすると随分と多いと感じる。年賀状の片隅で「フリフリくん」キャラが揺れていられるようになればはがきも面白いのにね。そういう楽しみを他に覚えてしまった分、はがきってのは寂しい定めにあるのかもしれない。

2009年11月25日Wednesday 晴れ
こんなにめんどくさいことはやめてしまえばいいのに。
livedoorのブログへ移転をしたのだが、思うように勝手が見えてこない。今朝も更新したのだが、フォントがでかい。アップしたときに、昨日の記事のフォントより小さく表示されていたので、フォントを大きくしたら、今度はでかく表示された。一体どうなってるのか?親爺さまのブログを参考しにしながら何とか体裁を整えたのだけど、新しいことを覚えるのってホントにめんどくせぇな。誰からもこれを強いられているわけでもなし、爪を切ったり、鼻をかんだり、頭を刈るよりも価値のないものを、何ゆえにこんなに苦にしなければならんのか?これが変人の所以なのであろう。諦めきれぬと諦めるしかないか。

2009年11月24日Tuesday 晴れ
今夜女房は忘年会です。
今朝は時々ある早めの目覚めで、3時半頃に目が覚めてしまって、5時までまどろみの中で時間を過ごして5時丁度に起きる。当然のごとく外は星空だ。40分ほどでお勤めを済ませるもまだ朝は来ない。女房の起床が遅いなと思っていたら、結局、目覚まし時計が寒さに狂ってしまっていたのか、いつまでも6時になってくれなかったのだ。目覚まし時計は、或る朝突然こんなことがある。時計を信用してはならんと晩飯時に話す。寒くなった。部屋も冷えてきた。
ほんとは今夜あたりから年末モードに入って、諸準備にかかるのもいいかなと思っていたのだが、一日仕事をして帰る途上でそんな気持ちは失せていた。まだいいやと。師走に入ってからでいいんじゃないかと。
グータラな夜を送りたくなったのは、女房がパート先の同僚の家での忘年会に出かけるので、もう一杯余分に飲んでもいいんじゃないかと思ったからだ。オキナワンボーイ、知念良吉と石垣勝治のCDを聴いている。さーて。柚子の風呂に入って寝るか。


2009年11月23日Monday 晴れ
53歳になった。
穏やかな初冬の日だ。朝食後にゆっくりと朝のお勤め。なんら昨日と変わりはない。髭だけが伸びた。夕べはWOWOWで録った喜多郎のライブを見た。オアシスが何とも懐かしく新鮮だった。オアシスからシルクロードに到る道で、彼の八坂の家に生活できたことは僕の人生の最大の思い出といえるだろう。美麻村や八坂村やロッジ・ピノキオに生活させてもらいながら、初めて僧侶になることを受け入れられるように変化していった。喜多郎には音楽以外に生きることを学んだ。彼は自分の音楽以外の音楽はやらなかった。囲炉裏端で焼酎を飲みながら、「スタジオミュージシャンなんか絶対にしたくなかった。自分の音楽だけをするために、土方をして金を稼いだ」と。懐かしかったなぁ、夕べ。女房と歩きはじめた開を連れて八坂の家にも泊まりに行ったなぁ。年は取っても、自分の思うところはちっとも年を取らないと感じている。僕は僕の生き方を貫くだけだ。
今日、牧丘で第六天魔王尊の祭典主を務めるという妹弟子から誕生日を祝うメールが届いた。下手くそな法螺貝の音が大滝不動から山を下って、笛吹川→富士川経由で大聖寺にも、ぷはーって届いたような。
エルクの従姉からもメールが届いた。俺の誕生日を知らなかったとは!こんな風に働くことが嫌いなずぼらな奴が、案外「勤労感謝の日」生まれだったりするのだ。まあそんなこんなで53になってしまい、女二人からメッセージが届くなんて滅多にないこっちゃ。二日酔いにならんように今夜も飲ませていただこう。


2009年11月22日Sunday くもり
52歳最後の頭を刈る。
明日も休みなので嬉しい。帰ってきてから境内の掃除。ケヤキの葉ももう大分裸に近くなった。毎年のことだが、最後にもみじが散って終わるのだ。夕方になって少し風が出てきた。
52歳に別れを告げるべく頭を刈った。刈り後の頭を撫でて、もう10年はこのまま行こうなと。
高根町の「八ッ駒そば」を昼に食べてきた。「日本一を目指します」という看板に惹かれて。でも美味しかった。きのこ汁せいろの並と大盛を二人で食べた。薄日で景色の眺めはよくなかったけど、新そばを味わうことができた。店主のわさび色の作務衣と丸刈りの頭は修行僧のようで好感が持てた。そばを打つということはこれも終わりのない修行のようなものなのかもしれないな。今日より明日と。 小学生低学年と思われるお嬢ちゃんが、両親を手伝って洗い物をしていたのもよかった。こういう家族の見えるそばは間違いなくうまい。


2009年11月21日Saturday 晴れ
柚子いただく。
昼食後、南アルプス市の長谷寺(ちょうこくじ)のご住職の葬儀に行ってきた。大きなお寺のことなので、葬儀の今日まで準備が大変であったと思う。Kさんもこれからは本当に一人で寺のことをしていかなければならない。同い年の彼とは、やはり同い年の標さんの寺の師走のお祭りに会うくらいなのであるが、僕たちを遡った時代に祖父や、お亡くなりになったご住職はお付き合いがあったと聞く。真言宗の僧侶は、今よりもっと広く深く全県的な交流があった時代だ。いま、派が違うと、ほとんど交わりがなかったりするが、僕はおかげさまで高野とも智山ともお付き合いをさせていただいている。祖父がそういう生活をしていたことが、今の僕にまた訪れている。僧侶のことや修験のことで、お呼びがかかったりする。これはこれで嬉しいことだ。山梨県の南のはずれにポツンと僕の寺はあって、僕の地域では、真言宗の表札がなにか恥ずかしいような気もするが、僕の寺に尊厳をもって接してくれる真言宗の寺院がいてくださるのは何物にも変えがたい。冬富士を眺めながら、考えながら、帰ってきた。
檀家への通知を自転車で回ってる間に、Wさんが柚子を届けてくれた。名刺が入っていた。実はその1時間ほど前に、やはり檀家のWさんから柚子をいただいていた。当たり年なのだ。下部のWさんの柚子には緑の葉がついていて、女房ははじめて見たと感激していた。柚子の香りが、広い庫裏にも広がった。今夜は柚子風呂としよう。気に掛けてくださる方たちに、ありがとうございます。間もなくひとつ歳をとりますが、相変わらずよろしくお願いいたします。


2009年11月20日Friday 晴れ
サックリ、ザクッと。
来年度からの新財務会計システム以降に向けて、新年度予算策定のための説明会があった。計算センターのS女史が3時間近くを説明してくれたのだが、まあ、実際に予算書を自分で作り始めなければわからんなというような僕には理解しかできなかった。ゆっくり時間をかけて身につけていくようなことだ。彼女は口癖なのか、「ここの説明は前の説明と同じなのでサックリいきます」とか、「ザクッとしちゃってください」とか、わかるようでわからんような使い方をする。感覚語とでも形容したらいいのか?これも、おじちゃんには違和感のある、「お疲れさま」と似たような印象だ。パソコンで「サックリ ザクッと」で検索したら、「阿佐ヶ谷ベーグル」というブログにヒットした。ソーダブレッドというパン菓子の評に次のようにコメントしてあった。「ザクッとサックリした表面とふわふわしっとりの生地のギャップに驚き!!」。ケーキやパンを食べた感触とは非なるS女史の使い方ではある。うーん?他のを見たら、「ザクッとサックリしている」というような連続使用表現が意外と多かった。すべて食感を表すようなものでしたが。僕には多分使えない。多分使う所番地がわからない。

2009年11月19日Thursday 晴れ
歓送迎会。
I教育委員の任期が昨日で終わり、新たなT教育委員の任期が始まり、午後から教育委員会。一年任期の委員長を互選して新たな教育委員会がスタート。12月補正の案件やらいくつかを審議。無事終わる。委員会構成の変わったことを庁内に流し、県教委やら近隣教委にも通知を出す。夕刻より歓送迎会。僕とKリーダーは飲まず。一線を引いておきたいと考えるようになってから飲まないこととした。課長とO委員を送り帰宅。今夜も冷えている。
明日一日で連休。連休中に53になる。そうそう、今夜、退任されるI先生と誕生日が同じだということを話した。向こうは70歳を越えている。僕がそこまで生きているとしたら、誕生日ってのはどんな感じなんだろうか?考えたい気持ちと考えたくない気持ちが半分ずつ。今朝出勤すると、唐突に課長から忘年会の話しが出てびっくり。飲み会とは縁のない課だと思えていたのに。ただ予定された日が、飯富病院受診の前日ということで、今回は血液検査があるし、何とも微妙な心境ではある。ほどほどに夜をやり過ごすということなのだろう。


2009年11月18日Wednesday 晴れ
お疲れさまをまたちょっと考える。
夕べは10時5分前に帰宅。会議であった。雨の中を帰り、今朝は上がって太陽の光が差しているから暖かくなることを期待。10時に晩飯を食って、風呂に入りもう11時には就寝。何とも夜がこれではナサケナイ。
天候が回復した朝に、「お疲れさま」をまた思ってみた。Aの口癖は「お疲れさまです」である。受話器を取ると、ほとんど躊躇するようなことなく、瞬時に「あっ、お疲れさまでーす」と返事をする。逆にコールして相手が出たときも然り。Aにとって、話す相手は大概疲れているようだ(と思わざるを得ない)。AはAと面識のある人達から判断して、すべての人は疲労していると判断するのであるが、実際には僕は疲れていないし、勝手に決めてもらっちゃ困るのである。こういう概念は狭義の帰納ということなのだろうか。こういう決め付けというのは、明らかに相手に対して失礼である。一見、礼儀を尽くしているようだが、実は無礼になっているという典型かもしれない。一体いつから「お疲れさま」がはびこるようになったのであるか。関西お笑い風に捉えると、「誰が疲れてんねん、いらんおせっかいや、しまいにおこるで」と展開する。僕も、お疲れさまコールが着たら、いつか「別に疲れてねーし」と不機嫌に応える覚悟は持っている。実行に移せるかどうかの問題なのだが。駄文にお付き合い、おつかれー!。さてっ!!


2009年11月17日Tuesday
雨。
5時過ぎに起床。この時間まだ夜である。客殿から本堂へと外に出ると、ぽつぽつと雨が落ち始めていた。夕べ女房から「明日は相当冷え込むらしいよ」といわれていたので、今朝の起きやすさは「なんだ?」と、布団を抜け出すときに思ったのだが、雨模様であたたかかったのだ。本堂でのお勤めを終えると、地面を叩く音が聞こえ、雨脚が速くなってきていた。客殿のお勤め後に、須弥壇の灯明を取り替える。お湯を沸かし茶を入れる。女房が起きてくる。夜が少し明けてくる。「雨が要らん頃になって雨が降るな」とは、昨日会った山田先生の言葉。そうだな、特別に冷えないけれど、雨は寒い。今夜も会議があるのだ。

2009年11月16日Monday 晴れ
研修会の運転手。
甲府の総合市民会館に来ている。教育委員の研修会。運転手なので何もない。遅い昼飯を甲府中央郵便局近くの蕎麦屋で食べた。鳥モツ丼というのにも心を奪われたが、温かいそばを食べたかった。
月曜は気分が乗らないってのはほぼ毎週の定番。続々と小中学校からインフルエンザの報告。ほとんどの学校が一クラスだから、学級閉鎖=学年閉鎖となる。どこまで流行するのだろうか?風邪シーズンの入口でこんなに慌てふためいていたのでは、この先々のことが思い遣られる。新型インフルエンザに一度罹ればそれへの免疫力がつくのだとしたら、せーので一斉に罹ってしまったほうが、小切りに学級閉鎖なんぞを繰り返すより合理的かもしれないなどと、「大人はやっぱ罹らんな」と思っている親爺は思うのである。
車の中で、阿満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」読む。いくつかこの手の本も読んだが、死を恐れるということは、地球が消滅して人類が滅んでしまうまで永遠に解決できないことなんだろうな。


2009年11月15日Sunday 晴れ
クルマのお祓い一件。
夕べ留守にしている間に留守電があり、都留のTさんから車のお祓いをしたいとのことだった。朝女房が電話をかけると、八王子の大学に通うお孫さんのクルマだそうで、午後来るとのことで連絡を取った。シャコタンにしたマークUは、寺の坂を上がることができず、山門前に停め置いて、本堂前で安全祈願をし、その後、梵天祓いをした。Tさんご夫妻はお不動様の信徒で、もう何年も大晦日には欠かさず都留から来てくれる。車を買い替えると必ず、ここまで来てくれる。なにせ、お不動様のお参りを始めてから、会社の経営がすごくいいのだという。奥さんは「しばらく伺っていなかったので、孫の車のお祓いがあってちょうどよかった」と話してくれた。お茶をお出しして、わずか30分足らずでまたお帰りになったが、「大晦日にまた来ます」とはご主人のお言葉。もうまもなく師走になれば、祈願札のことも始めなければならない。都留のTさんは、もちろん手書きの大札である。「徒然」をお読みになってくださる皆さんにも、御札の申し込み是非お願いいたします。大聖寺からのお願いでした。

2009年11月14日Saturday
くもり
夕から結婚式に。
朝から大降りの雨で寒い。寒くて閉じこもっていたい気持ちを吹っ切りながら冬支度。ストーブをお蔵から出す。大型のファンヒーターを客殿に。他4台。灯油を入れて点火の確認。それからパソコン周りに積まれたCDを整理。いよいよ棚にも収まりきらなくなってきた感じ。さてこれからどう整理して保管していったらよいか。また考えなくてはならない。
午後3時に頭を刈り、従兄の娘Hちゃんの結婚式に行く準備。レストランを借り切っての午後5時からの結婚披露パーティー。神前結婚式という最近はやりのものらしい。歳の離れた従兄姉たちと久しぶりに会う。その後主人たちもみな元気そう。皆もう60歳を超えた。日本酒でも飲もうと漠然と考えていたが、コース料理を食べながら、ビールやワインなどで、日本酒はなく、結局僕はウィスキーのロックを飲んだ。新郎新婦は中学2年生のときに学校で知り合い、そのときから12年だか13年を育んでゴールイン。従兄の女房は僕の小学校からの同級生で、この人ともまた相当に久しぶりの再会だった。帰りは女房に迎えに来てもらい、従兄の一番の友人であるというN警察署の所長を所長官舎まで送るという、女房には申し訳ない、家を通り越しての夜の帰りとなったが、雨もなくいい夜だったと思う。いつか僕にもこんな夜が家族のために来るのだろうか。所長さんにはワインをいただき帰ってきた。


2009年11月13日Friday くもり
ブランケット掛けたら、睡魔に呑み込まれる。
今すぐにでも落ちてきそうな鉛色の空を見上げながら岩欠方面へ歩く。五条の水路道は落ち葉をさくさくと踏みながら歩く。こんな道を楽しんでいる人は少ないかもしれないなと思う。来年の秋はもうこの道を歩きたくはないなとも思う。金曜の午後は終業時間が待ち遠しい。タイムカードを押して外に出ると雨が落ち始めていた。車庫から玄関までがいつもより遠く、走った。どうせ洗濯をするのだからと、着替えをせずそのままで寒い夜の晩酌を始める。発泡酒、コップ酒、芋焼酎の湯割り2杯。これで今夜は十分。コタツを立てずに、一ヶ月ほど前からホットカーペットを使っていてこれがとても快適。横になって、足の上にブランケットを掛ければ、一日の疲れが立ち上ってくるように睡魔に僕の体も頭も呑み込まれていく。テレビを見ながら門倉有希という演歌歌手のハスキーな歌声に惹かれた。この人は演歌でなくても十分にブルースもいける。演歌だけの枠に収まる必要はないと思う。明日は従兄のところの結婚式で、今夜の雨は明日まで続くようだが、午後には回復しそうなのでそれを祈りたい。

2009年11月12日Thursday 晴れ
永遠の嘘をついてくれ。
つま恋2006の映像の中に、拓郎が中島みゆきをステージに迎えて、彼女が提供した「永遠の嘘をついてくれ」を一緒に歌うシーンがある。中島みゆきが左側の袖から黒のスラックスと白のブラウス姿で、背筋をピンと伸ばして歩いてくる。その凛とした雰囲気がとても印象に残った。この歌自体もはじめて聴くものだったが、拓郎の歌の性質をよく研究して彼女が作ったのではないかと思った。引き込まれた。この歌を一曲観ながら聴くためだけに、この映像を消去できないでいる。この歌の入った中島みゆきの「パラダイス・カフェ」を買った。つま恋のステージ上の彼女のような清楚な彼女がジャケットにいた。
風変わりな僕は、時々、拓郎を聴きたくなったり、夕べのNHK、SONGS「井上陽水」を観ながら、いいなぁと思ったり、中島みゆきを朝の歯磨き時に聴いていたりする。同じ時代の船に乗りながら年を重ねていく生活で、彼らの書くものに、少なからず心惹かれるものがあることは否めないだろう。永遠のものなんかないのだとしたら、残された時間をその時々の気持ちのままに遊んでもいいのかもしれない。


2009年11月11日Wednesday
雨の朝。
雨の朝はあたたかい。夕べからの雨が今朝も続いている。だいぶ降ったことだろう。本堂のお勤めもあたたかくていい。あたたかな朝をプレゼントされたように、自分勝手に受け取った。寒い朝には、熱いお茶がすぐにでも欲しいのだが、不思議と今朝はそんなに体が欲しがってはいない。お腹の中まであたたかくなっているようだ。
夕べは、英国人女性殺害で逃亡していた容疑者の身柄が拘束されたこと、森繁久弥さんが亡くなったことなどを知った。晩秋・初冬に亡くなるのは、有名人も無名の者も同じなんだなぁなどと風呂に入りながら思った。カメラマンE氏のブログに、本堂で護摩焚くの写真がアップされている。さすがにこれで飯を食っているのだなぁということが実感できる。自分ながら、いい写真だと感心した。GlassEye Inc. http://glass-eye.blog.so-net.ne.jp/2009-11-09-1


2009年11月10日Tuesday 晴れ
別になにがどうしてどうなってどういうふうにすぎたということでもないのだが。
バランスが崩れそうな一日であったかも。なんだか朝から重くて、こういうことはなかなか書きにくい。晩飯を食いながら、「結構ホームページ見ている人居るんだよ」ってなことを言われると、このインターネットの世界からも逃避したくなる。「見ないでいただきたいホームページです。これは公序良俗に反する非国民の書いたものです。目が潰れます」というふうにでも書いておけば、目にした人は恐ろしくなって別なとこへ飛ぶだろうか。
でも書きたいんだよな。ノートや日記に残すことがもうめんどくさくて、ここにこうして書いておくのが一番。それとちょっとだけ地球の営みに漂わせてみたい。ワードで書いて、自慰行為のような日記を秘め事のようにどこかに残しておくか。墓になんぞ持っていきたくないし、こんなものを残して何の価値もあろうはずがないと僕は僕の生き様を思う。
なんだかいやらしい一日だったんだよな。ここはもう僕の居る場所ではないと。あーーーあって、思う日もあって不思議ではない。


2009年11月9日Monday 晴れ
歩く。
歩くのが久しぶりだった。甲斐常葉駅から出口の集落を抜け、バイパスを上がり、35分ほど歩く。風もなく穏やかな陽気。歩くのは気持ちがいい。気持ちのいいことをしなくちゃ人生は、なんて気持ちが靴底から湧いてくる。
カメラマンは今日も撮影現場なのかなとか、金曜の夜に少しよって電話をしてきた従兄も、月曜の職場なんだろうかとか。この従兄は、今週の土曜に娘が結婚するので、ちょっとセンチメンタルになっているのかもしれない。花嫁の父だ。普段電話などめったにないが、電話の向うの声は、酒が入ってご機嫌であった。「来週は頼むぞ!」なんて、念を押された。僕にもいつかこんな場面があるのだろうか。歩きながら考えをめぐらせたり、師走に向かってしなくちゃならん仕事のことなども考えたり、35分はちょうどよい時間だ。
午後、先週死亡叙勲の申請手続きをしたご家族が訪ねてくれた。故人の奥さんと息子さん二人。長男は僕よりふたつ下で、懐かしく話をした。そんなに接点があるわけではないが、家に帰ってから思い出した。M君は高校の応援部に入っていて、応援部の部長であった友人のH君が僕の家に来ていたりすると、「酒をもってこい」と電話で呼び出したことなど。お役に立ててよかった。


2009年11月8日Sunday 晴れ
法事一件。
I家の法事10時半から。4姉妹とその御主人、ほか総勢12名。僕の同級生も。みな相応に年を取った。墓参をして帰りに、大師像の前で記念写真を撮るということになった。三回忌の時にも撮ったというが僕は覚えていなかった。昼食後2時から本堂で護摩を焚き、新車のお祓いが1件。E君と一旦別れて僕は本堂の後片付けと掃除。今年の護摩も師走と大晦日の護摩だけになるのか。昼過ぎに都留から月参りのTさんご夫妻。本尊を開帳してあったのでちょうどよかった。毎月大変ご苦労様です。
夕方E君来て晩飯。カメラの話など。写真をうまく撮りたいと思うが、プロには到底適わない。僕のデジカメには僕が撮りたいと思う機能は備わっていないようで少しがっかり。なるほど、プロにはプロの道だ。


2009年11月7日Saturday 晴れ
落ち葉掃き、焚き火。
やっとのんびりできた休日であった。ゆっくり起床。毎日寒くなる。午前中、明日の法事と護摩のための準備。法話も考えたり。午後、先日の二人の故人を寺の過去帖に記載する。ここに載った者はもうこの世には決して帰ることはない。過去帖に記す者としての重みはいつも感じる。誰にでもできることではなく、この寺では今は僕がこの役割。厳かな気持ちで筆を運ぶ。終えてから、外に出る。墓地に行き落ち葉掃きと焚き火。気持ちが和む。遅い秋の日が急いで過ぎる中を、僕も急ぎながら熊手でかき集めたり、溝を竹箒で掃いたり。体が汗ばんでくるのがわかる。外の仕事を終え、夕のお勤めをして頭を刈る。だんだん寒くなると、裸になって頭を刈るのが億劫になる。でも、毎週末の頭刈りは朝の読経以上に体に染み付いてきたような気がする。

2009年11月6日Friday 晴れ
慌ただしかったなあ一週間。
やっと金曜の解放の夜だ。先週の金曜日の夜のW家の通夜に始まり、A家の葬儀。E家の法事。Mさんへの生前戒名の授与。先代の13回忌などがあったり。ほっとして勤めに出たら、またもや死亡叙勲の待ったなしの事務に追い立てられた。少し早く出勤して最後の書類の仕上げをして、教育庁総務課のS女史にデータを送信したことを話し、向こうからも後の手直しは任せて欲しいとのことだったので、除籍抄本と刑罰等調書を甲府市役所に受け取り総務課へ回ることを話して出発。すべてが順調に行き、福吉でタンメンを食べて戻る。後回しになっていた仕事を片付けて金曜のタイムカード押してサヨナラ。サヨナラだけが人生だ。カーステレオにはカルメン・マキ。
鍋をつつきながら晩酌。野球のない夜は静か。日曜日の法事のこと、午後からの護摩のことなど、気を緩めないように自戒しておしまいだ。


2009年11月5日Thursday 晴れ
叙勲書類作りの一日。
一日死亡叙勲の上申書類作り。早めに出勤すると、前日、通夜の葬祭ホールまで電話をして連絡を取った家族から、故人の経歴や功績を記したものがFAXで送られてきていた。ここまで残してくれてあるのは、十分に本人が何かあったときにはこれで死亡叙位叙勲の申請をするようにという、家族への最後の願いでもあったのだろう。履歴については、勤務記録カードではなかったので不十分であったが、功績については使えそう、何とかなりそうに思った。ただ、送られてきた書類を見ると、故人は養子で、大正12年生まれなので、改姓の確認と兵歴があるか調査する必要があった。転籍して現在住む甲府市に、除籍抄本と刑罰等調書の交付の公用申請をし、奥さんの実家は本町にあったため、除籍謄本を取り婚姻・改姓の記録を調べた。教育庁総務課へ勤務記録カードを用意していただけるよう頼み、国保援護課へ陸軍の軍歴があるか調べてもらうと軍歴があったので、同僚のMさんに甲府市役所、教育庁総務課、国保援護課へと出かけてもらった。僕は夕方までかかって功績調書他の書類を何とか作り上げる。ご遺族からは、申請までの期限が11月6日だと伝えていたので、故人の兄弟からも、何度か僕の仕事の進捗状況をうかがうような電話が、葬儀の合間を縫ってかかってきたりした。こうまで心配していただくのであれば、こちらもそれなりに本腰を入れて、やり遂げなければならんという気持ちになってくる。目途がつき少し遅く帰宅。明日中には、持っていけるであろう。

2009年11月4日Wednesday 晴れ
法衣店ごっこ。
11時に教育長と支所を出て、本庁でM先生夫妻と待ち合わせ。県の教育功労者表彰のため。途中で昼食を取り会場のベルクラシック甲府へ。本でも読みながらロビーで待とうと思っていたが、立会いの席に余裕があるとかで僕も会場へ入ることとなった。式は、至極あっさりとそのものズバリだけで始まり、教育委員長、知事、県議会議長の挨拶で40分で終了。これはこれで簡潔でよい。支所に戻ると、またしても死亡叙勲が1件待っていて、今日はどうにもならんと帰ってくる。
夜、女房と「田舎のお寺と京都の法衣店」ごっこをして夜を過ごす。「もしもし、山梨の大聖寺です」「へぇへぇ、いつもおおきに」「如法衣を頼みたいのですが」「へぇ、おおきに、それでどんなものがよろしいでっか」「23,000円の...」「あっ、一番安いのでんな」「まぁ...」みたいなね。葬儀が2件続いて、以前から欲しかった梵字の入った如法衣と藕絲織(ぐうしおり)という、蓮の糸で織った折五条(輪袈裟)を買ってもよいというお許しをいただいた。法衣店ごっこの賜物である。


2009年11月3日Tuesday 晴れ
所変われば、そこの進め方があるもんだ。
A家の葬儀終える。朝4時半起床。西の上天にオリオン座が輝いていた。6時40分頃に家を出る。8時から出棺の準備。ホールの方が棺への釘打は火葬場から固く止められているので打ちませんと。釘打は死者に「止めを刺す」のである。命終えたものは速やかに向こうへ行きなさいと。この世に未練を残しては決してならぬと。お前はもうこちら側に来てはいけないのだと。生の世界と死の世界の結界のようなもので、棺に釘を打つことによって、送る側も区切りをつけるのである。決して無意味なことをしているわけではない。火葬場で出釘が打たれていることによって、炉に大きな負担がかかるのであろうか。否、釘打を禁止している斎場の方がまだこの辺りは少ないのだと思う。
葬儀は、施主さんからも「よかった」と、お褒めをいただいた。こういう言葉が一番嬉しい。僧侶としての役目をしっかりとまじめに務めることは、祖父、父からの教えである。葬儀後に初七日があり、経をあげてお話しを少しさせていただいた。献杯の後、10分ほどで僕は退席させてもらって帰ってきた。今回のセレモニーホールは初めての場所で、僕にとっては他所に当たる地域で、土地の習慣もだいぶ違うようであった。初七日の席も、僕の分だけ一人の席が祭壇の隣に設けてあった。こちらでは、中央の列の一番上に着くというのが習慣だけれど。葬儀が終わって法衣をたたんでいると、ホールの女性が、「この辺りの僧侶は、初七日法要の途中で帰る例が多いので、膳も持ち帰り用に準備して、席には、鍋物とお刺身くらいを並べます」というので、実は僕は「ありがたい!」と思った。いささか疲れていた。それに今日はクルマなので当然飲むことができない。飲まずに時間を過ごすのは大の苦手だ。この習慣はありがたかった。それで早々に喪主夫妻に挨拶をして帰らせていただいた。ご夫妻も「早く帰ってお休みください」などと気遣ってくれた。今ビールを飲んでいる。しばらく葬儀と縁のない生活がいい。


2009年11月2日Monday 晴れ
木枯らしの中を帰る。
午前中出勤。臨時職員の賃金伝票だけで半日終わってしまう。後ろめたさを感じながらも、快く午後お休みをいただく。甲斐市のAさん宅で午後3時半から納棺。塔婆と位牌を書くことが済んでいなかったので、授戒の後、納棺自体はセレモニーに任せてお先にホールに向かう。初めての葬祭ホール。遠路ご苦労様ですと迎えてくれる。iPodをミニ・スピーカにつないで聞きながら塔婆書き。6時から通夜。戒名に桂月を入れたので、月の話しなどをして、外の月のことが気になっていたが、終わって帰るとき、はっきりと丸い月を眺めることができた。冬の木枯らしのような大風が吹いていて、明日の朝はホール集合が8時なので、僕は7時前には家を出ることになり、おそらく相当冷え込んで寒いんじゃないかと想像する。「お気をつけてお帰りください」に、少し心温まる思い。帰りの道は増穂に入るまで街路樹の葉を蹴散らし巻き上げるほどに荒れ狂う風。帰って今日の衣や使用したものを片付け、明日の支度をして一日の終わり。しっかりと務めなければ。風呂に入り窓を開けると、ここにも風が出てきた。

2009年11月1日Sunday 晴れ
13回忌。
先代(父)の命日で、13回忌。干支が一周して12年が過ぎた。僕もこの23日で53になる。父と母は高校の教師をしていたが、52で退職をし寺の僧と百姓になった。父は68歳で亡くなったので、60歳の定年退職まで務めあげてからの僧侶の生活で、わずか8年で折れたとしたら、めっちゃ心残りであったろうが、52からの68だったので、本人は決して納得していたわけではないが、僕はまあまあよかったかもしれぬと今は思っている。で、僕も、親爺様のブログに書いてあるように、「俺も何年かしたら仕事をやめて、好きなこんやるぞ!」みたいなことを考えている(いた)。父のように68で逝ってしまうとしたら、貧しい生活になろうとも、坊主として生きる生活をなんとしても、早めに始めたいと考えていた。それが、愚息の思いもかけぬ宣言に、こちらの人生設計までも狂わされてしまいそうなのだ。今朝は、昨日の葬儀の疲れを取るため、少し余計に寝かせてもらおうと思っていたら、7時に女房が取った電話は、双葉に住む檀家から「おばあちゃんが夕べ遅く息を引き取りました」というもの。飛び起きて、お茶とカップスープを流し込み、枕経をあげに向かった。1時間ほどで着き、経をあげ、息子のMさんと打ち合わせをして帰宅。12年前、父の葬儀の前日に檀家のAさんが亡くなったことを思い出した。先代は僕を試そうとしているのか。実は今日は何もない日ではなく、法事ともう一件来客の予定があり、それから、父の命日に、叔父叔母が訪ねてくる予定もあった。11時から法事。午後1時30分に千葉からMさん来寺。お母さんの供養と、Mさんには生前戒名を授ける。Mさんのお母さんKさんは(後から訪ねてくれた叔父叔母とも話したのだが)、大聖寺で父や弟である叔父の子守と、寺の手伝いをしてくれていたのである。叔母から今日聞いた話では、小学校3年生で、父や叔父の世話をしてくれたのだ。幼子には、Kちゃんが絶対的な存在であったのだ。そんな父の13回忌なんですよと、Kちゃんの娘であるMさんも泣いてくれた。僕も泣いた。叔父叔母にも、少し前にこんな人が来たんだよと話した。よい供養になったのだと思う。Aさんのところの葬儀は11月3日になり、また僕は戒名を考えたりしながら、部屋と庫裏、客殿を行ったり来たりした。しまった緋の衣をまたかばんに詰め、明日の通夜の準備もする。でも、寺の住職としての充実した時間であることは実感している。

2009年10月31日Saturday 晴れ
葬儀終わる。
晩秋の暖かい日で、無事葬儀が済んだ。僧侶5人という葬儀も久しぶりだった。最近は3人とか独りのときもあるし、セレモニーホールだけが商売根性丸出しで、僧侶もセレモニーの関係者の一人として捉えているのじゃないかと思ってしまう。葬儀の中の特別焼香を、区長さんもお願いしたいと司会者が言うので、「うちの葬儀ではいつも区長に焼香を頼むことはない」と応えたが、区からの要請なのだろうと承知をした。実は3年前のときも区長をという話があったので、初七日の席にちょうど区長と副区長が隣りだったので、教えていただきたいのだがと、いまのことを切り出した。そうしたら、区長も「俺も指名されてびっくりした」と、区ではそんな決めはしていないという。お互いに、先方からの依頼なのだと思っていたのだ。で、どうも勝手にセレモニーなのだということになった。次回からはちゃんと断る。セレモニーが独断で動き始めて、彼らを誰も制止させることができないのか。僧侶はセレモニーの歯車のひとつでは決してない。
このぐらいにして、葬儀自体はとてもよかった。5人の僧侶だと読経も大きくて、讃の響きもおそらく参列者の心を打ったことだろう。初七日の喪主の挨拶のなかで、付けた戒名を褒めていただいた。僕には何より嬉しいことであった。決して欲を書かず、まじめに務め上げることが、僕の真言僧としての戒めである。初七日の席と、晩酌も美味しくいただいた。


2009年10月30日Friday 晴れ
通夜。
なかなか諷誦文が進まなかったが、午前中で何とか仕上がる。午後3時から納棺なので、昼食後に頭を刈る。その後、息子の奨学金の手続きのため、住民票、印鑑証明、所得証明を取りに役場へ。「おっ!家業か」なんて言葉もかかった。
故人を棺に納める前に、弘法大師からの血脈を授ける。その後、セレモニーの方が納棺をする。納棺師という職業があると聞いたが、今日の男女は、僕は初め彼らを見たとき、白衣姿だったので、故人が入院していた病院の方が焼香にでも来たのかなと思ったが、この白衣姿の男女こそが」おくりびと」だったのである。最近の納棺セレモニーは、僧侶の所作などよりもずっと長いように感じる。
通夜の始まり前に夕飯のお弁当。アピオの弁当は、今日も入っていたけど、さば味噌が美味い。お茶入れに来てくれた女性に今日もさば味噌が美味かったことを伝え、「今日、Hさんは居ないんですか?」と問うと、「形態が変わって、Hさんは別な場所に行っています、ご指名であれば呼びましょうか?」という。「いや、そんなだいそれた」と断る。アピオには指名制度があるのだそうな。こだわりの寺院住職や、この人でなきゃ、葬式やんないなんて坊主も居るんだろうな。で、そんな話しから5分もしないうちに、コンコンとノックがあって、Hさんが現れたんである。「いまあなたの噂をしていたところです」というと、僕の寺の葬儀のあることを知って、わざわざ訪ねてきてくれたのである。実はHさん、僕が以前、「使いかけの蝋燭はどうするんですか、もし捨ててしまうのなら、弱小寺院のためにいただけませんか」というと、燭台から蝋燭を取り紙に包んでくれたのである。とても嬉しかった。その後、今度は向こうがそのことを覚えていて、僕のために、何本か蝋燭を包んでおいてくれたりもしたのだ。卑下するわけでもないが、最後まで蝋燭を使ってやりたい気持ちもある。確かに裕福な寺でないことも確か。通夜のことなどとは程遠い、今日一日のこと。


2009年10月29日Thursday 晴れ
檀家の葬儀になる。
朝7時前に檀家のWさんから電話。女房が出た後僕に。今朝の2時過ぎに亡くなったと。課長に電話をし、今日明日と休みを取りたいと事情を話し、枕経を終えて戻ったら一度出勤すると伝える。着替えて枕経をあげに伺う。八十八歳の天寿を全うした穏やかな寝顔である。理趣経を上げ、終えて少し喪主ご夫妻と話し一旦引き上げて職場に行く。休暇届を出し、やらなければならない事務があるかどうかを確認して帰る。9時に喪主宅で組の方々とセレモニーの職員を交えて葬儀の相談。30日の通夜、31日の葬儀と決まる。寺もこの3組なので、手伝いには女房に出てもらうことにした。葬儀ももうほとんどセレモニー任せなので、特段することもなく打ち合わせ後に解散。1軒ひとりの手伝いと、今日は何もないということ、明日の午後3時の納棺からセレモニーホールでの通夜を手伝うこと、葬儀当日は午前8時に出棺準備のために出ること、11時30分にホールに集合などが決まる。僕は寺に戻り準備。4名の僧侶の手配と、先ずは戒名を考える。一日戒名を付けるだけで終わってしまった。明日の午前中に諷誦文を作れば何とかなりそう。

2009年10月28日Wednesday 晴れ
護摩祈願。
護摩を焚いてくださいといわれている。こういうことはよくある。なければほぼ毎月自分の都合のよい休みのときに焚くようにしている。願主が臨んでいる場合には、百八支の終わったところで、添え護摩を火中に投じてもらっている。もちろん別に祈願札は用意している。願主のない場合は、世の安寧や平和のこと、家族や近しい人の健康や、心願成就などを祈願している。大晦日の護摩には、信者さんが何人か来てくださるが、点火をして百八支を投じた後に上がる炎に「お不動様が降りた」とか「龍を見た」というようなことを言われることがあるが、当事者の僕にはそれを見るゆとりはない。それでもこんな話を聞くのは嬉しいものだ。願う方たちのそれが成就するために焚くので、喜んでもらえたり、お陰様でとか言っていただくことは嬉しい。本堂の外陣に、添え護摩木を1本百円で、願い事を書いてくれるよう置いてある。月には、願い事を書いた何本かの護摩木が三方に置かれる。すぐに結果の出るようなものではないにしても、続けて参拝してもらえたらと考える。祈ることのできる場所を持つということは、生きる上で、大きな安心に繋がるのではないか。いつになるかまた連絡をくれるといっていたが、長く付き合える信仰の寺として捉えてくれたらなお嬉しいと思う。
牧丘から先代の13回忌を追善するメールが届いた。


2009年10月27日Tuesday 晴れ
絶妙な涙のタイミング、か。
雨上がり、今日は天気がよさそう。なめこを楽しんでいる。夕べはカメラマンのE君が訪ねてくれて、女房のピザを食べながら楽しい時間を持った。「仕事が順調すぎて」とは、なんとも羨ましい話しではないか。浮き沈みもあるだろうから、いつでも振り返ったときに、波が高すぎず低すぎず、穏やかに凪いでいることを確認しながら生きることだ。のりピーの裁判があったので、そんなことから話しが進んだ。E君が知る背中の刺青を隠しながらプロボクサーとしてその生き様を隠さずにさらした「川崎タツキ」さんの話も聞かせてもらった。世間は特に好奇の目でのりピーの今後を面白おかしく書き続けるんだろうけど、変わってゆけるのが人の持つ特権というものだからね。雨の後には必ず晴れた青空だからね。自分をしっかりと探し出して確認することではないか。そういう旅か。それにしても、法廷での絶妙な涙のタイミングって、裁判中も女優を演じているかのように書いたり、言い切ってしまったりする奴らって一体なんだ。そこまでの憶測で何がどう進展するというのか。常識や良識を持ち備えているだろう人たちは、その一線を軽々に越えてはならないと思うが。

2009年10月26日Monday
雨だ。
寒い朝で、起きるのが嫌な朝だ。町議会の選挙の結果を知ることもなく眠りについて、新聞で結果を。落ちた方も当選した方も、時の運なのかもしれない。誰になっても、そんなに大きく変化が現れるわけでもないだろう。そこそこに生きてゆくだけだ。10月も今週でおしまい。
雨の中を傘さして通う小学生の列を見ていると、こんな時が僕にもあったのだなと不思議に思えてくる。何も考えなくてよかった時代で、考えを持つようになってから堕落していったのだ。今朝は、鉛の玉15トンを抱えている。重い。


2009年10月25日Sunday くもり
法事一件。
11時から相川家の13回忌の法事。先代の亡くなった2日後に相川さんが亡くなった。11月3日の深夜、僕を気遣うように相川君が寺に来て、枕経をあげてくれという。明日が先代の葬儀だったので、早めに床に着いていたが、着替えて出かけたことを覚えている。先代の葬儀のあと、何人かの僧侶には、相川家の葬儀を手伝ってくれるようお願いした。12年前の思い出だ。干支が一回りして12年が経ち、13回忌。彼の弟妹の子供たちの中には、おじいちゃんである人を知らない子供もいる。でも今日は家族が全員集合して、よい供養の日となったのではないか。父や母の背中を見て、見よう見まねで手を合わせ、僧に頭を下げ、焼香をする。誰が教えなくても、背中を見て覚える。これが正しい行いだ。こんな子供たちはきっと、心も丸く、道を外れることはないだろう。来週の1日には、父のために供養の経をあげようと思う。

2009年10月24日Saturday くもり
柳沢家法事。
檀家でもあり従姉妹でもある姉妹と、その夫、子、近しいご夫妻来寺。伯母さんの旅立ちの年齢とまさに僕らが同じ年齢になった。子供たちの未成熟のことを思うと、伯母の苦しさが痛いほどよくわかる。大学に入ってからはじめて来たというTは、名門早稲田の応援部リーダーらしく、詰襟の学生服にて法事に出席。伯父も伯母もこの頼もしい孫に目を細めたに違いない。もうひとりはAは、浪人生で今日も模試があるのだと聞いた。法事後に話をして記念写真。5年後の伯母の33回忌にはまた集まろうと。果たして僕たちや子どもたちは如何様になっていることだろう。墓参を終え、施主の同級生の店「黎明」へ。普段口にすることのないものばかりが出てくる。絶品の生牡蠣。刺身、白子。生ビールのあと熱燗へ。2日酒を飲まなかった身体への滲み込みは早い。中野の義兄は、来年還暦というに、会うたびに若さが戻ってきているようである。僕たちは、かつてこんな風になってしまうのかと思っていた50代や60代に手が届いて、でもそれが、「なーんだ何も変わらねぇじゃねぇか」とそれを実感している。その時にならなければわからないこともある。思い込みだけで生活するなんてのは馬鹿げたことだ。涙もあったけれど、楽しい時間を過ごすことができた。老いるということも、まんざら捨てたものじゃない。この従姉妹家族とは、まだこの先深い家族になれるような気がしている。そして互いを思いやるという気持ちも確かに生まれてきている。

2009年10月23日Friday 晴れ
期日前投票事務。
午後8時まで町議選の期日前投票の事務にあたる。11時間半で189人が投票に来た。一番身近な選挙に関心が高いのもあるだろうが、有権者よりも、候補の陣営の票読みに余念が無いことによる投票の方が多かったのではないだろうか。各陣営、一票入れてくれそうな人たちをピストン輸送するというか。ひとりで勝手に切れた年配のご婦人も居た。期日前投票なので、選挙当日に何故投票できないかの理由を申告するのだが、他所に出かける場合、町内であると、出かける場所を書くことになっている。こちらは一応事務としてお願いするのだが、このご婦人は「どこでもいいだろう、秋刀魚買いに行くのだを繰り返し、鳩山さんに訴えてやる打とか、何がこれが簡素化か!」と、えらい剣幕で息巻いていった。秋刀魚を買いに行くだけなのに、なぜ当日投票所へ行けないのか、その疑問だけが残った。
今日は、宇宙飛行士の若田光一さんが和紙の里を訪れたりしたので、教育委員会の同居する下部支所の選挙事務も午前組みと午後組の2編成だった。和紙の里には、町内の小中学生を含め1000人が集まったらしい。この町で1000人を集めることなんかおそらく普段はできないだろうが、宇宙への関心と若田さんの知名度の大きさが測れるというものだ。
樹村みのりのコミック「彼らの犯罪」は、大満足の読み応えだった。これを読めただけでも今日の一日はありがたかった。


2009年10月22日Thursday 晴れ
最後まで気を抜くな。
今朝のニュースを見るまで知らなかった。楽天がまさかの逆転負けしていたとは。夕べチラッと見て、もう勝ちは間違いないと確信していたのだが、「逆転サヨナラ満塁本塁打」で満貫ですよ。ゲームは終了まで気の抜けないものだな。それからもうひとつ。J2のヴァンフォーレ甲府の試合。最下位の横浜FCとのホームゲームを落として4位に転落。3位に上がった湘南との直接対決が残っている。残り5試合絶対に落とせませんよ。これまた、のんきに構えてはいけないという教訓だよな。小瀬まで出かけた親父殿も、帰り道は一人ではさぞ、お寂しいことであったろうと。無関心を語りながら、それでもなぜか気にかかるんだよな、がんばれ!ヴァンフォーレ。
一日終わって、結構ぐったり気分。死亡叙勲の上申書は、御坂へ出張するN君に県庁へ寄ってくれるよう頼んだのでよかったが、明日、町議選の期日前の事務に一日出なければならないので、処理しておくべきことをするため、海の沖にまで漕ぎ出してしまったものだから、岸に戻るのに夕刻時間がかかってしまった。樹村みのりのコミック2冊は、明日読めたら読もうかと。


2009年10月21日Wednesday 晴れ
なめこ汁。
今朝なめこの味噌汁。今年初の我が家のなめこ。なめこと豆腐の味噌汁はやっぱり美味い。味噌汁の中で僕はなめこの味噌汁が一番好き。今朝のはまだ、小さなものだったけれど、これから本格的になめこが出てきたら、売り物ではないので、大きく育てて、醍醐味のあるなめこを食べる。大きく開いたなめこは本当においしい。
今日は午前中かかって死亡叙勲の書類を仕上げ、県の担当者へメールで送り、後の添削などをお願いし、午後休みを取った。寒くなる前のズボンを買って貰う。こういうことがホントにめんどくさくていやだ。女房に、ズボンを持っていって、同じサイズと長さで適当に買ってきてくれといつも言うが、こんなことはできないと言う。あんたのような人は珍しいとも。珍しい人と結婚したのだ、君は。それも人生。


2009年10月20日Tuesday 晴れ
落とし穴みたいな仕事。
町議会議員選挙の始まり。我が地区からの候補も、昨日から寺の駐車場に舞台となる4トン車を据付け、テントを二張り建て、今朝も早くから会場の準備。僕はそれを横目で見ながら、曙小学校の児童の朝の迎えに行く。消防団が動いているのが後でわかったのだが、曙で行方不明者が出た捜索のためと知る。午前中の仕事を始めると、隣りの部署のW君から、死亡叙勲の該当者が出たと知らされ、家族に確認を取り、県に報告し、準備を始める。この仕事は不意の落とし穴みたいなもの。でも放っておくわけにはいかない。これの時は他のことはすべてストップしてかかりきりになる。新しくここに来たMさんに、履歴書の作成を始めてもらいながら僕は功績調書を作る。刑罰調書と除籍謄本を交付してもらい、なんとか出口も見えてきそうなところで終業。3人オーバーの町議選の遊説カーが走る一色の道を家に帰る。誰が当選しても、大きく変わるわけではない町ではないか。迷うことなく歩くことのできる町でよかった。

2009年10月19日Monday 晴れ
月曜一日終わり。
月曜の朝はやっぱり体と頭がずるい考えに走る。今日は来年小学校に入る児童の「就学時検診」。総合文化会館で午前中会場準備。早めの昼食を済ませて12時過ぎから受付という流れ。久しぶりに波木井を少し歩いた。僕が9歳まで過ごしたもうひとつのふるさとのような場所である。80人に足りない入学予定児。8小学校だから、平均すると1校当たり10人にも満たないのだ。検診が始まり、I病院へ医師を迎えに行ったN君から電話で、病院の手違いで医師を手配していないと。「まさか!」の事態。結局、耳鼻科の医師の診察はできなくなり、後日改めてということになった。夕方事務所に戻ると、早速保護者から抗議の電話が入ったと。明日の朝、曙小児童の迎えをすることになり、夜の学校統合の会議からキャラバンを乗っていくこととした。8時半過ぎに終わり、帰って録画しておいた「鶴瓶の家族に乾杯」を見ながら晩飯。徳光和夫がゲストだったので、どんなものか見たかった。戦時中の疎開した寺を訪ね、懐かしい人たちとの再会は、一日の疲れを取るに少し肩を揉み解してくれるようだった。

2009年10月18日Sunday 晴れ
草刈機、今年もご苦労さん。
8時から地区の山道つくり。山に入るのは気が滅入る。もう手がつけられなくなって、裏山に行くのが億劫になっている。人の場所ではなく獣の場所と化している。寺の墓地の椿を1本伐る。明るくなった。もみじもすごく大きくなってきていて、これから紅葉がいいけれど、もみじを伐れば明るく陽が入る。こんなことを少し考えながら歩いた。終わって中沢河川公園の草刈り作業。セイタカアワダチソウがここにも多く繁殖。普段会うことのない人たちと久しぶりに会話する。汗もかいたし気持ちよかった。作業が終わって、ガソリンを抜いて2台の草刈機を倉庫にしまう。来年の春だまた。
午後はなんとなく、石川遼くんのゴルフを見てしまう。プレーオフで決着。彼は優勝できなかったが、恐るべき18歳だ。こんな姿を見ていると、寝転んで眺めている自分が恥ずかしいよな気分になる。で、夕のお勤めを済ませてから、護摩木を30分ほど割る。なんとか自分を納得させて、さて晩酌だ。


2009年10月17日Saturday くもり
必勝祈願の護摩を焚く。
依頼があって午前中護摩を炊く。女房は娘と過ごすために朝早く上京。雨になるかもしれないので朝食後お勤めをしてそのまま護摩に入る。夏の暑さが退いて護摩を焚くのもあたたかくて気持ちがいい。終わって、頭を刈り、それから護摩壇の片付けと本堂の掃除。掃除と護摩壇の荘厳を終えて12時半。昼食はレトルトの新宿・中村屋インドカリー。午後からはのんびりと。夕べも見たクライマックスシリーズの楽天:ソフトバンク戦を見る。ソフトバンクはもう戦意喪失状態であっけない連勝で楽天が駒を進めた。野村監督という人は相当な勉強家で戦略家ではないか。これを今期で首にするというのは尾を引くのじゃないか。
加藤和彦が亡くなった。軽井沢のホテルで自殺したみたい。そういえば先週見た松任谷由実のステージにゲストで出て歌っていたのにな。他人の気持ちの変化や心の状態は知る由も無いが残念だ。彼も好きな音楽家だったし、フォークルからサディステック・ミカ・バンド、ソロと大きな活躍をした。こうしてこれを書いているパソコンのテーブルにも、加藤和彦のアルバムが実は置いてあったりするのだ。冥福を祈る。
午後から雨が降ってきて、風もあった。仏光堂のWさんが頼んでいた位牌を届けてくれる。この父の旧制中学時代の同級生は、80にならんとするにまだ現役で働いている。以前聞いた話だが、働けるだけいつまでも居てくれと言われているとか。元気だし、何より若い。今日もそんな若さを見させていただいた。この方もある意味仏のような存在だ。


2009年10月16日Friday 晴れ
猿(ましら)襲来。
来なくていいなぁと思えば不意にやってくる。今朝がまさにそれ。5時過ぎに本堂に向かう外は、キャーキャー、ギャーギャーと静寂を破るような騒ぎ。猿(ましら)の集団が杜の中で、僕を観察しながら、冷たく囃し立て、挑発するかのよう。苦々しく思いながらも朝のお勤め。終えて外に出る。杜が揺れるのは、奴らが高枝を伝い揺すりながら渡っていくからだ。近所のトタン屋根を跳ねる金属音。柿の実を争ってもぎ取る。台所で猿が来ていることを妻に話すと慌てて外に出て行った。竹の笊にサツマイモを五つほど乗せて戻り、「取られた」と。友人から「少し干した方がおいしくなるよ」と貰ったサツマイモ。そういえば昨日の朝10本以上あった芋を僕は見ていた。まさにもってけ泥棒で、労せず軒先から奴らはサツマイモを手に入れてしまったのだ。これから秋の落ち葉で焼き芋をするのが秋の楽しみなのに、女房は朝からがっかりだ。こんな朝であっても、仕方なく思うしかないのか、厳しい田舎暮らしだ。

2009年10月15日Thursday 晴れ
早く終われば何もいうことなし。
午後8時40分帰宅。今夜の統合説明会は1時間足らずで終了。受け入れる側になる学校のほうはどうしても関心が薄いようだ。学校を閉じて違う学校に行く側はたくさんの心配が生徒や保護者や教師にもあるように感じるが、受け入れる側は対岸の火事のような見方になるのか、まあそれも無理ないかもしれない。教育委員の皆さんも、早く終わった後は心なしか笑顔がこぼれ、談笑する姿も弾んだ感じがする。僕らも「早く終わってよかったね」なんて交わして、「あー早く帰ろう、帰ろう」なんていいながら夜を帰る。こんな一つの夜だけで何がどう変わろうと言うものでもないが、早く終わった夜は理由もなく嬉しい。
Rod Stewartを聴きながら振り返る時間が今夜持ててよかった。「Maggie May」「Sailing」、お決まりの歌みたいなんだけど、いいなぁ。山梨にもインフルエンザワクチンが4000人分ほど入ってきたらしい。医療従事者がを優先した後に、妊婦さんなどへの投与となるらしいが、健康体の人たちの要望に応えられるのだろうか。毎日、各地でひとり、ふたりと亡くなる人が出てきている。自然の営みのから見たら、大したことない死者の数かもしれないが、でもインフルエンザで亡くなってしまう事実なんだよな。


2009年10月14日Wednesday 晴れ
秋深まる。
夕べ早く寝たお陰で今朝は早く起きることができた。暗い朝と冷たい朝になってきた。本堂も寒い。暗い本堂では蝋燭の灯りがあたたかい。天気予報では遅い午後から天気が下り坂だとか。伐った樫の硬い枝を少し片付けて、その後思いつきで外の便所の掃除。蛇口につけるホースも冷たく硬くなった。気持ちよく掃除する。こういう何でもない時間が大切なんだ。見上げると、ケヤキの葉も大分枯れてきて、落葉も進んでいるのだ。ゆっくりと身体を休める時期に来ているのが自然だ。僕らの生活も、本来はこのような自然の流れの中で、無理をせずに生かされるというのが大日如来の宇宙に生きるということなんだろうな。
(21:45) 結局雨など降ってはいない。今夜も早めに風呂に入り、ファンキーな音楽を聴きながらのんびりと夜の時間を過ごしている。臨時国会を前にして、小沢一郎と福島瑞穂の「黒の舟唄」ような深くて暗い隔たりが見えてきたようだな。これはよくてあれはダメなんて、連立が成り立たないでしょ。

2009年10月13日Tuesday 晴れ
酒場放浪記。
BS-TBS「吉田類の酒場放浪記」という番組があり、これを見るのが大好き。地デジ環境に変えてから、この番組を或る時に見て、その時からこの15分番組を4回放送する1時間がとても楽しい。吉田氏が下町の風情ある酒場を訪ね、常連さんや店の方と語り合いながら酒と肴を楽しむという番組である。吉田氏の巧妙な語りと、生ビールから日本酒へと流れていく時間がなんともたまらなくいい。どの店も長い歴史とこだわりと、包み込むような雰囲気を醸し出している。
こんな飲み屋なら毎晩でも通ってみたい。一日の終わりをこんな店で締められたら、明日も生きてみたいと思うに違いない。残念ながら僕の住むここにはこんな店がない。ないので家で飲む。家飲みである。しゃれた肴なんぞは望めないが、何よりも落ち着いてゆっくりできる場所である。目下のお気に入りは、喜田の姉さんからいただいた「チャンジャ」。絶品である。酒飲み秋が深まる。


2009年10月12日Monday 晴れ
矢沢永吉60、豊田勇造60。でも止まることはない。
連休も終わり。庫裏の裏の落ち葉の片付けや墓地への道の掃除。午前中で済ませ午後はのんびりと。これから夕飯で、それまでを、ビール飲みながら「矢沢永吉ライブ in 東京ドーム」。還暦を迎えた矢沢のライブ。矢沢の60と、豊田勇造の60歳のliveCDも届いて、どちらも僕のこの先を照らしてくれそうと勝手に思っている。時代や体制におもねることなく生きることが僕の生き方だ。これを変えてしまったら命あっても屍と同じ。
勇造のレゲエのアルバムを聴いたのが24の時だった。そこから本当の僕の人生の旅が始まったといっても過言ではない。矢沢がソロになってからのアルバムで、「ドアを開けろ」はホントによく聴いた。今何故彼らが褪せずにいいかっていうことは、止まっていないってことだ。「真言宗、ほら貝うるさい!」って電話があっても、誰がやめるものか。


2009年10月11日Sunday 晴れ
草刈り2009はこれにて終了。
午前中2時間半、午後1時間半、墓地と竹やぶ周辺の草刈り。滞りなく済ませ、これにて今年の草刈りは終了。来週地区の河川公園の草刈りがあるので、それが終わって、2009の草刈りはおしまい。来月には53になる。泣き言も愚痴もこぼしたくない、52を終えんとする男一匹。
昨日いただいたお酒を夕飯にいただく。何でも飲みますだけど、日本酒はやっぱりいいなぁ。DLしたばかりの10月4日の「24th Annual Farm Aid Concert」でのNeil Youngを観ながら、まだ明日も休めるって、だらだらと僕の夜の酒が続く。

2009年10月10日Saturday 晴れ
逢う魔が時の来客。
午後から竹を割った。同志会のみんなが八幡神社のお祭りの花を作る。その花を付ける竹。去年は作らなかったが、今年はもう在庫がないだろうと思ったので。この位しかもう僕には彼らに手伝ったり、後方支援してあげることができない。少しずつ、でも確実に老いていく我が身だ。終わって、挿し木をしておいたツツジの二株を地におろしてみた。今がそれに適した時期なのかはわからないが、僕の気持ちがそれをしてみたかった。育たなければそれはそれの運命。でも、育ててあげたいと祈りながら土を盛る。
夕暮れ間近に、甲府の玄法院の副住職とその同僚のお弟子さんお出でになる。本堂に案内し、ついでに夕のお勤めもご一緒していただく。何もない寺では通常何もない。何もないということは僕一人なのである。今日は3人で般若心経も上げられて、お不動様も喜んでくれたに違いない。僕も予測しない方々の来山で、秋の「逢う魔が時」をホットな気持ちで過ごすことができた。
wowowの特番で松任谷由実のliveを録り観ている。さすがに彼女はエンターティナー。歌の下手はもうどうにもならないが、彼女の楽曲に僕の青春は重ねることができる。先ず、大橋君の下宿で、荒井由実の「ひこうき雲」を小さなプレイヤーで初めて聴いたっけ。大橋君はもう既に鬼籍に入っている。


2009年10月8日Thursday
台風18号。
午前7時半を過ぎて風が出てきた。今朝は5時過ぎに起き、本堂のお勤めは割愛。今日は本堂は開けない。合羽に着替えて外の見回り。本堂、庫裏の周り、墓地、参道から町道までの水路。庫裏の裏の水路は案の定詰まっていた。きれいにして暫くすると水路の水位も流れも正常になる。墓地も異常なし。6時半頃から町の広報無線でひっきりなしに情報が伝達される。町営バスの運休、身延線の運休、道路の通行止めなど。小中学校は昨日のうちに早々と休校にしてあった。風が出始めたけれど、雨量はまだそんなに多くない。伊勢湾台風以来の猛烈な台風という事前情報は、いまのところ僕の感覚では空振り。午後には台風も抜けてしまう予測だし。
でも台風もたまにはなければ、のんびりと生きてしまうだけだ。緊張感を持つ朝もまた清々しい。


2009年10月7日Wednesday
朝起きられない。
昨日も今朝も朝起きるのに酷く疲れが残っていて、なかなか起きられなかった。朝が寒くなって、カーテンも厚手のものを閉めるようになったので、朝の来る実感が届かないのかもしれない。でも、明るくなってから起きるのが僕の生活ではないので、これは言い訳にはならない。お勤めをカット(ショート)することは自分自身が許さないので、後が忙しくなる。
昼雨だったが歩いた。今日は傘もあるのでショートでいこうと思って歩き始めたが、描いていた五条の水路沿いの道が水道工事で通行止めとなっており、結局清澤を回って帰ってきた。清澤神社で一休みしながら爪切り。遅い彼岸花がぽつりぽつりとあり、誰ともすれ違わないまま戻ってきた。
夕方5時半から定例会。協議案件なく1時間弱で終了。


2009年10月6日Tuesday
吟行会。
俳人協会山梨県支部の秋の吟行会御一行が来山。生憎の雨で肌寒い日。教育委員をしているY先生から、大聖寺を会場にしたいとの申し出があったので、半日休んで説明などした。県内各所からの参加者で、比較的高齢の方が多いため、雨降りで当初の参加者から6名ほどの欠席が出て、20人ほどになった。幹事はいつのときでも参加者確保が大変。Y先生も欠席者が出るたびに、昼食会場へ予約取消の電話などする。
本尊を開帳して、雨のために境内の散策が無理なので、庫裏に入っていただいて、信玄の感状や桂昌院の幡も見ていただいた。一人5句を作るとかで、皆さんそれぞれに外を見たり、傘をさして外を歩いたりひねっておられた。訪ねてくれた人たちのお相手をしたり、寺に居ることのほうがずっと心地よくて、午後の仕事に行くことが億劫になってくる。夜、S中への統合説明会。

2009年10月5日Monday
無能の人。
昼前から雨になったようで一日降り続いた。午前中、本庁で職員研修があった。熱く語る研修の講師の言葉を聞いていて、つくづく「俺はここに向いていない」ことを認識した。再認識というべきか。受身の姿勢ではダメだと。積極的に打って出るような公務員であれと。もう時代はそういう風に変化してきているのだと。何も考えてなくて、構想も理想もない僕のような者は、真っ先に「おめぇ辞めろ!」って言われても仕方がないなって。気持ちは正直重かった。12時10分に終わってから家で弁当を食べ、また支所に戻りながら、子供たちの先々のことやこの寺のことを考えながら、おそらくは変えてはいけないだろう自分を、無能の人と呼ぶしかなかった。悩めば悩むほど、深く潜っていくだけだ。大体が僕は楽観主義には程遠い心の暗さをもっている。またしばらくは、このようなベース音だけで生きているような日々になるのかもしれない。

2009年10月4日Sunday 晴れ
忍びないこともある。
「酩酊もうろう会見」の中川昭一さんが亡くなった。日直の支所で知った。衆院選で落選し、こういうのって、聞くのも耐えられんというような気持ちになってくるな。陽のあたる場所に長く居ると、影に生きることに慣れるのには時間がかかるのか。慣れるまでの時間を計算すると、「もうどうでもいいや」となってしまうのか。どうにでもなれるのならそれはそれで、あなたの勝手ってもんでしょう。
朝日新聞で、松本の神宮寺住職、高橋卓志さんのものを読ませてもらった。彼がNPOの活動をしたり、開かれた寺を目指す活動の中で、宗教法人は甘いと指摘していることは以前からいろんな雑誌などでも読ませては貰っているが、彼の持論「宗教法人甘い=檀家制度に安住」には、僕の寺を振り返ると「それはないよ、僕のところは」って言いたくなってくるのだ。つまり、生きたいように生きられるだけの土壌が整備されていたら、理想のサンガ(僧伽)を創造できるに違いないのだろうけれど、これは本人の努力をもってしても、越えられないってこともあるのではないか。僕のそれが諦めや泣き言であろうと云われる分には一向に平気なのだが、様々な環境の違いによってそれぞれの寺が成り立っているとしたら、坊主丸儲けのような軽々しい発言を、十把ひとからげで斬られてしまうのには忍びない。

2009年10月3日Saturday 晴れ
十五夜の満月上天にあり。
不安定な天気であったが昼前には雨が上がり暑くなったので、客殿などの大きな網戸を洗った。全部はまだちょっと外せないので、今年は二度に分けて。昼食後に、秋山さん、蜂谷夫妻連れて来山。直子さんは大きなお腹。1月1日が予定日だと言う。太った分だけ、そこに夢や希望や幸せがたくさん詰まっている。別れ際に「男の子か女の子かわかっているの?」と女房が聞くと、教えてくれた。ここには書かない。今年の大晦日は護摩を焚く気持ちに、大きな平和のことをいつもの年より込められそうな。
夕に息子が帰省。しっかりと話をしなくてはならない。3人で話をする。面と向かい合うことを僕はいままで逃げてきたかもしれないが、もうここにきたら、こちらも本音で向かいあわなければ仕方がない。彼の勉強を続けたいという気持ち、最終的にはここの部分を如何に親として汲んでやれるかというところだった。認めてあげるしかないのだ。但しいくつかの条件と言うか、彼との約束をも取り付けて。それから、僕の近い将来への思いことなども話す。やれるとこまでやるしかない。そこから先のことは天に任せるしかない。
満月の穏やかな十五夜は、厳しい中にも少しだけ僕に丸い心をくれた。


2009年10月2日Friday
定期点検。
医者には嘘がつけないのかもしれない。「足が痛いことありましたか?」。少々間があって僕。「夏場飲みすぎで、少し痛い時もありました」(正直に答えなければならないような雰囲気)。「2錠にしますか?」「え?いいです」「飲んでる方に痛みの症状が出れば2錠にするのが通常です」「ま、いいです」「そうですか、いつでも言ってくださいね。じゃ、次は12月4日に予約入れておきます。この日は血液検査しますね」。K女医は優しい言葉をかけてくれている子か、裏の裏までお見通しなのか、うなだれ気分で診察室を出る。外はまた雨が降り出した。後ろめたい俺の気分を知っているのか雨は。虹など架かるはずもない空を暫し眺めて帰途に着く。

2009年10月1日Thursday 晴れ
説明会から帰り、ヒラタケご飯をおかわり。
今夜久しぶりに夜の説明会。10月また再開して、来年の学校統合まで果てなく続くのだろうな。両校の保護者・教師にとっても大変なことだ。でも子供たちの幸せのためになんとかしてならなきゃいけないんだよな。どこかの知事みたいに、どげんかせにゃならんというのと同じなんだな。
今日は自治会館で一日研修。今年は必ず研修に出ろというお達しがあったからだ。去年まで、こんな研修に僕は出たことがなかった。一日で終わる研修を捜して、環境下水道課のK君に同乗させてもらって。今日は雨が過ぎて甲府は暑く、盆地の広い空は真っ青で、胸がすくような気分になった。外の景色とは真反対に、研修の内容は眠気を堪えた午前3時間、午後3時間であった。僕たちは後の世のために、どれだけ自然を守れていけるだろう。そんなことを考えた一日だった。
K君とは初めて話をしたが、「飯富の大型店だって、下水道が完備されてるから出店したと思う、自前で浄化槽設置するなんて莫大な費用がかかりますよ、これからは大型店が出店する計画があれば、下水道が完備されているかってのは条件になりますね」ってのが、今日の「へぇー!」で、興味深く拝聴した。僕に昨日わざわざ電話をくれて、「一緒に行きますか?」って。「弁当はどうする?」て訊くと、「持ってきますか?」って言うので、「持ってくよ」と応え、昼二人だけで残った研修会場で弁当をひろげた。弁当を持っていくと楽だな。僕には昼の歯磨きの習慣がないのだが、K君は、歯ブラシセットまで持参していた。良い人だなって。


2009年9月30日Wednesday
9月晦日。
雨の一日。一日夜まで降り続いているのはもういつ以来だったのかさえ思い出せない。9月の最後の日は、やっと9月の長雨の面目躍如といったところか。風邪が抜けなくて、鼻をかんだり仕事をしたり。ボーっと眠気に襲われたり。
話し合いに参加しても、ほとんど聞こうとする気分になれず、メガネをはずして親指の傷に肉が盛り始めたところをずっと眺めていたり。9月に入ってから、何だか気分低迷だ。
NHKの「ためしてガッテン『緊急報告!街の殺し屋スズメバチ被害急増中』」。この何とも恐ろしい番組。今年寺には幸いスズメバチの巣作りは認められなかった。毎年夏になるとスズメバチに刺されることを想像してしまうのだが、でももう5年が経った。「2回刺されるとそれはかなり危険です」と、番組でも医者が語っているが、気をつけなくちゃなぁ。蜂に刺されて逝ってしまうなんて、なさけないもんな。

2009年9月29日Tuesdayくもり
9月29日。
夏休みというには、ちと、うすら寂しくなった9月の末だ。夕べの雨は朝には止んでしまった。雨はまだ降るといっていたのに、とうとう日中降ることはなく、僕は夕の4時半から40分ほど竹林の下草を刈った。冷たく感じる空気が心地よく、出来ることなら、ヘッドライトでも点けて、暗くなっても草を刈っていたい気分に陥った。カレンダーを一枚めくればもう10月である。今年ももう100日ない。もうすぐ先には53歳の日が来る。黙っていても、地下に隠れていても確実に歳をとっていかなければならない。永遠に在り続ける信仰の仏像のような存在には決してなりえない。衆生を救う力も、微笑みもなく、日々ここに在って経を上げ、俺の持つ役割を果たすだけだ。
エルクで貰った「黒ビール」旨い。その後の熱燗はまたたまらなく幸福だ。

2009年9月28日Monday晴れ
風邪の日。
鼻風邪を引いた。土曜の夜に醜態となって身体を冷やして眠った結果だ。今日は一日職場で鼻をかみっぱなし。バカはエンドレスだ。
小学校からの連絡で、インフルエンザの集団発生で3日間学年を閉鎖すると。休んでいる生徒の中には、感染する恐れがあるから登校を親が控えさせている者もいるのだと。ふーん、そんなことも考えるんだな。早め早めに手を打つって訳か。僕のは単なる風邪だと思うから、明日の夏休みはゆっくりと寝ていようかと考えている。デッドでも一日聴くかなぁ。

2009年9月26日Saturday晴れ
岡島へ。

Mさんから頼まれたお母さんの位牌への文字入れと、所望された逆修戒名を付けたので、その分の位牌の作成のお願いもかねて甲府の岡島でパートへ。父の同級生のWさんの勤める仏光堂が入っている。生憎Wさんは不在だったが店員さんにお願いしてくる。7階の催場では、山梨・新潟・長野・静岡の「風林火山物産展」をやっていて、ぐるっと回って、釜揚げしらすと新潟の酒を買ってきた。今夜これが晩酌。帰ってきて今午後3時半。まだまだ強い陽射しの太陽がある。
コジマで、前から欲しかったラミネーターを買ってきた。早速何枚か試してみる。これはいいね。寺務にも十分に使える。

2009年9月25日Friday晴れ
「飲み始めています」、か。

こっちは仕事だ。午後から定例の会議がある。10時ちょっと前にケータイにメールが入る。夏休みを取って温泉で夏の疲れを癒しているんだと。もう飲み始めているとも。なんとも気持ちが乱れるメールだ。いいなあ。
今日も一日暑い日だった。身延の気温は県内でも一番高い。大炊平方面に昼歩いたが、雨不足対策か、家から長いホースを繋いで畑まで延ばしているのも目にした。お百姓さん泣かせの夏だわね。
午後定例の会議。今日の案件はすぐに終わるようなものだったけど、なーに、いつものように小難しいことを並べ立てて長引かせる展開になってしまって、結局終わりが4時。くたびれてコメントもなし。残りの1時間半で、会議録を仕上げて週末にけりを付けた。
娘の居なくなった食卓で女房と晩飯。秋だなぁ。静かな毎日になるな。

2009年9月24日Thursday晴れ
親としての役割を人並みに成し遂げたいとは思っているのだが。
連休明けの今日、仕事場はあんまり愉快な場所ではなかった。朝から、めんどくさい会話があったし、昼前には、「えっ?またかよぉ!!」ってな事例の発生もあった。できれば回避させていただきたいようなことや、別に話しをしたくないようなことがあったけど、無理やり重箱の中に収めてきてしまった。永久に封印だ。
5時半の終業を待って帰り道、飯富橋の三叉路を右折して国道を北進する道で、「こんなに暗くなっていたのか」なんて、休んだ5日間でこんなにも日が短くなっていたのかって感想。これから毎日日が短くなって、心細いような暗くなる道を帰ってくることになるんだな。長い夏休みにキリをつけて、娘も明日学寮に戻ってゆく。明日の晩からは女房と二人の静かな秋の日々だ。「自分で自分の道を見つけなさい」なんて、放蕩息子であった僕が、とても口にできるような言葉ではないけれど、僕は娘にそれを告げるしかない。僕たちにできる精一杯のことはしてあげたいと思っているが、いつまでもそれができるとは約束できないと。なんとも情けない親ではあるが、親ではあっても、僕も一人の人間である。出家をしてこの世におさらばしているという身ではあっても。この阿呆な親の足元から巣立っていけたなら、きっと輝く明日が見れるはず、と僕は信じたい。
お母さんに、ありがとうを言って涙したという藍、君の行く末をお父さんは祈るのみだ。神頼みが僕に課せられた役目だ。でも僕は、今のあなたにさえも不安を与えてしまうような、ゆらゆらとした日常の幕間をケンケンしてる。すまん。

2009年9月23日Wednesday晴れ
彼岸の中日。一日いろんなことがあった。
午前中は庫裏の裏庭の切った枝の片付けと掃除。いい汗をかいた。10時半からお昼にかけて寺宝を納めた長持を開け、甲斐源氏系図を確認する。紙の類いの宝物はこれからの保存が一番心配。かなりシミがあったり、穴が空いていたり。来年の県立博物館へこんなのが出品できるのだろうか。巻物は仕舞うときに巻き戻すのに一苦労。最後はこんなもんでいいやってな具合。いい加減極まりない住職だ。
午後1時半から彼岸の法要。地元檀家3人。東京からSさん家族4人ちょうど来てくれて何とか格好つく。でも一人だってやらなきゃね。これが供養ってもんだ。お茶を飲んで話す。雨の少ない話。作物が枯れてしまう話など。蜂が少なくて蜂蜜が少なかったというようなことも。東京のSさんとこは、結婚したご子息が奥さんを初めて連れて。これでS家も後につながるか。お開きとなり、午後3時に千葉からMさん来山。昨日電話をいただいていたのだが、夕べは聞いていなかった、なんとお母さんが亡くなったということで、お骨を持って見えた。四十九日が近いのであわせて供養して欲しいと。昨年の夏にお母さんと二人で、途方にくれたような状態で、亡き父のお骨を寺に持ってきた。供養して戒名をつけ、お母さんにも戒名の逆修をしたのだった。その一年後にお亡くなりになったとは。もう私しか残らないので、私にも戒名を授けて欲しいとMさん。もちろん引き受けた。亡くなったお母さんという人は、父が幼い頃子守をしてもらった人である。なんとしても僕はこの困窮した家族のために僕のできることをしていかねばならない。13回忌を迎える父も僕の行動を見守ってくれているのだと思う。
Mさん帰って本堂でお勤め。終えて扉を閉めようとすると、石畳から「おーい、石田くん」と言う声。青木まゆみだった。大学の後輩の旧姓青木。なんでもご主人の家の関係の通夜に松本から来て、時間があるので寄ってみたのだと。25年以上は経っているのではないか、最後にあってから。彼女もそれなりの年を感じさせたが、気分は昔のまんまだね。懐かしく15分ほど話してサヨナラ。来年は松本に行ったらケーキ屋訪ねるよ。
そんなこんなで、ボリュームいっぱいの彼岸の中日。でも楽しかった。

2009年9月22日Tuesday晴れ
支所日直。
連休途中の支所日直。日直時の常のように、飯富のローソンで弁当買っていこうと寄った。7時50分過ぎだったと思う。弁当がない。おにぎりしかない。今までこんなことはなかったので、この時間に弁当が入ってきていないということではなくて、既に売切れてしまっていたのだろう。駐車場は行楽客?で満車であった。仕方なくおにぎりを3個と、カップのシーフードヌードルを買った。いつものように机の周りに掃除機をかける。いま男だけになっているのでほとんど掃除らしきものをしないので汚れている。ていうか、個人で飲んだペットボトルや空き缶くらい、机の下の足元や後ろにだらしなく放っておかずに「捨てろ!」っていいたい。少し片付けた。支所の事務室にパソコンを移し、もって来たスピーカーをつなぎ、DLしたDEEP PURPLEのNOBODY'S PARFECTをボリュームいっぱいで流す。
朝のつまずきは引きずる。10時前に葬儀屋の女性がやってきて、死亡届を受理してください。おーっと、何も今日でなくてもと思ったが逃げるわけにはいかない。マニュアルを見ながら処理していく。初めてではなったので過去のことを思い出しながら。20分ほどで済む。これなら完璧だろう。
お昼をサーッと済ませて、見たいようなテレビもなく、WEATHER REPORT「BLACK MARKET」聴きながら徒然を書く。
ネットを漂っていたら、「財布を落としたことに気付かなくて家に居たら、拾った高校生が、親切にも電話をかけてきてくれて、待ち合わせて無事受け取ることができた」なんて感動ものの記事に出会う。落とした財布がすぐに帰ってくるなんてよかったじゃねぇか。世の中まだ捨てたもんじゃねぇな。別れた女房が帰ってきてくれたみてぇじゃねぇか。よかったな。信じてさえいりゃまた気分も上向きにかわらぁね。彼岸にいい話を拾った。

2009年9月21日Mondayくもり
もうひと頑張り風吹いて雨を連れてこい。
冷たい朝。気持ちよく起床。女房の友人Dさんからいただいた新米の朝食。客殿と本堂へも小さな皿に新米のご飯を供える。艶々としたご飯を大根おろしでいただく。朝食の後本堂と護摩壇の掃除。2時間で終え、お昼まで畑の残った草を刈る。今日は月曜の敬老の日で、墓参も小人数。11時半前に終了。シャワーを浴び昼食。昼食後に役場へ。明日の日直に文書が届いていたら運ぶつもりだったが、学校からのがひとつだけ。道路の混雑はシルバーウィークと言うだけあってかなりなもの。もう僕はどこにも出かけたくない。風が強いがもうひと粘りが欲しい。雨を連れてこい、海の雨よ富士川を遡ってこい

2009年9月20日Sunday晴れ
9月の護摩を焚く。
午後3時から護摩を焚く。外には涼の風あり。遠くの台風の影響かもしれない。夏の終わる感謝と祈りの護摩を焚いた。
時々お邪魔させていただいているブログのご主人は、威風堂々とご自身の後半生に踏み出したかのよう。もうお一方はお孫さんが生まれておじいちゃんになられた。この人たちの幸いをも願った。もうすぐ夏休みを終えて東京に戻る娘の健康と、進むべき道の見つかりますようにと。息子のことも心配ではある。彼にもよい道が開けますようにと。家族が健康で、穏やかな日々がありますようにと。檀家の皆さんの健康も。世界が平和でありますようにと。

2009年9月19日Saturday晴れ
彼岸を迎える寺も墓地も清々しい。
シルバー人材センターのお二人今日が3日目。大きな枝もバッサリと切ってもらった。大きく刈り込んでおけばこれで暫くはいい。Fさんと、来年はこの木とこの木をお願いしますなんぞと話しをする。お互いに元気であればまだまだ何年かはやってもらえそう。Fさんもここの植栽を自分の仕事と思ってくれているようで嬉しい。こういう人たちに助けられているのだ、感謝。今朝は朝から墓地の草刈。一日かかってきれいになった。身も心も風景も清々しい。草刈りを始めた早い時間に驚かされたことがあった。寺の住職の墓地付近を刈っていると、竹やぶの方から山に向かってイノシシが駆けてゆくのである。結構大きな奴で、こんなのは今朝が初めて。Fさんも見たと言った。墓地のあちこち、イノシシに掘られまくられて、酷い姿になっている。これがなければ、もっと心は穏やかなんだがな。刈っていると、何人か墓の掃除や、「明日来れないので今日来ました」という檀家も。心の中で、「明日来てくれたら、見違えるほどきれいになっていたのにな」と、僕は僕の少々の残念を思う。女房にも最後の草集めを手伝ってもらって4時過ぎに終わる。シルバーのお二人も片付けを終えて4時半にお帰り。一日増やしても構いませんと話してあったが、例年通りの6人分で終了。これはこれでありがたいこと。お二人には、彼岸が来るので、寺のマッチと線香をお持ち帰りいただいた。「これは嬉しい」と言っていただいたのでこちらもよかった。よい一日であった。今朝は冷たい風が吹いていて、日中も時折風が有り仕事もしやすかった。暮れはじめた外の大ケヤキの乾いた葉がサラサラと鳴っている。ビーチボーイズを聞きながら、これまた爽やかな景色と音楽である。

2009年9月18日Friday晴れ
早朝から草を刈る。
昨日からシルバー人材センターから派遣されたFさんともう1人が、庭木の剪定に来てくれている。毎年のことなのでFさんも段取りよく慣れている。僕もとくには言わない。というより、僕にはその知識がないから言うべきこともないのだが、「時間があれば、この木の刈り込みもお願いします」程度だ。今年は、裏の庭の柘植が大分大きくなってきて、僕には手が負えないので、一日余分にかかってもいいからやってくれと頼んだ。毎年6人分を頼む。3人で2日のときもあり、2人で3日のときもあり、例えば、「昨日雨で半日しかできなかったから、明日半日分やる」といったようなこともある。それでこの6人分の費用はというと、寺の護持会と僕の個人の持ち出しで半分ずつとしている。実に貧しい寺である。シルバーを頼むといっても、低木の植栽なんかは僕がすべてやるので、松とか梅とか、高木それなりの知識がないとできないような、寺で護らなければならない大切な木を剪定してもらっている。話は戻る。それで昨日の朝、柘植の刈り込みのことをお願いしたら、下の草も刈ってしまったほうが足元がよくなると言い、「わけないから始める前に紐で刈ってしまうから」と言うので、僕が週末に刈る予定にしていることは言い出せず、仕事に出かけた。それで、今朝お勤めの後、1時間ほどで裏の池の周りの草を刈った。草刈を頼むつもりはないので、その時間を植栽に手を回して欲しいのである。僕にも寺にも無駄な金はない。朝早くから、エンジン音を轟かせるのには少々気が引けたが、それでもさっぱりと僕の気持ちもよかった。間もなくFさんが来るので、刈ったことと寺事情も説明するのだ。

2009年9月17日Thursday晴れ
家に明かりが灯らなくて、いつまでも戸口で待ちぼうけのよう、そんな感じかなぁ。
町議会議員選挙の立候補予定者説明会に、定員を3人超える19人の陣営?からの出席があったらしい。10月25日に向けて、もう中盤を過ぎた感じなんだろうか。誰が出るとか出ないとか、職場でも最近は噂を聞くことが多くなってきた。特に僕が居る部署は小中学校の統廃合を受け持っているので、誰が議員になるのかなんてのに割りと関心がある。
9月議会で、二つの小学校を統合する条例案が賛成多数で可決された。これとて、僕らは昨日の議会最終日の議決まで若干の不安を抱いていた。さて、可決されたらされたで、来春の統合に向けて調整していかなければならない事案は山ほどあるようだ。一つに答えが出たからといって終わりではないので、今回不調に終わった他の学校についても、再度また始めるということだ。だから、ここ何年かこの部署には、穏やかな波長を求めることはできないかもしれない。
厳しい場所ばかりに生活しているわけではないので、24時間をうまく使いこなして、僕は僕を維持するのだ。今夜、保釈された酒井法子の謝罪会見とやらを拝見。後から気が付くことはたくさんある。僕だって反省しきりの日々だ。面白おかしく報道されて書き立てられる世界になんか早くサヨナラして、真に考えてくれる仲間たちと接する場所で回復していったらいいんじゃないか。

2009年9月16日Wednesday晴れ
清らかな気持ちでね。
隣りの早川町では昨日町議会議員の選挙が始まり、定数通りの立候補者で無投票で終わった。新聞によると、高齢を理由に70代の現職が引退を示唆していたらしいが、定数割れとなりそうなことから慰留につとめて何とか選挙に幕が引けたなんてことが書かれていた。わが町も10月の後半に新町になって2回目の町会議員の選挙がある。20の定数を16に減じるが、人口16000では、これもまだ多いかもしれない。前回は旧町ごとの小選挙区だったが、今回からは全町一区となる。正直噂されている人たちをよく知ってはいないし、知っている人であっても、?と感じてしまうような人も居るわけである。関心はそれほどない。町が存続することを支える底辺の議会に、若年層の関心がないといわれるが、僕自身もそんな括りに入るのかもしれない。誰かがやっていたら、何とかなってるでしょみたいなもんである。無責任な発言ではあるとわかっているが、専らの僕の関心事ではない政治の分野は。ただこれだけである。
町の9月議会が今日で終わる。僕の部署では今日の議会の議決に最大の関心がある。いわゆる学校の統廃合の問題であるが、どんな意思を議会は示すのだろう。今日は昨日と変わって秋の深い青空と朝日の輝きだ。議員の皆さん方には、神のような秋の青空に嘘つかぬ清らかな気持ちで、是非とも損得駆引きなしで、自身の考えに挙手してもらいたいと願っている。

2009年9月15日Tuesdayくもり
墨磨って彼岸塔婆を書く夕べ。
一日結局雨にはならず、曇り日のまま。常葉の田んぼも稲刈りが始まっていて、昼に歩いたあちこちで稲刈りの途中の昼休みだった。
どうも上手く仕事場の連携がなっていないようで、「さてこりゃ困ったな」って事態発生に、右往左往、頭抱えてうずくまる無能な僕。こういうのって、「
突発性、今日の給料なんか払わんぞ!」とか、「雇い主には非はないぞ!」的なものなんだろう。午後からの仕事は、こんなことの解決のために、絡まった糸を解いていくように、電話をしたり、大きな声を出してみたり、水筒の水で落ち着いてみたり、頭を下げたり、サイコロを振ってみたり。なんとか、最悪の事態には陥らずに済みそうな程度に回避。綱渡りの人生だ。イヤダ、イヤダ。
朝、彼岸塔婆を書いて、今夜もまた電話で申し込みがあって1本書く。平常心に戻るための一日の締めくくりにはいい時間だった。ゆっくりと墨をすった。風呂出て、これを書くために、ジョン・マクラフリンのシャクティーで大締め。ザキール・フセインのタブラの圧倒的な存在感。主張するタブラ。10点満点。

2009年9月14日Monday晴れ
地清浄、身清浄。
定時起床。天気予報は今日も残暑。お勤めの後、水遣りと外便所の掃除。掃除をして、自らをも清浄に。静かな月曜の朝で心身ともに気持ちよく境内を歩く。彼岸花も彼岸に入るころにはちょうど満開になっているのではないか。
昨日コメリで値の下がっていた花水木の苗を買い、久留米ツツジも300円でいいというので3本買ってきた。久留米ツツジは、植えた場所が合わなかったのか、去年植えた4本の内、3本が枯れてしまった。ちょうどよくリベンジである。花水木は、何本か枝を挿し木してみたが、どれも残らなかった。何せ桜の挿し木が30本くらい挿して、今残って生き続けているのは1本だ。それでも、桜の新芽を挿せば、30本に1本くらいは育つのだということが解ったのは楽しい。ささやかな緑化計画である。

2009年9月13日Sunday晴れ
午前3時に起きてしまった。
夕べ喜田でもこんなことを話していたんだ。時々飲んだ夜なんかに、がーっと深い眠りに落ちてしまうと、3時間くらいで起きてしまうことがある。それが朝だと思って起きてしまうので、再び布団に入ることになるのだが、今朝も十分寝足りたような気持ちで起きて、小便をして顔を洗って作務衣を着て、台所に行くと、時計は午前3時ちょっと前。「あー、やっちまった」で、でもなんか中途半端な時間だったので、夕べ録画しておいたNHKドラマ「再生の町」と、映画「アリスのレストラン」を見ることにした。さすがに本堂のお勤めは早すぎると。テレビを見ながら、庚申の夜通しの最後をこれでなんか締めくくったな、なんて密かに僕は喜んだ。僕の悪業を、神様に告げられずに済んだかななんて。
夕べ喜田に向かう頃から雨が降り始めて、恵みの雨だった。今日は打って変わって暑い一日となり、午前中は、早起きしすぎで、朝食後に眠くて仕方なく、それから昨日の草刈疲れで節々は痛いし、怠け者で過ごして、彼岸の塔婆を4枚書いて午前終了。午後3時前から参道横のもう一枚の畑の草刈。3分の2ほど刈り終えて終了。何とか僕の頭で描いている、今年最後の草刈の予定、多分予定通りにいけそう。

2009年9月12日Saturdayくもり
一日草刈、大分疲れました。
8月の頭に草刈りして以来だから、一ヶ月ちょっとぶり。草刈り機も心なし重たく感じ。曇り日の一日畑の草刈。汗もかかずに草刈ができたのはありがたいと思わなきゃいけないんだろうけど、でもなぁ、汗をたくさんかいて草刈る方が僕は好きだな。
今日は庚申で、わが寺にも本堂左側奥に、仏教での庚申の本尊である青面金剛を祀った小さな祠と、青面金剛の石碑がある。道教の説によると、人の身体には頭、内臓、下半身に一匹ずつ三尸(サンシ)という蟲が居て、病気の原因になったりしているが、尚且つ、庚申の日の夜には身体を出て天に昇り、その宿主の悪い行いを天帝に告げ口するのだと。で、それを聞いた天帝は、宿主の悪業の軽重により寿命を縮めてしまうということだ。告げ口をさせないために、庚申の夜は蟲が抜け出さないように眠らずに、見張って夜を過ごすのだという。これが庚申。こんなことが、山梨の無尽講なんか産んだのかもしれないな。
そんな訳でということでもないが、今夜はこれから喜田の姉さんちで、庚申の夜の飲み会。まっ、娘が夏休み終えて東京に戻る前に一度、お出かけあそばせってことだったんで、秋刀魚を食おうかなんて。

2009年9月11日Friday晴れ
鎮魂の朝。
ニューヨーク、テロから8年。いつものように起き、いつものように朝のお勤め。最近の朝と同じ冷たい朝。8年前の犠牲者の鎮魂のために今朝は経を読む。8年前のなんら変わらない世の中の動き。殺気さえ感じられるような僕の身の回りも。それは例えば、ホントに殺されるかもしれないとか、やってしまうかもしれないということではないが、そういう感じを抱いてしまうような、腹の底まで乾ききったような日常であるということか。勤めでは多分もう僕の気持ちが潤うというようなことはないだろう。僕にはもうひとつの役割があってよかった。もう割り切ってこなしていくしかないのだ。誰もががけっぷちの様な立場にあって、互いを思いやることなどはどうしても後手に回る。威圧的な言動には辟易だ。組織の中で生きるということは(生き残るというほうが適当か)、本来備わっている正直な気持ちまで隠してしまえと命令しようとしているのか。お馬鹿が、なんぼ生きてもたかが100年足らずだぜ。100年に何の永遠を僕たちは見ようというのか、否何も見えるもんか。僕は、木や花のために水をやる。マントラを唱え、祈り、仏に僕の永遠を託したい。

2009年9月10日Thursday晴れ
こんな日記、ブヒブヒいいながら毎夜やってくるイノシシにでも食わせてしまえ。
午後から議会の常任委員会に出席。長くなるんだろうなと、いやーに感じていたんだが、豈図らんや、1時間で終了。結果は厳かに崇め奉らなければならないので、この破廉恥な枡の中になんか書けるわけがない。支所に戻って、一気に委員会の内容をまとめる。水筒に残る氷をぐるぐる振って回して、ジョボジョボと最後のお茶をコップで飲んで窓の外には帳の予感で終業。こんなところ、早く抜け出してやれって、明るくさよならだ。どうでもいいような社会とのつながりなんか、ブヒブヒいいながら毎夜やってくるイノシシにでも食わせてしまえ。では一体、異端とは何だ。「正統から外れている」と、では正統とは何だ。「正しく受け継ぐ」「社会で最も妥当とされる...」とは、こんな説得力に欠けるものが正しいとされてしまうものなのか。こんなだから、僕もブヒブヒを止められずに、ここまで生き長らえてきてしまったのだ。夜は虫の声が聞こえ夜風は冷たい。夕べは毛布を布団の足元に置いてもらったのだが、使うことなく朝になってしまったが、今夜は掛けてみよう。

2009年9月9日Wednesdayくもり
結婚披露宴の招待状が届く。
死亡叙勲の上申書を持って県庁へ。通常は、添付する調書の内容の添削なんかがるのだが、「今回は、見せていただいた内容でかまわない」と。想像するに、何件か死亡叙勲が重なったか。あくまでもこちらの想像でしかない。深く頭を垂れて、よろしくお願いしますと心で手を合わせて事務室を出た。久しぶりに上田屋に寄って、ラーメンとねぎモツのセットの昼飯とした。ここのはモツを一度揚げてから焼いてあり、カリッとして実に旨い。午前中の空は少し曇り気味だったが、余り涼しさなどは感じなかった。途中教育事務所に寄り、上申書の一部を提出し、学校宛の大量の文書を手提げカゴいっぱいにいただいてきた。従兄の娘さんの結婚披露宴の招待状が届いた。最近は仲人を立てないというのが当たり前になってきたようだ。時代は変わるというか、古い仕来りはバッサリと見捨てられていく運命。仲人とか親分とか、家と家のつながりを築いていった時代があったのだろうが、いまはどちらかというと、金で何とかなれば、他人との付き合いを控えたいという考え方に変化してきている。お互い迷惑をかけたくないというか、これは葬祭にしても同じ。僕は寺の人間なので、元々、地元に親戚などがないので、昔からの家と家とのつながりというものに、それほど関心があるわけではない。まとまりがつかなくなってきた。従兄の娘さんのセレモニー。夕方からの始まりである。ゆっくり飲めるかなぁ。ちなみに今日は、2009年9月9日で、9並びで語呂よく、サンキュウといったり、中国では9は“久”と発音が同じで永久に繋がるとかで、婚姻届を出すカップルが役所に殺到したそうである。僕的には、やっぱり「きゅっ、きゅっ、きゅーっ」と、熱燗でもやりたいなんてね。

2009年9月8日Tuesday晴れ
僕の倖せ。
渡辺勝氏から、「DVD送りました。明日には届くでしょう」とメールが届いてから一週間たってしまったので、どうなっているんかなと思っていたし、ひょっとして僕の気が付かない家の中のどこかに、家の者が郵便受けから出して置きっ放しになっているんだろうかなんてことも思ったりした。今日帰ってくると届いていた。「遅くなってすみません」と封筒の裏に書かれていた。9月5日に、「渡辺勝音楽生活40周年ライブコンサート」があったので、そんな訳で発送が遅れてしまったのだろう。アケタの店でのLiveなんかが収められているDVD-R。少々映像は荒いが、渡辺勝の今を聞ける嬉しさはこれで十分。はちみつぱい、ソロになってからも聴いたり聴かなくなったりした時期もあったけど、渡辺勝の独特な絵画のような世界は、はらはらと散る桜の花のようにいつも僕の心を切なくさせた。会えなくなった人たちに会いたくなり、解いたセーターの毛糸で、新しい編み物を始めたくなるとでもいうような気分にさせた。夕飯食べながらDVD見て、僕は「僕の倖せ」を味わった。
今日も残暑残暑。朝一で教育庁総務課のS女史に電話をして、書類の作成を進めていることを伝え、1時間後にすべての書類をとりあえず添付ファイルで送信。向こうに渡してしまえばもうこっちの手は離れた。後は向こうの添削待ちだ。待てど暮らせど、結局終業時間になっても音沙汰なしで、明日の朝なんだろうな。朝メール開いて書類を整えて、午前中に県庁まで、か。

2009年9月7日Monday晴れ
突然やってくるこのなんとも理解しがたいもの。
出勤すると嫌な予感はまさに的中していた。M町教委から、Aさんの死亡叙勲の書類作成はそちらで頼むと。N小へ電話をして勤務記録カードの保管の有無を確認し、M町の住民課窓口へ除籍抄本と刑罰等調書の公用申請。それから、気が引けたが、本日が葬儀の故人宅へ恐る恐る電話を入れる。まだ朝早いから何とかなるであろうかと。葬儀場へ出かける前の慌しい時間であったようだが、一応家族の意思を確認。その後、教育事務所と県教育庁総務課へ死亡叙勲申請を提出する旨をあらかじめ報告。通常は、死亡日から7日以内に県へ上申書を提出するのだが、今月は、19日からの大型連休に伴い、年末年始や5月の連休中と同じような特別シフトになっていて、9月4日の死亡であったが、9日の午前中に書類を届けなければ間に合わないということになった。これは忙しい。なのに、宝龍寺の葬儀のために時間休を取らなければならない。頭の中で段取りを考えて、手のつけられるところから始める。午前11時半から午後4時半まで葬儀のため職場を抜ける。西嶋のセレモニーホールへ。今日の喪主は、8月12日にお父さんを亡くし、ひと月も経たない間に今度はお母さんをも送ることになった。残暑が厳しいので、今日のホール内は冷房が強く聞いていて、送風口の下に僕の席があったのか、経本が何度も吹き下りる風にまくれ上がった。滞りなく終了。予想より早く職場に戻ることができて、午後3時から、7時ちょっと過ぎまで集中。8割くらいの出来になったので、なんとかなりそうと区切りをつけて帰宅。それにしてもこの制度、何度やってもまったく納得がいかない、理解しがたい代物。

2009年9月6日Sunday晴れ
法事あり。
S家のご主人の33回忌。昭和45年に亡くなりもう33回忌。この年には、ロッキーの第1作が封切られ、邦画では幸福の黄色いハンカチだった。ジャイアンツの王が756本の世界新となるホームランを打ち、津軽海峡冬景色や勝手にしやがれ、北国の春がヒットした。3人の子どもたちは立派に成人し、家庭も持ち、母親は特別に裕福でなくても幸せのはずだ。苦労は多かったかもしれないけれど、遡ってその苦労を話しても仕方がないと僕は思ったので、「いま皆さんがこうして幸せで居ることをお父さんに報告してあげよう」と話した。今ある私たちが向こうの世界の者たちに心配をかけずに生きていることは、互いに安心である。見守る者たちは、さらにその幸せの長しえなることを願い祈ることであろう。長男は、45歳で亡くなったお父さんと同い年になっていた。今日の33回忌は感慨深いものであったことだろう。典型的な田舎の長男で、婚期も遅かったがそれでも新しい家族を持ったことは大きな生きる希望につながる。母親もそれを誰よりも喜んでいる。よい法事であった。
早川の宝龍寺から、明日葬儀の手伝いを頼むと電話ある。何とか時間を作って行かねばならない。大聖寺は宝龍寺に支えられているなんて女房と話した。ホントにその通りなんだよ。

2009年9月5日Saturday晴れ
Sさん七七日忌。
船橋のSさんの西嶋青原院での七七日忌と納骨式に出席した。Sさんには世話になりっぱなしで、何お返しすることが出なかったので、衣持参で、ご住職にお願いして、紫の衣と五条袈裟で法事に出させていただいた。曹洞宗寺院の本堂には、今日は心地よい秋の風が行き来してとても気持ちよかった。納骨の後本堂前で出席者全員で記念撮影。親族でもない坊主に気を使ってくださり、昼食のホテルの席も青原院ご住職の向いで、思いもかけていなかったスピーチの指名まであり、出かける前に、早川の大瀧のお不動様建立の日時などを確認しておいてよかったと、即応できるように、それなりの格好をしている身であれば、準備しておかなければならないなと自戒したところである。
夕のお勤めを済ませて戻ると、5時過ぎに、Sさんの奥さんと娘さんが寺を訪ねてこられ、丁重なご挨拶を再びいただいた。早川のお不動様を護持することを、僕のこの寺での務めとしなければならない。

2009年9月4日Friday晴れ
なんだか忙しくて頭も使って、疲れたなぁの金曜日。
グループ制だからとかなんとかいったって、所詮ひとりでやってることはその人にしかわからないってのが事実なんだ。誰もが仕事を共有して、誰もが即対応したら、休んでいてもフォローができるなんて、口からはどんなことばも発すことができるが、実際にはそんな風に机上で作ったフローチャートのようにはいかない。月曜は休みだったが、火曜から金曜の今日まで、これらのことの解決や、その人なりの思いや考え方などをも探っていたりしたのだ。遠回りしてはいるが、ちょっとずつ見えてきたような気がしたので脈もほぼ正常に戻った僕の場合は、ここにあるものの出来上がった課程を検証してみなければ納得できないような性格で、時間はかかっても、でもこれが一番いいかも。何のことかわからんでしょうが、わかってもらわぬほうがありがたいことだってある。いくら手伝ってあげたくても、そればっかりはできないってこともある。岐路の選択は自ら判断に任せるしかないこともある。岐路に立つ人は見守るしかないこともある。
(20:00) こんなことを昼休みに書いていたら、終業近くになって報せが。若い友人のお母さんが亡くなられた。小学校4年生のときの担任だった。テンプターズの衣装のように、水玉模様のワンピースを着ていたことをいつでも思い出す。ご冥福を。Kちゃんもよく頑張ったね。

2009年9月3日Thursday晴れ夕べの巨人のサヨナラ勝ちは実に痛快で、普段野球なんて見ないが、たまたま風呂上りにチャンネルを回していて、9回裏の攻撃を見た。小笠原が四球の後ラミレス。レフト線の打球の処理を守備がほんのちょっと誤る間に、一塁の小笠原が重い身体を重機関車の突撃のようにホームベースに滑り込みサヨナラ。この場面は凄い。久しぶりにいいシーンを見た。どこの勝利がいいということでなく、この勝利をつかもうとするプロ根性に打たれた。夕べチャンネルを回しながら感じたこと。僕の家はCATVに入っていないので、民放は山梨放送とテレビ山梨。野球中継はやってなくて、BS日テレで巨人戦があり、NHKBSとBS11とBS12でパリーグの3試合を放送していた。セリーグよりパリーグのほうが面白いのか。でもいい試合だったね。
イチローも9試合ぶりに戻り、いきなり2安打で、こちらも大記録は達成できそうだ。こんな風に見ているものに感動と夢を与えられるようなプロでなければいけない。


2009年9月2日Wednesday晴れ
月を観じる。
夕べ遅くに通り雨があり、今朝の5時には少し雨が舞っていたが、お勤めを終えて本堂を出ると、もう舞ってはいなかった。今朝の天気がいまいちだったせいもあるのか、ホントに朝が暗い。
トイレで気持ちよく朝の排便をしながら眺めた今月の法話。
「どんなに暗雲(あんうん)が覆(おお)いつくしても、必ずその先に月輪(がちりん)はある。円満で欠けることがなく、清浄(しょうじょう)な月輪を常に自心に見つけよう。曇ることのないように、尊い月光で生きとし生けるものを優しく照らそう。」。秋になると空を眺めたくなる。自然と仰いでしまうというのか。昼の空も夕の空も、また月の出た夜の空もいい。偏ることなく、遍く照らしてくれるものには嘘がない。こういう日の光や月の光、それから自性を信じることだ。

2009年9月1日Tuesday晴れ
猿来て9月。
お勤めの時間も、猿たちは早くからその生き様を忙しくする。終えて外に出ると、退くでもなく、客殿や庫裏の高屋根から俺を見下ろしているのみ。我が家には奴らの欲しい畑作はないので、何を狙うかというと、1本ある柿の小さな実を狙ってくるのだ。昨日の夕にその声と姿を見ていたので、9月の今朝を思うと憂鬱だったがまさにその通り。雨上がりで、経は残暑が再び厳しいという。そのお陰でもう朝から奴らの動き回った辺りは獣臭が強い。鐘楼の下にも所構わずの、礼法知らずのウンコ。
オフノートの神谷氏からの一斉メールは、いつも胸を締め付けられる思いがするが、今朝開いたものは今迄で一番のもの。ここに極まるという切ない思い満載。呑気に、欲しいときにだけ買えばいいという聞き手、買い手という立場に居る俺としては、これからオフノートはどうなるのかと。ここで案じていても何にもならないが、相変わらずの、「祈る」のみである。
(21:00) 夏休みボケの頭で出勤すると、予想外のことが待っている事があるもんだ。今日もそう。これでおそらく年内は縛られてしまうような予感。午後、ALTのJの運転免許証更新の再審査。今日は無事に通過して免許証の交付を受ける。「難しい国ね」なんてJ。これでやっと、車で遠出してレストランで食事ができるとJ、嬉しそう。ホントに難しい国だ。80か90くらいでやっていなければ、こういう時に100飲めと言われても、蛙のお腹が破裂してしまうのと同じようなことになりかねない。
2009年8月31日Monday
のんびりと夏休み。
夏休み。八月最後の日。台風の影響か、少し雨がある。ゆっくりと起き、衆議院選挙のテレビをじっくりと見る。山梨は3人の民主党員が当選。今回は、比例での復活当選もなく、堀内光雄もこれで引退になるんじゃないか。午前中、彼岸の法要案内のはがき作りなど。久しぶりの雨音が気持ちいい。もっと降ってくれてもよかったのに。午後、藍がキーボードを欲しいというので昭和のオギノJOYに入っている島村楽器まで。僕は同じフロアのダイソーを散策。100円ショップの内容に感激。これはすげぇやと思いながらも、買ったものは蝋燭と線香。蝋燭は100円ショップのを一度に大量に仕入れることにしている。線香は、100円のはあまり質がよくないが、変な香りのではなく、オーソドックスな奴があればそれを買う。今日もそんなのを仕入れた。これで当分いい。それにしても安い。個人的な思いなんだが、蝋燭だけを買って帰るお客は、きっと店にとっては歓迎できない客なんじゃないかなと。100円の蝋燭は安いと思う。
猿が来た。明日の9月が恐ろしい。

2009年8月30日Sunday晴れ
自民党終わる。
こんなにも圧倒的な数字になるとは思わなかったが、これがそれを望む国民の思いという奴なのだろう。真摯に受け止めなければならないのだろう。今度は民主の暴走をしっかりと食い止めるだけの良識を持って、2大政党時代の幕開けにならなければな。民主か自民かの時代になっていくのか。公明も社民もいらんというのは自明だな。国民新党だって、みんなの党だって、新党日本だってやがてどちらかに合流するだろう。共産党はわが道を行くか。でもなぁ、喜納昌吉と田中真紀子が同じ党員となるって事実は僕的にはいただけませんな。ますます、僕の政治への興味は薄れます。
残暑がどうなっているんザンショのような一日で、我が家の居間は午後から冷房だ。BSで「登川誠仁“伝説のライブ” 沖縄民謡スーパースターの競演」を見る。もちろん凄くよかった。知名定男のを久しぶりに聞きたくなった。


2009年8月29日Saturday晴れ
来年秋再びご本尊県立博物館へ。
朝9時半に県立博物館の館長と学芸員二人来山。お話を伺う。来年開館5周年ということで、記念の特別展の計画を立て、「武田のルーツ 甲斐源氏 −列島を駆け抜けた武士団−」展という甲斐源氏の足跡をたどるという催しになるのだそうな。ついては、甲斐源氏となると外すことのできないわが寺から、不動明王と源義光、加賀美遠光、武田信玄の木像坐像、それから3氏の絵画、甲斐源氏系図を借りたいと、過去に例のないほどの点数である。来年の10月9日から12月6日までが開催期間となるが、おそらくその前後10日くらいは見ておかなければならないだろう。まあ僕の気持ちはもう協力したいという腹で決まっているが、一応檀家にも話をしておかなければなるまい。お不動様はこの寺に坐っていても訪ねる人は少ないので、出開帳ではないが、僕はそんなつもりで貸し出そうと思う。会館一周年の企画展が平成18年だったので、何かを貸し出すのだろうという予感はしていたが、お不動様のことは思っていなかったのでちょっとびっくりしたが、これもこれで仕方がない。この寺の持つ重さを十分に知る人たちからの願いであれば、それを断る理由は僕にはない。祖父も父も喜んでくれると思う。

2009年8月28日Friday晴れ
開眼。
手を入れたY家の墓地に、朝の勤行の後開眼に行く。墓地の草の伸びは雨がないので小康状態のよう。彼岸前に刈ればちょうどいいかもしれない。彼岸前に刈って例年だと草刈もひと段落。静かな朝の墓地で急をあげ、目を閉じてもらっていた伯父、伯母らに目を覚まして、天界での息を吹き返してもらう。サルの群れもこの山のどこかの集落に出没しているのか、盆前から静かである。また秋が深くなれば食べ物恋しさにやってくるに違いないが、いっときの静けさがあり、季節の変わり目心穏やかに過ごせるのはありがたい。
週末には天候が下り坂のようだが、予報だから当てにならないと思う。降ったら褒めてやりたい。今夜、一ヶ月ぶりで学校統廃合の説明会がある。また秋は秋で夜の会が続くようなことになるのかもしれない。


2009年8月27日Thursday晴れ
ドングリ、サクサク。
一日落ち着いて事務をこなす。可もなく不可もまたなし。外は暑いが部屋の中はすこぶる快適。昼のウォークも、腕や顔に受ける風は少し冷えてきていて気持ちがいい。雨が降らないせいなのか、道端にはドングリの葉が千切れてたくさん落ちている。風が強く吹くこともないし、想像するに、枝先が乾いてきて、ドングリの小さな実がついているだけでも重さを感じて、枝が折れてしまうんじゃないだろうか。で、その落ちている小さなドングリを靴で踏むと、サクサクとものすごく気持ちがいいのだ。風もよくて、靴底からもよくて、ずっと昼休みであればいいのになんて思ってしまう。
夕べブドウ泥棒のことが放送されていた。まだ若い方で、ブドウ農家として自立して初めての出荷を待つときであったと。彼の悔しそうな顔が暫く頭から離れなかった。この丹精を闇にまぎれて切り落として盗んでいく奴らとはどんな生活をしているのか。本当に誰にも、何ものにも見られていないと思ったら大間違い。きっと天罰が下る。


2009年8月26日Wednesday晴れ
朝、冷たく。
夜明けが少しずつ毎日遅くなっていくようだ。5時に起きると、集落の防犯灯にまだ灯りが残る。涼しいというより冷たい朝になってきた。雨が欲しい。本堂の中も暗く、電気をつけなければ蝋燭だけでは教本が見づらくなってきた。老眼もある。本堂から客殿のお勤めを済ませ、外でたっぷりと時間をかけて水遣り。雨が欲しい。朝の明けも少し遅くなり、涼しさから空気を冷たく感じるようになってきた。ひんやりと、これもまた体に気持ちのよい季節だ。寺は喧騒とは縁のない空間だ。選挙もない。遊説カーの連呼する声はなく、聞こえてくるのは、蜩、法師蝉。さて、今日も一日だ。
(21:00) 午後3時から保健所での新型インフルエンザの会議に行ってきた。保健師、養護教諭、保育所関係者、教育委員会職員などで会場は満員。関心度の高さがしれようというもの。感染が拡大するにしたがって、厚労省の出す見解が変わりそのつどの対応に件でも苦慮しているようだ。つまり広がるばかりで、いちいち新型インフルエンザなのかという検査を待つことを、厚労省が必要なしとしてきたらしい。感染者の97%超が新型インフルだから、もう検査の必要は無く、ほぼ全員が新型とみていいだろうという見解のようだ。学校現場からも対処の仕方への苦悩が打ち明けられたりした。どこもみなこの魔物の拡大に、どのような対応をしたらよいのか悩んでいるといったことが本音のようだ。興味深かったのは、その感染の早さ。I高校の夏休みの課外授業に一人の感染した生徒が参加した。2日後にはその授業を受けた生徒4人が発症した。課外授業は、冷房の効いた密閉された教室で、実に心地よく行われていたらしい。でもこれが感染には大いに貢献していたというわけだ。沖縄に感染者が多いのは、外が暑いので、冷房の聞いた部屋の中で遊んで過ごすことが多いからなんて識者の指摘もあるようだが、当っているのかもしれない。

2009年8月24日Monday晴れ
夏が終わるなぁ。
先月ご主人をなくされた船橋のSさんから長い長い手紙をいただいた。ご高齢の方の手紙は、達筆すぎて僕のような者には読みこなせない箇所もいくつかあった。だから困るのである。西嶋の家も最近売却してしまったとの事。本当に幕を下ろしてしまったのだなというのが感想。こちらに来ても、奥さんの実家があるだけとなり、でも、やがては西嶋のS家の墓地に奥さんも入るのであろう。七七日忌の前に、Sさんの建立した早川町の大滝の不動様に、Sさんの亡くなったことを伝えにいってこようと思う。大聖寺のこともいつも気に留めてくれていた。先代亡き後の僕を元気付けてくれるために、できることは何でもするからねと言ってくれたこともあった。何も恩返しすることもできず、僕はSさんと無言で別れなければならないのだ。これからは年に二度くらいは早川の滝を訪ねよう。滝壺の前に建立したお不動様の元で、柴燈護摩を焚いた父の姿も忘れられない。夏の終わりの夕暮れを、僕は少し空ろな心で見つめている。

2009年8月23日Sunday晴れ
墓地をなおす気持ちが大切。
午後4時前に望月石材店さんと墓地で待ち合わせて、Y家の墓地の改修のために経をあげる。明日と明後日で仕上げてくれるという。先祖を敬うということと、その方たちが居たから私たちがあり、それで結婚もできたり、子どもにも恵まれたり、そこそこに商売もうまくいっていたり、何とか生活ができているということなんで、墓地に手を入れるということに何の遠慮が必要であろう。またそれを恐れるということなんかは何もないはずである。眠るものたちは新しい空気に触れ、この世に生きる者達が「私たち」を感じてくれることを喜んでくれるはずである。だからその者たちの為に、天上から一生懸命に光を送ってくれることだろうと思う。盆に参り、秋の彼岸に参り、10月には法事もしてあげて、こんなに素敵な年はないのじゃないか。孫たちの成長やハレの報告も聞けてよかったのじゃないか。この世にある者たちの心も晴れやかにさっぱりとしよう。そういうことを素朴に信じていこうじゃないか、と僕は考える。

2009年8月22日Saturday晴れ
松本からラザウォーク。
松本の帰りに甲斐市双葉のラザウォークへ寄る。初めての店で戸惑いながらも、女房も娘も好奇心いっぱいで、1時間後に会おうということで別れる。僕は、新星堂でCDを漁る。もうほとんど僕の気持ちを動かすようなものはない。でなんとか、CHAR/EDOYA COLLECTIONとエンプリルフール/THE APRIL FOOL買う。無理して買ったわけではないが、この廉価盤と出会えてよかった。朝出かけに空はまだ曇っていたり、ぱらぱらと雨があったりしたけど、午後は松本も山梨もいい天気。松本の駐車場のおじさんも、「久しぶりに暑い日になった」と言っていた。やっぱり松本はそばが旨い、ちきり屋で、冷酒を飲むための湯呑を一つ求めた。今夜これからこれで一杯。
帰ってきてラザウォークとはどんな意味があるのか調べてみたら次の通り。なんのこっちゃ?『名称の由来は、「ラララ」と口ずさみたくなるような「ラ」と、地元旧双葉町の町花アザレアの「ザ」で「ラザウォーク」と名付けられた』だって。

2009年8月21日Fridayくもり一時雨
午後には恵みになりそうな雨あり。
一日、期日前投票事務で開発センターに缶詰。やっと午後4時前。ここまで来た人は24人。忙しいには程遠いので、何冊か途中だった本を持ってきて読み終えたり進めたり。昼食後からロビーの本棚にあった武満徹のエッセイ集「私たちの耳は聞こえているか」を手にとって読み始めた。波の盆を聴いたが、他のも久しぶりに聴いてみたくなった。武満さんは多くの映画音楽を作っているが、映画の場合、武満の作曲だというような意識は見ている人にはないので、それが自分にとっては嬉しいことだと語っていることは印象的だった。匿名の世界に行き着いた時に、音楽は社会性をもつとは、武満徹の生き方をよく現しているように感じた。

2009年8月20日Thursday晴れ
幸福を実現するのは政党ではないだろう。
帰りに甲斐常葉の駅からちょっと離れた常葉川寄りに遊説カーを停めた幸福実現党の何人かが外にいて、僕の車にも手を振った。どうせこの党の人たちは当選することはないだろう。大川隆法という人のことも知らないし、幸福の科学も知らない。宗教団体ということは知っている。教義も知らない。宗教団体が政治の世界に乗り込むことにはあまり賛成できないと僕は考える。宗教が政治を牛耳るようなことはあってはならないし、僕は宗教団体は自分たちの考えを強いてはいけないと思っているので、こういう活動に踏み込むのはいかがなものかと思う。もっと自由でいいはずなのに、なんでこんなにも自己主張したがるのかと考えてしまう。どうしてもこういう人たちは、自分たちの考えに沿った世界の実現みたいなことに偏った主張を、だんだんとするようになってくるような気がしてならない。エホバの証人たちも、真言宗の寺にまで踏み込んできてなんか欲しくないです。悪しからず。

2009年8月18日Tuesday晴れ
今日の葬儀の方は、行く度にお世話になった方だった。
今日の宝竜寺の葬儀の方は、祭壇の写真を見てびっくり。Mさんは、7年か8年ほど前まで、宝竜寺の葬儀に行くと、毎回寺男のように葬儀を終えた僕たちへの接待をしてくれた名物爺さんだった。まだ飲んでも平気な頃(平気という言い方はないだろうが)、住職が初七日に出かけても、僕も父も、それからここではなぜか曹洞宗の三井先生をも呼ぶのが常で、夏は涼しい畳のテーブルで、冬は電気ごたつの中で、ビールから日本酒へと、地元の母ちゃんたちのすべて手作りの葬儀のための料理をいただいた。甘く煮た油揚げやおからの旨かったこと。Mさん自身はそんなに飲もうとはしなかったけれど進め上手で、僕も父も三井先生も遠慮なくたくさんいただいた。懐かしいいい時代の葬式の思い出だ。いつだったか雨畑のMさんに、僕はこのMさんのことを話したのだ。そのときは名前など知らなかった。それから、町会議員も何期も務め、消防団長もやっていたなんて知らなかった。ただ、森林組合の何かをやっていることは聞いていた。椎茸の話や山の話などはよく聞いた思い出がある。寺にはこんな名物檀家がひとりはいたもんだ。僕の寺にも、村田屋の爺さんとか、下の棚のEさんとかだ。二人とも亡くなってしまったが。Mさんへの弔事を町長が5枚くらいに綴って読んだ。それだけ貴重な早川町の人だったんだ。11時からの葬儀は12時10分になる頃に終わった。最近のホール葬ではありえない長い時間だった。孫からの送別の言葉もあった。Mさんの子どもたち全員が別れの杯に臨んだ。いい葬儀だった。でも、Mさんの居なくなった黒桂の宝竜寺を次に訪う時は、なんだか寂しい気持ちになりそうだ。住職は「ホントは宝竜寺で葬儀を出してやりたかった」と残念そうだった。その一言が僕にも沁みた。

2009年8月17日Monday晴れ
世界新。
秋の朝を予感させる冷たさで早くに目が覚めた。テレビを付けると世界陸上をやっていた。ちょうど男子100m.の決勝。ジャマイカのボルトが自身の世界記録を0秒11縮める9秒58で優勝。すごい記録らしい。でも、この世界陸上で僕が昨日見て面白かったのは男子砲丸投げ。7キロの鉄の球を遠くに投げるだけの競技である。距離も22m.くらいのところ。およそスポーツ選手らしからぬ巨漢の男たちが、頬と肩の間に玉を乗せて、それを片腕で押し出すように投げるというよりも飛ばすといったほうがいいかも。派手さはないが、黙々とこれも1センチでも遠くにという思いが伝わってよかった。
さて、今日からまた仕事だ。明日はまた葬儀の手伝いで休むのだが。今日も暑くなりそう。

2009年8月16日Sunday晴れ
護持会。
午後2時から盂蘭盆の先祖供養と、護持会の総会。ここ数年は大体15人くらい集まってくれる。般若心経を読める人たちも多くなってきた。真言宗に縁を持ったことをどんな風に感じているのかなんて、あらためて問うた事はないけれど、この辺りにたった一つの真言宗の寺の行く末の、平坦ではないことは皆承知してくれていると思う。
ビールと焼酎で懇親会。たくさんは飲まないが、楽しく話して過ごしてもらった。今年は女房がピザを出した。刺身も用意するが、食べ慣れているのか食傷気味なのか、刺身も来年は何か変えてみようかと女房と話した。しめ鯖もいいかななんて。最後に残ってくれたのはいつものヒデちゃんで、答えを引き出すような話しではなかったが、取り留めなく話した。閃光弾がはじけたような真昼間が、少し陰りを帯びた外を眺めながら、ゆったりとした時間を過ごした。一つ一つ歳を重ねることの、生きてゆく重さをも静かに思った。
夜飲んでいると、喜田の姉さんから「珍しい人がいるのよ」とケータイ。みどりちゃんであった。少し甲高い懐かしい彼女の声であった。結婚したと聞いていたが、絵を描く彼女の場所を大切にしていって欲しいと思う。


2009年8月14日Friday晴れ
棚経。
7時20分出発。一路本栖湖を目指す。本栖は曇り。まだ早い時間なので天候はよくなっていないよう。富士ヶ嶺にちょうど8時着。本栖湖の気温は24度。下界の昨日とは比べ物にならない。遠藤さん宅と望月さん宅。今はもう飲めないからできるだけ早く済ませて先を急ぐ。精進湖線を下り、市川三郷の遠藤さん宅。そこから甲府へ。甲府で5軒。Aさんたくのおばあちゃんが夏を越せないかもしれないとの話し。こちらもその覚悟をしておかないといけない。柳沢宅で一息入れる。応援団の息子帰省中。ゴロン太君の様子。硬派の顔ばかりじゃ身が持たないのかもしれない。法事の話しなどして辞す。そこから田富の遠藤さん宅。新盆。葬儀の時には敷地がごたごたしていたのに、何もかも片付けられてすっきりとしていた。こちらでも、一周忌の話しなどして辞す。中富に戻り、切石から間遠トンネルを抜けて後山の両遠藤宅へ。どちらも盆の帰省客があり賑やか。普段は2件で3人しかいないのだ。賑やかでいい。三ツ石の佐野宅で経あげ、金岡邸へ。車椅子のご主人から、桜の木を寺に植えるところはないかなどの話しもあり、もしそういうお気持ちが出来上がったら、いつでもお寺に尽くしてくださいとお願いしてきた。下山の遠藤宅へ。何年かぶりで在宅の遠藤家の盆飾りの前で経。いつも出かけているのだこのうちは。今日も僕が伺うほんのちょっと前に帰ってきたのだということだった。でもよかった。で、最後に伊沼の金岡宅へ。息子さん二人のお嫁さんも着ていた。亡きご主人の七回忌のことなども話して無事に今年の棚経おしまい。150キロ以上の走行。午後4時過ぎに帰山。冷房の入った台所で、やっとアルコールの入った飲み物にありつく。

2009年8月13日Thursday晴れ
白衣も汗で重たく。
今日は僕がこの夏感じた一番暑い日だった。午後1時から村内の檀家の棚経。夏用の白衣や改良服を着けているとはいっても、襦袢から3枚である。自転車をこげば汗が出る。檀家の家に入れば、クーラーが効いている家なら別だが、ほとんどが座れば汗が吹き出る暑さ。線香に点す間、扇風機がないだけでも暑い。でも、涼しさを体感すると、外に出て余計に暑さを実感するのだ。各家で出していただく、お茶や麦茶の類も、腹に溜まるだけで、ビールさえも暑さを引きずる元でしかないような暑さ。こんな暑い日に外を懸命に歩いているのは坊主以外にはいない。そんな13日。最後の秀ちゃんちでゆっくりと冷房の効いた部屋でビール。おばさんともゆっくり話す。ほっとする時間。40分ほどで辞し帰宅。汗を大量に吸い、心なしか重たく感じた襦袢・白衣を脱ぎ、シャワーを浴びて解放。盆初日の仕事終わり。

2009年8月13日Thursday晴れ
白衣も汗で重たく。
今日は僕がこの夏感じた一番暑い日だった。午後1時から村内の檀家の棚経。夏用の白衣や改良服を着けているとはいっても、襦袢から3枚である。自転車をこげば汗が出る。檀家の家に入れば、クーラーが効いている家なら別だが、ほとんどが座れば汗が吹き出る暑さ。線香に点す間、扇風機がないだけでも暑い。でも、涼しさを体感すると、外に出て余計に暑さを実感するのだ。各家で出していただく、お茶や麦茶の類も、腹に溜まるだけで、ビールさえも暑さを引きずる元でしかないような暑さ。こんな暑い日に外を懸命に歩いているのは坊主以外にはいない。そんな13日。最後の秀ちゃんちでゆっくりと冷房の効いた部屋でビール。おばさんともゆっくり話す。ほっとする時間。40分ほどで辞し帰宅。汗を大量に吸い、心なしか重たく感じた襦袢・白衣を脱ぎ、シャワーを浴びて解放。盆初日の仕事終わり。

2009年8月12日Wednesday晴れ
「デニーズ」でランチを。
今朝は安心の中で起床。何事も起こらない朝でこれが何より。JETALTを甲府へ迎えに行く。正午に彼らの県内オリエンテーションが終わる。正午ちょうどにケータイに電話入り、18日に宝竜寺の葬儀の手伝いを頼まれる。午後2時から寺への来客があったので11時からの葬儀なら大丈夫。ALT3人と帰りに食事して、ブックオフに寄り、それから西嶋で和紙の里にも寄る。随分と感激したようである和紙の里には。やっとこれで彼らの一連の行事もひと段落。僕は明日から休み。墓地への盆幡を付ける竹を取ろうと思いながら帰ってきたのだが、飯富橋を右折したら国道が渋滞。盆の渋滞なのかわからず。帰ってきてそのまま竹を取りに。暮れ始める午後7時前まで。イノシシが荒らしまわっているのがよくわかる。さて、明日から盆で、午後から棚経だ。

2009年8月11日Tuesdayくもり
地震。
起きようとしていたところに地震だった。「緊急地震速報、緊急地震速報」だったかな。何秒くらいだったか、でもだいぶ長く感じた。何もなすことができないのが地震。じっと収まるのを待つしかないのが地震。着替えて本堂に入ると、電気の灯篭の揺れがまだ続いていた。
娘もすぐ起きてきて、大学の友人のKさんの家が静岡にあるので、「どうかなぁ」などと。雨は止み、空の色は怪しい。魔物の潜むような空。これで収まってくれるといいが。
(21:28)文化財主事のS君に、「不動明王大丈夫でしたか?」と聞かれたので、とっさにどういう意味か解りかねたのだが、地震の被害を受けなかったかという彼の心配だったのだ。で、帰ってきて厨子をあけてお不動様の無事を確認した。静岡県の被害は想像以上に大きかったようだ。東名高速が通行止めになっているなんて、盆前の帰省客などにも影響が出ているだろう。想定されている東海地震とは違うということらしいが、素人にはそんなことはわからない。早く安心できる生活を回復できますように。

2009年8月10日Mondayくもり
いささか...。
娘が帰省したので夕べはいささか飲みすぎた。今朝はちょっと辛い月曜日。台風の影響のある雨の朝。月曜日は、そうだな、割とこんな時の方が多いのかな。申し訳ない気持ちで本堂に行く。馬鹿な俺ですと経をあげる。
JETALTの県内オリエンテーションがあるため、八日市場団地のロバートを7時20分に迎え。テキサスの男は縞のシャツに赤いネクタイ。支所でケルシーを乗せ、久那土でマークを拾う。皆正装。そのため2泊の研修ながら3人とも荷物が多い。マークに「市川の花火に行ったか」と訊くと、「行ってきた」と。徐々にこの場所に慣れて馴染んでいく。県庁で3人を下ろし、鰍沢税務署で米国人の免税の手続きをし、一日の仕事に戻る。雨が続くかと思っていたが、冴えない天気のまま昼休みも歩けて一日終わる。盆休みの調整をし、13日と14日休めることとなる。

2009年8月9日Sunday晴れ
蒸し暑い。
本堂の護摩壇の片付けと掃除。たっぷりと午前中いっぱいかかる。護摩壇をきれいにして、次の護摩がいつでも焚けるようにすべての準備も済ます。終わって外のトイレの掃除。掃除をしていると軽のワンボックスカーが入ってくる。僕と同じくらいの年齢のような女性が運転席から降り、庫裏へ向かって歩き始めた。足が悪いらしく杖を突いていた。「何か御用ですか」と後ろから声を掛けると、「今仕事な無くて、30分でもいいですから何かさせてもらう仕事はないでしょうか」という。いやぁ、特別にしてもらうことないですねと応えると、「そうですか、失礼いたしました」と丁寧に挨拶してまた車で去っていった。続きの便所掃除をしながら、水戸ナンバーの車の女性の、来た道と行く道のことを考えた。大変な時代になってしまったな。娘からの荷物が二箱届き、今日夏休みで帰ってくる。何とか就職に結びつくような残りの学生生活であってほしいと願わずにはいられない。

2009年8月8日Saturday晴れ
8月の護摩。
火曜日に来たエルク夫妻と噂をしていたN夫婦墓参に来る。酒井法子のニュースで俄かにクローズアップされた身延のことなどを向こうから。今日も役場の付近にテレビ局は居るらしい。午前中、車の6ヶ月点検。特に異常なし。昼食後に訪ねてきたN夫妻と話しをし、僕は8月の護摩を焚く。汗びっしょりで仏と向き合う時間も、頭の中は涼しい。息子のこと娘のこと、願いながらも考えが遥かに飛びながら、僕だけの暑くて緊張して涼しい時間を過ごした。考えてもなかなかどういう方向に行くことを僕が舵取ればよいのか迷うばかりではある。
今年は少し百日紅が咲いた。去年はまったくダメだったのに、今年は少しでもこのピンクがいい。N夫妻の息子たちの近況も聞く。子らは早く大きくなりたいとどんどん前に進む。僕はゆっくり歩きたいとブレーキをかけながら歩みたいのに、早差し将棋のように、そんなことだけを感じてしまう。

2009年8月7日Friday晴れ
恐れるべきはこの女性の勘というやつ。
今朝起きる前に聞いていた早朝のテレビで、のりピーの子どもが都内で確認されたということを知った。5時になって起きる時に、女房にそのことを伝えると、間髪入れずに彼女はこういった。「だから、自分もやってて逃げてるってことでしょ」と。まさかと思いながらも、そういうことも考えられるのかと、男は可愛い女に弱いばっかりに、のりピーを疑うことを知らないのだった。で、午前中に本庁へ幼児で行くと、話には聞いていたが、本当にテレビ局の中継車や報道関係者と思われる人達が役場の駐車場に何人もいたのだ。切石の通り沿いでは、カメラを肩に下げてショットガンマイクみたいなのを携えた奴が、民家に入っていく光景にも出くわした。なんだなんだこれは!こんなに熱いことになっていたのか?!用事を済ませ戻り、ヤフーを覗いてみると、「酒井法子容疑者に逮捕状」なんて見出しが。恐るべき女房の第六感。迂闊なことはできない。
午後、飯富病院受診。そうか今日は血液検査があったのだ。やはり想像以上に数値が高い。次は2ヵ月後。何とか夏場を乗り切って、10月にはちょっとでも数値を下げないとね。

2009年8月6日Thursday晴れ
杳としてのりピー。
酒井法子失踪で、俄かに身延町がクローズアップされ、役場の本庁にもテレビ局なんかが構えているらしい。中富中学校の入り口付近にのりピーの親戚が住んでるなんてことは、彼女が芸能界で活躍しだした頃に役場でも話題になったので知っていた。でも一体どこにいるんだろう。職場でも話した。「まさか自殺なんかしねぇよな」「10歳の子どもが一緒なら、お母さんに対して忠告することもできるだろう」とか。絶対に彼女が消えていくことは無い。
昨日の教育委員会で話し合われたことを受けて、上司が臨んだ場所は、それを拒んだのだ。あー何と情けない。これでは存在する意味がないということになりかねない。まさにこれものりピー状態だ。一週間ほど休まなければならなくなった仲間があり、その分、誰かがそれを補わなければならなくなり、今日もまた結構忙しく、ゆとり無く過ごした。終業時間にはホントに疲れたと感じた。明日、飯富病院での痛風の定期点検。課長から「そのまま入院なんてことになっちゃあ困るからな」なんて、終いには少し笑えました。これがバランスなんだろうな、生きていくことの。


2009年8月5日Wednesday晴れ
天候は安定。
午後8月の教育委員会。いくつかの案件についての方向性を決める。午後1時半から午後5時過ぎまで、たっぷりと3時間半。学校統廃合の計画を始めてから会議は必然長い。最近は慣れた。これの会議録の作成だけが僕だけに任された辛い時間なのである。ぐったりと疲れて後何をしようという気も起きずに5時半を過ぎて帰宅。のりピーが身延に来ているかもしれないとニュース。ラリッたり、飛んでいる奴らが、浮遊している時間も僕は生きているのだとなんだか思ってしまう。そんなことに楽しみの一隅を占めたいとは思わない。あくまでも身体で感じて言葉で生きてそれが認められるのではないか。
風呂に入る。先月辺りから隔週くらいで、集会場で大正琴の習い事が行われている。僕は余りこの大正琴の無機質な音が好きではないが、この町の将来をどう憂えていても、生涯学習という分野の浸透していることの凄さはやはり感じる。先のことを案じても仕方ないなら、弾こうよ大正琴で「みかんの花咲く丘」を。

2009年8月4日Tuesday晴れ
暑くなりそう。
7月26日に墓地の清掃をしたときの雑木が積んであるので、盆前には燃して片付けてしまいたいと思っているが、雨続きでどうにもならなかった。今朝墓地に行き確かめてみると、昨日一日の天気だけでは乾くところまでいっていない。やっぱり今週末まで待たなければならないか。ただ、晴れの日が続いてくれるかという心配もある。こんなに天候を気に病む夏も珍しい。
今朝はもう既に暑くなり始めて、蝉も泣き出している。女房も2日続きのウォーキング。アジサイの挿し木はほとんど根を張り始め、今年は旨くいきそう。穏やかな朝であることを考えてみた。猿のいない朝なのである。 

2009年8月3日Monday晴れ
今日は暑かった。
一週間も10日も昼休みに歩いていなかったような気がした。雨があったり、ALTの事務があったりとなんだか忙しなくて。今日は午前中からいい天気で気温もぐんぐん上がり、弁当を食べた後帽子を被って歩いた。これが夏だ。
8月に入ると聴きたくなるCDがある。武満徹の作った「波の盆」である。1983年のテレビドラマ用に作られたものである。日曜に頭に浮かび、今日の往き帰りに車の中で聴いた。宮木から一色をとおり、鳩打隋道を抜けて出口への下り坂。九十九折れの坂道に木漏れ日があって、武満徹の旋律がじっくりと沁みた。盆が来るという静かな心持ちになった。
まだ残るALTの諸手続きをこなす。ハローワークへも行き雇用保険の手続き、自動車の保険など。夜WOWOWの録っておいたドラマ見る。 

2009年8月2日Sunday
動き始めたぞ。
日曜の今日も雨。足止め食らって大井川を渡れぬ旅人や、はたまた日銭を稼げぬ川渡しのにんく人夫のように、家で録りためた映画やドラマを観て過ごすしかない。雨が多いので、やはり草の伸びがいいようだ。僕だけがそれを感じていたのではなく、喜田のおばさんも夕べそう言っていた。
国の選挙が始まるので、昼過ぎに立候補予定者の後援会事務所からもあいさつ回りが来た。「ご主人は公務員だということを存じていますので、奥様お母様になにとぞ後援会入会カードをお出し願いますように」と。そういえばこの候補、4月の不動尊祭典に来てくれていた。それで傾くというわけでもないが、0.5ポイントくらいやるか。でも、ほとんど興味なしだ。国政選挙もあれば、町議会選挙も10月にある。立候補を噂される人たちもそれぞれ動き始めているようだ。今回の選挙は合併後2回目で、今回から全町一区の選挙戦となる。自己満足や肩書きのためだけにその席が欲しいような人なら必要ない。それだけだ。


2009年8月1日Saturday晴れ時々雨
先祖伝来。
この先祖伝来というやつが重くのしかかってきているようだ。甲府から八日市場へ作物をつくりに来ているWさん。檀家である。定年退職後からここへ通い、W屋農園などと自ら称しながらたくさんの野菜を作り続けてきた。だが、年齢が進み体力の衰えが進み、ここ数年は畑の規模も縮小し、甲府からここまでの車の運転さえ、大変になってきているようだ。先日の墓地の草刈りにも着てくれたのだが、草刈機をかける肩に、小さな布団を当てないと痛くてたまらないと話した。そう、草刈機を振るう姿もおぼつかない。彼の子どもたちは、丈夫な間に八日市場を整理してくれと願っているようだ。当然、子どもたちは八日市場で何かをしようなどという気持ちはない。先祖から受け継がれた旧い家があり、たくさんの土地もある。耕作ができていればしっかりと管理できているということになるが、いったん放棄して、ほったらかしにしてしまえば草は伸びる一方である。隣接する家からの苦情があるだろう。土地を売りたいにも、こんな場所では買い手もつかない。不動産屋に頼んではあるのだと聞く。子どもたちは、こんな付けは受け取りたくないと、伝来の場所にけりを付けてくれということだ。
今朝は8月。昨日の夕方集団で降りてきた猿が、明けきらぬ内から騒々しく寺の屋根を飛び回った。どうにもならぬ、くやしいが。トイレの小さなカレンダーをめくる。8月のことばは「草の匂いを感じる」とある。ちなみに7月は「水に涼む」であった。雨ばかりで、水に涼むことのほとんどなかった月が変わり、今朝わが寺のある村は、草の匂いなど感じられず、猿たちの動き回った後の獣臭に包まれていた。老いた者たちが、獣の目を盗むように小さくなって耕し、草の匂いに生きる喜びを得ることなく、耕せば耕すだけ頭を抱え込み、やがてエネルギーは、天に巻き取られてしまうのだ。

2009年7月31日Friday
今朝も雨。
5時起床。「降ってないね?」と女房が布団の中から聞くので、「うん」と応えると、「じゃ、今朝は歩いてくるかな」と言う。僕はお勤めの本堂へ。でも空は曇っている。理趣経を上げ始めて暫くすると雨音が聞こえ始め、やがて土砂降りに。なんてこった!7月の終わりもまた雨勝手な気分になってくる。終えて客殿に戻る石畳を、濡れながら飛びながら。さっぱりとした気分にいつ戻ることができるのだろう。歩こうと意気込んだ彼女はまたも足止めを食らったのでした。
(21:00) 甲府市からの速達が思っていたより速く届いたらしく、本庁より支所にOKがきて、除籍抄本10時には手に入る。S女史にその旨連絡。すべての書類OKが出る。3人が休みで、課長とN君も出てしまい、午前中は一人。死亡叙勲の書類を揃え、その後に帰国したALTの確定申告の書類作り、新規米国ALTの税免除の提出書類作り。今日へ弁当を持たなかったので、そのまま仕事継続で賃金伝票起票など。とにかく片付けたいものたくさん。来週の教育委員会の招集通知なども送る。やたら忙しくしているが、一人なので気兼ねすることもない。課長帰ってきて午後1時半前に県庁へ。書類を届け、教育事務所へ寄り、鰍沢税務署へ寄り、本庁へ寄り戻る。忙しく一日を閉めて金曜終わる。明日は支所日直。

2009年7月30日Thursday 晴れ
銀行から携帯電話へ。
朝、八日市場の団地へRを迎えに行き、支所でKと同行してくれるK先生を乗せ、久那土中でMを拾う。9時ちょうどに銀行へ着きシャッターの上がるのを待って口座の解説。個人情報がうるさくなって、書類の作成も自筆で無ければ受付を通らなくなり厄介。たっぷり一時間以上かかって終わる。その後、携帯電話を買いにリバーサイドまで。APITAに行き、お目当ての会社の機種を物色。僕は初めてAPITAに入った。退屈な時間を電子ピアノで「サルビアの花」のコード進行など思い出しながら鍵盤を探ってみた。ひとりは、今日は買わなくてよいといい、二人がauとソフトバンクの携帯を買う。オギノにも行き、久しぶりに本屋へ寄り、「山下洋輔の文字化け日記」(小学館文庫)買う。山下さんの文章を読むのも久しぶり。相変わらず面白い。昼飯を食べて帰る。支所に着いたらもう3時半を回っていて、ほとんど仕事にもならず、死亡叙勲の上申書の件で教育庁総務課のS女史に電話を入れ、明日必ず届けますと約す。今日はやっと一日雨がなく暑かった。夕暮れていく台所でテレビを見ていると、外に出た女房が「少しパラパラとまた降っているよ」と。朝、Rを車に乗せて走っていると、「カラスが大きい」と彼が言い。「なんで?」と聞くと、彼の故郷テキサスのカラスはもっと小型だという。それから、テキサスは雨が余り降らないのだとも。湿気が多くて僕たちはいま嫌な気分になっているが、Rは雨の多い今のこの国をどんな風に感じているのか。そんなことも、女房に話してあげた。

2009年7月29日Wednesday くもり
地デジ対応早めにね。
急に飛び込んできた死亡叙勲の書類作りのため、JETのALTを甲府へ迎えに行く予定だったが、それを同僚のN君に頼む。で、午前中はその書類作り。いつもある日突然やってきて悩ませてくれる。この叙勲という奴。ほぼ僕の頭で作文してしまうのだ。たまらん。
午後1時半過ぎに3名のALTと同行してくれた英語科教諭到着。今日は予定が立て込んでいて、課員も皆出払っている。二人は支所にて外国人登録を。もう一人は本庁にて登録に分かれる。3人とも少し日本語ができ、話すことも理解ができるようで少し安心。明日、銀行へ行き、一同がすぐに欲しがっている携帯電話を買いに行くこととする。
仕事を終えて帰ろうとしているところへ、叙勲の関係、JET事務のことで南部町の担当から問い合わせなどあり、遅い帰宅となった。飲んでいると、T屋さん来てくれて、部屋のテレビに地デジチューナー付けてくれて、なんと映るようになった。なんだこんなに簡単にできてしまうことだったのかって感想。

2009年7月28日Tuesday くもり
緑の葉は鮮やかに見える朝ではあるが。
今朝も曇り。曇天。夕べも雨降る。列島各地で、局所的に災害発生。竜巻被害も。尋常ではない。湿気の多い蒸し暑い日が続き、カラッとしないので、体も浄化できないでマイナス気分になる。早起きすれば朝のうちは冷たさがあり気持ちはいい。お勤めの後、ゆっくりと境内を歩いて回る。毎日同じ植物を見ても、また明日の朝の感想は僕の中で違ってくる。陽の射さない夏の日ってのは、なんだか変なものだな。この時期、部屋に洗濯物が吊るされているってのも。蝉の鳴き始めも遅い。朝は油蝉、夕は蜩。アオバズクの声、杜の奥から。記憶をたどりながら盆に帰ってこようとしている、遥か古人の道歩く法螺貝にも似て。

2009年7月27日Monday くもり
天候の変化にもてあそばれているような。
まったくなんて天気だ。コロコロと人の心をもてあそぶように変化しやがって。仕事の段取りがたたない。別に職人ではないけれど、いま、何だか気ぜわしく、今週JETの指導助手を迎えるまで、住居の掃除やらなんだかんだで、天候も重要な要素になっているんだ。
今朝の職場での会話は、「身延惜しかったな」とか「泣くに泣けねぇよな」など、準決勝で負けた身延校野球部の試合のことだった。応援に行った人も何人かいた。それから昨日のヴァンフォーレ甲府の勝利のこと。3位浮上で、一部昇格も夢ではなくなってきた感がある。やっぱスポーツって話題にするには一番手っ取り早くて、誰もが関心事なんだろうな。宮里藍がアメリカツアーで初優勝したってニュースも今朝あったもんな。
僕はスポーツの見出しくらいの理解しかないけれど、会話の糸口をこんな風にして集めることも必要なんだな。上に立って指揮したりするには必要なことかも。あまり関心はないけど。
ボブ・ディラン Far East Tour 1978 松下電器体育館「All Along The Watchtower」。相変わらずかっこいいな、ギターのイントロもディランのボーカルも。もてあそばれた一日に、毅然としたディランで幕を引く。

2009年7月26日Sunday 晴れ
夏に戻った。
朝、ケータイにメール。カメラマンE君から。東京は晴れの朝になり、仕事になってしまいましたと。気持ちだけありがたくいただく。檀家の皆さん集まってくれて7時半から草刈り作業。こちらはまだはっきりしない曇り空。1時間を越えたあたりで終了。お茶を飲んでもらって解散するあたりから暑くなり始め、僕はそのまま畑の草刈りへ。ちょうどお昼に終了。夏に戻った。「帽子くらい被ったら?」「ダメだ。紐の草刈り機のときは、 フェイスガードをしてるから、帽子が被れない。」「バンダナでも巻いたら?」「頭の脳みそが沸騰してる、もう何も考えられん」というような女房との会話。これで盆が迎えられる。いつもと変わらない夏になる。高校野球の山梨大会の決勝を見て、4時過ぎから本堂の脇の草刈をする。いつもと変わらない夏は終わりのない作業を課す。

2009年7月25日Saturday 晴れ
夕べからのことなど。
夕べ、船橋市のSさんの奥様から電話があり、Sさんが19日に亡くなったことを知らされた。突然の知らせでびっくりした。9月に西嶋の寺で七七日忌と納骨をするので、その時には出席して欲しいとのことだった。父との付き合いの方たちなので、もう高齢であったが、2年前に山梨に来たときに寺に寄ってくれたのがお会いした最後になった。そういえば、今年の寺のお祭りには奥様がお一人でお出でになった。すでに病状は悪かったようである。Sさんには、父が「Sさんに頼んで、墓碑の字を書いもらってくれ」と言っていたので、そのとおりお願いした。何度か書き直してくれたり、船橋から山梨までお出でいただいたり。父亡き後の寺のことも心配してくれて、僕を励ましてくれた方である。Sさんは幼い頃、父親が教師をしていたので早川町に暮らしたことがあり、その幼い時に、滝の上から滝つぼに落ち、九死に一生を得た経験があり、その滝のそばに大聖寺のご本尊不動明王の分身として不動明王を勧請して祀った。そこで柴燈護摩を行ったこともあった。ご冥福を祈りたい。
そして夏の高校野球。準決勝第2試合。身延対山梨学院大付属。8回裏に逆転のホームランで結局甲子園への夢ははかなくも絶たれた。でも、いい試合だった。八日市場のM君のご子息も出番はなかったが、NHKでの放映があり、ベンチから選手たちを応援する姿が映し出されていた。最終回の攻撃をベンチから祈る選手たちの何人かが、もう涙を落としていた。負けが確定していたわけではないけれど、もうここに彼らが極まっている心情が伝わってきて、僕自身も見ていて切なさに胸が締め付けられる思いだった。15.16.17.18の若人の流す涙は美しい。ひとつのことにみんなで打ち込んで目標としてきたことのその最後の結果は負けであっても、美しい涙を流した身延高校野球部員たちは、本当にいい夏を僕たち卒業生に分け与えてくれた。感謝である。残念ではあったけれど、ありがとう。

2009年7月24日Friday
こちら大雨洪水警報。
大雨の朝。樋から飲み込めない雨が軒下にあふれ落ちる。本堂の周りも、墓地も、庫裏の周りも大洪水。お勤めを済ませ境内をぐるっと見回り。でも気持ちのいい雨だ。長靴に傘。作務衣はびしょ濡れになった。昨日ALTモーガンのカナダ帰国を送り出し、その後に彼の借りていた家の周りの背高く伸びた草を刈って大正解。昨日もお昼前にザーット降ってきたので、草刈りができるかどうかも心配だったけど、午後の4時間ほどが暑く晴れたので、その間に刈れた。モーガンが家を出るときに、玄関横の軒を指差し「蜂が巣を作ってる」と。草刈りの後、背伸びして竹箒で15センチほどになっていたスズメバチの巣を払い落とす。払い落とし、さっと家の中に逃げ込んだのはもちろん。草刈りの判断はよかった。今日は刈れなかったな。
日曜の檀家の皆さんとの墓地の草刈りはどうだろうか?今朝のテレビじゃ、あまり暑くならない夏となるかもしれないとも。盆の棚経には晴れて欲しい。小さな、坊主のお願いだ。今日最後に帰国するJの送り出し。今週は今日で終わって、来週には新しい3人を迎えなければならない。めんどくさくて、正直言って得るもののほとんど無い仕事だ。

2009年7月23日Thursday くもり
猿やイノシシと一緒の暮らしは望まない。
6時を過ぎて雨が降ってきた。戻り梅雨ってホントだな。暑くなくていいにはいい。今朝も早くから猿が屋根をドスンドスンと渡ったり、下りたり上がったり。夕べも日暮れの頃にこの状況があった。まったく打つ手なしで腹ばかりが立つ。やっぱり住む世界を明確にしておかなければいけないと思う。人間が奴らの不可侵領域を奪った結果が、頭を抱える田舎もんの暮らしを作ってしまったのか。これだけでも、十分に「こんなところにゃ住めねぇ」っていい訳にはなる。
夕べはT屋さん来てくれて、Cドライブを軽くしていってくれた。僕のような知識の浅い者には分からないようなDLがしょっちゅう行われていて、それで気がつかないうちにいっぱいになってくるらしい。時々それらを消去してやるといいらしいが、またそのときにはお願いしよう。地デジの話しを少しして、部屋の今のアナログに地デジのチューナーを付けてもらうことにした。WOWOWを見る方法もあるらしいのだが、これはまあいいや。猿やイノシシで腹が立つ分、こんなとこで快適にするって事も、バランスよく生活する糸口。

2009年7月22日Wednesday くもり
夕べは11時。
説明会を終えて、会場を施錠して出たのが夜の11時。会の間にだいぶ降ったのか、駐車場は水溜りもあり濡れていた。重い気分で帰宅し、晩飯を腰据えて食う気分にはならず、食卓の餃子を温め返してもらって、それをつまみにアクアブルーを1本飲んで風呂はいって寝た。衆院の解散の深夜ニュースも、頭に入ってはこなかった。さすがに今朝は起きられず、5時半を回ったところで起床。疲れを持ち越したカツカレーのような冴えない頭で、申し訳なくもお勤め。46年ぶりの皆既日食の朝も、池の面に雨の波紋はあり、メガネが濡れないように、俯いて客殿に戻る。「戻り梅雨」と呼ぶらしい。趣のあることばだ。こんなことばを知ると、この国のことばを使うことの縁を嬉しく思う。夕べがどうであれ、関係なく朝は来て、静か。静かさが体のバランスを保ってくれているかのよう。
「朝までやれ!」か、握手もできたり、抱擁もできる合向きにあっても、決していがみ合うのではないが、こちら側とあちら側の立場を演じるはかない遠さを感じて悲しくなる。条理は不条理となり、「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関」なんて歌がふと湧いてきた。

2009年7月21日Tuesday くもり
空重く、朝。
雨が落ちてきそうな空である。こんな朝は出かけたくない気持ちを二重にする。アジサイに水遣り。時間が無いというほどでもないが、早く大きくなってくれと水をやる。女房との静かな朝だ。今朝は新聞も休み。盆の準備を始めなければならない。僕はこの旅を誰に渡せばよいのか。考えても詮無いことだ。Cドライブの要領不足で動きが鈍いのか、まったくこのコンピュータという奴。無くなってしまえば楽になる。
今日は銀行へ行って、Sの賃金をアメリカに送金し、午後には帰国するMと打ち合わせ。夜はまた決戦のとき。

2009年7月20日Monday 晴れ
互いを思う気持ち。
昨日は檀家のWさんの決意の程を伺ってきたのだが、夜には晩飯を食いながら、息子の決意を聞くことにもなった。こちらの思いも伝えて、経済的にも厳しいのよってなことも話し、それでも彼は、もう少し勉強を続けたいという。社会人になりたくないのだろうという思いは、過去の僕のことからの思いなのだが、「勉強を続けたい」という耳を疑いたくなるような子供からの言葉は、僕も女房も、何とかしてやらなきゃならんかなというような気持ちにはなってくる。
僕も寺の僧侶としてのみありたい自分の時間のことを夢見ている。息子の思いと併走しながら、僕は僕のことを彼にも話し、それでも、彼の決意に何とか応えなくてはならんと思い始めた。
願わくは、彼にも母親や僕や妹のことを思う気持ちを育てていってほしいと思う。いま彼が一番に落ち着く場所のことを、僕たちも真剣に考えていきたいと思うので。

2009年7月19日Sunday くもり
これからのこと。
午前中、時々降ったりする中を境内や畑の草刈り。草刈り用のズボン方サスペンダーをはじめて買って、それをつけて紐の草刈り機を振るったが、ズボンは確かに汚れない。これならもっと早くこんな奴を刈って使えばよかった。作業着のズボンは全部草の汁で汚れた物ばかりだ。帰ってきていた息子と昼食後、午後1時に檀家のWさんが入居しているケアハウスを訪ねた。一度会って今後のことを話しておきたいという本人からの希望だった。南部に住む弟さんが同席してくれていた。1時間ほど話す。話すというか本人の希望を聞き入れるような感じ。本人の覚悟を僕が受け入れるということ。決して無理なことではなく、すべてそのとおりにしてあげましょうと約束した。
早くお寺に行きたいと話すが、こればかりはどうにもならない。本人はいたって元気。今でも書をしたり、カレンダーには句会なんて予定も。ただ日一日と不安が募るようで、その時のことを僕と話して少しは不安が取り除けたようだった。弟さんも傍に居て、お姉さんの最後の幕締めを、彼もまた老齢となり、「私がその時まで元気で居られるか不安がある」と話し、僕に頼めることなどは任せたいということだった。
Wさんの家は、大聖寺の何代か前の住職が、隠居所として使っていた家で、そのことを亡くなったご主人も、そして奥さんも、大変に寺との縁を深く感じていてくれる。僕もそれに応えてあげようと思う。夕のお勤めを終えて本堂から外に出ると、また雨が降り始めた。カナカナカナカナと、ヒグラシの時雨だ。

2009年7月18日Saturday くもり
護摩を炊く。
朝食の後護摩を焚く。曇り空で本堂も過ごしやすく、よい護摩が焚けた。今日は、家を改築するのにお人形さんを処分したいので、お祓いをしてくれとのことであったので、届けてもらった人形を護摩壇の横に並べ、発遣作法をし、その魂を抜いた。それから、先日優勝候補を破って勝利を収めた母校身延の野球部の必勝祈願もした。それから、昨日北海道の山で亡くなった人たちを追悼。それから、家族の健康と子どもたちの進路に光が射しますようにと。それから、時々メールのあのお方のためにも、諸事うまく運びますようにと。少し欲張ったかもしれない。でもきっとお不動様は力を貸してくださる。
護摩を終えて、頭を刈る前に庫裏の便所掃除。蒸し暑さ満点の一日で、すぐに汗が噴出す。掃除を終えて頭を刈り、その後護摩壇の片付けと本堂の掃除。昼食を挟んで2時半頃までかかって本堂もきれいに仕上がる。3時に女房と飯富へ。溜まった一升瓶とビール瓶を河内屋に引き取ってもらい、芋焼酎とアクアブルー買う。コメリの前でM君に会う。長男が身延の野球部で活躍中。「次はいつ?」と聞くと、明日白根との対戦だという。頑張ってくれと応援を約束する。夜遅くまでお父さんがトスする玉を打つ音が聞こえていたものな。父の作詞した応援歌「我は竜虎」を決勝で聞いて甲子園へ行けるだろうか。帰って駐車場前の水路の草取りなど。40分ほどでも汗びっしょり。またシャワーを浴びて、夕のお勤め。これを書いてこれにて本日は打ち止め。息子が今晩帰ってくるらしい。

応援歌「我は竜虎」

空はコバルト雲もなく 
固き誓いを唱えつつ
踏む靴音の意気高く 
ああ身高健児 今ぞたて

清き流れに身を清め
朝に夕にきたえたる
腕と意気とを示せ今
ああ身高健児 チャンス機会は今ぞ


応援歌は時代が流れても、まだ歌い継がれているようだ。

2009年7月17日Friday
死刑確定。
オウム事件の早川紀代秀被告の死刑が確定した。今の制度ではこれが極刑として仕方がないのかもしれないが、彼が「慙愧の念を持って、人間が神のまねをするものではない、ということを教訓としたい」とし、麻原については、詐病であったのかどうかさえこのまま分からずに終わるのは残念とした。最近の法務大臣は、その任期中において、死刑を執行することが多くなっている。今日何人に死刑が執行されたと、そんなことが或る日事後として伝えられる。制度としての死刑は仕方のないことかもしれないが、死刑囚が増え続けているから、適正な死刑囚の人数に間引いていくみたいな感は否めない。早川被告にしても、彼の命尽きるそのときまで、自身の来し方を見つめる時間を与えてほしいと思うのだ。それが彼に与えられた、神に背いた者への行く末の使命だと思うのだ。彼にも人間としての尊厳を二分くらい残してあげてもいいのだとしたら、或る日をもって終わりとさせてしまってはならないと思う。

2009年7月16日Thursday 晴れ
何も求めない時間。
とても重要な発表ではあったわけで、こちら側もどんな風になるだろうかと、夜の時間の流れ方を勝手に想像していた。でも意外な反応であった。二つの学区を一つにするために、どちらの学校を使用するかの判断の発表だったわけだが、やはり、常套の反応であったというか。特別にそれが驚きでもがっかりでもなかったが、これで完全に二分してしまったかな、これからがまたある意味大変になるなという思い。説明会を長く続けていると、段々こんなことに慣れてきている自分や、帰ってきて、体が思いとは別にどろーんと重く疲れていることもある。これが毎日じゃたまらないけど、二重生活を営むような僕の寺の毎日は、一方では大いなる救いだ。仏と向かい合うことでその日の活力を得るということではなくて、静かな時間をただ過ごすということが僕にはいいのだと思える。経をひたすらに読むことで、そこに何かを求めることでもない時間というのだろうか。

2009年7月15日Wednesday 晴れ
桃。
昨日の夕方仕事から戻り、植木に水を遣り、また夜の説明会に出かけようとすると、「今、上求寺から電話があって、桃が手に入ったので、いまから不動寺まで届けるので持ちに来いって」と女房。叔父も叔母もここ数年健康体では決してないので、ここまでしなくてもいいではないかと思ってしまうが、毎年この時期届けてくれるので、向こうは向こうで気になっているのかもしれない。いつものことができなくなるということは寂しいことかもしれない。葡萄農家なので、桃は親しい友人から譲ってもらうのだろう。高いところの実ほど甘いと以前話してくれた。コンテナに二つもの桃をいただいてきた。今朝僕も食べてみた。歯ごたえのある硬さが好きなので、採りたての桃の硬さがあっておいしかった。店頭に並ぶ桃にはこの硬さはないだろう。「桃は日持ちがしない」ということをよく知らなかった。
梅雨が明けて本格的な夏の暑さが来る。夏を乗り切って元気でいて欲しいと願わずにはいられない。築400年の家の改築が成ってから、都合がつかず僕はまだ叔父の家を訪ねてはいない。葡萄の時期に一区切りついた頃にでも訪ねてみようと思っている。

2009年7月14日Tuesday 晴れ
ラウンドアップ。
ALTのJの家の庭に除草剤のラウンドアップを撒いてきた。6時前に支所でT君と待ち合わせ、指導を仰ぎながら、動力噴霧器で20?を3回散布。風の無い早朝にしようということで、東京行きと同じに今朝は4時半起き。7時前には終了。でも大分草を伸ばしてしまった。5月に一度草刈をしたんだが、夏の時期は伸び方に勢いがある。草の管理も大変だ。
帰ってきて入念に身体を洗い、朝食。なんだか腹が減って今朝は2杯も食べてしまった。ドスンと音がするので、外を見ると猿だ。少し離れたかなと安気にしていたら、何のことにここいらに定着してしまったのか。柿の小さな青い実を食べにきているのだ。墓地に行くと、K兄弟が昨日の続きの仕事をしていて、間もなく終わりそうだった。彼らが仕事を始めたので、猿たちは少し寺から離れたところへ移動したようで、向こうのほうから、缶を叩く音や爆竹が鳴る。いくら威嚇しても奴らにはまったく通じない。猿の耳に念仏か。今日も一日暑くなりそう。

2009年7月13日Monday 晴れ
就活なんてしたことない。
今日の午後からの暑さも相当なもの。昨日の東京行きだったため、その分を休みとして、寺の事を。裏庭の掃除を午前中。K兄弟来て、墓地の側溝の改修に入ってくれた。今日と明日一日で終わるよう。きれいにして盆が迎えられる。昼前にコメリへ刈込み機を買いに行き、昼寝の後、2時半から資料館の生垣の残りをする。きれいになった。これで後冷たいものでも飲んでゆっくりできたらいいのだけど、今晩から3日間ある説明会には出かけなければならない。
昨日の東京では、日曜だというのに、電車の中には明らかに「就活」と思われるスーツ着た大学生たち何人も。わが子供たちはどうなるんだろう。僕は就活などしたことがないので、どんな風に活動をするのかまったく分からない。自立して自活できるに越したことはない。どんな仕事だってかまわないということでもないだろう。慎重に悩みながら、自分の進みたいことへの道を探って欲しいと思う。

2009年7月11日Saturday 晴れ
山下洋輔トリオ。
「題名のない音楽会」という番組で2週にわたり山下トリオのliveを見せてくれた。トリオはこの夏に結成40周年liveをする。山下トリオは僕の青春時代と平行してあった。第2期トリオのドラマー森山さんが、小山彰太に代わった時期であったが、すごかった。このトリオのフリージャズに完全に僕は打ちのめされて、どっぷりとはまって、ゲロ吐いては飲んでいた。アイラーの「ゴースト」をハナモゲラ語で叫び、「赤とんぼ」を奏でる坂田明は憑依した巫女のようでもあった。結婚をする前に、山梨県民会館でトリオの20周年だったかの演奏会は、これはこれで忘れられない思い出。山下トリオの2週のliveは、鳥肌の立つひと時を分けてくれた。すごい、すごい、すんごーい!

2009年7月10日Friday 晴れ
もう梅雨明けと宣言してもらって一向に構わない。
今日はホントに暑かった。いよいよ夏本番のような、帰ってきてからも家の中は暑く、缶1本飲んで、後は芋焼酎のロック。久成のあの人は今夜もどこぞの屋根の下で飲んでいる。僕は、一番好きなのんびりできる場所で、引きこもりでもないけれど女房と二人の時間で飲む。
いくつかの仕事を片付けた。今日僕の部署は午後から課長と二人。課長は忙しく親方との話しがあったり。僕は済ませてしまわなければならなかったことを済ませ、その後、隣の机に積まれた文書を受け付け、いくつかの電話の応対をし、麦茶を一口飲み、また自分に課せられてある仕事を片付け、それから、いくつかの今後のことをどんな風にしたらいいかと考え、やがて5時を過ぎ、金曜の今日を締めくくるべく、残された湯飲みを洗い、ごみ箱のごみを袋に詰め、14日の早朝に手伝ってくれて、除草剤の噴霧をしてくれるという同期のT君と打ち合わせをし、5時半を過ぎたら、「本庁へ伝票を運びながら帰ります」と、熱残る支所を出たのでした。斎藤哲夫をYouTubeで聴いている。ここから、どこまで続くかサーフィンする。

2009年7月9日Thursday くもり
夕べは疲れました。
この説明会の中でも夕べが最長で、「終わりにしませんか?」と切り出さなけれれば、10時を回っても話し合いは延々と続いていたかもしれない。おそらく終わりのないやり取りが続くだけで。心底疲れた。うちに帰って10時半頃に晩飯で、もう一日の終わりで風呂に入ってゴロン。とんでもないことを始めてしまったという思いや、相手方のことを考えると、僕にはそこに打ち勝っていくだけの気力がないように思えてきた。もうなるようになれ!といって、逃げ出したい気分。行き着くところまで、このままで置いておいたらどうだという気持ちのほうが強くなってきた。同意なんか永遠に得られない。
ほそーい雨が舞っていたけど、涼しい朝で、アジサイの幾株か花を落として枝を切り詰めてみた。アジサイを増やしてもこういう手入れが必要になると、気持ちだけで増やしていくってのも大変だなぁと正直な感想。休みの日に二人でやってみるか。とにかく花を咲かせたいのである。今年は期待したが、多分僕の期待の半分にも応えてはくれなかった。きっとそれだけいままでがいい加減だったってことだ。
空も憂鬱だから一緒だ。

2009年7月8日Wednesday くもり
自転車に乗って。
お勤めを済ませて集落の檀家に盆の通知を配ってきた。雲で覆われた空にそれでも青が覗いている場所もある。今日の天気はどうなのか。今夜またT小の保護者への説明会がある。6時前の時間、畑に出ている人たちもいた。おそらく数十年前はもっと大勢の人が朝の畑に出ていたに違いない。夜明けと共に畑に出て生きるために働く、稼ぎもんたちで集落も活気付いていたことのだ。いま、人口は減り続け、畑にしがみついている人たちは極少数だ。自転車を20分あまりこいで、汗が吹き出てきた。帰ってきて水のシャワーを浴びて、さっぱりと気持ちがいい。テレビではマイケル・ジャクソンの追悼式の模様が映し出されていた。彼の歌で幸せを思ったり、世界の平和を願った人たちが世界中にいたという事実はすばらしい。芸能をする人たちは、こういう活動にぜひ力を入れていって欲しいものだ。

2009年7月7日Tuesday 晴れ
栄養ドリンク20本くらい飲めば何とかなるだろうか。
朝の曇りが回復し、午後からは暑くなった。同僚のKさんの同行を願い、昨日部屋を空けたSの部屋の確認に行ってきた。一年の滞在だったので、女の子の部屋の使い方はきれいなもので、掃除をするにしても1時間とかからないであろう。部屋に残ったクリーニングに出した方がいい寝具などを選り分けて出したり。
仕事の片付け(片付けはおかしいか)が予定通りにいかなくなってきそう。残って仕事をしたくない。でもきっちりと、何日か後には片付けてしまおう。これが僕たちに求められている過去の清算であるとかならば甘んじてそれも受けよう。もっともっと切り捨てろということの中で働くならばそれも仕方ないのかもしれないけれど、実際には、そんな風に思っていない奴らだってきっと存在しているに違いないなんて、...決して言ってはならない。「男は黙ってサッポロビール!」。

2009年7月6日Monday くもり
一人送り出す。
外国語の指導助手Sを送る。午後定例会議があって、午後5時過ぎにSのアパートに行き、電機・ガスの料金の精算をし、部屋の中を確認。一年で帰るので、そんなに汚れていないし、きれいに片付いている。でもなあ、たった一年で毎年変われていたんじゃこっちはとてもやりきれない。彼女を甲斐岩間18:10の電車に乗るために送り、さよならと握手をして。息子と同い年のような子達に、何をへつらい、遠慮して接しなければならんのか。自分が惨めになってくるような気分。昼の会議も重い内容で、この場所が一番きつい場所なのかな。朝起きたら左目のまぶたが重く、赤くなっていると女房から言われた。モノモライにでもなるんだろうか。

2009年7月4日Saturday 晴れ
ゆっくりと身体を休めて。
今日は夕べの飲み会の酒も疲れも残り、さすがに労働する気持ちにならず、明日することに自分で決める。そんなに日に限ってよい天気になるもんだ。そんで明日雨だったりしてな。旧いこれを読み返してみたら、7月の終わりになってようやく裏の庭の刈り込みをやったときもあったようで、まあこれはこれでいいやと。涼しくなってから、三吉屋から貰ってきて植えた「墨田の花火」を剪定して、枝を10本ほど挿し木した。それから、挿しておいたニオシキギ2本と、よく根の出たアジサイを1本地におろした。ニシキギは紅葉と朱い実がいい。どちらもイノシシに掘られてしまいませんように。

2009年7月3日Friday くもり
醍醐夏の陣。
午後4時半に高橋君を迎えに行き、女房の車で甲斐岩間から甲府へ。近況を交換し合いながら、しばしの車窓も楽しむ。来週また東京への棚経で電車だ。サマーバイキング会場のベルクラシックへ。誰も現れない。6時10分になってしまったので、先に二人で会場へ。一日働いたあとでの生ビールは格別。程なく明王寺さん来て、その後、玄法院さん。行蔵院さん、瀧本院さん、教昌寺さん、上求寺K。今夜はまさに、予約名どおりの「醍醐夏の陣」。高野も智山も来ない。明王寺(智山)を除いては。一年に一度のこの飲み会も、2004年の日記には記述があるので、6回以上にはなっているというわけだ。生ビールを4杯。その後は芋焼酎。金曜の夜なので会場はやがて満席に。すごい会話の大音量が渦巻いているようで、出し物の津軽三味線のトリオの演奏も、ほとんど聞き取れなかったり、無視であったり。毎回感ずるが、この出し物って無くてもいいように思えるんだけど。もし音楽だったら、天井からカラオケでも流しておけばいいのに。来ている人たちは、飲んだり食べたり、会話しに来るんだから、こちらを振り向いてくれよってのはどうも雰囲気に合わないように思えるんだが。修験の話しや戒名の話しやジャズや音楽の話。楽しい時間だった。何より、同じ道を生きようとしている人たちという安心と重みを感じる。「醍醐夏の陣」とは、言葉にするとちょっと恥ずかしいが、眺めてみると、それなりに雰囲気が伝わっていい。

2009年7月2日Thursday くもり
農を憫れむ。
テレビ小説「つばさ」の前の「新漢詩紀行」も見るようにしている。加藤剛の朗読が実にいいので。7月1日の「世を嘆く(3)」で紹介された李紳の「憫農」(農を憫れむ)に惹かれた。
  
春種一粒粟 秋成萬顆子 四海無闢c 農夫猶餓死 鋤禾日當午 汗滴禾下土 誰知盤中餐 粒粒皆辛苦
春に一粒の穀物の種を播く。秋には多くのその実りがある。この国には耕していない田畑など無い。それなのに、猶も農民は餓え死にしている。鍬振るっているとやがて陽は高く上る。汗が土の上に滴り落ちる。一体誰が椀に盛られたご飯のことを分かろう。一粒一粒のすべてが苦労の結晶であるということを。だいたいこんな意味のようだ。
飽食の時代、この辛苦のことを振り返る刹那も持たず、平気で時間切れと廃棄されゆく弁当もある。給食費を払っている者が「何をありがとうと感謝する必要があるか」と、give & takeと割り切ってよいのか。田畑の作物をありがたくいただきながら、僕たちは己が心に感謝する種を播くことを子どもたちに伝えていく必要があるのではないか。子どもたちの心に育つ感謝の種が実を結べば、風を呼ぶ大樹となって穀物大地に慈雨をもたらすだろう。

2009年7月1日Wednesday 小雨
まるで、○○○のようで。
まるで、「あなた。賢い人はそんなこと言わないんだよ」と諭されるような時間であった。税金で食わせてもらっている者たちの頭の中身の低さと薄さを、白日の下に晒してしまえ。応答する気力も萎え、それは深く落ちてゆくとかの感覚より、凍えてしまう身のようなものを僕は感じていた。決してリベンジなんぞにはなろうはずもない。ひたすら頭を下げて耐えて事を済ませようとする、数多ある謝罪会見の当事者のような感覚か。二晩で150人くらいは来たのではないだろうか。集落の計画的な動員もあったのかもしれない。好きなテレビや夕飯の片づけをさておいても、駆けつけなければならない最大の関心事ではあるだろう、確かに。それだけに、正直こっちのダメージは大きい。二本足で立っているというバランスがそのうち取れなくなってくるかもしれない。
7月1日。雨の残る朝のお勤めは、さすがに一昨日、夕べのヘビーな二晩で、経読む気力も少々萎え気味であった。12月までの今年の残りの半年がなんだ。別に何の解決の糸口にもならない。晦日が正月になったところで、行軍あるのみであるなら、出納に水を補充しておくほかはない。

2009年6月30日Tuesday
半年が過ぎる。
6月も今日で終わり。減額された賞与が振り込まれる。今朝は細い雨。猿たちも杜深く退いて潜んでいるようだ。夕べの統合説明会へは80人を超える人が集まり、地区公民館のホールは満員。こちらは「嬉しい悲鳴です!」とはならず、ひたすら時間の経過のみを僕は考えていた。関心の高さと、集落に学校を残したいという住民の熱い思いが語られる。僕にしたって、逆の立場に立てる要素は持っているわけだ。たまたまこういう立場にはあるが、「反対だ」と机にコブシを振り下ろすぐらいはなるかもしれない。「弱音を吐くんじゃねぇ!」なんて、裏の声がいつも聞こえているようで、あの人もあの人も、気持ちはちっとも楽にはならない。楽になんぞなれるわけがない。そのうちにこれじゃバランスを崩すのが落ちだ。7月には入れば7月の展開が予想できる。クレーンの転倒のような惨事だけはぜひ避けたいものである。

2009年6月29日Monday くもり
話を聞いてあげるということになるのかな。
夕べ檀家のWさんから電話があった。ご主人亡き後、一人暮らしをしていたが、4年位前から近くのケアハウスに入所して暮らしている。「私の今後のことを相談したい」ということであった。弟さんが健在なので、住職の都合のよい日に寺に二人で伺いたいとの事であったが、僕がケアハウスを訪ねることにした。家の後を継いでいく者がないので、彼女が亡くなればそこまでということになる。執着がないといえば嘘になるだろう。
父は自分の命の間もなく尽きることを認めたくなかったようで、父の友人がそのことを法事のときに話してくれた。「僧であるお前がこんな気持ちであるなら、一体俺たちはどうしたらよいのか?」と逆に問うたという。個が存在したことさえ忘れられる果て無い世界に至るのであれば、「かんけーねーや」ってぐらいに受け止められたらいいのかもしれないが、それでいいだろうか。好きなCDは手放せないもんな。僕にできるすべてを伝えながら、彼女の話を聞いてあげるってことなんだろうな。

2009年6月28日Sunday くもり一時雨
日曜雑感。
甲府からG兄ちゃん来る。ジムニーで、竹の子採りに来る。道の駅で買ったというとうもろこしと、自分の畑で収穫した自慢の玉葱も持って。僕は、雨が降ってくる予感もあったので、午前中ツツジの刈り込み。とても全部を済ますというわけには行かず、やれるところから少しずつ済ませていこうと。晩秋に娘さんが結婚するのだと。従兄との会話は楽しい。もう彼も今年1年で定年退職だ。杉の丸太の椅子を4つ持っていってもらった。欲しかったそうだ。波木井と2個ずつ。ジムニーの荷室はちょうどこれを積むによかった。
午後雨になり、1時間半ほど降っただろうか?夕方は涼しい。檀家の秀ちゃんひょっこり訪ねてきて、いつものように酒の手土産、痛み入ります。月参りのTご夫妻のさけも本堂にあがっていた。なぜもまあ、こんなに僕に飲ませようとするのか。お不動様の代わりに飲んでいるのだ。涼しい夕の時間を冷酒だ。

2009年6月27日Saturday 晴れ
厚木に行く、帰ってきて飲む。
土曜の朝は普段の休みの日であれば少々遅く起きお勤めもするのだが、今日は伯母さん(父の2番目の姉)と、従兄(その伯母さんの2男)の共に17回忌の法要があったので、甲西の不動寺の叔父夫婦を迎えにいき、それから中央道から厚着の霊園に向かった。天気もよく、久しぶりの高速道路を110キロ平均で飛ばした。車の運転はそれほど好きではないが、高速に乗るとほとんど右側斜線を走ってしまう。せっかちな性格かもしれない。どうせ行くなら早く着いたほうがいいとか。それでいて、ハンドルを握る手は汗ばみっぱなしで、通風孔からの冷気を常に受けているという状況。JR相模湖駅で叔母(長女)を車に迎える。11時30分から霊園の事務所で法要。順番で30分ずつ与えられている。終わって、食事の店に移動して、ゆっくりと普段いただけないようなものを食す。久しぶりに会う親族は会話が新鮮。施主の従兄(長男、3男)二人は、家族をそれぞれ伴い、それぞれの近況など交換し合う。叔父からは、姉妹兄弟の幼い頃の話など聞く。僕が今4人の姉妹兄弟の生まれ育った寺を継いでいるのだが、伯母(姉)が外で働き始め、僕の父(兄)も東京で生活をし、伯父(弟)は養子に行き生活が異なることなったとき、次女であった故人である伯母は、祖父(父)が時々は、甲西や牧丘や、他の寺への手伝いなどで出かけることがあったときには、(既に祖父の連れ合いは亡くなっていたので)たった一人で大聖寺で過ごすときがあったので、寂しい思いをさせて可哀想だったと、長女の伯母は今日話してくれた。僕はこの寺のことをもう僕自身の気持ちや女房や子供たちで繋いでいけることだとは考えていない。でも、こんな話を聞くと、無性に僕の心はきゅんと締め付けられる痛みを感じてしまう。仕方のないことだと思うようにはしているが、何か旨い方途が模索できないものか?とか。厚木から帰ってきて、晩酌をしながら女房が今日息子と話したことを伝えられた。彼はさらに博士課程へ進みたい希望であると。確かに就職難の時代ではあるが、学生を10年も続けるというのは、僕が25まで遊んで暮らした期間をも超えてしまう。ただ、彼の場合は勉学に励むということなのではあるが。でも、これはこれで、彼のやりたいことを僕にできる範囲で応援してやらなければならないことだと思わずにはいられない。僕も僕の両親に相当な負担をかけて放蕩してきたという負い目があるのは確か。この親にしてこの子とでもいうのか。僕も僕の人生のこと、例えば、父が亡くなった67歳で僕も終えるのだとしたら、役場に60歳までは勤めていたくないという気持ちがある。大聖寺に修行する僧としてのみある時間を、早く自分に貰いたい(くれてやりたい)とは思っているので。

2009年6月26日Friday 晴れ
夕べの続きになるかもしれないが。
夕べは会議の間にこんな言葉も頭をよぎった。「涙隠して人を斬る」という、しとしとぴっちゃんの子連れ狼の歌詞だ。俺にはカンケーネーことだと、醒めた心持ちで、仕事を粛々とこなしていくっていうのかな。こんなことが頭を巡った。
今朝は朝から暑くなる気配満々で、太陽の陽射しも強い。ケータイに着信のあった甲府の従兄に電話をすると、日曜の朝に竹の子を採りに来ると。イノシシがどうも頭を食っているようだと話すと、そんなに出るのかと少し驚いていた。奴らも裏道の生き物なのだろうか。今夜も連続の説明会。「がんばって明日の晩も来ようね」なんて話をしている人たちも、終わったあとの駐車場に残っていたっけ。恐らくそれぞれにこの実情なんかは誰もがわかっていることだとは感じているが、そこに到達する過程というか、時間配分への考え方の問題なのだろう。それにしても、○○という方々のわが身に執着すると思われるような行為には、脱帽して最敬礼したくなるほどに滑稽。
MICHAEL JACKSON死亡。Thrillerな人の死亡ニュースにThrillerな朝の時間を過ごした。マイケルの死で、僕のお気に入りのDLサイトにも、彼のアルバムやJackson5の音源も次々とアップされ始めている。少し落として聞いてみようかと落とし始めたところだ。それにしても、東洋人の僕の感覚で物を言わせて貰うと、彼の整形された顔は一体なんだったのだ。食品玩具のような、安い型枠で作られたような彼の顔は、更にこの先どんな風に溶かしたり膨らませたり、冷やして固まらせて変えていくんだろうと思わずにはいられなかった。Thrillerの時代にはまだ精悍さがあったようだが、どうにもそれぞれの生き方というところを他人が理解するということは難しいようで。

2009年6月25日Thursday 晴れ
遅く帰っても飲まずに終えられない日ってあるもんだよね。いつでもか(^^)!。
夜10時40分。僕の晩飯終了。発泡酒、冷酒2杯。今夜も学校統合の説明会。「何故、統廃合と銘打たないのか」との初意見も聞かれるが、さっぱりとこちらは回答。ほか、たくさんの意見や提言や注文や苦言もいただき、でも決してうな垂れることなく僕は帰ってきた。うな垂れて、飲む気力もない夜もあったなぁ。
例えば、これが全否定されることになったとして、「お前らには、もっと別なことで汗を流させておけばよかった」というようなことになったとしても、それはそちらの都合であるし、僕は今夜、ある意味、何か吹っ切れてしまったような気分を感じていた。誰が街づくりを推進していくのか?そのために誰が代表として働いていくのか?よく分からんけど、共通の認識や理解ができなければ、永遠に歯車は噛み合わないだろうし、互いが手を取り合って、その結果に涙しあうことなんてできないのではないかと思ってしまった。

2009年6月24日Wednesday 晴れ
予報どおりに昼前には雨上がり、暑くなる。
天気予報がまさにそのとおりになるので、お陰様で昼の歩きができていい。雨で足止めを食らって、事務室に過ごす時間はなんだか居心地が悪い。
今夜はT小PTAへの説明会。4ヶ月ぶりの説明会となったが、なかなか理解を得られない意見も多数。難しいと感じるところもあったが、ここはこのままいくしかないんじゃないかということは、個人的には実感。おそらくやれるんじゃないだろうか。
夕べ今夜と二晩目。明日とあさっては、S小学区の住民説明会。まあきついことはきつい。

2009年6月23日Tuesday くもり
食べられるものを金をかけて処分するなんてもってのほかで。
こんなことが当たり前のように行われていて、社会もそれを容認しているってこと事態が問題なのだろう。あるコンビニの写真。買い物籠いくつもに満載された期限切れの弁当。毎月その廃棄手数料が40万円もかかるのだと。尋常ではない。確かにセブン・イレブンのブランド評価を恐れるのはわからないでもないが、時間切れ=腐った弁当ではないはずだ。十分に食すに可能な品物を、廃棄するってのはどう考えても理不尽に思えてならない。こんなことがまかり通っている世の中だから、学校給食の時間に手を合わせて感謝することを、「必要ない」と切り捨てる保護者の言葉にもつながってくるし、それを当たり前として脳にすり込むその子どもたちとなる。当たり前のことが当たり前でなくなり、異常なことが当たり前として往来しはじめる。
午前3時半ごろに雨がやみ、今日の日中は30度を越える暑さになるらしい。マムートのキャップを被って歩くことにしよう。

2009年6月22日Monday くもり
梅雨には梅雨向けの準備は大切だ。
底なしにディープでハードな会議っていうんでしょうかね。降参しても許してくれないような、御旗を印にどこまでも進んでいけー!って感じが適当か。Clear Asahiには演歌が似合う。ため息の夕暮れ時間をこんな演歌で納得しちまう哀れな50男だ。傘を持っていかなかったので、かなり激しく降り始めた会議の時間に、道を隔てた隣の建物に行くのに駐車場まで濡れながら走って車で行ったりして、まったく情けないったらありゃしない。傘ぐらいはせめてこの時期持っていようと思った。ぐったり気分で帰ってきて、境内の数箇所に水溜りもあり、ここも今日はだいぶ降ったよう。アジサイを5分ほど眺めてから家に入る。朝夕とこんなことが最近の僕の時間になった。

2009年6月21日Sunday くもり少々雨
外の仕事はできず。
朝方まで雨があり、その後は一日、時々細い雨が舞っていたり。11時からS家の法事。今日はお子さん3人も出席してくれる。ご長男は東京からの帰省との事。13回忌で、12年前はまだみな中学生と高校生だったかも。干支が一回りしてこのくらいの年齢のときは、ずいぶんと成長するものだ。法事の後お話しをする。今日は父の日なので、「お父さんのよい供養になったのではないか」とも。雨を心配することなく墓地の経も終わる。
こんな日だったので、刈り込みはできず。法事の後のんびりと午後過ごす。WOWOWの「紀元前1万年」という映画は面白かった。古代の人たちは、みな本当にドレッド・ヘアみたいだったんだろうか。長く伸ばしていたら、自然とそんな風になっていたかもしれないな。
僕が子供の頃に比べて、「父の日」も「母の日」も特別ではなくなったよう。妹と小遣いを出し合って、何かを買って贈ったように思うが、子供たちから「父の日」に何かを貰った記憶はない。従姉妹も、「せめて電話の一本でもくれたら嬉しいのに」とは、離れて暮らす親にとっての本音かもしれない。でも、僕の同じ時代の時間も、親の事なんか頭の中のどこにも存在はしていなかったかもしれない、「金がない」の連絡時以外は。

2009年6月20日Saturday 晴れ
明日雨になるかも。
午前中ツツジや生垣の刈り込み。今日も暑い日。ツツジを刈り込みながら、他の片付けもしたり、畑の隅の草刈りも。体が二つに分かれたらとよくこんなことを思う。仕方ないことなのに、一人での限界は最近よく感じるんである。くそったれ!と開き直って午前中働く。12時に終えて、頭を刈ってシャワー。カレーの昼食後、夕べ録画しておいた韓国映画「デイジー」を1時間観る。チョン・ジヒョンという女優が好きだ。2時に家を出てエルクにいく。帰ってきて明日雨になりそうな感じなので、刈り込みの後を片付ける。風が冷たい。体には気持ちがいい。発泡酒、日本酒の夜。「飲みにこないか?」とのお誘いもあったが、既に飲み始めてしまったので出不精の蓑虫。

2009年6月19日Friday 晴れ
脳死を死と定義することを認めたくはない。
その瞬間から死の状態を生き続けるということになるのか?「死の状態」とは何ともあいまいなもののように感ずる。脳死を死と捉えるのなら、脳死で死亡診断書が書けるのだろうか。脳死とはいえ、温かい血が通い髪や爪が伸び続ける状態であれば、それをどうやって死と受け止めることができるだろう。脳死の者を棺に納めることができるか。棺に納めるときには、生命維持装置なりを外すということだろう。だとしたら、死を自らが自然な状態で受け入れるということにはならない。第3者の手が及ばなければ、本当の死に到れないからだ。脳死は今様「殯(もがり)」にでもなってしまうのか。
例えば花の芽が出ることを考えてみよう。種や挿し木の幼い枝から小さな芽が顔を出し、長い時間をかけて地下には根が伸び、地上には芽が伸びる。花の咲くときまでには相当の時間を要する。こういうことを考えてみれば、例え、生まれながらにしてベッドでの生活を余儀なくされた“いのち”であろうとも、血が通い髪が伸び、成長をしてゆくのであれば、その脳死状態を誰が死として受け入れることができよう。深い“いのち”の不思議があるならば、その奇跡のときを信じてあげることこそが人としての倫理ではないだろうか。

2009年6月18日Thursday 晴れ
第一義のために生きてゆくのみ。
昼雨がないのはいい。歩ける。湿り気を帯びた風はこの時期気持ちいい。今朝は、Deep Purpleで通勤。リッチーのギターを大音量で聴きながら来れば、イヤでも職場に着いてしまう。昼はPIGBAGで歩く。浮かぬ空ではあるが、そこを突き抜けてしまうようなハードでディープで、狂気でおとぼけCATSな音たちだ。レゲエやパンクの時代を歩いてきたんだ僕は、こんな音たちが大好きで心躍る。時代に抗いながら生きる、その時代時代の若者たちが大好きだ。50を既に何年か過ぎたけれど、僕の抗う気持ちの根は白髪のようにはならない。この気持ちの根は、ラスタマンのドレッドヘアのように太いままであるような気持ちではいる。これだからやっていけてるんだろうな。波に漂い揺れているように、日々心のありように高低の差こそあれ、僕はもう自分で自分のこれだという道を歩き始めていることを、躊躇う気持ちなんてさらさらない。
「臓器移植法」のこと。死の定義を「脳死」とする案が衆院を通った。幼子を国内移植できずに失った人たちから見れば、提供年齢に制限を設けず、家族の同意があれば移植が可能となるこの案を歓迎したいことはわかるが、一方、脳死状態でも生き続けている血の通う温かな皮膚を撫でながら奇跡を待つ家族にとっては、いたたまれないことだろう。臓器移植に関しては、僕はどちらかといえば否定的である。命の長短は、仕方のないことであり、どれだけその命を大切に全うしたかどうかの問題なのだと思っている。たとえ身近な命であっても、十分に親の愛情を得られたのなら、先に死に行く幼子は感謝とともに死を受け入れるのだと思う。

2009年6月17日Wednesday 晴れ
飲んで飲めないことはないと思うのだが。
来月末に本町へ来る外国語指導助手3人から、それぞれメールが届いた。もとより英語を解す力などないので、ヤフーの翻訳機能を使って、おおよそのことを理解することになる。それでも、いまはこんなありがたいものがあって助かる。そんでまた、翻訳に僕の返事を書き込んで英訳してもらってそれを送ってみる。必ず「ヤフーの翻訳機能を使った」ということを明記して。きっとこれで先方は僕のことを理解してくれるはず。一度のやり取りで次のメールはまず届くことはない。それでいいのだ。
で、彼らを迎えるべく、ひと部屋のことに関し協議したのであるが、結局戻ってきた回答は「今回限り」である。来年僕はもうここから逃げ出すことを希望しようと思う。長くても10年後には必要なくなると思うというような話はしたのであるが、共通の認識と理解ができないような職場じゃこんな仕事やってられない。全国一定着率の悪い県の中でも、またその最底辺に居るってことがわかるってもんだ。
今夜再開した説明会。これはみんな壊れてしまうんじゃないかなと恐ろしくなった。女房と会話する元気も無くこれ書いてお寝んねだ。

2009年6月16日Tuesday くもり
雛誕生。
山門脇の灯篭の中のセキレイの卵がかえって、雛が生まれた。細身の親鳥がチュチュッと囀りながら、餌を捕りに出かけては巣に戻ってくることを繰り返している。今朝はゆっくりとこの光景を観察させてもらった。ツバメも忙しい宅急便のように飛び交う季節となった。昨日、N君と便所が一緒になって「月曜日は嫌だな」というと、黙って肯いていたけど、火曜の今朝もなんとなく乗り気がしない。ALTの件で心に引っ掛かりがあって嫌でたまらん。他人からすれば些細なことかもしれないけど、思いは当人にしかわからない。「ツレがうつになりまして。」というNHKドラマを見ていたが、なんだかねぇ、わかるようでわからんようで。症状にも格差があるようで。10年ほど前のうつ状態のことを思い出そうとしたけど、よく覚えていなかった。体を押して出かけるしかない。せめてセキレイの囀りを風鈴の音とでももっていこう。

2009年6月15日Monday 晴れ
新聞休刊日の朝。
新聞休刊日なので、朝の時間がいつもより長い。アジサイの挿し木をする。額アジサイと山アジサイを何本か。咲き様はおとなしいが、静かな雰囲気があり女房も好きだという。
今日も雨は望めそうにない。鳩打隧道の手前で採ってきた挿し木の山アジサイを1本引き抜いてみたら、根がたくさん出ていたので、小さいが待ちきれなくて地におろしてみた。これが定着したら、他のも抜いておろすことにしよう。アジサイとツツジと木や花のある寺に継いでいこう。

2009年6月14日Sunday 晴れ
法事1件あり。
昨日の法要疲れではなく、飲み疲れの日曜の朝。楽しかったなぁ、昨日は。11時から法事。午後雷が鳴り、雨が落ちてきたものの、すぐに上がってしまいまた晴れ間が見えたり。それではと、だらだらと過ごして終わりそうな頭を切り替えて、刈り残した畑の草刈りに。2時間かけてきれいに。これで盆前まで何とかなりそう。来週はツツジの刈り込みに入らなければ。涼しい風の夕方。雨が出もまた少し欲しいな。アジサイが首を垂れはじめた。

2009年6月13日Saturday 晴れ
寺晴れの日。
理源大師の1100年の御遠忌法要を山梨の醍醐派の皆さんを大聖寺に迎えて柴燈護摩で厳修した。午前8時過ぎに玄法院の副住職親子、上求寺貴永来て準備始める。今回は玄法院の御住職がシメなどをすべて用意してくれた。結界の竹を立てて縄を張り、僕はスピーカの準備などもする。そのうちに集まりだす。滝本院親子、行蔵院、教昌寺、松鶴院さんは信者さん二人を伴い。最後に、玄法院御住職、大阪の坂本諦晃師を伴って来山。衣を着けた後、10時半から客殿にて本法要の披露をする。僕は会奉行を務めたので、今回はほとんど裏方。でも、いい勉強にもなった。八幡神社で法楽をし、参堂入り口より道場に列を成して入る。玄法院御住職が本日の大祇師。笈渡しを滝本院荒沢親子。修祓を教昌寺此田君。宝剣作法を松鶴院志田さん。宝弓作法を滝本院親子で。願文を行蔵院壬生さん。松明の点火を教昌寺と玄法院太志さん。点火後僕は太鼓打ち。よい護摩が焚けた。京都の醍醐寺まで、山梨の醍醐の意気が届いたを確信。道場を出て本堂前で心経一巻。それから和讃。再び会所に戻って法要を閉じる。片付け後に、皆で昼食。飲める人には飲んでくださいと、僕が飲みたいばっかりに。坂本姓の二人と大いに飲んで話す。大阪の諦晃師は25年ほど前に大阪の宗務所長をしていた草柳氏に帯同してきたことがあったと。僕もそのときに、父から「喜多郎の色紙を1枚差し上げたい」と言われ、渡した思い出が蘇った。醍醐派に籍をもつ者たちだけの法要を初めは少しのためらいもあったが、でも本当に実行してよかった。血のつながりはなくても、それに近いところで僕たちは歳の差も越えてつながっているのだということを実感した。

2009年6月12日Friday 晴れ
法要準備。
今日は休暇をとって寺のこと。明日の法要の準備。玄法院さん10時前に来てくれて、護摩の檀仕上げる。ひょっとしたら足りないかなぁと思っていたけど、松鶴院さんの桧葉で足りた。水に浸けて、陽の当たらない所に置いておけば一週間は十分に持つ。
今朝は竹林の草刈りから始めた。護摩壇の準備と前後しながら草刈りや枯れ竹の整理。竹やぶの中に陽が当たらないので、細い竹が繁茂している。これを半分ほど片付ける。午後2時半から飯富病院で痛風の定期健診。今日は問診のみ。「何かありましたか?」「いえ、特別に何も」「2か月分の薬を出します。次は8月9日のお盆前でも大丈夫ですか?」「多分大丈夫です。お願いします」で、病院行きから薬局に寄って薬を貰って、飯富コメリに寄って鹿沼土を買って帰宅。アジサイを挿す。また草を刈る。5時過ぎに終える。明日は何とか天気もちそう。

2009年6月9日Tuesday 晴れ
朝すずしい。
昨日九州東海地方の入梅が宣言されたので、ここら辺りももう数日のことだろう。今日はよいようだが明日は雨の予報。護摩壇の中に杉の葉を入れるのをうっかりしていたので、雨に濡れる前にと、墓地の周辺で拾った。ブルーシートを外して、中に燃えのよいように杉の葉を詰めた。今朝はだいぶ涼しい。一日アジサイの色づいてゆく様を、定点カメラのように眺めていたい気分だ。

2009年6月9日Tuesday 晴れ
難しいよな。
去年までOKだったことが、突然ダメだといわれてしまったらどうすればいいんだ。同じ職場の横つながりの中でこういう見解を示され、身も蓋もない。まったくボスしけてるぜだぜ。相手の立場を自分に置き換えて考えてみたらわかるってもんだろうに。こういう何気ない、さりげない出来事で、世を儚んだりする。こんなとこに身を置いている自分が哀れになってくる。やめだやめだ。

2009年6月8日Monday 晴れ
ここの掟を知りたまえ。
どうにも月曜の朝というのはいくつになっても気の進まないものだな。9時半からN中の英語科の先生との約束があったので伺う。ALTのSは、帰国を少しはやめたいという。まあ、こちらにはそれほどに関心はない。どうせ帰る人なんだから早かろうが、学校がよかったらそれでいい。もう一ヶ月ほどしかないので、事務を進めなければな。税金を支払うことにおいても、去年と打って変わって煩雑な流れになってきて、これもALTにいちいち説明に行かなければならなかった。行ったついでに、「クルマの税金は納めたか?」と伝えてもらうと、「それってなんですか?」とくる。いちいち説明させるなよとか、お前らなぁ、この国の事情をもっと詳しくわかっておけよとか、うんざりしてくる。こんなことしながら、何とか息苦しい月曜が終わり。乗り切るぞ今週も。今週は夜がないので、午後6時帰宅を目標に。そして雨がなければアジサイに水遣りを。今日も水は遣れたのだ。
女房は竹の子狩りに竹林へ入って行きたいのだが、細いのがおびただしくその行く手に立ち塞がっているので、少しそれを刈って欲しいというのだが、いま、円盤専用の草刈り機の部品を調達しているところで、今しばらくなんである。紐のやつを入れ替えてもいいのだが、まあそれもちょっとめんどくさいので。竹の子も一度食ったら、少し空けたほうが次がまた旨い。気分転換に竹の子狩りにでも出てくればいいのに。掘らなくて旨い竹の子ってのが一番だね。

2009年6月7日Sunday 晴れ
こんな風に生きながらやがて「草刈りの翁」になってゆく。
今日は法事一件。大阪の佐田さん。ここをふるさととしてこの一族は、世田谷、八王子、大津、高槻、甲府などに散らばりながらも大聖寺の檀家であり続けてくれている。暑いけれど、よい法事の日となった。
昨日から耕作放棄地の草を刈り始め、今日は午後から残りを刈り、墓地の草も二度目を刈る。一度やっていたので、紐の草刈りで割と簡単に草刈りは捗った。今年は53歳になり、いつまで続くのかこの草刈りはわからないが、やがて草刈りの翁になってゆくのだ。今日寺を訪うてくれた富士ヶ嶺の遠藤さんの白く長い顎鬚を生やした老人のように、僕は草刈りの翁になってゆくのだ。未来を怖がってはいないが、見出せない答えを捜し出すような不安はある。発泡酒一本で、疲れた体にはよくアルコールが行き届くようだ。風が気持ちいい。

2009年6月6日Saturday 晴れ
護摩壇を作る。
8時前に勝沼から松鶴院のご住職みえてくれる。幸いに今朝雨はなかった。これは結局一日中で、青空も見えたよい天気の一日で終わる。二人で護摩の檀を組み、松明をこしらえ、また彼は帰っていかれた。来週の土曜日の当日お会いしましょう。予定は午後来ることになっていたので、早く仕事が終わったので、その後畑の草刈り。今年の僕の一回目。畑を耕作していないので刈るしかない。それから先日買った除草剤を撒くためのタンクも初めて使ってみる。どの位に薄めて使ってよいのかヒントがなかったので、とりあえずの倍液で撒いてみる。効果が出たらこれでよしとして、もっと希釈できるかもしれない。今日両方をやった僕としては、除草剤撒くより、草刈り機振るったほうがいい気分。でもこれとて、からだが元気であればのこと。

2009年6月4日Thursday くもり
JETのALT3名が確定。
一昨日に続いて、残りの二人からも正式に身延町に勤務したい旨の返事が届いた。中学校の英語科の先生にも連絡を取り、ALTから後任者への連絡を取るようにお願いする。また煩雑な夏が始まる。ALTの定着率が山梨は低いそうだ。1年で帰国してしまうALTが全国で一番多いとか。身延はその中でも最たるものではないか。無理も無かろうというのが、僕や周りの同僚の意見。なるほどなぁ、学校統合の話にしても、いつしか議論は、「人口増の努力を町は真剣にするつもりがあるのか!」になってきたりもするしな。厳しい現実である。僕も自分の子どもたちにここに住んでもらいという気持ちはあるが、働ける企業や安心して暮らせるだけの環境を提供できているだろうか。正直“否”ではないか。このことはもうここに書いても僕自身答えなぞ見出すことはできない。

2009年6月3日Wednesday くもり
いよいよ地元への説明会に。
今夜から中富地区への統合計画の説明に入った。総合会館で終わったのは9時15分。多くの意見が聞かれた。今夜の一番よかったことは、自らが複式学級を経験し、高学年時に学校統合をも経験した人からの発言が聞けたことであった。「なぜ複式学級ではいけないのか?」などという問いかけもされたが、実際には「教育委員会としての考えでは、複式学級は好ましくないという判断である」ぐらいの答えしか出せないのだが、自らの経験を語ってくれた人の話は、会の終盤にそれまでの大勢からの意見を平らに均してしまうくらいのいい話しだった。学校校統合に賛成反対とは別な次元で、こういう経験の実際を聞けたことは皆よかったのではないだろうか。たった二人の同級生で複式学級だったけれど、この経験は、高校大学と進学する過程で、一人でじっくりと勉強するということが身に付いていたということ、それから、高学年になったときに新しい学校へ通うようになり同級生が増えたことを、もう一人の同級生と、同級生は多いほうがいいなということをお互いに確認しあったという話し。どちらが良くてどちらが悪いということではないだろうが、幼いながらにも本人たちが感じたことは、いま似たような状況下にある児童にとっても、おおよそ同じような結果をもたらすような気がした。

2009年6月2日Tuesday 晴れ
結婚記念日。
あの日は日曜日だったが、今日は火曜日だ。火曜日なので僕はあの日を覚えていなかった。6月2日は結婚記念日であった。特にこれを不覚とも思わなかったが、「しめしめ今夜もこれで飲めた」と思ったことは確かだ。誕生日なら子供たちも知っているかもしれないが、結婚した日なんてのを覚えているのは夫婦だけだ。
悲しい出来事もあった。横浜で信号待ちの看護師3人が事故の巻き添えを食らって3人とも亡くなってしまってことだ。なんてこったい。僕たち夫婦はここでこんな風にしてささやかな祝いの酒を飲んだというのに。一日の仕事を終えて帰路につこうとする3人を。海の向こうじゃ飛行機が消えてしまったり、京都じゃ、コンパで飲んだ女子学生を6人の男が犯してしまったりなど。なぜかこの二つのニュースより、横浜の事故。これじゃあんまりだ。こんなことが当たり前にあってならない世の中にならなければ。

2009年6月1日Monday 晴れ
6月の始まり。
今日から6月。アジサイが少しずついい色になる。池の土止め工事再開。最後の工程の部分の打ち合わせがあったので、午前中伝票打ちに励んで、午後は説明会の代休を取った。雨が少し待ったりもしたがたいしたことなく上がってしまう。夕にはアジサイに水遣りをしなければならないほど、もう初夏を思わせるような一日になった。13日の理源大師の法要の準備も少し。
夕べは、隣りのカメラマン来て3ヶ月ぶりに再会。下田さんの話や彼のかかわっているボクサーの慈善活動のことなども聞く。何せ住む世界が狭いので、彼の話しは物語を読むように面白い。興味深いこともある。日曜の夜だというのに、僕は飲み続けてしまった。
畑の作物がぼちぼち収穫できるようになったのか、野菜が黙って軒先に届けられることが多くなった。ありがたい。僕たちには何もお返しするものがないので、まじめに勤行を続け、地域の人たちの幸いを祈ることのみだ。

2009年5月30日Saturday 晴れ
天気崩れず。 午前中護摩を焚く。夏の衣に替えたが、蒸し暑く汗もかなり出る。天候は崩れなくてよい土曜。午後波木井へアジサイを貰いに行く。アジサイの苗は庭の隣の畑で育てられているので、栄養も十分に吸って茎も太く、緑も濃い。家に帰って本堂の周辺に移植するとき、育っているほかのアジサイと比べてみると、我が家のアジサイはひ弱な感じがした。定着して育ってくれるといいんだが、やがて貰ってきたアジサイもこんな風になってしまうのだろうか。育てるということは栄養もあげなければならないのだとしたら、なかなか大変だ。でも緑も増やしたい。

2009年5月29日Friday 晴れ
天気崩れず。 午前中護摩を焚く。夏の衣に替えたが、蒸し暑く汗もかなり出る。天候は崩れなくてよい土曜。午後波木井へアジサイを貰いに行く。アジサイの苗は庭の隣の畑で育てられているので、栄養も十分に吸って茎も太く、緑も濃い。家に帰って本堂の周辺に移植するとき、育っているほかのアジサイと比べてみると、我が家のアジサイはひ弱な感じがした。定着して育ってくれるといいんだが、やがて貰ってきたアジサイもこんな風になってしまうのだろうか。育てるということは栄養もあげなければならないのだとしたら、なかなか大変だ。でも緑も増やしたい。

2009年5月29日Friday 晴れ
金曜の朝、今月の仕事もおしまい。 お勤めを終えて、護摩を焚く準備をする。お札も書く。今朝雨は降っていない。天気予報では今週末までは雨模様で、月曜から回復する模様。池の端の水止め工事をしてもらっているが、昨日は小雨の中作業をして、今日は休みだと、さっき責任者のIさんが見に来た。あいにくな作業日程となったな。コンクリート打ちが終わったので、雨が上がって少し土が乾くのを待つとのことだった。
サツキの花が何箇所かまだ開いている。アジサイが色づく。ミドリが濃くなる。

2009年5月28日Thursday
決意のとき。 決意の年になるとおっしゃっていたように覚えている。夕べ、護摩を焚いて祈願してほしいと連絡があったそうだ。週末に5月の護摩を焚かなければと考えていたので、タイミングがよかった僕の方は。所謂第一線から離れた年齢になっても、心を決めるときはあるものなんだ。けじめというのか。僕にだっていつかきっと決意の時が来る。そのときは女房と二人だろうか。まさか一人ってことにはなっていないだろう。決意をする前に僕がだめになってしまうことだけは避けなければならない。決意が揺るがないように、僕はお不動様にそのご夫婦のことを祈ろう。
梅雨がそこまで来たような日。便所の洗面所で彼は手を洗い続ける。彼が「これでよし」とするまで手を洗い続けている。彼の心など覗けるわけはないが、これが安心なら水道代も安いもんだななんて思ってもみる。
一ヶ月を超えて更新が無かったブログに、やっと書き込みがあった。ここにも決意が見えた。なんだなんだ、こんなもの書かなくたって一向に構わない。書くのはこちらの勝手だ。それでも、なんだか書いていないのはさえずりの無い朝のように思えてしまうから不思議。無理やりに決意なんてしなくてもいいと思う。ゆっくりとそれを準備していけばいいのかもしれない僕の場合には。

2009年5月27日Wednesday 晴れ
これが現実なのか。 夕べの説明会では、ある女性からこんな発言があった。子供が4人いるが、こんなに子供の数が将来著しく減少するのだとは思っていなかったと。彼女の場合、今では4人の子持ちというのは珍しくなったが、「夫の勤務が2交替から3交替になり、少し給料が増えたので4人目を作った」とのことだった。働く父さんは大変だろうが、4人の子供の成長を楽しみに働く父親として姿が思い浮かぶようだ。今給料が増えるなんて事はほとんど望めないだろう。この父親だって、勤務状況が厳しくなったことに伴う増額ということであろう。一方、先日はこんな話も知り合いから聞いた。給料が10万円以上も減ったという話し。給料が10万減ったということではなくて、元々基本給が低かったということで、それまでは残業で家族を支える分に見合うだけの稼ぎを得ていたということなんだが、最近になって残業手当が支給されなくなり、それで10万以上も手取りが減ったということ。今まで会社はアルバイトを認めていなかったようだが、アルバイトを認め、その男性は、他の事業所で夜のアルバイトをして糊口を凌いでいるということだ。先の4人の子の親だって、会社の業績が下降してくるようなことにでもなれば、3交替でも給料が下げられてしまう事だって十分にありうるだろう。
学校や病院が近くになければそこに根をおろして家族の営みを続けたいと思う人は少なくなるということは痛いほどわかる。でも、逼迫した財政はいかんともしがたい。先日のJETプログラムの会議でも、大変に気になる県職員からの発言があった。「山梨配属されるJETプログラムの外国語助手は、1年で帰ってしまう者がとても多い」と。これを聴いてドキッとした。身延町はまさにこれなんである。日本の過疎の町を知らない外国人が、「どこに連れて行かれるんだろう」と不安にかられながら、富士川を南下して、しゃれた店もない土地に着いて、「ほれ、ここに住め」と。実は昨年配属された女性は、一晩明けた朝に、「帰国したい」と僕らを困惑させた。なんとかなだめて1年を過ごすことができそうだが、彼女もまた「契約更新はしない」のである。何だか、いろいろなことがすべてがこの町にはマイナスのような、なんとも気の重くなるようなことばかりである。

2009年5月26日Tuesday 晴れ
地下核実験がなぜ今必要で、何の目的を持っているのか。 北朝鮮の地下核実験だ。暇つぶしや退屈しのぎにやっているような感じしか受けないような無責任なあの男の目と腹と、生きているのか死んでいるのか病んでいるのかもわからぬ重いカーテンの向こう側の、耳を傾けようとしない世界。この国が楽園であったわけはない。楽園の甘い言葉にだまされた多くの人たちは、この国で生きているのか死んでいるのか病んでいるのか元気で暮らしているのかわからぬところに幽閉されてしまっている。父から子へと、大日如来の世界に挑むように牛耳ってきた事実。まったく馬鹿馬鹿しくてげっぷも出ない。何が幸せで、何が悲しみか、国を作るということの何たるかをきっと彼は知っちゃいない。ジョンナムのほうがずっと、インターナショナルな知的人物だと思えてくるから不思議。

2009年5月25日Monday 晴れ
京都一泊。 やっぱりこの時期にしちゃ異常にマスク人口が多かったな。外国人もたくさん見たけど、マスクマンは見なかった。新京極では、セーラー服の修学旅行生と思しき中学生も見かけたが、4対1の割合くらいのマスク率だったかも。お店の店員は、どこでもほぼ100%のマスク。
朝食後チェックアウト。タクシーで真如堂から黒谷の金戒光明寺周辺を散策。もみじの季節は大変な賑わいだと聞いたが、日曜の朝は、犬連れや子供連れの散歩する近所の方たちくらいなもの。光明寺を囲むように塔中寺院が建っている。石畳の道があり、時代劇のロケなんかによく使われるようだ。そこから歩いて、女房と娘が本で見ていた「京都生ショコラ」というお店へ。喫茶の時間になっていないとのことだったが、箱詰めのチョコレートを買ってご機嫌。
静岡駅で娘と別れ、ふじかわ号で戻る。山梨は雨だったようだが、雨の去った後に帰宅。歩き疲れたが、夢を見ることすらない爆睡の世界へ落ちる。わが寺の景色もここにはここのよさがあると、今朝も本堂の扉を開く。間もなくあじさいにも色がさす。今年は楽しみだ。
弁当を持たなかったので昼休み正風軒へ向かった。店の向かい側に停まったワゴン車から何人か降りて店に入っていくので、嫌な予感がしたが僕も入った。多分70歳は超えているであろう男女8人が、狭い店の中で「足の悪い人は椅子にするか?」とか、「あたしは、背中が寄りかかれるとこでなきゃいやだ」とか、「足を伸ばしてもいいじゃんか」とか、なかなか落ちつかなない。これじゃ、飯頼むまで相当時間かかりそうだと判断して店を出た。タイミングの悪さこの上ない。バイパスまで歩いて「こやま」で焼肉定食を食う。お店の女主人が、「いつも歩いてますよね、何分ぐらい歩いているんですか?」と。厨房から、大きなガラス戸を通して、バイパスを通る人達を眺めていたんだ。こんな風に日常はすぐ戻る。

2009年5月24日Sunday 晴れ
拾得で。 下田逸郎を聴く。店内には15人ほど。かつて行ったことがあったのは、「磔磔」で「拾得」ではなかった。思い違い。下田さんと握手。この日のライブは、来年のニューヨーク公演のリハーサルも兼ねてのような時間。途中下村よう子さん入って、打ち込みの音も流しながら、演劇風に。くつろいで聴けた。のんびりと、いい時間が過ごせた。
ホテルまでは夜を歩く。寺を離れてただただ遊ぶ。飲む。食う。歩く。

2009年5月23日Saturday 晴れ
さあ、行って遊んでくるぞ。 天気は上々。4時40分起床。お勤めは、京都行きの安全を。それから夕べの新井英一のLiveに骨をおってくれた人たちに感謝。音楽は、互いを思いやるというつながりをもたらしてくれる。夕べエルクにひと時集った人たちは、「新井英一」に触れたことで、いつかどこかで助けたり助けられたりすることがあるかもしれない。そういう時間を作ってくれた人は純粋で幼くもあり、また頂を目指すロッククライマーのように、神々しく映るってもんだ。陽が昇り陽が沈むの繰り返しのように、隠し切れない陰と陽の部分はそのままにさらけ出してしまうしかないと思う。コリアンジャパニーズの新井さんが、父親の故郷を訪ねて、人生を新たに始めたように、変わっていけるから素敵なんじゃないだろうか。

2009年5月22日Friday 晴れ
黒桂(つづら)へ。 黒桂の宝龍寺の葬儀の手伝い。天候が悪そうだと予想していたが、強い風の一日で雨を飛ばしてしまったのか、蒸し暑かった。一緒に行ってくれる不動寺の叔父の到着まで草刈や枝切など。朝早く、檀家のIさん、池の周囲が陥没し始めていることの工事の見積書持ってきてくれる。素人なのでもっと金額が大きくなると思っていたのだが、これなら何とかなりそうな額で、Iさんも、できるだけ抑えたといってくれた。一週間もかからずに終わる予定とのこと。
10時に外の仕事を切り上げ、頭を刈り、叔父と一緒に黒桂へ。「やっぱり夏の衣にしよう」ということで、僕も急遽、夏衣と夏の七条袈裟を持った。宝龍寺を訪ねたのは何年振りであったか。最近は、この地区の葬儀も、ホールでやることが多くなってきたのだ。かつてよく葬儀のときに、僕らを付きっ切りで接待してくれた宝龍寺の名物檀家さんも、鬼籍に入ったので、今日は近所の奥さんが着てくれていた。当夜での告別式は無く、すべて寺で済ませた。これはもう時代の流れだから、これでいいのかもしれない。3人でよい葬儀ができたのではないか。早川の高い空を眺めながら帰ってきた。帰って、夏冬の衣の入れ替えをして、その後外仕事。日曜の集落の環境整備作業に出られないので、駐車場の入り口の側溝の泥上げをした。まっ、こんなもんでしょう。

2009年5月21日Thursday 晴れ
今夜は。 今夜の説明会への参加者は4人だった。こちら側も4人。それも、何回か説明会に出てくれている方たちだったので、一応会の形はとったものの、これまでの説明会の状況なども交えつつ、8人で自由に意見交換をした。これはこれで、よかったように感じた。うつむきたくなるような厳しい発言を投げられることも多くあったので、和みのある交換会でよかった。明日は、こんな夜の会合を続けた時間休をとって休む。早川の黒桂へ葬儀に。宝龍寺の葬儀に頼まれることはあっても、最近はホールばかりであったので、明日のは寺葬儀だから、4年か5年ぶりになるんじゃないか?暑くなってきているので、夏の衣を着ようと思っていたが、天気は下り坂で雨模様の予報なので、冬衣。
土曜の京都行きにちょっとの不安。京都で新型インフルの感染者が出たこと。でも、今のところ予定変更はまったく考えてはいない。

2009年5月20日Wednesday 晴れ
寓居春秋。 夕べ説明会から帰ると見知らぬ方からの書簡が届いていた。小林巳之さんという方からで、著書の「寓居春秋」という本で、表紙を開くと謹呈の栞とともに、この本を贈る短な添え書きが挟まれていた。身延高校で父に教わったこと。県庁職員のWさんから僕の事を聞いた由。父の仏前に供えたいことなどが書かれていた。夕べは晩酌と飯と、女房との取り留めの無い会話で眠りについたために、本を開かなかったので今朝になって開いた。父のことが書いてあるページに付箋が貼られていた。わずか5行ではあったが、へぇ、ココまで知っておられたのかというように、死と演劇と僧としてのことなどが簡潔にまとめられていた。ありがたいとおもった。埼玉に住む遠藤保さんも、父のことは今でも思い出として語ってくれる。これはこれで残った人生ではなかったか。位牌堂に本を供えた。
添え書きの冒頭には、フランス人詩人のこんな言葉が添えられていた。
「ちょう: このふたつ折りのラブレターは、花の所番地をさがしている。(ジュール・ルナール)」と。生徒も教師も同じ夢に遊んでいられる時代であったのだな。

2009年5月19日Tuesday 晴れ
朝ボーっと、出るまでの時間。 朝塔婆を4本書く。来月の法事用。少し早いが早め早めが僕には落ち着く。家人がどうな風に感じようと、僕の仕事は僕が納得するようにできたらそれでいいのだ。鼻風邪は結構日数がかかったが、あと一日か二日でよくなりそう。鼻をかむ回数も日ごと少なくなる。新型インフルエンザだって、あわてず、あせらず養生したらきっとすぐに快方に向かうはず。最後まで残ったストーブを空焚き。これが片付いたらコタツか。夏に向かうな。今夜も説明会。さすがに休日明けの夕べは気分も乗らなかった。今夜も乗るはずはないのだが、1センチずつ見えない壁の向こうの頂を目指しているようで、なんとも不安である。

2009年5月18日Monday 晴れ
幾時代かがありまして。 学校訪問して、給食は中学校からの指定で、僕は1年生の教室でいただいた。混ぜご飯となめこの味噌汁。それからイカのフライと野菜、牛乳。生徒17名と担任と副担任の中に、僕と教育長が入った。副担任が、民主党の代表選挙に出たのは誰と誰だったか?じゃ、辞めた代表は誰だったかな?とか、生徒たちは、CDレコーダーから流れる流行り歌を聴きながら、芸能人の話なんかを。僕の頃も同じだったような気がしたな。小規模校には小規模校の良さがある。少人数学級でも全く問題ないと、持論する人達もいるが、机を四角に並べて、こじんまりと食べている場面や、3年生は6人しか居なくて、教室の真ん中に6人が小さく固まって教師とやり取りしている光景は、やっぱりなんとなくうら悲しい。校長がこの中学校の卒業生で、「僕が卒業した年は、全校生徒が500人を超えていたので、いまは10分の1以下だ」と話したが、どん詰まりのような学校ばかりで、いつまで栄華の夢を見ているのだって気持ちにもなるが、書いていてもだんだん気持ちが落ち込んでくるんだよな。

2009年5月17日Sunday くもり
牧丘への思い。 いつの日直でも、時期がそんなときに重なっているのかもしれないが、寺の仕事をたくさん持ち込んで、一日じっくりと専念するということだったが、5月の今日は、祭りも終わり、盆の準備にはまだ早く、とりあえず何かをする準備もないので、新聞を読んだり、音楽を聴いたり、「裁判員制度」の始まりを予定した特番をテレビで見たり。午後になって外は雨になった。牧丘の叔父の家の一年がかりの改装がなり、今日お披露目のお誘いをいただいたが、生憎と予定が入っていたのでいくことが適わなかった。妹弟子に次のメールを送った。
「牧丘の方の天気はどうなんでしょう。午後になって下部は雨が降り始めました。今日は伺う事ができず残念でした。早い時期に行きたいと考えていますが、来週は京都へ行く計画になっており、月末はあなたの引越などが予定されているようですね。不動寺の叔父はじめ、今回のことは、あの世の祖父や父からも賞賛の声が聞こえるような気がしています。永の字を持つ者たちの魂が今日はそちらに屋根の上で、楽しく浮遊していることでしょう。ご両親を理解しながら、大切に生活願います。永明合掌」。
僕もいつかその牧丘の五輪塔の建つ高みに、仲間入りさせてもらえるよう、僧の時間を大切に過ごさなければならない。

2009年5月16日Saturday くもり
雨早く落ちてこないかな。 夕べは説明会後9時半ころに帰宅。翌日を気にしなくてよかったのでゆっくりと飲んだ。日本酒を眠くなるまで。眠くなって、風呂にザーッ入って今朝まで。5時起きは当然無理で7時前に起床。朝食後にお勤め。雨のまだやってこない朝で、午前中、墓地の残った草刈り。本堂裏の草刈り。6月の護摩壇の檀木となりそうな木を見つけて、2尺5寸で長さを決め、40本ほど準備。鐘楼の軒下に置く。正午のチャイムが鳴る頃にポツポツと池の面に雨。グターッとしていたら、ダラーッと過ごしてしまっただろうに、結局よいもうけもんの半日だった。頭を刈って、シャワーを浴びていなり寿司の昼食。神戸で、渡航経験なしの高校生3人が、新型インフルエンザに感染していることがわかったと。何が因となって感染したのだろう。僕の風邪も笑い事ではなくなってきたりすることもあるかもな。熱はなさそうなんだけどね。
雨はなかなか本格的にはならない。田植えをしている農家もあるんだろうな。

2009年5月15日Friday 晴れ
がんこな鼻かぜ。 やっと金曜だ。今晩の説明会でとりあえず今週分から開放される。今夜は鼻づまり無くいきたいものだ。朝だけが気持ちのいい時間。お勤めの後、蝋梅とブランコの脇のツツジの剪定。生協で買って植えた「黒蝋梅」も若芽が気持ち良さそうに伸び始めた。それから、初めは「根付くかどうかわからんけどな」といっていた隣りのま○みっちゃんの植えたムクロジも、若葉を何枚も細い枝につけてきているのだ。自然の営みと生きることの不思議と想像のつかない宇宙のような大きな胎動のようなものを感じる。農協直売所で黒蝋梅を見たときに「黒蝋梅は匂いがいい」ということだった。一年を待って期待。今朝は風が少し冷たい。送迎バスの運転手の都合がつかず、曙から通学する児童を迎えに行くことになっている。

2009年5月14日Thursday 晴れ
がんこな鼻かぜ。 今夜の説明会は予測していたのよりも思いがけず早く終わり、9時過ぎには帰ることができた。BSで過去のジュリーのワンマンショーの放送を見ている。正月に見たジュリーより、10年前の沢田研二は幾分細身だ。これのほうがいい。
今朝は、週末が雨になりそうな予報だったので、先週末に刈った墓地の草を燃した。火を燃すことが大好きなので、午前6時の風も時間も止まった空に、ゆっくりと白い煙を眺めるのは至福のときだった。草のにおいが着ているものに染み込んでくるのも好きだ。40分ほどの時間。
なかなか鼻風邪治りません。ティッシュを箱で持ち歩いて、説明会に昨日も今晩も。

2009年5月13日Wednesday 晴れ
Jんちの草を刈る。 職場の隣りのALTの家の草を午後刈る。勢いよく伸びてきたので、ここらで一度刈っておかないと去年なんかは凄かったし。刈った草を処分するのも一苦労。うまい事に今日は軽トラが空いていたので、家から草刈り機やノコギリ、剪定バサミなども持ち込んで1時間半ほどで刈り終え、木の枝を払い、草を集めて軽トラの荷台に積んで、(すべては結局積みきれなかったのだが)寺の墓地の窪地に処分。これで気になっていたものが片付いた。彼女はこの夏1年で帰国する。今日、交代となるALT候補者書類が届いた。米国人男性が2名と、カナダ人女性1名。女性にJのこの住居を与えようと考えた。男性は、久那土と八日市場団地でいいだろう。これからまた彼らの帰国と入国関係で、煩わしい事務がはじまる。本音は嫌なこったである。

2009年5月12日Tuesday くもり
風邪薬飲む。 富山の薬「かぜピラ」服用。喉の痛み引かず、朝のお勤めでも鼻水が流れ落ちた。我が家の常備薬は富山の広貫堂の奴。飲み会へ行く前には熊の胆飲んだり。
まさか新型インフルエンザではないだろうが、もしその可能性を考えるとしたら何かあるだろうかと考えてみる。勝沼の大善寺では感染しないだろうと思うけど、不特定の地域からお祭りを見に来た人たちの中に保菌者がいることもあるかもしれない。それから、土曜日に横浜辺りから送られてきた「李世福コネクション」のCDの梱包作業をした人が感染者で、ウイルスが付着して届いたとかね。まさかこんなことは考えられないだろうが、「まさか、まさか」で済ますことができないのがいまの世の中ではある。心して生活しなければ。
NEIL YOUNGの唄が、今朝はちょっと冷たい朝で気持ちがいい。天気が下り坂なのかもしれない。夜の雨は嫌だ。今夜はかなり離れた地区の説明会だ。

2009年5月11日Monday 晴れ
夏風邪? 豊岡での説明会を終えて夜10時ちょっと前に帰宅。疲れた。今週は5日間毎夜説明会がある。正直こんなとこからは逃げ出したい気分である。出席者とのやり取りも、否定的な方たちとは、かなり厳しい。お互いの主張するところになかなか接点を見つけて歩み寄るって事は難しいかもしれない。結局のところは、??そうなってしまうしかないのだろうか。
帰ってきて、晩酌晩飯を摂りながら、NHKで再放映した清志郎の追悼特番「愛し合ってるかい?」を見る。彼の存在のなくなったことは深い悲しみではあるが、歌は残る。元気がもらえる。キヨシロー!!!
土日で草刈りをして強い陽射しを受けたせいかもしれない、朝から少し喉に痛みがあり、鼻水が出る。夏風邪かもしれない。寝てしまうに限る。

2009年5月10日Sunday 晴れ
アジサイ地におろす。 15本ほどのアジサイの挿し木を地におろした。根付いてくれるといいが。緑化計画進行中。今日は暑かった。かーっ!と脳天にくるような熱い陽射し。部屋の外の松の芽摘みを午前中に。なんだかよくわからんがさっぱりとしたからいい。松が刈りたての頭にちくちく。10時半過ぎに納骨一件。終わって芽摘みの続きを済ませ、午後からアジサイの定植と、昨日の草刈りの後の片付けなど。外は気持ちがE。今夜と明日の夜と、NHKで清志郎の特番あるとのこと、もちろん録画。そうそう大月から蔦木ご夫妻来山。不動尊信者。事業はすこぶるいいようで、ご夫妻とお会いするのは、住職冥利に尽きる。よい日曜日なり。

2009年5月9日Saturday 晴れ
草刈り。 やっと今日は青空。昨日の大善寺の祭典も、一日降ったり止んだりで、6時半ちょっと前に寺を出て帰る途上でこれですっかり晴れてくるなと確信できる満月に会うまでは、まだ降るんだろうかなんて考えていた。夕べは家に戻らずにそのまま下山中PTAへの説明会へ。5分遅れで到着何とか間に合った。10時に帰宅。
今日は墓地の草を刈る。第1回目の草刈りを終えた。明日の朝は多分からだがきついだろう。今夜は反動で日本酒が飲みたくなっている。今昨日の大善寺で帰りにいただいた缶ビール。草刈りも、カーッと照りの強い日でなかったので、心地よく、草刈りを楽しんだ。いろいろなことを考えながら。

2009年5月8日Friday
大善寺へ行く朝。 結局昨日も一日降り続き、夜の説明会を終えて豊岡から家に戻る9時過ぎにも、波木井から下山の間がひどい降りだった。そして、アー今朝も雨だ。5時に起きてお勤め後に、車庫までに奉納の酒や荷物を2往復。傘も持たねばなるまい。夕のメインのときは雨が上がるにしても、10時からの行者祭りには裸足で下駄のほうが楽か。早めに出かけたほうが支度も楽そうだし、駐車場所も近くが取れるかもしれない。雨はほんとかなわんなあ。かなわんなあとぼやく僕以上に、大善寺のご家族や檀家の人たちはこの天候を口惜しく思っていることだろう。
早い天候の回復を祈るのみ。北海道は30度を超える沖縄より暑い、異常好天だったりするんだもんな。

2009年5月7日Thursday
雨降り続く、続く。 おそらくもう、40時間以上は降り続いている。今日も一日雨らしい。こう続くとうんざりbaby。連休明けの今日の出勤も気持ちはさらに重い。明日僕も伺うことになっている勝沼:大善寺の藤切祭典も、準備が今日はまだ残っているだろうに働く皆さん大変だ。祭りが近くなると、周辺の準備のことよりも、近づくにつれ、天候のことのみが気持ちに重い負担となってくるものだ。明日は雨は今のところ大丈夫の曇りらしい。
昨日、部屋の外にある松の低木の新芽が、既に20センチ以上も伸びているのを確認して、「こりゃいかんな」と。なんとかしないと。土日に時間を見つけて、さっぱりとさせてしまわなければ。新緑はいいが、伸びも速いので、複雑なんだよな。

2009年5月6日Wednesday
今日も一日降り続き。 いささか閉口。なんといっても寒い。連休最後の日。五大明王の幣を新しく作る。6月の理源大師のご遠忌法要のため。こんなふうに、大人になってからも色紙を使って紙を切ったり、折ったりする仕事なんてたぶん皆無に近いだろう。幣を作りながら、THE DEADのDLした音を聴く。4月にはいろんなライブがアメリカではあったようで、DEADを始めJimmy Herring、Steve Kimock、JJ Cale等など。どれも皆かっこいい。山梨でも、OSHINO DEADが開かれたようだ。そういえば、去年はOSHINO DEAD(忍野DEAD)が少し早くて、その帰りをKIYOSHIが寺に寄っていったなぁ。さて、明日は仕事。夜もまた説明会。引き戻されてしまうんだなぁ、また現実の世界に。

2009年5月5日Tuesday
雨降って、からからの地潤う。 久しぶりの雨。午後から本格的に。境内は埃だっていたので、雨が降って静かに落ち着いた土に戻る。作物も生きる勢いがつく。どこにも出かけないのもいけないような気がしたので、環状道路に乗って、医大の側のヤマダ電機へピクチャーカード買いに行く。2GBで2,700円位。随分と安くなったもんだ。行く前にAmazonで調べておいたが、Amazonのほうが500円くらい安い。本屋で伊矢野美峰著「修験道」と、坂田光全著「真言宗常用経典講義」「真言宗在家勤行講義」を買う。伊矢野氏の著書は前にも買ったが、この方の書く修験道はいい。直治朗でとんかつ食べて、ブックオフでCD5枚。ちなみに店には、RCサクセション、忌野清志郎の見出しに一枚もCDが無かった。売れたのか?まさか!きっと、棚から抜いて、また値を高くして置くつもりなんだろう、と勝手に詮索してしまった。PACO DE LUCIAの「Live in America」は、買いだったかもしれない。ほとんど曜日感覚が薄くなり始めた。明日まだ一日休み。

2009年5月4日Monday 晴れ
葬儀の手伝いに。 夕べは喜田へご招待を受けた。俊一君の奥さんの直子さんのご両親が初めて喜田に来た。山菜がとてもおいしかった。特に桂さんが届けてくれたのだという、山椒のお浸しのようなのが格別に僕の脳を刺激した。日本酒もうまかった。
今日は午後不動寺の葬儀の手伝い。道はやはり少し混んでいたが、帰りは難なくすんなりと戻ってこられた。もう夏の衣にしてもいいのではないかというような暑さがあり、控え室は冷房を入れた。やっぱりちょっとずつ季節がはやく暑さに向かっているのだ。叔父と永啓に先日の不動尊祭典助法の礼を述べ帰ってきた。もちろん行き帰りとも、カーステレオはRCサクセション。「スローバラード」は永遠の名曲だ。

2009年5月3日Sunday 晴れ
清志郎が亡くなった。 今朝3時半ころからテレビつけて、小さな音で、ニッテレニュースを聞いていたんだが、4時半前に、「昨日歌手の忌野清志郎さん亡くなった」とか聞こえてきたので、耳を疑ったが「まさか!」の事実であった。もう布団になどごろっとなっていられなくて起きた。4時半はまだ明けきっていなかったが、本堂で朝のお勤めと清志郎のための供養をした。去年彼が復活した後に再入院したことを知り、お札も作って護摩も焚いた。きっとまたあの無骨で、世の中に迎合しない彼の歌を聴くことができると信じていたのでショックだ。早い朝を過ごすために、法事の塔婆を書いたり、お祭りで残ったお札や事務用品の片づけをし、挿し木に水をやり、お湯を沸かしお茶を飲み始めてこれを書いている。まだちょうど6時半を過ぎたところ。
車の渋滞が嫌になったので、昨日の夕方に青梅に行くことを断った。ゆっくり寝ていようと思ったが、清志郎の亡くなったニュースが僕の緩んだ精神にネジを巻いた。今日は清志郎を聞こう。彼を家に居て弔おう。清志郎の唄と一緒に生きてこられた今までに感謝しよう。これからも彼の歌を聴き続ける。大学時代にはRCサクセションの「シングル・マン」が愛聴盤だった。杯盤になってからの再発の声が盛り上がる以前に、僕と志村君はこのLPが大好きだった。就職をした後、RCはチャボを入れて、いかしたロックバンドに変身して僕の前に戻ってきた。渋谷陽一のラジオで、新生RCのスタジオ・ライブをカセットテープに録った。今も手元にある。しばらくして、東芝からの「カバーズ」が発売中止となり、キティから改めて発売された。反原発や環境問題で何人かの同志と呼べる人たちの集まりにもかかわっていたので、このキヨシローの精神は嬉しかった。
清志郎を忘れない。高校1年の時に、県民会館で見たバンダナを頭に巻いたキヨシローが初めてで、その後、日比谷野音で、チャボの入ったRCに踊りまくった。清志郎を決して忘れない。
例えば今日の「憲法記念日」、キヨシローに9条を護るために生きることを誓うことは、こちらに残った僕らの側からの力強いメッセージとして、彼の歩む道を照らすことになるかもしれない。

2009年5月2日Saturday 晴れ
ようやく片付けが終わる。 夕べも学校統合の説明会。連休明けから今月中は土日を除いて説明会のような予定。5月連休の初日。朝から本堂の片付けと掃除。やっと片付いて、もとの姿になった。庫裏の片付け、吹流しや使ったものを仕舞う。11時を過ぎてガソリンを入れに行くと、国道はもう車が渋滞していた。日下がりの片側通行が原因している多分。山菜祭りなんかは相当な渋滞が予想される。どこにも行きたいとは思わない。そう思っていながら、滝本院さんから電話が朝あって、明日、青梅の塩船観音の柴燈護摩法要を見学に行こうというお誘い。消極的ではあるが、何人か行くらしいので、立場上行かなければならないような感じになった。明日の朝7時半に勝沼はちょっときついな。あさっては不動寺の葬儀の手伝いが決まっている。のんびりともしていられないってか。墓地の草は連休最後でも、週末にでも刈り初めをすることにしよう。風の強い午後で、恐らく本堂はまた砂埃が大分入っている。それでも、これを時間内にしなければならないという制約もないし、休みはこれでありがたいもの。

2009年5月1日Friday 晴れ
また来年のお祭りまで、一年。 5月に入った。29日の祭りも無事に済んで、昨日まで休み、今日一日職場復帰。また明日から連休になる。仕事がたくさん待っていそうで、愚図る気持ちが湧きだした。
今年は、11名の僧侶・法印に祭りを手伝っていただいた。上求寺の叔父も叔母と共に訪ねてくれて嬉しかった。好天に恵まれ、風もそんなに強くはなかったので、いい護摩が焚けた。今年は特別に、理源大師のご遠忌のため、6月13日(土)に柴燈護摩法要をこの寺ですることになっている。お祭りが終わって、ぽっかりと穴が開いた。娘も2泊で東京へ戻り、静かな新緑の日々が来る。レンゲツツジの植木が、子供たちが走り回ったようで、折れていたのを発見。水に浸けて、プランターに応急で挿した。再生してくれるといいけど。祭りの後の境内にごみがたくさん落ちていることがあったが、今年はあまりごみを見かけることがなかった。エコな生活が身に付いてきている証拠かもしれない。こんなことだけでも嬉しいものだ。穴あきは時間がゆっくりと繕ってくれる。

2009年4月28日Tuesday 晴れ
まっ、こんなもんかってところで打ち切り。 午前中に不動尊縁日の28日の護摩を焚いて祈願をする。今日は特別に、ちょっと気にかかる方のためにも祈願をする。祭典は明日だが、いつも28日に僕は一座焚いている。終わってから、明日のための準備。明日の護摩で祈願ができるお札を30枚ちょっと書く。護摩の後を掃除して、明日のために新しい護摩のための準備。不動寺の住職(叔父さん)に焚いていただく。内陣の護摩は、僕は太鼓打ちに専念。
今日も午後から風強く、外の柴燈護摩の青葉は少し色が赤くなり始め。やっぱり一週間前の桧葉で、日曜の支度ではちょっと無理があるようだ。でもいい経験。来年はこのことが護摩壇準備の基準となる。
午後6時過ぎに「こんなもんかっ!」ってところで、シャンシャンと腹の中で手を打っておしまい。焼酎飲み始めたところに町の重鎮訪ねてくれて、「明日の挨拶がこれでいいかどうか確認してくれ」と。寺のお祭りはここだけのものだが、「八日市」という、八日市場の集落のお祭りとも一緒なので、互いを理解しあいながら上手くやっていかなければならない。天気は心配ない。風だけが嫌だ。
僕は寺のために僕の仕事を、女房は寺のために彼女の仕事をする。切羽詰って少々いらいらする部分もあったけど、何とか今年も祭りの前の夜を迎えた。

2009年4月27日Monday 晴れ
さて、水曜日のお祭りをご機嫌に迎えるために。 草g君のことを、週末には週末のテレビが、月曜の始まりの朝には、また平日のテレビ番組が朝早くから放送している。面白おかしく取り上げているわけではないことは理解できるが、もう、いい加減にいいんじゃねぇかと思ってしまう。もう僕はこんなテレビは消してしまう。
新しい真っ青な朝が来た。風の止んだ緑濃い、つつじ咲き誇る朝には、草g君にとっても新しい朝にしてあげたいじゃないか。芸能ニュースにしても、政治のニュースにしても、テレビや新聞なんてものは、あまり本気で信じたくはない。エヘラエヘラお人好しに生きてなんかいられるもんか。
今夜からいよいよ学校再編のことが始まる。これがいつまでも「田舎に泊まろう」のエンディングのように振り返ってばかりいられない現実ってもんだ。
水曜のお祭りを如何に、機嫌よく迎えられるか。そのために、今日一日をする。がんばるなんて事は好きじゃないから、「する」ということだ。それでいいじゃねぇか。

2009年4月26日Sunday 晴れ
不動尊祭典の準備。 昨日はよく雨が降った。今朝はよい天気になった。午前8時から檀家の人たちと祭典の準備。女性は本堂の掃除へ。男性は、幟や吹流し、テント建て、松明作り。水曜の当日までちょっと間があるので、柴燈護摩道場の結界用の青竹は、当日朝とすることにした。僕はあまり口を出さずに、できるだけ檀家の皆さんで決めてもらうようにする。ちょうど2時間ですべて終了。お茶を飲んでもらって、お茶菓子といなり寿司のセットをお持ち帰りいただく。
僕は午後、山の天皇社へシメをもって登り、それからお札作りも。昨日の雨で参堂脇の畑は土が柔らかく、午後からのかなりの強風で、吹流しは見事に倒れてしまい、それを片付ける。風のことだけが気にかかる。後はすべてよし。つつじが咲き始めてそれぞれの咲きようでキレイ。

2009年4月25日Saturday
今日の雨は、まったく問題なしなんだが。 緑化祭りの植樹祭が今日予定されているんだよね、市之瀬で。地元小学生の緑の少年隊の出番もあるし、某ブログであのお方もこれに出席するらしいので、今日は生憎と呼ぶにはむごい本格的な雨である。産業課の担当らも何日も前から準備に入っていたようだし、可哀想である。
僕の今日は、中の仕事をこなす。11時過ぎに団参のお開帳がある。お祭りのお札を頼まれていた曙のHさんが亡くなり、既にお札は作ってあるし、さてどうしたものかと思っているが、きっと、ご家族の誰かが祭典に来てくれるのかもしれないし、最後のお別れで送ってやるのもいいだろう。

2009年4月24日Friday 晴れ
身の丈にあった生活を心がけたい。 僕はほとんど外で酒を飲むということがない。家でひとりでダラダラと飲むのが好きだ。だから公園で裸になるということは凡そ考えられないが、草g剛くんのことは、災難だったなぁという感じしか覚えないな。確かに真夜中の大声は周辺に迷惑をかけた。
全裸は、ほとんど人影のない場所で、それほどの迷惑ではなかったように思う。酷く酩酊していて、でも最高にいい気分だったのだろうけど、これが無常の苦でもあった。一般人ならNHKのニュースで取り上げられるような事件ではなかったはず。これが人気芸能人という彼の立ち位置に降りかかった業というやつだ。こんなちょっとした失敗のような行為で、彼を殺してしまってはならんと思う。彼の笑顔は僕たちを幸せにしてくれて余りある。身の丈とか、身の程とか、そういうものを知っている人は、あまり過度に騒がずに、草g君を見ていようじゃないか。
(こんな事件のときだけ、東京都知事や大阪府知事のコメントと僕の思いが共通しちゃうんだよね、なんか不思議)。

2009年4月23日Thursday 晴れ
築400年が新たに再生されてゆく。 ケータイメールが届いた。もう何日か前のことだが。牧丘の上求寺。もう間もなく家の再生が見事に成就するらしい。一年半近くをかけての、叔父さんの決意が成就するのだ。素晴らしいこのことを僕は何におめでとうを込めたらいいのだろう。ここに居てお祭りの護摩の中にそれを込めたらいいのではないか。叔父や叔母の笑顔が頭の中に浮かぶ。それを見守り支えた娘のことも浮かぶ。僕の祖父の生まれた家は、新たな百年のために再生するのだ。お祭りが済んだら、早いうちに訪ねてみたい。ここ身延からは、おそらく一番遠い場所。牧丘町倉科。僕の命の源のこぼれた処。

2009年4月22日Wednesday 晴れ
今日は休みを取って、寺の仕事を。 どうも平日というのは役場勤めなので、夜仕事をしたくないし、週末は疲れを取りたくなってしまったり、飲んでしまったり、なんだかんだ自分で理由をつけては、やらなければいけないことから逃げてしまう。平日なら仕事だと思ってやれば朝からだって全開で働ける。今日は午後3時から飯富病院で、痛風の定期点検があったのでどうせ時間休取らなければいけなかったし、思い切って休みにした。お札を書いたり、中のことをやろうと考えていたが、どうも週末の天候が心配で、土曜にとりに行く予定の桧の葉が、雨では大変なので、急遽今日とりに行ってしまうことに決め、喜田の姉さんから軽トラを借りた。今年は桧葉をお願いすることをしていなかったので、行き当たりばったりで林道に出て、ほったらかしにしてあるような桧の枝をいただいてきた。これで十分にいけそうである。よかった。雨の上がった今日は、気温もぐんぐん上がって気持ちよく外のことができた。午前中で済ませ、午後2時半までお札書き。その後飯富病院へ。特別に問題もなく、帰ってきて残った仕事を片付け、汗をかいたのでシャワーを浴びて、早めに例の飲み物。明日あさっては、これで仕事に集中できそう。綱渡りのような、なかなか他人には理解とかわかってもらえそうもないどうしようもない寺と生きる生活。

2009年4月21日Tuesday くもり
雨があって、雨上がりの曇り空だ。 どんよりとして冷たい朝になった。風の強い日が続いていて、夕べも女房と話しながら、お祭りにこんな風の吹くのは嫌だななんて。少しずつ天候のことが気にかかり始めている。どうすることもできないものを心配しても始まらないが、これはこれで、この時期の僕の気持ちの不安定とでもいうのだろうか。三省やナナオの声を聞いてみる。少し落ち着いてきた。
今日職場に足を踏み入れると、昨日の会議の音を活字にしなければならない。苦行だ。布団の上にごろんとなって、今日の一日を消し去ってしまいたいような気分にさせるには十分な曇り空。

2009年4月20日Monday 晴れ
気の重くなる会議あり、どこまでも捌け口がないようで。 こんなことをいつも考えていたら頭が変になってしまうことかもしれない。そんな終わってからの思いがあった。ペットボトルのお茶のラベルをはがして、キャップを外して、リサイクルボックスに投げ込みながら、こんなことがまだまだ始まりなんだと実感してしまう。日向山の山ツツジがきれいであったことなんかも頭の隅に置き忘れてしまったようで、こんな風にして生きることもまた生きるということの片側で、こんな片側を忘れるために、酒をのみ果てのない音楽に身を沈める僕があるのかなんてことも考える。明日もまた歩こうかね。

2009年4月19日Sunday 晴れ
風が強い。 この時期、午後からは強い風が吹く。富士川下流から吹き上がってくる風。凪いでくれる日もあるが、ほぼ強い風の春。うちのお祭りのメインは外での柴燈護摩で、これを始めるのが午後2時過ぎとなる。逆巻いて強い風がある。点火をすると、護摩壇を組む道場がそんなに広くないため、一気に桧の葉を焦がす白い煙が道場を覆い、その後、炎が鐘楼の軒を舐めたりもする。風のない午前中に護摩を焚いてしまえるとホントはありがたいのだが、村の「八日市」のことを考えると、お寺のお祭りだけさっさと済ませてしまえばいいってことにはならない。市への集客も必要なこと。風の凪いでくれる29日を祈るばかりだ。風よりさらに気になり始めているのは、天候のことなんである。雨は絶対に困ります。

2009年4月18日Saturday 晴れ
草刈の夏始まる。 やっぱり草の伸びが気になって、庫裏の裏庭の草刈を始めて、そのまま周りをぐるっと今年初運転。2台の草刈り機今年も絶好調だ。柴燈の護摩壇に手を入れ、暑くなったので、網戸も入れてしまう。温暖化なのかなぁ、暑さの到来は年々早いように思える。一日かかって外のことをしたので、もう祭りまで外のことはしなくて済みそう。桧の葉を取ってくるだけだ。
特別な変化もないけど、こんな生活が僕向きだな。新しい掛衣届く。今年から葬儀を除いて、祭りの導師では緋衣を着ないことにする。そんな風に考えが変わってきたのも年月のなす業なんだな。

2009年4月17日Friday 晴れ
タラの芽。 食後に歩き始めて下山中のグランド横の道で、元課長の軽トラと出会う。タラの芽を採ってきて僕らに届けてくれたのだった。立ち話をして僕はそのままウォーキング。雨が上がってはいたが、気温はそんなに上がっていない。サラッとし空気の中を歩いた。何せ金曜日。明日は休みだ。職場に戻ると、空き封筒にいっぱいにタラの芽が詰められて机にあった。今日はこれでまた一杯飲める。
退職した前の課長は、とても元気がよさそうだった。新しい課長は、たくさんの課題を持たされて、おそらく大変なのだ。他人事のように書いてしまうが。

2009年4月16日Thursday 晴れ
今夜はもう眠りたい。 4月になってから急に仕事が忙しくなってきた。3月までが忙しくなかったというわけではないが、仕事の分担の枠を少しはずして、やれそうなところは引き受けるという気持ちにならざるを得ない状況にあり、それから学校の統合問題で打ち合わせやら、そちらに一日のうちの何割かを優先していかなければならなくなった。祭り前で公私共に気ぜわしく、気持ちも穏やかとは言いがたいのだが。夕べは先送りにしていた護摩札を書いた。やっと始めたのだけれど、今夜はもう疲れて、お札書きはお休みだ。
午後、Kちゃんが顔を出した。引き継ぐことになった女の子も、それをしっかりと行えていなかったので、少々不安が募ったようだった。心の底までは読めないが、変わらぬ雰囲気で安心した。

2009年4月15日Wednesday 晴れ
快晴。 たっぷりの雨が降って、今朝は青空。雲ひとつない。青空にケヤキの若葉が映える。いい季節だ。今朝は5時前に起き、お勤めをして、本堂を掃除して、雨の後の墓地や境内をぐるりと点検。八幡神社との境の石垣が大分崩されて、石が溝に落ちていた。多分イノシシの仕業。頭の痛いことだ。こういうこと一つで気が滅入ったりもする。何もないのが一番。溝の石や落ち葉を片付けて青空を見上げることにした。
つつじも所々で咲き始めた。昨日の雨で勢いもつくだろう。今日は気温も上がるようだ。甲府で28度位の予想というから、この辺りでも近い気温にはなるだろう。なかなか仕事が落ち着かなくてさっぱりとしない。今日も粛々と、黙々とこなしていかなければ。

2009年4月14日Tuesday くもり
雨が来るぞ。 山火事があちこちで発生してからからに渇ききった状況からやっと抜け出せそうである。雨が来る。今朝は曇り、雨の湿り気を帯びた空気が流れている。雨を予測して、少し早めに起きてお勤めを済ませ、放っておいたままになっていた柴の小山を風のない朝に燃した。桜はすっかり散ってしまい葉桜の若い緑になった。雨が降れば生き物がまた活気付く。新緑の季節になる。
今日は風がなく、花粉の悲惨も抑えられれば、僕の花詰まりも好転するかもしれない。そう願いたい。

2009年4月13日Monday 晴れ
鼻づまり酷い。 いささか調子に乗って飲みすぎて、今朝は十分に具合が悪かった。どうしようもない男の朝を、ハンドルに掴まりながらようやくに職場へ。
昼。どうも今年は花粉に敏感。なかなか軽くならない。歩いた後は必ず顔を洗い、うがいをし、鼻の穴もしっかりときれいにするのだが。夕べの飲みすぎが微妙に影響したのかもしれないが。
カルデロン・ノリコさんの両親がフィリピンに強制退去で帰国したというニュース。法を犯しての入国手段であったとはいえ、この国で生まれた彼女を置いて帰国せねばならない両親や、親戚に預けられるとはいえ、13歳の少女にとっては大きな傷になる。許される方法は本当になかったのだろうか。痛みを分かち合い、過去を問わずに生きていけるのが人間であって、生きていく中で変化していくのもまた生きていくということであるのではないか。痛みの光景であった。

2009年4月12日Sunday 晴れ
護摩壇準備。 甲府、華光院の祭典から帰ってきて、「いい護摩だったよなぁ」の余韻を持ちながら、護摩の壇木を少し準備しようと始めたら、乗ってしまって結局相当早いのだが、いつもの護摩壇のおおよその準備をしてしまった。今年は暮れに枝卸をたくさんしたので、檀木には不自由しない。あとは桧葉である。今年は桧葉をあらかじめ貰える所を当たっていないので、檀家の皆さんにお願いしようと思う。なんとかなるだろう。来週の中ごろには少し天気が下り坂のようなので、最後にブルーシートをかけておしまい。時間を忘れていたらもう6時ちょっと前。片付けて、夕のお勤めを簡単に済ませ、始まってしまった「天地人」見ながら缶ビール。一日暑い日だった。ほどほどに飲んでもいいでしょうの日曜日ではなかったか。

2009年4月11日Saturday 晴れ
桜挿す。 暖かいというより、暑い一日。今年初のタイパンツ穿く。オレンジが足に尻に気持ちいいパンツ。夕べは、僕より1年後に役場に入って、この3月に辞めていったN君の送別会。彼とははじめのころはよく飲みに行った。職場も同じようなところで、福祉とか最後は2年前まで、下部の教育委員会で一緒だった。辞めていった彼を羨ましく思う。僕にはまだ辞めることができないのだ。桜の若芽をたくさんとって挿してみた。1本でもついたら儲けもん。夕方、まさみっちゃんに会ったら「芽が出たわ、付くかも知れんな」と、おー!ムクロジに緑の若芽が二つ。なんかこれの行く末も楽しみになった。

2009年4月10日Friday 晴れ
陽射し強い。 6時55分。今朝はもう早い時間から太陽が昇り、強い陽射しがある。暑い日になりそうだ。見上げると老ケヤキにも、はや若芽が萌え始めている。毎年の景色だが、年毎にそれを受ける僕の心には変化があり、こういった景色や自然の成す術が深く入ってくる思いだ。境内を歩き、桜の若芽をいくつか確認して、明日は、祭りの準備もするが、息抜きにこれらを採ってきて挿してみようと思う。山に桜を植えるという無償の行いを、誰に語ることなく続けている人たちもいると聞く。僕はこの寺にこれからの年月、木や花を植えて、祖父・父と継いできたこの寺への感謝の気持ちを持って残すことをしようと思う。

2009年4月9日Thursday 晴れ
セリそば。 夕べは晩飯にセリそばを食べた。何日か前に、テレビでセリそばのことをやっていたから無性に懐かしく食ってみたかった。田の用水路もコンクリートで整備されたので、セリを見かけることもなくなってきた。セリの風味は春の味だった。女房が買ってきてくれたセリは、何年かぶりに味わうセリで、脳の記憶をまた更新させてくれたかのように満足だった。
山のミツバツツジはまだ開かないが、常葉周辺を歩くと、あちこちでミツバツツジを見かける。いまが旬。視覚を活性化させてくれるような、はっきりとした濃いピンク。寺でも早くこのツツジが咲くようになればいいけど。サクラを少し挿してみようと考えている。成功率は非常に低いようだが、幸いここには、たくさんの若木も生まれている。先ずはやってみようと思う。

2009年4月8日Wednesday 晴れ
通夜へ行く。 Kちゃんの亡くなったお父さんの通夜へ。同僚も居たし、役場を退職された先輩方も大勢。泣き腫らした喪主を務める彼女。なぜここまでも過酷に追い詰めてしまうのか。何の心配もなく生きてきて、これからも生きていくのであろう金正日の息子のジョンナムのような奴もいる。ここに生まれたり、あそこに生まれたり、それぞれが生まれて、そこが生きる場所になったことは、運命をゴロゴロと転がせてしまうさいの目のようであったり。宇宙は僕たちの運命をもてあそんでいるのではないだろうけど、まだまだ悩めよとか、まだ成長できる!っとか、言っているのだろうか。「天上天下唯我独尊」を唱えながら生まれてきたという釈尊の誕生日の今日。こんなことを本当に語ったであろうか。まさか!誰が悩み多い日々の人生などを生きたいと思うものか。死んで楽になれるのなら、その方がいいって思いたくなる気持ちもわかるってもんだ。何もわかっていない人生だ。「かもめはかもめ、ひとりで空をゆくのがお似合い」。

2009年4月7日Tuesday 晴れ
4月が始まり、なんとなく雰囲気が変わって。 新しい課の体制になって、まだ数日の勤務しかないのだが、雰囲気が変わって少し戸惑いがある。別に僕のところが特別ということではないが、ここ数年、自己評価だとか、目標だとか、なんだか難しいことになってきていて、監視したり、管理されたり、管理したり、黒い大きな雲の塊に絶えず頭の上から押さえつけられているような重苦しい雰囲気を否めない。時代の変化で、僕たちに求められているものや世間の目の厳しいことは十分にわかるつもりではいるが、正直僕には肌の合わない世界なんであります。ますます僕のような者にはここで存在するということが、ある意味厳しく難しい。もうしばらくはここで我慢をしてでも生かせて貰わなければならんと思っているので、爆発するか泥の海底に沈んでしまうかを回避するために、中間どころの所に浮遊していたいと思う。できるだけ特別な感情を表に出さず、与えられた仕事をしていけたらいい。最低な、クソのような公務員だと思われようが。

2009年4月6日Monday 晴れ
塵であったのだ。 仕事が始まってまもなくケータイが鳴った。A課長からで、同僚のお父さんが亡くなったらしいということだった。この情報はそのとおりだった。宇宙から見れば僕たちの存在する世界なんて塵みたいなもので、悲しい出来事が重なるなんてことも、たまたまそうなったというだけで、それをいちいち事件や話題にしていたら切りがないのかもしれないが、凡夫である僕らには、なかなか容易に受け入れられることではない。こういう事実を事実として甘んじて受け入れながら変化していくということだろうか。
花祭りが来るので、客殿からお釈迦様の小さな像を持ってきて、夕飯の後に、台所のお湯で像を洗った。僕は住職になってからはじめてお釈迦様の像を手にした。勤めもあるし、花祭りを特別にするつもりもないが、明日の朝は本堂にお釈迦様を置いてみようと思う。桜の満開とその散るさまを、お不動様とご一緒に楽しんでいただこうと思う。
因縁の世界に生きるって事は、時として不条理に思うことでもある。やりきれない気持ちにもなるが、ここで立ち止まってしまえないのが、生きているということのお勤めなのかもしれないな。

2009年4月5日Sunday 晴れ
バリアフリー。 明日が小学校、明後日が中学校の入学式。寺の桜はもう散り始めた。池の面は桜の花びらで埋め尽くされている。散る花びらを眺めているとなんか少し寂しい。あーまた来年だなと思う。来年にはまたひとつ歳をとっているな。俺は元気で居られるだろうかなんぞとも考えてしまう。詮無いことだが。久々にディランUをかけて外の仕事をしたのだ。やっぱこんな唄たちが僕は好きなんだな。今は、PHISHのライブを見ているが。無節操な坊主だ。
朝、檀家の佐田さんから電話があり、屋敷神(三国院)のお祭りを早めにしたいとのことだったので、来週の土曜の夕方することにした。次第を捜している特に、偶然に先代(父)の次第を見つけることができた。ありがたい。こんな風にしていたのかと。今までなぜ見つけられなかったんだろう。真言宗の僕たちは、神仏混交だ。経も読めば祝詞もあげる。だから楽しいんだよな。これをバリアフリーという。

2009年4月4日Saturday 晴れ
新車のお祓い一件。 祈願の主Wさんの前の車は14年間で28万キロを走ったのだそうだ。年月もだが、よくまあ28万キロも走ったもんだと驚くとともに感心する。相当な車好きであり、また休日などを利用して各地へ出かけることもお好きなようだ。出不精の僕とは大違い。でも、ブログでそんな話を拝見しているとこちらも楽しくなる。以前Wさんのブログを読んで、富士ヶ嶺方面のお店を女房と訪ねたこともあった。そんな愛着のあるであろう車を手放し、新車購入となったのだ。新車のお祓いに拙寺を指名してくださり、今日は僕も、どんな車なんだろうと期待して、それからいつもの時よりもちょっとだけ気合を入れて、法螺貝を持って修験装束でお祓いをさせてもらった。終わって外でお茶を飲んで、少しお話もさせてもらった。親爺様のブログに新車の記事が掲載されるのももう間もなくのことであろう。
午前中は、風はあったが天気もよかった。富士川の川原へ野竹を取りに行ってきた。幣串用の竹である。少しずつ準備ね。護摩木も少し作る。放光寺の巡礼の会から頼まれた御朱印も20枚書く。午後には風に雨が混じった。外の仕事を止めてパソコン。この一週間は年度の切替でなんだか忙しなかった。今日はもうこれでのんびりとする。

2009年4月3日Friday 晴れ
職を失う。 午後、ハローワーク鰍沢へ行ってきた。3月一杯で任用切れとなった臨時職員の雇用保険の喪失の手続きだったんだけど、待合スペースには、大勢の日系人と思しき人達が順番を待っていた。僕は別窓口だったので待つことはなかったが。取得手続きなら会社の事務員が行くだろうし、労働者本人が出向いているってことは、恐らく職を失ったので、失業認定の手続きにでも来ていたのだろう。中には当然、この国の人たちも居たことだろうけど、こんなことをだんだん身近な出来事として感じるようになってきたってことか。この国の人間だろうが、外国籍だろうが、生きている上での痛みは平等だ。どちらが優遇されてどちらが冷遇されることのないよう願いたいものだ。僕も僕の家族も、この時代の痛みを自らの痛みとして受け止めなければ乗り切れないのかもしれない。宇宙へ行ったり、ロケット打ち上げてる場合じゃないって思うんだけど。

2009年4月2日Thursday 晴れ
夜は、学校管理職の歓送迎会。 午前中仕事慌ただしく。午後2時間休み、霊場巡りを迎えるべく待つも、僕の時間切れが迫っていたために、職場へ戻る。午後3時から新任教員のあいさつ。3時半から教育委員会の年度初めの会。少し仕事をしてから、午後6時半からの学校管理職の歓送迎のために、1便の下部ホテルバスに乗る。春休み中ということもあり、下部ホテルも大勢客があるようだった。2時間半ほどで閉会。飲み始めると、やっぱみんなよく飲む。9時にまた送りのバスが出たが、乗ってきたときの半分しか乗車しなかった。居残りか、またどこかに流れるのか。10時少し前に帰宅。「遅かったねぇ?」って、今夜のこと言ってなかったっけ?で、風呂に入ってこれを書いて僕は疲れたので寝ることにする。

2009年4月1日Wednesday 晴れ
年度初め。 3月31日と4月1日が連続して、何事もなかったように新たな年度が始まった。異動や採用辞令などの交付があり、町長・議長から訓示がある。何れも厳しい時代であるということ。遠い国のことではなく、私たちの住む町が厳しい時代にはまっていると。
新しく来た人たちは慣れない机と位置に戸惑いながら、それでも待っていてはくれない仕事を片付けてゆく。切羽詰れば大きな力を発揮するようなものなんだろうか?今日の午後は雨が降ったり、その山は煙っていたり。黄砂もあるようだった。女房が何かで知って、3月も挿し木がいいと言っていたので、鳩打隧道の手前で山アジサイの新芽をいくつかいただいてきて夕暮れの時間に挿した。それから生協で頼んでいた「黒蝋梅」の小さな苗も定植。夕飯後、祭りの案内状の封筒詰め。4月に入り、さあ忙しいひと月の始まり。

2009年3月31日Tuesday晴れ
課長送別。
課長が40年間の役場生活を終えた。退職辞令の交付と退任式が行われ、夕方仕事が終わってから課長宅へ招かれる。奥さんやお母さんの手作り料理で、歓待される。美味しい日本酒もたくさんいただいてしまった。明日、年度初めの辞令交付式に必ず出なければならないので、慎んで飲もうと思っていたが無理だった。お元気な課長のご両親にも会う。課長の昔話や、今後の教育委員会のことへの思いなど聞いて午後9時前に辞す。E君の送ってもらって帰宅。娘の居なくなった家はなんだか少し寂しい。女房も寂しいのであろう。

2009年3月30日Monday 晴れ
最後の弁当。
「今日が最後の弁当だ」と課長が感慨深そうに話して昼の時間になった。明日は午後出勤して、学校や僕らの伝票の最後のチェックをして、本庁で退職辞令と送別会があるのだ。事務引継ぎも、Sさん、Kちゃん、課長もそれぞれ午後になって次に来る職員へ引き継いでいた。僕は昼休み日向山へ駆け上がり、花の芽吹きを確認に行ったのだが、やっぱり自然は人間の都合のいいようには動いてくれない。帰って出直せと言われてしまった。
娘も今夜が最後の夜で、明日の朝学生寮に戻ってゆく。4月には大学3年である。僕も今日歩きながら指折ってみたら、27年役場に勤めたことになる。こんなに長くここに居るのだとは。働いて金を稼いで、人を愛して、家庭を作って、子らを育てるということがこの仕事をするということの役割なのか。深いことはわからんが、長いよな。

2009年3月29日Sunday 晴れ
寺を継いでいくということなど。
玄法院のお祭りで会った甲府の若い住職と話した。いろいろ悩んだ末、そうすることに決めましたと。これも時代の流れで仕方のないことかもしれない。お二方だって、それを非難するようなことはないでしょう。よいお祭りを続けていってくださいと応援してくれるでしょう。彼らが繋いできてくれた祭りの歴史は、新しい世代へのバトンタッチと考えたらいいんじゃないですか。決断するのも住職の役割なんでしょう。生きているんですから、絶えず変化していくわけで、人は変わりながらきっと成長していくのだと思います。そして人の心を十分に大切に思うことを忘れずにさえいたら、今年の祭りもきっと去年以上に素晴らしいものへとなってくるんじゃないですかね。きっとそうだと僕は思います。
玄法院から帰って、本堂の掃除。風が強い季節は本堂が埃になる。掃除機をかけて、雑巾掛け。放光寺の巡礼一行が4月2日に来るので、ちょっとはきれいにしておかないと。

2009年3月28日Saturday 晴れ
夜は喜田へ。
いささか二日酔い気味の土曜の朝で、ゆっくりと起床してお勤め。雑木を切ったり、風のある外で過ごすのが気持ちのいい季節。寺に訪れる人もちらほらとある。午後3時頃、車が上まで上がってきて本堂の脇に停まる。降りた初老の男性から「ご住職ですか?御朱印をいただきたい」と。県外ナンバーである。甲斐百八霊場巡りをしているようだ。「でも、残念ですねぇ、車を本堂脇まで乗り付けるとは。駐車場があるのだから車は駐車場に止めて、参道を歩いて寺に向かいながら、気持ちを穏やかに静めるのですよ」と苦言した。霊場巡りはスタンプいラリーじゃないでしょ。御朱印をスタンプ集めや切手収集と同じレベルで考えているんなら、霊場歩きなんかしても意味はない。と僕は思う。曰く「おっしゃるとおりですね、車停めなおしてきます」と、朱印帖を僕に手渡して置きに行った。これで次の寺から改めてくれるといいがね。
夜は喜田。久しぶり。おばさんも元気。オサムさんご夫妻も来ていて、和やかに飲む。俊一君からの差し入れだという芋焼酎がかなり旨かった。年度替りのことなど話して最後は手打ちうどんで締め。いい夜でした。

2009年3月27日Friday 晴れ
送別会。
定年退職となる課長の送別会を下部ホテルで。40年勤めたそうである。人生が80年で終わるとしたら半分は役場勤めだったということになる。僕もまだまだこんな風に勤めなければならないのだろうか。意外なごとに出会ってしまって、これを毎日楽しみに読んでいる人があったってことだ。マイナーなこのHPを、ヘヘッと笑いながら観察している人があったりするものである。でもう一つ、その方がサックスプレイヤーであったことを知って驚きだった。見かけによらないものではあるが、こういう話を聞くと嬉しくなってしまう。音楽は人を幸せにする。国境を取っ払う。僕はそんな風に思っている。課長を家に迎えに行ったときに、課長の大切な場所を見せてもらった。ヤマガラが柿の木で遊んでいて、手のひらに乗せた餌を見事についばんでいってくれるのだ。これは音楽のように素晴らしいことだった。
僕は終始日本酒の熱燗で通し、デジカメで酒席を撮り続け、今夜の写真を課長に後で渡そうと思っている。4年間であったが、過去にこのような課長に出会ったことは無かった。安心して下で働ける課長であったと思う。4月からが別に不安ということでもないが、というよりも、今そのことを考えても仕方がないといったほうがいいかもしれない。
明日はまた明日の別の風が吹く。

2009年3月26日Thursday 晴れ
或る会議のことを。
ここはこうするって言っていたのに、何でこうなってしまったのですか?っていうようなところを、僕は気付いて言ってほしかったんだ。でも、うまくいかないもんだよねぇ。相変わらずといっちゃなんだけど、そんなに重要なことでもない同じことを繰り返し掘り返しで、僕なんか、今日はまっ!30分もありゃ終わるわな。って踏んでたのに、1時間半かかった。後の予定が迫っていたから、1時間半で「制限時間切れ打ち切り」にしたってのがほんとのとこなんだけど、今日は、ほんとに、馬鹿馬鹿しく思えてならなかった。ため息すら出ねぇ。
空はコバルト、世は桜。日向山も今日は、花たちの芽吹く動きが、音で伝わってくるようだったぜ。こんなことが心鎮めなんだねぇ。

2009年3月25日Wednesday くもり
定額給付金。
申請の初日で、実は僕も今日定額給付金の支給申請をしてきた。担当しているJETプログラムの英語指導助手4名の申請をしてあげる用もあったので。そのために4中学校を回った。今日が3学期の終業式で、教職員の異動内示もされたようで、3年生が卒業した中学校はなんだか静かで、先生方もそれぞれの新しい職場のことなどへと気持ちがあるようだった。中富中では、新採用で配属された英語科のM先生が富士北麓へ赴任することになった。話したら、4年間は行くことになりそうだと。まだ、住む所もさがしていません。なんて、まだココに未練が残るような言葉であり、僕も少し寂しい気分になった。久那土中のモーガンは、今夏4年の勤めを終えて、カナダに帰国する。帰ってからまた勉強をするのだそうだ。将来は大きな図書館での仕事を希望しているようである。僕の家族のも含めて、5件の定額給付金の申請をした。
3月の残りが一日ずつネズミにでもかじられていくように、ちょっとずつ無くなっていく、異動する同僚を見ていると複雑な気持ちにもなってくる。明日は定例の教育委員会。課長にとっても最後の委員会になるんだな。

2009年3月24日Tuesday 晴れ
午後休んで親戚に。
彼岸が明けて今日大安だったので、午後休んで女房と娘と、親戚のお祝いに出かけてきた。波木井へTの息子の小学校入学の祝い。伺うと、ちょうどWBCの決勝の大詰めの場面。9回同点になり、結局決着のつくところまで見てしまった。お祝いに出かけて、野球を観戦して、双方で平素の疎遠を許しを請いながら話す。いつまでも家族の付き合いが続くことは無いので、新しい家族へと変わっていけばどこかで、互いに「これでよし」としなければならない。4月のお祭りへの誘いをして辞す。次に妹の嫁ぎ先の内船寺へ。南部はさすがにこちらよりあたたかそうな景色。妹の次男の大学入学と、三男の中学入学の祝いに。ご主人も当人たちも生憎留守だったが、妹と互いの近況や家族のことを交換。子どもたちが大きくなればなったで、それぞれの行き先が落ち着くまではまた心配なのはどこも同じか。こういう親戚への心遣いを僕は普段まったく付き合わない。すべて女房任せである。でも今日は同行してよかった。互いの歳のこともわかるし、久しぶり会えば、深く話さずとも、親戚であったり、兄妹であることが思い出せようというもの。不義理の極みのような極道もんの僕ではあるが、春風と桜が僕を誘ってくれたのかもしれないとそう思った。内船寺には沈丁花の甘い匂いが漂っていた。

2009年3月23日Monday 晴れ
人事異動内示。
役場内の人事異動の内示があった。僕はもう一年また下部で教育委員会の仕事を継続することになった。課長が退職し、向かいのSさんと、左隣のKさんがそれぞれ他署へ移ることとなった。Kちゃんには、4月ミツバツツジが咲いたら、日向山へ連れて行ってあげると約束をしていたが、平日のそれは適わないこととなった。複雑な気持ちではあるがこれも仕方のないことだ。
今日は悲喜こもごもの羽虫が部屋の中を飛び交っているようで、ため息が聞こえたり、大きな笑いがあったりして、足が地に着いていないような一日だった。
お騒がせの藤原紀香と陣内智則の離婚が成立したとか、昨日の東京マラソンで、お笑いの松村邦洋が泡を吹いて倒れて一時心配停止だったとか、WBCで今日アメリカに勝ったJAPANは、明日5度目の韓国との対戦になる決勝戦になったとか、世の中はまったく無様に能天気だ。
定額給付金申請書が届いたので、この特別措置には賛成はできないが、もらえるお金は貰っておく。もうしっかり申請書書いたもんね。

2009年3月22日Sunday
連休最後雨と風の日になった。
天候は一転。朝から雨と強い風。本堂も11時に鐘を撞いたときに閉めることにした。こんな天気ではさすがに墓参もないなぁなどと思っていた昼前に、従姉家族3人来寺。受験生は浪人することに決めたようだ。来春の春爛漫を祈る。トランペッターの沖至氏の話が突然飛び出す。会ったのだそうな。人の出会いなんてものはまったく予想がつかないものだ。それから生き方だって変化していくものだ。変われるからいいんだ。変わっていくことができるって事はなんて楽しく素晴らしいことだ。最近こんなことをよく思ったりする。
エルクを訪ねてくれたWさんのことも話題に。その流れで、早川のMさんの話にも。皆どこかでちょっとずつ繋がっていたりする。一週間前、西光寺の護摩の火の粉を頭の上にいただいちまって、やっと瘡蓋になってきた。ちょっとさぶい今日の夕方、頭を刈るとき気をつけなくっちゃ。エドヒガンザクラはほんの数日間で一気にピークを迎えて、今日の雨風で、もう散り始めた。来年の春のことを考えるのもおかしいが、若い世代は一体どんな風になっているんだろう。僕の子供たち。従姉の子供たち。
久田子の七七日忌で女房が留守なので、僕は午前中からストーブを焚いて、祭りの案内状などの寺務をした。よい彼岸の連休でした。

2009年3月21日Saturday 晴れ
三十三回忌。
三十三回忌は虚空蔵菩薩が仏様である。虚空の世界へと旅立ってしまう。虚空の世界というのは何も無い、無の世界であるように思える。生まれて死んでいったことさえも忘れてしまう世界というような。大学1年の19歳の夏休みに突然の病であっという間に旅立ってしまった。僕の人生の中でも彼の死だけは、いまもって特別であり、悔いの極みである。朝本堂で今日の法要のことを思うと涙が流れた。11時から彼の4人のお姉さん方が来て法事を始めた。理趣経を読み終える頃、目の前の須弥壇に置かれた黒ずんだ板位牌を眺めていて、もう湧きあがってきてしまう嗚咽を堪えることができなかった。明日にはもう忘れてしまうことかもしれないけれど、今日だけはどうしようもなかった。もしなんてことは言えないのだけれど、生きていれば50歳。ここに生きる僕のよき相談相手になっていてくれたはずである。夕の本堂のお勤めにも涙がこぼれた。今日はどっぷりと虚空に行ってしまう彼のことを思っていたかった。初めての夏休み、仙台から帰ってきて僕を寺に訪ねてくれて、客殿で一晩中話したよな。ビールも飲んだな。朝おばあちゃんがおまえを迎えに来て、それっきりで最後になってしまった。虚空の世界に行く彼と今夜は久しぶりに飲むか。

2009年3月20日Friday 晴れ
ブラジルへ帰る。
夕方5時半近くに、外で桜の写真を撮る二人の姿を見かけた。どうも日本人ではないようである。熱心に桜や梅や池や本堂を写している。既に夕のお勤めを済ませて本堂は閉まっていた。庫裏のお雛様を撮るように声をかけて招き入れると、「オー!」とか感嘆の声を上げた。ブラジル人男性二人で、とても精度の高そうなデジカメを持っていた。話を聞くと、昭和に居るのだが、仕事がなくなってブラジルへ帰国するのだという。以前は遊びに出ることなどなく忙しく仕事があったが、今日は始めて遠出をしてきたと。本堂を開け、お不動様も開帳してあげたら、たいそう喜んでくれた。仕事がなく帰国するのは彼らの本意ではないかもしれないし、僕も立ち寄りの客ではあっても、少々不憫に思うところがあった。景気の回復を祈るのみである。女房に話すと、実際にその人たちと会うと辛いねなんて話した。もう弓の島に働きに来なくて、本国で家族との幸せな生活の日々が送れますように祈るのみ。
今日のその他は次の通り。午後1時半から彼岸法要。6人檀家来てくれる。終わってお茶。春になって体が動きやすくなったと、老いらはまた、杖をついたりしながら帰っていった。その後護摩木作り。よい金曜の彼岸の中日であった。

2009年3月19日Thursday 晴れ
紀香&陣内離婚か?報道に思う。
世の中が不況になるとお笑いブームが来るというようなことを、かつて聞いたことがあるように記憶するが、本当にそうなのか違うのかもう今となっては遡って見る術もない。今朝のテレビを見ていたら、藤原紀香とお笑い芸人の陣内智則が離婚へ秒読み段階だと伝えた。わずか2年という。最近、お笑いタレントが有名女優と結婚した格差婚の破局が出てきているようだ。別に、離婚のことは問題ではない。はじめに戻って、世の不況が、何の楽しみもなくなるような世に、笑いを生きる糧とするブームを引き起こすのなら、お笑いが飽きられてきたのか、お笑いブームが下降気味だということであれば、不況を脱出する時期が少しずつ動き始めているのかもしれないと、ぜひ期待したいところである。二人には大変に申し訳ないが。
ちなみに昨日身延町商工会が景気回復のために売り出した、「身延得々振興券」なる1万円で1万2千円分の買い物ができるプレミアム付商品券200セットは、10時の発売開始から30分で売り切れたという。200セットでは少なすぎると苦情が寄せられたそうだ。

2009年3月18日Wednesday 晴れ
墓参り。
頼まれていた塔婆を墓参して建てる。早い時間はまだちょっと冷える。6時の墓は鳥たちもまだ鳴かずに静か。経をあげて、線香の煙の流れるさまを眺めていると、時間がゆっくりと止まってしまう。無縁墓や歴代尊師にも彼岸の供養をする。
今日も気温は上がり、家に帰った夕にエドヒガンザクラを確認すると、花は見事に開き始めていた。思ったとおりだ。年度末になって、町単教諭の入れ代わりなども連絡が入り、そんな事務なんかや他の事や、なんやかんや忙しない。昼の弁当をさっさと食べて歩くときくらいが一番心が休まり、頭も解放される。キム君が立ち寄ったので、PHISHの話などするが、通じたのかどうかも分からん。もう間もなくまたカナダへ帰り、THE DEADを聞きに行くんだなんてことはわかった。彼らはどういう生き方を引っさげているのか、不思議でもあり羨ましくもあり。
韓国からずっと欲しかった、「新村(シンチョン)ブルース」、「キム・ヒョンシク」ほかのCD届く。彼岸の連休これで楽しめる。

2009年3月17日Tuesday 晴れ
彼岸の入り。
昨日が庚申で今日が彼岸の入り。今日もあたたかい。毎日毎日飽きもせずに、挿し木のプランターを眺めては、「生きてるよなぁ」などと、ひとりで気持ちを納得させてみたりしているのだ。それからミツバツツジの枝を、メガネを外して裸眼で確認しながら、「花つけてくれるよなぁ」などと祈る気持ちで語りかけたりもしているのだ。それから釣りには全くの素人の僕だから、こんな時期に天然のアマゴが釣れたりするのかと驚いてみたりもするのである。ただ、場所は違えども、こういう場所で暮らしていけるってのは幸せなことだ。休みの日を楽しみにして山に入るとか、渓谷に入ることが唯一だという人達もたくさんいるだろうが、できることなら、寝て目覚める毎日がその場所にあることがいいのではないか。過去から特別にこんなことを考えてきていたわけではないが、いま50を越えて、人間として熟し始めた(完成したとか言う意味ではなく)自分を眺めると、つくづくここでよかったなぁと思う。まさにsanctuaryである。実は昨日、「心経奉讃文」なるものを見つけた。「神前で般若心経を読経する前には奉賛文を読誦するとよいとされます。」とあった。「抑も般若心経と申し奉る御経は、文字の数は二百六十余文字にして天台経七十巻、毘沙門経六十巻、阿含経、華厳経、方等、般若、法華経等一切経より選び出されたる貴き御経なれば、神前にては宝の御経、仏前にては花の御経、況して家の為、人の為には祈祷の御経なれば声高々と読み上ぐれば上は梵天帝釈四大天王、日本国中大小神祇、諸天善神諸大眷属に至る迄、哀愍納受して我らの所願を成就せしめ給うべし謹んで読誦し奉る。」と。なるほどなぁ、今年の祭典には、郷社八幡での次第の頭に以下のように、この奉讃文を付け加えることにした。
「郷社 八幡神社次第
先 心経奉讃文
次 般若心経    一巻
次 オン アビラウンケン バザラダトバン(大日如来真言)
次 オン ボダロシャニ ソワカ(仏眼呪)
次 ノウマク サンマンダ バザラダンカン(不動真言)
次 オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ(三宝荒神真言)
次 オン ロキャロキャキャラヤ ソワカ(諸天諸神真言)
次 南無八幡大菩薩
次 南無秋葉三尺坊大権現
次 南無峰中本尊金剛童子
次 南無伝法教主龍樹大士
次 南無神変大菩薩
次 南無聖宝尊師
次 南無遍照金剛
次 南無修験擁護諸天善神
次 南無日本国中大小神祇」

2009年3月16日Monday 晴れ
春を歩いて大聖寺。
3月議会の教育厚生常任委員会に出席。学校教育課は11時30分からで、お昼休みを超過したが、12時35分に終了。お金がないってことなんだよね。お金がないってことが人を不安にさせたり。学校をまとめてしまえってことも、町が裕福であれば、先延ばしにできることなのかもしれない。ただ、何でもかんでも反対意見のKさん党には、毎回頭ひねります。むかーし民コロやってたり、どっちか言えば左人間なんだけど、この政党だけはもうメッチャ肌が合わん。まあ、政治家全般が僕は好みじゃないってのが本音だな。委員会の報告をまとめて、一日終了。今日は暖かな日だったが、昼休みがなかったので外も歩けずじまい。花も今日は進んだだろうな。大股の一歩だよ。
昨日僕が市川三郷の西光寺へ行っている間に、埼玉からSさんご夫妻が寺を訪ねてくれた。留守の時にはお開帳はしないのだが、特別な理由があってお不動様を開けておいた。なんと、お二人で波高島駅から八日市場まで歩いてきたとのことである。爽やかな日和だったので、さぞ気持ちよかったのではないか。富士川を渡り、52号線を歩きながら楽しい会話も弾んだことだろう。お弁当も持参であったようで、境内で広げ、女房が本堂を案内し、そとでお茶を接待して、二人はあらかじめ調べてあった、バスにて帰って行ったという。のんびりと休日を楽しむご夫妻が目に浮かぶようである。話を聞いただけでも、こちらもHotするようであった。

2009年3月15日Sunday 晴れ
市川三郷町、西光寺祭典に。
天気もよくって今日はいい護摩が焚けるといいなぁ、なんて。10時から角屋のおじさんの三回忌の法事。2年が経つのは早い。なんでもない暮らしを続けながら、でも確実に時は過ぎていき、老いる者はその老いの皺の刻みがよりいっそう深くなる。終わって着替えて西光寺へ。瀧本院は今年から世代代わりして、玄聖さんが来てくれることになった。僕には代わりを務めてくれる後継はいまのところない。久しぶりに会って、松鶴院さんや玄聖さんと話すも、ちょっと寂しい残念な話もあり、これが現実ってもんかと重たくなってしまった。
3時から秋葉堂で参詣者へのお加持。錫杖での加持。幼稚園くらいの女の子が何人か、お母さんやおばあちゃんと一緒にお堂に入って、手を合わせながら、お加持を受けている。こういう風に、なんでもない生活の中で自然に手を合わせたりすることを覚えていくのがいい。こういう子どもたちには、悪い心はきっと育ってはこない。午後4時少し前に柴燈護摩に入る。風はあったが、こちらが火を避けるのにのけぞるようなことはなくてよかった。今年は頭の上の火の粉が3度ほど。熱かったが、このくらいはなんでもない。西光寺の檀家の方たちや、周辺の皆さんもこのお祭りを楽しみにしてくれているようで、僕たちにとっても、修験の勉強をする場が与えられることはとてもありがたいこと。今年が19回目のお祭りだそうだ。僕は7回目か8回目くらいからここに来ているのかもしれない。とうに、先代の回数を超えてしまった。寂しくもあり、僕の役割を改めて考えてみたり。来年は20回だ。

2009年3月14日Saturday 晴れ
上求寺を訪ねる。
夕べの雨はだいぶ降り風も強く吹いたよう。本堂の回廊もびしょ濡れだった。11時から老人クラブの皆さん20名ほどお見えになって、ちょっと早いが彼岸の法要する。大勢来てくれてお寺は嬉しい。あの世の人たちも喜んでいる。終わって老人クラブの皆さんは、区内の各自の担当の墓参をするとの事。僕は少しお話をさせてもらって、お茶とお菓子で接待して帰っていただく。上求寺へ。途中でラーメンの昼食。天候は牧丘方面に雲が下りている。車を走らすと、山には雪が降ったようだ。年末に訪ねた以来の上求寺。叔父さんも叔母さんも元気そう。リフォーム中の家には今日も職人さん大勢。大工さんのほか、壁塗りの職人さんとか、柱に塗っている職人さんとか。何を塗っているのかわからなくて、ここに書けない僕の無知が恥ずかしい。内装に入っているので、天井が貼られたり、屋根裏の藁葺きも、断熱材で隠されてしまったりしている。屋根裏の部屋は、柱を取り外すわけにはいかないという、頭にちょっと気をつけなければいけない部屋も。雨は上がって雲も晴れたけれど、風が強くて。叔父さんの話では4月末には完成という。1月末に寺を訪ねてくれた渡辺さんのことなども話して、2時間ほどで今日は辞す。
帰って、明日の法事の準備や西光寺の祭典の準備の確認。挿し木への水遣りも忘れずに。

2009年3月13日Friday くもり
祈りたいと思う。
こちらも最近取りざたされていたこと。偽造旅券で入国し強制退去処分がくだされたフィリピン人一家。父母が帰国をし、日本で生まれた女の子が残ることになったらしい。違法に入国してきたことは悪いが、なぜ今ここに来て、親子を引き離さなければならないのか。そんなにこの国は冷たい国なのか。この父親は、清掃作業員として、夜を徹して働き詰めであったというし、会社の社長の評判もよかった。敬遠しがちな作業も厭わずにやってくれたと。まあ、言葉裏には、外国人を蔑んでみているという思いもうかがうことができるが、今回はこれが問題ではない。果たしてこの両親は、フィリピンに帰国して、この後、正式に日本へ就労に来ることができるのだろうか。
いま、国籍の有る無しに関係なくどん底の不況だ。先日も寺の集まりで話したら、民間はボーナスなんてとても望めないのだという。役場勤めの臨時職員は、このようなところから眺めてみると、少しはボーナスも出て、社会保険にも加入していれば、不況に喘ぐ会社の経理のように、社会保険料の滞納を心配することもない。これは、僕が教育委員会の臨時職員の社会保険料の納付事務をやっているので、自信を持って言える。これだけでも将来のこと考えたら安心じゃん。
お父さんお母さんが、またこの国に速やかに、今度は正当な入国方法で入ってくることができますように、それまでの間、13歳の娘さんが崩れることなく、心配することなく勉学に励むことができますように。祈りたいと思う。

2009年3月11日Wednesday 晴れ
月がいい。
年度末恒例の教職員の人事異動の会議の後を、夕飯を終えた教育委員を増穂まで迎えに行く。今夜は旧15日で満月。いい月だ。道もそんなに混んでなくて月夜のドライブ。男たち5人を乗せて各自を家まで送り届けて帰ってきた。今夜は飲まずに風呂からの月を眺めて、月を抱いて寝てしまおう。
PHISHが帰ってきた。知らなかったもうライブがはじまっていた。3月6日、7日、8日。PHISH COM.にも、3日間のMP3音源がFREE DLできるようアップされている。先ずはこれを落として、あとはbt.etreeからもゆっくりと落とそう。PHISHをまた聞けるとはな。いい満月の夜だ。ゆったりと3月6日の音が流れている。またこれで当分楽しめる。

2009年3月10日Tuesday 晴れ
開、誕生日。
夜の雨が上がって今朝はあたたか。今日の日中は気温が上昇するらしい。お勤めの後外を歩いた。先々週買ったムラサキツツジノ花も開き始めた。この花は本当に赤紫の花で、これはいい。去年から植えた桜の苗を数えてみたら17本あった。ツツジや花桃、ミツバツツジのことも入れたら、結構投資したことになる。それでも、交替期にある花木のことを考えたら、これはこれでいい。
3月10日だ。息子の23回目の誕生日である。ほとんど音沙汰なしではあるが、頼ってこない分、自分で考えたり悩みながら人生を模索しているのだと思う。もうあと1年の修士課程が残る。就職も困難な時代である。できる限りの後方支援はしたいとは思うが、これとて、親にも限度はある。これから晴れてくる。よい誕生日になると思う。それだけで、十分だ。相模原の空もきっとこんなであろう。
上を朝書いて、いま夜の9時だ。風呂に入った。風呂から明日が満月の丸い月を眺めた。女房も今夜の月を娘に教えていた。いい月だ。息子の明日を丸く見守ってくれる月だ。相模原にも、チベットにも、世界中の路地にも見落とすことなく平等に届く月の明かりだ。あとは勝手に自分で幸せになれ。

2009年3月9日Monday くもり
歩く。
天気は悪いが雨ではない。先週は雨続きだったり、病院に行ったりで昼休みのウォーキングをしなかったので、久しぶり。冷たい風も気持ちよくて、相当にスピードを上げて歩いた。少し走ったり。支所の坂を下って日向橋を渡り、甲斐常葉駅前を杉の木へ。線路の下をくぐって出口へ。出口の踏切を渡って新常葉川橋からバイパスを上がる。文吉を過ぎて宝運橋を渡り、県道を大炊平方面に上がる。清澤集落への分岐のところを五条の水路道を下部中経由で支所に戻ってくる。だいたい35分くらい。今日は走ったりもしたので、30分強くらい。気分爽快。自分しかわからない感覚だけど、頭の中もすっきりと総入れ替えがなったように新鮮。昨日の酒もすっかりと抜けた。
不動寺のお祭りもよかったな。親族だけで務めるお祭りってのもいいもんだな。終った後がまたなんともいいや。今週末、上求寺を訪ねることにした。

2009年3月7日Saturday 晴れ
護摩を焚く。
夕べ一人で飲んでいるときに電話が2件。どちらも大変に長くなった。どちらも30分以上になった。焼酎の湯割りもすっかり冷たくなった。信者さんからの電話は、家庭内の事のために明日護摩を焚いて欲しいとの事だった。宗務所長からは、理源大師のご遠忌法要の件。
で、今日午後1時から護摩。午前中に護摩壇を作って、外の仕事。朝食はレトルトカレー。昼は中華丼。よい護摩が焚けた。信者さんも、護摩の後お話しをして、穏やかな心持になってくれたようであった。あたたかな昼も、午後3時を過ぎると曇り空になった。明日また悪くなるのか?護摩の後頭を刈る。明日は不動寺の祭典。充実した一日ではあったぞ。

2009年3月6日Friday
雨上がりの宵のレナード・コーエン。
今日も朝からの雨で一日降り続き。こんなに雨の多い年も珍しい。記憶にない。気が滅 入る。滅入っても誰も助けてくれず、諦めるしかない。昨日の大腸検査の違和感もだん だんと薄れてきて、ぼちぼちと、色濃い便が出始めた。また馬鹿な日常に戻ってしまう のだな。今夜は女房と娘は外泊でして、のんびりと一人晩酌晩飯となった。レナード・ コーエンのDVD見ながら、醍醐寺から送られてきた寺報「神変」読んだり、喜田の姉さん にメール打ってみたり。彼女は、今夜身延での野暮な会議に召集されているそうな。雨 は上がったが、外は冷えている。明日は晴れるようだが、日曜にはまた天候下り坂模 様。一体どうなっちまったのか。 こんなに落ち着いてレナード・コーエンを見たのは初めてだ。LIVE盤と併せてDVDが出る というニュースもあるようだ。ラララー、ラララー、ララ、ララーララー。

2009年3月5日Thursday 晴れ
大腸検査。
昨日一日は、大腸検査のためのボンコロンという2食粥で、夕はポタージュという食事で、寝る前に下剤を飲んで就寝した。布団に入ってから暫くすると、腹がごろごろとなり始めて、渋ってくるというのか、そんで午前3時過ぎに、痛いというのか便意なのか微妙なところでトイレへ。まあ、3食があんなものだったので、当然出るものもそんなにないわけだ。要するに腸の中をきれいに洗い流すための前段階なので、前夜までのポタージュが出てしまうと、もう腹が落ち着いて、水を2杯ほど飲んで再び布団へ。水分はOKっていうのはなんともありがたい。8時に病院へということだったので、少し遅めに起きて、洗顔して朝のお勤め。「だんだん」見て飯富病院へ。大腸に内視鏡を入れるために、さらに2リットルの洗浄液を飲む。比較的口にあったのか、1時間ほどで飲み終わる。この間、既に3回トイレへも行く。僕がこれを飲み進めている間に、急患が入る。下部温泉客で、露天風呂の浴槽で宿泊客が倒れているらしく、俄かに騒々しくなる。残念ながら既に心肺停止状態だったようで、病院でも手を尽くしたが死亡が確認された。後から駆けつけた、同行者によると、朝やはり少し飲んでから風呂に入っていたようであった。腸の中がきれいにならないと検査が始められないので、トイレも10回ほど行くと、固まりはもちろんなくなり、滓すらもない。水だけになり、やがて茶色が薄い黄色になってきたあたりで、看護師さんを呼んで確認してもらう。(確認のやり取りは都合3回あった)。彼女は、便器の中の僕の便尿とでもいうのか、それを確認して、おもむろにナースサンダルで和式便器の水洗ノブを押し込み流しながら、「いい色になったじゃないですか、それでは10番へ行ってください」と。なんだか僕は、トーンと背中を押された気分で、意気揚々と高見盛のように検査室へ。血圧を測り、お尻に穴の開いた指定のパンツに履き替えベッドへ。初めての内視鏡。相当の違和感とか、痛みを感じるかと想像していたが、意外と平気だった。痔はないと思うと言ったのだが、挿入されて早々に、「痔があるな」ということだった。お腹の中腹まで、入り込んできているのがとてもよくわかり、天上でねずみが、床下で野良猫が走り回るのを布団の中で聞いているような気分。「何もないですね、きれいですね」ということで抜き始めて最後のあたりに来て、「ポリープがひとつあるな」と。看護師にポリープをとる器具を要求したらしく、でも結局取れなかったのが、腕が未熟だったのか、彼曰く「2ミリ位の米粒半分ぐらいで、内視鏡だから見えちゃうんですけどね、ま、5年くらい経ったらもう一度やってみますか」って。僕「そういうのって、検便ではわからないんでしょうね」、彼「もちんわかりませんよ」。まあ僕も、この辺でもう止めたいくらいに、ブワァー!ッと屁をしたくなっていたので、オシマイしにしてもらった。終わってまたトイレに行くと、からっ屁みたいなのが、3連発。もう何度も拭いたので、トイレットペーパーがヒリヒリとし始めていた。でもまあ、とりあえず元気に生還で、うちに帰って、お尻の穴に塗りこめた青色のヌルヌルをシャワーで洗い流して、午後から出勤。意外と仕事が捗って、死亡叙勲の上申も完結。臨時会の会議録もまとめ終わって、よかったよかった。

2009年3月4日Wednesday くもり
朝を見回り。
少し早起きしてお勤めを済ませ、雪の止んだ境内から墓地を見回って歩く。竹が重たく頭を雪の地面に埋めていた。それを木の長い棒でもって雪を払い持ち上げてやるゆっくり頭をもたげて、めんどくさそうに竹が戻っていく。何本かは途中から折れていた。そんなに酷い有様ではなくほっとした。南天の枝を片っ端から持ち上げてやる。勢いよく「サンキュー!」って戻っていく。老紅梅の花にも枝にも雪だ。こんな光景は滅多に見られない。早過ぎた春をまた引き戻すかのような雪の後。ミツバツツジの細い枝が倒れ掛かっていたのを発見して、ドキッとした。これは気をつけなくちゃ。エドヒガンザクラの枝垂れも、丁寧に枝を揺すって落としてやる。僕の朝はこんな風だ。今日は粥のみの一日。仕事を片付けなくちゃならない。

2009年3月3日Tuesday
雪になった。
まさか本当に雪になるとは思っていなかったが、雪になった。ここいらは一ヶ月遅れの4月のひな祭りだが、雪の3月3日になった。3月の雪も珍しい。止みそうな雰囲気で止まず、まだ、午後7時を過ぎて降り続いている。大して積もってもいないが、湿気の多い雪の粒なので、帰り道は雪の重みで頭を垂れた竹が何箇所も道を塞いでいた。暗くなり始めていたので、墓地の竹やぶを確認しようとも思ったけど、なんだか見たら、家に入るのが遅くなりそうな気がしたので止めた。明日の朝でも見回ってみよう。
死亡叙勲の事が1件発生して、朝から一日それにすべてを奪われた。明日もう一日かかりそう。これがあったせいで、下田逸郎の余韻は一気に失せてしまったよう。下田さんは傘を忘れていってしまったが、今日「傘はいらん」と留守電があったようだ。
明日の3食は、「ボンコロン」という湯で温めてのレトルトの食事になるので、女房は「可哀相だから」と、しめ鯖を食べさせてくれた。なんだかしんみりと、「無事生還します」というような気分に落ちた。

2009年3月2日Monday 晴れ
下田逸郎さんのライブに皆さんありがとう。下田さんにももちろん感謝。
昨日の午後2時19分に甲斐岩間駅到着。カメラマンの海老原君と迎えに行く。2分遅れで到着。電車の到着をしばらく待つ間に、僕と海老原君は線路脇で時間を潰していたのだが、そこに実は鉄道マニアである男性がいたのだ。電車がホームに入ってくるのを認めたので動き始めたら、その男性はこんな様なことを海老原君にしゃべった。「撮るんなら、ホームに行ったほうがいいよ」って。彼は僕らが電車ではなく、下田逸郎を迎えに来て、彼を被写体としていることを知らず、鉄道マニア仲間と思っていたようだ。この件は、寺に着いてから下田さんにも報告。駅で下田さんの大きな手と二度目の握手。天気が悪かったのだけど、迎えるときには一週間ぶりくらいの太陽。よかった。
寺に着いて、女房がお茶を出すのも待てずに、客殿で会場のレイアウト。やっぱり初めてでないので彼も段取りがいい。僕も前回のライブのことから、灯りは少し用意しておいた。「いいでしょう」ってな具合にトントントンと進んだ。そのままギターを出して声だし。うーん、いい。2年ぶりの下田逸郎の歌。静謐な、あたたかな、下田逸郎の唄の世界が客殿にこぼれ始めた。準備が終わってお茶を召し上がっていただいたら、焚き火だ。前回もそうだったけれど、焚き火をするのを楽しみにしていたので、今回も、焚き火を旅の途中の寺で過ごす時間の大事に決めていたみたい。春の火災予防運動が始まった日だったが、遅くならない時間に、「焚き火しましょう」と誘う。2時間弱ぐらいしただろうか、風も強くなくてよかった。年末に、ケヤキの枝おろしや枯れた桜を切っていたので、今年は十分にある。焚き火は会話が要らない。火を眺めていれば互いに理解できるというもの。カメラマンも、無言でシャッターを切る。夕暮れて、東京からも女性が一人。「夕べはどうも」って、下北沢のラ・カーニャから連荘のライブ参加。ありがたい、ありがとう。僕の友人、女房の大切な友人の皆さん、27名ほど来てくれる。午後7時半から。「星座標」を僕が先ず朗読して、ほら貝を吹いて下田さんのギターのイントロが始まってスタート。歌が続き、合間に下田さんのお話。それから小林さんの詞の朗読2編。いい夜でした。とてもあたたかな3月の始まりの夜になりました。終わって、皆さんに残っていただいて宴会。女房は、めちゃくちゃに喜んでピザを焼く。「来年もぜひ来てください」と、下田さんにおねだりする女たち。
「唄なんてさぁ、山に住んでいたら要らないでしょ、僕が山に住んでいたら唄は作らない、こうやって焚き火していることが唄になっているでしょ」みたいなことを下田さんは、外で話してくれて、僕はそりゃそうだと思った。下田逸郎は、2年ぶりに訪ねてくれて、前回よりももっと嬉しく僕の心をドキドキ、ワクワク、ホッカリとさせてくれた。「東京から遠くないしさぁ、また来るよ」って言ってくれたので、僕も女房もまたその時を待ちたいと思う。年上の尊敬できる人は、ずっとそのままでいられるよね。ありがたいなぁ。今朝も出発までの時間1時間ちょっとを焚き火して、角屋のおばさんとも話しをしてくれていた。夕べ、おばさんの味噌でキュウリを食ったことなんかを話してくれただろうか。河津桜の清楚な花びらのように、下田逸郎は恋する心、持ち続けることを今回も僕に、トントンと軽く打ってくれていった。ありがとう。

2009年3月1日Sunday くもり
下田逸郎ライブ当日です。
3月に入った。期待した天気は今日もはっきりいって悪い。なんてこったい!杉の丸太の椅子の残り3個の皮を剥いて仕上げてしまう。身体は温まった。カメラマンが朝から動き回っている。彼を見ていると和む。本堂での撮影をまた再開した。
僕はとりあえずこれを書いて、少し片付けものもしなくちゃならない。3月のひと月は慌ただしく過ぎてしまうんだろうな。課長にとっても、退職までの一ヶ月か、どんな心持ちなんだろう。今夜、どれだけの人が来てくれるか。歌も楽しみ、来てくれる人たちの顔を見るのもまた楽しみ。

2009年2月28日Saturday くもり
2月晦日、護摩を焚く。
お不動さんの日。上求寺がなくなったので、今日護摩を焚いた。向こうは向こうで、妹弟子が一人で祭りごとをしていることと思う。天候は回復の兆しなく、朝からどんより、雨も時々。下田さんを迎える準備も。護摩を焚いている間に本人から電話があって、友人をひとり伴ってくるようである。それから、カメラマンも訪ねてくれて、「明日手伝うことがあれば何でもします」と。彼はとても楽しみにしてくれている。明日一緒に甲斐岩間へ迎えに行く。電車から降りたところから写真を撮りたいらしい。護摩壇の片付けと掃除を終えて少しのんびりしていたところへ高野君訪ねてきてくれて、焼酎を1本差し入れてくれる。彼は明日、小椋佳のコンサートの手伝いがあるという。早咲きの桜がもう開き始めた。2年前に下田さんが来てくれたとき、3月の彼岸がその桜が満開だったので、今年はやはり早すぎるくらいに早そうだ。喜田の姉さんからも、「当日は早めに行ってもいいか」と電話があったので、どうぞどうぞと。それなりに雰囲気が盛り上がってきて、なんとか楽しい夜になりそうな予感。

2009年2月27日Friday
伝統校に衝撃とは。
県立高校の後期入試の志願状況が確定したことを新聞で知った。我が母校身延高校は、普通科、理数科ともに定員を下回る志願状況となった。サンニチには、「伝統校・人気校に衝撃」なんて出ていたのだが、この定員の設定自体にもう無理が出ているのではないか。私学もあるので、県立高校の定員の設定や、それ以前に、学級数の減などが実際には必要になってきているのではないか。僕のときには、普通科5、商業科4の9クラスあったが、今はもう遠く及ばないほどの定員でありながら、まだそれでも割れてしまうのだから、受験者数が毎年相当数減少しているのだろうと考えるしかないだろう。伝統校なんて、そんな皇室のような鈍い輝きの中で甘んじていると、来年はもっと減ってしまうぞ。21世紀枠で甲子園にも行くことができなかった。評判は今でも評判を呼ぶので、少なかろうが、ダメのレッテルを貼られてしまったら、この後に残れなくなるかもしれないぞ、身延高校。

2009年2月26日Thursday くもり
ふるさとを思う。
今朝も雨は落ちてはいないがどんよりとした空だ。寒くはないがたぶん今日も雨になりそう。お勤めを済ませて、大津のSさんからの便りで頼まれた塔婆を書く。滋賀県から山梨は遠い。遠いけれども、ご主人や先祖の眠るこの寺と、「主人のふるさと」を大切に考えてくれている。無人のほとんど朽ちかけて、もう倒壊してしまうのも、そんなに先ではないような家という建物を、主人の命の始まりがこの場所にあるというシンボルとして残しておきたいというのだから。おそらくは、この場所へその「主人」からの血を受け継いだ者らが帰ってくることはないだろう。いつまでか分からないが、奥さんの思いだけは大切に受け止めて務めなければ成らないと思う。
今朝は、やっぱり自分がかわいいのか、「検査」が何もなく結果もうまくいきますようになんて、1対1のお不動様への特権でお願いをしていた。勝手なもんだな。

2009年2月25日Wednesday くもり
要精検。
職員健診の大腸がん検査の2日目採取の検便に潜血が認められたということで、要精検ということになったので、飯富病院へ行き検査の予約をしてきた。腸の中を空にするということなので、前日は病院から貰ってきたレトルトの食事をとって、当日はまた2リットルの水を飲むのだという。なにやら想像もつかないことではあるが、受けてみるしか仕方がないであろう。
ここ数日の天候のように、気分は沈み傾向といったところか。早く寝ちまおう、今夜は。

2009年2月24日Tuesday
「おくりびと」が注目を浴びているが。
映画の内容なんかぜんぜん知らないのだが、「おくりびと」なる職業がクローズアップされた。葬儀が近年、葬祭センター主導になってきたことによるものだろう。僕の地元では、タクシー業者が葬祭業をしていた。だから、華美な演出はほとんどなかったが、最近は、この納棺に要する時間や、納棺に費やす業者の入れ込みというものが熱くなっているように感じている。通常、僕のところでは、通夜の前に死者の納棺を済ませる。だいたいが午後3時頃からで、僕が当夜に出向いて、死者を真言宗の檀徒として縁を結び導くということをする。読経と引導作法を修し、その後、葬祭屋さんにバトンタッチする。業者によっては、30分以上もかけて、棺の中の死者の旅立ちの姿を形作る。業者によってその支度にそれぞれプライドを持って臨むようで、おそらくこの納棺が一番の見せ所なのである。
しかし、僕はこの時間が一番退屈で、特別な興味がない。「おくりびと」は、この納棺の行為に、納棺師という職業人の技と尊厳をもって死のことを演出するということだろうが、ここまでする必要があるのかというのは、田舎坊主目線で常々思っていることなのではある。僧侶が葬儀の片隅に追いやられて、納棺師や言葉巧みな司会者のほうが映えてくるような。僧侶が僧侶の仕事をしないのではなくて、僧侶のすることの境界線の中に、葬祭業者が入ってきたように僕は感じている。(坊主が何もしないから我々が肩代わりを始めたのだという意見もあるのかもしれないが)。葬儀は見せてなんぼのものではなくて、悲しみを分かち合いながら、死を特別なものとして捕らえず、自然界の或る出来事として学び、厳かに死を弔うものだと思う。死を身近なものとしてそれに学び、死によって自らを振り返り、そういうことを僕は、僧侶として僕がかかわる葬儀にはしていきたいと思う。恥ずかしい僧侶としてはありたくないと自戒します。

2009年2月23日Monday くもり
大切なことはなんだ。
あなたの所だけというのは、なかなかに感情を損ねてしまう恐れがある。学校の再編の問題についても、「なぜ俺のところなのか」という意見が出る。「あそこも一緒にやったらどうだ」という訳だ。向かい合う両側で、互いに仕方のないことだと腹の中ではわかってはいても、素直に言葉として出てこないのは至極当然のことなのだろうし、なんともやりきれない気分にはなってくる。第1ラウンドのゴングが鳴って、とりあえず1ラウンド終了。10対10のイーブンです。でも勝ちも負けもない、本当は。双方に痛みがあって、それを時間をかけて肉が盛って皮膚が再生なるようにしていくってことか。
どうも、こういうところからは逃げたくなってくる。海を埋め立ててまでも、人口が増え続ける都市があり、諸手をあげて迎えようって体制なのに、減り続ける町。大切なことはなんだ。大切なことはなんだ。大切なことはなんだ。

2009年2月22日Sunday 晴れ
ジャニス・ジョプリン。
夕べwowowで「戦力外通告」というドラマを見た。中村雅俊と吹雪ジュンの夫婦だったが、バックに流れるジャニス・ジョプリンの「MOVE OVER」がよくて、今日は支所日直なのであるが、朝からずーっとジャニスを聴いている。
28日の上求寺のお祭りがなくなったので、月末の28日は護摩を焚くことにした。叔父の健康と回復を祈る。途中の仕事がたくさん残っているようで、自分の健康を顧みることすらないのではないか。たまには八日市場からも牧丘に風を送ってやる。梅の香でも乗せて。
日曜なので、土曜と違って郵便配達もなく、何もなければ全くの用なしの日直である。ローソンで買った弁当を食べて、これを書き始めて、午前中から寺の仕事は順調に捗っている。御幣やシメを切ったり、下田逸郎Liveのことをしたり。寝転んでテレビ見ている時間は無い。この日直という奴、ホントに仕事に集中できる。外へ出るわけに行かないし、ここに缶詰だから、持ってきた仕事をこなすしかない。外は暖かな光に満ちている。支所も暖房入りで、僕ひとりで快適快適。ジャニスは生きていたら66歳。老いてゆくジャニスは見たくないか。老いていくジャニスも聴いてみたいか。30歳にもならずに死んでしまって、彼女は伝説のシンガーになったが、でも、老いてゆくジャニスも僕は聴いてみたいと思う。その最後まで、生きることは焦ることではないだろう。ジャニスは、年輪を重ねたら、もっと僕らの道を照らす人になったのではないか。残念だ。ブルースに葬られてしまって。

2009年2月21日Saturday 晴れ
平山さんだって、子供の頃毎日ここで遊んでいたって言ってたぜ。
法事1件。東京から11名。今日は少し風があったけれど、あたたかな日になってよかった。墓前に供える花の中にも、桜か梅の枝が含まれているようだった。午後になって、外のことを少ししながら、老紅梅を見上げると、天辺のほうに花の開いたのを確認できた。明日からまた天気は下り坂のようだが、雨が降ればそれだけ春を引いてくるだろう。午後はずっと、小学校の低学年と思しき男の子が4人境内で遊んでいた。バケツを持ってきて、ザリガニを釣り始めたが、この時期は釣れないとみえて、境内で鬼ごっこを始めたり、外で、西光寺の祭典に使う幣串用の野竹を用意する僕の目を盗み見しながら、鐘楼の鐘を突いてみたりと、久しぶりに僕はいたずらっ子の光景を眺めた。こう在りたいもんだ。寺は人が訪うてくれてなんぼ。声がして寺は生きる、ように思う。
法事で来た平山さんも、甥たちに、「毎日お寺の庭で遊んでたんだ」と話してたっけ。さすがに今は、本堂の屋根にまで上がっていくような子はいないけどね。

2009年2月20日Friday
北朝鮮のことからこぼれてきたぼくのむかしのことなど。
北朝鮮は外貨獲得の策を、麻薬から偽札に転換したという。これって、どっちもダメじゃん。人の道から外れているじゃんてことを、新聞は言いわねぇのかよ!って感じたことの方が憤り。偽タバコってのもあるらしいな。真面目に働けよって、これが独裁国家の国策なんだから、金正日の元に、臣民たちは“疑うことなく..???真面目に働いてる”って構図だからなんとも手に負えない。だけど一体、彼の国で、どれだけの国民がこれを本当に象徴として崇めているか?「マンセー!」と諸手を挙げて喜び、忠誠を誓う集団のポーズを、まともに見る目を僕は持たない。俄か狂言だぜ。
大麻所持であげられるニュース頻度が去年あたりから、異状に盛り上がっている。元はっぴいえんどのギタリスト鈴木茂も捕まった。高校生から成人まで、幅広い層に大麻が広まっているようだ。それだけ大麻自体が、いわゆる「麻薬」と違うということが認識されてきているのかもしれない。僕は特に関心はないが、過去に吸ったことはある。タバコより健康害は無いという人達もいるくらいだからね。大麻を「麻薬」全般の中に括りつけていることに、いささか問題があるというようにも思えるのだが、これ以上はなんとも。こんなにテンションを上げなければいけないようなことだろうか。
忘れられない光景がある。長野の美麻村に暮らす時期があって、一面の雪野原で、道路と田畑の境目すらわからないことがあり、そんな或る夜、軽自動車を運転することがあり、その晩も雪が間断なく降り続いていて、ワイパー動かしながら、ライトに照らされて移る真っ白な外の景色と、フロントガラスに吸い込まれるように連続する雪を見ながら、頭の中がふっと空っぽになったように感じて、クラクラーッときてしまい、慎重にブレーキを踏んで、しばらく車を停めて、酔い心地を味わいつつ落ち着かせて、これが「ナチュラル・ハイ」なのだろうかと、また雪道を走らせたことがあった。
大麻が本当に身体に悪いなら吸わないほうがいいだろうが、偽札は絶対にいけません。木の葉のお札が出回ったら、誰も真面目に働かなくなります。

2009年2月19日Thursday 晴れ
自治体が少なくなって、市町村の紹介番組に出る頻度は増えてきたように思えるけど。
「ウッティな木曜日」で早川町を紹介していた。今夜はそこを楽しみにしていたんだが、なんだかクラッカーがボソッとしているような味気ない。わが家の食卓には、女房と娘が採ってきた大きなフキノトウのてんぷらがあった。早川町の上流文化圏という組織の研究員が、番組の案内役を山に連れて行って、動物との共存のことを話していたけど、テレビ用のコメントもあるだろうし、地元でひょっとしたら、皆がもう「なんとかならねぇか」というような獣害もあるのかもしれないし、これはテレビだからなという観方はしたが、僕の住む場所でも、猿やイノシシはもう何年も前からのことだが、最近は鹿も現れていることを聞く。僕だけがまだこの目でそれを認めていないというだけのことのようだ。でも、こんなままで共存なんて図れるのだろうか。動物たちの棲家に分け入って耕作を始めた土地を再び放棄したことにより、荒れた耕地は藪になり、動物たちの好む杜には戻ってはいない。動物たちがその生活圏を徐々に平地に求めて、とうとう人間と同じところにその生きる時間を共有してしまうようになった。これはすべて人間の行いの成れの果てなのだが、どうも、テレビ用に「共存を図りたい」という表情だけが石油ストーブの燃焼の悪い臭いと同様に僕の鼻をつく感じになった。早川町でも身延町でも、もう何も目新しいことはないように思えてきた。実際身延なんかには特別に外に見せて、みんなが「へぇ!っ」なんて飛びつくようなものは何もない、と思う。
立ち止まって、後退していくことだけを、中川昭一のドロン目のようにやり過ごすことはできないだろうが、僕はこのテレビって奴の映し出すことを、あまり真剣に眺めることはできないような気分ではいる。ローカル局は、県内の自治体の協力が命綱だ。これはもう片方の共存といえる。早川町長の顔も、心底見飽きた。彼のコメントにも何も新鮮さなんて見つけ出せない。
身延なんてもういつでも、身延山、下部温泉ぐらいしかなくて、紹介するに事欠くようなもんである。山梨の自治体の多くが合併して、自治体そのものの数が減少しているのだから仕方がないが、もう目新しさなんて感じなくなったなぁ。そんなことばかりを見ながら感じていて、特別な感想もなかったな。奈良田温泉や、秋の渓谷や、大滝のお不動様は、僕も女房も大好きだ。早川町は、テレビで見なくても、僕には大事な隣の町であることは付け加えておきたい。

2009年2月18日Wednesday 晴れ
何が恐いって。
僕は地震が恐いと常々思っている。深夜にドンッと一発鳴ったよね。それで今朝、ご飯の最中に揺れた。女房とも、「地震は恐いねぇ」と話した。これがこの辺りに起こりうる地震の予兆であるかもしれないし、一過性の小さな揺れだったのかもしれない。(研究者はさまざまな憶測をしているんだろうけど)。
夕べ、甲府で小学生の兄妹が殺害されるという悲しい事件が起きた。まだ新聞でも細かなことは書かれてはいないが、その後、兄妹の母親が電車にはねられて死亡したという。昨日、兄は小学校の卒業式を控えての、最後の授業参観で、母親もそこには出席していたという。何が原因で、二人は誰によって殺されたのかはまだ確定しないところだが、この世を離れてしまったということだけは事実である。身につまされる悲しく、淋しい事件である。明日また元気で会おうねといって学校の友達と別れた二人であろう。二人に、なんの因となるものがあったか。僧籍に身を置くものとしても、「しっかりと旅立ちなさい」とは、とても言い渡せない重い気分がしている。

2009年2月17日Tuesday 晴れ
人の病も、島の病も、目に見えぬ病もすべて払いたい。
GDP(国内総生産)が△12.7%の減になったというニュースやら聞いている時間に、地震があった。布団の中でテレビを見ていたが、こんなに経済もどん底状態のときに、地震なんかで大きな被害を被ったら、容易に再生なんかできないだろうと思った。すでに、国内需要での景気回復は見込めなくて、外国に輸出する市場の回復を望むしかないらしいのだが、このてのことに疎い僕にはよくわからない。ただ厳しい状況にあることだけは実感できる。わが子たちの遠くない就職のことなども心配にはなってくる。
今朝は久しぶりに冷え込んでいた。半月がまだ空にある。今日手術を受ける信者さんの手術の安全と早期の健康回復をお願いして祈った。それから、地震の収まること。今朝も早くにまた千葉県で地震が観測されている。
昨日は中川財務大臣の記者会見、何度も何度も見せられたな。あれは、失態というよりも失墜だな。傷を舐めあうような麻生総理の発言にも覇気がない。安全に着陸できなければ墜落事故になってしまう。
できることなら、世の中のことなど気にせずに生きていけたらと思う。気持ちが貧しく沈むことなく、頭の中や心の中では、いつも歌を歌い、詩作(思索)することに神経を研ぎ澄まし、土の声や花の声や鳥の唄に耳を澄ませたい。

2009年2月16日Monday 晴れ
のんびりと緩やかに生きる。
今日の常葉は、ぽかぽか陽気になって、歩いていても「超キモチE!」って、叫びたくなるようであった。風も適当に心地よくて。花粉やら黄砂やら、めちゃめちゃ飛んでいるらしいが、昨日ほどのダメージはなくて、もうあと2.3日もあれば、花粉症を克服できそうな予感。歩いて歩いて支所に戻ってくると、昨年の7月の終わりにカナダへ帰国したキムが待っていて、「久しぶりー」と握手。彼の話によると、オーストラリアのサチも日本にいて、信州のスキー場でアルバイトをしているらしい。のんびりと生きることを楽しんでいるみたいで羨ましくなる。キムは、アメリカでPHISHの再結成のライブやTHE DEADのライブにも行くらしい。これまた、超!羨ましいじゃん。
せこい生き方を俺もしているわけじゃないが、なんとも緩やかでゆとりがあって、ちょっとだけ、ほんとにいいなーって思っちまった。彼に、今年の夏1年目のJET2人が帰国するんだということを伝えると、「大変ですね。あまりにも彼女たちは若すぎます」とは、なるほどそういう見方もあるわな、言い得て妙であった。 

2009年2月15日Sunday 晴れ
花がむずむず。
椅子を6個仕上げて、残りはまた後日。風が強くて、外に居るだけで目がかゆくて、鼻水は出てくるわ、くしゃみは止まらないわで、参った参った。体中の埃を払おうと、早めに頭を刈ってシャワーを浴びて、風呂の窓を前回に開けたら、風が吹き込んできて、裸のままもうくしゃみだ。どうにもならん。いまこれを書きながら聴いているのは、旧い旧いブルース。チキン・シャック。Chicken Shack。なにやらこの響きだけでくしゃみとしゃっくりのようだ。僕はわりと昔から、白人のブルースが好きだ。黒人のブルース(ブルースマン)への憧れを、恥ずかしそうに音に出している白人の少年のようなところがたまらなくいいんです。女房の兄さんが、久田子からイノシシの肉をもらってきてくれて、今夜はシシ肉が食える。夕べは女房から、小さい頃の話なんかを娘と興味深く聞いた。また新しく家族の年輪を刻むことができたように感じた。

2009年2月14日Saturday 晴れ
木の椅子作り。
杉の皮を剥いた。丸太に伐ってくれてあったのを、今日は朝から川剥き作業。暑い日で、ほとんど一日Tシャツ1枚で過ごした。それでも汗をかくくらいに暑かった。花も一気に開くってな感じだ。お昼のニュース時に見たら、切石で23度。やりはじめたら、もうこれがなかなか止められない。しまいには女房も藍も来てそれぞれのやりようで、とにかく薄くなるように皮を剥く。僕が最後の仕上げをするんであるが、今日は3個仕上げて、明日また。全部で9つあるので、ゆっくりと仕上げればいい。気候がよくなって、外に出ることが楽しみになってきた。

2009年2月13日Friday くもり
笑っちゃう。
麻生発言を、「笑っちゃう」と表現した小泉さん。定額給付金についても、やわらかく否定的な発言をしたこの方にkoizumi childrenが同調しちゃうと、補正予算も成らずに、党内の規律も何もが狂ってしまうかもしれないよな。面白くなってきてこちらも笑っちゃう。それにしてもひとつだけ、小泉さんのお顔。ずいぶんと以前より老けて見えたのは僕だけだったろうか。
笑っちゃう発言を聞いて思い出したこと。RCサクセションの「COVERS」。最後の曲「イマジン」のフレーズ。「
ぼくらは薄着で笑っちゃう〜、あ〜あ、笑っちゃう〜♪」だ。こんな茶番のようなことが繰り返されているときに、清志郎は、身の上の大きな病と闘っている。国のことを考える役にある人たちが、くだらないやり取りばかりを繰り返し、口ばかりでなく腹の底までひん曲がってしまっている。清志郎の歌や生き方や今の清志郎が生きる姿に力を貰うのだ。地球Aはやはりナナオ、救いようがないのかもしれないな。今日の朝5時半の月は、「嘆かわしい」を表すような滲んだ月で、やがて雨になるのだろう。

2009年2月12日Thursday 晴れ
おかず要らずのフキ味噌。
今日は朝から鼻づまりがして、鼻をよくかんだ。くしゃみも何度も出た。花粉もぼちぼち飛び始める頃なのだろうか。九州から山陰地方にかけて、黄砂が初観測されたらしい。天気は今日も良かったが、飛行機雲が長く空に残っているときは、天候が下り坂の予兆と聞くが、なるほど明日あたりから崩れるようで、確かに青空にはっきりと長く飛行機雲が残った。それでも野や畑は、あたたかな日続きで、黄色い花が咲いたり。歩く僕に頬ずりするように楽しませてくれる。
弁当の白い飯の上に、一箸のフキ味噌で、夕べ女房が作ったのは、作りたても美味かったが、一晩置いてまた弁当のおかずにはちょうどいい。おかず要らずのフキ味噌である。フキ味噌弁当とか売り出したら売れるかもしれないな。カップの吉田のうどんよりゃいいだろう。フキのことを考えていたら、ぜひ今年は、山椒の木の芽の佃煮を自家製で作ってみたいなと。これもまた、飯も酒も進みます。

2009年2月11日Wednesday 晴れ
十日市へ。
3人で清里方面に行き昼食。週の真ん中の休日だったので車もすいていた。向こうも今年は雪も少なく、例年の寒さではないようだ。ハンバーグランチをある店で。午前10時の気温が5度以下だと30%OFFとのことで、今日は割引があることが示されていた。15日までとのことだそうな。
帰りはゆっくりと一般道を下り、途中「十日市」に寄ってきた。女房も娘も初めてだし、僕自身ももうほとんど来たのがいつだったか忘れてしまっていた。幼いときに、祖父に連れられてきたことはなんとなく覚えている。十日市のお祭りの寺が安養寺という真言宗の寺で、そこへ祖父はお祭りの手伝いに来ていたのだ。祖父は県内の真言宗寺院のほとんどの祭典に出かけていた。この後、甲府:湯村の塩澤寺の厄除け地蔵尊の祭典があるが、祭りから祭りを、春は渡り歩いていたのだ。もちろんその中には、自坊の祭典もあったのだが。
十日市は巨大化したテキヤのお祭りとでもいうように、道の両側びっしり。僕は松月桜という桜の苗木を1本買い、それから晩飯用にと広島風お好み焼き(500円)をふたつ買った。帰ってから植樹して、来週の平山家の法事のための塔婆を書いて、今日はこれにてお役御免_(._.)_。

2009年2月10日Tuesday 晴れ
読み人募集中。
下田逸郎さんから、3月1日のライブには、唄の詞を読んでもらえないかとの連絡が入り、「やってみましょう」ということで返事をしたのだが、読み人きたらず状況で、今のところ快く引き受けてくれた人が1名のみである。友人の何人かにも声をかけたが、緩急の違いはあれど、みな断られた。町に朗読のサークルがあるというので、知り合いに声をかけていただいたが、3月1日には、ちょうどわが町の文化会館で小椋佳の「歌談の会」という催しがあり、朗読サークルの方たちはほとんどそちらへ行くようである。それよりか「下田逸郎って、シンガーソングライターなんですか?よく知らないんですよ」と言われたことの方が少々ショックであった。ま、知らなくてもこれは仕方のないことなんだけどね。別のある方に尋ねたら、「私はメロディーが浮かんでしまうので無理です」と言われた。これは僕もよくわかる。下田さんからはとりあえず、5編の歌詞を指定されてあり、この中から3.4編読んでほしいとのことである。
僕は、ライブハウスの主人でもないので、ライブのことを周知することが苦手である。元々、僕と女房が聞きたくて、それに少しの友人たちに声をかけているようなものなので、人の少ないのは無理もないが、営業活動はどうにも苦手だ。
「うちの寺に墓地をとりませんか」、「うちの寺で葬式やりませんか」、「格安で葬儀一式引き受けます」なんてことが、多分僕には一番の苦手だ。(これが上手ければ、いくらか寺は上向きになっているかもしれないのだろうが)。
このまま読み人が現れそうもないので、いささかこれを負担に感じ始めているのが今の正直な気持ちではある。今日午後4時過ぎにケータイが鳴って、出ると地元サンニチのイベント情報欄担当の方からだった。掲載してもらえるようチラシを送ったのだ。若い女性のようで、会話が噛み合わない。しばらくして、「あっ、プロの方なんですか?」の言葉の後は、ガツンとショック倍増で、このあとを交わす気力も萎えてきた。であるので、掲載されたとて反響があるかどうかはまた別物である。昼間歩きながら、ロッド・スチュアート聞いていて、最後、下部小から支所への急坂を下るとき、歌が「セイリング」に変わって、キューンと切ない気持ちになったが、どうにも切羽詰ったら、「お手上げです」とこちらの状況を伝えようと考えることとした。一人でも二人でも、読んでくれるという方に、お願いするということで。ちなみに僕も読むつもりではいます。「読み人、募集中です」。

2009年2月9日Monday 晴れ
葬儀のことなんかを、だらだらと。
午前中休みを取った。11時から女房のおじさんに当たる方の葬儀があった。今朝は氷が張った。9時半に葬儀会場に行き、ほとんど面識のない方たちの中に、改良服姿の坊主は、ほとんど浮いた状態で存在した、かな?女房の姉さんのご主人と話をしていたので、それほど退屈せずに時間は潰せた。職業人を卒業すると、ほぼ自然に宗教のこととかに関心が向くようである。この方も、日蓮宗の旦那寺の檀家の役員なども受け、身延山の研修会にも出席しているらしい。僕のところからも、般若心経の本を借りていき、毎朝写経もしているらしい。旦那寺に対しても、割りと辛辣な言葉もあるってことは、寺の住職や檀家の長老たちの言葉に流されてしまわないで、何を必要かをしっかりと吟味しなければならんと思っていることの現われなのだと感じた。
夕べ通夜から戻った女房が、「通夜のお経が15分で終わってしまった」とは、いささか短く情けないのではなかったか。せめて弔問客のある間、また決められた時間は満たすようにしなければ。いつだったか寒い季節に檀家の通夜をしたことがあった。陽の短い時期で、午後6時からの通夜の前に、弔問客は相当数訪れていたらしい。僕は、寺から歩いてのわずかの距離であったし、「6時」であることを組長にも確認していたので、5分位前に当夜に伺うと、「遅いじゃねぇか、こういう時期だから早く来て座ってくれんと困るだ」というようなことを、手伝いの組の男性に言われたことがあった。カチッときたが、「時間通りに来ました」といって通夜を始めた。それじゃはじめに、10分前に始めてくれと決めてくれりゃいいんで、時間通りってのは、まさに何の落ち度もこちらにはない。これが、じゃ、 「午後5時半からの通夜」ってことに決めると、4時半頃にはパラパラと弔問にみえる人があるってもんだ。そういう習性のある生き物なんだ。

2009年2月8日Sunday 晴れ
襟裳の春はほんとに何もないのだろうか。
午後、Mさん親子3人来山。先ずは本堂を案内。過分なお心遣いもしていただき感謝。お不動様を開帳し、護摩のことなども説明。境内の無窓国師作と伝わる庭を案内。諭しの柿の跡地も。庫裏に案内してお茶を。長持から信玄の感状と短刀なども見ていただく。えらく感激してくれたので、こちらも嬉しかった。今日テレビで、「なんでも鑑定団 in 身延」の放映があったので、わが家の、否、わが寺のお宝だなんて気持ちにもなったが、寺宝を鑑定してもらおうとは思わない。大切に僕はまた次の住職に伝えていくだけだ。
あたたかい一日で、ほんとに春が来たようだ。梅も進む。子らの声も遠くから聞こえてきて、これもまた春の声のようである。何もない春なんてないに決まっているよな。春が帰ってくれば確かにここに春がある。

2009年2月7日Saturday 晴れ
なめこの植菌。
午後喜田のお姉さんが来てくれて、なめこ菌を植えた。1000駒。手際よくドリルで穴を開けていく後を僕と女房が木槌で、菌を打ち込む。暮れに伐採した山桜を使ったので、移動することのできない大木にも菌を打った。数打ちゃ当るみたいな感覚か。2年くらいかかるようだが、それまで元気でいたいよね。猿がなめこだけは興味を示さないっていうんだから、寺の杜に並べておけるってありがたい。
午前中は、ネットで買った桜の苗を4本植えた。緋寒桜、四季桜、おかめ桜、大阪冬桜。育つのはなめこが出るよりずっと時間はかかるだろうけど、でも見続けてしっかりと守っていたいと思う。よい一日でありました。

2009年2月6日Friday 晴れ
家、そのあたたかな場所。
あたたかい日が続く。なんだかHOTする。
女房にとってのおじさん、おばさんにあたる方で、最後の一人だった早川の久田子(くたし)のおじさんが亡くなった。久田子からは、年に数回野菜や手作りコンニャクなどが届けられる。僕たちからは、境内の落葉を堆肥用に袋詰めにして持っていってもらっている。8ヵ月半の入院であった。連絡を貰って駆けつけた女房は、おじさんの一人息子とその子どもと、3人で臨終を見取った。静かな穏やかな最後だったということだ。前日の夜に息子さんは、「父の死を夢に見た」そうだ。夜遅くに、飯富病院から久田子
の家に戻るとき、集落の全員が村の入り口でおじさんを迎えるのだということだった。「道切り」という仕来りのことだと思う。僕も10数年前、頼まれて道切りに早川の白石という集落へ夜行ったことがある。道切りは、病気や災いが入ってこないように、村の入り口で祈祷や呪いをするのが本来の意味だろうが、でもいいではないか、片寄せあって暮らす仲間たちが、皆が家族のことのように悲しみを共有して、闘病をねぎらい、「おかえり」と迎えてくれるのだろう。
昼、大炊平を歩いていると、年末に火事になった家を取り壊す作業が行われていた。幸いにも人的被害はなかったので良かったが、老夫婦は今どちらにお暮らしなのだろう。余計なことかもしれないが、片付いた跡地に、小さくても最後まで二人が暮らす家の建つことを願いながら事務所に戻ってきた。

2009年2月5日Thursday 晴れ
六根清浄。研ぎ澄ませ。
生活保護受給者は全国に159万人居り、1年で5万人増えたという。毎月受給者が増えているという。わが町は学校が14校あって、どこも小さな小さな学校だが、生活保護に準ずる準要保護児童生徒の就学援助制度を申請する保護者も増えている。離婚をするということも最近では珍しくなく、一人親の家庭も増えているが、職を失って本当に暮らしに窮する家庭も増えているのだろう。給食費の滞納世帯も年々増えている。ただ、この滞納というのは始末が悪い。部屋の整理整頓がなかなかできないように、積み上げてしまうとそれに慣れっこになってしまい、よほどの「やるぞ!」という気合でも入れないと片付けられないように、一度滞納してしまうと、「払わなくちゃ」と思ってはいても、そのことがいけないことだとは十分に承知しているにもかかわらず、積み上げてしまうと、一ヶ月の家計を脅かすような金額になってしまい、結局それから目を逸らして、できるだけ滞納のことは考えないで暮らそうなんてことになりかねないのだ。言葉巧みに、のらりくらりと、自責の念にかられつつも、担当の自宅訪問もやり過ごしてしまうことになる。教科書が無償なので、給食だって無償に決まってらぁなんて、本心から言い放つ奴なんて絶対にいないだろうと考えたい。
個の涙なんか理解しない時代になっているのだ。でも僕は、個の涙こそ理解してあげるべき時代ではないかと思っている。金銭の有る無しが家庭の貧困につながるのではなくて、それによって心が冷えてくることが心配になる。「乗り越えていこうぜ」という言葉を掛け合いながら、六根清浄で行こうではないか。

2009年2月4日Wednesday 晴れ
夕べ十分に飲みましたからと今夜は飲まずに。
あたたかな立春だった。常葉川の流れに映る陽の光が、キラキラと春近いことを実感させる。午後定例の教育委員会。終わって夜は、延び延びになっていた教育委員交代の歓送迎会。下部の「梅ぞ乃」。今夜僕は飲まずに運転手。どうも飲みたくないと思った。教育委員の方々と一線を画しておいたほうが良いと最近思っているのだ。飲まないと食べることしか残らないので、出された料理は、自分で言うのもなんだが、見事に完食。法事でご馳走になるときなんかも、飲むと鍋物なんかは手も付けずに終わってしまうのだが、今夜は酒なしなので旨かった。委員の皆さんも今夜はたくさん飲んだ。やはり皆さん日本酒の熱燗がお気に入り。僕も飲むならやっぱり日本酒の熱いのがいいな。キリンビールが一番だとか、発泡酒はどうも好きではないなどの話しも。僕は最近ビールよりももっぱら発泡酒。去年の夏のビールがまだ残っていて、実は今帰ってきて1本飲んだところだ。節を分けて、今日からが新しい始まり。今夜は今夜で、楽しかった皆さんはいい夢の中に沈んでください。父の教師時代の話なんかも出て、僕は僕なりに愉快な夜でありました。

2009年2月3日Tuesday 晴れ
まったりとは。
よく、「まったり」という言葉を耳にするようになったが、僕はどうもこの言葉が馴染まない。何故だかわからないけど、まったりねぇ。癒し系の言葉だったり、のんびりとするようなことで使ったりするようだが、どうもしっくりと沁みこんではこない。これは相性ってものもあるし、多分僕の性格には合わないんだ、まったりは。
宝隆寺の葬儀に行き、そのまま休みなんで、少し遅い午後はのんびり。帰ってきてから、衣・袈裟をしまい、排便をして、風呂を洗い、桜の苗木の代金をローソンへ支払いに行き、柊の枝を取り、サカキナナオの「亀の島」を本棚から手にして、amanakuniへメールをし、ナナオのココペリを聴きながらパソコン。6時になったら本堂で、小さな寺の小さな家族だけの豆撒きだ。まったりとした暮らしといえるかどうか?

2009年2月2日Monday 晴れ
JETプログラムの外国語指導助手とは。
今、再契約を希望するかどうか本人とのやり取りをしている。4年目のMは更新をしないという。これはまあわかる。4回の更新ができるから、5年は居られるのだが。だーが!去年の8月に来日したSとJの女性は、契約の更新をNOと言ってきた。なんちゅうこったい。Sにいたっては、はじめから一年という考えであったとの事。そんなら、「はじめから来るな!」と言いたい。まあ、こんな勝手なことが大手を振ってまかり通る。ヒロヒトが負けを認めて、戦後10年後に生まれた僕が、表面に膜の張った脱脂粉乳を飲まされたようなことが、この2009になってもまだ続いているかのようだ。今、キーンと浮かんだのは、「脱脂糞尿」。脱脂粉乳は、たくさんの放射能をたっぷりと吸い込んでいて、これを飲んだ僕と同世代に、子供のできない輩が異常に多いのだそうだ。小さなニッポン人を見下ろしながら、「ハロー」なんて上がりこんできて、「オーちょっと待ってくれよ、ここは!」なんて、こっちがしどろもどろしている間に、「あー、腹いっぱいになったし、こんな田舎じゃ面白くねぇ!」って帰ってしまうんだ。お前ら、こっちがどれだけ迎えるために、いろんな場所を訪ねて、頭を下げて、掃除をして、英語が話せないばかりに卑下しながら、どもりながら向き合う30歳も年上の冴えない男のことを考えたことあるか。勝手にしやがれじゃない、いい加減にしやがれだ。お前らもう上陸させねぇからなって気持ち、僕は。ホンット、この得体の知れない、つかみどころのない、何の役にも立っていない、ポニョッとしたJETの事業、廃してくれないかね。

2009年2月1日Sunday 晴れ
如月の月。
午後月参りの甲府のSさんご夫妻来寺。僕はちょうど温かいうちにと風呂で頭を刈っているところだった。2月に入り、日曜からのはじまりのカレンダーは、きっちり4週で28日(土)で収まっている。2月は短いのかな。少し早い夕のお勤めを済ませた。本堂で法螺貝。今日はよく鳴った。
池の端の梅が開きはじめた。朝、佐田さんの家に、節分のお札を届けに歩くとき、雨宮さんの家の前の梅の老木がたくさんの花を付けているのを見た。この梅の木は2年位前から気になっていたが、やはり早い。それから雨宮家にとってのご神木のようでもある。で、境内を僕も見回してみたら、咲き始めていたってこと。雨が降って、雨があがり、昨日も今日もポカポカ陽気だったので、蕾も一気に膨らんだ。
宝龍寺からの電話で、2月3日に葬儀の手伝い。不動寺の叔父さんは、ベトナムに出かけるとのことで永啓に頼む。1月2月と一回ずつ葬儀の手伝いが入り、弱小寺院は、正直アリガタイってのが本音であります。上求寺のことが気になっていたら、上求寺を訪ねてくれる人もあり、叔父の様子も伝えてくださった。こういう縁に感謝しなければならない。
梅の花を収めようとカメラを上に向けると、その上天に、三日月の形の白い月があった。この月の平和でありますように。

2009年1月31日Saturday くもり
ナナオのこと少しだけ。 法事一件。その後、雨の後の墓地の見回りと、溝の掃除。樋の詰まりも昨日見てしまっていたので、放っておくことできず、昼飯が少し遅くなったがきれいにした。雨が上がり陽がさして、春の陽気だ。あったかい、あったかい。
アマナクニでナナオのホームページを立ち上げていて、多くの人が彼の死後、思いで語ってくれたり、詩の朗読を載せてくれたりしている。MP3で聞くこともできる。貴重だ。「本・ポスター・CD」のコーナーのブロードシートの写真が全部アップされていなかったので、僕が持っている「篤く 三宝を 敬え」と「大きな袋を 肩にかけ 大黒さまが きかかると」の写真を撮って送ってあげた。掲載してもらえたので、僕もこのHPに関わりがもて嬉しい。
親爺さまにナナオの「ココペリ」をコピーして差し上げたら、気に入ってくれて、車の中で聞いてくれているとのこと。こちらも嬉しいことだった。
今日のような温かい日は、ナナオはもう半ズボンで野山を歩いているに違いない。地球も宇宙もこの世もあの世も、ナナオサカキには存在しないのだ。僕の寺にも、ナナオの声が聞こえる。キヨシの奥さんのカヨが亡くなったときに、僕は女房と子供二人を連れて、大町の木崎湖畔のキヨシの家に行った。葬式にはナナオも来ていた。僕は声明の「四智梵語」(しちぼんご)を詠じ、鉢を突いた。終わってから家の隣の、村の集会所で、夜遅くまで集まった者らで歌い踊り飲んだ。ナナオも踊っていた。懐かしくその姿を思い出す。
アマナクニのナナオのHPをぜひ覗いてみてください。ナナオのいくつかの詩の朗読をDLできます。YouTubeで、「ラブレター」も見て聞くことができます。貼り付けできました。

2009年1月30日Friday くもり
下田逸郎の唄を朗読しませんか。 下田逸郎さんのライブに、朗読を入れたいので考えてみてくれとの連絡が入った。彼が年末に「唄ことば集」という、唄にした作品を活字にした文庫サイズの本を作ったことによるのだが、最近は、ステージでも、観客をステージに上げて、朗読してもらっているようだ。僕のところでも、4、5編を読んでほしいとのことであるが、さてどうしたものかと思案に暮れている。通信所のN谷さんには、何とかしましょうなどと返信を入れたはいいが、下田さんから指定された5編を読んでみると、どうもとても僕には読めそうもない。メロディーに乗って唄われる歌詞と、朗読作品として読む歌詞には、いささか開きがあるように感じた。例えば、「不思議な気分」。詩は、「あなたのこととっても愛していて、すべて抱きしめてるつもりでいた。」なんて、車の中で一緒に口ずさんでるのはいいが、素顔のままでこれを朗読するのは、これはちょっと大変かなぁと思ってしまった。どなたか、いいよっていう人いないでしょうか?
いつだったか、喜田で飲んだときに、興に乗って、自作の詩を披露したことはあったが、大体において僕の書くものは、(下段の唄と比較するつもりは全くなくて)愛のことなんかは書かないので、恥ずかしい気持ちなどは湧かないのである。ホントに、真剣に、「下田逸郎の唄を朗読してみませんか」。

2009年1月29日Thursday 晴れ
何故そういうところへもっていこうとするのか。 言っていることはわかるが、そう、文書化されたものにあわせたようにはいかないことだってある。お互いに言いたいことや、苦悩しているってこともわかるけど、こっちだってこっちの状況ってものもある。ものの判断は、そう四角四面にいかないってことだ。なんで、徒労としか俺には映らないような事ばかりに、躍起になってこちらを追い込もうとするのか。理解できねぇ。若い子達に言わせるところの、「意味わかんない」だ。貧しいときは貧しいなりにも、思いやりのある言葉が欲しいもんだ。一人ずつ間引いていくような涙の欠片もないやり方には断固反対。汲々として誰も彼もがゆとりがなくて、時代と人の心だけが、冷え冷えとしている。周りは温暖化だっていうのに。ったく、僕は四面楚歌になろうとも、森田童子聴きながら孤立無援で闘争を続けてやる。こんなに、大げさではないが、もう少し何とかならないものだろうか。僕が僕だけにわかるように書いたということだけなのだが。

2009年1月28日Wednesday 晴れ
初不動のもたらしてくれたもの。 初不動の今日は思いがけない出会いがあったり。今朝mailで。「御祈祷ドットコム」へ問うていた幣の切り方にご丁寧な返事をいただいた。夕方帰ってから教授どおりに完成することができた。
それから師匠様からのもの。いやぁ、恐縮です。大炊平を含め、僕が足で訪ねる場所はみんな大好きなところです。
次は牧丘:上求寺。妹弟子は、例年のとおり大瀧のお不動様を参ったようだ。温かい今日でよかったという。叔父も寺務に出たようであった。何より、なにより。写真を送ってくれた。
そして親父様。思わぬところで再会。ブログネタをつまみにしばしの時間。いつでもお寺にお出かけください。僕は、日蓮宗のお経も経本があれば読みます。結婚式には、「アーメン」も唱和します。性格的にあまりこだわりはありません。ちなみにA+です。
2ヶ月ぶりの点検だったのだ。ほんとは年末年始とこの一ヶ月を飲み続けできたのでまずいと思っていたが(実は点検日が2月4日だったが、職場の予定が入ってしまったので一週間早くなってしまったのだ)、だ〜が?!、尿酸値は正常範囲内にあったので安堵。で、飲んでしまった。
最後はE君。島田屋製菓の元祖長崎バウムクーヘンを約束どおりに持ってきてくれたのだ。僕は飲んでしまったので食べてはいないが、女房は晩飯後に、別腹でこれを味わう。顔を見たらわかる、ごきげんさん。こんな風に、初不動の一日、お不動様は僕にこんな一日をプレゼントしてくれた。感謝感謝感謝。

2009年1月27日Tuesday 晴れ
何をもって価値観としたか。 とにかく生きるために土に足をしたのだろう。その時代の果ては、見る影もなかった。清澤寺を経由して、大炊平に渡り、今日はじめて川にかかる青い橋を渡った。田や畑であっただろう所は耕作がすべて放棄されていた。生きるために山の奥まで切り拓いた糧で育てられた者らは、都市へと放り出された。山を開くより容易に都市では財を成せた時代だったのか。山を開いた果てに子らを送り出す者等は、何をもって価値観としたか。
僕は今、あまり広い世界に生きたいとは考えていない。大西良慶老師の「足を知ることである」という言葉を思い出す。足袋は大きすぎても小さすぎてもいけないので、よく自分の足の大きさを知ることだと言う。これが足るを知ると言うことで、ほどほどで手を打ちたいと思う。迷惑メールのように一方的な情報ならご勘弁。知りたいことならこちらからドアを叩きます。景色や自然や水にランクをつけるなんて馬鹿馬鹿しい。どこが日本一だろうが、世界一だろうがそんなことには興味がない。足で踏むこの場所が在日ニッポン人の僕の居場所である。僧侶である僕は、今住む場所を特別の愛着で見つめるということはない。乞われるままに住むところが、僧侶としての求めたり、求められたりして行う場所であると考えている。くっついたり離れたりしながら、まっ、こんなところで十分かな、というようなところを僕の価値観としたいと思っているところだ。
栃代川は、こんな坊主の戯言を知らん顔で流れていた。足に土、手に水の場所から、恐らく誰もが居なくなることはないだろう。

2009年1月26日Monday くもり
この涙ぐましい根気というか。
「日課の着服3年半に380万、市職員を懲戒免…徳島・吉野川市」という記事。読むと、こつこつと根気強くやり続けてきたことが良くわかる。住民票なんかの発行手数料のレジを、時間外に操作してレジを打ち直して、その差額を着服してたっていうが、年間126万か。大きな額には額だが、根気のいる作業だよな。怪しまれずにやるんだから。他の部署に異動後も、合鍵作って早朝にレジいじってたってんだから、その根気を他に使えていればな。生活が苦しくても、懲戒免職じゃ元も子もないじゃん。でもなぁ、これやってるの誰も気付かないって事のほうが不思議だよな。見て見ぬ振りしながら泳がせといて、余剰職員切りだったら、懲戒免職で退職金なしで、結局笑ったのは市役所だったりして。
定額給付金は、JETのALTにも受給資格はありそうだ。30万も貰っている奴らをそんなに優遇してやる必要があるだろうか。支給が決定になったら、ホームレスの何割がそれを実際に受け取ることになるだろう?笑って済ませる程度のジョークなら、早く巻き戻ししてしまいなと言いたい。

2009年1月25日Sunday 晴れ
こんなことが嬉しいのだ、人訪わぬ寺に住んでいると。 今朝メールを見たら、なんと東京から2通。下田さんのライブへの申し込み。外で洗濯物を干す女房にも報告。「へぇ、すごいね」って、寒い日曜の朝に、HOTな話題となった。そうであった、東京からは、八日市場にアトリエを構えるカメラマンも来てくれることになっているんだ。あとひと月、大勢来てくれるといいんですがね。
人訪わぬ寺は、こんなことが一番嬉しい。誰かが訪ねてくれて一喜一憂、みたいなもんね。でも決して寂しくなんかはない。寺に居ることは遊びではなく生活だから、在家の人たちと一緒。
夕べは浅川マキだったけれど、下田さんの唄も恋しいねぇ。彼のために、新しいストーブを買いました。今夜は冷えてます。

2009年1月24日Saturday 晴れ
浅川マキの世界。 車に一緒に乗せていってもらったMさんとお会いするのは、もう随分と久しぶりのことだった。子どもたちがまだ小学校に上がる前位の頃に、「地球元気村」という催しがあって、そこに何度かテントを持って参加したことがあった。子どもたちの成長と、生活の変化でキャン自体を止めてからもう10年以上経っている。僕はいま寺の生活に最重点を置いているということだ。行き帰りの車で、僕はビールを飲みながら色んな話をしたり聞かせてもらった。
甲府の街はもう見る影もなくというような寂れた感じ。行くたびにシャッターを下ろした店が増えている。晩飯を食べようと商店街の道を何度か行き来して、もうその店が店じまいしてしまったことも知った。僕なんか小さな頃甲府にいくのがどんなに楽しかったことか。11月23日の誕生日に毎年岡島に行って、誕生日のプレゼントを買ってもらうことをどんなに待ち焦がれたことか。今僕が甲府へ行くことがなくなり、僕の子どもたちがいま甲府を必要としなくなり、そうしたら、甲府の街は誰も訪う人が無くなってしまう。「桜座」は、オープン3周年ということだったが、1年半ぶりくらいか。浅川マキの人の入りは8割くらい。年齢不詳の浅川マキが「よく来てくれたわねぇ」と、黒いサングラスにコートを羽織り、煙草片手にマイクを取って歌い始める。今夜のマキは無伴奏。CDで聴くのと違い、アカペラの歌は、聴きなれた唄も、知らない歌も、あっさりと過ぎてしまう。数曲続いた後に、ゲストのドラマーのセシル・モンローが呼び出される。彼のブラッシングはよかった。ドラム伴奏だけで、ギターもピアノも聞こえてきたように感じた。淡々と感情を抑えたマキの歌が続く、こんな風に彼女はいつも「浅川マキの世界」を堅持してきたのだ。彼女の初舞台が1968年のことだから、もう40年以上あの猫背の前かがみ、黒髪、サングラス、煙草、酒。ブルース。花束を手渡されて、「あたしもまだいけるわねえぇ」のようなことを喋って笑った顔が印象に残った。ナマステ、浅川マキさん。また甲府に来てください。きっと行きます。企画してくれた龍野ご夫妻にも感謝。

2009年1月23日Friday 晴れ
吉報届かず。 身延高校の春の選抜「21世紀枠」での出場はならなかった。教育委員会でも、生涯学習課含め、身延高校の卒業生が多いため、それぞれ口には出さなくても、今日選抜出場校が決まることを知っていたので、なんだか結構朝から浮き足立って痛んだ。午後3時過ぎに、ヤフーで出場校が決まり、残念ながら我が母校は選に漏れたことを知ることとなった。
同じ地区に住む、Sくんの長男が野球部に入っていて、夜10時頃にも、お父さんがバッティング練習の付き合いをしている明かりが見え、カン、カンと球を打つ音が聞こえていた。この父子を思うだけでも、行かせてやりたかったとは思う。残念。同じかに居るS君は、「石田さんのお父さんの作った『我は竜虎』を甲子園で歌いたいですよね」なんて言ってくれて、嬉しかったけどこれもはかなく散った。あー、今夜はBluesだ。

2009年1月22日Thursday くもり
日馬富士応援してるよ。 雨が上がった朝である。まだ暗く「スームイン」の中継は傘をさしている。東京はまだ雨のようだ。雨はまた今夜あたり降ってくるという。雨降ってあたたかな朝だ。朝のお勤めもこのくらいの気温なら指先も冷たくなくて嬉しい。このくらいの気温になってくれば、動植物ももぞもぞと温い布団の中で体や命の思考を作動し始めるだろう。
ヤフーを開いたら、ガソリンがまたっちょっと上がるらしい。
日馬富士(はるまふじ:元 安馬)勝って、5勝目をあげた。残り今日を含めて4取り組み。何とか勝ち越しをさせてあげたい。先場所のあの勢いが今場所にはない。新大関のプレッシャーなのだろうが、こんなにも緊張させてしまうものなんだろうかと正直驚いた。なんとかこの場所だけは、8勝でもいいから勝ち越しをさせてあげたい。

2009年1月21日Wednesday くもり
夕より雨になった。
朝から一日、新年度の学校予算の査定に缶詰だった。もう僕も十分に町の財政が逼迫していることがわかっている。それから財政課に査定を受ける僕たち学校教育課も、十分過ぎるほどそれがわかっているので、無駄な要求をすることもほとんどなくなったし、学校からの要望書を十分に精査して、それを財政課へ予算書としてあげているので、今日の査定はほぼ課長が予定した時間どおりに終えることができた。それでも、厳しく予算書から削り落とされてしまうものは多くあった。学校が15校あるので、それの再編計画をも睨んでのことであることはわかる。なかなかに厳しい。ご飯を食べないで生きることができないように、学校をやめてしまうことはできないのだから、副食を一品少なくしたりするように、つましくすることは余儀ないことなのだとわかる。巷に職を失った人たちが溢れ、それによって家庭が寂しくなり、町は金がないといい、県も金がないといい、国はもっと金がないという。金が本当にないのなら、戦を想定するところの金なんかはいらんだろうと思う。役場を出ると外は雨になっていた。冷たい雨だ。今夜雪になるかもしれないという。雨も雪も、春を連れてくる大切なものだ。雨や雪の夜を、ミサイルが飛び交っても仕方ないだろう。無駄をやめることは無理なことだろうか。
テーブルのこちら側と向こう側で、どちらも互いの傷を舐めるように、「うん、うん」と言いながら、涙を流しながら一日こんなやり取りをしていたかのようだ。ため息だけが出ちゃいました。

2009年1月20日Tuesday 晴れ
3月1日のこと。 週末から、下田逸郎さんのライブのお知らせで遊んでいるのだが、遊びながら発見したことがあった。3月1日に寺で唄っていただくわけだが、NHK-BSで放送していた「フォークの達人」の最終回の出演者が下田逸郎で、その放送がちょうど1年前の3月1日(土)だったってこと。大きなテレビに買い換えて見ていたが、録画するレコーダは持っていなかった。2007年にTHE POLICEが再結成してワールドツアーを行っていて、日本に2月に来て、WOWOWで放映することが決まっていたので、ポリスと下田逸郎にかこつけてブルーレイディーガを買った。ちょうど1年前のことだ。3月1日には、ちょっとそのご縁のことも話してみよう。
下田逸郎生音ライブ、予約ひとりふたり入りました。3月1日で何か引っかかっていることがあったんだけど思い出せないでいたら、解決しました。実は3月1日には、町の総合文化会館で小椋佳の「歌談の会」という催しがあるんです。もうチケットは売り切れているようだけど、下田逸郎もいいからね。♪少しはこちらにも目を向けてください〜♪ってなものでしょうか。

2009年1月19日Monday 晴れ
気温上がる。 昼のウォーキングは上着を脱いで。それでも全然寒くなかった。こんな毎日に早くなってくれないか。でも、緩んでちゃ、温んでちゃいけない、明日が「大寒」なのだ。寒さはまだまだこれからが本格的になるのだと、天気予報士。脅しは止めて、温かい風を連れてきてほしい。甲府の梅園じゃ、梅の花がほころび始めたとか。
月曜。課長が休暇なので代わりに課長会議に出席。職員の賃金を何とかすると。こんな大寒(おおさむ)町だこの町は。道の端で車を避ければ、積もった落ち葉でタイヤが滑ってそのまま側溝に脱輪してしまったり。明日、文科省関係の国庫補助金の会計検査があるので、向かいのSリーダーは対応準備に余念なく。僕も明日は、この対応でスーツにネクタイ。こちらの方が緊張してしまう。右手と右足を同時に出してしまいそうだ。

2009年1月18日Sunday くもり
山は雪になっているのか。 夕になって雨が落ち始めた。遠くの山は霞んでいるので、雪でも舞っているのだろう。今日も一日気温の上がらない日であった。午前中に新車のお祓い一件。富沢から老夫婦訪ねてくれる。モミジマーク貼って新車でやってきたが、帰りは大丈夫かいな?と、ちょっと心配になってきそうなご高齢の方であった。酉歳の守り本尊だからというご縁のようであるが、僕が住職になってから初めての方であった。だからもう大聖寺に新車お祓いに来るのは、父のとき以来なんだろうからもう10年以上前ということになる。でもこうしてわざわざ指定してきてくれるのだからありがたい。お茶を差し上げて、4月のお祭りへのお誘いもしておいた。
夕べは、BSでチンペイとバンバンのDJ風な進行のフォークの番組があって、11時半まで見ていた。高校のとき、志村君がよく彼らの深夜放送のことを話してくれて、「天才秀才馬鹿シリーズ」のネタは、いつも面白かった。志村君も久しくあっていないなぁ。懐かしいいい時代だ。
標さんの懐かしい時代の写真があって、僕の大聖寺デビューより早く、もう不動尊祭典に来てくれていた。先頭から祖父永城、最勝寺:武田玄了師、明王寺:標隆光師、不動寺:石田永和師。僕はきっと長髪のフーテン野郎だったんだ。

2009年1月17日Saturday 晴れ
少し寒さ遠のく。 今朝の寒さは前日とは違った。前の日は、床下からの冷えが敷布団を抜けて背中まで上がってきてとても冷たく感じたが、今朝はそれがなかった。
午後1時15分に、身延町の観光ボランティア講座を受講している方たち20名ほどが来山。40分程度のお話しをする。なにせ、この町に真言宗の寺はひとつしかないのだから、ほぼ皆ゼロに等しい密教寺院の理解度。ただ、この寺は、観光寺院にはなりにくいし、地の利もなく、僕も勤め人だし、身延山を第1に置くこの町では、ほぼかんけぇーねぇーだろう。こんな寺もあるのかぐらいで十分にいい。でも僕も、しっかりと寺のことを伝え、女房もお茶の接待をした。
一行が帰ってから、市川大門の丸井紙店へ行く。お札や他の注文を頼みに。ちょうど節分を前に、頼まれている大工さんなのか工務店なのか、豆まき用の枡を前に置いて、見せの人たちと相談中であった。小さなお寺なので、注文する数は極々少ないが、地元にあってくれるお陰で、貰いに行けるのでありがたい。暮れに伺ったときに見ていた幣串と幣台を注文してしまった。以前から欲しかったんである。なのに帰りに岩間のコメリに寄り道して、何本か製材を買ってきた。とりあえず自分でも幣串を作ってみた。明日の車の新車御払いにデビューできそう。

2009年1月16日Friday 晴れ
祈願する。 今朝はいつもより丁寧に時間をかけて、今日手術をする信者さんのために経をあげ太鼓を打ち祈願をした。連日の冷え込みは少々身体につらい。
夕べ水を出しておいたので、今朝庫裏の洗面所は凍ることなくうまくいった。冬はどうしても寒いので、裏の水を使うことを控えてしまう。そうすると昨日のように、外においてあるタンクの水面が、水が動かないので凍ってしまい、昨日の朝のことのようになったりする。水を動かしてやることも大事。時々使わなくても、便所のタンクの水を流したりはしているのだが、気をつけなくちゃ。
3月1日(日)に計画している「下田逸郎なま音LIVE」の準備を始めようと、下田通信所へメールしたら、所長のNさんから次のようなメールが帰ってきた。「(前文略)
また、泊めてやって下さい。庭掃除は出来ると思います。飯塚も昨日まで、五日間、雪で閉じ込められました。あまりの寒さに、泣いたら、涙も凍ってしまうほどでした。(以下省略)」。九州の福岡は相当寒いようである。
もうすぐ、ご案内できると思います。LIVEにお出かけください。よろしくお願いします。

2009年1月15日Thursday 晴れ
何がなんだかわかんねぇ。 一体何なんだ。あの奴らのパワーっつーもんは。ぐいぐいとこっちを土俵際に追い込んでくる。立会い前の朝青龍がパンと、まわしを叩いて脅しをくれても怯まない完全無敵のパワー。おっそろしー。おーっと、いつまでこんな奴らと付き合わねばならんのか。カンカンカーンと、ノックアウトされちまったおいら達は、「このミカンうめぇな」なんて言いながら傷を舐め合うようなものでした。って、誰も何のことかわからんでしょう。わかっちまったらやばいんですよ。
帰宅後改良服に着替えて、同じ地区の同級生のお父さんの通夜に行く。国道を挟んで二つの葬祭場があり、そのどちらも今夜は通夜が行われていた。厳しい寒さが続き、亡くなる人も多いみたい。今朝はうかつにも庫裏裏にある洗面所・トイレの水道を凍らせてしまった。女房と夕べそんなことも話していたのだが、うっかりしてしまった。まずいなと思いながらも今朝女房にそのことを話したら、「ほらね」みたいな感じだった。昼休みに電話をして確認してもらったら、水が出ていたので助かった。水道代をケチるより修理に高くついてしまうものね。今夜から明日も相当の冷え込みがあるようで、今夜は蛇口からの細い水出しと、ボイラーも焚いておくこととした。多分これでOK。

2009年1月14日Wednesday 晴れ
まやかしの定額給付金だ。 経済連携協定とやらで、アジア諸国から看護・介護職に就く人材を受け入れるということがあるらしい。年末から非正規社員の大量失職、派遣切り、住む所もなくなるという酷い状態になっているのに、国家間の約束事は、これはこれで守らなければいけないことなのか。事故米の輸入も経済連携協定の一部なのだったのだろうか。外国人を差別する考えは持たないが、なにかもっとこの、冷たく寒いこの時期に、放り出されてしまった労働意欲の十分にある人達のために、手を差し伸べることはできないものかと考えてしまう。
2兆円の定額給付金を盛り込んだ補正予算案が、衆院予算委員会を通ったということだが、こんな、本当に貧しい思いをしている者らを嘲笑うようなまやかしの金に、どのくらいの真実があるだろうか。本流からそれても、郵政が民営化してしまえば、自らその流れに戻っていく幼子のようなそれが今回も起きているが、所詮政治などというものはその程度のものなのであろうと思うのが僕の感想である。呪い殺せ。今の政治を呪殺する。

2009年1月13日Tuesday 晴れ
朝の月がきれい。 くっきりと西の空上に月があった。朝の月。まだ丸くてはっきりと、凛としている。寒い寒い本堂でのお勤め。休み明けはこのお勤めが辛いと感じる。終えて、昨日の夕方出しておいた外の便所を見に行く。氷ってはいなかった。まだ雪は降るのだろうな。日曜の夕に訪ねてきた静岡からの夫婦は、「雪が降ったんですね」と、珍しいものを見たように話していった。屋根に少し残った雪程度しかなかったが、普段雪を見ることのない人にとっての雪は、やはり清く神聖に映るのかもしれない。特に寺にある雪なんかは特に。その後夫婦には、所望されてお不動様のお開帳もして差し上げた。お母さんを昨年亡くしたとの事であったが、大変に喜んでいただいた。僕も気持ちがよかった。
さて、新しい一週だ。

2009年1月12日Monday くもり
底冷えの一日。 成人の日で休み。でも、一体今日の成人の日に成人式をやっているところがいくつあるだろうか。まあどっちでもいい。娘は午前中にまた大学へと戻っていった。朝から曇り日で、気温が上がらず、少し風花があったり。コタツにあたっていたが、一日が何もなく終わってしまいそうなので、午後は外に出て、昨日の続きの護摩木つくり。今日は訪う人もなく静か。寒さが普段より厳しく感じたので、外の便所の水を細く流しっぱなしにしておく。
女房の誕生日。特別なこともなく、普段どおりに静かに夜をすごす。僕は連休中の最後とて、「石田さんちの大家族」という番組を見た後、少し早めに寝ることにする。

2009年1月11日Sunday 晴れ
小正月と成人式。 娘と女房は7時過ぎに家を出て、着物の着付けに。女の子は大変。女房はこれが嬉しいのだから変なもの。僕はのんびりと遠くから聞こえる獅子舞の太鼓の音など聞きながら護摩木つくり。今朝は冷え込んだようで、池も全面結氷。陽が出ると暖かい。今日は寺を訪う人もなぜかいつもの日曜より多く、お不動様の開帳もする。ご朱印もあり、交通安全のお守りも4枚も出る。めずらしい。寺を訪ねていくれる人があるのは嬉しい。護摩木もたくさん作ることができた。
いい小正月になった。ガールフレンドと一緒に、お父さんのお墓に参ったK君に、女房と娘と僕の3人の写真を撮ってもらった。よい成人式の小正月になった。

2009年1月10日Saturday 晴れ
甲府へ。 玄法院を訪ねる。宗務所長ももう80になるのだと。彼の思いに僕はなかなか応えられない。1時間ほど話をして、責任役員変更の書類にはんをいただく。母を卒業させて、息子に責任役員になってもらうことにした。女房は岡島で買い物。新星堂のCD売り場で待ち合わせということを話したが、なんと、岡島から新星堂がなくなっていたのだ。知らなかった。ほとんど行ったことないので。こんな風に不況なんだな。
外から太鼓の音。もう間もなくどんど焼きに火が点く。行って来なくちゃ。で、どんど焼きに行ってきた。夕空に満月もあり、炎も勢いがよく、竹も大きな音で爆ぜる。お神酒もいただいてきた。本堂も閉めた。成人式の娘がもうすぐ帰ってくる。

2009年1月9日Friday
雪の一日。夜護摩を焚く。 大して積もりはしなかったが、初雪。下部の方が降ったみたい。仕事を終えて帰って、Eさんのために厄難消除の護摩を焚く。朝本堂に入っていた山鳩は出て行ってくれた。糞があちこちにあって、護摩壇の片付けと掃除は明日に。終わって台所で飲み会をする。彼が持ってきてくれた「神亀」の純米活性にごり生酒をいただく。ガスがはじけていて、日本酒のスパークリングワインのよう。感動しながら僕は飲む。彼は、「五大」の湯葉に興奮する。たくさん話をして愉快な夜を過ごした。新しい檀家は、40歳の独立したてのカメラマンである。よい青年と知り合うことができて、寺に居る楽しみがまた増えた。

2009年1月8日Thursday 晴れ
明日の朝、雪を見るかもしれない。 宗務所長に電話をして、土曜の午前中に伺いたいと伝えたら、「夜はカラオケだから」なんて言葉が返ってきた。新年のユーモアなのか、でも、案外これが毎土の夜のお決まりだったりしているのかもしれない。なんにせよ、楽しく充実して過ごせたらそれが一番だ。所長には、寺の役員の件で伺いハンコを貰ってくるというもの。
今朝は出かける前に、本堂と客殿のお供えを下げ、本堂と庫裏とわがウサギ小屋の玄関の門松を片付けた。お供え餅の上に乗せていたミカンは、輪切りにして野鳥のために外の切り株に置いた。もう今は餅もそんなに食べなくなった。子供たちも餅をほとんど食べないし。子供の頃は、持ちが1月中は食卓に上がった。でも僕は、お雑煮がとても好きだったので、5枚も6枚も一度に食べたが、今はそんなに食べることがない。檀家からもお供え餅がいくつかくるくらいで、板餅なんて貰わなくなった。暮れの付け届けは、かつては粉や餅や米だったけど、いまはもうほとんどがお金を包んできてくれることに変わってきた。正直今の僕の家族には、お金で届けてくれるほうが嬉しいが、米・餅・粉がすべてなくなってしまうのはちょっと寂しい気がする。布施していただくものには何も口出ししません。ありがたく頂戴します、ありがとう、ご馳走様。一生懸命に寺のことします。

2009年1月7日Wednesday 晴れ
プライドを持って廃案とすべき。 一週間前の今日は大晦日だったわけで、一年に心を残さないようにしっかりと片付けて、それでも、なるべく早くきりをつけてゆっくりしようなんてことを考えながら動いていた。新年になって一週間が過ぎた。胃休めの粥も食べた。でもまた週末は前倒しの旧正月行事。娘もまた成人式で帰ってくる。来週の月曜までの連休が終わってからだな、本格的な新年の始動は。
僕は定額給付金なんて行き当たりばったりの、緊急避難的な措置には反対。じゃあ何?って聞かれても思い浮かばないけれど、真面目にこつこつ働くってことですよ。高額所得者が1万2千円貰ったって、何も感じないでしょう。今巷に溢れる失業者たちを如何に雇用に結び付けられるかに、頭と時間と金を割いてほしいと思う。「さもしい」と思う本音があるうちに、給付金なんて事をやめちまいなって申し上げたい。

2009年1月6日Tuesday 晴れ
ジュリー。 還暦コンサートのジュリーを見て、ストーンズのメンバーと比べて、太ってるなんて書いてしまったが、彼の最新アルバムで、コンサートでも歌った「我が窮状」が、実は「憲法9条を守ろう」というメッセージを持った歌であることを知った。
「60歳になったら、言いたいことをコソッと言うのもいいかな、と。いま憲法は、改憲の動きの前でまさに『窮状』にあるでしょう。言葉に出さないが9条を守りたいと願っている人たちに、私も同じ願いですよというサインを送りたい」と、彼の発言も知ることとなった。かねてから影響力のある芸能人の発言は、良きにつけ悪しきにつけ大きなものになると思っていたが、この歌の与える力なら大歓迎だ。
でかい腹抱えて、のらりくらりと、根拠も何もねぇなどといい加減な発言しながら、窮地に追い込むことでマスターベーションしている奴よりずっといいぜ。そのお子守りたちは、飛び散った滴を、さしずめティッシュで拭き取ってやっているような哀れな奴にしか映らねぇ。「勝手にしやがれ」なんか絶対歌わせねぇからな。2度も追い込んでくれば、誰だってもう闘争心は失せてしまう。来なくても電話で十分じゃねぇのか?んなこたぁ。

2009年1月5日Monday 晴れ
支所での歩き初め。 仕事が始まった。昨日より今朝のほうが冷えた。朝はいっそう遅くなっているのか。昼は暖かい。父の教え子のIさんが常葉に引っ越したと賀状に書いてあったので、ゼンリンの地図で捜すも見つからず、自宅に電話をかけたら奥さんが出た。引越先は奥さんの実家だった。よく知っている場所だった。いつか一度立ち寄ってみようと思う。
課長からの退職まで3ヶ月だという話で仕事が始まった。羨ましくもあり、寂しくもありってところ。歩きながら、常葉の風景は、厭きないなぁとあらためて感じた。もう間もなく、小正月の柳が建つだろう。この風景が一年で一番好きだ。娘も寮に戻り、それぞれに始めの一歩を踏み出した。

2009年1月4日Sunday 晴れ
正月の御札配り。 7時20分に出発。4日が御用始なので、いつもは午後休んで地元だけにお札を配り、他町村へは郵便で送るのだが、今年は休みなので出かけた。先ず富士豊茂。本栖のトンネルを抜けるとちょうど富士山の左側から朝日が昇るところだった。道端に数十人のカメラを持った人たちが三脚を立てて日の出を捉えていた。僕は車から降りずに運転席から撮影。でもまあまあですよ。豊茂に着くと遠藤さんの家の前の富士もまた大きくてよい。ここにきたら今度は右肩から日が昇るところだった。暖かい正月だったと遠藤さん。お茶をいただいて市川三郷へ精進湖線を下る。市川三郷から甲府へ。甲府を済ませ、八日市場に戻って村内の檀家の家を回る。昼食後、飯富、下山、後山。午後2時半に全行程終了。何件かは留守だから御札を送ってくれという家もあったので、結構早く終わることができた。これで明日からの勤めだ。女房は県外発送の御札を送る準備をしてくれている。それぞれの受け持ちがもうすっかり明確になってきているので、僕が最早説明を彼女にする必要は無い。これでいいのでしょう、わが大聖寺は。

2009年1月3日Saturday 晴れ
息子相模原へ戻ってゆく。 普段の生活に息子は戻っていった。彼なりの将来像はあるようだが、それを実現するにはかなりの困難が予測されるようである。親としてはすぐに就職をしろといいたいところだが、僕自身が過去にモラトリアム人間だったので、なかなか子どもにきついこといえないんだよね。まあ、できるだけの後方支援はしてあげたいとは考えますけど。女房と娘は息子を送りがてら義兄のところへ年賀に。お年玉をいただくという魂胆も十分にあるらしい。
僕は午後からお不動さんの厨子を閉めて、正月モードを平静モードに戻す。金曜の夕に護摩を頼まれたので、護摩壇の準備もする。暖かい正月でよかったし、明日も休みはなんてありがたいこと。不摂生極まりない腹になった。でもあと一日ダラダラとするという気持ちになりながらも、頭の刈り初めも厳寒の風呂場で。

2009年1月2日Friday 晴れ
宴のはじまり。 今日も、朝は冷えたが日中は穏やかなポカポカ陽気。箱根駅伝を見ながら山梨学院を応援。往路の成績は結局5位。駅伝の途中で僕も歩きたくなって、1時間ほど地区を歩く。今年の歩き初め。びっしょりとパンツまで汗をかいて気持ちよくなり、シャワーを浴びて昼に缶ビール。何をすることもないので、護摩木を少し割っているとそこに、秋山家川口家一行来寺。お参りをしていただいて新年の挨拶を交わして早速酒宴。あまり飲まずにあったビールも皆に飲んでもらってよかった。後は勝手に焼酎にしたりワインにしたり。「太ったジュリーはいただけないね」と話しながら、懐かしくジュリーのCDかけて、シュンイチ君やナオコさんにもジュリー聞いてもらう。毎年2日のこの宴がいつからかさりげなく始まり、ここ数年の当たり前になってきた。気のおけない友人たちとの飲み会はやはり良い。ヒナタ君のお父さんからも、暮れの24日に生まれた新しい家族に付ける名前も、こっそりと教えていただいた。できればこの新しいイノチを、春のお祭りの護摩の火渡りに抱いてみたいと思っている。今日は今年の宴(縁)のはじまりの日。

2009年1月1日Thursday 晴れ
あけましておめでとうございます。 穏やかな新春の幕開け。年越しの護摩には大月と都留から二組の夫婦がいつものように来てくれた。感謝である。こんな田舎の寂れた寺に、お不動様の威厳と霊験だけが世の中に今でも通用している。寝たのは2時を過ぎていたかもしれない。6時半前に起床。お勤めを済ませてから冷たく寒い本堂の護摩壇の掃除。これが終わってようやく僕の新年。熱燗をちびりちびりやる。三が日の朝の酒は父から続いたもので、僕も止めるつもりはない。10時から集落の新年互礼会。娘の成人も祝っていただくも、本人はまだ夢の中。同志会の互礼会に出席。24人の会員中、相談役が14人。僕の後輩たちは、まだ現役として続けてくれているので頭が下がる。
昼過ぎに家に戻ると、続けて新年の来山あり。甲府、市川三郷、伊沼、手打沢。頼まれていた御札をお渡ししたり、お茶で接待したり、今年は例年になく僕もご一緒しました。これもだんだんということなのだろうか。
よい一年になりますように。世界が平穏でありますように。