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『徒然日誌』 2011年1月から12月

2011年12月31日Saturday 晴れ
あー、今年も間もなく終わってしまうな。
振り返ってみるといろんなことがあったな。こんなに体が疲れているってことは、この一年を象徴しているようなもんだな。空が暗くなり始めた。本堂は年越し護摩の準備も済んだ。もう後数時間少しのんびりとしたい。
明くる年は誰にとっても息災でありますように。
これを読んでくれている方々にも佳い年が訪れますようにお祈りします。ではこれにて2011年の書き収めです。

2011年12月30日Friday 晴れ
無事葬儀終わる。
行蔵院のお母さんの葬儀無事に終わる。これにて今年は締めくくりだな。甲府は冷たい風があって寒い。92歳を大往生だ。晦日の空のように晴れ渡ったような葬儀で、泣き虫住職以外には余り涙は見られなかったかもしれない。僕は導師を頼まれ、通夜・本葬と、無事終えることができてホッとした。2時半からの初七日を湯村温泉郷の会場でして、少しお話させてもらって、午後4時に他の僧侶の皆さん方にも了解を貰ってみんなで会場を後にした。今日のお別れは、ご苦労様と、来年も相変わらずよろしくお願いしますだった。越石さんも来てくれた。暮れも正月も休みがないのだと聞いた。今年は玄法院の長老の葬儀が8月にあり、暮れのこの行蔵院のお母さんの葬儀と、醍醐派の皆さんとも例年より多くお会いすることとなった。よい道を同じくする仲間たちである。
道路もあまり混雑してなくて1時間もかからずに家に帰ることができた。荷物の片付けを済ませこれを書いている。ちょうど息子が相模原から帰ってきた。娘も間もなく勤めから帰るだろう。今夜は少しゆっくりとするか。明日は大晦日。

2011年12月29日Thursday 晴れ
通夜終えて帰ってきてワイン飲んで最後に焼酎。
午前中本堂の掃除と荘厳、護摩壇を準備する。外の水道を夕方閉めて朝開栓するが、出てくるまでにはちょっと時間がかかる。掃除機をかけて、樒を採ってきたり、客殿のこともしたりして水が出てくるのを待つ。お供え餅を飾るだけがあと残った。これは大晦日だ。昼飯を食べて頭を刈って、今夜の通夜のことのシュミレーションをしてみる。午後2時ちょっと前に家を出る。行蔵院も通夜・葬儀の準備に葬儀屋さん寒い中がんばっていた。甲府のほうがここより寒いような気がする。でも、風がないのでいい。風が吹いたらきっともっと寒い。4時から納棺。各寺院の皆さん三々五々集まる。食事のあと通夜の次第を打ち合わせする。午後6時から通夜の法要。今夜は、安養寺のご住職が経頭を務めてくれる。大変に申し訳ない気がしたが仕方がなかった。智山派の僧侶方も大勢来てくださった。無事終えて、「明日もよろしく」とお願いして帰ってきた。三日月が空にあった。道路はそれほど混んではいなかった。それでもやっぱり僕のところからは遠い。一時間はきっちりかかる。今夜使った衣や、明日の本葬の衣その他の準備を済ませてやっと解放されて飲む。上求寺からいただいたワインを飲んだ。開けたワインは白の甘口で、口当たりはよかったが、いささか甘すぎて、女房と娘もこれはちょっと飲めそうだといったので、少し残して、最後の締めにやっぱり焼酎の湯割りだ。
さて、明日の葬儀の本番のために寝るぞ。

2011年12月28日Wednesday 晴れ
正月の準備進む。
朝から行蔵院ご住職とメールや電話で葬儀関係のやり取りをする。今朝もとても寒かった。4時半過ぎに起きるのもなかなかに辛いものがある。お勤めを終えて、休みなのでそのまま居間のノートPCで、葬儀次第の訂正や諷誦文作りをはじめる。朝食をはさんで9時過ぎに仕上がる。今日はこれがメインではない。28日にすることをしなければならんのだが、如何にせん寒い。外に出たくない。少し陽が出たところで下っ腹に力をぐっと入れて外に出る。セットしておいた門松用の竹筒に、採ってきておいた松を挿し、裏に回って、梅の枝、竹の枝、南天を採ってきてそれぞれ適当に切って筒に挿す。「賀正」「壬辰」と書いた紙を竹筒に貼り、水引を結んでできあがり。本堂の掃除と荘厳は明日の午前中にする。門松を仕上げ、庚申堂、三社天神にシメを張る。終えて、葬儀の塔婆と位牌を書く。
これで今日の寺での仕事を終えて、午後3時過ぎ仕事場に行く。去年の28日は、もう後10分で終るというときに、女房から「お母さんが帰ってきていない」という電話で急ぎ帰った。今年はもう最後なので、年の最後の時間を終業まで居たいと思った。これで職場は今年はお終い。

2011年12月27日Tuesday 晴れ
うどんで体温まる。
早め早めに年の暮れにしなければならないことをやってきたのが今年の暮れ。で、サラリーマンの仕事納めを終えたら、今年は幾分ゆとりをもって大晦日の夜を迎えられると楽しみにしていた。そんな急ぎを戒められたというわけでもないだろうけど、葬儀の導師を務めることになった。甲府の行蔵院のご住職のお母さんが亡くなり、29日の通夜、30日の葬儀告別式ということになった。仕事は今日の午前中をもって僕の仕事納めとなった。午後2時から飯富病院を定期受診。まあまあの成績。終えて甲府に走る。玄法院のご住職もすでにおみえになっていて、通夜葬儀の進行のことやら、式場となる本堂を少し片付けたりする。午後日が陰るとやはり寒い。行蔵院のご住職からは或る晩不意にケータイにメールが入ったのだった。それも日付が変わった深夜に。眠っていたが、ケータイがメール受診した音が耳に忍び込んだので、起きてそれを開けてみた。高齢の母がいます。もし亡くなった折には、あなたに葬儀の導師を務めていただきたいということが書かれてあった。亡くなったという連絡ではなく、その時の覚悟を願いたいというメールだったわけだが、「何故、こんな真夜中に?」と思った。そんなことがあって、この師走も押し詰まったどん尻になっての葬儀に、ご住職は平身低頭の態なのだが、まあ僕たちの務めはそういうことはまったく関係ないのだと思っているので。
奥さんの作ってくれた「うどん」が冷えた体をあっためてくれた。明日は、寺の暮れの準備をやってしまうつもりでやって、29日、30日にしっかりと臨まなければならない。

2011年12月26日Monday 晴れ
「子規居士墓碑銘碑」。
「坂の上の雲」の最終回を夕べ見た。なんとなく後味が悪かった。こんなものを3年かけて見たのかという思いが残った。艦隊の壮絶な撃ち合い、こんなものどこをどう見ようとしたって美化することなんかできない。戦術の妙を見せようとでもしたのだろうか。結局見終わってそこには何もなかった。最終回のなんというつまらなさ。最後にひとつだけ。
正岡の墓碑銘が読まれた。その中に、件の「しょおく」という言葉を聞き取ったので、早速調べてみた。

「正岡常規 又ノ名ハ處之助 又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋主人 又ノ名ハ竹ノ里人 伊豫松山ニ生レ 東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十圓」

「正岡常規(つねのり)、又の名は処之助(ところのすけ)、又の名は升(のぼる)、又の名は子規(しき)、又の名は獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、又の名は竹ノ里人、伊予松山(いよまつやま)に生れ、 東京根岸(ぎぎし)に住す。父、隼太(はやた)松山藩御馬廻加番たり、卒(そつ)す。母大原氏に養わる。日本新聞社員たり。 明治三十□年□月□日没(ぼっ)す。 享年三十□。 月給四十円」

この墓碑銘は、「子規は明治31年7月に碧梧桐の兄河東可全にあてて書いた手紙に添えて、自分の墓碑銘を送った。」ということ。墓碑銘は書いたままに刻まれてあるので、没年月日と享年は□のままである。今年の暮れには、書屋(しょおく)という言葉を大分勉強した。ほんとに、書屋という語を僕は知らなかったので。

2011年12月25日Sunday くもり
今日もまた一日寺の事する。
今日は陽のあんまり出ない曇り日で、一日寒かったし午後からは外には冷たい風もあった。午前中、境内の掃き掃除。本堂の回廊の掃除など。箒や熊手を使っていると身体は動いているのでだんだんとあったまって暑くなる。冬にはこれが気持ちいい。午後は、灯篭に和紙を張ったり、シメを切ったり、護摩札を書いたり。今日まで頼まれているお札はみな書いてしまった。いい調子で暮れのことが順調に済んでいる。明日から3日で年末年始休暇だ。休日はやっぱり本を読めなかった。李良枝の全集から「由煕」だけ読む。全集が欲しくなった。探したがもうないのかもしれない。

2011年12月24日Saturday 晴れ
一日寺の事する。
今日一日は大体思い描いたとおりに無駄なく暮れの仕事ができた。ゆっくり起きた。朝食後にお勤めをして、神棚の歳神様のシメを取り替えた。今年は早め早めだ。午後は、門松作り。竹を取ってきて、本堂、庫裏玄関、住居玄関用の竹を切る。それぞれの場所に竹だけをセットして、飾り付けは明日か早そうだったら30日だ。陽が出ている時間はすごく短い。あたたかく外の仕事ができる時間が短い。それでもやろうと思っていた窓拭きも済ませた。
檀家の方今日も何人か着て、護持会費、暮れの付け届けなどしてくれる。お茶を飲んでいってもらって、軽い会話など。来年も皆さん元気でありますように。ご先祖様の回忌の案内を差し上げた方とは、いつにしましょうかとかの話も。「3月で退職するんですね」という話も当然出る。残り一週間だ。

2011年12月23日Friday 晴れ
明王寺の祭典。
携帯にメールが入っていた。明王寺のご住職からである。発信時刻は午前零時半過ぎ。遅くまで祭りの準備をしていたのだ。内容は、お祭りへの助法の案内を出したかどうかの確認ということであった。ちゃんといただいている。ハガキをもらわなくても、僕のYahooのスケジュール表で、明王寺の冬至祭典は生涯予定となっている。11時半過ぎに女房に送ってもらっていく。飲んだらタクシーで帰るの法則。午前中寒かったが、昼過ぎて陽がさしてよいお祭りとなった。副住職のお父さんも益々元気だ。僕は今年最後の祭典の法螺貝を吹いた。終わってからもゆっくりいただいて午後4時過ぎに帰ってきた。
帰ってくると、庫裏の玄関を入ったところにビニール袋に入った柚子が置かれてあった。名刺が入っていて大炊平の渡辺さんが届けてくれたものだった。生憎だった。なんとなく、暮れにはまたひょっとしたら、渡辺さんが柚子を届けてくれるかもしれないと思って(期待して)いた。その時には、小林波留さんのことを少し話したいなと思っていたのに、残念だった。昨日、図書館から波留氏の「山居雑筆」「句集 山家三戸」が新たに借りられたのだ。
明王寺のご住職ともゆっくりとは話せなかったが、来年の4月以降の僕ならいつでも誘いがあればなんとでもなる。彼の今日の祭典の願文の中にも、大震災への気持ちが書き込まれていた。僕たちは真言僧としての祈りのことをしっかりと考えて実践しているのだ。外に仕事を持ちながら、祭典が近くなれば、毎晩遅くまでその準備に当る住職を思い浮かべると涙が湧いてくる。誰も知らないようなところで頑張っていることを、似たような僕はちょっとは分かっているような気分になってうれしい。よい一日だった。

2011年12月22日Thursday 晴れ
Stand By Me。
4時半の今朝は上天に月は見えなかった。午前中も雪でも降ってくるんじゃないかというような曇り空であった。年の暮れに雪が降ったってちっともおかしくはない。降られるのは有難くはないが、降れば降ったで、それも一興というものだ。
「続山住雑記」小林波留著読了。間に別物を1冊挟んで著者の雑記2冊を読んだ。続編のほうは悲しみのことを書いたもの(特に奥さんの死)が多かったので、自他共に認める「泣き虫波留」そのままのストレートな随筆の羅列であった。それでも、とても著者の生活が身近に感じられたので、一気に読んでしまった。今僕が生活する場所のそのすぐ近くに、これほどまでに自らの生活を真摯に眺め、それを俳句や散文として物する人がいたことに改めて深い感動を覚えた。僕もこれからの残りの人生を、波留さんのように素直に生きて生きたいものだと強く思った。李良枝「由熙(ユヒ)」を読み始める。
今朝は車の中で、John Lennon『Rock'N'Roll』をかけた。2曲目に「Stand By Me」が流れてくる。この歌がとても好きだ。この曲が入ったRy Cooderの「Chicken Skin Music」というアルバムも大好きだ。

夜が来てあたりは暗く ただ月明かりだけだ
でも僕は怖くない 怖くなんかない
君が傍にいるだけで僕は強くなれる
ねぇ だから傍にいて
いつも僕の傍にいて
僕の傍にいておくれ


こんななんでもない生活の歌を聴きながら、なんともいえないいい気持ちになって、新しい年へとつなげたいと思うのだ。

2011年12月21日Wednesday 晴れ
寒い。
今朝の4時半の月はバナナのような薄っぺらな月で、雲を被っているのかモワーッとしていた。さすがに寒い。寒くても生きていかなければならないのね。でも今朝の早起きは苦にならなかった。夕べもう眠くて眠くて9時前には寝てしまったので、早くから頭の中は起きていた。
中沢けい「さくらささくれ」読了。はじめて読んだがあまり書いていることがよくわからなかった。多分もう読まない作家なんだと思ってしまった。テレビはアホな北朝鮮のことを報道している。何であんなに国民は泣くのでしょう。儒教の精神からということと、泣きのやらせも当然あるのだという。そうだな、激しい身振りにしては涙のこぼれている顔ってアップにされていないしな。でも、中国に住む北朝鮮の人たちも、将軍様の逝去に国帰りをする大勢を映し出してもいた。どこまでがホントでウソなのかわからん国だ。
確かに金日成も金正日も、自分たちだけは肥え、幾ばくかのピラミッドの上部を構成する人民だけは養ったが、底辺に広がる民たちをついぞ養うには至らなかった。親子二代に亘って飢えと貧困だけを残した。後継となる三代目正恩も、明らかに見た目肥えている。おそらく国の民を如何に食べさせて国を作っていくかなんてことは、彼らバカ三代の引継ぎ書には一行も書かれていないのであろう。と、僕は勝手に想像している。

2011年12月20日Tuesday 晴れ
休暇を取って暮れの仕事など。
休みを取って一日寺のことをした。こういうことをするにはやっぱり平日がいい。午前中、幣をこしらえたり、お札や塔婆書きする。庫裏の部屋にストーブを焚いて仕事する。11時の鐘を撞いてから改良服に着替えて、前の学校教育の上司だったAさんの母親の葬儀に市川のクリスタルホールへ行く。会葬者も多いようだった。「忙しいところをわざわざ来てくれて」と喪主のAさんより言葉掛けられる。退職してからもあまり変わらない様子だ。今年は新年早々のKさんの葬儀、8月の高校の友人Mの葬儀、そして今日と、三度クリスタルホールに来たことになる。もう残りが10日なので来ることはないだろうと思った。
帰って昼食を食べてから外の仕事する。はじめに、通販で買った福寿草を植える。しっかりと根付いてくれと願いを込めて。その後、3時間ほどかけて庫裏の裏の庭、池の端、墓地への道の落ち葉を掃く。汗びっしょりになった。だいぶ稼いだ一日。夕のお勤めをした後、また何本かお札を書いて今日は終了。陽が落ちてまたグッと冷えてきた。

2011年12月19日Monday 晴れ
新風を呼び、解放への太鼓打ち鳴らせ。
昼の弁当を広げて食べ始めたら、「キム・ジョンイルが死んだらしいぞ」という声が聞こえた。昼のニュースがそれを伝えているようだ。どうせホントかウソかのどちらかしかないのだしと思いながら食べ続けた。その後も本を読んだりしていたが、やはり亡くなったのだ。この独裁者の死は、やはり慶事と呼ぶに相応しいような出来事いうことになるのではないかと僕自身は思っている。列車の中で急性心筋梗塞で死んだと伝えられているので、これは本人にとっては人生最大の失態であったに違いない。息子ジョンウンへの権力の継承もまだ始まりの段階である。「北朝鮮をめぐる情勢は一層不透明となった」と見る向きもあるようだ。まさにそんな感じが僕もする。親子2代で独裁国家を構築してきた北朝鮮を世界に解き放つ格好のチャンスなのではないか。良心を持つ北朝鮮の人たちの喚起に僕は心だけでも連帯したいものである。

2011年12月18日Sunday 晴れ
しりとり俗謡。
「坂の上の雲」を見ていると思い出すことがあった。幼い頃聞いた記憶がよみがえってきた。ネットで調べたら、いろいろでてきた。「しりとり俗謡」と呼ばれるジャンルのものらしい。
@すずめ〜めじろ〜ロシヤ〜野蛮国〜クロパトキン〜金の玉〜負けて逃げるはチャンチャンボー〜棒でたたくは犬殺し〜シベリア鉄道長けれど〜土民の口から吐き出せば〜バルチック艦隊全滅す〜すずめ(以下繰り返し) ※チャンチャン坊、中国人の蔑称。
A乃木さんが〜凱旋《がいせん》す〜すずめ〜めじろ〜ロシヤ〜野蛮国《やばんこく》〜クロパトキン〜キンタマ〜豆どうふ〜ふんどし〜しめた〜タカジャッポンノ〜ノ、ノ、ノ〜乃木さんが(以下繰り返し)
B乃木さんが〜凱旋す〜すずめ〜めじろ〜ロシヤ〜野蛮国〜クロパトキン〜キンタマ〜饅頭〜巡査〜裁判所〜正月〜ツンボ〜ぼたん〜うんか(雲霞)〜看護婦〜二人〜陸軍の〜乃木さんが〜(以下繰り返し)
Cすずめ、めじろ、ロシヤ、野蛮国、くろばたき、きんたあま、またろうふ、ふんどおし(褌)、しめた、たかじゃっぽん、ぽんやあり、陸軍の、乃木さんが、凱旋す、すずめ(以下くりかえし)※「またろうふ」はロシア海軍指揮官マカロフ。
いろいろあって面白い。僕は小学3年まで身延の波木井に住んでいて、秋のお祭りのとき、神輿に着いていきながら、中学生たちだったかが団扇太鼓を打ちながらこの歌を歌うのを意味も分からずに耳で覚えて歌っていた記憶がある。
Wikipediaを見ると、
「乃木大将」日本の、乃木さんが、凱旋す、雀、目白、ロシヤ、野蛮国、クロパトキン、金の玉、負けて逃げゆくチャンチャン棒(坊)、棒で叩くは犬格子(犬殺し)、シベリア鉄道長けれど、土瓶の口から火を噴けば、バルチク艦隊壊滅し、死ぬ気で尽すは日本の、乃木さんが、凱旋す…」とあった。これが完全型なのかな。
今日もサルが飛び回った。暮れまで出没されてたんじゃかなわんなぁと話した。

2011年12月17日Saturday 晴れ
ケヤキの葉も9割がた落ちた。
朝からサルの群れが屋根を走り回った。柿の実もきれいに片付けてくれた。池の端の陽だまりに、おっきいのやちっちゃいのや何十匹も日向ぼっこしている。こちらが黙っていれば向こうも静かに静かに時間を共有している。
夕べは女房も出かけていて、台所で3時間以上で飲み続けた。玄法院に電話する。まったく僕たちの思いは当事者には何も伝わっていないようで酷く悲しい思いがした。受け継いだものを護っているのだということはよくわかるが、不本意にしても、組織の中に組み込まれてしまっているかぎり、そのルールに従わないというのでは困る。ルールに従わないのだったら、ルールに従わなくてすむ最善の方途を自らが速やかに積極的に行うことだ。
甲斐バンドのビデオを見ながら、従姉にメールをしたら「『安奈』は、私の涙の曲よ」と返信があった。どんな涙だったのか想像してみようとしたけど、どうしても想像できなかった。

2011年12月16日Friday 晴れ
寒風。
午後から税務署へ申告受付の研修に行ってきた。身延支所から鰍沢までの富士川沿いの行き帰り、今日は寒風が吹き荒れていた。車の中はあったかいけれど、外で仕事をしている人たちを見ると皆厳しい表情で作業をしていた。枯葉や砂埃が舞い、遠くが霞んで見えた。税務署の研修室は暖房が止められていて、ここは冷蔵庫のように冷たかった。そんで申告の訳の分からん話を聞いているのは辛いことだった。隣町の職員のM氏に会った。税務課長をしている。3月で辞めることだけを伝えた。皆年相応に髪に白いものが目立ってきたりしている。
暗くなっているので分からないが、寺のケヤキの葉もこの風で大分落ちたのではないかと思う。今週の勤めも終わった。明日は少し寝坊とするか。

2011年12月15日Thursday 晴れ
「山住雑記」読む。
夕べから小林波留著「文集 山住雑記」を読み始めた。430ページでちょっとボリュームがある。「アルバム」という文の中に、件の「書屋」が出てきた。「夜書屋へ引籠って波留夫のアルバムを開いて見た」というところ。想像するに著者はこの「書屋」を日常使っていたのだと思った。やっと半分を越えたところだが、今夜また眠りに落ちる前に稼ごうと思う。山口青邨の主宰誌「夏草」と、自身の句誌「幹」に書いた文章から編まれている。どれも、400字詰め原稿用紙にすると3枚、3枚半という限られた字数の中に、書き手の思いが無駄なく清い流れのごとく書き込まれ、読み手もそれを喉を潤すように読むことができる。とても懐かしい風景に出会ったような気分になった。奇しくも僕はこの波留氏のご長男と高校の同級であった。波留氏の生年を略歴で見ると、私の父と同年であった。今朝も小一時間ほど「山住雑記」を繰った。父と子として同じ時代をすごした思い出が僕にも湧いてきて、冷たく寒い身体を温めてくれるよう感じ、活字を追っている時間を区切らなければならないことがとても惜しかった。

2011年12月14日Wednesday 晴れ
65歳まで働けよ。
道浦母都子「花降り」読了。急ぎ足で昨日から今日の昼休みで駆け足で読み終えた。道浦さんの初めての小説との事だったが、歌人道浦母都子の描く大人の淡い恋が、なんだかとても切なく感じたよ。著者は、かつて飯富に一時住んだことがあったのだ。ご主人が飯富病院の医師をしていた。激動の時代を生き抜いてきた福島泰樹らと共に在る僕の好きな歌人でもある。
本を読むには、晩酌をほどほどにしてとにかく本を読むことのできる時間を作らなければならない。本を読むときにはほかのことは一切できない。夜と、昼休みと、勤行と朝食までの間の時間が勝負なんである。李良枝の本と共に、小林波留「山住雑記」「続山住雑記」を借りてきた。
65歳までの再雇用を義務付けなんて記事を見たけど、年金の支給年齢の引き上げをやめられないのだろうかと単純に考えてしまう。働きたくない人だってたくさん居るはずである。なんぼ生きたって100までなんだ。100で死ぬのに、100まで百姓ができたり、100まで元気に街中を走っているなんてことはできないだろう。僕はどう考えても、60ってのが一応の線引きにはいいのだと思うけれど。まだ会社勤めがしたいって人なら別だけど、65まで無理やり働かせて、年金支給年齢に帳尻を合わせるってのはけしからんのじゃないかと思えてしまう。

2011年12月13日Tuesday 晴れ
「書屋菜を吊りて青邨門下われ」。
「街物語」読了。1998年4月から2000年4月にかけて、朝日新聞の土曜夕刊に掲載された作家の小品が納められたものだった。ちょっと分厚かったが、少しずつ知らない作家のものも齧ることができた。道浦母都子「花降り」を読み始める。ちょっと忙しい。もう一冊読まなければならなくて、明日には新刊の李良枝全集を年末年始にかけて借りて読むことにしている。図書館の新着図書の中にあった小林波留氏の「山居雑筆」も借りて読みたくなっている。
小林波留氏の句碑が丸畑の「木喰の里微笑館」の敷地内に建立されたことから、その句「書屋菜を吊りて青邨門下われ」について、小林氏に師事したW氏、M氏に幾分時限の低い質問をしてしまったようだが、お二人からご丁寧に回答をいただいた。「書屋」という言葉を知らなかったので、調べてみたら「書屋(しょおく)」(勉学する家や部屋。書斎)などのことだとわかったが、「しょおく」ではどうも違和感が残ったのだ。
今夜、さらにしつこく、じゃ、いったいこの句は、言葉にして読むとどういう風に読むのですか?と質問をした。例えば句会であれば、披講するときには声を出して句を読むのだから、作者が「書屋菜を」をどう読んだかは答えが出ているだろうと思う。活字はルビを振らなければ読み違えるということも考えられる。とくに17文字の詩の宇宙ではきっと大事なことなんだと僕には思えるので、ちょっと僕にとってもここは抑えておかなければいけない読み方なんですよ。

2011年12月12日Monday 晴れ
絆。
今年を漢字一字であらわすとしたら「絆」だと。これが今日発表された恒例の「今年の漢字」。2位は「災」、3位は「震」だったということだが、まあ「絆」が無難なんだろうな。9ヶ月がたって、このくらい何も先が見えない事故ってのは、おそらく誰もが初めての経験なんではないだろうか。それなのに、原発の再稼動だなんてことばかりを力説する。
夕べは久田子から分けていただいた鹿肉を堪能した。肉がまだ生のままだったので、そのまま焼肉プレートで焼いて野菜と一緒に食べた。これは酒もうまかったが、白米のご飯にとてもよくあった。久しぶりにがっつりと肉を食った。
「坂の上の雲」を見て、風呂に入って、布団にもぐりこんで30分ほど読書。9時から「トンイ」を見て、10時にはもう睡魔が覆いかぶさってきて眠りに落ちた。その代わり朝は早かった。4時35分起床。月が西の山に沈む間際だった。富士川側に向けて月明かりがあった。寒い、ほんとに一段と寒さが沁みてきた。5時半前から居間で読書。ストーブで湯を沸かす。やがて女房が「寒い寒い」といって起きてくる。またいつもの一週間が始まった。
「坂の上の雲」は、おびただしい死者を出す地上戦。なぜあそこまであんなに簡単に人を死に向わせられるものだ。まったく、将棋やチェスの駒と同じに人間が扱われている。どうにもああいうものは理解できない。やらなければやられるということだけなのだろうか。徳川の太平の世を越えて、再び地湧き肉踊る闘争本能がよみがえってどうにも仕様がなくなった獣の血がそうさせているとしか見えなかった。こういうテレビはやはり見るのも辛い。

2011年12月11日Sunday 晴れ
寒くなった。
がくんと一段落ちたようにまた寒さが増してきた。裏の池は氷が張った。それでもまだケヤキの大木は裸にならない。こんな年も珍しい。
今日は煤払いをした。庫裏、客殿、本堂、住居、鐘楼、山門、蔵。それぞれの周りをぐるっと青竹で払った。ひとつずつすることを片付けていく。毎年同じことの繰り返しだが、まあ飽きるというようなことはない。その年々に同じことをするにしても、頭の中を巡る思いは違うものだ。そういう新鮮さはある。
夕べは、女房と娘とで若大将で忘年会をした。店に行って好きなものを頼んで食べて、僕は熱燗を飲んだ。若大将にも今年は法事の仕出しを何度かお願いした。店にも歳末に賑わいがあった。店が流行っていない年の瀬では世の中が暗いってことだ。でもまあよかった。来週からはいよいよ師走も後半である。

2011年12月9日Friday
ボーナス。
今日が最後のボーナスだったんだ。30回目の冬のボーナスをいただいて、これから先の人生にはもう賞与なるものはない。これが縁切りの手切れ金だと思った。実はもう賞与の支給明細は今週頭に貰っていた。何しろ現金支給ではないので、貰うという実感はもう随分となくなって久しい。今日、山梨中央銀行六郷支店の僕の口座に税金やその他を引いた手取り額が振り込まれただけ。金の管理はすべて女房任せなので、僕は通帳も見たことはないし、給与明細だって毎月貰うが配られてもその中身を見たことすらない。「くれるだけをもらっておけ」といった感覚しかない。最後のボーナス。チェッカーズの「涙のリクエスト」みたいに腕をぶんぶん振り回しながら、札束を振りまくなんてことはついぞなかったなぁ。
女房から、「ありがとう、ご苦労様」なんて思ってもらうことももうないのかもしれないな。少しさびしい気分だ。昼休みの終るときに、Nさんから「少し大きくなっちゃってるけど」といってビニール袋に入っている椎茸をもらった。今夜はこれで一杯飲んだ。いくらあげますってだけの、数字の書かれた紙切れを貰うより、食べ応えのある椎茸のほうがずっと暖かくなる。

2011年12月8日Thursday くもり
「世捨てという思想」。
今読んでいる車谷長吉の「物狂ほしけれ」という随筆のなかに「世捨てという思想」という一文がある。今朝はJohn Lennonのイマジンを聴きながら朝の読書をしたのだ。知っている人は知っている、今日はジョンの命日。で「世捨てという思想」を読んでいた。車谷氏は、金と無関係に暮らしてはいけないけれど四つの途があるといっている。
@出来るだけ少ない収入で、出来るだけ少ない支出で生活する。
A出来るだけ多い収入で、出来るだけ少ない支出で生活する。
B出来るだけ多い収入で、出来るだけ多い支出で生活する。
C已むなく少ない収入で、出来るだけ多い支出で生活する。
という選択があるという。氏の場合は@を信条とし、氏の奥さんはAに当て嵌まるという。なぜ奥さんがAかというと、女の方が平均寿命が長く、旦那が亡くなったときのために貯蓄用につつましい生活をするということらしい。Bは現代人の9割方の生き方だといっている。Cを僕は「こんな生活できるんかいな?」と思ったが、消費者金融とかサラ金で金を借りまくって生活する生き方だそうだ。この生活は当然危険度も相当に高く、生活破綻していくこともある。だが現代は「金を借りるのは恥」から「謝金は恥ずかしくない」へと「倫理観も変化してきているといっている。確かにそうだ。僕の欄年の春からの生活は差し詰め@の生活に近いものになるのだろうと思う。というより、ならざるを得なくなるかもしれない。だが、Cのような展開に陥ることも自戒しておかなければならないだろう。それでも著者は@の生き方を選びながらも、「浮浪者、ホームレス、フリーター、アルバイトだけの生活」はしなかったという。「自分の人生に方針がない」「生活の形がない」「曖昧で、どこに中心があるのか分からない」という。「一種の世捨人ではあっても、一本筋の通っ」た生活でなければという。何とか明日この本も返却できそうだ。よい随筆に出会ったなと車谷さんにも、ジョンにも「ありがとう」だ。

2011年12月7日Wednesday 晴れ
読書。
欲張って借りてきてしまい、9日が返還日となっているのにもう2冊残っている。月曜の朝に干刈あがた「ホーム・パーティー」読み終え、そのまま同氏の「十一歳の自転車」を読み始め、今朝になって残りの1冊にも手をつけたというか、目をつけたとでも言おうか。車谷長吉「物狂ほしけれ」。今日は昼休み当番だったので、当番している間に読み(電話が1本あったきりで、窓口応対は1件もなかった)、1時からの休憩時間の弁当後にも読み大分ページを稼いだ。これなら金曜には何とか返せそうだ。すでに幾つかの読みたい本がピックアップしてある。月曜火曜と寒さに負けて起きられなかったが、今朝は4時45分の起床で読書にも十分だった。朝は一段と明けるのが遅くなった。月がないので5時前の朝は星明りだけでは足元がおぼつかない。
昨日から母はショートに入った。10日ほどで戻ってからデイサービスを利用し、再び28日から正月過ぎまでショートステイが使えることになっている。これも新しい家族の生活スタイルになってきているのだと思うようにしている。夕べテレビを見ていたら、僕なんかがよぼよぼになって使い物にならなくなる頃、巷に老いぼれは溢れ、収容できる病院とか介護施設はとても足りなくなるのだそうだ。今そこまでのことは深刻に考えるのは愚かなこととしておこう。

2011年12月6日Tuesday 晴れ
お茶のこと。
月に一度の「税通」にかかりきる。他にはまったく目を向けない。始業から終業までかかりきりになってこなす。こういうことが結構好きである。昼飯の弁当を食べて昼休みの読書以外はお茶も飲まない。大体において僕はあまりお茶に関心がない。うちでも女房や娘はよく「お茶する」ことがあり、「どう?飲む?」と訊かれたりするが、たいていは無関心よろしく「要らない」と断る。彼女たちはコーヒーを飲む。僕はコーヒーをほとんど口にしない。コーヒー断ちをしているわけではないが、コーヒーに関心がない。お寺にお出でになるお客様にも、女房はコーヒーを出すことがあるが、いつだったか「私はコーヒーを飲みません」とおっしゃる方がいて(同行した方たちはみな飲んだが)、僕は「やっぱりコーヒーはいかん」と思った。相手が飲んでも飲まなくても、緑茶を入れて出すのが無難なのである。

2011年12月5日Monday 晴れ
身延駅から奈良田温泉間での運賃はポッキリ千円。
早川町の職員が二人で午後訪ねてきて、「平成24年1月1日より身延駅〜奈良田間は『早川町乗合バス』が運行されます」というチラシを置いていった。山交タウンコーチの路線バスが大晦日をもって廃止となることが理由のようだ。どの町も皆独自のバスを走らせたり、乗合タクシーなんかを考えて運行している。公共交通が皆撤退してしまったことによるものだが、バスに乗る人口も激減している。採算の取れないバス路線だ。バスになんか普段乗ることはない。東京のお盆に行くとき、町田駅から藤の台団地までバスに乗るのが1年に1回だ。ただ僕にもやがて老いがきて、自分で自動車の運転ができなくなるときもくるかもしれない。そんなときには、よぼよぼと手摺を支えにバスに乗り込むことになるのだろう。早川町乗合バスは、午前と午後に2便ずつ。朝6時30分に奈良田を出るバスが身延駅に着くのが8時5分。1時間半の所要時間。今の時期の早川はとても紅葉がいいのだ。ワンカップ片手にこういうバスの旅もいいかもしれない。

2011年12月4日Sunday 晴れ
法事有り。
東京の牛山家の法事。11時からだったので遅く起きて、それでも雨の後だから墓地への道を掃いたりしなければと思いつつ、朝食後に外に居ると、9時半過ぎにはもうご一家到着。東京から来るのはその時々のタイミングがすべてなんだそうだ。空いていたら早いし、僅か300メートルくらいでも、渋滞にぶつかったら30分くらいかかってしまうのだとか。高速に乗るまでが勝負なのだそうだ。なので、今日はとてもとてもスムーズにいったのだそうな。
雨が上がってよく晴れて暖かな一日となって、もみじもいっそう鮮やかで、何もない寺は紅葉が何よりのおもてなしになってくれて感謝感謝。親戚の方4人が安曇野から来てくれて、牛山さんも今日は大分気分がよいようで、日本酒も結構いけた。雨なら少し重い気分になるだろうが、こういう冬の晴れた日は、誰もが幸福な気分になるのだ。それから、師走に入ったので、この一年を振り返って、いろんなことがあったけど、よい締めくくりの月にしたいと言葉には出さずも、皆がそう思っているように僕には感じられた。

2011年12月3日Saturday
もうあと1時間。
支所日直。もうあと少し。何もなし。雨の日だったので、今日の日直はよかったかも。家に居ても寒くて膝を抱えて何もしたくなかったと思う。おかげで寺務がこなせた。新年のシメを切った。支所の入り口用にも秋山家用にも。清掃業者が入って、雨の中を外の窓拭きなど、時々外を眺めて、合羽を着ているがいかにも寒そうだった。これも仕事なんだな。あと1時間ほどで終了。雨は上がった。明日は天候がよくなるらしい。東京の牛山家の一周忌も良い天気の中でできるだろう。
夕べは「あずみの」で所長、Mと3人で飲んだ。多岐にわたる話を心置きなくした。出された料理はどれも皆うまかった。そばやだがそばは食べずに9時半に女房が迎えに来てくれて解散。ここの鳥もつ、前から甘さが際立っていまいちだと感じていたが、夕べの鳥もつはとてもおいしかった。
今日は一日山下洋輔を聞いた。もう35年ほど前、初めてに山下トリオを見て聞いた。厚木あたりの小さなホールだったような気がする。山下、坂田、小山の第三次トリオ。今でも、山下トリオ好きだな。

2011年12月2日Friday 小雨
冬の節電。
屋根を打つ音が聞こえていたが、起きる頃には「やんだのかな?」と思うぐらい静かだった。3時前位から目が覚めてしまって、頭の中で経を読んだり、修験のいろいろな願文を読んだりを繰り返しながら、それでもウトウトと眠りにも落ちたりしながら4時40分に起きた。果たして雨は降っていた。静かに細い雨が外にあって、傘をさして本堂に渡った。
雨の今朝は冷え込んでいた。テレビでは富士五湖の方じゃ雪が降るかもしれないと予報していた。夕べテレビを見ていたら12月初日で、冬の節電対策の要請が始まったと伝えた。寒くなると当然暖かくなりたい。職場でも暖房をつけることが当たり前になってきた。3.11から9ヶ月になろうとしている。もう余り被害のなかったこの僕の住む地域では、ほとんど頭の片隅にやられてしまった出来事のように褪せてきている。できるだけ我が家では意識を持って節電に心がけたいと思う。寒い時期のほうが一日中だらだらと電気に頼る生活になる。年末年始なんてのもそうかもしれないね。我が家じゃ、年末はそうでもないが、年始の3日間は本当に大解放されてのんびりして、僕なんぞは酒を飲んで音楽を聴いて温かいカーペットの上に、老猫よろしくゴロッとなって過ごしてしまう。箱根駅伝も朝から最後まで2日間見てしまう。
夜が必ず明けるのはわかりきっているが、それでも明るくなるのが遅いのはなんだか悲しいくらいに心細い。

2011年12月1日Thursday くもり
師走入り。
残り一ヶ月の月となった。忘れられない年になることは間違いない。僕にとっての「父母の戦時中」のようなものなのかもしれない。子供たちにとってもそれぞれに今年は忘れられない年になるのだろう、特に娘にとってはそうだろうと思う。正月早々からとても大事な年上の友人(あえて友人と呼ぶ)を亡くした。長く不動尊の信者だった方をも亡くした。大きな震災があった。原発が“やっぱり”事故を起こした。
今朝の4時45分の外は星もなかった。夕べの天気予報は「明日は雨」だったので、これから降ってくるのだろうと思いながら本堂に入って、師走最初の祈りの時間を持った。外も中も暖かだった。これも雨が降る天候になるからだ。終えて再び石畳を歩き客殿に戻るとき、雨の落ちてきているのがわかった。
干刈あがた「ラスト・シーン」読了。
(7:07) 朝食を挟んで、今雨は落ちていない。外はまだ明るくはならない。部屋にもあかりが必要。紅白歌合戦出場歌手の紹介と、女子中学生殺害で再審開始決定のニュースが交差する朝。これがこの国の師走の始まりか。

2011年11月30日Wednesday晴れ
11月晦日。
11月も今日で終わりだ。残り一ヶ月。静かに過ぎて欲しいと例年思うのだが、今年は静かに過ぎようが、底辺にどっかりと居座ってしまった深い大問題はどうにもならない。まだ夜の明けない今午前6時4分。お勤めを済ませ30分あまり本を読んだ。干刈あがた「名残りのコスモス」。短編なので、夕べから読み始めもうすぐ終えてしまうだろう。この前に、干刈の長編「黄色い髪」を読み終えた。これを読んだからか、それとも夕食時に明日息子が日帰りで帰ってくることを女房から聞いたからなのか、今朝目覚める前、息子のことを夢に見ていた。年明けに、彼曰く「学会に行く」ために、パスポート申請をしてあるのだ。ポルトガルらしい。学会とはいっても、ゼミの指導教授に同行するくらいのものなのだろうとは思う。干刈あがたの小説は過去にも何篇か読んでいる。なぜ干刈さんを今回選んだのかまったく自分でも意味不明だが、図書館にあったものを全部借りてきた。そんなに氏の蔵書はなかったが。
夕べbt.etreeでString Cheese Incident の11月26日に行われたliveの音源を落とした。String Cheese Incidentのliveは久しぶりにあったような気がする。今朝はこれを読書の友として今も聞きながらこれを書いている。ホットカーペットの尻があったかい。今朝は寒さもそんなにきつくない。

2011年11月29日Tuesday 晴れ
カメムシ。
今朝のカーネーションを見ていて面白い言葉のフレーズがあった。「軍服。あんなカメムシみたいな不細工なもん」。今秋が終わりに近づいて、スズメバチがその生涯を閉じる間際の生を山茶花の花の周りで生きている。寒い朝には、ふっといスズメバチが生き絶えて玄関先に落ちていたりする。本堂の畳の上に敷いてある古い絨毯の下なんかにカメムシをよく見る。今の時期、枯葉色したカメムシが長靴のなかに入っていたりして、靴下に匂いがついて不快な気分になることもある。で、そのカメムシの姿をこのフレーズが実に的確に表しているもんだと、今朝テレビ見ながら感じて、忘れないようにすぐメモ書きしておいたのだ。カーキ色の角ばった軍服はまさにカメムシの形をしている。スズメバチもイヤだが、カメムシも僕はイヤだ。そんで今カメムシみたいな奴がファシズムを標榜する橋下某だ。
今朝は起床後に慎重な行動をとったので板戸に顔面をぶつけることはなかった。朝がいつまでも明けずに暗くて、夕には雨になるのかなぁと思いながら家を出たが、結局帰るまでには降るに至らなかった。

2011年11月28日Monday くもり
11月不動。
府知事から鞍替えして大阪市長選に臨んだ橋下が予想通りに当選を果たし、府知事にも維新の会の候補が当選した。既成政党のだらしなさに飽き飽きしている民意の現われなんだろうけど、これも僕は流行り病のようなものだろうと考えてはいる。ただ、この橋下は危険極まりない男だ。民意がどこまで彼の鼻水の糸に引っ張られて付いていけるか。鼻水が乾いて固まってしまうとちとややこしくなるかもしれない。自分に賛同できない者は切り捨てていくという姿勢なのだから、橋下なんてのも、このどん底の時代に出現するカリスマ性を持ったかつての麻原のような存在なのかもしれない。
どんよりと重たい一日であった。吾が生れ月は手漕ぎ舟のごとく真っ暗な波間に出てゆく。もう決して帰ることはない。師走を乗り切って、新世をこじ開ける。
考えたんだけど、ヴァンフォーレ甲府っておそらく強いチームにはなれない宿命なんだよ。だから、別に1でも2でもいいんじゃないか。V甲府がやってるサッカーを山梨の人たちが応援してるって事が大事なんだ。だからホントに、1でも2でもかまわないんだよ。

2011年11月27日Sunday 晴れ
11月も終わりだ。
金曜の忘年会。次の日に法事があるので、少しは控えようなんて思っていたけど、飲み馬鹿は知らず知らずのうちに引き込まれていってしまって、どんな風にして帰ってきたのかさえ思い出せない。普段飲まないような酒をたくさんいただきました。昨日は9時から原の秋葉社のお祭りに。椚林の中に建つ小さな火伏せの社で一年に一度法螺貝を吹き祝詞をあげ、神仏混交のお祈りをさせてもらっている。幸い火災がない。11時からI家の法事。終わったあとの食事開に招かれる。ここでも遠慮せずにいただいてしまったので、夜は風呂も入らずに寝てしまったが、今朝はこの不摂生が祟ったのか食欲もなくひたすらに気持ちの悪いのを耐えながら、時間が回復されてくれるのを待つ。3時過ぎになって檀家への通知をもって歩く。いよいよ外も寒くなってきた。11月ももう終わりになる。
昨日も開かなかったメールを開けると内藤君から届いていた。樺美智子の「最後に」という詩が書かれてあった。去年の夏に日本赤軍関係の本や死刑制度の本、それから60年安保の頃の本もたくさん読んだので、樺美智子のことも何冊か読んだ。山尾三省が大好きなんだが、意外だったのは彼もこのデモ隊の中にいたのだった。まあ僕が勝手に三省はこんなデモの中にはいなかったのだろうと作り上げていたので、あの時代に早稲田の学生だった三省がデモに行かないほうがやはりおかしいのだろう。樺さんも三省も、今のこの時代を人知れずほほえむことなんてできてはいないのだと思う。この世にいても悲しいのだもの、あの世もきっと悲しいはずだ。

2011年11月24日Thursday 晴れ
Lee Konitzの Another Shade of Blue聴きながら。
誰かが言っていたけど、休みが続いたり、自分で休んでしまう日が続くと仕事にいくのが嫌になってしまうと。そんな感じだったかな今日の朝は。寒さが急に増してきたことも要因にはなっている。今朝はがんばって4時45分に起きて、お勤めのあと読書。ストーブとホットカーペットで短いが充実した静かな読書時間を楽しめる。
午後から本庁にいって、臨時職員への源泉徴収票の事務処理などの説明を受ける。便利になれば便利に慣れるまでに時間がかかる。手で処理したほうが早いなんて尻込みしていると、いつの間にか上から指示された所定の用紙や帳票でないと事務処理の決済をしてもらえなくなる。乗る波に乗り遅れたら大変なんである。それか、そういうところからはるかに離れていく場所に「えらくなって」いってしまうしかないのである。
北海道で地震のニュース速報あり。

2011年11月23日Wednesday 晴れ
55歳になった。
ぞろ目が次に来るのは66歳で、父があの世へ逝ってしまった前の年ということになる。なので、あまり次のぞろ目の年のことは考えたくないなと正直思うのだ。今朝も朝が寒かった。それでも6時半前に起きてお勤めを済ませ、今日は家にいて寺のことをしたのだ。檀家への年末の通知詰め、新年の護摩札の案内通知。法事のある檀家から頼まれた調べ物。客殿の準備などなど。午前中は風もなく天候もよくなって穏やかで、洗濯物もよく乾いたし、布団も乾したりしたが、午後3時くらいから風が吹き始めやがて雨が降ってきて暗くなったので、早めに夕のお勤めを済ませた。その後、前日大きな書の額をいただいた望月翠山さんから「いま伊沼に帰っているからこれから伺いたい」とのことでお迎えした。望月さんが来るホンの少し前に、甲府へ出かけていた女房と娘が帰ってきてくれたので、お茶の仕度をせずに済んだ。望月さん曰く、甲骨文字は本来書ではなく彫られた文字であるが、書の研究の過程で自分で書き始めてみたとの事だった。いただいた「大聖」の字は、大は人が足を開いて腕を伸ばしている字で、聖は人が横向きになっていて、右側に大きく耳が垂れていて、その下に、口があるのだが、顔の口ではなく、箱のようなものの口が聖の口なのだそうだ。
寺に居て静かに過ごした誕生日であった。貴永さんからもお祝いメールが来た。特別な日も特別でない日も、僕たちは祈りの場所を確かに持ってそのことをしているのだ。それでいい。

2011年11月22日Tuesday 晴れ
退職予定者説明会があった。
日曜のお昼前に隣りの家の嫁いだ娘さんが回覧板を廻しにやってきて、「お母ちゃん、22日に施設に入所することになったから」ということを伝えてくれた。母はいま、ショートステイに行っているので、帰ってきてから隣りを訪ねてももう誰も居ないことを伝えて欲しいとのことだった。これで僕の組から1軒減ってしまった。今日入所して、おそらくもう帰ってくることはないだろう。隣りは子供たちも皆外に出てしまっているので、もう家を継いでいくものはないのだと思う。少しずつすこしずつ、剥がれるように集落が寂しくなっていく。昨日の午前中、下田さんと落ち葉掃きなどして終って軽い昼飯を食べながら、「静かだねぇ」と話した。ほんとに時間が止まったように静かだった。来年の春からは僕は毎日この静かな時間を過ごすことになるのだ。
昨日の午後、Sさんから、無事娘さんの出産が終ったことの報告があり、母子ともに元気であることも知らされた。夕のお勤めでお不動様にお礼の報告をした。午後、共済組合の「退職予定者説明会」に参加してきた。定年退職となるT課長と一緒に行き、お昼をご馳走になった。僕は年金をもらえるのは62歳かららしい。何とか食いつないでゆかなければならん。54歳最後の夜に。

2011年11月21日Monday 晴れ
下田逸郎Liveに感謝。
12時29分の甲斐岩間からの電車で下田さんは次のLive地、長野県の鬼無里へ。昨日も今日も天気がよくて暑いくらい。特に昨日の午後からの暑さは、ホントにこれが11月20日か?ってくらい。下田さんは前夜の箱根でのLiveのお客さんの車で来寺。午後1時半頃に着く。三度目になるともう慣れた感じなのか、今日はこの位置でやろうと即決で、お茶飲んでからすぐに焚き火。雨の後だったので、ストックしてある杉ッ葉を焚き付けにしてスタート。再会を楽しみながら焚き火。同行してくれたお友だちご夫妻は暫しザリガニ釣りなどを。釣れても釣れなくてもこうやって遊ぶのが楽しいと。遊びだな。
愛知からも静岡からもこんな田舎寺に来てくれてありがとう。30人位来てもらって4時半からスタート。下田さんの作品をうたっている歌手がらみのお話も交えながら、大サービス?の名曲のオンパレード。愛知の高橋さんご希望の「月のあかり」も披露してくれる。昼の暖かさの余韻の残る客殿は、ストーブ要らずで上々。聴きにきて欲しかった人たちが来てくれたのが嬉しかったし、あの世にいった人たちも聴きに来てくれて楽しんでくれたのだと思う。甲府から行蔵院、玄法院のご住職も高い酒を土産に来てくれた。すべていただいてしまいました。楽しい楽しい宴会も十分に取ることができた。今朝は午前中落ち葉を集めて焼き芋。下田さんにはよく働いてもらって、日当でも払わないと申し訳なかったかもしれない。シルバー人材センターってのがあるんだよと教えてあげた。下田さんは登録できる年齢です。甲斐岩間へ送って再会を約束してお別れ。祭りの後はなんとなく空っぽの気持ちになってさびしい。1年か2年後にまた。みな元気であって会えるといい。

2011年11月19日Saturday
久しぶりの雨でとても寒い一日。
孫が生まれるので名前を見てもらいたいと東京に住む方から手紙を貰った。檀家の次男坊で今は東京に住んでいるのだが、自分の子どものときも先代に名前をみてもらったが、結婚したその息子も僕に考えた名前を判断してもらいたいと希望していると書いてあった。男の子ということが分かっているそうで、両親の名前と生年月日、それから考えた子どもの名前がひとつだけ書かれていた。いくつかから判断するのであればいいかと思っていたのだが、ひとつしかないので、正直これが余りよくない判定になったらどう伝えようかと悩んだが、名の陰陽配列もよく、特に悪いところはなかったので、よろしいでしょうということを書いて返事を送った。僕自身はあまりこういうことにこだわらなかった。二人の子どもの名前も、呼びやすくていい名前をという理由でつけた。「開(かい)」と「藍(あい)」である。例えば開人(かいと)くんとか藍子ちゃんだとしたら、だいたい皆から「かいちゃん」とか「あいちゃん」と呼ばれるだろうから、それだったら初めから後ろの字はなくていいと思ったようなそんな考え方である。ただ息子にはもしかしてして僧名を付けるとしたら“永”の字を冠す事になるので、その辺のことは少しだけ考えた。「永開」さんという得度名も正式に持っているのであるが、息子は永開さんとしては生きてはいない。
両親がこのことを思って付けてくれた名前であれば、吉凶なんて問題ではないと僕は考えている。そんなものを吹き消すくらいのたっぷりの愛に満ち溢れているだろうからだ。
明後日の月曜日に帝王切開で生れることになっている信者さんのお孫さんと娘さんの安全祈願も頼まれている。僕にもこんなことを心配するような日が来るのだろうか。
寒い日になり、早川の南アルプスプラザへお昼ご飯を食べに行ってきた。だんだん混んできてやがて席がいっぱいになった。雨でなければもっとお客さんは並んだりしたかもしれない。「辛トンテキ」を僕は食べ、女房と娘は味噌ラーメンを食べた。

2011年11月17日Thursday 晴れ
人知れず。
今朝は台所にストーブを入れた。エアコンよりも灯油ストーブのほうが便利。毎朝水を足して沸かし返す湯もガスを使わずに乗せておけばそのうちに沸騰する。
勤め先の支所でも今日はじめて暖房を入れてみた。10時過ぎになると陽射しがあれば締め切った室内は段々温度が上がってくる。だから、朝一番で入れて事務所内を暖めて、10時頃になったら停めればいい。冬は午前の早い時間と午後4時過ぎくらいからが冷える。
母は今日から一週間のショートステイ。家に居ても何もすることがなく、おそらく新聞を読んだり、本を読むなんてことだっていまはもうそこに神経が集中できないのだ。だから、家に居る日は朝から暗くなるまで外を歩くか畑の草を引き抜き続けている。デイサービスに行くことが楽しみになっているようだ。ショートステイももう4回目となれば、ある程度自分で落ち着いて一週間をそこそこ楽しめるようになれるかもしれない。母が留守になると、先ずすることがある。ウォシュレットの操作パネルを洗面台下から取り出してトイレの壁にセットする。このパネルを母はおもちゃのように使ってしまうので、水が壁に飛んでしまったりしたので、普段は外しておいて、私たちにとっては不便極まりないのだが、手動で洗ったり水を流したりしているのである。
実は僕にはトイレ使用に関して、常人には理解しがたい心遣いがあるのである。自分たちの住居側にはこのトイレがあるが、寺の庫裏にもトイレがある。男女別のトイレがある。このトイレも僕は普段使っている。来客のときだけでなく使用しながら、貯水槽からの水を回転させている。自分にできる限りの平等性を持ってトイレを使い(勿論女子トイレも僕は使う)、その機能をさび付かせない状態にしている。毎朝の髭剃りは庫裏の洗面所を使っている。歯磨きは半分半分だったりする。週一の散髪は真冬でも庫裏の浴室で真っ裸になってしている(一人でバリカンで刈っているから)。冬の庫裏の北側は寺でも一番寒くて冷える場所なので、水周りを凍らせてしまわないように気をつけている。こんな風に僕には家族にも知られていないような、人知れずの気遣いがあるのである。こんなことをもう20年近く続けている。こんなことを書き始めて、書いていることさえ馬鹿馬鹿しくなってくる。ので、これくらいでお終いにする。

2011年11月16日Wednesday 晴れ
八幡様の脇道で銀杏の実を踏んでしまい、車の中が臭くて。
今朝は女房が起きてきて、「寒い」といって台所の暖房を入れた。部屋の温度が10度だったそうだ。確かに今朝は冷え込んだ。北の国じゃもう雪の季節だ。11月ももう中旬だものな。電気カーペットでぬくもった尻になんともいえない心地よさを得ながら本を読んでいたので、「寒い」といって今年初の暖房に手を出した女房の行動を押し止める気持ちは無くなっていた。今朝の5時前の空は月明かりが十分にあって冴えていて、天井の星星もその輝きを失ってはいなかった。星座なんて多くは知らないが、生き物が誕生した時代にはすでにこの光があったのだと思うと、なんて高飛車に生きてしまって取り返しのつかない愚かなことを引き起こしてしまったのだと情けなくなった。
どうしてもそういう生活に慣らされてしまっているからかもしれないけど、厚着で寒さを乗り越えるってのは風景が寒い。僕は寒さが余り好きでない。できるなら暖かい場所に住みたいと思う。寺は密閉性に全く優れていないので、寒く冷えている。常時その寒い場所にいるということでもないが、その場所を耐えなければならない時間はある。いつもの年よりは幾分意識的に控えることを心しながら暖房は使いたい。灯油ストーブくらいは冬の生活の最低限の気持ちの支えだ。

2011年11月15日Tuesday 晴れ
今朝は昨日より大分寒かった。
南直哉(じきさい)著『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』読了。同世代の曹洞宗僧侶のこの本はとても参考になった。来年以降の僕の生活観を考えていくよい調べになった。導の著になったかもしれない。在家から出家した方には発意がより深く感じられる。先日お会いした日蓮宗の筒井上人にもそれが感じられた。僕は何の因果か寺の子供として生れ落ちたが、その道程は決してそこに胡坐をかいて、敷かれたレールを転がっていくようなものではなかったとも思っているが、やはり、僧侶になりたいという覚悟とか発心するという面では在家からの彼らほどのものはなかったかもしれない。「坊さんにでもなるか」というような恥ずかしい思いを持ったことは確かだ。だが、「坊さんにでもなるか」については、祖父から、「おまん、なにょぉいってるだ」(僧侶だけで生活できていける寺ではない)と一蹴されはした。そんなこんなでいまの僕がここに転がっている。夜が明けてくる前に本を読み終えて、朝早くから幾分気分が上昇している。年末年始のこともまたはじめなければならない。

2011年11月14日Monday 晴れ
蚊やハエが出る。
暑い日が続いています。気分の乗らない月曜日なのに今朝は十分に睡眠をとったせいか朝も4時45分には起きられた。寒くなかったのが一番だったと思う。お勤めを終えて台所でいつものように本を読み始めると、蚊が耳元で鳴った。陽気がいいので蚊が出てきたのか、そういえば土曜の下部ホテルの昼食にもハエが何匹もうるさく舞っていた。女中さんがそれを認めて憎々しげにしていたが、まさかその場所で蝿叩きを使うわけにもいかない。出勤にダウンベストも着なくて平気だったというか、波木井橋の上を歩きながら、ベストを着てこなかったんだと気づいたのだが、寒くなかった。日中も暑いくらいだった。帰りの波木井橋の上も冷たい風もなく「こんなんでいいのかなぁ」なんて思いながら歩いた。
暑ければ女房とも「暑いよなぁ」で会話は済むのだ。住民からの通報があって、側溝で瀕死の猫をその場所から片付けて解放した。気の進むことではないが片付けに行かないと、怠慢だとか言われる。家と家の間の狭い溝であれば、自分たちで何らかの措置を講ずべき問題であると思う。「猫ちゃんが死んでるんです」と話す若い旦那の声だったが、「絶対に片付けに来いよな」という裏の声に畏怖した。

2011年11月13日Sunday 晴れ
11月も中旬だというのにこんなに暑くていいんだろうか。
午前中ツツジの伸びた芽を刈った。毎年冬の時期の刈り込みなんかやらなかったが、今年はやけに伸びた枝が目立つ。むさくるしいので、伸びたものだけを刈った。何年か前だったら、こんなときに深く刈り込んでしまって、来年の花芽までみな摘んでしまっていたのだ。こういうところは少し学習できてきた。資料館の生垣もついでに刈り込んでやった。午前中これをして汗をかいた。こんなに暑くていいんだろうかってくらい暑い日になった。昼飯前に頭を刈ってシャワーを浴びて、午後はTシャツ1枚でも平気だった。来週の今頃は下田さんのLiveが始まっている時間だ。何かを準備しようと思ったり、まあ今度の土曜でもいいやと思ったり。

2011年11月12日Saturday 晴れ
身延で法事。
若松屋のおばちゃんの一周忌の法事に11時過ぎには波木井山へいく。102歳で亡くなったんだから凄い。102年生きるあいだに、夫と長女、長男を亡くしている。でもまだ他の一男三女は元気にあって今日の法事を行った。下部ホテルでの会食の始まりが遅かったので、終えて帰ってきたら午後3時。着替えて外に出たり、冬ごもりはじめそうなメダカを眺めたり、本を読んだりしていたらもう夕方だ。11月の夕暮れはとても早い。これから夕のお勤めをするともう一日が終わって夜だ。タイの洪水の影響が我が家にも及んできた。女房が車を買い替えようと思っているので、今と同じニッサンのマーチにしたい希望を持っているんだけど、タイで生産しているので、車は年を越えないと入ってこないのだという。他のにしたらと僕は思うが、女房も娘もマーチがいいと言い、「わたし待つわ」ということらしい。
僕はクルマなんてなんでもいい。カーステレオさえ程よく充実していたら構わない。僕はクルマを買って7年目になるけど、まだ一度も自分で車を洗ったことがない。点検のときに洗ってくれるとき以外には洗わないので、当然ワックスなんてかけたことはない。でも、ほとんど同乗者はいないので、中もきれいなもんだ。

2011年11月11日Friday
「十日市」中止になるらしい。
一日雨が降り続いてとても寒い一日になった。毎日前日取扱いした税金などの集金に来てくれる銀行の方(退職後に嘱託で勤めている男性だが)は、一年中半袖のシャツで通していて、僕がダウンのベストを着ているのを見て「随分暑そうな格好だね」と言った。今日のような日であれば、そっちの半袖姿を見るほうが鳥肌が立つってもんだ。寒いと感じたら無理をしないで暖かくするってのは自衛本能だから仕方がない。電力の消費をできるだけ抑えるために、今年の冬は自分の暖は自分で保つということなんだろう。
夕べの県内ニュースや今朝の新聞にも載っているのが、2月に行われる「十日市」の中止のことだ。まだ正式な中止決定ではないようだが、開催する地元の関係者が協議して中止の方向で動くということになっているようだ。今年の春ぐらいから、県内の暴力団の対立が抗争に発展してきたので、暴力団に関係するテキヤを祭りから排除する祭典が多くなってきた。「十日市」はまさに「テキヤの祭り」なんである。道の両側に、ズラーッと並ぶ。僕も何年か前に行ったが、テキヤ以外にも勿論出店はある。本来の姿にふさわしい「杵・臼」などの木工製品や花木の販売もある。だが、9割以上は焼きそば、たこ焼き、おもちゃなどの所謂テキヤの出す店だ。こういう祭りの場所で、祭り客を巻き込んだ暴力団の事件が起きないとも限らないので排除するというのが理由になる。で、「十日市」自体が、おそらく余り祭りの実体のない祭りなので、テキヤの呼べない祭りなら止めてしまおうということなのだ。
地震・原発事故により祭りが自粛された春だったが、山梨じゃ、暴力団がらみで自粛した祭りは尾を引いている。僕の寺の祭りに併せた「八日市」にはテキヤの出店がある。きっと「十日市」が止めたなら、「八日市」もテキヤには遠慮してもらおうということにはなるかもしれない。それでも、祭りを中止してしまおうということにはならないはずだ。なにせ寺の不動尊祭典があり、地元の人たちみんなが作り出す真心の出店がある。必ずしもテキヤがいなくても、祭りは大丈夫だろうと思う。

2011年11月10日Thursday くもり
困らない人は困らないだろうが、困る人はほんとに困るのだと思う。
年金の支給を68歳から70歳に引き上げようと目論んでいるようだが、これも酷い暴力だと思う。一日が24時間あって、それぞれ8時間を睡眠・労働(勉学)・娯楽(遊び)に使うとするなら、人の一生だって75年だと仮定すると、それぞれ25年を勉強・労働・余暇という風に考えたいなと僕は考えている。こんな風にはうまくいかないだろうが、20年で成長して学業を終えて、60歳まで40年働くとする。60以降がいままでの働いた自分へのご褒美の時間になる。そういう生活を支える大きな柱となるのが年金なのだと思う。70歳から年金を貰うんでは遅すぎる。それから、65歳定年制なんてのもどうかと僕は思う。どうしてそこまで労働しなければいけないのか?何のための己の人生なのだと考えてしまう。俄かに持ち上がってきた年金支給年齢の更なる引き上げも、原発事故の仕業としたら、どうにも納得いかんし、一体この事故はどこまでも果てしなく、我々の生活を蝕んでいくのだろうかと空恐ろしくなってくる。

2011年11月9日Wednesday 晴れ
今夜の帰りは午後8時40分。
もう本当に久しぶりに夜に仕事をする。温泉施設に関係する地元集落との水道水利用に関しての話し合い。夜は寒くなった。7時からだったので、支所で6時半までちょっと仕事の続きもやったり。
夕べ少し飲みすぎて、朝ずるをして6時半前に起きた。今朝が冷えていたこともある。お勤めは7時前から始めて済ませた。
猫ひろしがカンボジア国籍を取得したと出ていた。オリンピックのマラソン代表選手になるために、カンボジア国籍を取ったのだ。だからカンボジアのマラソンタイムはそんなにたいしたことはないということだ。オリンピックに出たいが為に他国の国籍を取りたいものなのか?興味もなく、そんな気持ちになる猫ひろしの気持ちもわからない。尾崎豊の遺書が、明日発売の文藝春秋に掲載されると出ていた。お金が欲しくなったということなんだろう。こういうことは単純によくわかる。こんなものばかりを拾い集めているわけではないが、目に入るとついつい読んでしまう。悲しい性だ。

2011年11月8日Tuesday 晴れ
立冬。
12時過ぎにジットセレモニーホールに着く。叔父さん、永啓にあいさつ。向こうからも「ご厄介になりました」と礼をもらう。いつもの3人の葬儀はもうほとんど打ち合わせが要らない。阿吽の呼吸とでも言うのだろうか、ほぼ完成されつつある。小さな寺同士なので、たくさんの葬儀をこなしたわけではないが、もう15年くらいやっていればこんな風に自然となってくる。でも、叔父ももう、80に近くなっているのではないか。叔父は、僧であり、農をする人であり、詩人でもある。こういう存在が身近にいるのはやはりうれしいし、目標になる。
帰ってきてから着替えて飯富病院を定期受診する。ほとんど待つことなく終わり、大分時間が余っていたが、もう休んだのでそれをありがたくいただくことにした。メダカの水瓶の水替えをした。これで今年は水替えを終えて、餌やりも少なくしていって、冬休みに入ってもらう。ただ、まだ1センチに満たない稚魚がいるので、これらが冬越しができるように大きくしてやりたいのだが。暖かい日が続くとはいえ、今日は立冬である。魚たちはもう食べることへの興味を失いつつある。

2011年11月7日Monday 晴れ
にあんちゃん。
日曜の夜は6時から“江”を見る。風呂に入り布団にもぐってから9時からの“トンイ”を見るのだが、たいていは1時間意識が持たなくて消してしまう。夕べはうつらうつらしながらトンイを見終わって、10時から“にあんちゃん”を見る。結局通してみてしまった。今村昌平監督の撮った1959年の作品。炭鉱に住む在日朝鮮人の4人兄弟姉妹の物語。一番下の子が書いていた日記を長兄が纏めて出版した本が基になっている。僕は56年生れなんだが、もう間もなく55歳になる。時々今のこの時代から過去を振り返ると、随分と生活が変化してきたことに驚く。おそらく今の時代に生れた子らは、この先そんなに目を見張るような衝撃的な変化はないのではないかと思う。なにしろ、僕の生れた前後なんかはまだまだ貧しい時代だったのだ。白黒テレビがやっと普及し始めた。両親とも教員をしていたので、比較的経済には恵まれてはいたのだと思うが、小学4年までを過ごした借家には、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫はあったが、まだ父は自家用車を所有してはいなかった。電話もなかった。いまからは考えられない。“にあんちゃん”は、もっともっと貧しい暮らしぶりを映し出す。両親を亡くした4人には、もう住む家とてなかった。いまこんな映画は時代が受け入れないかもしれないが、なにか眠気を奪い去ってしまうようなマジックに僕は2時間かかってしまった。
午後4時からの納棺と6時からの通夜のため早退する。明日もまた早退する。いささか後ろめたい気分ではあるが仕方がない。冬用の衣を用意していったのだが、やはりホールは暑い。でも夏物ってわけにもいかないだろうな。明日は七条を着けるので白衣を薄手の物にするしかないな。

2011年11月6日Sunday くもり
どんよりとした曇りの日曜日。
加賀美次郎遠光の縁者だというご家族がお出でになる。夕べ下部ホテルに泊まったとか。家族三世代6人でお出でになる。祖父母、父母は以前参ったことがあるのだそうだ。二人の息子にぜひ一度この寺を見せたかったということ。息子さん方もとても感激していってくれた。もう20年以上前になるかもしれないが、不動明王のテレホンカードを作ったことがあった。今でこそテレホンカードなどというものはもう過去のものとなってしまったが、収集家もいて結構人気があった。近所にNTTに勤めている方がいたので、お話して200枚ほど作ったか。下の息子さんはそのテレホンカードを大切にお守りとして持っていたそうだが、失くしてしまったというので、厨子の前にフレームに入れて飾っておいたテレホンカードをフレームごと差し上げた。色が大分褪せてしまっているものだが、とても喜んでくれた。こういう人たちに来ていただくと、お不動様もうれしそうだ。加賀美次郎遠光からつながっている命を大切にしてもらいたい。
テレビの取材もあった。YBS系列ということで、放映するのはCATVなのだそうだ。我が家は映らないので、興味なし。オリンピックの水泳選手だった佐田徳平さんのお墓も撮っていった。DVDにして送ってくれるとの事なので、ダビングして大阪の佐田さんに送ってあげたら喜ぶかもしれない。
午後、葬祭業者から白木の位牌と塔婆が届いたので書く。朝8時ちょうどに、高野山の桜池院に宿泊した叔父から電話がかかってきて、戒名が伝えられた。間違っては困るので、お互いにしっかりと一字ずつ確認して受け取った。

2011年11月5日Saturday 晴れ
結構中身の濃い一日を過ごす。
今朝は3時半過ぎに起きてしまった。もういいやってな感じで起きて、「謎の空海」を6時まで読み、その後朝のお勤めをする。明日、加賀美家縁の方が訪ねたいとの連絡があったのと、YBSテレビの夕方のニュースの特集みたいなのに、お不動様を撮影したいということもあり、どちらも明日の午前中とのことなので少し本堂を掃除したりした。ナメコが少し出始めていた。3年前に菌を植えた木からもナメコが出始めた。1本だけだったけど、まだ出るかなぁ。楽しみだ。そんなこんなでちょっと外に出たりしていたら不動寺の叔父から電話がある。檀家の方が亡くなった報せがあったのだが、生憎、高野山への参拝旅行に出発してしまっていて戻れないので、当屋へ枕経をあげに行ってほしいとのこと。引き受けて10時に伺う。終わって葬儀の日取りなどもセレモニーホールの方も含めて相談する。叔父からのできれば帰るまで通夜・葬儀を待ってもらいたいとのことを伝えるも、余り先まで延ばすのも困るとのことで、月曜の夜に叔父たちが帰るので、葬儀は火曜とし、月曜の通夜は僕が務めることにした。決まったことを叔父にまた電話連絡。これで午前中が終わり。明日が雨模様のようなので外のことをする。落ち葉掃きと、花の終わった桔梗を刈り取ったり。こんなことをしながら午後もやがて夕暮れとなる。着替えを兼ねて庫裏の風呂で頭を刈ってからシャワー。夕のお勤めをしてこれを書いているところ。書き終わったらこれから今夜は喜田で夕食会。半年以上訪ねていない。ホントに久しぶりだ。

2011年11月4日Friday 晴れ
パンジー。
今朝はいつもの服の上に、ダウンベストを着た。朝の出掛けがちょっと寒い。段々こういう寒さになってくる。日中の気温は上がったが、終業後に駐車場までがやはり寒い。
昨日寝る前に少しだけ読んだ三田誠広「謎の空海」、今朝から本格的に読み始める。月曜から金曜の通常勤務の間に祭日があったりするのはやっぱり嬉しい。どうしても身体は土日は「休みたいモード」になってしまっているので、祭日は体が比較的働くことを厭わない状態にあってくれるのだ。
今日は午後3時過ぎから、夏ゴーヤやキュウリを植えていたプランターの土を入れ替えてパンジーを植えた。僕の勤務しているところはそうでもないが、全体の雰囲気が汲々としているので、こういう一息つけるようなことがとても大事に思える。西陽射すベランダで、ぽかぽかとゆったりとした気分の中で土をいじってポットの花を植えた。

2011年11月3日Thursday くもり
いろいろと内外で。
客殿に絨毯を出した。去年は敷かなかったが、二十日に下田さんのLiveがあるので、やっぱちょっとしたが冷えるかなぁと思った。行蔵院さんから電話で、「Live、玄法院さんと行くからねー」と、これはありがたい。僕はほとんど宣伝してません。これでは人が来ないわけだ。まあでもこぢんまりとできたらそれでいい。
注文していたツツジの苗が届いたので、午後から畑に植える。お目当ての雲仙ツツジが2鉢。あと、ミツバツツジの紅白、レンゲツツジノ紅黄が20鉢入っていた。これはお買い得だったかもしれない。畑に下ろしてここでしっかりと大きくなるまで育てて、それから境内に移植しようと考えている。春が楽しみだ。
霊場めぐりの方2組お出でになって、ご朱印3枚書く。ひと組の男性2人は新潟から来たとのことだった。まさか大聖寺が目的ではないのだろうが、寄ってくれてありがとうだ。よい休みの一日。
娘は東京へ友だちとSPEEDのコンサートを見に行く。息子は今日、ヴァンフォーレ甲府の試合を大学の後輩と見に来たのだそうだ。ネットで結果を見たら負けている。もう二部降格は決まったようなものだな。

2011年11月2日Wednesday 晴れ
ピーマン。 目取眞俊「虹の鳥」読み終える。この長編には圧倒された。沖縄が抱える問題と暴力。最後の2ページに待っているもうひとつの出来事。ここまで書かなければならんのかという思いもなくはないが、沖縄で書く者にとっては、書かなくてはいけないことだったのだろうと思う。沖縄はこの先いつまで我慢する島であり続けなければならないのか。
喜田の姉さんが久しぶりに電話をくれた。「沖縄からピーマンをたくさん送ってきたので夕方届ける」と。泡盛や特有のフルーツなら別だが、ピーマンなんてものはどこでも一緒だろうと思っていた。実物はふっくらと肥えていて、大きくて緑もいっそう鮮やか。食べてはいないがきっとうまいに違いない。まあでも、あくまでピーマンはピーマンでしかないのだ。チャーリー・ミンガス/Mingus Ah Umを聴いている。1959年に発表されたアルバム。ここにも苦悩する黒人ミンガスの思いが詰まっている。

2011年11月1日Tuesday 晴れ
薄くなっていく。 11月に入った。今日も日中は気温が上がった。締め切った事務室の中は暑い。とくに勤務している場所は午後ずっと西陽が射しているので、ブラインドを下ろして、少し窓を開けて風が入るようにもしているが暑い。
去年は11月の中旬に一泊で女房と娘と京都へ行った。紅葉にはほんの少し早いようだったが、それでも大原の里にも行ったりして楽しめた。家では母の認知症が大分進んでいるようにも思えてきていたが、介護認定のことなどは余り積極的に考えてもいなかったが。僕らが余りにも悠長に構えすぎているのを、病院の先生にたしなめられたりしてやっと今の状況とこれから先に起き得るであろうことを考え始めたのだった。介護認定の調査をしてもらい要介護1になった。12月から早速デイサービスの利用を始めた。週1回。それも年が明けたところで週2回に増やした。今は週3回になり、一週間程度のショートステイも利用している。一年前の母とはもう随分とあらゆる面において後退している。当然老いもあるのだが人相も変わってきている。僕たちのような通常の日常行動ができない。けれど、過去にしがみついて生きていくみたいなのがこの病気の特徴のように、ちょっと見第三者にはこの人が高度の認知症であるということがわからない。特に寺にお参りに来た人などに話しかけたりすると、その人は、彼女の話すことに一々肯いていたりする。どんな内容を話しているのかは知らないが、過去に培った寺の歴史などを自慢げに話しているのだろうと想像する。肉体はいたって元気だ。食欲も十分ある。一日中外を歩いている。雨が降ろうが焼けるような陽射しがあろうが外を歩いている。雨の日には外から帰るとずぶ濡れになっているが当人は全くそれが気にならない。畑に鍬を持って出ることはやめたが、畑の草をかがんで抜いている。出るなといっても出る。出るなといわれるから出るのかもしれない。先月末に要介護2になった。ケアマネージャーに介護計画をいく案が立ててもらい、またもう一日デイサービス利用を増やすことにした。次の一年後のことはできるだけ考えないようにしようと思っている。

2011年10月31日Monday 晴れ
浮き上がったり沈んだり。
誰に話しても仕方のないような、どうにもしようのない悲しみに包まれるときがある。夕べもそうだった。昼携帯に妹の連れ合いから電話を貰っていたのを思い出して、酔いに任せて夜電話をした。とりとめのないことをだらだらと話したんだ。きっと僕が酔っているのを気づきながらも、黙って聞いてくれていたのだ。逆の立場だったら僕はさっさと電話を切ったかもしれない。自分勝手な人間なんだ。どんなにか消えてなくなったら楽になれるだろうと思うときがある。夕べがそうだった。自分で自分と刺し違えてと、できもしないくせに深く思う夜だった。右側の首筋から右腕の肘辺りまでがここのところ、明け方近くに目が覚め始めると相当に痛い。どんなに体の向きを変えても痛みが薄れることがない。ええーい起きてしまえ!となる。本堂に行き、思いっきり両腕を天井に振り上げて伸びをしてから理趣経を読み始める。
目取真俊「魂込め(まぶいぐみ)」の続きを今朝再び読み始めて、ぐっと迫ってくるものがあった。短編6作が納められているが、どれもグサッと刺される。錆びた包丁で刺されるような場面が浮かんでくる。この作家は今も沖縄で書き続け、それから沖縄の真の解放のために最前線に立ち続けている。僕は目取真の物語に連なっていきたいと思っている。あーほんとうに、気持ちは浮き上がったり沈んだりだ。残り5ヶ月。

2011年10月30日Sunday くもり
衣替えにする。
天気が一転して曇り空のちょっと寒い日になった。昨日法事で、「今月いっぱい夏の衣です」と話したばかりだったが、いささか今日の天候では、夏の衣で歩くことができないなと考えた。11時の鐘を撞いていると妹の旦那から電話が入る。身延のZ寺のご住職の葬儀に行くことになっていて、わざわざ待ち合せようと電話をしてきてくれた。今日の葬儀は日蓮宗のお寺なので、どうも僕には様子がわからない。正直、こういう付き合いは苦手なほうだ。父の葬儀に亡くなったお上人にも来ていただいていた。妹の嫁ぎ先が日蓮宗で付き合いが深いということの意味のほうが大きいので、僕自身との縁はどこを捜しても見つからない。まあそうもいっていられずに行ってきた。国道から寺までが狭い集落道となるので、国道沿いのあちこちに駐車場が設けられていて、檀家の皆さんが自家用のワゴン車を出して、会葬者をピストン輸送してくれていた。妹の旦那に習って「寺院」に受付に香典を出した。丁寧にも領収書を書いてくれる。いつかやはり身延山内のT坊のご住職の通夜にうかがったときにも領収書をくれた。ぼくはきょうも「要らないです」といったのだが手渡してくれた。僕の寺は寺の収支についての申告はしていない。寺から給料などもらえないのだから。なので領収書なんてまったく必要ないのだ。日蓮宗の方々は皆さん必ず領収書を発行しているようである。焼香を済ませ、本堂に上がる妹の旦那と分かれて再びピストン輸送車に乗った。ちなみに妹の旦那は僕より年上である。帰ってきて受付でいただいたものを確認すると、回向料と書かれた封筒が入っていて、"入っていた"。いやこれはまずかったなというのが正直な気持ちだった。一般受付に出せばよかった。まったくそんなつもりではなかったのに。以後こういうときには気をつけよう。
夏物の衣をしまった。午後はそんなことをしたりなんぞで日曜も終わり。

2011年10月29日Saturday 晴れ
よい天気の一日、法事あり。
夕べ護摩を焚いたので、護摩壇の片付けや本堂の掃除や仏器洗いを早くからしていたが、10時半からの法事までに終えることができなかった。午後帰ってから続きをする。
S家の七七日忌。まあちょっとしたトラブルがないわけでもなかった。いささかここに書くのは躊躇いがある。ただ、「これは侵してはならない暗黙のルールなんじゃないの?」って思うようなことだ。亡くなった人が気持ちよく旅立っていけるようなことを僕たちはしてあげなくてはいけない。
小さな花が可愛かった雲仙ツツジを夏枯らしてしまい、挿し木にしておいたのもどうやら枯れてしまったので、どうしてももう一度育てたくてネットでさがして注文した。「雲仙ツツジ」という名前が思い出せなくて2日くらい考えていた。娘は友人3人と静岡の大学院に残っている友達のところに行く。寝具なんか4人分もあるのかなぁ?ってことで寝袋を3つ持たせた。のんびりとした楽しい今なんだろうと思いながら夜の酒を楽しんだ。

2011年10月28日Friday 晴れ
「うんこ」。
近藤等則「いのちは即興だ」読了。孤高のエレクトリック・トラント吹き。彼のwebも覗いてみる。震災後、彼の音楽家としての鎮魂の表れがmp3の音源となってアップされていた。それぞれの人たちが無理なく自分の生活の中でそれをするということを改めて思う。
昨日借りてきた車谷長吉「四国八十八ヶ所感情巡礼」も今朝読み終える。夕べは酒を飲まなかった。平成20年2月15日に奥さんと二人の歩き遍路を始め4月29日に結願している。途中奥さんは、夜中に宿の階段から転げ落ちるというアクシデントに見舞われ、電車・バス・タクシーなどを利用しながら遍路を続けたという。文中、著者は強迫神経症を患っているとかで薬を服用していて、それがため日に何度も便意を催すことがあり、巡礼記のほぼ毎日に「うんこ」をしたということが書かれている。嘘か誠かわからぬが、「うんこ」をする場所は、必ずしも便所ではなく、野であったり道端であったり、塞がっている便所の前で我慢できずにしてしまったりである。嘘を物にするのも作家の技量の内であるので一向に構わない。読み始めはこの「うんこ」が気になったが、終いの方では「うんこ」のことが書いてない日がなにやら物足りない風に思えてきたから不思議なものである。著者の夫人は詩人の高橋順子という方で、この本の附録「お四国巡礼の記」のその後に、夫人の「遍路五十首」が載っている。「きみは徒歩われはバスにて行く朝はわれよりきみの孤独思ひぬ」「ぼくの尻壊れしならんと夫(つま)が言ふけふは五回もうんこせしとか」。
「うんこ」のことが妻の歌にも詠まれるのだから、行為する場所はともかく、かなり切羽詰った状況に陥る場面が数多く巡礼中あったことは確かなようだ。僕も今日は、夕べ飲まなかったのが災いしたというわけでもないだろうに、出勤して1時間ほどして突き上げるような便意に見舞われトイレにいった。きっと車谷長吉を読みつつ冷笑いしていたことのバチが当ったのだろうと思うしかなかった。でもこんな本が人間臭くて僕はとても好きだ。

2011年10月27日Thursday 晴れ
勤行。
5時前の夜空を見上げると西の山にやがて沈む前のオリオン座が見える。仰ぐと満天の星がある。5時半過ぎに本堂を出るときにはやや夜が白々と明け模様になりはじめ、星の輝きも薄くなりはじめる。
僕の朝の勤行は先ず本堂から始まる。雨でなければ客殿からサッシの引き戸を開けてスリッパを履いて石畳を渡って本堂に行く。雨であれば庫裏の玄関から傘を差して行く。要するに外に出なければならないということ。本堂では理趣経をあげる。理趣経が終ると、光明真言、仏説聖不動経、不動真言などの諸真言を唱える。いま陽が短くなって仕事から帰るともう暗いので本堂を女房に閉めてもらっている。秋から春先までは休みの日以外は夕のお勤めをしないので、今の時期は朝のお勤めの最後に「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)」を加えて唱えている。
本堂を終えた後客殿に戻って短いお勤めをする。観音経偈をあげるか、九條錫杖+般若心経をあげ、それに十三仏真言・諸真言を唱えている。それから客殿での勤行のなかで、柴燈護摩法要の願文やら祭文なども繰り返しながら暗記してきた。こういうことを今もってこつこつと僕は積み上げているのである。一年に一度か二度、神祇講式なんかも休みの日などに読むこともある。神と仏が緩やかに相寄り添う世界に浸ることのおおらかさを楽しむことができる。

2011年10月26日Wednesday 晴れ
読書。
起きたときはそれほどでもなかったが、出かけて文化会館の駐車場に車を停めて外に出ると木枯らしのような小さな風が足元を巻いた。どんぐりの木があって、枯葉の中にいくつも小さな実が落ちていた。靴の底で踏むと、カラッカラッと実が割れる音と感触がなんともいえず心地よかった。朝は感じなかったが、「天気予報はやっぱり当るな」と思った。それでも、今日も午後は暑くてやっぱり腕まくりだった。
立松和平が「三田文学」に1999年夏から2006年秋まで書いた短編を纏めた「晩年」を読み終えた。氏の身近に居た人たちの死を題材としている。29の短い作品が収められているが、どれも読み応えのあるものだったが、これが一冊の本となって2010年2月に氏自身が旅立ってしまったのだ。そういえば僕の読書は、去年身延支所に配属になって、図書館が近くにあったことから、立松和平を鎮魂する僕の気持ちの現われとして「光の雨」を読み始めたのがきっかけだった。地震後しばらく本を読むこと(活字を追うこと)ができなかったが、やっとここのところまた本を読み始めることができている。ゆっくりと読みたい本を読めていけたらいい。

2011年10月25日Tuesday 晴れ
廻文。
今日も暑かった。本当にここ数日暑い。今年のクールビズ期間は5/16〜10/31までとなっている。僕が毎日着ていく格好は、ランニングシャツの上に半袖のシャツを着て、夏用の作業着を着ていくのが通常。でもこんなに遅くまで、半袖シャツを着ていくことも珍しいかもしれない。今日も、作業着を脱ぎはしなかったが、午後からは作業着の腕をまくっていたので、両腕はむき出しのままだったのだ。
今日の拾い物。「ほあんいんぜんいんあほ」。なかなか的を得た廻文ではないか。こういうのを、すっとひらめく人ってのは凄いな。

2011年10月24日Monday 晴れ
畑をするということ。
昨日集落のふれあい運動会があり、終った後、ビンゴゲームなどをしながら、ブルーシートを敷いて、区より配られた焼酎を飲みながら、それぞれが家から持ち寄ったものをいただきながら、2時間ほどを過ごした。気温が上がり暑いくらいの日で、陽も随分と僕たちのために長く伸ばしてくれていた。曙大豆の話や、サル・イノシシ・シカの定番はもとより、ハクビシンが栗を食べる話なども興味深く聞いた。洋ランのことも話題に上がった。それから畑の野菜作り。僕が「獣除けの柵を施してまで畑をやりたいとは思わない」と言うと、「それでも自分で食べるものくらいは作ったほうがいい」と言われた。獣から畑の作物を護るための柵を張ってでも作るべきだという言葉の重みを、実はずしりと感じてしまった。それでも人間は作らなければいけない生き物なんだというような、そんな説得力があった。枝豆を食べながら、皆「農作業は楽しい」と言う。それぞれが生きる場所で一番身近に感じる自然な生き方が、ここでは畑をするということなのだろう。僕も来春からはこれについても何かしらはじめていかなければならないのだとも思った。

2011年10月22日Saturday
昨日も休んだのでなんだか今日が日曜のように感じていた。
一日雨となった。八幡神社の祭典の当番の人たちは雨の中を掃除や準備をしていた。午後になってもいくらか小止みにはなったけど結局一日雨ってことだったな。娘は雨でなければ事業所主催の少年野球大会の手伝いに行く予定だったけど雨で中止になる。僕はいつもより30分ほど遅く起きて、1時間ほど読書をしてからお勤めをした。佐川光晴「家族芝居」を読み終え、立松和平「晩年」を一日読む。
昨日たまたま休んでいたら、群馬からKさん夫妻が偶然にも墓参に来てくれた。何年かぶりでお二人に会う。とても先祖思いのお二人で、ゆっくりと墓に参り、また再び帰っていかれた。頼まれた塔婆を書いた。
雨だったので、本を読みながらたくさんCDも聴く。読書に差し支えないJAZZを。それからパソコンの前やCDの棚の前に雑然と積んであったCDも片付けて少しきれいになった。もうCDを収めるスペースがなくなってきた。庫裏や客殿にもテーブルの上に積まれていたりする。辞めたら聴かないCDを少し整理して処分しようと思う。いや、思うだけではなく、是非そうしなければいけない。

2011年10月21日Friday くもり
憂鬱な日々が果てしなく続きそうだ。
朝起きてお勤めを済ませ、暫しの読書の時間に事は起こった。「ちょっときて!」と女房に呼ばれトイレに行く。便器から溢れた水が床まで流れ落ち、バリアフリーの床なので、廊下から風呂の洗面台のところまで流れ始めている。母はおろおろとタオルで床の水をふき取ろうとしているが、ほとんど動作になっておらず呆然としている。想像するに紙パンツを流したのではないかと。どうにも解決できず、24時間受付中のクラシアンに電話を入れる。8時に電話をくれるということで一旦切る。そのあいだに職場へ向かい用事を済ませ、休暇願いを出して戻ってくる。クラシアンからは、明日の午後でないと行けないとのことだったのでキャンセル。次に検索した「水道屋本舗」にかけると、今日中には行けるとのことだった。予定の時間よりだいぶ遅れたが来てくれる。結局便器を取り外さないと解決できないとのことで、高額の費用になったが仕方がないのでお願いする。出てきた。紙パンツ。水分を吸うと余計にこれ膨らむのだ。1時間ちょっとで終わる。配水管の奥まで流れていかず、割と近くにあったので、行者の人も短時間で済んでよかったと。ただこんなことが繰り返されたらかなわない。出もまた近いうちに起こってもなんら不思議ではない。そのくらいもう母の状態が悪いということ。体はどこも悪くないのですこぶる健康だが、完全に思考回路が行かれてしまっている。デイサービスから帰ってきたところで、「今朝のトイレの水浸しを覚えているか」というと、「きれいになったねぇ」と。67,200円の修理の領収書を見せて、「これだけかかった」といっても、事の重大さへの反応はまったくなし。
ここまでこちらも追い詰められた状況になるとはまだ一年前は予想もしていなかったが、まだまだこれから先も命尽きるまできっと続くのだ。

2011年10月20日Thursday 晴れ
度々の「お疲れ様です」考。
今日も「お疲れ様です」で腹の立つ時があった。内線電話に出れば相変わらずの寒く貧しい言葉、「おつかれさまでーす」とか「おつかれさまですー」だ。僕の勤務する事業所の若者たちは猫も杓子もこの「お疲れ様です」で始める。受話器を持ち上げてこの言葉を聞くともう僕は、冒頭から疲れがどっと出るような感覚に陥り、やがて腹立たしい気分になってくる。
ネットで検索したら、結構「お疲れ様」論議って成り立っているんだね。僕のように違和感を覚える人たちも居るようだ。『私も朝一番に「お疲れ様です」と言われると「まだ疲れてませんが〜?」と返しそうになります。』という全く同感のコメントもあった。
馬鹿馬鹿しいことだと笑われるかもしれないが、この「お疲れ様です」も、僕がここを辞める要因の極々小さなひとつではあるかもしれない。セイタカアワダチソウが今の時期休耕田や耕作放棄地に蔓延っているのを目にするが、この黄色い帰化植物や目に見えない放射能のいやらしさで事業所に浸透してきた、洟垂らしが一つ覚えの常套句をタコが当るほど耳にして、ある日「あーぁ、見切った」と腑に落ちた。フィーリングで物言う時代に、僕はすでに遅れ始めているのかもしれないけど。

2011年10月19日Wednesday 晴れ
「ビキニ事件の真実」読了。
2003年に発行された本であるが、福島第一原発事故から7ヵ月半経って、読んでいる最中も思ったが、読み終えたときにもやはり、「警告はいつのときも発せられていたのだな」という思いだった。第五福竜丸の乗組員であった著者の語りには嘘は微塵もない。そして心底平和を願い核廃絶を願う気持ちが押し寄せてくるようであった。圧倒された。それからショッキングな事実をも著者は明かしている。結婚後、不安がなかったわけではないが、待望した第一子が死産で、しかも奇形児であったということだ。
いまこの国の政府は、半年以上を経過した原発事故に決着が付いたかのように、安全だということを前面に出して、どんどん避難している人たちを汚染地域に戻している。何日か前にも、地震で行方不明になった夫を待つ妻とその子供たちの記事を読んだが、子供の一人は内部被爆が明らかになっているのだいうことだった。被爆数値の多少は別として、何の責もない子供たちに本当に取り返しのつかないことを起こして、その晴れやかにあるはずの一生に、絶えず付きまとう不安を与えてしまったのだ。原発事故により被災してしまった人たちに、今後何も起こらなければ、何もなければ、「よかったじゃん」でいいのである。でもいまは「よかったじゃん」が保障されているわけではない。明らかになっていない状況にも関わらず、安易に安全であることを吹聴するようなやり方には十分に注意しなければいけない。

2011年10月18日Tuesday 晴れ
十月桜の花を見つけた。
5時。曇った半月を少し膨らませた月が頭上にある。朝のお勤めを終る頃には西の山に落ちてしまう。本堂の観音扉を開けると、町道を1台車が走っていく。昨日の夜から決めていた。車に燃料を入れなければいけない。宇佐美の店が開く時間になったので6時過ぎにいく。もう僕の前に2台の車が給油していた。夜を走って一休みをするのか、大型トラックが滑り込んできた。1万円入金する。スタンドを出て参道に入るとき、入口の老十月桜に花がいくつか付いているのを見つけた。出勤時には見落とすことが多いし、帰りはすでに暗くなっているので花を確認できないのだ。
いつもの朝と同じように一日が始まる。メダカに餌をやる。寒くなると餌への興味がなくなってくるらしいが、小さいのはまだ1センチに満たない。これらは多分越冬できずに死んでしまうのだ。それでも、できるだけ育てと祈りつつ餌を撒く。アジサイやフジザクラやツツジの挿し木苗にも声には出さないが言葉をかけている。不思議に思うほどでもないが、こういう気持ちになっているということ。

2011年10月17日Monday 晴れ
今日も暑い一日。
昨日に続いて今日も暑かった。朝と昼の温度差があるので、どうしても出掛けには長袖を着るのだけれど、昼には腕まくりをしたいぐらいだ。
月曜特に何もなし。書くこともなし。「ビキニ事件の真実」は第五福竜丸の乗員であったの大石氏が書いているのだから引き付けられないわけがない。アメリカって国はなぜこんなとんでもない核実験を何度も行ったのか。ビキニ環礁付近の島に住む人たちをだまして、こんな人の道に外れた野蛮な行為を行った。後進国を野蛮な人種などと呼ぶことがあるが、こんな実験を行うものこそ野蛮な人種というべきだろう。やりたきゃてめぇの国でやれ!ってこんだ。これは「東京のど真ん中に原発作ればいいじゃねぇか」と同じこと。

2011年10月16日Sunday 晴れ
暑い一日になった。
昨日の夕方雨は上がったと思ったのに、6時前位からまた音を立てて降り始め、結局今朝方まで降っていた。朝には上がり、蒸し暑さもあったが上天気になった。集落の秋の山道作りと中沢川河川公園の草刈り。予定より1時間遅らせて始まった。山道を数年ぶりに歩いた。台風の影響もさほどないようだった。河川公園の傾斜地の草は、先日見たとき「こりゃぁすげぇや!」と尻込みしたい感じだったが、やっぱり手数なんだな。草刈り機20台くらい入れば1時間ほどで刈り終えてしまった。僕の孤独な墓地の草刈りとは大違い。
11時過ぎに作業が終わり、そのまま本堂の裏の草を刈って、2台の草刈り機の燃料を抜いて空ぶかしさせてガス欠にして今年の草刈りに幕。今年も元気に働いていただきましたご苦労さん。来年も活躍してくださいよ。
図書館で借りた「ビキニ事件の真実」という第五福竜丸が被爆事件の本を読み始める。3時過ぎから外に出て、フジザクラの挿し木苗をプランターから抜いて畑に移植する。何事も経験だから。畑に移したほうが成長が促せるような気がした。それでいいのかどうかはわからないが。甲斐百八霊場巡りのかた二人来寺。御朱印。よい秋の一日。

2011年10月15日Saturday
一日雨。
朝からの雨が夕方まで。少しは約4時半過ぎに本堂で夕のお勤め。やっと雨上がり、東の空の上の雲が切れて青空が遠く覗いていた。明日は晴れるな。雨なのでゆっくりとテレビを見たり本を読んだり。読み返しの山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」と、図書館で借りた佐藤正午「ダンスホール」を読み終えた。
下田通信所にメールを書く。東京からまたひとりLiveの申し込みがあった。電車で来る場合には身延線が折り返し運転となっているので注意してくださいと返信メールする。
箱根駅伝の予選会に出場した山梨学院は2位で予選会を通過。これで正月の駅伝も少し楽しみが増えた。雨の予選会を走った選手の皆さんに拍手を送りたい。
娘はJAまつりのため今日は休日出勤。雨の中をこれまたご苦労さん。

2011年10月13日Thursday 晴れ
庭のこと食卓のこと。
シルバー人材センターを頼んで境内の大事な樹木の剪定をしてもらった。2人で3日来てもらって今日終わった。日暮れが早くなっているので帰ってくればもう外は暗いので、仕事の成果を見ることはできないのだが、まあ今年もとにかく終えて僕もほっとした。大体毎年、6人分の仕事を頼む。3人であれば2日、2人であれば3日という風に。何年か来てもらっている2人だったので、この木とこの木と話すくらいで、黙っていてもやってくれるような了解があった。松と紅梅と百日紅なんかの高い木をお願いしてある。低木のツツジなんかは剪定用の電気バリカンで自分で刈っている。経済的にゆとりのないことが一番の理由にはなるが、それでもこの作業は楽しくもある。来年からは週末の休みを利用することの計画を立てなくてもできるようになる。
夕の食卓には、隣りの家からいただいた枝豆がざるいっぱいに茹でられていた。今年は枝豆の出来がいいようだ。いい塩味があって、口に運び出すと、僕も女房も止まらなくなった。少し遅く帰ってきた娘も食べた。曙大豆をこの辺りでは見慣れているので、豆の大きさを特段気にしたことはなかったのだが、先日法事のあった甲斐市のから来た檀家からもらった枝豆はちょっと小さな豆だと感じた。味は悪くはなかったが、曙大豆と比較すると明らかに大きさが違った。ことしの大豆はとてもおいしい。

2011年10月12日Wednesday 晴れ
朝。
今朝、山尾三省の「縄文杉の木陰にて」の最後を読みながら、先週DLしたChick Corea & Gary Burton Wackerhalle, Burghausen, 23. March 2011をノートPCで流していた。DVDだが画面は見てはいない。画像を見るのは段々に苦手になってきている。この音映像を保存しておくかどうかはまだわからないが、朝の早い読書の時間に、チックのピアノとゲイリーのヴィブラフォンのデュオは日本茶を飲みながら新鮮であった。アンプを通さない木を素材とした楽器が奏でる、一方の極にある深い心の奥の森に棲む満月を望めたような気がした。
昨日夕の月はまん丸だったが朧月だった。震災後の初めての夜はどんな夜だったか覚えてはいないが、震災後7ヶ月が経った日の夜は水蒸気に包まれた月であった。水をたっぷりと湛えた月を僕は時間を忘れて長いこと眺めていた。

2011年10月11日Tuesday 晴れ
7ヵ月。
7ヵ月が過ぎたことになる。如何ともしがたいことだが、僕の内でさえ薄らいできていることは確かだ。地震津波による災害の復興は、時間がかかってもきっと再生していくこととは思っているが、やはり一番心配なことは原発事故のことだ。今朝山尾三省の本をよんでいて気になる箇所があった。「廃村」という言葉だった。三省たちは、屋久島の廃村となった集落に新たに入ってその村(集落)を再び人の住む里にした。廃村にはまだ某かの希望が残っている。しかし原発事故周辺地域はどうだ。生活の楽を求めて見限った場所でもなく、農業漁業産業がバランスよく保たれて、人々はそこに幸せを見ながら生活していた場所だ。帰ろうと思えば帰れる不思議な空間でもある。そこに経済を再生しようと思えばできないこともないのだ、健康不安を払拭してしまえば。どうも近頃はこの危ない生き方をお上は推し進めようとしているように見えてならない。1954年にビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって死の灰を浴びた第五福竜丸の乗組員たちは、被爆調査を受け、様々なデータを研究機関に取られてはいたが、乗組員の病気と被爆の関係を容易に明らかにはしてくれなかったそうだ。気分が悪いという訴えがあれば、それが病気の始まりではないか。手を握ってしっかりと気分の悪い人たちに向き合って治療を始めるということがいつでもできるような国策を築いていって欲しいと願う。

2011年10月9日Sunday 晴れ
法事あり。
甲斐市の天野家の法事。天気もよく法事日和。朝緑のカーテンを片付ける。初めてキュウリを植えてみたが、5本くらい収穫できただろうか。あとは朝顔。それなりに楽しめた。また来年だ。トマトのプランターはまだ残した。ミニトマトがまだ朱い実を付けてくれている。法事後に昼食。若大将のマスターの気合の入った法事の料理をいただく。天野さんは赤飯を持ってきてくれて、僕が赤飯が大好きだといい、小豆の入らない赤飯を食べてみたいものだというと、次には小豆なしの赤飯を持ってくるといってくれた。法事後の片づけをして、3時から竹林前の草刈りをする。ちょうど5時前に終わる。

2011年10月8日Saturday 晴れ
土曜日、よく働いた。
よく晴れた土曜日。だらだらしていればそれだけで終わってしまったが、まあ今日はよくやったほうだろう。午前中、秋の八幡神社の祭りに配るお祭りの花をつける竹ひごを作る。同志会に何かして上げられるとしたら今はこのくらいのこと。11時少し前に終わり、午前中の仕事はこれでやめにしてしばし休む。女房と娘は外出したので、昼はカップ麺。さっと食べて12時半過ぎから網戸を洗う。何せ34枚も洗うのだから、しっかりと心を決めてやりきってしまわなければならない。うまくいった。外のトイレの掃除もする。3時過ぎから庫裏の裏庭の草刈り。今日は思った以上に仕事は捗った。仕事を終えて頭を刈って、明日の天野家の法事用の頭にした。

2011年10月7日Friday 晴れ
秋刀魚の季節なんだが、今年はやっぱり気になるよな。
蚊取り線香を庫裏の天上裏に片付けたんだ。階段梯子を上がって、天井裏の蓋を開けて。もう蚊は出ないだろうと踏んで。夕べは台所に蚊が居た。一昨日の夜は寝ている部屋に蚊がしつこくいた。夕べは何箇所も刺されてから、我慢の限界に達して、仕方なくまた天上裏の蓋を開けて蚊取り線香をつけた。こんな5ミリにも満たないような晩秋の蚊一匹にかき乱されてしまう人間なんて、蚊より小さくどうしようもないものだと思えてしまうな。
『サンマの流通・加工業者でつくる「北海道サンマ産地流通協議会」(広田秀樹会長)は6日、根室市や釧路市など道東の地元4港の計5魚市場に、東京電力福島第1原発の北100キロに当たる宮城県・金華山沖より南で取れたサンマを扱わないよう求める要望書を提出した。』という記事は、自分勝手な一方的な言い分のようには感じるが、放射能汚染を危惧する見地に立つともっともな言い分だとは思える。漁協が進言しているから若干の違和感を感じるのだが、安全な食べ物を口にするという絶対に譲ってはならない観点からすれば至極当然のことなんだ。ただ『会見に同席した幹部は「水揚げされても競りに参加しない」「一匹でも放射能が検出されれば、国内のサンマ業界はすべて駄目になる」と訴えた』というコメントには賛意を覚えない。

2011年10月6日Thursday くもり
雨上がる。
今朝5時に起きたときにはまだ少し雨が残っていたが今は止んだ。7時13分。これから天候は回復して日中は気温が上がるといっている。
カムイ伝(外伝)全11巻読了。カムイ伝を図書館で借りて読み終わった後、第二部を入れてくださいとリクエストしたら程なく入れてくれたのでそれも読んだ。震災後あまり読書に熱が入らなくなり、今年は春から夏にかけて、去年の異常な読書熱には浮かされなかったが、どーんと深みに落とされて、本が読めなくなった状態は脱したので、山尾三省の著作などを本棚から出して今何冊か読み返しているところだが、「外伝も揃えましたので機会があったらどうぞ」と、今度は図書館のほうからお声かけいただいた。飛びついている人も何人か居るようだったので、本の貸し出しが落ち着いたようなので、三回に分けて貸してもらって読んだ。さっぱりと読みやすかったことは確か。難解さがそぎ落とされている。こういうマンガに触れていたいと心底思ったというのが読んでいる最中も、今朝読み終わってからも感じた気持ちだ。
昨日仕事から帰ってきて6時を回ったときに電話があった。下田逸郎さんからだった。台風15号の被害により身延線が動いていないこと、Liveのある11月20日までに復旧することも見込めそうにないことをメールで一昨日伝えた。その返事をくれたのだ。「身延線好きだったんだけどね、仕方ないね。東京回りで甲府から行くから」とのことで、「2時位には着けると思うから、焚き火は次の日でもいいよ」と。復旧がなったら、またすぐに連絡入れるということで電話を切った。楽しみにしているからとのことだった。こちらもだが、聞きに来てくれる人さがさなきゃね。

2011年10月5日Wednesday くもり
今日は雨になるな。
5時に本堂へ渡るとき、ポツポツときていたがまだそんなに落ちてきてはいない。寒い季節になってきた。
計画停電や、あの漆黒の闇に包まれた時間があったことも過去のこととなりつつあるな。喉もと過ぎて熱さを忘れ始めてきているな。やっぱり気持ちのどこかでは、もう停電になんてならないだろうって思っている。夕暮れが早くなって、道路沿いの灯りも元通りの明るさになりつつあるように感じる。
ちょっと前に韓国で、予告なしの大規模停電があって大統領が大分ご立腹のようだったが、韓国ってのは電気料が随分安いらしくて、「使わなきゃ損」「我慢しちゃ損」みたいな風潮があったようだ。繁華街のブティックなんかじゃ、客が入りやすいように自動ドアのスイッチを切って開けたまま、冷房温度を10度台に設定して暑い外気の流れ込む店内を冷やしているってんだから。
10月に入って、朝は大分冷え込んできた。それでも日中は暖かい。日暮れ間近まで長い西陽が射すと暑さも感じる。我が家では電気カーペットがもう台所兼居間に敷かれた。2年前から電気炬燵のやぐらだけを使いコタツ布団を掛けて、熱源はカーペットからとって温まっている。まだコタツは立ててないが、朝僕はお勤めの後少し本を読んだりするときカーペットに横になって暖をとっている(今朝も)。さて、この冬の電力はどうなんだろうか?もうできればあんな計画停電は御免蒙りたい。女房に言わせると、夏の電気料は去年よりも安くあがったらしい。この夏は緊張感があったものな。でも冬季の寒さを我慢できるだろうか。幸い我が家では、温風ヒーターという奴を使っていない。冬場の法事のときに客殿で使う大型のストーブは持っている。家族用に過去にはあったが、音が気になって、それから温風というのが嫌いで、子供たちも大きくなったので、すべて灯油のだるま型に替えた。だから3月11日の頃も家では全く困らなかった。で、この冬はどう節電に努力するか。春からの日常の節電は継続する。境内の外灯は就寝前に消す。風呂には時間を開けずに続けて皆入ってしまう。できるだけ台所のエアコンを使わないようにする。テレビも控えて本を読む。被災地にあって不自由な生活をしている人たちが居ることを考えるってことになるだろうか。

2011年10月4日Tuesday 晴れ
何故あの時避難させてくれなかったの?
昨日見ていた夕方のニュースの特集でも「緊急時避難準備区域」が解除され学校は再開されるようだが、戻るかどうかに揺れる親と子供たちのことを伝えていた。マーチングバンドチームは、震災以後メンバーはバラバラになりながらもそれぞれの受け持つパートなどを、少人数で練習してきている様子を伝えたが、学校が再開されても戻らない選択をする家庭も多いようだ。あるお母さんはこんな風に言っていた。「10年後、子供の身体に異常が認められるような状況になったとき、『なぜあの時避難させてくれなかったの?』と子供から問われたら応えようがない」と。何も起こらなければいいが、先々の健康不安を考えると戻る気になれないというようなことだった。戻りたい気持ちは十分にあっても、現実の不安を振り払うことは今の状況下では、できないのが当たり前のことだと僕も思う。生れて育って、友達とあの日の昼過ぎまで過ごしてきた場所に「帰りたくない」なんて本心から思っている人は居ないはずだ。でも、帰れないんだよ。
「信州大病院が、福島県内の子ども130人を対象に健康調査をしたところ、甲状腺ホルモンが基準値を下回るなど10人が甲状腺機能に変化がみられていたことが分かった。」という記事もあった。「蓄積すると甲状腺機能低下症や甲状腺がんを引き起こす可能性があるが、機能変化が表れた子どもたちは、現時点では病気とはいえない状態だったという」とある。僕などがこの記事で何をどう判断することはできないし、130人の内の10人に少し変化があるということを、識者であっても捉え方はまちまちになるのではないかと思うが、僕はこういう結果が出たということを、些細なことであっても、警告として頭の片隅に置くべきではないかと思う。何もなかったら、そのときは「よかったな」でいいんである。決して「なぜ少しでも安全な方途をとろうと考えてくれなかったの?」などと子供に言わせていけないのだと思う。

2011年10月3日Monday 晴れ
コーエンを聴きながら。
レナード・コーエンのDVDを内藤君から貰った。金曜の夜、明日は休みというくつろぎで、酔うがままに任せてコーエンの歌を聴いた。年輪を重ねたコーエンの声はますます低く深くなり、バスクラリネットの深海の響きにも似ていた。1955年に生れた内藤君と、1956年に生れた僕が出会った15のときからの付き合いはもう40年にもなる。JAZZを教えてもらったり、彼の思想を少しだけかじってみたこともある。おそらく彼と僕とは行き着きたい場所はそんなに離れていないところなのだろうと僕は勝手に思っている。
ここ数年は余り飲む機会もなくなってしまい、特別な交わりを持っているわけではない。互いの生活があり、僕たちの年齢になると、その生活のことをすることが大切なことになってくる。生活は信仰であり、思想であり、哲学であり、経済であり、遊びであり、孤独や悲しみでもある。コーエンの年輪には及ばないが、もう僕たちは必ずしも交わりをしなくとも自分の生き方はできるし、彼の生きている辺りの雰囲気はなんとなくわかるような気がしている。彼は定年まではタイムカードを打つというが、打刻された鼻くそのような青い数字に彼だけは管理されない来し方を僕は知っているし、荒海に漕ぎ出すほどの冒険者になるつもりはないが、そうしなければいけない僕の個人的な理由を理解してくれる友人だと思っている。うまく言えないけど、もう僕たちはそんなに会って酒を飲んで、音楽を聴いて、文学を語ってなんて必要がないのだと思うし、上手にそれぞれの大切な場所に入っていったといえるかもしれない。でもそれは決して寂しい意味ではなくて、十分に彼を僕が尊敬できているからなんだろうと思っている。

2011年10月2日Sunday 晴れ
日直。
所日直で過ごす。死亡届もなく特別なことはなかった。一日支所に居ると、つくづく3月11日から半年以上過ぎて、大分僕の頭の中からもこのことが薄くなり始めているなと考えてしまった。
少し書き物をしたり、来週の法事に話すことなどをぼんやりと考えたり。法事の時には震災のことはいつも話すので、できるだけ放ってしまわぬようにしたいとは思う。5時15分の解放時間まで、暗くなるままに音楽を聴いて過ごした。電気を点けないことも忘れないことへの注意喚起になる。
5ミリほどに成長したメダカが、抜け殻のような姿になって水面に浮かんでいるのを2回ほど見た。いよいよ寒さがはじまると、年を越せないものが出てくるんだろうな。食欲のあるうちに大きくなってくれるといいのだが。

2011年10月1日Saturday くもり
10月。
牧丘の上求寺に行ってきた。ここ数年一年に一度訪ねるだけだ。今日行きたいことを前もって知らせておいたら、おじさんはわざわざ一昨日電話をくれて、「昼飯を一緒に食べるように来てくれ」と誘ってくれた。女房と10時過ぎに出かける。牧丘はたっぷりと一時間以上かかる。巨峰の里だがもう終わりの時期だ。それでも僕たちへの土産のために、葡萄園を残っている房をさがしながら箱詰めにしてくれていた。おじさんは暑い夏を越えてまた少し痩せたようだったが、大丈夫元気だ。おばさんも。秋刀魚の昼飯をご馳走になる。久しぶりに楽しく話をした。裏の歴代先師たちの五輪塔も参る。ここはやがて僕の魂も遊びに来る場所だ。富士山が望めるここに、祖父も父もその魂は遊んでいるはずだ。魂の場所なのかもしれない。たくさんの土産をいただいて帰ってきた。途中上求寺からの葡萄を届けに不動寺に寄るも留守だった。庭を見るとまだアジサイの「墨田の花火」がいい花をつけていた。僕のところでもアジサイがひとつ咲いているが、ここにも咲いていたのでびっくりしてしまった。やはり今年は少し自然の動きがおかしいのかもしれない。不動寺のおじさん、ほおずきの2本抜いていただいてきました。悪しからず。

2011年9月30日Friday晴れ
9月終わり。
9月も今日で終わり。明日から後半だ。穏やかに晴れ渡り、心配していた雨もどこかに消えた。穏やかな秋の日になれば、一週間前大きな台風があったことなどは忘れてしまいそうだ。波木井川も富士川もすっかり流れは元の水量に戻ったが、川原が無くなってしまったり、流れが変わってしまったりの風景を奇異に感じなくなるまでにはまだ時間が要りそうだ。
隣り町じゃ台風による大きな被害を受けたが、町制施行55周年の記念式典を予定通り行ったそうである。大体においてこういう周年記念という祝ぎ事が好きな民族だと僕はかねがね思ってきた。町の誕生日だから祝っていけないということもないが、55年を果たして祝う必要があるか、5年ごとにやってきたのか?はたまたぞろ目だからやるのか?5年ごとにやってきたとしたら、本当に5年ごとに祝う必要はあるのか?この町は、大震災後の5月、県内でも老舗のイベントになっていた「山菜祭り」を今年は中止した。被災地(者)のことを慮った判断で予算の一部を復興への救援金とした経緯がある。平成の市町村合併に毅然とNOを言い、独自の生き残りを路線とした町である。どうもやっていることに一本の筋が通っていない気がする。互いが互いを思いやり共に生きていこうとするのなら、町制施行記念式典なんてものは、状況判断で中止にしたって一向に構わないはずである。こういう時にこそ、血の通った判断をできるのが町の姿勢なのではないかと思う。

2011年9月29日Thursday 晴れ
イチロー200安打ならず。
イチローの今季の安打は184本で終えた。大リーグでの11年連続は成らなかった。不思議なもので、今年はイチローへの関心が僕には皆無だった。元々あまりスポーツには関心がないのだが、それでも休みの日などには、ごろごろしながらBSでマリナーズの試合を見ればイチローの打席が気になったものだ。今年彼に目が向かなかったのは、成績が低迷していたこともそうだろうが、やはりスポーツ以上の別の関心事が数多起きていたからだと思える。
イチローの200本未達成は、やはり肉体の衰えとかやがて誰もが迎えなければならない老いのようなものを現実として僕にも投げかけてくる。仕方のないことだ。イチローが出家したら、禅の高僧になれただろうということをいつかテレビで誰かがしゃべっていたことを覚えている。三振かホームランかのどちらかでいいというようなファンが多くを占めるというアメリカの国民性からすると、イチローのような打者としての姿勢は多くの支持を得ているわけではないのだろうけれど、いま「カムイ外伝」を読んでいるので、冷静沈着で感情を表に出すことのほとんどないカムイはイチローによく似ているように思う。
「おひさま」なんだけど、最終週だというのに4日目を終えて面白くない。一話ごとのつながりがまるでなく、脚本家がもう一週残っていることに慌てて書いたような話のようで、あと2回でどういう大団円にもっていくのだろうかと不安になる。もっと、最終週はもうちょっと見ていたかったなと思わせるようでなくっちゃな。期待してます!あと2回。

2011年9月28日Wednesday 晴れ
おっとせい。
28日の不動明王のご縁日である。いつものお勤めに加え太鼓で般若心経・慈救呪を唱える。夜の明けてくるのが障子を通してもわかる。不動明王は金剛石の磐石にどっかと腰を据えている。不動の名の通り揺るぎない守護者だ。
昨日仕事を終えて帰ってくると、玄関の外で母と女房の姿が見えた。母の痴呆症状(異常行動)は日に日に酷くなるようだ。僕たちが予測できないような行動をとる。これを何とかその場で止めても、母には自分のとっている行動を確かに認識したりすることは最早できなくなっている。その場面場面を見つけたら、それを阻止して行くしか今のところ方法はない。月水金のデイサービスと、7月から利用し始めたショートステイ(一週間ほど)以外の日中は家に居ることになり、このときに母の行動を監視していることができない。異常行動はここに書くにはあまりにも悲しみが深い。
この寺で揺るぎない信仰を持ちながら、来年の春からの自分を生きようと決めたが、そこにある生活の中には、混濁した意識の中で生くより仕方のない老母との生活も確実に存するのである。金子光晴の詩の一節が時々よぎる。

おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる おっとせい。」

2011年9月27日Tuesday 晴れ
メダカはやく大きくなれ。
朝は寒かった。今日はちょっと半袖では寒いと感じたので、長袖シャツに作業着の上着も着た。昼過ぎから気温が上昇して暑くなった。さわやかな午後になった。
朝は5時前は暗い。お勤めを終えて5時半を過ぎてもまだ少し寒い。先週までは、本堂に入る北側の障子戸はいつもお勤めのとき開けたままにしていた。正面の観音扉は当然一日開けておくのだが、北側を開けておくと、読経の途中に時々横を向くと朝の明けてくる色の違いがよく見えた。
昨日帰ってきたらもう外は暗くなり始めていて、メダカに餌をやっても無駄なように感じた。今朝少しだけ多めにやったが、2回の給餌ができないと、小さなのは成長できないのではないかと少し心配になった。お盆に生れたのはもうどんどん大きくなっているように見える。あと一ヶ月が勝負だ。11月頃になると餌に興味がなくなるようなので、そうなると小さなのは冬を越せないかもしてないのだ。生き物を扱うことに少しのためらいと後悔が起こった。

2011年9月26日Monday くもり
彼岸明け。
彼岸も明けた。これで一気に秋が深くなってゆくだろう。今朝は冷え込みが強いという表現をしてしまう朝になった。一日寒いような日。朝女房にも言われたが、半袖のポロシャツで出勤し、所長にも「寒くない?」と訊かれた。「仕方ないです」と応えると、「作業着の上着を着るか?」とやさしく言葉をかけていただいたが、そこまでは大丈夫ですとお断りした。外気は冷たかったが、室内は寒さは感じないので十分だった。何日も休んでしまって、僕は法事や寺の仕事だけをしていたが、台風の残していった被害は町内各所にあったようで、休日返上で断水地域に給水をする職員もあったようだ。温泉施設に料金の回収に行くと、水道が出なくなっているとメモ書きがあった。川が暴れて取水箇所が壊滅的なダメージを負ったようだった。明日から当分の間休業するしかないなという相談をしていたら、何とか応急の措置ができて、水道も出るようになったとの知らせで安堵した。何もなくもう半年をできたら送りたいものである。
帰るともう外は薄闇。夕のお勤めは今月いっぱいで、10月からの平日は、女房にお堂を閉めてもらうことにする。

2011年9月25日Sunday 晴れ
玄法院七七日忌法要。
甲府玄法院の前のご住職の七七日忌の法事があった。のっけからなんだが、葬儀のときにもお酒をいただくことができなかったので、今回は飲みたいと思ったので、電車で行こうと考えていた。しかし、台風災害で今もって身延線は動いていない。明日から甲府身延間での折り返し運転が再開されるようだが。娘と女房が甲府まで行ってくれて、法事の後のお斉きの終わりに迎えに来てくれた。盆を終えて亡くなった坂本和尚の写真を改めて眺めながら、今日の法事を勤めた。小さなサンガの僕たちを本当によくまとめてくれてきてくれていたものだ。ありがとうございました。しっかりとこれをつないでゆくつもりでいます。修験新発意のK師も今日はよく語ってくれました。大事にしたい、大切な大切な道の仲間たちです。

2011年9月24日Saturday 晴れ
畑の草刈りを仕上げた。
これで畑の草も今年は刈り収め。また来年だな。資料館の前庭の草も刈り、資料館も開けて風を入れ、女房と娘が中も掃除してくれた。明日は甲府の玄法院へ行くので、連休中の作業もこれで打ち上げだ。
Yahooを見たら、次のような記事。『二本松市小浜地区の「ひとめぼれ」から500ベクレルという結果が出たのは15日のことだった。「検査方法がおかしくはないか」。県農林水産部の幹部は担当者に疑問をぶつけ、再検査を指示した。だが、19日に出た再検査の結果は490ベクレル。県は23日夜になって、最初に出た500ベクレルを検査結果として公表した』。やはり危惧していたことがはっきりと数値で現れた。原発は出稼ぎをしなくて家族が一年中一緒に暮らせる幸せも作ってくれてはいたようだが、あーうまく書くことができないな。
台風は、僕のところから30分ほどの集落を孤立させてしまった。町が合併していくということは、お荷物になる集落は切ってしまえということもありうる。そういうところは集団移転してくださいということになるのかもしれない。程よく人が住めるような方法ってのは考えられないものなんだろうか。

2011年9月23日Friday くもり
彼岸中であっても僕の予定は変えられない。
今朝の雨はまったくの想定外であった。そして寒かった。雨で少しがっかりしたのと寒いのと二つの思いを持って本堂で勤行。お勤め終えて雨は少し降っていたが、それでもまだ一縷の望みを持って早飯を一人食ってしまう。いただきものの赤飯にカレーをかけて食う。インスタント味噌汁。一人の食事なんてものはこんなものだ。食ってしまってから本を読む。山尾三省の本を読み返している、これで三冊目。予定した草刈りは結局午前中はできなかった。昼前に雨上がる。1時半から彼岸の法要。檀家3人来てくれる。佐田さんは赤飯を供養してくれる。これでまた赤飯が食べられる。赤飯大好き。でも小豆が入っていなければもっといいと僕は勝手に思っている。お茶飲みながら台風の話などする。終えてから草刈りに畑に出た。結局3時少し前。5時まで涼しい空気のなかで草刈り。汗もかかなかった。予定通りに捗っている。明日刈れば畑の草刈りは終わる。
彼岸で、今日の中日墓参の方も結構ある。やさしいやさしい気持ちでお墓参りをする。空と大地と僕たちと溶け合える。

2011年9月22日Thursday 晴れ
夏休み。
南アルプス市の郷土史研究会の御一行70名が9時前に来山。昨日の朝掃除ができなかったので、予定通知には9時20分到着とあったので、十分に間に合うだろうと掃除をして、仏前荘厳をして、やっと終わって着替えようかと本堂を外に出たら、駐車場に大型バス2台が入ってくる。これだぁと思った。やはり最初の見学地にあたっていると到着はこちらの予想をも十分に上回るくらいに早い。多分30分以上早かったと思う。20分ほどお話をする。70人以上が本堂に入るのは祭典以来か。団体の見学もめったにないので、台風が去って、よい秋の空を厨子を開けてあるので、お不動様もすがすがしく眺めていたであろうと。今日は最後の夏休みをとっていたので、団体が帰った後は頼まれた彼岸の塔婆など書いて、夕べ遅かったので少しごろんとする。午後から畑の草刈り。午後2時から5時15分まで。明日、あさってで両側刈ってしまえるだろうと頭の中で段取りしている。

2011年9月21日Wednesday
台風が今日は荒れそうだ。
夕べ、名古屋に住む友人夫妻に「大丈夫ですか?」とメールした。そのまま眠ってしまったが、朝になって着信メールが入っていた。
「ご心配頂きありがとうございます。今、雨は上がっています。大丈夫だとは思いますが…一応いつでも避難出来るように、リュックに荷造りしました。
なんだか、これでもかと言うように次から次ぎと…なんて年なんでしょう…。
山梨も雨かなり降ったようですね。お互い無事でいられると良いですね。
なんだか ゛祈るしかないこと″ ばかりが続いている気がするのだけれど… 世の中大丈夫か〜?と 心配になります。
メールありがとうm(_ _)m」
と。
こちらの雨は、夕べから一時的に集中して降ったり、静かになってみたりである。朝になってもそんな状態。本堂はお勤めをしてそのまままた閉めてきた。風が比較的少ないように思えるが、予報では今日一日のあいだに甲信を通過するようである。身延線はすでに身延から富士方面が停まっている。連続雨量が少ないのだろう、道路の通行止めの放送はない。娘には、もしかして帰れなくなったら親戚に泊めてもらうよう話した。
(17:20) 台風15号が通過して去るまで勤務先の支所は、電話や被害報告などの対応に追われた。極めつけは、午後4時を過ぎた頃、支所から100メートルほど上に建つ、東京電力の支店裏の波木井川堤防が決壊し始めたとの通報が入り、これは切れたら大変な事態になると、付近の企業や住民に町民体育館へ至急避難するよう放送をした。これを書いている現在(17:25)、雨も小降りになったし、明るくなり風も完全に止んだ。多分、台風はこの辺りは抜けたのだと思う。名古屋の友人から、午後4時前に雨が上がったとメールが入った。だからここももう少しの辛抱だなと思っていた。雨が上がったので、波木井川の流れも幾分落ち着いてきたようで、堤防の決壊も最悪の事態は避けられそうだ。今夜道路の通行止め解除になれば帰れるのだろうか。

2011年9月20日Tuesday
彼岸入り。
昨日は明治公園で、「さようなら原発集会」が開かれていた。僕はこの集会に出かけてみたいとも思っていたが、やはり現実はそうもいかなかった。僕のやらなければならないことがあった。反原発の集会には、僕以上にその思いを持つ方々や、僕と同じような思いの方々tが全国各地から東京に集まった。大江健三郎のコメントが新聞に載っていた。今朝のテレビでもその様子が放送されていた。山本太郎も訴えていた。昨日の一日はすっかりこの集会のことを忘れていた。でも核廃絶に向けた大きなこれも一歩なのだと思う。
彼岸の入りの今朝は雨になった。夕べちょうど10時頃に降り始めていた。5時前には降っていなかったが、勤行を終えて本堂を出るときにはまた降り始めていた。雨がそんなにたいした降りにはなりそうもないので、塔婆を持って墓参にいってきた。寺墓地、無縁さんの墓地、それから柳沢家、東京佐田家の墓地にも塔婆を建てる。お地蔵様にも祈る。草を刈った墓地は静かに落ち着いていた。今朝も心に少し寂しさが残っていた。天候のせいかもしれないが、昨日の夕に、町田に住む檀家のKさんからの電話が少し気持ちの隅に残っているのかもしれない。一人ひとりが言葉に出せない思いを抱えているかもしれないことを、僕は十分理解しながら檀家の皆さんのことを考えていかなければならない。台風が来ているのだ。また大きな災害にならなければいい。
体の節々が痛くて、痛みの場所は熱を帯びているようだが、この今朝の雨はいい。
(21:00) 下田さんのLiveへの申し込みが今日もあった。東京からと静岡から。東京からの方は、宿泊できるとこありますかなどの質問があったのでそれへの返信した。東京からでは、交通費もだいぶかかるし、よほどの下田ファンでもないとやってこないはずだ。何せここはとても不便なところだ。でも、前回も、それを諸共せずにやってきた女性が二組もあった。噂によると、だいぶ豪勢な「下田逸郎山梨Live」参りだったらしい。静岡の方からのメールには、「こんな近くで」下田Liveをやっていたとはと、書き送ってくれた。受け付けた旨を返信したが、アドレスが間違っているようで届けられない。
行蔵院のご住職にメールする。日曜の玄法院での七七日忌の件。「飲みましょう」と書き送ってしまった。

2011年9月19日Monday 晴れ
一日草を刈る。
墓地の草を一日かかって刈り上げた。午前中に3時間ちょっと、午後2時間半か。残暑厳しい昼で、午後の草刈りは2時になってから始めた。墓地はこれで今年最後の草刈りになる。終わって女房からのペットボトルの冷たいのを飲み、後片付けをしていると、どこからともなく寂しさがこみ上げてきた。何か原因のある寂しさではない。時たまこのような気持ちになることはある。寂しさを感じたり、孤独を感じたりする。でもそれが、だからそこを抜け出したいというようなものではなく、寂しさも孤独感も僕の日常にある心の現われだ。だからそれはそれでいいのだ。自分で納得するだけの働きができて、使った機械を片付けて、手を洗って、汗にまみれたシャツとズボンを脱いで、シャワーを浴びて、着替えて本堂に行って夕のお勤めをする。夕のお勤めは短い時間だが、今日のことを振り返ることはできる。ここにも寂しさがふっと湧くこともある。何か無理をしているわけではない。普通に寺に生きているだけではあっても、寂しさや孤独感は僕の中にあるのである。きっと女房にもそれはあるのかもしれない。離れている息子を思ったりするとき、それが湧いてきたりもする。よい敬老の日の休みだった。合間に読書もできた。これ以上何も求めるものはない。

2011年9月18日Sunday 晴れ
今日も法事一件あり。
今日は朝からいい天気。外も気持ちのいい秋。10時からW家の法事。出席者16人。昨日の法事が7人。10人以上集まると法事もにぎやかで、仏様も喜んでくれるような気がするものだ。法事後の食事にも誘っていただいたが、昨日雨だったし、今日晴れるのはわかっていたし、墓地の草刈をしようと決めていたので遠慮させていただいた。法話にもならないような、震災後の僕の生活のことなどをお話した。週末坊主には晴れた休みの日が大事なので、彼岸前にどうしても草刈をしたいのだと話した。昼食後1時過ぎから4時半まで墓地の草刈をする。明日やれば墓地は何とか片付きそうだ。沼津から小林さん墓参に来る。ゆっくりと暑い昼下がりを草取りと墓地の掃除もしていった。節目節目に一人でやってくる。でもこういうのって、他人が大変だねぇと思うほどには本人は苦になっていないんだよね。僕にはそれがよくわかる。僕も一人で春から秋まで黙々と草を刈るので。草を刈って汗をかくのは気持ちがいい。気持ちのいい疲れのなかで、大相撲見ながら「のどごし(生)」を飲んでいる。

2011年9月17日Saturday
法事あり。
雨になった。降ったり止んだりダラダラと小雨が降り続いている。S家の法事。9時半からということになっていたが、ご兄弟皆早く集まってくれて9時から法要する。墓参もちょうど雨が上がっているときにできてよかった。一番上のお兄さんが弟たちに支えてもらっているような家で、去年お母さんが亡くなったときも、色んな面で困ったことがあった。今回はお父さんの法事もあわせてすることにした。ご両親の戒名を並べた新しい塗り位牌も新調した。弟さん方も、「やっと親父の供養もできてホントによかった」なぞ話す。こういう兄弟の在り方もある。
明日もまた法事がある。晴れたら墓地の草刈をしたいが、今日だいぶ降ったのでどうかなぁ。佐田家の葬儀に合わせて少し刈っておいてよかった。
アメリカ盤のYELLOW MAGIC ORCHESTRAのCDを買って懐かしく一日聴いていた。円高でYMOのCDも500円を割る安さで、しかも、日本版とUS版のmix違いの2枚組みでこの値段だから何も言うことはない。面白い時代だったよなぁ。

2011年9月16日Friday 晴れ
野に生きた人には野の花だ。
今日は葬儀明けの朝で、なんとなく体が重かった。疲れがたまっていた。老いという奴ですな。老いはもう認めるしかないな。いい天気で、納骨も、親族や近所の人たちが大勢で、故人を愛した人たちみんなに送ってもらえて、こんなにいいことはないよな。勝手に思ってしまうのだが、思い残すことなくご主人のもとに行くのだと思うな。こっちはこっちでみんなうまくやるよ。昨日の朝の最後のお別れのとき、誰かが最後にあれはムラサキシキブの実のように見えたんだけど、紫の実の付いた長い枝をおばさんの顔の横に置いたのが印象的だったな。農をしながら野に生きた人には、華やかな花びらより、こんなのがよく似合うと思った。萩や彼岸花も、「さよなら」っとか、「ありがとう」ってな感じで送ってくれたのだ。僕には今年最後の墓地の草刈りが待っている。
娘は仕事を終えてから東京に行った。青年海外協力隊でモンゴルに行く、大学の友人を送る集まりがあるらしい。どうぞ楽しい一夜を。

2011年9月15日Thursday 晴れ
葬儀。
朝8時15分に組長さん迎えに来てくれる。8時40分から出棺のセレモニー。火葬場にて集骨までの時間、近親の方々と話しながらビール。こういう時間も実は大切。こういうことを繰り返しながら、その家々のことを知っていくことになる。午後1時から葬儀。ひとり葬儀ももう大分慣れてしまった。終えて着替えて初七日。故人との思い出などを話す。どうしてもぐっときてしまう。年をとってくると涙腺のしまりがなくなりゆるくなってしまうのだということを何かで読んだ。これがまさしく“老い”というやつだ。
今日は初七日を終えてから墓地への納骨も済ませた。暑い暑い一日だったが、天候を心配する必要はなく、明るいうちにすべてを済ますことができた。今日は、「さびしい」も「かなしい」も言っていられないので、明日から、ちょっと静かに落ち着いてきて、家族は悲しみを両腕の中に抱いてしまうのかもしれない。悲しみを抱くことも大事だ。
着物を脱いで、夕のお勤めを済ませ、メダカに餌をやり、植物に水をやり、僕は僕にご苦労さんの酒を飲ませている。

2011年9月14日Wednesday 晴れ
葬儀の準備。
今日と明日休み。夏休みがあと一日残っているが、これも本尊の拝観希望グループのためにとってある。1月に一年分の年次休暇20日をもらうが、残りが1日になった。今年は使いきりそうだし足が出そうだ。でも繰越の年次休暇があるので、40日あるので十分にゆとりがある。3ヵ月半に20日はいくらなんでも使えないだろう。
朝から葬儀の準備。夕べ遅くにだいたい戒名を考え終わっていたが、布団の中でどうも一文字しっくりいかなくて、やっぱり変えようと決めていた。朝になって戒名を先ず決める。故人の人となりを僕なりに考えていい戒名になったのではないか。戒名が決まって、次第を作り、諷誦文を作り、法話を考え、塔婆と位牌を書き終えればもうお昼だ。納棺は午後4時からだったので少し時間がある。墓地の草がどうしても気になり、通路の両側と、当家の墓地の周りの草を刈り通路を掃除する。最後の掃除を女房に任せ、頭を刈ってシャワーを浴び、着替えて葬祭ホールに4時前に行く。今日も30度越えの暑い暑い一日になった。草刈りも盆前以来だったので、ちっときつかったな暑かったし。ホールの控えの間で納棺をする。親族や組の方たち30人ほど来ていただろうか。83歳の媼は、いっそう痩せてはいたが、穏やかな顔で胸の下あたりで手を組んでいた。僕は昨日下で手を組んでいる布団のふくらみを見て、月を抱いているのだと思った。亡くなる前の晩が十五夜。亡くなった翌日はまん丸をほんの少し欠く十六夜の月。まん丸を持っていってしまうのではなく、まん丸でない月を抱いていく媼の慎み深さのようなものを感じていた。通夜の後戒名の話をしてこのようなことも話した。帰りの空には十七夜の月が輝いていた。

2011年9月13日Tuesday 晴れ
檀家に葬儀。
午後から飯富病院へ2ヶ月に一度の定期受診があったので、時間休を貰っていっていたのだが、待合室に女房が現れて、「Yさんが亡くなったと報せがあった」と。すぐに息子さんに電話をする。正午に息を引き取ったということだった。明日明後日で通夜葬儀を行いたいとのこと。勤め先にも電話を入れ事情を話し、日程の了解をする。受診後に職場に戻り、そのまま帰らせてもらう。着替えて増穂の長男宅へ向かう。穏やかな顔をした83歳の刀自が眠っていた。理趣経をあげ、亡くなるまでの経過を伺い、葬祭場の職員と打ち合わせをして寺に帰る。ご主人が亡くなってちょうど7年になろうとしている。僕を支えてくれてきた人たちが一人欠け二人欠けしていくのはなんとも辛く切ない。せめてよい葬儀をして送ってあげたいと思う。

2011年9月12日Monday 晴れ
うっかり。
今日昼休みに互助会役員会があるので、お弁当が支給されることになっていたのをうっかり忘れてしまっていた。役員会通知をバッグの中に入れておいて、女房に伝えようと思っていたのだが、バッグの底にあった通知のうえに、今朝の弁当箱をそのまま入れてきていた。本庁が会場だったので、家に寄って弁当を台所のテーブルに置いた。「会議があって弁当が出るので食べてください」と添えて。
弁当を食べるのが好きだ。たまたま「kotoba日記」という僕が時々見るブログに、
「ハンバートハンバートの、『さすらい記』というアルバムを聴きました。『おべんとう』、という歌が入っています。」とあった。歌詞を調べてみた。「さめても、おいしい」と繰り返し歌われる。メロディーがわからないのだが、ほんとに弁当はさめていてもおいしいものだ。町が合併するまでは、いつも昼休みに帰ってきて家で昼食をとっていたが、下部支所(教育委員会)に異動になった5年間と身延支所でのこの2年は、毎日弁当を持ってきている。二日酔いの日でも、弁当の時間になるとしっかりと腹に収まる。冬でも弁当はおいしい。いま女房は僕の弁当と、4月に就職した娘の弁当と二つ作ってくれている。子供たち二人は高校時代は同じように弁当だった。弁当作りは、息子が高校に入ったときから続いている。兄が卒業したら妹が弁当を持つようになった。そして僕も。僕の弁当生活はもう後半年ちょっとで終ることになる。「さめても、おいしい」弁当を、今日はうっかり。でも自分で作った弁当を食べてみるのもたまにはよかったのではないかと思うこととした。
あの日、たくさんの弁当箱が津波にさらわれていったのだと考える。今日の弁当をいつものように食べ、それが最後の食事になってしまった多くの犠牲者のことを考えてみる。

2011年9月11日Sunday 晴れ
帰ってきて暑い。
震災から半年、ニューヨークのテロから10年の日。僕の朝は雨降る軽井沢。今日をまことしやかに、また大きな地震があるなどという噂も流れていたようだが、何事もなく一日は終わる。特有の山の天気なのか朝は雨だったが、宿を後にする10時前には上がっていた。さわやかな風景のなかを帰ってくる。途中清里を降りた場所「八ヶ駒」で蕎麦を食べる。二度目だがここの蕎麦はいける。2時半には家に着く。やっぱり気温差がある。暑い。ほんとに暑いと感じる。それでもまだ夕までの時間はあるので、裏山へ行き、それから女房と庭造りをする。ブロック塀を直し、池を埋めた後に小さな花壇をこれから作っていく。ミニバイクがやってきたらK師だった。本堂の今日は閉めたままを失礼する。のんびりと気分転換し、また明日からいつもの生活だ。震災からの半年の節目はどうなのだろうか。新内閣は早くも汚点がついた。何もできはしないが、明日からまた僕には祈りの日々だ。彼岸もやってくる。

2011年9月10日Saturday 晴れ
一泊で夏の終わりを。
お盆の頃に漠然と「軽井沢にでも行くか」と話していて、宿をとって一泊のしばしの休息に。お勤めをして7時20分に家を出る。先週は台風だったが、この日程は当てたなって感じだ。増穂から高速で双葉ICで降りて、後は一般道を走る。子供たちと来たのはもう15年以上前だったかもしれない。予定よりは約10時前には着く。町営駐車場に停めてぶらぶらとする。午後2時に宿のチェックイン。女房と娘は二人でまた町に出る。僕はシャワーを浴びてビールを飲んで、本の続きを読み、持ってきたCDを聴きながら、部屋の脇を流れる小川の流れとその向こうの林を眺める。

2011年9月9日Friday 晴れ
石田町長。
西桂町の町長が、町長選後にうなぎの蒲焼を支持者らに贈ったことで、公選法違反に問われているが、一貫して当人は知らないことであったとしている。奥さんが本人の知らないうちに贈っていたのだと言い張る。夜のニュースでも、辞めるつもりはないとコメントした。まあこんなことが、嘘であるのかどうかの判断は適当にこちらで付けさせてもらうが、多分全部知っているのに違いない。奥さんが夫にそれを伝えることをしない贈答などあり得ないはずで、これがやっていいことなのかいけないことなのかは全部町長自身が判断できているはずである。他所の町のことなので別にどうでもいいのだが、同姓の「石田」を名乗るものとしては、こう度々ニュースに取り上げられるのはあまり愉快なことではない。種明しのばれている手品を披露し続けることほどみすぼらしく滑稽なものはない。潔く非を認めて辞職してもらいものだ。

2011年9月8日Thursday 晴れ
「後悔」。
「後悔しなければいいがな」と今日ある人から言われたのだ。「しませんよ」とだけ応えた。この方は僕に「後悔」という言葉をどんな思いをもって投げかけたのかと考えた。月並みに、もう5年を残して辞めたあと、経済的に困窮して「後悔」するなよということだったのだろうか?それとも、僕がこの仕事をとても愛していて大事に思っていて、泣く泣く辞すというような風にでも思っていてくれるのだろうか?多分後者のようなことは思っていないはずである。前者だろうと決め付けはしないが、いくらかは「後悔」の言葉の中に含まれているのかもしれない。
若い職員たちで結婚して子どもをもうけた職員が少なからず居る。子供はすぐに熱を出したり、大人の予測できない事態が突然起きたりするものである。事前の休暇届の出せない休暇や早退などもある。こういう職員の事情を同じ職場の皆でカバーしてあげたり、こういう職員の家庭環境や事情を人事する者たちはよくよく把握しておかなければいけないのだと考える。僕が今更言うようなことではないかもしれないが。休むことに罪悪感を感じて「すみませんでした、(休ませて貰って)ありがとうございました」とくる。僕はどうもそういう性格なのか、こういう言葉を聞くのは苦手だ。堂々と休んだらいいと思う。若い者たちの生活をしっかりと支えて、理解してあげられることを優先する職場でありたいと思う。女性にだけではなく、男性にも積極的に家庭事にかかわって欲しいとも思う。職員を削減していけばそれでいいというものでもないのだと思うのはこういうことがあるからだ。互いが互いを思いやりながら、「大丈夫だよ」と電話の向こうで不安でいる職員に声かけてあげられる職場の雰囲気が欲しいと思う。もしこういうことがきっかけで、居づらくなって辞める者たちが出てきたら、これこそ「悔いが残る」ことだ。これは辞めていく者を承認する側にとってのことのほうが大きいはずだ。
自己評価や努力目標なんてものばかりにうつつを抜かして管理することばかりが重要視されている。またそれをしっかりと自己認識しないといけないことが求められる。こういうことでは早晩酸欠状態になってしまうように思うのだ。

2011年9月7日Wednesday 晴れ
老眼と難聴
一ヶ月に一度、集中してしなければならないことがある。昨日からその事務をやり始め、細かな台帳と睨めっこしたり、台帳に記載したり。老眼なので、細かな字が見えないし、ペン先にもピントが合わないので、メガネを外したりかけたりと、自分でもイライラすることがある。どうしてこんな風な眼(視力?)になってしまうのだろう。調べてみたらこんなことが書いてあった。「眼は「近くを見る」ときに水晶体の形を変えますが、このピント合わせ能力(調整力)が年齢とともに低下することが、老眼という現象です」「老眼はすべての人に起きる生理現象ですので、程度の差はあれ、遠視・正視・近視すべての方が老眼になります。また、老眼は進行を続け、元には戻りません」と。程度の差こそあれ、誰もが等しくこれを受け入れるのだから文句は言えねぇな。不思議と耳ってのは余り変わらないものなんだな。僕の場合は耳が遠くなったという症状はまだない。こちらも調べてみたら、耳が遠くなるとは、「老人性難聴」ということで、耳が遠くなるという不便を感じ始めるには、大分年齢の開きがあったり個人差があるようだ。
今日も暑くなったが、やっぱり秋で昼間の風がとてもいい。今朝は寒さを感じた朝だった。揺れる秋になるな。下田さんのライブに、愛知の方からの申し込みがあった。ファンの方なのかもしれないな。嬉しいけど。

2011年9月6日Tuesday 晴れ
吸って吐いて。
やっと今日は晴れたのである。秋の空が青く天上にあった。陽射しもあり、でも心地よい風が吹いた。弁当を食べた後歩いた。歩きながらいろんなことに思いを馳せた。ここでは今日晴れ間が覗いたが、北海道じゃ記録的な大雨になったと聞く。奈良・和歌山でも大きな災害になった。隣りの早川町でも被害が甚大だ。こういうのをなんと例えたらいいのかと考えてみる。神の怒りを買ったとかいう人も居る。これ以上、悲しみなんぞ欲しくはないわ。
母が今日から一週間のショートへ。3ヶ月前から、こんな一週間をこしらえて、女房の気遣いも解いてあげられる。認知症の母には、こっちもイライラして言葉も荒くなってしまうが、全く効果はない。同じことを毎日毎日彼女は当たり前のように繰り返す。医師からは絶対に治らないといわれている。病気という意味ではなく、彼女の認知症の個性が引き起こす事柄のことである。
職場の緑のカーテンは黄葉のカーテンになり、もう役割を終えようとしているが、4時半頃に西日が射すと、葉を透かせて黄金の輝きが映画のスクリーンのように一杯に広がる。これはいい眺め。いい眺めのようなものをしっかりと頭に吸い込んで、なるべく必要のないことは吐き出してしまいたい。帰ってからも空が明るかったので、いつもより長く外に居られたような気がした。ゆっくりとメダカを眺め、池の周りの草を引き、アジサイとフジザクラとツツジを挿し木してあるプランターの草を引く。夕空の雲が紅をボーっと眺めた。

2011年9月5日Monday
「聖老人」あとがきから。
台風だったので、ゆっくりと書くことができなかったが、山尾三省「聖老人」の野草社版(図書館で借りてきた)のあとがきは今回はじめて読むものであった。あとがきには、1988年8月に八ヶ岳の麓、富士見パノラマスキー場で行われた「いのちの祭り」に三省が参加したことを中心に書かれていた。一週間行われた”No Nukes One Love”がテーマとなるお祭りだった。サラリーマンの僕はさすがに全日程の参加とまではいかなかったが、近くだったので、最後のメインとなる土日に2歳の息子を連れて3人で行った思い出がある。三省もポンもキヨシも喜多郎も居た。あの広瀬隆もステージで語った。懐かしい顔たちにもたくさん会えた。三省の「祀り歌」という詩が載せられている。全文を以下に転載する。

祀り歌 −いのちの祀りに−

八ヶ岳よ
わが青春の日々に 限りなくエネルギーを与えてくれた山よ
新しいいのちを 指し示してくれた山よ
あのチェルノブイリの事故の日以来
ひとつの絶望が わたくしたちの心を去ることがありません
その絶望から見る時
アジアとアフリカは絶望にあり 南アフリカとオセアニアもまた絶望にあり
北アメリカと西ヨーロッパも絶望にあります
東ヨーロッパとソヴィエトの人々は より深い絶望にあります

八ヶ岳よ
ゆったりと裾野を広げた 限りなく美しい山よ
緑深い山よ

この夏 わたくしたちは
わたくしたちの呼吸そのもののように 体じゅうをめぐる この絶望を
新しい希望として立ち上がるべく
あなたの裾野でひとつの祀りを持ちます
人間は 希望なしには生きてゆけない生物です
希望をこそ杖として やっと立つことのできる生物です

八ヶ岳よ
旧石器・縄文の時代より
全人類のいのちを変わりなく育み続けてきた大いなる山よ

わたくしたちに 新たな希望を与えて下さい
核兵器と原子力発電所を廃絶して
心やすらかに 日々のわたくしたちの苦楽の生活が営めるよう
いつまでも あなたの深い緑を讃え続けられるよう
新たな希望の道を 指し示して下さい
No Nukes one Loveと呼ぶ
前生類のための道を 視し示して下さい

八ヶ岳よ
わが青春の日々に 限りなくエネルギーを与えてくれ
その旅立ちを祝福してくれた山よ
いまふたたび わたくしたちに
新たな旅立ちのエネルギーを与え その道を明らかに指し示して下さい


そして次のように書いている。
「僕たちの存在の仕方は、より大いなるもの、より深く緑を繁らせるもの、より美しく花開く青空から力(エネルギー)をもらう時、もっとも健全(すこやか)に、もっとも平和に呼吸することができられるように作られてある。
時代はどんどん先へ進んで行くが決して先へ進まず、春夏秋冬と回帰し、生老病死と回帰するもうひとつの永遠の時が流れていることを、僕たちは忘れてはなるまい。
核兵器と原子力発電所の存在に頂点を持つ、これまでのような工業文明の方向は、いのちおよびいのちの輝きとは相入れないものであることが、今ようやく万人の胸に明らかなものとして見えてきた。この工業文明は、根底からその方向性を問い直し、生類を殺すのはなくて、それに奉仕する方向へと、深く修正されなくてはならない。原子力発電所の新たな建設を止め、現在運転中のものはその作動を停止し、解体してゆくことが、その修正の第一歩である。核兵器の廃棄が、それに続くあるいはそれと同時の一歩である」
。チェルノブイリ原子力発電所事故は1986年4月26日に起こった。それから25年後の2011年3月11日東京電力福島第一原子力発電所事故は起こった。警鐘から25年の間、安全だ安全だといい続け建設を続けてきた驕りが、この事故を招くべくして招いたということになるのかもしれない。三省が行って10年目の夏、三省はこの国の多くの若者、僕と同世代の者らに、屋久島の深い森にただ在り続ける樹齢7200年の屋久杉「聖老人」を、私たちの心の内の涙の場所に「もう一度映してごらん」と語りかけてくれたのだろうと思う。

2011年9月4日Sunday
レナード・コーエン観ながら「徒然」を書く。
日付変わって、3時過ぎまで起きていてネットサーフィンなどしていたが、支所に詰めている他の人たちも静かになり、いつしかテレビも消されていたので、僕もこのあたりが限界になってそのまま机に打っ伏して1時間半ほどうとうとする。5時ちょっと前に体を起こし顔を洗う。久しぶりに夜通しの時間を過ごした。こんなことはもう、55間近の身には堪える。時折強い雨と風があるという状況は昨日の夕に来たときからあまりまわらない。4時過ぎには日本海に台風は抜けたというが、余程の鈍行台風で、勢力だけはいっぱしのものらしい。でずいぶんと被害も大きなようだ。カメラを持って外に出てみる。波木井川もすごく増水していた。こういう光景も思い出になるななんていくらかセンチメンタルな気分になる。7時前に解放となり帰る。集落の防災訓練が会場を集会場に変えて行われていたが欠席させてもらった。朝飯を食べて、残り湯に浸かって、本堂・客殿でお勤めを済ませ、客殿で喜多郎流してゴロンとなり寝てしまう。
結局今日も一日雨になって、夕方5時半過ぎの今も降っている。風は和らいだが雨は降り続いている。こんな雨も珍しい。震災のあった今年の夏は、「あーこんな夏だったなぁ」といつでも引き出して思い出せるかもしれない。「のどごし<生>」飲みながら、レナード・コーエンDVD観ながら書いている。早川町もだいぶひどい状況になっているようだ。早いこと台風の去ってくれることを願うのみ。

2011年9月3日Saturday
台風12号で呼び出し。
この台風がとてもゆっくりなので、一日中雨。強く降ったり、少し休んでみたり、時には晴れ間も見せてくれたり。こういう日はのんびりと過ごすしかない。小止みになった頃合いを見計らって9時過ぎに本堂へ行お勤め。終ってお堂は鍵をかけてしまう。客殿でお勤めをしてから、読書。ジャズを聴いたり、喜多郎をかけてみたり。それから、彼岸の法要の案内の葉書を印刷。明日も雨になるようだ。この土砂降りで風もある中を母は傘をさして外に出て行く。昨日も今日も。帰ってくれば全身がびしょ濡れである。女房はもう着替えるものがなくなってしまうと嘆く。この人にはいくら言ってももうわからない。わかってもらうことが叶わないということだが、わかってはいても、野良犬や猿さえも誰も歩いてなどいない外にでて、畑の草を引き抜いている。おそらく明日だって、黙って知らぬ間に外に出るのだ。
山尾三省の「聖老人」を25年ぶりくらいに再読し終えた。とてもよかった。20代の背伸びをしていた僕が読んでもよくわからなかったのかもしれないが、いま55にならんとして「聖老人」は僕の生き方に大きな影響を与えてくれる本になった。手持ちのものはプラサード書店から出た初版の物で、大分くたびれているので、途中から図書館に所蔵されていたので借りてそっちの方を読んだ。新しいのを買おうかとも考えたが、図書館にあればまた読みたくなったら借りたらいいのだ。
夕のお勤めを少し早いがいようかと思っているところへ、支所長から電話が入った。「第2配備体制」になったので召集するものだった。いま21時25分。雨は小康状態となっている。風も余りない。事態が深刻になっている状況ではないが、もう今夜はここなのだと思う。酒を飲まない土曜日を過ごしているなんてなんて健全なんだ。

2011年9月2日Friday
一人で行うことには十分な注意が必要だ。
夕べ、携帯がなったので出てみると、福岡の「下田通信所」のNさんからであった。下田逸郎ライブのことを寺のHPにアップしたが、開催日が間違っていると指摘された。下田さんのHP(ひとひらconnection)の「コンサート情報」欄にも、11月20日開催のライブのお知らせを載せていただけることになったのに、当の僕のところの開催日が違っていたのではどうしようもない。すぐに訂正したが、こういう誤りはミュージシャンや事務所にも迷惑をかけることになるし、来てくれようとするお客さんにも取り返しのつかない誤りを犯すことになる。もっと慎重にならなければいけないと改めて自戒した。
11月20日(日)、午後4時30分開演であります。
昨日から台風12号の影響で雨が続いている。それにしても雨が多いじゃないかのこの夏の終わりは。今朝のお勤め時には止んでいたが、出勤後の昼近くにはまた結構な降りになってきていた。
(22:23) というようなことを昼休みには書いていたのだけど、今夜は凄い雨になっている。今回の台風は風もある。我が家はCATVに入っていないので、風と雨が激しいときには、BSを受信できなくなってしまう。まあこれも自然の掟に逆らえないようでいい。新しく組閣なったけれど、野党の代表者たちは一様に厳しいコメントだ。党派の思想を超えたところでこの国の今置かれている状況を眺め、その復興を第一義に考えて国会に集う者らが力を結集するべきではないのか。おそらく今夜のテレビを眺めながら僕と同じような感想を持った人たちは多いのではないかと思う。台風が去れば、きっと青が果てしなく広く高い秋の空が頭上にあきらかになるに違いない。そういう景色に引けを取らないようなこの国の舵取りをする者たちであって欲しいものだと願う。

2011年9月1日Thursday
9月、決意の日。
台風12号の影響で夕べから雨だ。深夜も雨音が気になった。部屋に一匹蚊がいて、時々痒みで眼が覚めた。もう朝が遅い。雨の日とは特に暗さが残る。強い降りなので、通常なら本堂のお勤めは止めるのだが今朝はそうもいかなかった。今日の日の決意をお不動様や師父や祖父にも伝えておかなければならなかった。外の雨音は激しかったけれど、心静かに朝のお勤めを済ませた。師である父はどんな風に僕の心を眺めていることか。大雨の日のいつものように、長靴を履いて傘さして境内・墓地を見回る。詰まっている側溝のゴミを取り除く。雨樋はほぼ順調に流れ落ちている。これでよし。

2011年8月31日Wednesday くもり
だから結局は消費者が自ら考えて購入するかを判断するということだ。
午後8時を回って雨が降り始めた。台風の影響なのだきっと。朝の5時はもう夜の内になってきたかのようだ。夜明け間近の時のような。
宮城県産牛の出荷停止解除について、村井知事は、県が発行した検査証明書をつけて出荷をすると言い、検査証明書の表記には検出値も表記するのかという問いには、「安全であるということだけでよろしいかと思っております。」と返答している。続けて、「健康上全く問題のない数値であるわけですので、詳細な数値を出したところで消費者の皆さんは理解ができないわけでありますから、安全か安全でないかということだけはっきりと証明すれば十分だというふうに思っております。正式には、牛肉の放射性物質検査結果通知書といったような形で添付をしたいと考えております。(1キログラムあたり)500ベクレル以下であるということであります。その証明書がついていれば(1キログラムあたり)500ベクレル以下で、どれだけ食べても全く問題がないということであります。」と。
被災地の窮状は痛いほどわかるが、健康被害が将来に及ぼすかもしれない問題を、こんなにさっぱりと、「どれだけ食べてもまったく問題」なしと言い切ってよいものだろうか?基準を下回る数値であれば、それは安全であると。国の対応を非難しながら、一方ではこういうところにはちゃっかり寄りかかっているのかという不満が残る。安全な食べ物であるかどうかの判断は結局個々の裁量に任されるということだ。行き着くところはそういうことなんだろうな。

2011年8月30日Tuesday 晴れ
ブロック塀工事終わる。
一週間でちょうどブロック塀の取替え工事が終わった。今朝、「今日で終わる予定です」とのことだったので、やって欲しい最後のことをいくつかお願いしておいた。帰ってきて眺めた。まあブロック塀の取替え工事だからそこはちゃんとできているようでよかったが、池を埋めて前庭も植えてあった松なんかを他所に移してもらったりしたので、もう少し何とかなっただろうという気もしたが、女房曰く「だってそういう職人ではないもの」がまさにその通りなのだ。少し乾き始めたサツキを植えてみたが、掘ったとこから煙草の吸殻は出てくる、煙草の包装セロファンは出てくるであった。昔気質のようなくわえ煙草で仕事するおっさんも来ていたし、土を埋めるとこに、当たり前の様にタバコの吸殻が放ってあったし、まあこれが所詮この方たちの仕事の程度であろうと思った。10時と3時とにお茶を出す必要はなかったが、せめて今こういう仕事をする人たちなら、煙草は所定の場所で吸うくらいの決まりをもって欲しいものだと感じた。
それでも、塀が直ってこれから少し園芸用の土でも入れたり、畑から少し土を運んでもいい。女房が楽しめる花の場所を作ってやりたいと思う。

2011年8月29日Monday 晴れ
あれこれと考えてみる。
夕べテレビを見ていて、100m決勝でボルトのフライング一発失格は「きびしいなぁ」って感じたな。いろんなことがあるなぁ。夫の誕生日に落とし穴で驚かそうと掘った穴に、夫婦共々落ちて窒息死だって。サプライズって、自分が掘った穴の場所や大きさや深さをこの奥さんは忘れてしまっていたのだろうか?不思議だ。こういう死に方はなんとも情けない。こんな死に方だけはすまいと思う。そんなこんなで民主党の新代表が野田佳彦さんに決まったな。この人は僕より年齢が一つ若い。段々、僕も国を動かしていくような人たちと年齢だけは似通ってくるんだなぁ。8月も三つ寝たら終わりだ。
この間内藤君が連れてきた中村誠一さんがいってた。「ジャズマンはいつが終わりかって、呼ばれなくなったときが終わりですね」って。必要とされない人ってわけではないだろうけど、お声がかからなくなるってことは、その人でなくてもいいとか、その人の代わりになるフットワークの軽いフレッシュがいるからということになるだろうか。坊主もなぁ、お声がかからなくなるってのはどういうきっかけかなぁ。「よぼよぼのあの坊さんが来ると、葬式の最中にあの坊さん自身がコロッといっちまいそうで、こっちが心配しちまうんだよなぁ」とか、「悲しみにどっぷりと浸れないんだよなぁ」とか陰でささやかれ始めたときなのかなぁ。先週引退した司会者は、確か「僕の中ではセーフだと思っていたことが、芸能界ではアウトだったんです」みたいな発言をしていたな。世の中、段々世知辛くなってきて、一発○○ってのが当たり前になってくるのかなぁ。

2011年8月28日Sunday 晴れ
8月28日、護摩を焚く。
お不動様の日曜は貴重なので、今日は護摩を焚く。夏の護摩は汗との格闘だ。心のなかで思い馳せる方々のために護摩を焚く。それから今日は山尾三省の命日。10年が経った。護摩の後に護摩壇の掃除と本堂の掃除。今日は残暑厳しい一日になった。貴永さんも奥の院の不動堂に登拝しているのだと思う。護摩を終えて、頭を刈って、本堂の掃除をしてこれで12時過ぎで午前中終わり。それでもやることをやれば気持ちはすっきりだ。昼寝から覚めて三省の「聖老人」を読む。読み返しているので、ゆっくりと時間をかけて、思い出を引っ張り出しながらである。「屋久島の奥岳に自生している樹齢7千年からになるという縄文杉は、伐って売られれば虎屋の羊羹と同じ体積で、虎屋の羊羹と同じ値段がするというものであるが、生きて繁っている以上は経済価値は無一文である。僕たちは縄文杉が無一文のままであって欲しいと思う。それは偉大なものが経済価値のみでは測れぬことの、ひとつの象徴なのである。縄文杉を伐って売らぬこと、これは欲望の抑制につながるひとつの象徴であり、縄文杉を崇拝すること、これは欲望を純化することのひとつの象徴であると僕は思っている。」という文章が、風の通る客殿に転びながらの僕の頭によく入ってきた。僕は、三省たちのような生き方の人たちと短い期間でも触れ合うことのできた青年の頃のことを、いまとても大切に思うことができるし、これが僕の生き方にも重要な位置を占めていると自覚しているし、それでよかったと思っている。三省はいまここに生があったならば、3月11日のこと、その日からの今のこの弓の島のことをどんな風に言葉にしただろうか。
行蔵院のご住職も今日は護摩を焚いたのだとおっしゃっていた。おそらく、玄法院でも護摩が焚かれたのではないかと思う。山梨の醍醐の人たちもそれぞれの祈りの場所でお不動様の28日を仕えたのだと想像する。8月も終わりになる。よい一日であった。

2011年8月27日Saturday くもり晴れ
八月最後の土曜日。
朝雨がまだあり、職人さんたち来るかなぁと思っていたら、早くに社長さん来る。「午前中は大丈夫だと思うので、やれるだけやってしまわないと、午後の天気が危ないらしいので」と。仕事の段取りを一人ではじめる。後から残りの職人さん二人来て午前中の仕事始まる。ブロックが規則正しく積まれていく。結局雨にはならず、5時ちょっと前まで仕事してくれ、だいぶ捗ったようだ。僕は今日もほぼのんびり。メダカを眺め、掘り上げてあったツツジを適当な場所を見つけて植える。
午前午後と、三省を読む。内藤君が送ってくれた中村誠一のCD聞いたり。「お寺で、いつかライブやりませんか?」とメールをいただいたが、今はちょっとまだ考えられない。というより、もうそういうことができなくなるかもしれないとも思っているので。でも音楽のある暮らしは続いていくだろうとは思うが。
「ふたつの舟/下田逸郎&桑名晴子」というネット配信のアルバムを初めて買ってみた、1000円。mp3とFlacのファイルがDLできたけど、Flacファイルをwavファイルに変換したものをCD-Rに焼こうとしたらこれができない。できないのかなぁ。
内田ボブの「おお、チェルノブイリ」という20分近い歌がアップされている。mp3ファイルなので、あっという間にDLできるのでよかったら聴いてほしいと思います。http://amanakuni.net/bob/top.html 「音声ファイル」を右クリックして「対象をファイルに保存」すればいつでも聴くことができます。

2011年8月26日Friday くもり
久しぶりに歩いた。
今日の天気もカーッと暑くなったり、雨が降ってみたり。弁当を食べ終わり外を見たら少し曇り気味なんで久しぶりに歩いてこようと思い立ち、支所から波木井橋を渡って歩く左回りのコースを取った。久しぶりなのでやはり体は重い感じだった。半分ほど歩いてもう引き返すに引き返せない場所に来た辺りで雨がポツポツと降りはじめたが、まあ何とか歩きとおした。おかしな天気が続く。
夕べから、「下田逸郎弾き語りlive」のフライヤーを作ったり、webpageをアップしたり、下田さんに手紙を書いたり、福岡の下田通信所へも今回の件のメールを送る。3ヶ月あるのでまだ先のことだけれど、後は集客ということになるか。まあのんびりと。
3ヵ月後のことを考えると、幾ばくかの先の見えない不安が湧いてもくるから、変なことに気遣うようになったもんだ自分でもおかしい。TOKIOの山口達也さんが福島第1原発から約25キロ離れた計画的避難区域の浪江町にあるDASH村を、先月と今月訪れた会見をしたそうだ。DASH村は僕もよく見ていた番組だったが、こういう最悪の状況に陥っている場所を、これもまたテレビは売らんかなとしているとしたら、あまり感心できることではないと思った。

2011年8月25日Thursday くもり
心配。
よく降る。9月の長雨に早くも足を踏み入れたようだ。今日はこの天気なので、塀の工事も休みだったようだ。
島田伸助が突然芸能界引退を表明したことは、特段興味もなし、これで彼が完全に芸能界との縁を切るならそれはそれでよし、またいつか知らず知らずのうちにテレビに出始めていてもこちらの知ったこっちゃない。彼の発言も危ないような予感がしていたし、大阪府知事になった橋下徹と同じような括りの中に思想を持つ奴ではないかと勝手に僕は思っているので。それよりも、「伸助社長のプロデュース大作戦」という番組で、宮古島で民宿の支配人をしているノッチ一家とか、初代民宿支配人で、その後、伸助の指令で沖縄の無人島・ナガンヌ島でサンゴ礁の復活プロジェクトに関わっているレギュラーなどは、これからどうなってしまうのか?まあ、僕が心配することではないかもしれないし、後をきれいにして芸能界を去っていくお笑い会の重鎮が、そのまま放置しておくということもないだろうが。やはり一般世間に与える影響って芸能人やスポーツ界にいる人たちは大きいからね。一攫千金を夢見るものにとっては、成功者の彼らはヒーロー、ヒロインだと思うものね。だから、口にした言葉にはよくよく責任を持って欲しいと思います。
僕がここで勝手に紳助の引退について憶測で書くのとはわけが違う。やしきたかじんともあろう人がtwitterを軽く捉えていたものだと思う。たかじんが紳助に関して意味深なつぶやきを発すれば、マスコミがあなたにどう食いついてくるかわからない人ではないと思いますがね。それこそ「そこまで言って委員会」だよ。と僕は感じた。

2011年8月24日Wednesday 晴れ
下田逸郎さんの弾き語りliveやりますよ。11月20日。
名古屋に住む遠藤夫妻からメールが入った。過日の高校の友人の死で、数年ぶりに連絡を取り奥方には帰省の折に会うことができた。二人とも共通の友人である。返信をしてこちらの携帯情報を伝えたら返事がきた。携帯は夫婦共有の物だということだった。おそらく30を過ぎて出家し、縁あって名古屋の日蓮宗の寺の住職となった夫と妻とご子息との、つまやかな暮らしぶりが伺われるような思いがした。
娘が朝食に来ないので女房に聞くと、「今日は夏休み」とのことだった。4月から農協の臨時職員として働いているが、体調を崩して2回ほど早退した日もあったようだが、決まった休日以外を休むことなく勤めてきた。しかも、果樹の時期はその手伝いに休日を出たことや東京駅での観光PRにも参加したりしているのだから、ちゃらんぽらんな僕から見れば「よくやってるじゃないか」という評価ではある。臨時には有給休暇はないらしく、日給制なので、結局休めばその日は稼ぎがないということになる。まあそれでも今日の休みはどんな風に過ごしたか知らんけれども、リフレッシュにはなったのではないか。
喜田の姉さんにも相談して、「下田逸郎live」を11月20日(日)の夕方始まりということで開催することにした。詳細は、またここに載せます。

2011年8月23日Tuesday くもり晴れ
暑さ戻る。
朝まだ雨がほんの少し残ったが、昼近くからは暑さが戻り、太陽の光も戻ってくれてホッとしたような気持ちで見た。職場の目の前に頼もしく展開されている緑のカーテンのゴーヤの葉は、陽の光を透かして少し黄色に映り、これはこれで、間もなく役目を終える時期に来ていることを感じさせる。もう来年はこの光景を見ることはない。昼過ぎに冷房が入った。
今朝、昨日からブロック塀の工事に入ってくれている業者が少し早めに着てくれたので、気になっていることや伝えたいことをいくつか話せてよかった。僕たち夫婦にとっては、ここで自らの死を迎えることができるのかもはっきりとしたことがわからないということなのだが、元気で長く寺守でいるために、ゆとりは正直ないが、今年僕のサラリーマン収入がある内に、どうしても必要なものには手をつけておかなければならない。
勤務している支所の通りに東電の営業所があるが、11月末で閉鎖になるそうだ。厳しい状況を誰もが受け入れていかなければならない。朝の明けもだいぶ遅くなったし、寺に帰るともう薄暗くなり始めている。もう一ヶ月もしたら、夕のお勤めはできなくなる。女房にお堂を閉めてもらう半年が始まる。平坦な繰り返しの日々ではあるが、繰り返す祈りの行為をこの寺の歴代尊師も続けてきたのだ。特別ではないことを続けていくことなのだと思う。28日は山尾三省の命日。ちょうど10年になる。下田逸郎さんからハガキ届く。やはり、日程は11月20日(日)でなければ無理なようだ。

2011年8月22日Monday くもり
サルが朝から。
今日も朝から雨で、一日降ったり止んだりの天気のままに一日が終わる。朝から裏の竹薮のほうが騒々しく、もう何の仕業かはわかっているが、そのうち屋根を飛びわたる音がしたかと思うと、ドスンとトタン屋根に飛び降りる音。サルたちが雨の中を餌を求めて下りてきた。たった1本の柿の木に4匹くらいが登って、まだ青い実を食っている。柿の枝は折れ、緑の葉があちこちに散乱する。逃げては戻り逃げては戻りする。奴らの駆け引きのほうが僕より数段上手。その上奴らはこのことに一日集中できる時間のゆとりがある。僕は時間がくれば奴らとの駆け引きを反故にしなければならない。
勝手に畑の残飯から育ったかぼちゃをも、しっかりと両腕に抱え、二足歩行していきよった。生きていくことには見習わなければならないほどまっすぐだ。まっすぐな生き方ってのはいいなぁ。夜、Leonard Cohen/Live in LONDON聴く。欲しかった。盆の仕事を頑張ったのでご褒美とさせてもらった。

2011年8月21日Sunday
雨降り続く。
朝から止むことなく、シトシトシトシト降り続いている。頭を刈って夕方になってもまだ降っている。明日から、太業舎がブロック塀の取替え工事に入ってくれるのにも大変そうだ。雨だったので、のんびりと休日を二日間過ごせた。メダカもゆっくりと眺めた。もうひとつ陶器の鉢をさがしてそこに少しメダカの稚魚を移した。一週間経って、ちょっとだけ初めに生まれたのは大きくなったように感じる。1.5センチくらいになるのは容易なことではなさそうだ。きっと寒くなっちまう。午後は、GRATEFUL DEADをCD-Rに焼いたり聴いたり。もう2,3日のんびりとゴロゴロできたらいいのに。

2011年8月20日Saturday
一日雨になる。
寒いくらい。5時に起きたときには雨が止んでいたが、その後降り始め、しとしとと一日降り続いている。止みそうな素振りもお昼過ぎにはみせたりもしたが、いま夕の5時、まだ降っている。お勤めを早めに済ませた。今日はのんびりと過ごしたので、夜の行事もはやめに始めるのだ。昨日内藤君から、「第一期山下洋輔トリオのサックスプレイヤー」の中村誠一さんを明日連れて行くので、お不動さんなどをみせてもらいたいと連絡があったので、8時くらいから涼しいなかを本堂を少し掃除して、樒なども盛り変えた。午後来るとのことだったので、慌てることなくゆっくりと本堂の廊下も掃いたりしていた。客殿から今日はテレサ・テンを大きく流した。雨も降っていたし、テレサ・テンがやけに今日の風景に似合ってしまって二度もかけたりしていた。そのうちに内藤君から電話があり、早いけど行ってもいいかという。10時過ぎに二人がやってくる。中村さんのCDを午後流しながらお待ちしようと考えていたが、流れているテレサ・テンを中村さんも「いいねぇ」などといってくれたものだからそのまま流した。くどいようだが、今日はテレサ・テンがよく沁みた。庫裏の玄関でお茶を飲みながら少し話をして、用意しておいたCDにサインをしていただいた。もうすぐ65歳になられるそうだ。午後の予定がなくなったので、昼食後は中村さんのCDなど聞きながら読書。女房と娘は朝から買い物だ。やっとのんびりとできた一日。それにしてもTシャツ一枚じゃ寒いくらいの気温。体は少し参る。メダカの子供たちを外に出したが、また庫裏の中に戻した。ということで。

2011年8月19日Friday くもり
とりとめもなく、書く。
今朝は疲れが残っていたし、日中もそうだ。朝ポツポツと雨がきたが、不快になるくらいの蒸し暑さで、首も痛くて、どんより気分で過ごした。棚経から昨日の葬儀までほぼ一週間白衣を着続けた。まあ久しくなかったことだ。残暑がピークのような一週間だったので、白衣を着ては汗びっしょりで毎日女房は洗濯をしてくれていた。暑い時期は基本的に僕は足袋を履かない。さすがに通夜と葬儀は足袋をつけたが、棚経も裸足だ。今週末はゴロッとのんびりしていたいが、やらなければならないことが少しある。
『原子力安全・保安院の新しい院長は就任後初の会見で、「想定外が起こりうるのは今回の大きな教訓。(今後)原発は絶対安全と言うつもりはない」と、これまでの「安全です」一辺倒の姿勢を改めようとの考えを示した』とあった。そういえば、1988年のRCサクセション/COVERSのなかで、「日本の原発は安全です」とキヨシローは「summertime blues」を歌ったよな。まったくいかれてるぜ、「さっぱりわかんねえ 根拠がねえ」ってことだもんな。
「福島県の子ども約1150人を対象にした甲状腺の内部被曝検査で、45%で被曝が確認されていたことを明らかにした。17日、同県いわき市で開かれた説明会で発表した。すぐに医療措置が必要な値ではないと判断されているが、低い線量の被曝は不明な点も多く、長期的に見守る必要がある」と。数年後だなぁ。昨日、夜帰ってきてからテレビで、福島の子供たちが政府のお役人と対峙しているのを見たけど、命に関わる危険にさらされながら過ごしている子供たちに対して、あまりにもお偉いさんたちは通り一遍の応えしかしない。見ていて辛くなった。
話はガラッと変わるが、昨日、初七日からの帰り道、笛吹川の土手を走りながら、太田裕美を聞いた。時々無性に聞きたくなる。泣きたくなるときがある。まっすぐな土手道のはるかな夕空を見ながら、「木綿のハンカチーフ」に落涙する。泣きたくなったら、僕はこの歌や南沙織の「色づく街」や「人恋しくて」を聞く。坂本僧正が逝ってしまったことは紛れもない事実で僕にとっても悲しい出来事だった。悲しかったけど、小さな僧伽(サンガ)はまた少し深くつながりをもてたような気も確かにしていて、それも泣きたくなった因の一つではあった。
午後から少し降った雨が夜になって降り始め、やっと涼しい夜になった。

2011年8月18日Thursday 晴れ
葬儀終え。
午後5時半前に寺に帰る。朝の天気予報で、甲府は36度になるといっていたので、今日も暑くなるだろうことは予測できたし、頭にも体にもよく言い聞かせておいた。10時半前に玄法院へ到着。程なくご住職ら親族火葬場より戻ってくる。葬儀場の準備を式集の皆さんとする。70センチくらいある大きな氷が持ち込まれた。扇風機の前に、デカ鍋に入れられた氷の塊を置く。昼食前に式の打ち合わせをする。会奉行を貴永さんに頼んでおいたが、夕べから大役をこなすために事前勉強を積んでいたようで、しっかりとやってくれる。こういうことの経験が体に染み付いていくのだと思う。寺の僧侶の葬儀などをすることはそんなにしょっちゅうあるわけではない。われら醍醐の僧侶だけではいささか力不足になるだろうと思っていたが、高野・智山のご住職にもお手伝いいただいて無事葬儀を終えることができた。初七日まで済ませると、もう僕は早く戻りたい気持ちが湧きあがってきたので、40分ほどで他の僧侶方にもお許しいただいて皆で辞した。帰ってきて夕のお勤めを済ませ、汗で生乾きの衣や袈裟を女房に干してもらい、一切のものを片付け、メダカに餌をやり、ビールを喉に流し込んだ。慌しく3日間が過ぎた。まあでもよく3日で、トントントンと事を済ませられたものだと思った。明日は雨になるという。残暑も今日で一区切りか。ビールを飲んでいると屋根が騒がしく猿だ。1本ある柿の木のまだ小さな青い実を採りにきた。山には食べるものがないのだろう。生きてゆくことにまっすぐな猿たちだ。サギソウがもうひとつ花開き始めた。玄法院の長老を案内してくれそうな神々しいような無垢な姿だ。居なくなることの寂しさは確実にあるが、絆の深くなることを見つめていく。

2011年8月17日Wednesday 晴れ
残暑厳しい。
午前11時まで仕事をして暇をもらう。明日も休みとなり、こういった風に休みをたくさんもらうことになると、やっぱりサラリーマンをしていることにいよいよ引け目を感じてくる。やはりこの辺りが潮時なのだという思いを強く感じる。3時ちょっと前に玄法院へ。行蔵院、金剛寺さんも来てくれる。納棺をして棺を本堂須弥壇まえに安置する。今日も残暑が厳しい。三々五々僧侶方お集まりになり、午後6時から通夜。七条袈裟を着けたので、余計に暑さが増し、もう始まりから終わりませ汗が流れっぱなし。顔を何度も拭う。よい理趣経になったと思う。戻り、皆さんに礼を述べて着替える。白衣はもちろんだが、紫衣も汗でびしょびしょ状態。畳むのも気が引けたが、干して乾かすようなわけにもいかないので、冷たい飲み物をいただいて早々に失礼した。明日は10時半に集合。帰って缶ビール3本をグイグイッと飲み干す。明日の流れのことなど考えたり。檀家から頼まれた位牌の注文も仏光堂にする。父の同級生。生涯現役で勤めていけるのだそうだ。元気元気。ということは、葬儀の玄法院の長老とも同い年ってことだから、この方は元気だ。
今日も暑かったが、明日までこの残暑は厳しいとのこと。冷たいものが欲しくて、飲むと汗が出てって循環は体も疲れる。さて明日のために十分な休養が必要だ。

2011年8月16日Tuesday 晴れ
玄法院長老逝く。
ちょうど僕が朝のお勤めをしている時間に逝かれた。居間で新聞を読んでいると、ご子息である住職から報告があった。5時23分だったと。今日も休みで、午後から護持会の総会になっていたので、行蔵院ご住職に連絡を取り、9時半に玄法院に着いた。本堂に横になっている長老は、6月にお会いしたときからさらに痩せ細っていたが、安らかな寝顔が救いのような気がした。理趣経をあげた。その後すぐに日取りなどの打ち合わせに入った。
明日、明後日で通夜葬儀となった。所下の寺院へもすべて連絡を取った。長く宗務所長を務めてくれた長老である。しっかりと送ってあげたいと思う。宗務本庁へも連絡を入れた。弔電と弔辞をいただけることになった。
午後から盂蘭盆法要と護持会の総会。暑い暑い午後。10人ほど来てくれる。ささーっと終って飲み会。今日は今までになく皆さんゆっくりしてくれて、話題も豊富に展開し、焼酎も1本空けた。こんな時勢である。僕は皆が心を許しあって誰彼となく尽きない話をしていたいのだというような風に感じた。いい午後だった。

2011年8月15日Monday 晴れ
今日で棚経終わり。
朝一時間ほど今日やらなければならない職場の仕事に行く。帰って着替えて最後の棚経に出る。親戚の新盆の家から。終わってお茶をいただきながら、こちらの母の現在の状況など話す。次に檀家のS家に。ここも新盆。丁寧に経をあげ、9月の一周忌の日取りなど決める。その帰り、三吉屋へ寄って盆の今日を上げる。T兄ちゃんはだいぶ体調がよい。去年の今日だったんだよなどという話を聞きながら30分ほど居る。ここでも母の状況など報告。11時になり、下山の遠藤家に。留守だったので戸口にて経を上げる。次に最後の後山の2軒に。ここも2軒とも遠藤。無事今年の棚経を終えてお昼ちょうどに帰る。帰って着替えて、メダカの稚魚を暫し見る。心和む。でも今朝、大きい瓶の成魚3匹が死んでいたのだ。暑さなのだろうか?僕には原因はわからない。ビールを2本飲んでゆっくりと昼寝。風のよく通る客殿で3時過ぎまで寝る。気持ちがよかった。今日も暑い日で、「よくこんな日に仕事に出かけたなぁ」などと、娘が仕事に行ったことを女房に話すと、「当たり前でしょ」みたいな答えが返ってくる。まあそれはそうだけど。山尾三省の「聖老人」を読み返し始めた。開くと紙質が悪いのか、ページが落ちていたりする。でもなつかしい。ゆっくりと読み返したい。三省の言葉を深く味わうことが僕には必要なときなのだと思う。

2011年8月14日Sunday 晴れ
棚経、2日目。
4時45分起床。お勤め。メダカの孵化しているのを確認。昇天するような嬉しい気持ちに全身が襲われる。朝食後、7時15分棚経に出発。本栖道を登る。本栖のトンネルを抜けると明るくなったが富士山は望めなかった。ちょうど8時に遠藤家に着き始める。遠藤さんから巡礼の話など聞く。この方は四国ばかりではなく、各所の巡礼道を歩いている。白髭の仙人のような風貌になっている。3.11の数日後に富士宮を震源とする地震が夜10時頃だったかあったんだけど、富士豊茂は開拓村なので、村に広い共同墓地があるが、その夜の地震で墓石が皆倒れたという話を聞いた。突き上げるような地震だったのでそうなったのだろうということだった。遠藤家を後にして精進湖から市川大門へ下る。盆でもあるが、日曜なのでいつもより車も多かったように感じた。ここも遠藤家。お母さんは透析を週3回受けているので、この暑い時季はとても身体が大変そう。公園のトイレで用を足して一路甲府方面へ。石和町の坂本土建へ新盆の供養に伺う。お不動様の信者さんだったが、1月13日に突然亡くなってしまった。坂本さんに届くように、仏説聖不動経と慈救呪も付け加えた。ちょうど会社の皆さんもお出でになっていて、奥様から「お不動様のお寺の住職さん」と紹介していただいた。先を急ぎ甲府市内で再び遠藤性の家を3件。その後高畑の佐田家、山宮の柳沢家で一息入れる。息子たちは帰っていないらしかった。共通の話題で八田の長谷寺のご住職のお話をする。ここはこの夏、家のエアコンを使わないことに決めたそうで、生暖かい家の中で旦那は、首に冷たいのを巻いたりしていた。我が家では昨日からエアコンのスイッチを入れてしまった話をした。一度入れてしまうともう止められなくなってしまう。確かに昨日も今日も猛暑であった。今日も帰ってくると台所はいい状態に冷えていた。残り双葉と昭和町で1件ずつ。喜田の姉さんに電話して、岩間の小林さんのところで2時15分過ぎの待ち合わせを約束して飛ばす。1月2日にこの方も突然逝ってしまったのだ。奥さんと、娘さん、お孫さんが迎えてくれた。遺影になってしまった小林さんはまだ鮮やかに生あるままのようだったが、写真の前に奥さんが供えた冷酒を、あの笑顔で口元に運ぶことはもうない。車でなければ僕は少し飲みたかった。家に一旦寄って、いただき物を下ろしたりして後半へ。飯富のK家へ。車椅子のご主人が迎えてくれた。経をあげた後10分ほど話した。あの日、群馬から同級生の方が来ていたらしかった。凄い揺れだったので、家も危ないと思ったので、「お前は外に逃げろ」と友人に言ったそうだ。俺はこんなだから逃げられないけどなとも。自らの運命と、今回の震災のことなどで、Kさんも相当なダメージを負ったのだ。そうそう、大工をしている甲府の遠藤さんは、震災後友人のいる東北の町へ行ってきたのだそうだ。「友だち3人で行ったんだけどね、あの光景を目の当たりにしたら、自然と涙がこぼれました」と話してくれた。自然と涙がこぼれたその情景を思い浮かべてみた。遠藤さんも十分にそこを共有したのだ。どこの家でも、震災の話をした。それだけ今年の盆は皆が悲しみを分かち合っている。思いやるやさしい心になっている。汗も流れたけど僕も十分に泣いた。帰ってきてビールを飲んでいると、薄闇の中に東海さんが現れる。福島の酒をいただいた。彼が本堂前で吹く法螺貝を一日の閉めのねぎらいのように聞いた。

2011年8月13日Saturday 晴れ
棚経。
午後1時から集落内の檀家への棚経をする。朝から今日も暑い。土曜日なので、結構朝早い時間から寺にも訪れる檀家が多かった。東京から古地里さんも9時半頃に訪れる。きっと僕が東京へ棚経に行くのとおなじように、6時過ぎには町田を出たのだと思う。ご主人のお墓を掃除して盆のお迎えをして、またタクシーを呼んで慌しく東京に戻っていった。こういう人にはなんか頭が下がるような気がする。こんな辺鄙なとこまで来てもらって済みませんというような。
いつものように自転車で回る。お茶、ビール、ジュース、冷水を供してくれる檀家さん。もちろん全部ではないし、全部の家が出してくれたらこちらもたまったもんじゃない。ほどほどのところがいい。最後にいつものように秀ちゃんのところで一時間ほど冷たいものをご馳走になって話をしてきた。おばさんは、ちょっと前入院していたらしいけれど、今日はしっかりと元気復活していた。元気復活は小林Aさんも同じ。80歳を軽く超えてしまった檀家さんたちが多い。そして比較的皆元気。大変な家もあるけれども、元気な高齢者から、「しっかりやれよー!」ってな後押しをもらうな。
もう一つうれしいことがあった。メダカの産卵を確認できた。別の陶器の器を用意してそちらへ、産み付けてあるシュロの薄皮ごと移動させた。孵化を確認したい。

2011年8月12日Friday 晴れ
朝から暑い。
4時45分起床。確かに朝が遅くなっている。この時間でもう、少し暗さを感じるのだ。本堂での勤行も、蝋燭の明かりを頼りにしないと経本が読めない。それなのに朝から暑い。お勤めの後、野良着に着替えて墓地の奥へ野竹を採りに行った。紙の盆幡を野竹を立てて各墓地に吊るすのだ。幡は今夕か明朝。甲府の檀家佐田さんが6時頃にやってくる。「涼しいうちに掃除してしまわんと(暑くなって)かなわんからな」と、「ほんと暑いですね」というと、「でもここはまだいい、甲府の暑さはこんなもんじゃない」という。甲府盆地の夏は暑い。あさって僕も甲府へ棚経だ。きっと暑い。
今日金曜で仕事が終わって、明日の盆からのことをのんびり過ごそうと考えている人たちが圧倒的に多いのだろうけど、僕はまったくのんびりできない。坊主せわしく飛び回る盆になる。昨日の夕方あたりも道路がいつもより混んでいた。中央高速下り線ももう6時半過ぎで渋滞しているらしい。気持ちは早く家に戻りたくても動かないってのは辛いね。でもこうして、節目節目にきちっと帰るってことをやり続けているんだよな。立派。

2011年8月11日Thursday 晴れ
高温注意報の夏を乗り切れたら。
総本山醍醐寺から、震災のために延期されていた座主の晋山式の案内が送られてきた。「醍醐寺からの通知と醍醐派宗務本庁からの通知は別物として受取っております」という他県のご住職の話を少し前に聞いていた。今回の案内状の差出人は「総本山醍醐寺」からのもの。本文を開くと、@総本山醍醐寺第百三世座主、A真言宗醍醐派管長、B大本山三寳院門跡となるNJ大僧正の晋山式であることが記されているが、差出人欄がそういうことなので、端から出席するつもりも余裕もないのだが、僕も別物として受取っておこうと思う。(多分これは、関係者以外わからないだろう)。
立秋をまたいで猛暑が再来した。電力使用量もピークメーターが点滅しそうな感じだが、暑さには抗えず、職場ではもう朝から冷房稼動となった。こういう我慢ができない状況を受け入れてしまうと、体はそれを常に要求してしまうようになってくるだろう。ドスンと落とし穴に落とされなきゃいいけど。
心配された前宗務所長の様態も安定したのだろうか、連絡の来ないのはそういうことなのだと安堵している。もう一ヶ月ほどすれば、涼しい過ごしやすい季節に変わってきて、そしたらまた命永らえること間違いなしだ。

2011年8月10日Wednesday 晴れ
Aladdin Sane。
終業後すぐに、身延駅へ名古屋の遠藤上人の奥方を迎えに行く。多分10分位は待ったであろう。駅前のロータリーに車を停めて降りると、向こうは僕をもう見つけていたようで歩いてくる。僕が手に持っているCDに「何それ?」って訊くから、「顔がわからなかったら困るって言ってたから、これを持ってりゃわかると思って」と応えた。“それ”とはデヴィッド・ボウイのアルバム「アラジン・セイン」だった。彼女は、早熟な女の子だったので、小中学校辺りから、ストーンズやボウイを聴いていた。僕なんかは、彼女に教えられてこのアルバムなんかは聴いたのだ。そうそう、亡くなった“ぶっさん”もアラジン・セインは確か中古で買って持っていたはずだ。アラジン・セインは今でも時々聞く。僕なんか「アヴァンギャルド」っていったら、アラジン・セインを思い浮かべるのだ。家まで送る短い車中で話した。それぞれの配偶者のこと、親のこと、子供のこと。この夫婦とはよく東京時代には遊んだものだ。多分死ぬまで、二人とも大切な友達だ。ほとんど会う機会はないけれども、彫り物のように刻み込まれている過去時間が、とても懐かしくて僕には大事なのだと今日は感じた。

2011年8月9日Tuesday 晴れ
今日はJerry Garciaの命日。
後にも先にもう出ることはないであろう偉大なバンドGRATEFUL DEADのリーダーJerry Garciaは1995年8月9日水曜日にこの世を離れた。享年53歳。もう16年になる。僕もJerryの年を越えた。今日高校から大学時代を共に遊んだ友人の通夜に参列した。55歳になる年であれば、これも運命なら仕方がないと受け入れるしかないのだとも思う。高校時代「仲良しぐるーぷ」と称していつも一緒だった仲間の一人だ。30歳で余りにも早すぎる死を迎えてしまった佐野Yに続く旅立ちとなった。職場に着くと携帯が鳴った。籏持君からだった。望月Tの死亡記事を僕に確かめてきたのだ。「その通りだろう、間違いない」と応えた。その後、知り合いから彼の死についてのいくらかの情報が入った。癌の進行が早かったらしい。通夜は大勢の参列者だった。遺影になってしまった“ぶっさん”を見るのはなんとなく気が引けた。彼も僕にそんな写真は見て欲しくないと思っていたかもしれない。葬祭ホールのあちこちに小さな塊りができていて、彼のことやご家族のことを話していたのだろう。最近の葬儀のはやりなのか、ここにも生前の彼のスナップ写真が出口近くに置かれていた。僕は眺めずに外に出た。午後7時に近い藍色の空を遥かな目で眺めながら、遊んだ日のことを少し思い出しながら帰ってきた。高校三年の夏休み、仲良しぐるーぷで2泊だったか、本栖湖にキャンプに行った。酒をたくさん飲んだことを覚えている。吐きながら飲んだ翌朝歯を磨いていると、ぶっさんが横に来て、「忘れたからその歯ブラシでいいや」と、磨き終わった後の僕の歯ブラシで彼は歯を磨いた。後にも先にもこんな経験はない。俺なら借りずに指で磨くかするだろうけど。深くこれは残っている。
晩酌のあと、「空海 至宝と人生」第3集を見ていると、名古屋に住むかつてのぐるーぷ仲間で、今、日蓮宗の僧侶となった遠藤上人から電話がかかってきた。短い会話でぶっさんのことを話す。皆、賀状のやり取りくらいで、今会うことはほとんどない。彼の奥方(Yさん)が明日山梨に帰省するとのことで、僕が身延駅まで迎えにいくことにした。死者の月が8月。またひとつ石を積んだ。

2011年8月8日Monday 晴れ雷雨
立秋。
午前中はものすごく暑くなっていて、高温注意報なんてのが防災担当から流されていた。玄法院に手紙を出しに郵便今日へ歩いていくだけでも汗が吹き出た。今日は暑くなると予報があった。でも今朝は出かける前の時間に女房の買ってきた花の苗をプランターに植えたりした。こういう作業はどうしても男の役割となるってのが我が家だ。彼女は別に買ってきたものをプランターに植え替えたいとは言わないが、僕がやっぱり、見栄えが悪いような気がするのでそうする。
立秋。暦の上ではもう秋なのだ。気候と気温にいささかそぐわない感もなくはないが、そういう風に一応決めているのだから、今日からは「残暑」だ。先週辺りからちょっと感じていたのだが、夜明けが少し遅くなった。5時前に起きるのにも、ちょっと前の明るさはもうない。立秋だからねぇ。
帰ってきて、本堂で夕のお勤めをしている間に夕立が来た。外に、ジョー山中を偲んで、SATORIを流していた。本堂を出るときにはだいぶ落ち始めていた。客殿前のベンチに腰を下ろしてジョーの雄叫びを心に感じた。今の時代の音楽にはほとんど心惹かれるものがない。30年前の時代の音楽は色が褪せない。そんな音楽に出会えて僕はとても幸せだと思う。

2011年8月7日Sunday くもり
ジョーが亡くなった。
墓地の草刈り後の片づけをした。午前と午後。午後は遠くで雷がゴロゴロ鳴っていて、やがて雨を呼んできた。片付けはまあ大体終わったのでそれで今日の仕事は終わり。盆が過ぎるまでもう草刈りはしない。草刈り機を小屋にしまった。頭を刈ってシャワーを浴びてPCを点けたら、ジョー山中の訃報が眼に飛び込んできた。闘病中であることは知っていた。もう長くなさそうだということは、先日原田芳雄が亡くなったとき、関連記事みたいなところで読んでいた。僕にとってはやはり、FLOWER TRAVELLIN' BANDのボーカリストのジョーである。SATORIはターンテーブルに頻繁に乗った。今でも車の中でも聞いている。一度だけ生のジョーを見たことがある。「人間の証明のテーマ」がヒットしたとき、武道館でコンサートをして、その招待券が当って聴きにいったことがあった。その後Reggaeなんかもやったけど、僕にはやっぱり、SATORIのジョーだ。冥福を祈ろう。

2011年8月6日Saturday 晴れ
暑い。
夏らしい土曜だった。遠くで雷がなっていたけれど降ってはこない。午前中境内の草刈り。墓地も見回り。今日はサルは来ない。もう来週は棚経だ。早いなぁ。
下田逸郎さんから暑中見舞いが届いた。「11月20日(日)はどう?」って書いてあった。前回を断ってしまったので、というわけでもないが、もう寺でLiveをやってもいいと思う。ただ考えてみて、できれば休日前の日がいい。来てくれる人たちもゆっくりできる。こちらの希望日も考慮してもらえたらなと思う。11月22日(火)はどうだ。勤労感謝の前の日。僕の55歳の誕生日の前夜ってのはどうだろう。こりゃなんとかなるかもしれない。というFAXを明日送ってみたいと思う。

2011年8月4日Thursday 晴れ
昨日から落ち着かなくて。
今朝は4時ちょっと前に起きてしまった。女房が傍らで寝ているのだが、パソコンを点けてやっておかなければならないことに手を付け始めた。昨日の朝職場に、前の宗務所長が危篤状態に陥っていて、ひょっとしたら数日のうちにそうなるかもしれないとの連絡が入った。まさかと驚いた。6月に行蔵院で宗務所会議を開いたときには、住職と共に会場に来てくれて、宗務所長の永年勤続の功労表彰に貰ったという小野塚の五条を見せてくれた。幾分歳をとったのだなぁという風には感じていたが、まさかこんなに早くに危ない状況にまでいってしまうとは予測もしていなかった。本人は施設に入っているとのことで、午後休んで寺に現住職を訪ねた。二人で数時間話をした。その時のことを中心に話したのだ。先になることもあるかもしれないが、何れは迎えなければならないし、檀家の葬儀とは違うことでもあるので、やはりしっかりと相談して打ち合わせておくことが必要だ。所下の主だった寺院にも連絡をした。
今日のところは夜になっても連絡は来なかったので、安定しているのかもしれない。僕があらかじめ準備できるものはやっておこうと、本を引っ張り出したり、吉祥寺のご住職の葬儀のときのものなども見返しながらやりはじめた。前住(父)の葬儀のときのものなども出てきて、少し時間を忘れてそれを眺めてしまったりした。たくさんの僧侶の方々に助けられた。そういうことの回りまわってのお返しになるのかもしれない。今夜も晩飯後に少し雨が降った。早起きをした分早めに眠くなっている。

2011年8月3日Wednesday 晴れ
IDカード。
宗務本庁から教師のIDカードを発行することとしたので、カード用の顔写真を送れと通知が届いた。この件に関しては突然のことでなく知ってはいたが、このことの前にあった寺院のHP作成に関する通知同様興味がなかったし、IDカードを持っていても、世間的に通用するものでもなし、これを持っていてポイントが貯まるわけでもなし、何かを割引で購入できるわけでもないので無視しようと決めていた。だから、通知は見たが放っておいたら、所下の寺院から問い合わせがあった。電話に出ると、「私はもう80歳を超えているし、写真を送るなんてことは...」とおっしゃられる。そう、先の言葉はある程度想像できる。で、僕は上記のようなことを伝えて、僕は出さないということも伝えた。先方はほっとしたように、「私もそうします」とおっしゃった。こういう、ほとんど無用のようなことを考える頭の中を覗いてみたいような気がする。送られてきた封筒には、「受取人払」の返信用封筒と、ご丁寧に撮ったカラー写真を入れるケースまで添えられてきた。これだけでどれだけの経費がかかるのだろう。この通知にどれだけの末の教師たちが同調して返信をするだろう。おそらくこの件に関しては、この先催促を促す通知が何回か来ることになるだろう。

2011年8月2日Tuesday 晴れ
アジサイ苗を植え替える。
夕べ日付が変わる直前に震度4の地震があった。僕は9時からのテレビが見ていられないほどに眠くて、9時半前には消して寝てしまった。女房と娘は床について間もなくだったようだ。揺れを感じたが、あまり慌てることはなかった。揺れの長さなどを布団の中で数えながら起き上がって、それでもう大体落ち着いてしまった。地震を知らせる着信音が女房の携帯を鳴らす。役場の防災無線が「大地震です」と繰り返し伝えた。女房はすぐに相模原の息子に電話する。大丈夫なようだ。テレビをつけると、震源は駿河湾だった。今朝のお勤めでお堂をぐるっと中も外も見たが影響を受けた箇所はない。お不動様の真言「慈救呪」(じくしゅ)をたくさん唱えた。我らを慈しみお救いくださるよう祈った。
静かな朝に、幾分気持ちが揺れていて、本堂裏に去年下ろしたがなかなか生長しない苗を掘りあげて、大きなプランターで育った苗と植え替えた。こんなことを40分くらいやっていた。GRATEFUL DEADはもちろん流していた。昨日所長が、「朝草取りを始めたら、時間を忘れてしまい、いつもより遅くなってしまった」と話してくれたが、確かにこういうことを始めると時間を忘れる。何も考えずに空っぽになって、ただ植物を扱ったり、草を引き抜いたり、水遣りをしたり。8月が安心な一ヶ月になればいいと昨日の朝思ったのだが、波乱の月になるのかもしれないということだけは、いつも気持ちの中に置いておかなければいけない。

2011年8月1日Monday 晴れ
六ヶ所村の村民所得は年1364万円。
青森県にある六ヶ所村のことだ。全国平均の5倍にも相当する所得(2008年度)という。核燃料再処理工場を誘致し、原発マネーで潤っている。当然のことながら、村は地方交付税の不交付団体だ。昨年度に村が行った事業費19億9千万円の内、約97%が交付金である。
建設計画当時は、今は廃刊となった「人間家族」などでも情報が多く伝えられたし、広瀬隆なんかも引っ張りだこの時代であった。今はもう反対する議院とてなく、どっぷりと村は原発に浸っているのだという。実はこの施設まだ試運転中なのだ。本格稼動時に、どれだけの反対運動が湧き上がるだろうか?最近聞き飽きた感のある「人体に影響が出ない程度」の放射性物質は常に放出されているらしい。
これをすぐに揶揄するほど落ちぶれたくはないが、その時になって慌てても始まらないということをよく肝に銘じておかなければならないだろう。昨日、まさかのような話を聞いた。僕はそんなこと思いもつかなかった。あるかもしれないなと思ったのは確か。被災地に入って大儲けしている奴らがたくさんいるらしい。「思い出捜し」とか「被災者のために何か見つけたい」「役に立ちたい」といって、瓦礫の街を歩き回って、掘り出される現金をがっぽりと懐に入れて奴らもいるらしい。被災地は、埋蔵金のある場所だという。そんなこと本気でやっている奴らもいるんだな。驚きだった。
今夜「クローズアップ現代」で、被災地に住む若い詩人は、「言葉に帰っていくのだ」という風なことを語ったように見終えた。

2011年7月31日Sunday くもり
墓地草刈り無事済む。
心配していた雨も今朝はなく、今年は檀家の皆さんもいつもの年より多く24人も来てくれて、7時半から2時間弱で墓地周辺の草刈りが終わった。大勢で「せーの」やると何事も早いし、一人でやるときよりも効率よく事が運ぶ。やはり草刈り作業なんてのは手数だな。お茶を飲みながら猿の話になる。「えっ?サルが来るのか?」という人も。こんな人は幸せである。獣避けの柵が効果をあらわしていると思っている人だからだ。僕が状況を話すと、「ほんとかぁ」と、幾分がっかりしたような言葉になった。で今日。午後1時半頃から1時間ほど強い雨が降った。まさにゲリラ豪雨という奴。その2時間ほど前、お昼前の時間だ。草刈り作業を終えて、今日の夕方はこのプランターのみにトマトを採ったほうがいいな、また留守にしているときにサルが来て採られるのも癪だしなと思っていた。そしたら、サル軍団が下りてきたのだ。墓地のほうで騒いでいると思っていたら、もう境内の鐘楼付近に数匹居て、奴らもトマトを狙っていたのだ。しっかりとプランターのトマトを頭にすり込んでいやがる。「採ったほうがいいね」と女房が言うので、玄関に出ようとすると、「こらっ!」と女房の怒声がした。すばしこい子ザルが、プランターに手を伸ばしていたのだ、間一髪、怒声にひるんだ子ザルが飛び去り、朱い3つの実を僕は手にしたのだ。サルたちには間もなく土砂降りがくることがわかっているのかもしれないと思った。だから、その前に食料を調達したいと下りてきたのではないか。人間が感じなくなったものを獣たちはまだ持っていて、獣たちの行動は想定外が多かったりする。想定外にとことん弱くなったのが人間なんだきっと。

2011年7月30日Saturday くもり
弔いの八月がやってくる。
これを書いている今の時刻は、16:01。一日支所日直中。外は雨が降りそうで降ってこない、どんよりと重く鉛色。風がある。窓開け放って一日を過ごした。電気は点けない。勿論冷房も入れない。蚊がいるので、蚊取り線香を焚いてパソコンは点けている。持ってきたCDプレイヤーで、Grateful Dead、Chris Hillmanなど聴いている。もう1時間で帰れる。雨が降ってこなければいいのに。それより明日、檀家の皆さんに手伝ってもらって墓地の草刈りを予定しているので、7時半からせめて1時間なりとも降らずにいてほしいものだと祈る。
新潟40万人に避難支持・勧告など伝えられている。これもゲリラ豪雨なのだろうか、それにしても酷すぎる。この雨福島にも襲い掛かっている。ここまで打ちのめさなくもよかろうものをと天を恨みたくなる。お不動様はこの出来事をどう見ているのだろうか、明日の朝はじっくりと向い合おうと思う。
数日前から読み始めた「ブッダのことば」中村元訳と、「修験のこころ」斉藤明道著を少し読む。盆に墓に飾る紙幡に“こより”を結ぶ。本庁の日直が秋山さんだったので、1月に亡くなったKさんのとこへ新盆に行く相談もする。もう8月になるんだな。8月は死者の月だな。大震災で命の途切れてしまった方たちは帰る場所や迎えてくれる家族があるだろうか。落ち着くことのできない死者の魂が、放射能に汚染された空間をおびただしい数漂っているのだな。死者には放射線量なんて測定の必要がない。漂いながら、両手、腕を広げて、放射能をかき集めてくれているのだなと思う。弔いの8月にしなくてはいけないな。これで終わりにしようと思ったら、遠くで雷が鳴った。

2011年7月29日Friday 晴れ
国の原発対応に満身の怒り。
27日の衆議院厚生労働委員会「放射線の健康への影響」へ参考人として出席した児玉龍彦氏(参考人 東京 大学先端科学技術研究センター教授 東京大学アイソトープ総合センター長) の発言を文字起こししたものを偶然に見つけた。タイトルのような見出しを添えているブログもある。東電、政府が明らかにしていない福島原発から漏れた放射線量は、彼らの独自調査から導くと、熱量からの計算では広島原爆の29.6個分に相当し、ウラン換算では20個分の物が漏出しているらしい。とにかく放出された総量が尋常ではないので、今回の稲藁のような事例になり、今後もこうしたことは十分に起こりうる。青天井の下の作物は、どこを切っても金太郎飴状態になることが否応なくわかる。子供たちが放射能汚染下の学校の通うことも大変に危険なことであると。僕も、とにかく国の指導でもって、少しでも安全だと思われる場所に、成長期にある子供たちは避難させるべきだと思う。とにかく悔いを先の世に残さないことだ。数年先に結果が出てくるというものを黙って受け入れるって法はない。選択すべきものを誤ってはいけない。何もなかったらそれは儲けもんだと思ったらいい。

2011年7月28日Thursday くもり
「鹿も来てるだってよ」、ぎょっ!うへっ!
勤めのある時は、車庫から車をバックで出して、帰りは頭から入れるために、町道から集落道を回り車庫に入れるようにしている。主の亡くなってしまった柿の木の植えられた畑の周りに柿の葉が散乱しているのが目に飛び込んできた。もうすぐにわかった。猿が来ていたのだ。この時期、3センチほどに育った青い実を目当てに猿が降りてくる。熟さないままでも食べてしまいたいほどに餌を求めているのだ。帰ってきて女房に話したら、せっかく色づいてきたプランターのみにトマトも、すっかり猿に収穫されてしまっていた。
我が家では畑の作物を作ってはいない。集落のどの畑を見ても、獣から作物を護る囲いを施していないところはない。僕は畑を囲ってまでも、作物をつくろうとは思えない。今の僕にはまだ野菜作りをしようという積極的な気持ちがない。それよりも、囲いの中で畑を作るなんて、人間としての尊厳が失われるようで、どうしてもこの部分が自分の気持ちの中で認めることができない。逃げ口上と取れるかもしれないが、本音である。僕の本音なんて当たり前のことで、実はきっと、畑作りをしている人たち皆が、この状況を忌々しく思いながらも、10の内3採れたら儲けもんの農業を甘んじて受け入れているのだ。夕方、新聞代の集金に来た檀家のSさんとも猿のことを話す。「だから、俺も無理して、へぇ畑をやらんどぅに」と。それから、「鹿も来てるだってよ」と付け加えられた言葉にドキッとした。僕には目下、桜の苗を無事に大きく育てることが一番の願い。これが元の木阿弥じゃたまったもんじゃない。

2011年7月27日Wednesday くもり
草刈りの夏休み。
雨はまだ大丈夫だといっていたので休みを取ったのに、草刈り開始前の7時過ぎになったら雨がポツポツと落ち始め、やがて雨脚も強くなってくる。草刈りに外に出られるような状況ではない。「雨だったら、休みは撤回します」と言ってきたので、一度は出かける準備もしたのだが、やがて小止みになってきたので、雨がとりあえず止むだろうということを想定しつつ休むことにした。8時前から草刈りに出る。刈っているとまた降り始めてきたがもう止めるわけにはいかない。泣きながら草を刈る。少しはなれた畑からも音がするので眺めたら、カッパ着て草刈りをしている。彼も泣いていただろうか。11時ちょっと前までかかって参道片側の畑の刈り残しをきれいにして、反対側の畑にも少し取り掛かる。雨はやがて強くなる。まあ今日はこれができれば上々と、午後は本でも読もうと思っていた。昼食後陽が出てきたりして、それじゃぁ本腰を入れて刈ることにするかと外に出る。午後4時45分終了。両側の畑の草をすべて刈り終えた。これで盆が迎えられる。9月の彼岸頃にもう一度刈れば草の伸びない秋になる。休憩なしで、給油のみしたので、終わってもうくたくただ。水のシャワーを浴びてからだの火照りを冷まして、夕のお勤めを済ませ、これを書き終えたら先ずは冷たい奴をグッとやる。

2011年7月26日Tuesday 晴れ
愛着のある場所が汚染されているのに住み続けるって。
中国っておもしれぇ国だなと思ったのは、鉄道事故で落下した車両を、その場で解体して埋めてしまうという、俄か信じがたいことをやったが、また今日になって、掘り出して運び去ったということが伝えられた。大人のようで子供じみた真似をする。臭いものには必ず蓋だ的心情に偏っている国なんだな。顔が似ていても、島国と広大な大陸の国民とは似て非なることがしみじみ実感できる。中国っておもしれぇ国だな。
俳優の山本太郎の行動や言動が目立って伝えられていたが、吉本の夫婦漫才コンビ「おしどり」も、原発事故に凄く関心を寄せていて、特に奥さんの方は、鳥取大学医学部中退という変り種で、その知識経験から、政府や東電の記者会見にも積極的に臨んで、がんがんに質問を浴びせているようだ。
本当にね、福島の周辺に住み続けている人たちは、毎日が不安なんだよ。これを思うともうこれ以上書き続けることができなくなる。
今日雨があるかと少し期待したが降らない。明日もこんな風な曇りらしいので、夏休みをとることにした。畑の草刈をしようと思う。

2011年7月25日Monday 晴れ
これからはっきりしてくる。
時間が経ってから、明らかになってくる。果たして本当に安全であったのかどうかが。その時に、僕たちはどんな顔ができるだろうか。「よかったぁー」と肩を抱き合えるだろうか?それとも。そちらの方のことは今は書きたくない。書こうにも書き様がないってこともある。
昨日、壬生さんからのメールを見たときに、ふと「All Along the Watchtower」(見張塔からずっと)という、ボブ・ディランの歌のことを思った。いつだったか、彼にGrateful Deadのlive音源をあげたことがあって、「見張塔からずっとがよかった」と言ってくれたのを思い出した。それで、この夏はよくDeadを聴いているんだけど、「All Along the Watchtower」が無性に聴きたくなって、いつものところからDeadの「All Along the Watchtower」を検索して落として聴いた。外のバンドもやっているのがいくつもあって、ブルーグラスのバンドThe Waybacksのを落として聴いてみた。音の厚みには欠けるんだけど、これはこれなりにいいじゃないかと思いながら、全勝優勝に色気を出しすぎて自滅してしまった日馬富士のペロッと舌出しを笑ってしまった。

2011年7月24日Sunday 晴れ
護摩を焚く。
午前中護摩を焚く。今日も一日そんなに厳しい暑さにはならなかったが、さすがに護摩を焚くのは暑い。炉の隣に置いてある仏器は手で触ることができない。女房も護摩に付き添う。
護摩を終えたときにちょうどお参りの方ある。隣の日蓮宗の寺に大阪から参った人である。毎年夏に来るのだが、この方はなぜか僕の寺に来てくれるのだ、手土産まで持参で。でも今日なんだかそれがわかったような気がした。本堂に上がるとすぐに、不動真言を唱え始めたのだ。せっかくなので、お不動様もお開帳してさしあげた。大変に喜んでくれた。団体で来る方たちは必ずしも全員が日蓮宗の信者ということではないのかもしれない。できるだけ個人負担を少なくするために、広く参加者を募っていれば、このような参加者も居ては不思議ではない。この方は、毎夏山梨に来る楽しみは、大聖寺であるのかもしれないなと勝手に思い込んだ。
携帯に、行蔵院ご住職から「草刈をしました」とメールが入っていたので、昼食後、デッドを聴きながら読書をしたり、うとうとしたりして、午後3時前から4時半過ぎまで畑の草刈をした。参堂脇の片側の三分の二ほどを終えることができた。次の土曜は日直になっているので、続きは日曜だ。7月も最後の週になる。

2011年7月23日Saturday 晴れ
樹木医に指導いただく。
娘は5時過ぎに出かけた。東京で桃の観光PRに借り出されたようで。本人が納得して楽しく勤めていられたらよい。僕はいつもより少し早く起きて、お勤めを済ませてから、1時間ちょっとを除草剤散布する。参堂から駐車場、庫裏の裏、本堂の脇など。終わって朝食。10時から三菱で自動車の6ヶ月点検。特に異常なし。待っている間に100円ショップで、線香とガムテープを買う。子供連れが何組をも店内に居て、「そんなもん買わなくいい!」「元に戻しておいで」などの甲高いママの声が聞こえていた。こういうとこって、何となくいらないものでもつい欲しくなってしまうのかもしれないな。僕は100円ショップでは、ロウソクをよく買うが、まだ在庫があるので今日は買わなかった。
午後2時過ぎに、緑化センターの樹木医さん軽トラで来てくれて、鹿の食害に遭った桜の苗を診ていただく。脇から伸びた枝の1本を上に伸ばしていくように誘導すれば、それが幹になるということであった。添木をして実践してみようと思う。何となく僕もそうなのだろうかとは考えていたのだが、やはり専門家に話を聞いてよかった。

2011年7月22日Friday 晴れ
壁に逆立ちをしていたら、着信メールがピロピロロンと鳴った。
誰かと思ったら、行蔵院のご住職からであった。たまたま昨日、ひろさちや「冠婚葬祭礼-生活の知恵-」という文庫を読んでいて、お中元の心得というところがあって、布施にも不純な要素をもつ布施があり、お中元やお歳暮なんかは怖畏施(ふいせ)@であり、報恩施A、求報施(ぐほうせ)B、習先施(しゅうせんせ)Cに当るとあった。@は、それをしないとまずいことになるのではないかと、怖れてする布施。Aは、以前に受けた恩誼に報いるためにする布施。Bは、返礼を期待してする布施。Cは、それをする習慣があり、先例があるからといってする布施。
我が家でも、この時季宅配で中元が送られてきている。ビールなんかは早速ありがたくいただいている。僕はまったくこういうことに無為関心なので、うちからも何処かに中元を送っているのだと思うが、女房がしていることなので子細は分かってはいない。北海道のある寺院から毎年ジャガイモが送られてくる。父亡き後、「父とどのようなお付き合いがあったのか知りませんが、代替わりをしたので、今後はお送りくださらないように願います」と手紙を書き送ったが、翌年からはちゃんと僕宛にジャガイモが送られてくるようになり、毎年続いている。僕は女房とも話し、これはありがたく頂戴しておけばよいと、少し楽しみにもしているのだ。だけど、僕からは何も返礼していない。宗務所の寺院にも送られてきているようで、いつかこの話をしたことがあったが、驚いたのは、ジャガイモにちゃんと葡萄などで返礼をしているということだった。僕は戦後生まれの現代っ子(S31)だから、こういうことにはいい加減で、無頓着である。僕はこう話しているのだ。「こういうお寺はきっと、宛先リストが作ってあって、時季になるとそれを執事かなんかが電話で業者を呼んで、毎年のように頼みますとリストを渡すと、自動的に送られてくる仕組みになっているのだ」と。
出勤前の時間にこれを書いているのだが、さっきのメールに出した返信に応えて、もう一度ご住職からのメールが入った。
「了解です。まったく驚きです。早速私も同じように変身しておきます。」と返信メールが届いた。「変身」の字はわざと使ったのではないかと、そこに隠された何か深い裏の意味を、今日は一日さがそうと思う。

2011年7月21日Thursday 晴れ
夏休みに入り、転校していく子どもたちもいるらしいよ。
うっかり漂白剤を色物の服にこぼしてしまったとしよう。脱色されて真っ白になってしまう。これを、今回の大震災に拡大して考えてみる。宇宙をつかさどる神が、故意にではなくくしゃみをしたとか、鼻水を垂らしたようなもので、東日本の地域はあくまでもたまたまなのである。なので、東京都千代田区千代田1番の真下から「コマネチ〜!!!」でもぜんぜん不思議ではなかったわけである。地震によって、浜岡原発が慌てふためくような事故うぃ起こしていたなら、こんな風に呑気に夏を過ごしてなんかいられなかった。東京電力の顧客である僕らが、中部電力の事故によって命の危険にさらされるなんて絶対に許せなかったと思う。僕は、大きな災害が地球上に度々起こってしまい、人命が奪われることについては、これも僕たちの科学や技術の及ばない神の領域がなすことだと思っている。誰が好い人、悪い人なんて選択はいちいちできない、所ジョージの投げたダーツの刺さった場所のようなもんかもしれない。当ってしまったところが背負ってしまう不幸は、神が「それでいい、もうこれでいい」といっているのだからと腹に収めるしかない。やがて地球が爆発して宇宙の塵になるときには、地球の誕生も何も端からありゃしなかったのさってことになるし。
軽口たたいてるなと笑われるかもしれないが、いつものなつよりずっしりと重い夏だから、いささか開き直りでもいいのさ。皇室を認めはしないが、天皇を好きとか嫌いの思いはない。もう少し、思いのたけを述べてもよかろうもんが、御名御璽だって、時には拒むこともできるんだぜって。
身延弘高、野球負けてしまった。夏の壁は厚い。

2011年7月20日Wednesday
台風去る。
台風は去っていったが、サルが来た。午前中はよく降ったが、午後は予報ほど多くはなく、風も止み、雨量も少なくなり、仕事を終える頃にはほとんど雨が上がっていた。雨量規制で通行止めとなっていた箇所も解除となり、帰りは国道をいつものように帰ってこられた。本堂に行って夕の経を上げ、回廊をぐるっと回ると、サルの糞らしきものが二つまだ柔らかな状態で異臭を放っていた。雨が小止みになった午後サルが現れていたのだと女房。プランターのトマトの色づいていたものがすっかりなくなっていた。付近にやはり糞があった。
まあプランターのトマトなどは、真剣に栽培しているわけでもないので、諦めもつくが、未来に思いを馳せてこれが一番気になる。植菌した椎茸のほだ木のことだ。何とかサル害を防ぐ手立てを考えていかなければな。
各地で大きな被害もあったようだが、いい雨だった。台風が去れば、また暑い日々が襲ってくる。自然にもサルにも降参はしたくない。

2011年7月19日Tuesday
台風6号接近中。
夕べから断続的に大雨が降り続いている。今夜から明日いっぱい大量の雨が降りそうだ。娘は今夜、義姉の家に泊めてもらうことになった。ひょっとしたら、明日の朝国道が雨量オーバーで止まっていることも考えられる。
原田芳雄さんが亡くなった。遺作となってしまった「大鹿村騒動記」の11日のプレミア試写会に車椅子で現れた姿が痛々しかったけど、こんなに時間を経ずに訃報を聞くことになるとは。個性的な俳優だったよなぁ。桃井かおりや松田優作や、彼らが活躍した時代を牽引した俳優だったよなぁ。晩飯後に新聞を読んでいたら、速報が画面に流れて、魁皇が引退を決意したことが流れた。今場所今日で7敗を喫したことによる決断だったようだ。十分によく土俵を務め、疑惑の相撲界において、彼はまるで手本のように黙々と自分の相撲道を歩み続けてきたように思う。残念ではあるが引退の花道に送り出そうじゃないか。なでしこジャパンがワールドカップ優勝を手土産に帰国したが、申し訳ないが僕にはそれほど心揺さぶられるものがない。怒られるかもしれないが、女子○○と付くものがいまひとつ僕の気持ちの中にしみこまなないのだ。差別とか、蔑視でもないと僕は思っているのだが、なんででしょうね?自分でもよくわからんけど、不思議といただけないんです。ほとんど興味なし。

2011年7月18日Monday
台風の影響で曇りだったけど、それなりに暑かった。
女房の身体の調子も少しずつ戻ってきた。母がデイサービスへ行き、娘と3人、のんびりと「海の日」のお休みを過ごした。8時から12時半まで、WOWOWのドラマ「移植コーディネーター」(全5話)を見る。吉岡秀隆って人は、いい役者だな。物静かだけど、内なる言葉が聞こえるようなとでも。今日は身延高校の試合があったので、ノートPCを点けておいて、試合経過を自動更新しながら時々眺める。3:1で日川高校に勝った。ベスト8に残った。次は強豪甲府工業戦。寺から応援する。
午後、御朱印がほしいと3人の家族連れ。ご本尊も見せていただけますかといわれたので、快く拝観させてあげた。大変に満足して帰っていったが、通常御朱印代として300円くれるのだが、こちらも請求しなかったからか、結局いただけずに。どーせこんなもんである。もうけもんの休みを過ごさせてもらったから、まあこれでいいやってなもんである。明日には雨が期待できそうだ。

2011年7月17日Sunday 晴れ
法事あり。
朝になって、眩暈がして今日は起きられそうにないと女房。こういう日が一年に一、二度あるようだ。これも加齢による婦人病とでもいうのだろうか。暑い日が何日も続いている。11時から佐田家の法事。同じ年に亡くなったご両親の33回忌の法事。施主も80を過ぎたので、親族を集めた最後の法事になったようだ。水分を吸い取られてしまっているアジサイの苗に、朝からこまめに水分を補給させてやる。いくつかは生き返ったように生き生きとなる。今朝も早くから去るが集団で降りてきた。墓地の方へ追っていくと、奴らはまったく慌てる様子もなく、僕を威嚇するように集団で吼える。柵の張ることのできない中沢川にゆっくりと下りてから人間の場所に入ってくるので、何度も書くが効果は皆無だ。墓地から客殿、庫裏、土蔵と屋根を渡って、八幡神社の境内に降り、若尾屋の放置された畑に一本あって、完熟した実を付けているスモモがどうやら目的であったようだ。あちこちに食べた後の赤い実のかけらが落ちていた。実はプランターのトマトが無くなっていたのもまず間違いなくやつらが犯人。朝、居間で新聞を読んでいると、鐘楼の脇から一匹が静かに現れて、網戸越しに見ている僕を知らずか無視してか、歩いてくる。プランターまで2mほどのところまで来たので、網戸を開けると走って逃げていった。
佐田家の長男は僕の同級生である。この4月から、勤務する保険会社の千葉県にある支店の支店長になっている。体型もそれなりになっている。「退職したら帰ってくるからな」とは、僕を慰めてもくれたのだろうか。こういう例は何例か知っているが、「あなたは帰ってください、でも私たち(妻子)はこっちに残りますから」というパターンが多い。
法事の食事をご馳走になって帰って、片付けなどを済ますと、具合がよくならないからと、電話を入れてから飯富病院に連れて行く、点滴を受けて夕に再び迎えにいく。娘は夜東京から帰ってくる。同級生との再会をひと時楽しんできたようだ。よかった。明日がもう一日休みなのが一番うれしい。

2011年7月16日Saturday 晴れ
ビール旨い。
あつかったー!今日も一日暑かった。午前中、竹林の整理。墓地の通路の草刈り。明日法事があるので。31日に全体の草刈りがあるので、通路だけ歩きやすくきれいになっていればいい。竹林で終わりごろになって頭の後ろを蜂に刺された。帽子を被っていたのでその下を。一瞬佇んで、毒が回ってくるだろうかと落ち着いて深呼吸して確認するも、大丈夫なようなので、草刈機を停めて水道の水で頭を冷やす。昼飯の後はもう外にはしばらく出られない。尋常でない暑さの真昼だ。外はシャッターでもたき続けている様に銀色に輝いているので、うかつに入ってはいけない。先週見逃した「江」を見て、3時過ぎまで本を読んだりうとうとしたり。4時前から墓地の通路を竹箒で掃く。草はからからになっている。駐車場脇の水路の草を抜いたり、アジサイの剪定。ツツジの中に草の蔓が延びていたので、手を入れてそれを引き抜くと、「痛っ!」。今日二度目の蜂の一刺しに遭う。グローブをはめていたがちょうどその境目の、右手首から5センチくらいのところ。こちらは見なくてもアシナガだと思ったので、落ち着いてそのまま次のことを続けた。雨がなく、からから(KARAKARA)状態なので、アジサイの苗がいくつか干からびてしまっていた。残念だが仕様がない。それにしても雨がない。今日は一日結構強い風が吹いていたし、今も夕の風があるが、雨を運んでこない。本当に雨がほしい。
娘は今日上京。卒業依頼の友人たちと今夜東京で会うのだという。3.11が翌日の卒業式をも取り上げてしまい、13日には寮の部屋を空けて、引き上げてきたのだ。おそらく卒業する寮生たちは皆そんな風で、ゆっくりと別れを惜しむこともできなかったのだと思う。新しい生活が始まり、今夜はゆっくりと友人たちと会えているのだと思う。僕は、中元にいただいた、本物のビールうを今夜飲んでいる。旨い!

2011年7月15日Friday 晴れ
えらいこっちゃ。
実は、経を読みながらでも頭の片隅で考え事をすることがある。今朝もそう。夕べ、東京に住む檀家のKさんからメールを貰って、彼の母や兄弟、自身の家族を思う姿勢に深く思うところがあった。これ以上の部分を書こうとは思わないのだが。それで、やはり福島原発事故のことを頭の中でめぐらせていた。飛散した放射能による汚染がいよいよ顕著に現れ始めている。そもそも放射能はここに書くまでもないが無味無臭、さらに厄介なことは飛散している放射能が眼に見えないということである。こういうものにたいしては、対応がどうしても鈍くなるってのは仕方のないことかもしれない。仮に、放出された放射のが異臭を放ったり、黄砂や火山噴火の灰や、はたまた杉花粉のような目に見えて付着するものであったなら、いまのような中途半端な状況(生命に係る危険を回避するために、強制的に非難させる措置がとられているわけではない、危険だと考える人が勝手に他所で暮らしている)にはならないはずだ。放射能は体内に吸い込んでも、サリンのような即効性はなく、蓄積してじわじわと数年後に人体細胞を蝕み始めるというようなものであるらしい。またこれが、百人が百人そうなるとは限らないとも言われている。だから、吸っても安全ですというのが政府広報。窓を開けた教室で授業を受けるのは危険だから、閉め切った教室にエアコンを導入して欲しいと望む要求に、「窓を開けて授業をしても問題ない」と、下請けの自治体も上意下達を崩さない。
踊念仏のような集団が、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら、「えらいこっちゃ」って、「放射能なんかはじめっからふってなかったってよ」って、半ば生きることを諦め、やけっぱちになって、溶けはじめた脳をぶよぶよと右に左に揺らせながら、巷にあふれ出したとき、僕もひょっとしたらその中で法螺貝を吹いているかもしんねぇな。

2011年7月14日Thursday 晴れ
応援歌。
「福島県南相馬市は、福島第1原発事故などの影響で市外に避難している市民約2万8000人に対し、8月末までに避難所を退去して、自宅や市内の仮設住宅などに入居するよう求める文書を送付した。」とある。おそらく近代になってこの国では初めてのケースなのだろう。こんなに危ない状況にもかかわらず、戻って来いという行政側の苦悩もわからないのではないが、戻れない状況だろうし、戻るという判断を下せない場所もあると思う。戻ることはできないという選択をしなければならない場所もあるのだと思う。
夏の高校野球山梨大会の、わが母校身延の試合があり見事勝利した。以前も書いたが、今年のキャプテンは、毎朝わが家に新聞配達をしてくれるM君である。今朝もいつもと変わらずに自転車で配達してくれたのだ。僕も今朝は、母校の勝利を祈った。高校のHPを見たら、今日の試合は全校応援となっていた。勝利の後に校歌を高らかに謳ったのであろう。それから、父の作詞した「我は龍虎」はいまでも応援歌として歌い継がれているのだろうか。僕の子どもたちは身延に行かなかったので当然「我は龍虎」を知ってはいない。何年か前に、ひょっとしたら今年のチームは甲子園にいけるのではないかと期待させるときがあった。その時、同僚のS君が、「石田さん、甲子園で『我は龍虎』歌ってみたいですよねぇ」と感慨深そうに言ってくれたことがあった。その年は結局県予選で敗退した。夢に終ったこの応援歌を、いつか甲子園に連れて行くときはやってくるだろうか。生徒数が減少して、県の南の一番端の身延高校は、県教委の統合合併構想に含まれている。近所の野球少年の夏に、今年は僕の夢も重ね合わせてみたい気持ちになっている。

2011年7月13日Wednesday 晴れ
自浄其意。
醍醐寺からのメルマガが届いて、自浄其意(じじょうごい)について書かれていた。この言葉は、禅寺で読まれる七仏通戒偈にある。短いので以下に。
 
諸悪莫作(しょあくまくさ)
 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)
 自浄其意(じじょうごい)
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

「悪いことをするな、善きことをしなさい、そして意(こころ)をきれいにすること。是れが諸(もろもろ)の仏の教えである」というまあ、極々当たり前なことの教えである。
僕が好きな昔のバンド、FAR EASTファミリーBANDの「地球空洞説」の中でも、この経の言葉が歌われている。はじめ聞いた頃はこの言葉が、何処の国の言葉とも想像できなかったのだが、不思議と乗りがいいので、レコードで聞いては、宮下文夫の歌うとおりに「ショーアクマクサー シューゼンブキョー」と空耳アワーだった。でも何年か前にCDで再発なったのを買い、インターネットなどで遊んでいたら、これが経であることがわかった。そーだったのかぁと変に納得したもんである。
この経には次のような伝がある。白楽天が禅の或る高僧に仏教の根本の教えを問うた時、高僧は「諸悪莫作 衆善奉行」と応えたのである。白楽天は、なんて当たり前のことを言う坊さんだ、たいしたことねぇなと思ったのか、「ほんなこたぁ、三つの子どもでも知ってらぁ」というと、高僧は「三歳の童子でも知っているであろうが、八十の老人でさえ行うことは難し」と平然と答えたのだという。
「ほんなこたぁ、わかってらー」ってのは
分かるということだけど、行うことではなく、簡単に思うことほど案外実行できないものだという教えだったようだ。確かに。福島原発事故により、原発の安全神話が完全に崩れ、原発は不安で危険なものであるということはわかってきたと思う。「分かることと、行うこととはまったく別」ということならば、肝心なことは原発を即刻停止して、もうこの先、決して稼動させないということを行動で持って示すということだと思う。それが私たち一人ひとりの自浄其意につながるのだと思う。

2011年7月12日Tuesday 晴れ
7代先を見据える。
「子供たちは私たちの未来を織る糸。彼らを敬え。彼らを傷つけるようなことをしてはならない。
万物の子供と調和して生きるなら、空は澄みわたり、大地は揺るぎない。
万物は満足し、栄え、聖なる環はよみがえる。
内なる子供が虐げられると、空は濁り、大地は不毛になる。バランスは失われ、生きものは永久に消え去る。
あなたの最大の宝は内なる子供だ。年をとっても、その子供を育み続けなさい。この子供は永遠にあなたの一部。
内なる子供はあなたにあなたが願ってやまない自由を、あなたが欲する自発性を、あなたが求める驚きを、与えてくれる。
これらが必要になったら、東の方角へ行きなさい。
あなたの内なる子供とずっとつながっていなさい。
子供の目でものを見よ、そうすれば人生の魅力がわかる。
子供たちは私たちの富。いろんな角度から子供たちを眺めてごらんなさい、美しい石をあちこちから眺めてみるように。
彼らに子供でいる自由を許しておやりなさい、なおかつ彼らを制限と境界線で祝福しておやりなさい。それが彼らの殻を育てるのだから。」


インディアンの人々は「自分達の行いのために子孫に負債を背負わせてはならない」と考えて生活し、豊かな自然を次の世代へと受け渡してきたという。常に7世代先の子孫のことを考えて自然と共に暮らしていたという。
先ず、いま大人たちは正直な気持ちになって、子供たちのことを考えなければいけないのだと思う。福島周辺を離れたくても、互いに監視しあうというような風潮が起こりつつあるようだ。安全だということばかりが前をいつも歩いているように感じるのは僕ばかりではないでしょう。

2011年7月11日Monday 晴れ
4ヶ月経過。
今朝は震災から4ヶ月が経ったのに、相変わらず余震が頻発し、原発事故も収まらないし、復興の足取りも遅いというようなことをテレビ。今朝新聞の休刊日なので、一日遅れの昨日の新聞を丁寧に読む。夏の高校野球の県予選が始まって、開会式に身延高の野球部主将が宣誓をした記事も載っていた。娘は今日から一週間研修になるのだそうだ。正式採用への目途がいくらかつきそうな状況なのかもしれない。そうなってくれるといいけど。今日も朝から強い陽射し。暑くなりそうだ。梅雨は明けないねぇ、雨が降りそうで降らないねぇと喋ってる僕らをよそに、ちゃっかり梅雨明けになっていたようだ。それにしても雨が降らない。陽の上がる前の早い時間に挿し木なんかに水遣りをする。挿し木のフジザクラ今年のは、去年より多くつきそうだ。外に移植した花桃とフジザクラには、できるだけ自立させることにして、水遣りを控えようと思う。地中から朝の水分を吸収する力を養うということだ。

2011年7月10日Sunday 晴れ
棚経。
4時半に起きお勤めを済ませ、甲斐岩間から6時4分の身延線に乗る。帰宅は午後9時を少し過ぎた。町田から世田谷区宇奈根、江東区東大島、板橋区ときわ台と、東京をくまなく縦横に歩いた。いささか疲れる。暑さは容赦なく絶好調で、梅雨も明けたのだと聞いた。世田谷の佐田邸で毎年のようになってしまったがお昼をいただく。泡盛のロックが腹に染み渡る。一日中、電車移動ではデッドを聴く。本は西村賢太「廃疾をかかえて」。夕に読み終わり、帰りの新宿駅南口の構内の書店で西村が師と仰ぐ藤澤清造「根津権現裏」を求め80ページほど読む。西村の異常なまでの似た作風がちょっと気になる。あまりひどすぎるのも辟易する。自分が少しずつ変わってきた証拠かもしれない。東京も暑い。それから電車の冷房も毎夏の電車よりは控えめ。証明を抑えてあるのはまったく気にならないが、夕方新宿について乗換えなどに歩いていると、ひどく暑いことに気がついた。駅の構内の冷房が相当控えられているのだろう、こんな風に、「暑い」と感じたことは過去にはなかった。板橋の牛山家にははじめて伺う。奥様の新盆のお経を上げ、仏壇を開眼し、一周忌の日取りを決める。どこの家でも3月11日の話になる。9時過ぎに帰り着き、「江」をBSで遅くにもう一度やるとばかり思っていたら旧い映画になっていて大失敗。やっぱ予約しておけばよかった。

2011年7月9日Saturday 晴れ
猿。
朝バタバタと屋根がうるさく起きる。思ったとおり猿だ。カーテンを開けて畑を見ると、今まさに背中に小猿を乗せた母猿が、かぼちゃを抱えているところ。かぼちゃは生ゴミの種が発芽して勝手に畑に生えてきていたもの。僕が丹精して育てたものではないので、猿に採られても仕方がないと諦めは早い。それでも、今年は獣が来ないので、ひょっとしたらこのかぼちゃを収穫できるかもしれないと、かぼちゃに色気を出していた本音は否定できない。3つか4つ生っていたと思うが、全部持っていかれた。これで、獣避けの柵などは、猿だけにとってはなんの役にも立たなかったってことが完全に証明された。期待をかけて効果を信じていた畑作りにはがっかりである。
朝緑化センターから電話があって、23日(土)の午後、鹿に食われた後生き延びている桜の苗の診断にきてくれることになった。僕はこちらに大いに期待をしたいところなんである。明日は東京方面に盆の棚経。

2011年7月8日Friday くもり
甲州方言。
深沢七郎を読んでいる。この本で我が家にあるものは全部読んだことになる。震災以後町の図書館へは行かなくなってしまった。本が読めなくなった時期もあったが、いま昼休みを歩いているので、図書館に行く時間がなくなってしまったといったほうが当っているかもしれない。本は家にもまだまだ読んでいないものもあるし、父の残した本もたくさんある。出かけたときにブックオフで買うこともある。去年の夏は暑過ぎて歩くことを折ってしまったけれど、本を読むという習慣を思い起こすことができてとてもよかった。今年は今はまだ歩いていたいと思うからだ。でも本は読んでいる。深沢は山梨の人だから文中に方言(甲州弁)がよく使われている。今普段は使わないし、聞くこともなくなってしまったけれど、僕にはそれがするっと読める。多分山梨以外の生れの方たちには、すらっと一発で読めないかもしれない。例えば、「深沢ギター教室(抄)」から。「なんちゅうもんでごいすか、こりゃー。」「いい音のするもんでごいすねえ。」「弾いておくんなって。」「まっと弾いておくんなって。」「そんねんヒケンさ!」。これを僕なら目で読んですぐ声にも出せる。深沢七郎を読んでいる。ひちろーはいい。

2011年7月7日Thursday くもり
トマト。
ミニトマトが生りはじめたけど、1本しかないので収穫するほどには生っていないし、色づきも早くはない。で、食卓に運ぶ前に僕がひとつ採っては口に運んでしまうことになる。生暖かく酸味が程よくあって、それほど美味いと感じるわけでもないが、自分で作ったものだから贔屓目に見てしまうのだ。生り物は楽しみだということがこの夏は幾分わかりそうだ。回覧板を次の家に届けた後、荒らしっぱなしの畑の隅に植えてあるブルーベリーのみを眺めて、色濃くなってきた実をひとつつまんで含む。これも美味い。この夏は獣が畑に下りてきていないので、きっと畑作に力を入れている家では楽しみが倍増しているのではないだろうか。僕でさえこの有様なのだから。雨がいくらかあって、朝もひんやりとしていい。夜にもまた雨が落ちる。わざわざアジサイや花桃やフジザクラの苗に水遣りをしなくても済む。いつか、桜の苗を植えたとき、日照の夏になって朝晩の水遣りをしていたら、檀家の先輩に、「水を遣りはじめたら止められないからな」と言われたことがある。その時にはちょっとよくわからなかったのだけど、地に下ろした苗が自然の掟にしたがって水分を吸収していくことを自覚させずに、人工的に水を供給していくとそれを当てにして苗は成長するので、人間の都合で水遣りを止めてしまうと苗は刈れてしまうことになるということではないかと思っている。自然のサイクルに生きていくのなら、そこに分け入っていく覚悟が必要で、僕たちの助けは、せいぜい2〜3日の水遣り程度なのかもしれない。山に植林する苗木には毎日水遣りなどできない。それで生きられなかった苗は、所詮それまでだったということになるということなのだろう。ふっ、ふかい!

2011年7月6日Wednesday 晴れ
胃カメラ飲む。
病院で定期健診だったが、今日は腹部のCTを撮り、その後胃カメラを飲んだ。胃カメラは10数年前に一度受けた以来。11時前に病院を出て11時半から出勤。2時間は飲み食いを止められていたので、昼休み当番をして午後1時に近くの食堂で盛りそばを食べる。腹が減っていたのでスーッとあっという間に入ってしまった。今朝は朝食抜きだったので、6時前から庫裏の裏庭のツツジやドウダンツツジの刈り込みを1時間半ほどする。刈りっぱなしだがすべて刈り込みは終えることができた。今朝は時間を有効に使うことができた。
金曜日の甲府の飲み会の場所を改めてメールでチェックしたのだが、始まりの時間が7時からである。思い込みで6時からのつもりでいた。5時過ぎには着いてしまうので、7時まで外で飲んでいるとすると、最早できあがってしまうような予感がする。遠くから出かける者は、早めに一日の仕事を切り上げて出かけ、また時間をかけて帰らなければならない、どうしようもない事情があるので、飲み会はできるだけ早めに始めてもらいたいものである。

2011年7月5日Tuesday 晴れ
野に下れ。
およそ国会議員なんてものは、民主であろうが自民であろうが十把一絡げのようなもので、上から目線のお馬鹿さんばかりである。この人たちは一体どんな考えをもって国会議員というポジションに立っているのか。他人の痛みを理解し、寝食を忘れてまでも奔走するというようなことにもならず、己のテレビ映りのことばかりに没頭している。終っても一向に始まりにはならず、4ヶ月になろうとするに、リーダー?たちは互いの利権のことにばかり躍起になり、外部から内部から干渉し、復興の船など出帆できようもない。嗚呼悲しい哉。元の姿を取り戻す日など来ないのではないかとさえ疑ってしまう。福島の4号機建屋が傾いて倒壊寸前だという。玄海原発の再稼働を九州電力に「了解をしたい」と伝えた玄海町長の岸本には、原発利権にすがる地元ゼネコン「岸本組」の社長を実弟が務めるという裏がある。馬鹿ども、下野してはじめの一歩から出直せということを、お不動様に念じたいと思う。

2011年7月4日Monday 晴れ
初物キュウリ。
波木井川沿いは涼しい風が吹く。橋の上から、鮎釣りの姿を眺める男性はステテコののんびり姿だ。真昼の時間の停まったような風景。昭和の時代にでも遡上したかのような気分になる。まさに昭和の時代を僕はここへ通い、その頃とこの波木井川沿いは余り変わっていない。支所の緑のカーテンのキュウリが生りはじめた。初物の一本だけ取れたキュウリを、最初に貰って帰ってきた。うちのはなんだか成長が止まってしまったようだ。トマトは生長している。夏エビネが残念なことに枯れてしまった。余り多くのものに手を出さないほうがいいという警告なのだろう。慎重に慎重に。
集落内の檀家に、今月末の墓地の草刈りの通知を配る。雨を連れてきそうな風が強く吹いていたけど、今(20:39)になっても一向に雨はやってきてくれない。雨は要りませんというところには雨が降っていたり、もっと平均に降ってくれないものか。

2011年7月3日Sunday 晴れ
いくらか腫れもひいてきた。
蜂に刺されることを十分に注意しながら、止めてしまうこともできないので、午前中残りの刈り込みに精を出す。予定通り午前中で日程終了。きれいに刈り込んだ葉を片付けて、それから女房が剪定したアジサイも片付け。早く咲き始めたアジサイはもう色あせて茶が入ってきた。裏の池の周りが残るが、午後はもうやる気がない。久々に寿を聴きながら風の入る部屋で寝転んだ。至福の時間だ。降りそうな予感がしつつ、降らないで土日が終わった。来週の日曜は東京方面に盆の棚経である。夏なのだなぁ。法事の塔婆も書く。目蓋の腫れは幾分引いてきた。

2011年7月2日Saturday 晴れ
蜂に刺される。
一日這松とツツジの刈り込みをする。外にいるのはやはり暑い。11時に午前の部終了。午後は2時から5時まで。全部とまでいかず、刈りっぱなしのまま終了。4時半ごろ、池の端のサツキを刈り込んでいたとき、足長蜂に首と左目蓋の上を刺された。直ぐに顔を洗って冷やしたが、上目蓋は、ものもらいができた小学生のころのように、無残な敗戦ボクサーのように膨らんで瞳の上にかぶさってきた。腫れているだけで、痛みもかゆみもなく、「のどごし<生>」をおいしく飲んでいる。一日働いたご褒美を、GRTATEFUL DEAD 1977-05-08 Barton Hall Cornell University聴きながら、涼しい風の入る台所で、生姜に味噌付けてかじりながら飲んでいる。7月頃には、蜂に刺されることがある。蜂に刺されるのは、自分で寺のぐるりのことをしなければならない僕の宿命のようなものかもしれない。DEAD LIVEは風によてもよく似合う。JERRY GARCIAのguitarは、さらさらと流れる風のようであったり、山の秘密の場所の至極の湧き水のようであったりする。

2011年6月30日Thursday 晴れ
6月賞与。 午前中から暑い日差しになり、もう早々にエアコンが稼動した。何せ山梨は暑いのだ。昼休み歩いてから午後が始まると、一転曇り始めて、大粒の雨が降ってきたり、雷は落ちないがゴロゴロと鳴っていたり、そのうちに、いきなり停電になったりした。停電は3度ほど繰り返した。今朝8時過ぎには松本で震度5の地震が発生した。震源地は「糸魚川-静岡構造線断層帯」上にあったとのこと。俄かにこのラインがやばいと注目されてきた。リニヤ中央新幹線なんかで浮かれている場合じゃないんじゃねぇかと思ってしまう。
6月も今日で終わり。ボーナスが振り込まれる日だが余り実感がない。今夜の晩飯はなんと!鰻だった。土用でもないのにと言ったら、女房曰く「6月のボーナスの日だし、6月はもう最後のボーナスになるし、暑さに負けないように」だった。鰻の値も今年は上がっていると先日テレビで言っていたっけ。別に関係ないけど、ちなみに今日は金子光晴の命日だそうだ。

2011年6月29日Wednesday 晴れ
釣り人のように川に浸かりたい。 波木井川に鮎釣りがちらほらと見える時季になってきた。天候が安定して暑い日が続いているので、川もきれいなようで、長い竿をかざして川の中に入っている釣り人がうらやましく思える。僕はそんな光景を眺めながら炎天下を帽子かぶって歩いてきた。さすがに歩くのがバカバカしい事のように思えてくる、この暑さでは。帽子をかぶってはいても歩いてきて、暑さダメージがあったのか、事務室に戻ってから少しぐったりとした。
帰ってきてテレビを見ると、山梨の盆地は全国一の暑さだったのだ。冷房のための電力を大量に使う夏になるのかもしれない。でも、計画停電は勘弁してほしいな。
夕食前に外を歩くと、やっぱり!今日ザリガニ釣りに来た小学生たちが、アジサイを3株踏んであった。ちょっとはそれを懸念したのだけど、しっかりと草刈りもして、アジサイと地面の区別もはっきりとできていたし、何より引率の教師がいるのだからと思っていたのだ。まあ済んでしまったことは仕方がない。こちらもしっかりと予防線を張らなくては。このザリガニ釣り体験の後、毎年この後にわかブームになって夏休みに突入するんだよねぇ。

2011年6月28日Tuesday 晴れ
私学文書課来山。 午後2時過ぎに県の私学文書課の職員2名が来山。宗教法人の適正で円滑な活動を促すために、定期的に各宗派の宗務所を回っているらしい。暑い中を誠にご苦労さんですと迎え、30分ほど話を聞いたりこちらも応えたり。今日は午後休んだのだが、昼休みに職員互助会の役員会があり、昼食の弁当が出たので本庁にいく。間もなく今年も半年が終わり、年度にすると4分の1が過ぎる。せっかく休み、天候もいいので外に出ようと考えていたが、今日の外はとても出られるような光景ではなく、光と熱が降り注いでいるような外。4時過ぎから一時間弱を本堂裏の草を刈る。もう梅雨が明けてしまったのではないかと思わせるここ数日の暑さだ。

2011年6月27日Monday 晴れ
午前中雨だったけど、午後から天気回復し、気温上がる。 昨日のサルの件は、早朝だけで終る。サルたちは、獣除けの柵がいったいどんなものか、試しに現れたのだろう。竹林の竹の子は被害はなかった。今年は竹がだいぶ伸びてきて残せそうだ。食べるほうは今年は十分に食べられて、女房も知り合いにせっせと届けている。「こんなもの」と形容するしかないような地上に生えてくる竹の子を、鎌で刈って皮を剥いて茹でて味付けして食べるのだが、旬の味をやはり味わいたい人たちはいるようで、案外喜ばれたりする。
昨日は、サルの鳴き声でいつもの日曜より早く起きたので、朝食後そのまま作業に入る。生垣の刈り込みとツツジの刈り込み。暑くなったので、やはり作業的にはゆっくりとなる。ポカリスエット飲んだり、蛇口を捻って水をかぶったり、飲んだり。ツツジとサツキはとても一日じゃ刈り込みが終らない。7月までかけて休日をやる。終る頃には、アジサイの剪定をしなければならなくなる。アジサイは、来年花を咲かせるという、花芽のつく箇所が正直、いまいちわかっていない。だから、花の咲いてる株と花をつけていない株がある。アジサイの名所となるには、こういう核のところをしっかり学習していかないとならない。来年になってからということになるか。
午後からは暑い日が戻る。夜、集落内に不幸のあった連絡はいる。檀家ではないのだが、また一人暮らしの家がひとつなくなってしまう。

2011年6月26日Sunday 晴れ
猿が来た。 夕べは早く寝たので、平日時間には目が覚めていた。というか、外からの声に敏感に脳が反応していた。「猿の声じゃないか!?」。起きて、お勤めをしてから改めて外に出ると、本堂の裏山にそびえる杉木立の先が揺れている。猿がいる。本堂の裏にも、歩いている。いったいどういうこっちゃ?3日前に、「獣除けの柵が仕上がり、今朝から通電します」と集落内に伝達されたばかりだ。墓地に行く、だが竹林を荒らされた様子はない。今年は、竹の子がよく採れるし、残しておく竹も伸びているのだ。墓地から中沢川沿いに出ると、奥の屋の屋根に猿がいる。石を持って投げる真似をすると、裏に逃げた。急いでその姿を追う。あっという間に、電気柵を乗り越えてしまった。どうなんだろう?柵の内側(こちら側)へはどうして入ってきたのか?だが、逃げる今は、まさにその電気柵を簡単に越えてしまったのだ。熱いとか、痛いとかいってられないのかもしれない。やつらも必死だ。まさみっちゃんが畑にいたので、「これじゃ、何の役にもたたん」というと、畑が荒らされているといった。猿知恵は、僕らの考えることと平行線上にあるのかもしれない。
という状況の朝にいたが、さわやかもあった。新聞配達の少年はすでに野球のユニフォーム姿で配達していた。耳にはイヤホンだ。がんばれよというと、聞こえなかったのだろう、イヤホンをはずした。もう一度、試合がんばれよというと、笑顔でうなずいた。背番号3の背中の少年は、わが母校身延高校の今年の野球部の主将。先日の夏の大会の抽選会で、選手宣誓のくじも引き当てている。震災の夏のことなので、彼もどんな宣誓をしようかと考えているのだろうと、「プレッシャーかな?」と少し気の毒にも思ったが、勝っても負けても、思い出の夏になればいい。高3の僕の夏は何をしていたか、何も覚えていない。

2011年6月25日Saturday 晴れ
アジサイが育つには時間がまた必要。 8時ごろから資料館の生垣の刈り込みをする。電気バリカンで気持ちよく刈り込みできた。昨日ほどではないという予報だったが、なんのなんの、汗びっしょりで、何度も水分補給をする。刈り込んだ枝を畑で刈った草と一緒に焼却。風が幾分あってよく燃えてくれるが、暑さに耐え切れず、生垣のみで午前中終わる。午後はしばらく外に出られず、3時過ぎに出て、境内の草を刈る。ザリガニ釣りに来た子供たちが踏み荒らして、大事に育てているアジサイの苗が二株無残にも倒れていた。ガキでも許せん!という気持ちが湧いてくることはなかなか抑えられない。回りに気を配れる人間にならなきゃね。多分、根から枯れてはしまわないだろうけど、また成長するまで時間がかかる。暑い日で、夕べから頭の中に描いていた作業の半分もこなせなかった。わかってはいても、暑さで気力がダウンしてしまう。仕方がない。

2011年6月24日Friday 晴れ
おんなじ気持ちを持ち続けるということ。 「おひさま」を見ている。終戦に近づく東京大空襲のあたりで、兵隊同士が交戦するのではなく、米機による都市爆撃により、多くの市民がこの爆撃弾に死傷するのである。こんな時代が今も色褪せることなく、相変わらずこの星のどこかでは繰り返されている。国と国との戦争なのだから、国民であればその一員としての責任を負わなければならないということにもなろうが、たまったもんじゃない。不意を突かれる天災に遭うようなものかもしれないという思いが見ていると湧いてくる。見ながら、被災地でこれを見ている人たちの思いは複雑なのだろうなと考える。NHKもこの時期、どうしてもこの件は外せないのだろうけど、脚本家も相当気遣いしているのではないか。共感できるような物語の構成に努めるとかね。僕は、毎朝楽しみに見ている。戦争ものなんてのは特別に見たくはないけれど、朝の習慣になっている。
昨日は沖縄の慰霊の日。「平和の礎」に跪いて手を当て、涙する人たちがまだいるのがこの世の現実であるということを、僕はしっかりと受け止めなければならない。昨日、「沖縄全戦没者追悼式」で、浦添市仲西中学2年の嘉味田朝香さんが朗読した詩「幸せの一枚」のなかにある「笑顔を幸せを奪った戦争を 私は許さない絶対に許せない」という言葉に共鳴した素直な気持ちを、一人ひとりが本当にいつまでも持ち続けるということが大事なんだと思う。当たり前でしょ?!っていいながら、意外と大きくなると、違う気持ちになっていたりするもんだから。

2011年6月23日Thursday 晴れ
ちゃんとわかるように説明する。 夏の陣開催のお知らせが届いた。去年夏風邪で行けなかった高橋君を誘った。一人で行ったので、去年帰りの電車で降りる駅をうっかり眠って乗り過ごしてしまったので、今年は高橋君をぜひとも同行させたいと思うのだ。
今朝はどんよりと重く曇っていたが、昼には気温が上がって昨日ほどではないにしても、ねっとりとした暑さになった。昨日も今日も昼休みを歩くのは、いささか厳しい暑さだったが、酷暑に耐えるということは、被災地に耐えている方々を思うという意味で、と勝手に思いながら。歩く道端の畑に目が移る。土壌のよいところなのだろう、もうナスやキュウリなどが十分な大きさに生っている。近頃は野菜への関心も少し出てきたので、食べ頃に成長している野菜を眺めるのは、花を愛でるのと同じような気持ちになる。幼い頃に寺の畑を手伝ったこともあったので、知らず知らずに、またおんなじような生き方を僕もしていくのかなぁとも思う。我が家のプランター・キュウリは4本採れた。台所から毎日それを女房と眺めている。フジザクラの挿し木苗と、圓崎さんからいただいた桃の花の苗がだいぶ育ってきたので、どこかいい場所におろそうかと思案している。
度牒礼録交付手数料は15,000円なのに、23,000円の請求になっている理由がわからず、宗務本庁に問い合わせたら、「今年度の教師賦課金の8,000円を含めています」という返事。度牒とは、僧侶となる得度をした後に申請して、所属教団がそれを認め許可するとして貰う文書のこと。諸礼録金リストの中に、度牒礼録は15,000円と記載されているのだから、教師賦課金を含めるのはおかしいじゃないか、度牒礼録金と平成23年度教師賦課金としっかり分けて請求書をよこすべきだと苦言した。今回の度牒は、5月から本山で学んでいる僕の弟子(ということになっている)の得度が済んで交付されたもので、ちょうど今週月曜に、修験得度したKさんの度牒申請を送ったところなので、明細をちゃんと書き分けてくれと頼んだ。ろくろく説明もせずに、振込用紙だけ送ってきて記載額を振り込めという。なんだか、本山(宗務本庁)とのつながりは、とにかく金、金、金みたいな気がしてしまう。

2011年6月22日Wednesday 晴れ
原発のこと。「原発反対」。 僕はまあ割りと早い時期から、原発に異を唱える側の人たちとの付き合いもあったし、そんな本も読んでいたし、ワークキャンプなんかにも女房や子どもたちを連れて参加もしてきた。名刺には昔から大好きなシンガー豊田勇造の生きる姿勢を見習い、「NO NUKES ONE LOVE & GOOD MUSIC」を刷り込んでいる。ただ、やはり原発の危なさが、チェルノブイリ以降、いまひとつ、ずしんと思いのなかに入っていなかった。そりゃぁ、東海原発の事故などもあったわけだが、やはり今回の事故によって、完全に「反原発」への目が覚まされたという感じ。これが市井の臣の業とでもいうのだろうか、やはり取り返しのつかない事態が起こらなければ、どこかゆらり、のんびりとしてしまう。あの日、津波に流される家や車をテレビ画面で見ながら、福島原発のことなど、直感的に頭には浮かびはしなかった。戻そうとしたって戻せない事実はしかたがない、反面教師として脳裏や胸のうちに焼き印して背負っていかなければならないのだと思う。電力供給にいささか不便を感じるような時代が来たって、私たちが安全に生きていくことが何より大事なことで、原発がなければ、こんな不安で深刻な日々はありえなかったわけで、地震と津波によって、およそ同じ生きている者として想定できないほどの犠牲者をだし、都市が崩壊し、行政の機能が止まっても、それだけなら、もう、再生への足がかりはつかめていただろうに。まーだ、今後も原子力エネルギー政策に頼らざるを得ないなんてことをぬかしている国会議員たちもいる。とにかく、原発は危険、不安、事故あれば爆発し、人命を脅かす放射能を拡散させる。できるだけ個々人として、原発に反対であるということを僕たちは、自信をもって明らかにすべきであろう。僕は「原発反対」です。国内のすべての原発の運転を即刻停止すべきです。

2011年6月21日Tuesday 晴れ
もうこのまま転載させてもらうしかないのである。 小出裕章(京大助教授)氏からの情報がいま最も注目である。「小出裕章非公式まとめ」である。
「大阪も名古屋も、これまで自治体は0.04前後と線量を発表していた。ただしそれは、悪名高い「地上20m(以上)モニタリング」の測定値。6月13日に初めて公開した地上1mの測定地は、それぞれ0.078、0.066と跳ね上がった。ウォッシュアウト効果を考えると、大阪、名古屋の地表にも思わぬホットスポットが隠れている可能性を忘れてはならない。京都大学原子炉実験所の小出裕章助教は、これからの日本人は、生きていく上で次のような「覚悟」が必要だと話す。「福島第一原発から放出された放射性物質は、県境を越えて日本中に広がっています。いや、国境さえも軽々と乗り越えて、世界中に広がっています。もはや地球上に、この汚染から逃れられる場所はないのです。放射能は目に見えないし感じることもできません。だからこそ行政はしっかりと線量を計測し、知らせなければならない。そして我々はどこにいようが、その数値に注意を払わなくてはならないんです。3・11を境に、私たちの世界はそんな場所に変わってしまった。そして私たちは、そこで生きていくしかないのです。」
もう山梨に住んでいることに安全の保証などはないのである。このことを僕たちはよくよく自分自身に叩き込み、自衛手段を講じていかなくてはならない。今日も梅雨の合間の風が肌に気持ちよく入る事務所にいて、「気持ちいいね」なんて話していたけど、本当のことをよく理解しながら生活しなければいけない。直接の被災地でなく、東京や神奈川あたりから、沖縄に避難する家族が増えているという。放射能にはまったく境界などないので、地球上を漂うのだとしたら、そのとおりのことが実際に起きているのだというのはもっともの話だ。危機レベルのピークメーターは振り切れっぱなし状態なんだ。

2011年6月20日Monday くもり
アジサイ。 Kさんの修験の度牒授与申請とH寺の解散承認申請、それから今年度の宗費の割振り額を宗務本庁に送る。現在真言宗醍醐派の末寺院は山梨には15。申請どおりに進めば14か寺になる。小さな集団である。
蒸し暑い一日で、昼休み歩こうと思ったら、公図を欲しいという客が来て、昼休みがパーになってしまった。醍醐寺への郵便だけ出しに行かせてもらい、午後もそのまま。外を歩くと、アジサイが盛りで、車を運転していても、ついついアジサイに目が向いてしまう。色の濃いアジサイならなおさらだ。アジサイの色には土壌が関係するとか、花の持つ特徴であるから関係ないとか言われているが、いろんなアジサイを寺に増やせたらいいなと考えている。それから、ひっそりとした趣の山アジサイもいい。下部支所に通っているとき、鳩打隧道の入口付近にたくさんの山アジサイが静かに咲いていて、その株を挿し木にもした。幾株か育って、いま小さな花をつけてくれている。そんなこといわれても困るだろうが、「早く大きくなれ」と思っている。
震災で犠牲になった人たちのことを忘れてしまうということではないけれど、福島第一原発が収まらない。先ずは原発の事故収集を今は第一に考えて優先すべきである。ここを収めなければこの先の未来が見えないということになりそうだ。どうも本当のことはあまり伝えられていなくて、東電はまだ自己保身を優先して腰が引けているようだ。事態は何も好転していなくて、解決への道を足踏みしているだけのようである。

2011年6月19日Sunday くもり
宗務所会議。 一人の朝だったので幾分遅く起床。本堂の掃除。護摩壇を掃除して、仏器を洗う。掃除機をかけ、埃の堂がきれいになった。掃除を終えるともう10時半間近だった。竹林へ行き、竹の子を収穫。宗務所会議で甲府へ行くついでに久成の喜田へ届ける。キャベツがあるかと訊かれ、キャベツはここのところ近所から貰ってあると応える。時期がずらせたら、有効にいただくことができるのにね。
そばを昼に食べたいと思いながら運転していたが、市内に入り、駐車場もなくなると入れそうな蕎麦屋もなく、結局コンビニでおにぎりとお茶を買ってクルマのなかで食べる。店に入るということがメンドクサイというか、入り方を事前にあれこれ考えてしまうというのだろうか、困ったものである。
行蔵院を借りて宗務所の会議。宗務所長会議の報告、会計報告をし、今年の宗費の割り当てを承認していただき、特別な事案もなく終わる。法人解散届けをひとつ預かる。行蔵院ご住職は今年も大峰山に行ってきたというので、来年は僕も行ってみたいものだと思う。行場を回れるかどうか不安な気持ちだったが、行場修行は初めての者だけでよいのだというので、少し安心した。僕なんかでは奈落へ落ちるかもしれない。
鎌倉から帰ってきた親子から話を聞く。大変な混雑ぶりだったという。アジサイはうちの寺のを見ていれば僕はいい。

2011年6月18日Saturday くもり
祈りの行為をする場所が僕のこの寺である。 震災の日から今日が100日。各地で慰霊祭などが行われたと伝えられている。僕も今日護摩を焚いた。午前中早い時間に参堂脇の畑の残り一面を草刈り。雨が落ちてきそうな天気で汗も少なくて終了。シャワーを浴び、11時の鐘を撞いてから、久那土の上田美枝着物資料館へ。昨日母宛に届けられたものを返しにいってきた。数年前まで、館の運営委員のようなことを頼まれていたようだが、いまはそれも退かせていただいたし、送られてきた資料にももう名前はなかったので、同封されていたものを、館の方にお話して、今後はもう送っていただく必要はなく、これにて失礼したいということを伝えてきた。女房と娘が鎌倉へ出かけたので、母にはデイサービスに泊まってもらうことにした。アイスクリームが溶けるということの理解も最近はできなくなってきた。ただ不思議なのは、できないことできること、わからないことわかることが、うまくいえないんだけど、断片になってしまったものや、大丈夫なものや、不思議な脳というものになっているのだ。
午後2時から本堂で護摩を焚く。雨が落ち始めて、暑くもなくいい護摩が焚けたと思う。静かに僕の場所で祈りを続けるしかない。

2011年6月16日Thursday くもり
「おひさま」。 「おひさま」を見ている。見てから家を出る。須藤(父)に相馬(父)が声を潜めて、戦争は負ける。負けるから、そのつもりで準備をはじめていたほうがよいと話す。それを聞いた須藤は、相馬に激怒する。それなら今すぐにやめさせろ、今すぐに終らせろ、息子二人を戦場に送っているのだ、(負けることがわかっているのなら)負ける前に戦争を終わりにしたらいいだろうと激する。相馬はうなだれて謝るのだった。僕は今朝このシーンを見ながらこんなことを思った。福島原発事故のことだ。原発に関しては、政府は一貫して安全を謳い、事故など絶対に起こらないと言い切って増設してきた。チェルノブイリ以降、原発の安全神話などを僕は信じなかったし、キヨシローや広瀬隆、高木仁三郎の声にこそ耳を傾けるべきだと思ってきた。「原発はどうも危ないよ」「地震銀座の島国の原発に安全などという神のお墨付きなどないよ」という言葉は、いつだって僕たちの日常生活のなかに、小さくても流れていたはずだ。いつか取り返しのつかない原発事故が起こるということがわかっていたのなら、なぜすぐに停めなかったのだ。放射能が漏れる前になぜ停めなかったのだというようなことを、今朝の「おひさま」のシーンの中にダブらせていた。
震災での死者と行方不明者は、2万8千人を超える。それから12万4千人を超える人たちが全国各地に非難しているのだという。原発事故が地震災害に伴わなければ、復興再建への機械音が鳴り響いていたはずだ。想定していないことの起こるのが、自然界の自然の掟なのだ。想定することから目を背けている事柄には、絶対の安全などないってことをよく学んだ。所詮は限りある命を生きているものの儚さなのだ。
明王寺のご住職からのサクランボが届いた。一粒がとっても高価なので、それなりに心して味わうんである。果樹農家の丹精込めた果実が、眼に見えない放射能なんかが降りかかっているということで、ばっさりと出荷規制をかけられているようなことって、本当に悲しい。この夏の野菜果物は、育つ過程や農家の労働のことにまで、思いを馳せていただこうと思う。

2011年6月15日Wednesday 晴れ
畑の収穫を、ありがたいものだなぁと思うようになってきた。 歳を重ねる気持ちの変化ということなのだろうか、近所からいただく畑のものをありがたいなぁという気持ちを心底感じて食べるようになってきた。夕べニンニクを素揚げしてそのホクホクとした食感と地中のエネルギーを貰えるような思いがしたこと。今晩も、角屋からいただいたジャガイモの茹でたのを、醤油バターで食べると、もうこれはたまらなくおいしかった。食べるということが生きていく基本になっているようにも感じる。食べ物が汚染されるような状況は、生きていくものにとっては最大の危機なんだ。
仕事から帰っても、外に出られる明るさが十分に残っている。涼しい境内を夕闇が下りてくるままに歩いていてもいい。明るいあいだ外にいて、暗くなって家に戻っての繰り返しなら、余分なエネルギーは必要ないのだろう。

2011年6月14日Tuesday 晴れ
先々のことなど何も問題にされていないかのようだ。 福島市内の小中学校では、まだ学校給食の機能が回復されていなくて、牛乳とパンの給食が、一週間交替で調理した給食を食べられるようになったという。機能を失った給食の調理現場の再建の目途が立たないらしい。そんな光景をテレビを通して眺めながら、やはり考えてしまうのは、止まることなく排出され続けている放射能による将来への影響のことだ。テレビから伝えられることと言ったら、「ほとんど人体への影響はない」というコメントばかりだ。あまりはっきりと危ないというような言葉は僕は聞いたことがない。静岡でも、製茶から規制値を上回る放射性セシウムが検出されている。この山梨だって、ある日の風向きなどによって、放射能の影響を受けているのかもしれないし、これがまったく色にも匂いにも、吸い込んだとしてもまったくわからずに過ごしてしまうのだということだ。福島原発周辺に生活する人たちのことを考えると、軽々に物言いはできないということはわかるが、この国の未来を荷っていく次の者達のことを、もっと真剣に、危機感を持って考えていってやらなければいけないのではないかと思ってしまう。
プランターのキュウリを採るのを密かに楽しみにしていたのだが、女房に先を越され、夕餉のポテトサラダに使われていた。まだたった1本ではあったが、愛おしさをもってその緑を眺めいただいた。本気になって原発に三下り半を突きつける瀬戸際に立っていることを考えていかなければならないだろう。

2011年6月13日Monday 晴れ
「非現実的な夢想家として」。 新聞の休刊日だったし、土曜の新聞をまた読み返した。スペインのカタルーニャ国際賞授賞式での村上春樹のスピーチの全文。さすがに作家のスピーチというものは、活字にして読んでも読み応えがある。こういう影響力のある人の発言は今の時期とても効力がある。村上春樹の言葉は即効薬としてこの弓の島を上がったり下がったりしている。それからまあるい地球をも、ぐるっと駆け巡っては、誰にでもわかるように、でも深く、しっかりと杭打つように刺さるのだ。「我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。」という考えはまったくもって僕も同じである。誰もがわかっているようでもなかなか言葉にできなかったりするのを、さらっとしゃべってしまう。AKB48の総選挙に夢中になりながらも、震災への思いを個々に昇華させていくというようなことができたらいいのかもしれない。なんだかわかったようなわからないような。

2011年6月12日Sunday くもり
晴れたら草刈りになる。 日曜美術館を見て10時前から参道脇の畑の草刈り。昼食を挟んで、今日片側を刈ってしまう。曇り日だったので、草刈りするにはちょうどよかった。雨がなければこれをする休日である。5月中旬から、今月は何も法事の予定もなく、坊主としては干上がってしまうかもしれない。Kさんより、修験得度を済ませたとメールあり。これで、私とも今後深い縁と付き合いにになる。在家の彼が修験籍とはいえ、出家するということには大きな意味がある。彼はしっかりと自分の祈りのポジションを持っている。おめでとう。

2011年6月11日Saturday 晴れ
「苦海浄土」読了。 別に今日が震災から3ヶ月の日というにあわせてきたわけではない。たまたま今日は雨の朝になり、午前中の早いうちに残りの30ページほどを一気に読み、2月末から読み始めた石牟礼道子さんの「苦海浄土」を読み終えた。前にも書いたが、3月11日以降、本が読めなくなっていた。特にこの分厚い重い内容の本は、読まなければならない本として読み始めたわけだが、どうにも読み進めることができなかった。やっと決着をつけてやったという思い。5月末から意を決して再開し、急ぐことなく読み始めたのが幸いしたか、それから詩人としても評価の高い作者の紡ぐ美しい言葉にも魅せられながら読むことができた。
本の中には僕も、通夜で歌う「追弔和讃」が何箇所かに出てくる。それから、タイトルの“苦海”という言葉は、「弘法大師和讃」に「生死(しょうじ)の苦海(くがい)果てもなく」と出てくる。
今日、震災から3ヶ月。夕のお勤めで、懇ろに追善供養の経をあげた。来週の土曜の百日忌に鎮魂の護摩を焚こうと思う。
お昼前に雨が上がり、境内から墓地を歩く。竹の子はどうかと竹林を覗いたが、まだ少ない。明日にはいくらか収穫できるかもしれない。アジサイも色濃くなってきた。自然の移ろいをも眺めながら、この場所から被災地への祈りと思いを今日また新たにした。
村上春樹氏のカタルーニャ国際賞授賞式のスピーチもまた感慨深いものだった。

2011年6月10日Friday くもり
空が重い。 雨が落ちてきそうで落ちてこない。沖縄はもう昨日梅雨が明けたらしい。例年より2週間早いという。山梨も2週間早く梅雨入りしたが、2週間早くの梅雨明けにはならないだろうと予報している。珍しく早い台風が大量の雨を降らせて過ぎたが、その後は、降りそうで降らない日が続いている。「暮れそうで暮れない黄昏どき」と歌う南沙織の歌詞のような感じ。一日蒸し暑くて、じっと一日、土地の異動を台帳に記載して過ごした。折衝したり、何かを考えて創造していくようなことが苦手なので、こういう仕事は性にあっているのだと思う。一週間が終って、明日の休日は雨模様かな。草刈しなくちゃと思いつつ、雨を望んでいるような曖昧な心模様。

2011年6月9日Thursday くもり
いささか寝不足。 BSで、映画「グリーンマイル」を初めのうちうとうとしながら見ていたが、後半に行くに従って引き込まれていき、とうとう最後まで見てしまった。1時を過ぎていた。で、いささか寝不足気味で、いつもの時間に起きたがあまり爽やかな朝とは言いがたかった。今朝も少し曇っている。昨日は朝雨があったが、昼時には気温も上がって、今年初めて帽子をかむって歩いた。ここの日常は去年と変わりがない。田植えの終わった早苗田に光る水があり、その輝きは深い安堵をくれる。久しぶりに、DAVID BOWIE「ALADDIN SANE」を夕べから聴いている。停止していた「苦海浄土」を少しずつ読み始めて、残り60ページほどになった。今週中には読み終えることができそうだ。水俣病という重い題材が、ドキュメンタリーと抒情詩のような言葉によって縦横に織られている。3月11日以降読み進めることができなかったこの本の残り4分の1ほどを先週から読み始めて、作者の紡いでいく言葉の美しさに僕は感動を覚えている。患者側と、チッソ側との折衝を重々しく虚飾することなく淡々と書いているので、余計に言葉の美しい世界がまるで、中空に浮かぶ夢物語のように僕はテヲノバシテソレニサワリタクナル。よい一日を。

2011年6月8日Wednesday
雨樋。 本堂での勤行を済ませ外に出ると雨が降り始めていた。客殿のお勤めも済ませ、裏庭のニワウメがいい色になり始めていたのでカメラを持ち再び外に。今年は鈴生り。わずかに甘さのある酸味。この実を食べるのは、密やかな僕の一年に一度の楽しみだ。明日の朝は食卓にも乗せてやろう。客殿裏の雨樋の詰まりが気になっていたので、カメラを置いて、梯子を掛けて上がる。落ち葉の詰まりを取り除くと、そこに待ってましたとばかりに少し雨脚が強くなる。多分これでよし。雨水の抜けは大丈夫だ。雨樋の掃除が寺では欠かせない。気になったときに、時間を問わずにすぐやってしまうのが結局一番いいのだ。

2011年6月7日Tuesday 晴れ
都合よく。 月曜、京都何も特別なことはない。普段と変わらぬ仕事をこなしてきた。昼休みのウォーキングはだいぶ慣れてきて、歩くという感覚が戻ってきている。禅は座ることだけが禅ではないという話も聞いたことがあるし、勤行で祈ることと同じように、歩くことによって、体を動かしながら内なる祈りを発するということもあるのではないかと、都合よく考えている。
プランターのミニトマトの苗に小さな実がついた。緑濃いビー玉のよう。収穫が楽しみ。欲をひとつ言うと、サギソウが、期待ほどに芽を出さない。アジサイの苗を植え替えたりの夕方。

2011年6月5日Sunday 晴れくもり
草刈り2日目。 4時半に起き、思い立ったことをやる。ここで何という旨い説明はできないのだが、思いつくままに行動する。裏山にも行く。僕はこの獣避けの柵の事を一人合点していたようだ。柵は4mだとばかり思っていて、初めに張られていた柵の上に、もう一段裂くが乗るのだとばかり思っていたが、2mの柵だということが昨日工事関係者の話でわかった。眺めると、なんとも中途半端すぎるほど半端もののような獣避けの柵である。柵の上に電気の先が通されるようであるが、果たしてこんな柵、猿なんか怖がるだろうか?まだはじまっていないうちから想像してもいけないのだろうが、あまり効果はないのじゃないかと、柵を見て情けなくなってしまった。柵の工事が行われているので、猿が暫く姿を見せてはいないが、さてさてこの後はどうなることやら。境内を歩いていて、イノシシは相変わらず来ている。柵自体が、完璧にシャットアウトする機能とはなっていない。河川管理区域には、柵が掛けられない。イノシシはこういうわずかな隙間からでも里に降りてくる。猿だって、沢に下りて入ってくれば、何の予防にもならないのではある。ただ僕は、鹿が来なければいいということに一番の期待をしたいのである。苗木をしっかりと育てて緑化計画を進めたいので。
午前7時半から竹林周辺、庫裏の裏庭の草刈り。終わってから資料館の前庭から、ぐるりと草刈りもする。午前中目一杯やったらもうくたくたで、午後はWOWOWで映画見て、終わってから道具を片付けて休日の仕事終わり。天気が下り坂のようで、涼しい夕になっている。

2011年6月4日Saturday 晴れ
第1回墓地の草刈り終了。 先週台風だったので、今日7時半から墓地の草刈りの続きをして今年の第1回目の草刈りは終了。境内から参道脇の畑を眺めると、もう次はそこを刈らなくちゃならないというようなところばかりだ。サツキが咲き始めてきたが、花の終わったツツジは新芽が伸び放題になってきた。刈り込みもしなければならない。夏の季節はこんなことに休日を費やすことが年中行事だ。草を刈っていると、昨日まで政治のことになんだか腹を立てていたけど、どちらでも勝手にしろい!なんて気持ちになってくる。まあ、僕がここで腹を立てる必要もないのである。僕は僕のやらなければならないことを淡々とこなして、田舎僧侶の世界に没頭していればいいのである。
Kさんから朝メールが届いていた。なかなか人間界は思うようにはいかないのであるが、いよいよ覚悟ができたように受け取れてよかった。長くて答えのない世界に分け入っていくようなものだ。縁をいただける人は大事にしたいと思う。お寺の名前だけ持っているなんて、こんなつまらない宗教活動?に埋没してしまう人もいるのにさ。

2011年6月3日Friday 晴れ
日和見感染注意。 久しぶりにTim Berneを聴いた。ちゃんとしたアルバムは持っていないんだけど、LiveをDLしたものを何枚か持っていて、はじめて聴いたときに、これは“大好きだ!”と感激した。雨が上がって、すこしひんやりの残った朝を走る車の中に、TimのアルトやバリトンのSaxがぐるぐるとうねりまわった。
昨日の国会の内閣不信任案採決について、今朝のサンニチ誌に、作家の高村薫さんの寄稿が掲載されている。「どこまでも日和見で、自分の損得しか考えていない人たち。被災者なんて目に入っていない」と民主党の不信任案の賛成に回るとしていた議員を斬り、自民党には、「原発事故は自民党時代の無策のつけ」と今さら感を呈している。
日和見感染とは、宿主と病原体との間で保たれていたバランスが宿主側の抵抗力低下により崩れ、宿主の発病につながるもの」。

2011年6月2日Thursday
政治への不信はますます募るな。 朝なので今日のことがどういう風になるのかわからないが、正直結果などあまり知りたくも見たくもない。内閣不信任案の行方。賛成に回るだろう小沢グループ。除名なら新党などという新聞記事も。この国の政治家は、みな自分勝手なことばかりで、本当にいま見なければならないものを見ようとしていない。見えないものを見ろと言っているわけではない。今あなたの目の前に広がって見えているものはなんなのですか?と、肩を揺すって問いかけてみたいものだ。不信任案が可決されてもされなくても、見なければいけないものを見ようとしない集団は、国民から見限られる運命かもしれない。困ったものだ。
(21:00) 「今日は何の日かわかってる?」と訊かれ、さて何だろうと考えたが咄嗟にはわからなかった。結婚記念日だった。女性はこういうものをいつまでも大切に拠り所としながら、夫である者との生活を耐えて我慢しているのかもしれないと思った。不信任案が否決されたが、まあ、この異常な集団同士の腹の探りあいというか、駆け引きというか、まったく外に眼が向いていない。

2011年6月1日Wednesday くもり
6月。 6月だ。あと10ヶ月だ。過ぎてしまえば年月、月日なんてのは、早いなぁってな思いしか残らない。今朝は少し冷え込んだ。梅雨に入って天候が少し悪いと、陽気は寒く感じる。油断のならない季節だ。朝少し時間があったので、池の周りの植栽のひこばえに手を入れる。梅、山茶花、サンシュユなど。休みの日に片付ければいい。
特に何もなく仕事も終わる。我が家のもだけれど、職場の緑のカーテンが楽しみ。今年も4株キュウリ苗を植えた。

2011年5月31日Tuesday 晴れくもり
裁判所の判決なんてものは、結局こんなものだということだ。
朝から昼頃までは爽やかだったが、午後から曇りはじめて家に帰る頃は薄暗く風もあって少し冷えた感じがした。夕のお勤めを済ませ、晩飯までの間、女房が買ってきた鉢植えのアジサイがもう盛りを過ぎたので、適当な場所をさがして地におろした。
「君が代訴訟、起立命じる職務命令『合憲』 最高裁初判断」があった。裁判官の下す判決は全部が全部正しいということではなく、その事実に基づいた審理をするなかで、最後は裁判官の多数決で決してしまうということならば、結局はその事柄に向き合う裁判官の考え一つだということである。裁判官とて人の子であり、その判断が絶対であるとは限らない。無実の者が死刑判決を受けて処刑されてしまうなんてのが、あってはならない最たるものだ。「国旗及び国歌に関する法律」が制定される過程において、これによって必ずしもこれを「義務づけ」は行わないとしながらも、徐々に徐々に、保障された自由を制約しはじめるのだ。大阪府知事の橋下某は、「入学式や卒業式の国歌斉唱時に起立しない府立学校や公立小中学校の教員を免職する処分基準を定めた条例を9月の定例府議会に提案する考え」だと、ますます鼻息が荒い。最近の世情は皆こんな風に偏る。僕は個人的には国旗国家ともに馴染むことができないのでNOであるが、ことさらにYESの考え方を忌み嫌うものではない。あくまでも個人的な事柄だと思う。天皇も、「強制はよくない」発言をしている。つまり、二極の考え方があるとしたら、必ず一つは排除する、闇に葬るのだという考え方こそ危険なんだと僕は考えるわけである。自分の思想にこの国を塗り替えていくかのような、ファシズムこそは排除しなければならんと思うが。

2011年5月30日Monday 晴れ
台風往き暑い日になる。
今朝通勤途上の国道が雨量オーバーで通行止めになっていることを知らず、狭い山道を通ることになった。8時半過ぎには雨は上がっていたが。土曜から今朝まで、まあよく降った。境内の池があふれ出したのなんて何年かぶりだろう。池に棲む鮒が何匹も庭に流れ出し、獣か鳥にでも突かれたのか、すでに腹が裂かれていたものもあった。これも自然の為すことなので、仕方のないことなんだな。富士川の水量も増え、勇ましい流れもこれまた久しぶり。激しい雨に打たれて、チョコレートコスモスの華奢な茎がすっかりうなだれたものも。
福島原発事故による影響があらゆる職業分野に波及している。今日は林業が危機なんだという情報を読む。野外作業ができない状況にあるらしい。一体この国に住む誰がここまでのことをあの日思っただろうか。僕なんかの場合は、完全に僕の思考する範疇を超えている。夕べ、NHK教育テレビ『ETV特集 細野晴臣』を見た。3月11日のあの時間、細野氏は女優の原田知世さんと番組の製作現場にいて揺れを体験していた。その場面も昨日の番組には差し込まれていた。新しいアルバム「HoSoNoVa」がすでに完成していたのだが、細野氏も、3月11日依頼音楽に手がつけられなかったというようなことを語った。チェルノブイリと同じように、4年後、子どもたちに甲状腺がんが顕著に認められるようなことにでもなったらと考えると空恐ろしい。あの日のあの時間から重く止まってしまった事が、少しずつ回復し始めているのに、今調べても何もわからんだろうという「甲状腺がん」は、4年後でなければとりあえずの結果は出てこないのだ。なんと大きな取り返しの付かない出来事なんだと思わずにはいられない。

2011年5月27日Friday くもり
入梅。
平年より12日もはやい梅雨入りであるとの事。暑い日もあるが、鬱陶しいような日もあるものな。今年は、天変地異によって、自然のサイクルにも狂いが生じているのかもしれない。寺の自然を見回してもモリアオガエルの産卵がまだない。草の伸びが明らかに例年に比べゆっくり、などある。
俳優の山本太郎が反原発の自身の思いをTwitterやデモに参加することで明らかにしていたことで、予定されていたドラマを降板させられたらしい。芸能人であっても、一人の人間としての考え方は尊重されなければならない。こう私は思うとか考えるとかいう発言なんぞは、仕事を干してしまうほどの問題になってはおかしい。もしこれが事実であるなら、これこそ問題にするべきで、分別のある社会が絶対に行ってはいけないことだろう。ROCKの人はいささか不穏当な発言があってもしかたないが、俳優さんの立場にある人は困りますってのは笑っちゃう。AKB48の女の子たちだって考え方はまちまちだろうに。思っていることを口にしてはいけないということを芸能界は求めるのか。コスチュームや音楽は変わるけれど、芸能界の体質は旧態で体たらく。詩人山尾三省は遺言の二つ目で「第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです」と遺した。僕もこの三省の考えに大賛成なのである。それから僕は折に触れこの三省の遺言を紐解いてみるのだが、いつも一番、身が震えるほどに新鮮に強く引かれ、「俺もほんとにそうなんだ!」と噛み締める言葉(箇所)がある。遺言の最後に、「市民運動も悪くはないけど、もっともっと豊かな“個人運動”があることを、ぼく達は知っているよね。」というところだ。もっと絞ると、「もっともっと豊かな“個人運動”」のところだ。山本太郎の豊かで自由な個人運動を封じ込めてしまうようなこの国であっては決してならないと考える。

2011年5月26日Thursday 晴れ
お疲れさま。
以前からこの「おつかれさまです」には、好印象をもてないのだ。勤め先の中での電話やメールでも、真っ先に「おつかれさま」なのである。特に年若い人たちは。彼(彼女)らは、果たして本当に、僕が疲れているということを承知しておもんぱかってくれているのであろうか?いやいや!絶対にそんなことはない。こんにちはやご無沙汰してますと同じライン上の挨拶語として、「おつかれさま」なのである。このお疲れ様は、ちっともお疲れ様の思いが伝わってこないし、例えば僕が疲れていると訴えてもいないのに、勝手に僕が疲れていると思い込まないで欲しいという感情の方が湧き上がってきて、好印象をもてないどころか、不愉快、不快極まりないのがこの「おつかれさま」なのである。本所、支所、出先機関などをつなぐIP電話なるものがあり、必要があって電話をかける。○○支所の石田です。というと、即「ハーイ、おつかれさまです〜〜!」と、尻上がりの声で返ってくる。こちらが電話を受ける場合もこの逆のことになる。勝手に他人の健康状態決め付けて欲しくないと思うし、こんなくだらない、真実の思いやりに欠ける挨拶語が席巻してくる世の中を僕は心底憂える。
読んでくれてありがとう、お疲れ様でした。ご意見お聞かせくださいましってくらいならまだいいか。

2011年5月25日Wednesday 晴れ
晴歩雨読。
晴歩雨読でいこうと思う。去年の夏から図書館の本をたくさん読んで、随分と久しく本を読む習慣から遠ざかっていたが、おー!これだっ!というくらいに、読書することに感動を覚えてしまったわけだ。だが、3月11日以来、本を読むことの興味が、例えは悪いかもしれないが、押し寄せた波が読書意欲をも海に引きずっていってしまったようで、すっかり熱が冷めてしまった。まあ、でも、少しずつではあるが読んではいるのだが、ちょうどあの日に読んでいた「苦海浄土」はあと200ページほどを残して今もって僕のパソコンの傍らで、その分厚い姿をさらしたままになっている。重いものが読めない気分とでも言い訳するしかない。それから、昼休みの歩きを止めてしまったので、酒飲む体はさらに太り始めた。なので、昼休みまた歩くことにした。本は、ちょこちょこと、時間のできたときに読めるようになってきたので、出勤前、出勤後の始業時間前などに読める。雨の日は昼休みをそっくり読書に充てる。「晴歩雨読」でtake it easy。

2011年5月24日Tuesday
たわごと。
九州が昨日入梅したそうだが、ここも夕べから入梅したかのような雨が降り続いている。寒いというが今朝の実感。5時に起きて傘をさして本堂に行きお勤め。あまり朝が早いと法螺貝を吹くのを遠慮するのだが、今朝は雨音があるので、勤行後に吹いた。雨が降って「今朝は寒いなぁ」と感じると、頭のどこかで、被災地の方たちの雨の日のことを想像してしまう。外は歩けないが、庫裏の庇の下に置いてあるサギソウの鉢の新芽を数えてみたら、全部で七つあった。命の営みが一気に噴出したように成長する姿には驚くとともに感動を受ける。
昨日帰ってきてから、所下寺院の宗費未納の件である寺のご住職と20分ほどお話をした。僕の寺の属する宗派の山梨支所はとても小さなサンガである。先祖から引き継いできた寺を継ぐ者がなく、解散していく寺もここ数年いくつかあった。まだいくつかの寺が、僧籍すら持たずに代務住職を置いて名前だけ持っているというところもある。宗費が滞れば、その分を残りの寺院で負担していかなければならなくなったり、本山である宗務本庁からペナルティーを与えられることもある。現実に直面することと、空にふんわりと浮かぶように、漂いたいという思いの中に大きなギャップが生じるのである。戯言であるなぁ、雨の朝。

2011年5月23日Monday くもり
月曜。
昨日一日日直だったので、休みを一日損したような気持ちではあるが、月曜の朝。ほそーい雨が落ちているのである。外に出ると、アジサイの緑の幼い花が今朝の曇りによく似合っている。ボタンの花も開いた。去年甲府の佐田さんからいただいたサギソウを、株分けして鉢二つにして植え替えたものから、緑の葉が見え始めた。苔の間から大丈夫生きていますよーという言葉が聞こえるようだ。待ち遠しかったサギソウ。今年は自然の動きが遅いのか、ゆっくりなのかもしれない。モリアオガエルの樹の枝への産卵もまだない。来なけりゃ気を揉むし、来ればホッとする。昨日の朝、出かける前には居間の書架のガラス戸が震えて鳴った。地震はまだまだ重い気分を初夏の空に解き放ってはくれない。
3月11日からの僕の朝夕のお勤めでの祈り、太鼓、法螺貝、つづく、つづく。

2011年5月22日Sunday くもり
日直。
昼前、音楽を聴きながら「栃代川」を読んでいると、「なーんでぇ?今日は役場休みだっとーけ」といいながら、電源の切ってある自動ドアを押すように開いて老婆が入ってきた。手にはウツギの枝が握られていた。「今日は日曜だから休みだよ」というが、この方はもう曜日の感覚がないのか、「知らんかった」とあっさりしたものである。外には自転車が止めてあり、荷台の籠にはまだウツギの枝がたくさん入っているようだった。「病院にも届けてきとーさ」「たいへん咲いてて、もってねぇからもってきた」と、受取った後、適当な入れ物に水を入れてトイレの洗面所に置いた。ウツギの少しきつい香りが漂った。
午後1時半、雨が降り始めた。昨日墓地の草刈りをしていたら、角屋の墓地にアジサイの苗が下ろされていた。うっかり一つ切ってしまったんだけど、まあ雨を吸い込んで、もう一度復活してくれるだろう。ダメならその分、挿し木で育てたものを植えようと。墓地も緑化を進めたいというのが僕の思いだ。
W氏から送っていただいた「栃代川」は、氏とも知り合えたきっかけとなった「禁酒塔」のことも書かれていたし、大炊平の方々は日が沈んでゆく山が醍醐山であったのか。僕のところは、日の登る山が醍醐山なのである。5年間の下部支所勤めに歩いた昼のウォーキング大炊平コースが、往復で約3kmであったことも確認できた。それから、ブログに書いたものが改めて活字になってみると、重みを増すように感じられた。拙寺でのこともいくつか本に収録してくださっていた。そんなつもりはないと言われるだろうが、しっかりとせねばならんという気持ちにされたのは確かだ。感謝。

2011年5月21日Saturday 晴れ
ほぼ一日草刈り。
7時15分スタートで墓地の草刈り。今年もまた始まってしまったのだ。毎年毎年同じことの繰り返しだ。10時30分に一旦区切りをつけて、駐車場前の側溝の泥上げをする。集落の環境整備が明日あるが、支所の日直なので出ることができないので、せめて少しだけはやっておこうと。30分ほどで終わり、昼飯前に、先週の続きの緑のカーテンを設置する。シャワーを浴びて頭を刈る。これでよし。昼飯にアクアブルー、非常に旨い。ごろっとなって、うとうとしながら少し休む。2時前に外に出て、プランターに畑の土を入れていると、おー!なんとバイクでパワー忍者現る。ありがたくお酒いただく。午後の風が爽やかな大ケヤキの下で少し話す。焦らずに流れに任せてみたらどうですかというようなことだったでしょうか。同じ思いを持つ者たちのことを、僕は里見八犬伝のようにいつも思っています。出会うべくして出会うということはあると思います。
別れた後、墓地の草刈りの続きへ。とても全部は終わらない。来週に持ち越しだ。今夜はこれから桜座へ山崎ハコを聴きにゆかねばならんのじゃ。彼女の歌う「懺悔の値打ちもない」が今夜聴けるといいのだけど。

2011年5月20日Friday 晴れ
携帯のメールは書くのに困ります。
午前2時16分に携帯にメールが入る。10時頃に床に付いた僕はちょうど、眠りと覚醒の波間で水滴が洗面器に落ちるようなメールの受信音を聞き、気になったのでトイレついで起きて見る。まだこんな時間に起きているのかと思いながら、内容を頭の中に入れて再び床に就く。誰にも同じようなことがあって、それをしっかりと見て通らなければならないんだなと思いながら、頭は冴えてくるばかりだった。
朝になって返信メールをうとうと思ったが、長くなりそうで、携帯メールは打つのが下手なので、一旦PCから僕のアドレスにメールを送って、それをコピーして、貼り付けて返信メールにした。こういう技ができたのかとちょっと勉強になる。
それにしても、携帯のメールという奴は僕には苦手です。

2011年5月19日Thursday 晴れ
ヘキサチューブ。
昨日も今日も一日デスクワーク。単調な仕事を黙々とこなしている。ただ、こういうことが余り苦ではない。回りを気にせずに自分だけの世界に居ることのほうが好きなので。昨日も今日も外は暑そう。室内は適当に風も入り比較的過ごしやすい。下部支所からやってきた同僚は、額に玉の汗を浮かべていた。
昼休みの終わりに、階下の森林組合を訪ね、ヘキサチューブ(植生保護管)を3ついただいてきた。鹿の食害から幼い苗木を護るために開発された、六角形のポリプロピレン樹脂製のもの。これを組み立てて、苗木に被せ、支柱杭で支えるというもの。竹林のさびしいことをたまたま支所長に話していたら、森林組合にあることを教えていただいた。竹の子にこれを被せて、鹿が食べないところまで成長したら、また別な竹の子を覆ってやれば、新しい竹を護ることができる。森林組合でも、上部機関から普及用に貰ったものだからと、快く無料で分けてくれた。今年はこれですこーし竹林を保護できるかもしれない。

2011年5月17日Tuesday くもり
真竹。
午後から一転して曇り空になり、午後2時半頃に急に風と激しい雨になる。雷もゴロゴロゴロゴロと鳴る。やがて上がったが埃洗う雨。終業後に仕事の打ち合わせとなる。
今年はモリアオガエルの産卵はまだ認められない。竹林は、獣たち(サル、イノシシ、シカ)によってなんだか年々林の勢いが薄れていくようだ。竹の子の頭を食べられてしまうので、新しい竹が育たないのだ。こんなに獣の害がひどくなかったときには、真竹の生えてくる頃が待ち遠しくて、女房と楽しみにした。それから、最盛期には採っても採っても明くる日には新しい竹が地上に顔を出し、勿論一夜にして2.3メートルに伸びた竹は、その年の青竹として新緑の季節に映える姿を誇ったものだ。ここ何年かは、家族が食べたり、友人などに届けたりする分すら確保できないのである。先代が亡くなった頃には、まさに竹薮となってしまい、僕一人ではどうにも管理しきれないような姿になり、竹は、外へ外へと、生息範囲を広げてもいたので、檀家の人たちの協力も得て、竹の間引きをしたり、食べもしないのに、伸びた竹を、夕方帰ってから30分ぐらいかけて刈り倒したりもした。だから、今の竹林はちょっと僕にとってはさびしいのである。中腹に獣避けの柵が張られたので、今年は、竹が生えるよう期待したいところだ。

2011年5月15日Sunday 晴れ
天気よく法事一件あり。
11時から法事。僕も今日は夏の衣にする。網戸から入る五月の風が気持ちよかったが、この薫風を口をふさいで避けなければならない放射能の飛散の危険にさらされている地域があることをもどうしても思ってしまう。心底楽しめないというか。そんなことも法事の終わりにお話させてもらった。昨日、緑のカーテンを台所の南側に準備した。今年は去年支所のカーテンを見ていたので、朝顔だけでなく、キュウリの苗も買ってきてプランターに植えた。畑なぞしたことはない。トマトの苗も二つ買ってきて、今日プランターに準備して野竹で支柱もこしらえてみた。
午後3時過ぎから境内の草刈り。来週は墓地も刈るつもり。また草刈りの夏が始まったなぁ。

2011年5月14日Saturday 晴れ
宗務所長会議に出席。
前日に京都へ泊まり、昨日醍醐派の宗務所長会議に出席をしてきた。先ず前日のことから。午後1時半に身延駅からJRで出発。雨がまた午後からも降ってきていたのだが、京都に着く頃には上がったようで、京都駅から山科へ一駅戻って、地下鉄で醍醐へ。降りて醍醐寺まで歩く。伝法学院に中島君を訪ねるも、諸堂の戸締りに回っているとのことで、会えずに伝言のみを置いてくる。代わりと言っては何だが、准庵さんを呼んでもらって初対面。簡単に彼を知る経緯を話し、一年間の修行が無事成満するようお伝えしてきた。その日はそのまま醍醐を下りて宿泊先の西陣叶屋へ。店主と何年かぶりで再会。泊り客は僕一人とのことで、荷物を置いて近くの店に。雨が少し舞っていて、蒸し暑い夜で、生ビール2杯がすーっと腹に収まる。旬の野菜や川魚を魚に地酒に変える。女主人と震災の話になる。京都辺りじゃ、節電なんて特別に意識がないのだが、曰く、京都は元々暗い街だという。なるほど。それから銭湯に行く。410円払って、1時間ほど風呂を楽しむ。コンビニで寝る前の酒を一本求めて、店主とゆっくり話をしておしまい。昨日は爽やかに目覚め、8時過ぎに宿を出る。また来年も空いていたら、泊まりに来ますと伝えて。10時からの会議には時間があるので山内を散策。こちらも随分と雨が降ったとのことで、晴れた境内の緑がいい季節だった。10時に開会。隣りは静岡宗務所の所長。宗会議員の選挙が告示されたので、30人の宗務所長さん方も、あちこちで小さな塊りとなってなにやら密談風でもあり。僕も早速菓子折りなどをある宗務所から手渡されたりして。管長猊下を迎えて開会。正午から1時間の昼食休みをとって、午後3時に終了。記念写真後に解散。僕はその後の懇親会は欠でそのまま京都駅から新幹線。手土産代を毎年徴収するとのことのようだったが、管長が辞退したので、その徴収予定のお金はそのまま震災の義援金に回そうということになり、結局徴収。でも、その場で瞬時にして15万円ができてしまうのだからな。本山の会議でも、やはり、宗費や教師賦課金の未納問題が出る。本末とも何処も同じような悩みを抱えている。正直な気持ち、活動していようがいまいが余り個人的には関心がなくて、ただ、同じ立場にあるというつながりの中に身を置くのであれば、やはり宗費を納めることぐらいの付き合いはしなきゃまずいでしょう。それができなければ速やかに解散でもするべきじゃないのってのが本音。でもこれは当たり前のことだぜ。夕べもある寺に勢いで電話して、「胡坐かいちゃってるんじゃないですか?」と正直に言うと、「なんだ!」というようなことを言われたが、要はいろいろ詮索されたり、言われたりされたくなきゃ、等しく負担するものは、気持ちよく納めろってことだ。「私は僧侶ではなく、一介の農家ですから」ってのは、宗教法人を持っていることを十分に承知していながら生きている人間がつぶやく言葉ではないと思いますがねぇ。

2011年5月11日Wednesday
雨だ。大量の雨が降った。
外はまだ降っているのかわからんが、一日この時期には珍しい大雨が降った。朝から樋の詰まりの解消なんぞもしなければならなかった。雨が心配になっていたのは、明日京都へ行くのに、雨だと雪駄では履物の役目をしないなと、少々苦々しく思っていたのだ。京都伏見区の天気は明日の午後は弱い雨で、明後日は晴れマークが出ている。明日の朝にもう少し天候が回復している状況であって欲しいもの。改良服と白衣をバッグに詰めた。それから往復の電車用に、随分と久しぶりにipodにDLしたACID MATHERSなんかの音を取り込み中。先日ブックオフで買った高村薫の文庫は今日1冊読んでしまったので、1冊しか持たないがまあきっと読みきれないだろうし。夕方帰ってきてから、それでも時になって頭を刈った。少しだけ短くなった。晩飯後に、組長さんから、集落内で不幸のあったことを知らせる電話があった。葬儀は不在中に行われるよう。定期検診で病院へ午後行く。次は胃カメラを飲んでみましょうといわれ、断る理由もなくそういうこととなった。3月までは火曜だったが、新年度になって担当医が水曜に移り、随分と午後の外来も混雑していた。院長の診察曜日はきっと混むのだ。

2011年5月10日Tuesday
初給料。
雨だったが、気温は上がった一日。雨のある本堂で夕のお勤めをする。雨で外が落ち着いているのでいい法螺貝が吹けた。湿り気があったほうが僕は法螺貝の鳴りがいいように感じる。太鼓もあまり乾いた感じより、いくらか湿気を感じさせる音が好きだ。
娘は勤めを一ヶ月過ごし、今日初めての給料を貰ってきた。臨時職員なので、日給の積み重ねだけれど、それでもこれだけのまとまったお金を貰うということは初めてのことだ。今の時代は支給明細だけなので、現金を手にする感激のようなものはないかもしれないが、それでも帰ってきて真っ先に女房に見せ、それから夕食時に僕にも見せてくれた。就職難の学生時を過ごし、今回の大地震で、さらに現役学生には厳しい時代になるかもしれない。正規採用となることを目指すが、他者をも思いやれる気持ちを持ち続けて欲しいと思う。

2011年5月9日Monday 晴れ
ウグイス。
ここのところ朝に夕にウグイスの声がとても近くでよく聞こえる。わざわざ近くまで来てくれて、その自慢ののどを披露してくれているようで清々しい気持ちになる。歳を取っていくということは決して悲観することではないのかもしれない。花を愛で、鳥の囀りに耳を傾けると豊かな気持ちになれる。いやいや、でもまだ55に成らんとする歳であるからこんな風に考えるのかもしれない。80歳の母は、週2回デイサービスに通い、医師からも高度認知症であるというお墨付きを貰っているにもかかわらず、息子の僕が疑うのも変だが、適当に使い分けているように思うときがある。日によって、脳の働きに天候の変化のように晴れがあったり、曇りがあったりするのかもしれない。はっきりとしなくなっていく状況というのはどんなことなのか?経験したことがないのだから、おそらく母にもこういう状況に変化していくということはうまく理解できないだろうし、到底説明なんてできないに決まってる。
明王寺ご住職から、祭典のときに終了後皆で撮った写真が送られてきた。本来なら僕が皆さんに送らなければならないのだろうが、わざわざメッセージまで添えてくださって。よい仲間に支えられているのだの思いがさらに強くなる。ありがとう。

2011年5月8日Sunday 晴れ
甲府へ行く。
午後1時過ぎからの所用のため甲府へ。朝から気温が上がりそうな好天気。用事の前にブックオフへ寄り、CDや本を漁る。何枚か気に入ったものをゲット。京都往復用に高村薫の文庫本2冊買う。読書熱がほとんど冷めてきてしまった。ここには書けない密談をする。お寺の未来はあまり開けていないようである。都会も田舎も10年か15年したら同じような悩みを抱えていますよと。そうなのかなぁと思いながら帰ってきて、夕方の勤行の場所に坐れば、できるだけ今だけ見つめながら生きていくしかないなと思うのであった。

2011年5月7日Saturday くもり晴れ
網戸入れる。
午前中はちょっと雨が降ったりしたのだけど、椎茸となめこの菌を植えるにはちょうどいい天候で、水を少しかけた後林の中に仮伏せをした。午後晴れてきたので、修験の衣を陰干しして、手と足の爪を切って、風呂を洗い、やってしまおうと発心して網戸を入れた。パット・メセニーを聴きながら、客殿・庫裏・住居と、ぐるりと網戸を入れた。風もなく穏やかで、網戸にした室内を何か幸せが舞っているような感じがした。まだまだ予断を許さない状況だと、原発のことも、それからまだ大きな地震が来るということもいわれているが、午後のいっときのしあわせを感じてしまった。重い気持ちばかりでなく、こんな風に、遊んだり、音楽聴いたりしながら気分転換を図ることは絶対に必要なんだ。夕方、K屋三姉妹弟が、境内の外れに花水木を賑やかに植えてくれていた。少し話をした。花の話は心が和む。緑化計画着々進行中。

2011年5月6日Friday くもり
今日も谷間の一日。
朝出かける前にどうしてもやってしまいたくなって、昨日池の端から掘り出したサツキを鐘楼の傍に移植した。ほとんど枯死しているような状態だったので、掘り起こしたら、瘤のように巨大化した根が現れた。緑の葉の付いている枝のみを残し、あとはのこぎりで切り落とし、池で根を洗って、畑の栄養のありそうな土で植え替えてやった。生きる場所が復興していくような願いも僕の心のどこかにあるのだろうか、祈るような気持ちでサツキの再生への植え替えをした。
椎茸1000駒、ナメコ500駒を森林組合で買う。時期が遅いでしょうかと問うと、組合長が「まだ大丈夫だよ、うち(組合)でも今日も植えてるよ」と言ってくれた。明日頑張って植えなくちゃ。

2011年5月5日Thursday 晴れ
小淵沢へ行く。
行きの高速はずいぶんと空いていて、アウトレットの駐車場もまったく混雑なく入れた。娘女房と1時間ほど別れ僕は花を見る。去年はウツギなんかを買ってきたが、今年は奮発してシロミツバツツジと、もう1本別のミツバツツジを買ってきた。去年のようにおまけにチョコレートコスモスをもらえたが、先日たくさんもらっていたので、なかったキャラメルチョコレートを2ポットもらってきた。帰りエルクに寄る。店内はまだ減灯していた。中二階のギャラリーには、被災地を撮った写真が掛けられていた。災害復興への道のりは長いな。力入れ過ぎずに、僕たちは僕たちにできることを続けていけばいい。自分の生活に重きをおくことはもちろんだ。のんびりとできた一日でよかった。帰ってきて、植樹。こんなことがとっても楽しくなってきた。ここでいつまでも暮らしていきたいな。

2011年5月4日Wednesday 晴れ
風少し強い日。
暑いくらいの気温になる。椎茸菌をもう少し植えたいと欲が出て、10時からの法事の前に、裏山に行ってほだ木になりそうなのを15本ほど下ろしてくる。汗びっしょりで7時半過ぎ。なめこと椎茸と、もう一袋ずつ植えられそうだ。種菌は金曜日に買うことにして、午前午後と精を出して穴だけ開けてしまう。Wさんとこの位牌の開眼供養。旧い位牌をまとめたということで。午後1時からはSさんとこの屋敷神さん「三國院」のお祭り。法螺貝を吹き、神仏混交の経や祝詞をあげる。毎年のことなのだが、赤飯やたくさんの供え物を皆袋に入れて持たせてくれる。今日も精一杯稼ぎました。身体は疲れているけど、いい連休になっている。

2011年5月3日Tuesday くもり
椎茸の植菌をする。
今日は一日曇り日で、暑くもなく過ごしやすかった。休みの日の怠け心を我慢して早起きし、お勤めを済ませ、本堂の掃除。護摩壇の掃除と荘厳。これでやっと本堂の内陣外陣ともお祭り前の状態に戻った。客殿の外にスピーカーを出して、MMWなんかかけながらチョコレートコスモスを植える。午後からは、椎茸となめこの菌を女房と植えた。なめこの種菌は成長し、いくつかなめこの姿になり始めていたので、今日のタイミングをはずさないでよかった。なめこを9本、椎茸は11本植えることができた。椎茸は今週の休みまでにもうひとつ種を買ってきて植えてみようと思う。獣除けの柵が張られても、猿が集落に表れないという保障はないので、椎茸の管理がうまくできるかどうかわからない。檀家の人たちの中でも、「猿は電柵だって、慣れてしまえば越えてくるに決まってる」という見方の人のほうが圧倒的多数だ。今日は一日よく稼いだ。気持ちよく疲れた。

2011年5月2日Monday 晴れ
連休谷間。
5月2日。出勤前に少し片づけする。それから外の便所も掃除する。今日の出勤はなかなかに僕の仕事の関係では重要な一日であったのだ。月曜の休館の門野の湯へ券売機の売り上げの集金に行く。入湯税を確定して伝票処理する。臨時職員の4月賃金を処理する。シルバー人材センターへの報告もする。一日忙しくこんな事務をしながら過ごす。今日は弁当を持たず、あずみ野へそばを食べに行く。思ったとおり、ゴールデンウィークなので、月曜でも店は開いていた。セリそばを頼むのをうっかりして、結局天ざるを食べる。昼の店は混んでいた。
さあまた明日から3日間休み。

2011年5月1日Sunday
五月。
お祭りが終わって少し呆けたようになっている。片付けもなかなか進まない。昨日は翌日ということもあり、まだ少し祭りの興奮もあった。天候が荒れていて、昨日も今日も風が強く、今日は午前中から雨交じりの風が吹いた。28日に宝竜寺の葬儀の助法をし、今日も正午からの葬儀の助法になった。不動寺の永啓が相棒を勤めてくれた。宝竜寺ご住職の叔父さんに当る人であったため、牧丘の上求寺の親子も参列していた。葬儀終えて帰り、午前中の続きで片付けをする。やっと少し元に戻ってきた。今日は日曜日なんだと、「江」見ながら確認。明日一日いってまた休みになる。休み中に法事が2件ある。大全開での解放にはなかなかならない。

2011年4月29日Friday 晴れ
祭典当日。 4時過ぎに起きる。伸びていた足の爪を切ってから庫裏の風呂場で頭を刈る。中島みゆきを聞きながら。シャワーがじわーっと体にしみこんでいく感じが心地よい。お勤めを済ませ外に改めて出てみる。静かな朝。今日は雨の心配は無用。風さえ吹かなければいいと思うのは贅沢な要求かもしれないな。朝飯を食って、ウンコも出て、これから不動尊祭典の一日の始まりだ。
8時前から檀家の皆さん集まり、それぞれの役割の中で動いてくださる。甲府からも4人ほど。ありがたい。檀家の皆さんもこの祭典が大聖寺の檀家であることの誇りでもあるのだ。いい天気で、きっといいお祭りになる。

2011年4月28日Thursday 晴れ
祭典前日。 前日夜からの雨が明け方の4時前に上がる。だいぶ降った。8時前から護摩を焚く。終わってからその護摩壇にヒノキの葉を被せる。今年は気合を入れてヒノキの枝を下ろしてもらったので十分な量がある。11時半に仕事をいったん終えて、西嶋の葬祭ホールへ宝竜寺の葬儀の助法に向かう。不動寺の住職すでに着いている。会場を確認し遺影を見る。高校の同級生である個人の面影がよみがえる、まさに彼だ。暑い日になり、叔父は夏衣だった。葬儀を終えて控え室に戻ると、宝竜寺のご親戚のMさんが今息を引き取ったという知らせが入る。そういえばMさんとは昨年に秋に船橋のSさんを連れて伺ったときにお会いしていた。夜になって、5月1日葬儀が決まった連絡が入った。12時からの争議の助法にまた行くことになった。
本堂の護摩壇を新しく整え、お札を再び30本ほど書く。夕食をはさんで、10時ころまで何やかんやで忙しくする。よい祭典にしたい。

2011年4月27日Wednesday くもり
大風吹き荒れる。 朝、明日焚く護摩の準備と当日の準備。書き物もする。朝から風強く、それから暖かい。今夜雨になる模様。当日降らなければいい。境内のサツキもだいぶ花開き始めた。新緑というにふさわしい葉の輝きがある。どうやらモリアオガエルの営みも始まっているようである。
出勤後の午前中いっぱい春の嵐が吹き荒れた。もの凄い風だった。お昼を過ぎて女房に電話をしたら、本堂は閉めたとのことで安心。帰ってくると、ケヤキの枝が境内に大量に落ちていた。
今朝新聞のお悔やみ欄を見たら、夕べ宝竜寺から電話のあった葬儀は、僕の高校の同級生のようだ。この名前には覚えがある。横浜とか川崎とかで亡くなった故人を早川の実家に連れて帰ってきたところだとかいっていたな。明日は祭り前日。休み。

2011年4月26日Tuesday 晴れ
お別れのメッセージ。 スーちゃんが病室で吹き込んだらしいお別れのメッセージをNHKニュースで聞いた。震災の被災者(地)への思いやりからはじまり、もう自分の命の時間が少ないことを明かすように「本当に長い間お世話になりました。幸せな、幸せな人生でした。心の底から感謝してます」と語り、キャンディーズの二人の仲間へも言葉をかけ、「いつの日か、妹、夏目雅子のように、支えて下さった皆さまに、社会に、少しでも恩返しが出来るように復活したいと思ってます」と結んだ。息苦しさがこちらにも直に伝わってくる。こういう生々しいものに触れるのは、いつの何だったろうかと思い出せないくらい久しいものであった。
キャンディーズは、僕の年代のアイドルだったよね。一番下のスーちゃんと僕は同学年だった。いま生きている僕からしたら、「早すぎる死」ではある。女優田中好子の「黒い雨」はいつだったかテレビで見て、スーちゃんは女優になったなぁと思った記憶がある。
今夜は気合を入れて準備を進めた。娘にも女房にも手伝ってもらって。かなりいいところまで進んだ。ホッとしたところに、宝竜寺から「葬儀の助法を頼みたい」と電話。28日だというので、祭りの前日なので忙しいといったが、何とかならないかと請われて、不動寺の叔父と引き受けることにした。案外こんな風に、忙しいときに重なるものである。

2011年4月25日Monday 晴れ
天気好し。 早起きしてお勤めの後、お札を書く。今朝は少し冷え込んだ。今(7:35)は陽が昇りあたたかくなってきた。金曜日の祭典までいよいよカウントダウンといったところか。今週、余震などが起こりませんように。
ケヤキの青葉がまぶしいほどで、青空に映えている。
(20:00) 5月13日に醍醐派の宗務所長会議の案内が来た。前日に行かなければ10時の開催には間に合わないので、泊まるところを考えていたら、あった!。「素泊まり:西陣叶屋」知り合いの営む宿である。連絡を取ったら、お待ちしておりますとの返信メールが届いた。五大の湯葉でも手土産にするか。これから4年間は毎年行くことになるので、たのしみでもある。

2011年4月24日Sunday 晴れ
祭典準備。 8時から檀家の人たち来てくれて祭典の準備。幟を立てる。今年は五色の吹流しはやめとする。護摩の松明は毎年こだわりを持って作ってくれるもの。大きな松明が2本できた。シメも折ってもらうが、これはなかなかこちらが指導しても勝手が違うようでいっこうに上手くできない。これは僧の分野のものなのかもしれない。予定通りに午前中の11時前には解散。後は当日竹を採ってきてもらって護摩道場の準備のみ。八日市の準備も天候が回復して賑やかに。やはりこれを中止する気分にはなれないのじゃないか。一年の楽しみでもある。他所の祭りが自粛している分だけ、大勢の人に来てもらいたいと思う。
午後からは諸準備。山へ椎茸のほだ木も担ぎに行ってきた。フジザクラ、ウンゼンツツジを挿し木する。円崎さんに貰った桃の苗を植え替えする。女房が買ってきたアジサイを、陶製の鉢に植え替える。風が強くて、プラの軽い鉢では何度も何度も倒れてしまったので。

2011年4月23日Saturday
よく降った、雨。 朝から止むことなく、自信満々の雨が降り続けている。この雨は大地に本当によく浸み込むぞ。昨日柴燈護摩の下準備をして大正解だった。
一日室内の寺務。お札を書く。得度式の部屋のレイアウトなど考えてみる。じっくりとお札書きに臨めば、気持ちが安らいで落ち着いた気分になる。
大雨の一日が終わろうとしている。夕のお勤めをして僕の一日はおしまい。

2011年4月22日Friday くもり
護摩壇準備終る。 午前中休みをもらって準備をした。天候が早まっているようで、檀家の皆さんに手伝ってもらう日曜は晴れマークに変わってきた。それでも明日が雨なので、雨に濡らしたままにはおけない。今日は今日の価値があったわけだ。速やかに済んだので、その後札書き。やっと書き始めた。週間天気予報に、祭り当日の29日の予報表示が出てきた。「曇り時々晴」。降らなきゃ百点だから。27日が「曇り時々雨」になっている。護摩壇をヒノキの青葉で覆うのは前日か当日朝。日曜に本堂脇に下ろしてもらっておけば何とかなるだろう。

2011年4月21日Thursday くもり
週末が雨になりそうなので。 日曜に檀家の人たちに準備をしてもらうのだが、どうも天気予報がよくない。昨日の夕方墓地の杉林に行き、杉の葉を拾った。今朝もちよっと早く起きて、お勤めを済ませてから杉の葉を拾い、護摩の道場に集めてブルーシートを掛けた。雨のないうちに乾いたもので護摩壇の下組みだけ作ってしまいたい。週末だけのにわか坊主はこれだから、天候によっては泣かされることがある。
(20:00) 午後4時くらいだったか、切石で火事との連絡が入り国道沿いの民家だということがわかった。国道が渋滞しているという情報が入り、帰りは下山に入ったところから車は渋滞。上沢の交差点に警察官が出て切石地内は通行止めとなっているので、甲府方面への車を下部温泉川に誘導していた。僕は「八日市場」までだということを伝えそのままは知る。八日市場の国道はUターンできない車で完全に麻痺状態であった。娘のほうも帰宅時間にちょうどに指示まで足止めされたようだが、僕がちょうど帰り着いて電話入れたら、「解除になったからそのまま行く」と返事があり、僕より20分ほど遅く6時半過ぎに帰ってきた。風のない日だったからよかったものの、今の時季は風の穏やかな日のほうが少ないのだ。幾分天気がくだり気味なのが、風を吹かせなかったのだろう。隣家への延焼などはなかったというし、家の人にも怪我などはなかったという。
週末が雨になりそうなので、明日の午前中の休みをもらった。

2011年4月19日Tuesday 晴れ
雨で潤う。 夕べからの雨が朝少し残り、午後からは気温上がる。誇りっぽい境内が雨で落ち着いて静かになった。本堂の中も掃除した後で、雨で湿ってくれてよかった。一層新緑が映えて見える。
昨日、E崎さんから桃の花の苗をもらった。紅が濃くてきれいだ。鹿に食べられないように大事に育てたい。獣避けの柵が寺の裏山には、すでに2メートルの高さには張られているので、鹿避けにはなっているのではないかと思う。というかこの効果に期待したい。食害に遭った桜の苗もけなげにしたから新しい芽吹きがあるものもあり、これを大切に育てるのが僕の役目なのだ。

2011年4月18日Monday 晴れ
海老原君来寺。 外で体を動かすことは厭わないのだが、室内に居て何かを始めることにはなかなか頭が切り替わらない。まだいい、まだいいとささやかれているような気がしてしまう。実はまだお札を1枚も書いていない。休日は外の準備やいろんなことが優先するので、平日の夜に書けばいいやとまだずるを決め込んでいる。
土日外仕事をして、裏山を何度も上り下りし、ほだ木も担いだので今日は午後もう眠くて仕方がなかった。下の階に入っている森林組合で椎茸菌となめこ菌を購入。お祭りが終って連休に道具を喜田の姉さんから借りてきて植えるとしよう。
夕刻に海老原君来る。カメラマンの初めての写真集「光と影-阪本博之写真集」持ってきてくれる。被写体の阪本は、元東洋太平洋ライト級チャンピオン。今は、ボクシングジムの会長をしながら、彼自身が育ってきた、全国の養護施設を訪問し小さな後輩たちの支援をしている。海老原君はその活動に参加しているカメラマンでもある。久しぶりに会い地震の話など交わす。

2011年4月17日Sunday 晴れ
祭りの準備など。 朝から檀木作り。一段落して、参道脇に除草剤散布。山に入り、また何本か椎茸のほだ木を担いでくる。桜も切ってあるので、これにはなめこ菌を植えたい。風があって、花粉も相当量舞っているのだろう、昨日今日と外にいる時間が多いので、くしゃみ連発で鼻水も流れ落ちる。目も痒い。メダカには花粉症なんてないのだろう、元気に泳ぎ、粉餌に競って群がる。
夕方勤行の後に、本堂があまりにも埃っぽいので、掃除機をかける。散った桜の花びらも一段落した。本堂が観音扉なので、開けておくということは風がそのまま吹き込んでくる。庫裏や客殿のように開き戸ではないので、扉は一枚板だし、閉めておけば完全に来山者をシャットアウトということになってしまう。経机も畳も板張りも埃で真っ白。回廊は花粉で黄色。
祭りが近づく。

2011年4月16日Saturday 晴れ
今日もジェイ・アラートあり。 10時半頃から裏山に上がって、椎茸のほだ木になりそうな木を物色しながら運ぶ準備をしていた。女房の撞く11時の金が聞こえてから暫く経ったころ、防災無線の始動音が聞こえ、「大地震です」とジェイ・アラートによる緊急放送。林の中に居たのだから、揺れがあれば当然感ずるはずだが、まったく揺れていない。揺れないのに「大地震なので避難しろ」というのでは困る。おそらくこれによってかなりの混乱や心的不安を招いているのではないか。止めてしまえとはいわないが、もう少し地域を絞り込んでとかいう風にならないだろうか。
メールや電話がかかってきた、祭典にお手伝いいただく僧侶方から。前讃頑張りますというものもあった。おそらくもう久しく前讃など歌い上げたことではないであろうと想像するのだが、でもまあ、こういうときにね、思い出してみるってのもね。祭典の日には、発心してついに修験得度するKさんの得度式も朝のうちに行うことになっている。少し忙しくなるが、忘れられない祭りになるはずだ。滝本院ご住職が都合により来られなくなった連絡はちょっと残念ではあったが。
柴燈護摩の木の準備など一日する。今年最高の気温になり、夜は久しぶりにアクアブルー飲む。

2011年4月15日Friday 晴れ
残念といわせてもらいましょう。 隣町じゃ、ゴールデンウィーク中の目玉イベントで山菜祭りを中止にした。自粛したということだ。町長は「祭りを楽しむ状況にない」として、予算450万の中から百万円を救援金とすることにしたのだ。
僕の寺の祭典にあわせて、地名の八日市場の由来ともなった地域の祭り「八日市」は例年どおり開催する。今年の区長さんもかなり悩んだようであったが、寺は「八日市がなくてもやりますよ」の姿勢であったので、花火などはやめて例年どおりの開催に準備中だ。昨日新聞折込のゲラ刷りを見せてもらった。被災地へのお見舞いが書かれ、震災被災者への支援コーナーも設けられる。区民から遊休品を募り、売り上げを日赤を通して被災地へ届ける予定だ。寺でもここにいくらかでも協力をするつもりである。勿論寺では、犠牲者を追悼する供養もする。
過度な自粛はいかがなものかなどの議論がなされているが、僕が住む地区は自粛をよしとしなかった。僕はこれはこれでいいと思う。
隣町の中止に関してことさらに思うこともないが、知り合いからは、「山菜祭りが中止になったことで、集落の夏のイベントを中止せざるをえないかもしれない」と聞いた。若い衆が山菜祭りに毎年参加して、その売り上げでもって集落のイベントを開いていたのだという。みな繋がっているのだ。金額の多少を言うわけではないが、この山菜祭りを毎年楽しみにしていた方々に募金箱を設け、売店などの売り上げがあれば、案外百万ぐらいの救援金は生み出せたかもしれない。あくまで他者を思いやっての「楽しむ状況にない」はわかるが、国道が交通渋滞を起こすほどに盛会な山菜祭りなら、僕は十分に被災地復興の支援イベントに成りえたのではないかと思っている。いささか残念ではあるが、5月3日、自動車の渋滞のないのだけはありがたい。
ぜひ、「八日市」のある不動尊祭典にはお出かけください。

2011年4月14日Thursday 晴れ
こんなふうにしたいと。 今年の祭典を「祈りの祭典にしたい」ということだけを、毎年お手伝いに来てもらっている寺院へのハガキに添え書きしておいていたが、あの日以降いくつかの寺院の春の祭典に出させていただいて、僕の中でもこれは何かしなければいかんという気持ちになってきた。何日か考えて、本堂での護摩法要は、いつものようなお加持をやめにして、読経を中心とした追善法要とすることにした。次第を作り、今日各寺院に発送した。後は当日の一発勝負である。
娘が勤め始めてから、朝食の時間が早くなり、出かける前の時間にだいぶゆとりができた。書き物ができたり、本も少し読めたりする。夜は彼女の帰りを待つので、晩飯は以前より遅くなったが、これまた待つ間を寺務に使うようになった。
被災地からの転校生への差別的ないじめがあったようで、子どものことだから、幾分かは仕方のないことかもしれないが、周りの大人がしっかりと双方を見守り教え導いていかなければいけない。

2011年4月13日Wednesday 晴れ
竹の歌。 中島みゆきの「日-WINGS」というアルバムを録音したMDを2月の終わりからずっと朝聴いている。庫裏の風呂の脱衣所に古い小さなコンポを置いていて、頭を刈るときや、毎朝の洗面に意識的にこの場所を僕が使っているので、ここにもいろんな音楽を無造作に置いてある。このアルバムの1曲目に「竹の歌」がある。地震があってから、妙にこの歌が気になってきて、毎朝聴くのはこの歌と、せいぜい2曲目の「NEVER CRY OVER SPILT MILK」くらいなんである。「私がなりたいものはといえば 地下に根を張る あの竹林」「私が住みたい国はといえば 地下に根を張る あの竹の国」の歌詞が沁みこむんである。この歌を聴きながら、萩原朔太郎の詩「竹」もよみがえってくる。「光る地面に竹が生え、竹が生え、地下には竹の根が生え」と続く。思い出したのは、誰かに聞いたのか、何かで読んだのだったか忘れてしまったけれど、地震が起きたら、竹林に逃げれば安全だということだった。地下に縦横に張り巡らした竹の根によって、しっかりとその場所は護られている。当分、他の音楽に入れ替えるつもりはない。毎朝、竹の歌を聴くともなく聴きながら、その日一日の安全や安心のことを思い、余震の収まる日の来ることを願うのだ。

2011年4月12日Tuesday 晴れ
J-ALERT(ジェイ・アラート)。 今朝なんだか嫌な予感がしてたんだ。出勤して間もなくいきなり防災行政無線が「大地震です」と流れた。全国瞬時警報システム「J-ALERT」により、国からの緊急情報が自動起動して流れたのだ。広報誌などで周知はしてあるものの、かなり驚いた。「大地震」の割には揺れを感じなかったからで、揺れていない状況に警報音がして、「大地震です。大地震です」と3回流れる。町中一斉に、外にも、家の中の子機から流れるので、これは極度の不安に襲われること間違いなしだ。揺れていない現実に「地震がくるぞー!」という放送が流れるのだからな。一体この島国はこれからどうなってしまうんだ。関東以北の本州の住民の不安はいつになったら安眠できるのだ。とにかく祈るしかない。

2011年4月3日Sunday くもり
醍醐の桜。 醍醐寺からの桜の中継をBSでやっているので録画した。今年の花見は中止になったようだが、花が咲かないわけではない。どんなことがあっても春桜は咲くのである。わが寺の桜も満開のものがあったり、咲き始めのものがあったり。墓地の老木も満開だ。去年の4月中旬に買ってきた「フジザクラ」が小さな花をつけた。フジザクラはあまり大きな気にはならないようだが、小さな花がそれは可愛らしい。このフジザクラだけは、鹿の食害に遭っていない。
せっかくの日曜なのに今日は陽が出ず、花冷えの寒い一日だった。川原へ野竹を取りに行き、柴燈護摩の幣串を作った。少しずつ準備に入る。頭を刈り、その後、庫裏のトイレの掃除。これでここはお祭り当日までよし。
醍醐の桜を見ながら、花見で一杯だ。

2011年4月2日Saturday 晴れ
春真っ盛り。 久しぶりに朝ゆっくりと起きてお勤め。よい天気。エドヒガンザクラは満開だ。午前中の早い時間に二組境内の散策者あり。芳名帖には千葉県の住所が記されていた。どうせ身延山詣での途次を立ち寄ったのであろう。メダカの瓶の水換えをした。20数匹が元気に冬を越した。今年の夏はここで繁殖してくれるといいのだが。花の写真をたくさん撮った。土筆も顔を覗かせている。いい季節と陽気だ。こんな生活をしていると、つい被災地のことを忘れがちになる。祭典に祈願する大きな木札を書いた。物故者の追悼と早期復興の願いを込めて。余震のテロップがなかなか絶えない。震度3とか4とか。何にもできないここからは祈るしかないなぁ。

2011年4月1日Friday 晴れ
4月1日、娘は社会人としての初日。 息子がまだ学生のバンカラを装うっているので、よくやったわが娘と、臨時職員としての就職ながら、このご時勢、立派なものだと僕は心に涙している。帰ってきてから晩飯。女房は手巻き寿司としゃれ込んだ。僕は金曜の夜なので、松鶴院からいただいた葡萄酒を飲み続けている。
役場も年度の初日。なんとなく慌しく一日が過ぎた。それと毎年のことなのだが、「
宗教法人の備付け書類」を県の私学文書課に送付。宗教法人大聖寺は8000万円を超える法人の所得はないので、毎年用意しておいて、4月1日を待ってこの書類を送ってしまうのだ。言っておくが「ハッセンマン!」だぜ。僕の寺は僕に生活するための給料を支払うことができない。であるから、こうして役場勤めをしているわけだが、でももう、僕はこの一年をもってこの「どちらのことにも申し訳ないような思いのする」生活に終止符を打とうと考えている。地震の後、余計にそのことを強く思うようになった。僕は自分自身に素直な生き方がしてみたいと思っている。

2011年3月31日Thursday 晴れ
だらしなく弱く息している。
西村賢太「随筆集 一私小説書きの弁」読了。李良枝(イ・ヤンジ)「石の聲」読み始める。「苦海浄土」は本を買ったので、返却する必要がないので、いま、部屋のテーブルの上にどっしりと座っている。僕はこれを今のところ読み進めそうにない。短いもの、余り考え込まないようなものを少し読んでから、読み終えようと思っている。地震の後、すっかり本のページが繰れなくなった。なぜかと考えていたのだが、これはきっと誰にもわかるように、僕の心にも大きな災害の発生が重くなっていたことは勿論だが、どうも僕の場合はそれだけではなかった。福島原発の状況を毎日ダンボ耳で聞いて、さて一体どうなるのだということから頭が離れないのだ。最悪の事態に陥っている現場の状況が、さらに、取り返しのつかないもう誰にもわかるような極悪の結果となった場合にも、結局僕たちは、「あーやっぱなっちまったんだ」くらいにしか対応のしようがないんだ。そんなことを日々考えていると、水俣病のことを読み進むことができない。
この年度末の今日はいつもの年とは明らかに違う。木曜が明日、金曜になるというくらいの感覚でしかない。明日就職する娘の気持ちとはぜんぜん違うものだろうけど、不安な時代ではなくて、不安な毎日ということだ。就職の氷河期であったり、会社を解雇されたり、社会がこんなにも落ち込んでいるのに、天(カミ)は容赦なく命や土地や財産を奪う。何を啓示するのであるか。朝本堂でお勤めの後に、太鼓を打ちながら般若心経を唱え法螺貝を吹いている。この祈りは僕の気持ちの打消しにはつながらない。だらしなく弱く息している生き物で。

2011年3月30日Wednesday 晴れ
黒衣。
年度切り替えが迫ってきたので、なんとなく職場の中もガサガサとしている。支所長はまもなく定年退職となる。ホントウなら先週の夜に、送別の会を盛大にする予定であったが、こういう世の状況であるので自粛して、終業後お弁当を取ってささやかな送別の会をもった。弁当は相当に豪華で、僕には酒がないのはもったいなぁという思いであったが全部平らげて、帰りには支所長からのお土産までいただいてきた。
2月のはじめに京都へ頼んであった冬・夏用の黒衣が届いた。もう僕が衣をつくることなどないと思う。護摩を焚くときに、着る褊衫と修験の衣が、火の粉でくたびれてくると作るとは思うが。黒の衣は、だいぶ昔のホントの墨染めの衣しか持っていなかった。父は僕よりだいぶ背が高かったので、お下がりは僕には大きすぎる。直して着るって方法もあるのだが、直しの手間賃を考えると、買うのとそんなに変わらない。黒は、これからの檀家の葬儀の通夜に着用しようと思っている。黒は原点に戻る色だと思う。大事にしたい。

2011年3月29日Tuesday 晴れ
マイ・ペース。
息子が正月以来の帰宅。山梨大付属病院に、中学1年の時の腎臓病の判定が最近の医療でわかるようになってきたからということで、かつての主治医に検査をしてもらうということがあり、一泊だけでまた大学に戻っていった。僕は30分ほど奴の顔を見て、少々の会話をしたのみであった。「ティッシュペーパーが売ってないので、買って送って欲しい」との事であった。なるほどそんな風になっているのかと、この現状を思い、「トイレットペーパーはどうだ?水はあるのか?」と訊くと、どちらも店にはあるようだ。トイレットペーパーがなかったら、大学の便所のを持ち帰って使えと、僕の学生時代のことを話した。
一応家族ということなので、山梨からは一人暮らしの彼を心配はしているが、当人はそれほどのこともなく、いたって普段どおりである。もう7年目の大学生活を終えようとしているベテランの為せる落ち着きと、マイ・ペースで自己の学究生活を送っていることだろうと納得したのである。
帰ってから話を聞くと、検査をした結果も良好のようで心配はないとのことであった。いくらか医療分野に身を置くので、当時の主治医とも遠慮のない会話をしていたとのことであった。この辺りは親に似た阿呆ものであるとしか言えない。

2011年3月28日Monday 晴れ
不動寺葬儀助法。
月曜で朝から支所は慌ただしかったが、11時から休みをもらって叔父の寺の葬儀に行ってきた。もう気持ちが決まっているので、休むことに大きなためらいはなく、幾分開き直りとでもいおうか。土曜に電話をもらったときには計画停電が予定されているので、少し時間を遅らせてはじめるかもしれないと伝えられていたが中止になっていた。今日はずいぶんと気温が上がった。車の中も、涼しいエアコンでも入れたいようでもあった。叔父。副住職とも大震災の話など。高野山派の動き始めの事なども情報として聞く。うちにも今日本山から電話があったが、「山梨の宗費が納まっていませんので、年度末ですから早めにお願いします」というものであった。まあこれも大事だろうが、なんとなく肩透かしの連絡のような気分になった。

2011年3月27日Sunday 晴れ
玄法院祭典。
甲府:玄法院の春の祭典に行く。甲府へ買い物に行きたいというので、初めての長距離ドライブに同乗して。今朝も冷え込んで外の水道は凍結。やっと出かける前に水が出る。甲府も寒い。新住職の入山も兼ねてのお祭りで、いつもの年より醍醐の僧が多い。震災のことがやはり一番の話題になる。心をひとつにして柴燈護摩の法要をする。終わって僕は飲めたので、日本酒をゆっくりといただく。帰りの途次でエルクに立ち寄り、店の中で法螺貝を吹かせてもらって、お客さんにも災害復興への祈りの連帯を訴える。店は明かりを減じているが、買い物に訪れる人たちにも、不思議とこの店のオーナー夫婦や従業員の気持ちが伝わっているようだった。3月の最後の日曜をよいお祭りで過ごした。わが寺の祭典もこのようにしっかりと務めなければならない。

2011年3月26日Saturday 晴れ
節電。
身延山の桜の問い合わせが10数件あった。春の足踏みが止まってしまって、後退しているかのような冷え込みの日が続いている。当然、身延山の枝垂桜も遅れている。電話の向こうで「あーそうですかぁ」と、いささかがっかりしたような声がいくつも聞こえてきた。
外は冷たい風が一日吹いていて、僕も寒い事務室で暖房も遠慮して、お祭りの案内状や檀家への準備の通知などを詰めたりして過ごした。
不動寺の叔父さんから、月曜に葬儀があるので手伝って欲しいと電話があり、何とか行けそうだと返事をする。被災地じゃ、身元確認も葬儀も行われずに、広い空き地に棺に納められた死体が土葬されていると聞く。
電気をできるだけ消費しない生活を、僕らはこれから本気になって考えていかなければならないだろう。深夜のテレビの放送なんて必要ないんじゃないか。起きていたい奴は、ビデオでも借りてきて観たらいい。NHKは今の時期、早く深夜の放送をストップすべきだ。だいたい、どれだけの国民が深夜のテレビを必要としているのか。24時間やってる必要なんかないよ。僕の家族だって、多分見るのはせいぜいトータルで2時間か3時間くらいのものだろう。でも意外と、寒いのって着込んだりして我慢できるけど、暑いってのは辛抱できないんだな。去年の夏は、熱中症で亡くなったというニュースを何度か聞いた。「今年の夏はエアコン使わないで過ごすか」と話すと、家族は渋い顔をした。訪ねてくる檀家からも、「お寺は天井が高くて広くて、涼しいでしょうね」とよく言われるが、家族の住居は一般住宅なので暑いときは暑い。庫裏や客殿も風は通るが、それでも風の凪いだ陽の盛りは何処にいても暑い。要するに、ひとつだけ居間にあるエアコンに涼を求めたいってことになる。でもまあ、この状況がどうなるかわからないけど、節電には努力するさ。

2011年3月25日Friday くもり
レベル6。
今朝も非常に冷え込んで、外の水道は凍っていた。
福島第一原発が相当に深刻で危険な状況だ。今日調べたら、福島には第二原発含め10基もの原発があって、一番多く建っていることを知らなかった。清志朗が「サマータイムブルース」で歌ったときには37基だったものが今は51基に増えている。歌どおりに増えてきたわけだ。心配な声、危ぶむ声に「ニホンの原発は安全です!」と貸す耳なくきたわけだ。んでこの事態だ。作業員2人が被爆して病院に搬送されたというニュース。国際評価尺度で大事故にあたる「レベル6(大事故)」に相当するという。チェルノブイリが最悪のレベル7(深刻な事故)で、スリーマイル島がレベル5(事業所外へリスクを伴う事故)。最悪に到達することもありうるかもしれない。事故処理に当る現場作業員の方々の安全を祈るのみだ。ただ、このように被爆事故が起きている。命に関わる事故が起きていることを思えば、これはレベル7までの猶予があるのではなく、もはや事はレベル7なのである。
それから個人的に思うんだけど、夕べのニュースでも、葛飾区のカナ町浄水場からの水道水に含まれる放射性物質の濃度についてなんだけど、会見する側でも、飲んでも大丈夫という意見と、もう2、3日は控えた方がよいというように意見が分かれる場面があって、これを聞く側の僕たちにも、このことに凄く敏感になる者と、政府の広報どおりに受取る者がいるだろうから、これはもうその本人の理解に任せるしかないのだろうと思っている。
吸ったら、飲んだら死ぬよという即効性の劇薬とは異なるということだけは確かなようだから。確かにこれによって都市が混乱し、今一番それを必要とする場所に欲しいものが届きにくくなるということは憂慮すべきことだ。僕も今後はこれについてできるだけ、個人的な見解は書き込まないようにする。

2011年3月24日Thursday 晴れくもり
満月の夕。
今朝も随分と冷えていた。昨日から夜に雨で、今朝の周りの山は白く変わっていた。外の水道の洗面器の水が凍っていた。役場の放送で、曙地区をまわる町営バスが、雪で路面が凍結したため運行を休むとあった。冷えて凍って曇って、すがる腕を自然は振り払うよう。
ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬の歌「満月の夕(ゆうべ)」が公開されている。彼の初アコースティック・ソロ・アルバムのために1月に録音されたものだという。この歌は、阪神大震災の際、多くの被災者の心を慰め、テント村に暮らす人たちや支援するボランティアを元気にした歌だ。
今日の午後の停電は回避された。休業中の温泉施設を土曜から再開しようと施設の職員と打ち合わせをした。帰りがけに、懐中電灯が欲しいといわれコメリに行ったが、予想通りなかった。発注しても入荷する数が少なくすぐに売切れるようだ。小さな電池は棚にあったが、単一、単二の電池はやはり一つもなかった。東京にはもうペットボトルの水が売っていないようだ。世界最大級の大都市がパニック陥り始めた。いくら大人や普通の子どもが飲料する分には基準以下で問題ないといっても、目に見えぬ放射能が体内に吸収されて蓄積していくかもしれないことを、どの位の普通人が冷静に判断して行動できるだろうか。昨日甲府の小瀬体育館に短期避難した福島からの家族は、「もう戻れないので、山梨で仕事を見つけ生活していけたら」と話していた。これが現実なのだ。厳しい現実だ。変わらぬ祈りを続けるだけだ。
3月11日以降、実は本がほとんど読めなくなってしまった。開いても読むことに集中できない。結局「苦海浄土」は返却した。Amazonに注文をした。昼休み久しぶりに図書館に行き3冊本を借りてきた。始まってしまった統一地方選。都知事選も告示。一体どれくらいの都民がこのことに関心を向けるだろう。マイクを握る候補者が哀しく見えてしまったのは僕だけじゃないだろう。

2011年3月23日Wednesday
二度目の夜の停電となる。
今朝天気が良かったが、午後には冷たく曇り始めた。夜には予報どおりに崩れた。今日は町内の小学校の卒業式であった。被災地でも、卒業式や高校の合格者の発表などが映されているが、家族を失ったり、卒業式の主役が不明であったりすることも伝わる。
昨日は、従姉の家族が珍しく全員集合で彼岸の墓参に来たと聞いた。その息子二人はそれぞれが意中の大学に合格をした。これほどめでたいことはない。受験生活から解放されたつかの間を楽しんでいるのだと思うが、多分この息子二人は「遊ぶ」ことを知っている。遊ぶことを知っている強さが受験生活をも支えてきたのではないかと、勝手に僕は想像している。
今夜第5グループの計画停電は予定通り実施となり、2度目の夜の停電となった。午後7時ちょうどに電気が消え、今夜は前回より20分ほど早く8時40分頃に点灯した。前回は朧月の満月の薄明かりがあったのだが、今夜はもうホントに真っ暗な小雨降る闇夜だった。僕は祭典用の矢に色紙を巻きながら、女房娘と話をした。「一人で東京で就職することになっていたら、随分と不安だったな」とか、「きっとお不動さんが帰ってこいと教えてくれたんだよ」とか。東京都の水道水に微量ながら放射能汚染が認められたという。飲んでも安全だというが、飲んで安全なら控えなさいとはならないはずだし、点灯した後のニュースを見たら、都は明日、大量のボトル飲料水を供給するというじゃないか。僕は職場でも、帰ってからも話した。「もう、被災地にペットボトルの飲料水は届かないよ」と。まさにその通りのことが都内では起こっていて、あっという間に、店の飲料水が売り切れ状態になっているらしい。一体どうなっちまうんだろう。原発は安全だと言い切って、政府も広報してたじゃないか。東電だけの責任ではなく、この国の政策が取り返しのつかない過ちを犯したというこの現実だ。キヨシローも彼岸の墓の下で嘆いている。

2011年3月22日Tuesday
まとまりなんてつくはずがない。書くことも無のような。
数日前から池で蛙が鳴き始めている。春の生の営みが始まっている。雨の一日となる。ここの雨は耐えられるが、被災地の雨を思うと切なくなってくる。自然というものは、どんな状況におかれていようが等しい厳しさを示してくる。
境内の桜も早いものは咲き始め、エドヒガンの枝垂れももう開きたくてむずむずしている。晴れて気温が上がれば一気に開花となる。父が植えて去年初めて花をつけた枝垂れも、今年はその花が明らかに増えて蕾だ。楽しみの春を僕は味わいながら、花を見てそのすがすがしい祈りを被災地に送りたいと思う。
町では、昨年春に廃校になった小学校の校舎を被災者に解放して受け入れる準備を始めた。被災者の当面の生活を支援はしていけるだろうが、被災者が元の町に戻って、以前と同じような暮らしを取り戻すことまでの図を僕には描いてみることができない。失ってしまった人の命は戻らない。欠けた家族が手を携えながら、家を再建して生活を始めていくことまでのことを支援し続けていくことはできるだろうか。正直僕にはその流れの図を描いてみることができない。ここに祈りの儚さがあるのだろうか。書くことさえ重く辛くなってくる。今はまだ、そこまでのことは詮ないこととしてよいだろうか。こんなとき学校の教師は、児童生徒にどんな風に指導するのだろう。聞いてみたい。

2011年3月21日Monday
彼岸法要する。
午後になって冷たい雨になった。彼岸の法要をする。檀家3人来寺。でも十分。はじめ一緒に唱和して、理趣経で終わる。お茶を飲みながら地震の話する。送り出すと本堂で真言を唱える声がするので行ってみると、Kさんだった。職場が移動になったことなど告げられる。きっとよい行者になるだろう。イチゴをいただいた。彼岸で墓参の檀家などからもいただき物が多い。ありがたく頂戴して、余分にあるものは訪ねてくれた方にまた分けたりしている。足るを知る心でありたいものだ。なんか心が落ち着かなくて、「苦海浄土」進まない。返却に時期が迫っている。返すと暫くは同じ本を貸し出してはもらえないのだそうだ。4100円とちと高いが、持っていてもいい本のような気がしている。
Johnny Winter、Third WorldのLiveをDVDにダビングしたり。女房と娘は救援物資を下山中体育館に届けた。町長も居たそうだ。皆が同じ気持ちになっている状況。

2011年3月20日Sunday 晴れ
午後風強し。
午前中に法事一件、午後一件。昨日の護摩の後片付け。春の強い風が本堂に吹き込むので、経机も埃で白い。掃除機をかけ拭き掃除をして気持ちよくきれいになった。
11時から小林家の法事。法事後にお話をして墓参。22年前の故人の葬儀のとき、墓地の桜が満開だったとお嫁さんが話してくれた。僕は覚えていない。この老桜がこの時期に花を付けるのは珍しいことかもしれない。
午後2時に後山の墓地で遠藤家の法事。風の強い墓地で、皆さん待っていてくれた。地震で、人形ケースが落ちて割れたと聞いた。ここでもお話をさせていただく。被災地ではないが、皆さんよく話を聞いてくれる。気持ちがひとつになっている表れのような気がする。
夕方になって雨が舞ってくる。

2011年3月19日Saturday 晴れ
祈りの護摩を焚く。
午前中W家の七七日忌の法事。震災の影響もあり、身内だけの法要とすることになっていたが、弟さんも会社の都合でくることができず、結局7人が来寺して、位牌の開眼、七七日忌の法要、墓参をした。午後昼食後に本堂で護摩を焚いた。亡くなった被災者を供養し、余震などが沈静化し、早期に復興が始まるよう、被災した方々の健康と心の安寧を祈願した。福島原発が予断ならぬ状況にある。放射能汚染が始まっている。僕はこの報道を見て聴いているだけだが、福島に暮らす人たちにとっては命にかかわる深刻な問題だ。畑の作物も既に数値が人体に影響を及ぼす数値になっているらしい。厳しい。だから原発はいけないんだということを今言っていても始まらないので、僕は、原発が最悪の状況に進まぬよう、不動明王はじめ、宇宙をつかさどる大日如来、弘法大師、すべての神仏に願う。祈りの結集で原発事故の拡大を抑えよう。山梨からできるのはそれくらいだ。現場でいのちを賭して働く皆さんに、神仏の安全なラミネートが施されていることを祈念しましょう。とにかく、祈りの結集です。

2011年3月18日Friday 晴れ
彼岸の入り。
今朝もグッと冷え込んでいて、外の水道は今朝も凍っていた。被災地で暖房のままならぬ人たちのことを思いながら祈りの勤行をする。春の彼岸の入り。
今日は、八田の長谷寺の観音祭りに呼ばれているので休暇。夕べ頼まれた塔婆を2本書き、歴代の眠る墓地、無縁墓などに参る。父・祖父にもこの状況を報告。寺をしっかりと天界より護ってほしいこと。この島国の落ち着きと、原発事故の収束を願った。
今日はまだ墓参の人も少ないだろうが、寺からのメッセージなどを各所に張った。明日明後日と法事が続くので、お話しすることも考えたり。帰ってきてから外の作業を少しして夕のお勤め。終えた後、扉を閉めるときに、参拝録をみると、隣町のMさんのお名前が記されていた。「あー、今日彼もお不動様に参拝して、祈りを捧げてくれたのだな」と。
小さな祈りかもしれないけどね。それしか今のところ僕のできることはないかもしれないので。
もう間もなく、第5グループの計画停電実施の時間になる。午後6時20分からということだ。幸い蝋燭だけはたんとある。蝋燭の灯りで今日の酒を飲む。

2011年3月17日Thursday 晴れ
山梨の南がこんなに寒いんだからな。
被災地は雪が降っている。身延も日中は風が冷たく、南巨摩ってくらいなのに随分と冷え込んで寒かった。県からの支持で、温泉の源泉箇所に異常がないか見回りに行ったのだが、ぴゅーぴゅーと風が吹いて、空は曇天。風花が舞ってきてもおかしくないような天気だった。被災地で暖房も思いのままにならない避難所に過ごす方たちのことを思えば、「なーにたいしたことはない」と頭ではわかっていても、我が家ではやはりストーブ、エアコンを稼動させてしまう。
変な書き方かもしれないが、もう僕の生活の中では、停電になるとか、なるといっていたのにならなかったとか、そんなことに一喜一憂している。被災地に思いを馳せようにも、余りにもそのことが大きすぎて、悲しみや、祈りの気持ちまでもが、寄せては返しているのだ。
ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン師が、フランスから緊急メッセージを被災したこの島に送ってきている。http://www.higan.net/news/2011/03/post-5.html
私たちに、「彼らが我々の中で美しく生き続けれるように生きるの」だとメッセージしている。亡くなった人たちをこの世に戻すことはできないので、その分を私たちはこの世にあって、しっかりと生ききるということなのでしょう。僕の“生ききるということ”は、やはり祈りの日々を重ねるということにあると思います。

2011年3月16日Wednesday 晴れ
夕べの地震。
夕べはもう寝ようと布団に入ってちょうど寝入り端だった。揺れを感じ、瞬時に、こりゃ尋常じゃない感覚が走り飛び起きた。一瞬停電後すぐに回復、女房と娘が台所から走ってくる。女房は相模原のアパートの息子とちょうど電話中だったらしいが、会話中に双方で「来た!来た来たー!」と言っているうちに切れてしまったとのこと。最初の揺れは前回よりも短かったが、何度も余震が続いた。これはただ事ではない、いよいよ東海沖地震の本丸に来たかという感覚になった。すぐに庫裏から客殿と見回る。幸い落ちたものとかはなかった。前回落ちた位牌堂の位牌も無事であった。今朝お勤めで、本堂の不動明王の厨子を開けて、像の無事を確認しお勤めした。大きなちからで列島を護って欲しいと祈願した。祈りの結集を!
携帯はまたもや“×”で、しばらくしてかかってきた息子とも話したのだが、インターネットのmailやブログ、ツイッターに書き込みをするのが、確実で早いような気がすると伝えた。
昼休みに、県内の醍醐末寺に電話をして被害はないか確認を取った。特段の報告はなく、夕べの地震での被害はないことがわかり、一応本山醍醐寺にもその旨を報告した。でも、さらに大きなものが来るかもわからないのだ。覚悟をしながら、気をつけてしばらくは過ごしたい。
今朝はとてもやさしい穏やかな朝だったが、午前中遅くから突風が吹き、普段なら、春先の強い風として、さほど気にもならないのだが、なにやら不吉な風のように思えてしまった。今日、身延には地震はなく終りそうである。

2011年3月15日Tuesday 晴れ
思わぬ影響が。
今朝職場に地元の区長から電話があった。今回の災害を受けて、今年の「八日市」開催を区では、もう一度協議しなおそうと思っているが、寺の考えはどうかということであった。この突然の電話の内容にちょっと僕も予想していなかったことだけに、一瞬戸惑いがあった。それでも、一応そこで伝えておいたことは、「区のお祭りとしての『八日市』の開催の如何を問わず、寺としては、今度の災害の犠牲者の魂を鎮め、早期に復興するための祈りをするのも私たちの務めなので、不動尊祭典を取りやめることは考えていない」である。
その後、帰ってから檀家総代を訪ね意見を聞いた。皆一様に、「そりゃあ、お不動さんのお祭りを中止する必要はない」だった。僕の気持ちも伝えると、「いくらかでも、復興のための義援金が届けられるような祭りにしたらいい」とまで言っていただいた。嬉しかった。それから、区長を訪ねると、彼もまた、こちらと同じ意見であった。花火なんかはやめにして、支援にまわしたいと考えると。
娘は大学からの引き上げ荷物が届いたので、女房と忙しそうだった。僕は時間があったので、本山のホームページを参考にした被災者及び復興支援のメッセージを印刷・パウチして境内に貼り出した。

2011年3月14日Monday 晴れ
花を見る。
朝、檀家のWさんより電話が入る。今週末に予定しているお母さんの七七日忌の法事を、家族のみで行うことと変更したいとの連絡であった。遠方のご親戚もあれば、この事態であるので、それもやむを得ないだろうと僕も承知した。
花を見たいと思った。花の萌える時期になりつつある。紅梅の古木にも花がつき始めた。花を愛でるゆとりなどないといってしまえばそれまでだが、花を見たいと今朝無償に思えた。人間とて、花木とて、その生きているということに関しては等しい重みがある。花びらには無償の慈愛がある。足を止めて花を見よう。足を止めて花を見よう。
東電の計画停電が実施されるということで、町民からの問い合わせなどに対応するため、今日は7時まで職員は庁舎に待機した。果たして本当に停電になるのかと思いもしたのだが、突然バシッと消えた。庁舎の非常用電源が稼動して再び電気は点いたのだが、薄暮となりつつある外は明かりが消えた。特別な混乱もなく、予定より早く電気が再び流された。時間は1時間10分だったらしい。節電に努めながら、僕にできることをしようと思います。祈ります。花を眺め、清らかな気持ちでもって祈りを続けます。

2011年3月13日Sunday 晴れ
鎮魂の護摩を焚く。
午前11時半に市川の西光寺着。檀家の皆さんなども既に席に着いていて、すぐに昼食をいただく。「えらい早いなぁ」と思ったら、やはり地震の影響で、いつもより祭典の時間進行を早め、花火や音楽なども控えたとの事。ご住職の挨拶にも、地震の被災者のために祈りを捧げたいとあり、こちらもまさにそんな思いであり、助法していただく松鶴院、瀧本院のお二人も同じ思いであった。柴燈護摩の法要を通して、秋葉明神、不動明王に我らの思いを託した。
娘は予定通りに大学の寮を出て帰宅した。卒業証書は後日大学から郵送してくるということであった。ささやかに、卒業祝いの乾杯をした。災害が起きて、息子からも頻繁に女房には連絡があるようだ。しばらくの間、燃料や物資の供給が滞ることが予想される。まさかこんな深刻な状況になるなどは、予想もしていなかったわけだ。

2011年3月13日Sunday 晴れ
地震のこと以上に福島原発が心配、今のところ安全なんて言葉に騙されないで。
今朝のサンニチを見ると「避難の3人被爆」とあり、第1原発の作業員証言として、「間違いなく危険。漏れているというより放射能が飛んでいる状況」と表現している。
ネットのNHKニュースには、「福島第一原子力発電所から半径20キロ以内にある双葉町からバスで避難した住民9人が被ばくした」とある。それから、「東京電力の福島第一原発3号機では、原子炉を冷やすために水を送る装置が止まり、別の手段でも炉内に水を送ることができなくなりました。このままの状態が続くと、原子炉の中の圧力が高まり危険な状態が続くとして、東京電力は原子力災害対策特別措置法に基づいて国に対し『緊急事態』を知らせる通報を午前6時前に行いました。」と、さらに深刻だ。落ち着いた行動は必要だが、「今のところ安全です」みたいな騙し文句を真に受けていたらいけない状況ではないかと思います。外出の際の防備を慎重に。
生活が複雑になった分だけ、こういう状況になると、失うものが多すぎて、失ったものに依存していた分だけ、這い上がれない状況に陥ってしまうかもしれない。でも、考えて行動してきた生き物ですから。

2011年3月12日Saturday 晴れ
地震早く鎮まってください。
子どもたちへの連絡はケータイでは取ることができなかった。夕べ遅くになってから固定電話からかけたら繋がった。息子はアパートに戻ると、コップがひとつ落ちて割れていたほかは特に大きな被害もなかったようだ。指導教授に帰りがけに「食糧備蓄をするように」といわれたそうだ。大学では窓ガラスが割れたりしたという。相模原も地震の影響は強かったようだ。娘はちょうどその時間、卒業式のリハーサルをしていたというが、結局大学側の判断で、本来なら今日行われるはずの卒業式そのもが中止となった。寮に入っているので、帰れなくなった学生たちが皆寮に非難して、結局朝方まで皆で話し込んでいたということらしい。これも思い出だね。家族に被害はなかったのでこれはこれとして、凄いことになってしまった。あの阪神淡路大震災以来の大きな被害になり、死者行方不明者とも、まだまだこれから増えるのではないか。ここに居てできることは、沈静を祈ることのみである。
テレビを見ていれば、それで一日が終わってしまいそうで、午前中から外に出て、クリスマスローズを地におろし、紅梅と、桜の古木の下に、畑から肥料となりそうな土を運んで穴を掘って埋めたり、ぐるりを見回り、樋の外れている箇所を応急処置したり。明日の西光寺のお祭りへ行く準備をしたり。
本山からも電話があった。山梨の末寺にどこか被害を受けたところはありますかと。今のところそういう電話はないのでホッとしている。明日の柴燈護摩には、地震を鎮め、災害に遭われた方たちのための祈りを込めたい。

2011年3月11日Friday 晴れ
外、水道凍る。
まったく天気予報はよく当たる。夕べ「明日は冷え込みが厳しい」と言っていたが、まさにその通り。寒くて寝ていられない朝になった。寝相が悪いのかもしれないのだが。からだを横向けにして寝る癖があり、どうしても掛け布団をお腹の側に引き寄せるから、背中に隙ができて、冷え込む朝方には余計首筋から背中側を寒く感じるのだ。仕方がないので起きてしまい、顔を洗って本堂でのお勤め。夕べ帰ると電話のあった従姉夫婦の弾む声を持って、厨子の中に座るお不動様に報告。「きっとお礼参りに来ますから」と。
苦海浄土。夕べ第二部を読み終わり、今朝から第三部に入る。三部が一番長いようだ。解決の糸口がつかめずに年月を晒し者のように生きてきた患者やその家族のことを思えば、本など毎日一ページでも繰ってゆけば必ず閉じることができるのである。水俣病に侵された人たちには、その生も死も、決して帰結することなどないのであるから、果てなく揺らぐ永遠の旅なのかもしれない。その事実を知っておくことこそ、僕たちには必要なことではないか。
昨日、大阪・愛知・岐阜で4人の命を奪った3人の被告に最高裁は上告を退け、3人の死刑が確定した。去年の夏からたくさんの本を読み、死刑に関する本も何冊か読んだ。その中で、森達也氏の本の中に、彼らを取材した内容があったように覚えている。先ずはじめに悔いが出ることはない。立ち止まって考えてみることができたらいいのだが。僕だっていまだにそうだ。犯行当時の平成6年、19、18歳だった青年たちはいま30代の半ばを越え、懺悔と祈りを繰り返す日々の生活の中で、明らかに犯行当時とは変化してきている。今年に入って2月のオウム事件の土屋被告、3月に入って強盗殺人の熊谷被告と続けて死刑が確定した。それで昨日だ。殺すことに無情だった者たちが、獄中で温い心を取り戻すと、いつ来るとも知れぬ執行の日に臆病にならぬはずはない。死刑囚には、刑の執行をもって刑が完結するのである。刑期ではなく、服役ではなく、その日を部屋で待つ日があるだけである。未熟な僕が言葉にするのは恥ずかしい、せめて穏やかに祈りのときを送らせてあげたいと考えれば、それには死刑という制度はまったく似合わないのである。
彼らとて、深く納得して死刑を受けいれるのではなく、この国にその制度が厳然と存在し得ることを否応なしに呑み込まされての受け入れなのだと考える。決して被害者のことを考えないわけではない。事件を考えるとき、被害者というのは明らかに存在が薄い。僕たち第三者には、被害者に関する情報はほとんど知らされることはない。でもそれは当たり前のことで、例えば、通りすがりに被害に遭うとか、無差別な事件であれば、被害者の職や人格などというものは不必要であると思えるからだ。それに反して、加害者の側の情報は、生い立ちから犯罪歴まであらゆることが、本当から嘘までウイルスのようにばら撒かれる。その被害者のことを考えていくのは、忘れないで生きていくのは、家族であり、友人たちであり、そのことに最も真摯に向かい合わなければならないのは加害者なのである。

2011年3月10日Thursday 晴れ
サクラサク。
気温が上がって日中は天気も良く暖か。町内は、中学校が卒業式。何か報告あるだろうと、昼休み本を読みながらケータイを横に置いておくと、待ち人よりのmailが入る。「サクラサク」。世間の桜が開花する前に、内なる炎を燃やし続けた受験生に桜が微笑んで開花した。帰宅後すぐ、夕暮れ間近な墓地に、線香を持って眠る伯父伯母に二人の孫の春の開花を報告した。伯父伯母が驚喜して踊念仏のように、墓の下から飛び出してきそうな寒々と逆巻くような気配を感じて早々に庫裏に駆け戻った。
もう一つ、従姉からの連絡mailの後、下田逸郎さんに連絡を取った。6月19日の寺でのliveやりますと。「DVD送るから、また連絡取り合おう」ということで、とりあえずlive開催が決まった。
もうひとつ。今日は息子の誕生日である。彼ももう25になった。この歳をまだ学生で居ること、私たちの脛を齧り続けながら勉学していること、世間的にはどう見る(見られる)のだろう。それでも、何とかなるうちは何とか後方支援してやろうというのが“親ばか”なのか。女房と笑いながら、今夜はいい酒を飲んだ。

2011年3月9日Wednesday 晴れ
塔婆1本、夜書く。
今朝も寒さは厳しく、車庫のない女房の車は、フロントの覆いも外してあったので、今朝は完全に凍てついていた。昼間は暖かくなるのだが、朝の寒さはなかなかに厳しい。朝の寒さが影響したのだろうか、檀家ではないが、寺の竹林と沢を挟んだ側にあるSさんが倒れているのが発見されて、結局亡くなっていたのだろう、夜になって、組長さんからそのことが伝えられた。死の世界へ引き込んでしまう冬が今年の冬の顔だった。情け容赦のない自然界の裁量だったのだな。
冷え込みの厳しすぎて雪も降らない冬。情け容赦ない悲しみの連発に涙さえも出てこない。非力であり、防衛力にも欠ける人間の雨粒のような存在。
今夜、高台の家の夫婦は、互いに声を潜め、明日のその時間のことを、釣れるともない魚のために日がな一日糸を垂れるような曖昧模糊とした気持ちで居るのだろうか。お前のことが好きだ、よくやったと頭を撫でてやって、そんなことが確証につながっていかないことが、こんや僕は無性に哀しい気分である。

2011年3月8日Tuesday 晴れ
こういう人に今からでもなれるだろうか。
4時半前に起きる。雨も上がり今朝はあまり冷たさは感じなかった。「苦海浄土」読む。なかなか進まない。読む人なんてのは無責任だが、これを書き続けてきた石牟礼さんを考えてみると、寝転がったり、読みながら眠ってしまったりしながら、ぼちぼちと読んでいるこの怠惰を恥ずかしく思えてくる。ようやく半分に手が届きそうなところ。分厚い本は人の歩みのようにその成果が著しく現れない。積み重ねということの象徴のようなものか。
飯富病院の長田先生の往診を通して、「家で死ぬ、看取る」というテレビを見た。以前にも放送があったが、奥さんが亡くなった後、ひとりで家で生活を続けていた元高校教師S先生の亡くなるまでの記録に追加編集されていた。S先生には高校で数学を教わった。教えられても僕には数学の知識はまったく芽が出なかったが。自分の意思で死にゆくことはそう簡単ではない。医師と患者。「お盆には家に帰れるようにする」、「もう帰らなくていい」。死にゆく者を看取る者と死にゆく者の、互いを思いやる尊厳があった。僕もこういう僧侶になりたい。

2011年3月7日Monday
寒い。
霙が降っていた。去年の徒然を読み返したら、3月9日の夜に雪になって、朝目覚めて外に出たら、カーポートが潰れていたのだった。だから、雪になってもおかしくはないわけだ。午前中遅くには雨に変わり午後には止んだ。昨日からの啓蟄も、また虫たち地中へUターンだな。
昨日は不動寺の祭典。昨日は天気もよくいいお祭りになった。24回目だといっていたので、ちょうど僕が30のときに叔父さんが始めたのだ。4半世紀が経とうとしている。終ってからゆっくりと飲む。出所同じ人たちというのは気の置けない話ができて楽しい。歳を重ねていって会話が楽しくなる時期なのかもしれない。寺の話やら、お祭りの話やら。玄法院の祭典には、醍醐が結集するかもしれないという話も聞く。帰りがけに、啓君の奥さんからクリスマスローズの鉢を貰う。地におろして育てられるだろうか。ネットで勉強して土曜あたりに、よく観察してみよう。
帰ると、下田逸郎さんからはがきが届いていた。6月19日にLiveやりませんか?と。日曜になるけど、小ぢんまりとこれもいいかなと考え中。はじめて下田さんに来てもらったとき、娘は大学生活に旅立つ直前だった。その娘も卒業だ。下田さんは還暦を過ぎても、意欲的に音楽活動をしている。6月はいい季節だな。

2011年3月5日Saturday 晴れ
七七日忌法事一件あり。
東京からUさん一家お見えになって、奥様の七七日忌と納骨。朝7時に板橋の自宅を出たそうだけど、ちょうど10時過ぎに到着した。午前中は風もなくポカポカといい陽気。でも朝はやはり寒く、外の水道は凍っていた。客殿で経をあげ墓地で納骨。石屋さんに頼んでおいた戒名もすでに墓碑に彫ってあった。ご主人も高齢なので、「何れ私もここに入るのですから」と、幾分かセンチメンタルであった。7月の新盆に伺うと約しお昼前には再び帰っていかれた。春の彼岸の月である。塔婆の申込もぼちぼち。法事の依頼がいつもの年より多く、20日には3件を時間差でこなすことになった。こうしてできるだけ檀家の方たちの思いには誠意を持って応えていきたい。「これが男の生きる道」のような心意気だ。
午後は法事や彼岸の塔婆を書く。ヴァンフォーレ甲府、J1復帰初戦飾れず敗退。どうも毎年出だしが鈍いのだ。お不動さんにやはり願掛けなきゃだめかな。頭を刈って一日が終わり。夕方、玄法院ご住職より、27日の祭典へのお誘いある。

2011年3月4日Friday 晴れ
朝のひと時。
今朝は外の水道を凍らせてしまった。寒くて冷えているのは体感していたが、水が凍ることをもう頭は素通りしていた。馬鹿な春ボケである。お勤めを済ませて居間に暖房を入れ、「苦海浄土」。やっと250ページ。鼻水が唇に落ちてきてもそれを舐めながら、心には大きな涙の泉の湧く思いで、すっかりとその本の中に溺れてしまいながら、わずかな朝のひと時を過ごす。本堂での祈りの遡る場所がこの本の中にあると思う。
結局EPSONのプリンターを買った。昨日の朝注文して今夜届いた。檀家への彼岸の案内はがきが、紙面いっぱいを使う“ノビ印刷”機能が借りているものにはなかった。1万円台なので随分と手ごろな値段になったものだ。値段から先を考えると、5年位の消耗品と考えるということは、「そうかなぁ」と納得できるような気もする。従姉からケータイメール有り。ひとつホッとして、まだもうちょっと気を揉むということ。寒波戻りで、心も風邪を引くのだな。

2011年3月3日Thursday くもり
夜、寺務。
グッと冷え込んで完全に寒の戻り。帰りには雪まで舞っている始末。
晩飯のほうとうが冷えた身体にうまかった。晩飯の後、寺務。5月に本山の学院に入るという、昭島在住のN君の家から届いた書類一式を確認して、師僧となることになったので、署名もしたり、僧名も付けたり。一宮にお寺があるのだが、昨年の2月に前の住職が亡くなり、孫に当るN君が継承する心を決めた。今夜電話を入れると本人がちょうど出たので5分ほど話した。本山へ明日送るために書類を整え、その後塔婆書き。明後日の東京の牛山家の七七日忌の塔婆の追加の連絡があった。ついでに歴代先師と無縁墓に供える彼岸塔婆も書いた。西光寺の祭典用の五大明王の幣を仕上げた。9時過ぎにすべて終了。風呂に入って、これを書いてさてこれから暫しの読書である。
京大他の入試問題を、試験会場からインターネットサイトに投稿した犯人(受験生)が逮捕された。なんとも切ない事件。

2011年3月2日Wednesday 晴れ
寒戻り。
寒が戻ったように昨日も今朝も寒かった。寒さが続くことはないとわかってはいても、ちょっと引き返すと、もう体は強張ってしまう。
今朝のサンニチ1面にも出ていたけど、民主党は名前は出さない方針のようだ。だから昨日の「チャレンジ!」の幟なんだ。黄地の幟が民主党につながるイメージなんて掴めるだろうか?政策に共鳴するものに対して、今は恥ずかしいから名前出すのはよそうなんて、こんな馬鹿にした選挙活動ってあるだろうか。もう間もなく、民主党もまた解体して、二大政党と塵と飛び散った小さな塊が、また揉みあいして飽かずの離合集散を繰り返すのだ。こういう政治を見せられるのは、饒舌すぎる沢尻エリカのコメントに高城剛がこう切り返すみたいな、一番お下劣な芸能ネタと同じようなもんだぜ。水溜り避けながら歩いていて、うっかりベチャッといっちゃうようで、避けた拍子に犬のウンコ踏んでしまったみたいで、なんとも後味が悪い。
ようやく「苦海浄土」だけに集中できるようになり、やっと150ページほど読んだ。今朝読んでいて「
上を見らずに暮らしさえすれば、この上の不足のあろうはずもなか。」という、水俣病の発病した息子、孫3人を抱える翁の言葉が響いた。言葉を見たまま、頭の中に刺さった翁の言葉のままに「上を見らずに暮らしさえすれば、この上の不足のあろうはずもなか。」を観ずる。

2011年3月1日Tuesday
今朝。
車を車庫から出して参道から町道に出るとき、駐車場前の側溝のガードパイプに、黄色地に黒で「チャレンジ チャレンジ」と書かれた幟が揺れていた。スローガンだけで、どういう団体(組織?)のものか不明である。僕のところは集落のちょうど真ん中にある。出勤のために下り、集落を出てもこの幟を見ない。飯富に入って、保育所前で、この幟を立てている人の姿を認めたので、車を寄せて当事者に話を聞く。町会議員の某氏であった。「選挙かなんかですか?」と訊くと、「民主党の」と応えた。「駐車場の前のとこのは撤去して他所に立ててください」と言うと、「ダメけー」と歪み笑いをした。こんな黄色地の派手な幟が、ご本尊の目の前でちらちらしてるのなんて、寺のコンセプトに反すると思った。「チャレンジ」って、何処の団体とも表示せずに「いやらしい」。不快な広告塔や幟や捨て看が多いし、こんな、不明瞭なものは勝手に処分したって差し支えないだろう。チャレンジがことごとく空回りしてるのが「民主党」ね。地方議員を使って、名前も出さずに、「チャレンジ」だなんてこそこそとこのうららかな春先に、不愉快極まりない。
おそらく、田舎議員にゃ、自民だって民主だってどっちでもいいのだきっと。支持率の傾いているほうに乗りたがるって図だ。幟もイヤだったけど、この幟を付け歩いている方も正直余り印象良くなかったのである。

2011年2月28日Monday
二月不動。
日付が変わって雨だ。月曜の朝は気が重い。雨ならなお更だ。5時前に起き傘をさして本堂へ。今朝はいつもに増して天気のせいか暗いし夜明けも遅い。二月のお不動様の縁日。雨の中を大滝不動へ行くのであろうか、K永師は。雨でも今朝はさぶい。今日の日をもう、3年も牧丘に行ってはいない。朝飯に屋根を流れる雨が軒に落ちるのがいつもと違うような気がして、気になって気になって、午前中途中で2時間休みをもらって帰ってきて屋根に上った。特に異常も見当たらなかった。昨日屋根を塗り替えたので、新しくなった分だけ少し今までと違うのかもしれない。気になるといたたまれなくなり、それを解決するか、目の当たりに確認しないと落ち着かなくなってくる。この当たり少し神経が異常に敏感になっているのかもしれない。寺の“ぐるり”が、先代が亡くなってからとても気になる。雨が降っても雪が降っても、サルが屋根に登ってもだ。
2月最後のお不動様の日を、こんな風に、心波立てて過ごしてしまった。仕事もなんか結構5時半ぎりぎりまであったし。「風音」最後をこれから読みきろうと思う。明日は三月。

2011年2月27日Sunday晴れ
新しいアンプ買う。
部屋のステレオのアンプがもう5年ほど前から調子悪くて、右側のスピーカーからの音が途切れてしまっていた。いい時もあるので、買い換えるのを躊躇っていたのだが、買い換えた。金曜に1月の知事選挙の事務に従事した手当てが出た。エーッこんなに貰えるのかという額だった。ちょっとこの手当ての使い道を思案していた。浅川マキの再発された持っていないCDを買いたいと考えていた。未入手分が7枚あった。今回これを揃えなければ、おそらく今後は浅川マキを手に入れることが困難になる。夜女房に相談して、その場でAmazonに注文した。アンプもONKYOのものを一緒に注文した。価格.comで、最低値と1000円も違っていなかったので、一緒にAmazonでいいとした。今日の昼過ぎにアンプとCDが別便で届いた。早速繋ぎなおして、入れてあったパコ・デ・ルシアを聴く。当たり前だが右側アンプの接触不良はない。なーんだ、これだったらもっと早くに買い換えればよかったと。今の電気製品は価格もこちらの頭で考えているよりずっと安い。買い替え前のアンプは8万位したと思う。今度のONKYOのは25000円で、マキのCD7枚も仕入れて、お手当てはまだもう少し残った。「MAKI Y」を聴いている。山下洋輔トリオと作ったアルバムだ。第2期のトリオで、山下、坂田、森山の歴代山下トリオの中で最も凄いメンバーなのである。音も凄いが、風体も凄みがある。そこにマキのボーカルと、稲葉国光のBASSが入る。いいぞ、いいぞーの日曜の午後だ。
午前中は護摩木作り。台所の屋根のペンキ塗りに職人さん午前中来て仕上げてくれる。10時にお茶を飲みながら少し話した。「私は何も知らないですけど、元をたどれば仏教ひとつのところに行き着くそうですね」と訊かれた。ブッダにたどり着くことだろうと思ったので、「そうですね」と応えた。「そうですか、ここは日蓮宗じゃないんですか」というので、「ははぁ?この人は仏教は日蓮宗だと思っているのかもしれない」と少し詮索してしまったが、人の良さそうな人で、時間が有ったら、にわか知識の「自灯明 法灯明」のお話でもして差し上げたいなと思った。お昼前に、M石材さん来てくれて、U家の墓碑へ戒名を彫る件を話す。穏やかでこの方と話すのは好きだ。もっと金儲けになる仕事を回せたらいいがと思うが、何せ弱小寺院なもので。今日の午後はもう外の仕事はするつもりなかったので、予想より早かったステレオのことをやり終えてから読書。目取真俊「風音」を読み始めた。

2011年2月26日Saturday晴れ
PACO DE LUCIA聴きながら。
昼を過ぎて少しのんびりと本を読んだり、CDを聴いている。長谷川きよしから、STUFFに移り、今はPACO DE LUCIAのフランメンコギターを聴いている。窓を閉めた部屋は陽射しが入るのであたたかい。午前中、川原へ野竹を採りに行った。市川:西光寺のお祭りの幣串にする竹。川原は繁っていた雑木がきれいに伐られて広くきれいになっていた。野竹の繁るかたまりだけが原っぱに何箇所か残るだけであった。鉢植えで買った福寿草を5号鉢に植え替えた。外にノートPCを出して、情報を検索しながら作業した。メダカたちも暖かくなると動きが活発になり始めた。はじめてすこーし餌をまいてやった。
集落の中腹を横断して獣避けの防護柵を張る事業、もう木の伐採が始まっている。請負った土建屋さんが、防護柵などを一時的に置かせてほしいということで「いいよ」と駐車場の一角を提供した。早く完成してほしいものである。桜の苗木の哀れな姿を見るにつけ、早い作業の進行と、本当に(せめて鹿だけでも)来なくなればいいと願わずにはいられない。

2011年2月25日Friday晴れ
それぞれの生き模様があり。
K氏からのメールが今朝届いていた。それぞれの生活する時間の中で、それぞれの苦悩がある。これでよいとかいう、確たるものなど何処にも存在はしないのだきっと。因縁による世界に漂いながら、ぷくぷくと成り行き任せなのだ。煩悩から脱することなどできません。
今朝は少しだけ特別な暁天勤行をして、朝食後にさらに叔父叔母の墓にも参った。紅い梅の枝を手折り、少しにおいの強いインド香を持って。もうだいぶ寒さも和らいできたので、墓地に遊ぶ魂の比丘・比丘尼らも、萌え出でる前の、もぞもぞとした蕗の薹の起き出しを、眩しそうに眺めているのであろうか。
叔母の命日は2月19日であったので、「墓参りにも来なくて、こんなときばっかりかい?」と、苦笑する顔が浮かぶようであった。神仏に、先祖に、「イヤッ!聞イテチョーダイッ!」と綾小路きみまろにさえすがりたい。
ニュージーランドの地震で被災した留学青年は、命は助かったが、救出の際に右足を切断したという。躊躇いはなかったかという質問に、「ポジティブに考えてますから」と、気丈にもインタビューに応えていた。土俵際で残った“いのち”という白星を、彼はこれからの長い人生でいつも思うことだろう。まだ多くの未確認者が残る。いのちの刻限が迫る。お不動様の慈悲のお心は既に、ニュージーランドへも飛んでいるはず。ただただ、祈ることのみの山寺である。

2011年2月24日Thursdayくもり時々雨
植物のこと。
雨の降りそうな空模様を眺めながら走り出すと、下山に入って雨が舞っていた。駐車場からの歩きは傘をささずともよかったが。寒さを感じなかったので今朝はダウンジャケットを着ずに出勤した。目取真俊著「水滴」を出勤後に読み始めた。大作(苦海浄土)との併読なので、こちらはさらりと読み進めてしまいたい。
庫裏入口の洗い場のところの紅梅が花をつけ始めた。コンテナに植えてあるチョコレートコスモスの茎から、小さな芽吹きが見られる。順調に育ってくれるかなぁと祈るような気持ちで観察をしている。地におろした二株は、冬越えできたのかどうかまだ未確認。藁を回りに敷いて、ビニールで覆ってある。寒い朝がまだありそうなので、剥いでしまうのを躊躇っている。小さな、誰も知らない祈りである。その二株の横にサンシュユの小さな木が育っている。これも植えたものだが、ぼちぼちこちらも黄色い花の蕾が膨らんできている。2月ももう残り僅かだ。晩飯時に従姉から電話ある。明日の朝はそのことを勤行に祈る。親という、身勝手にセックスをして親になって、今更に子どもの、なんとも容易ならざるを嘆く、生き物なのか。平坦な道ではないことは重々承知していたはずなのに、今更のお馬鹿さんが、僕(たち)なのだ。

2011年2月23日Wednesday晴れ
幾分花粉症状なのだろうか。
長谷川博一著「殺人者はいかに誕生したか」を昼休みに読み終える。昼休み当番だったので、1時間遅い弁当を終えて、読む本がないので、返本がてら図書館に行った。新刊棚の分厚い「苦海浄土」(石牟礼道子著)を手に取ると、ずっしりと重さから“読みたい”感情が引き出されてきて、30分近くをそのままソファーで読み、結局借りてきた。今借りている分があと2冊あるが、ここのところのペースなら並行しながら読めるだろう。
春の風が強い波木井橋を再び渡って戻る。くしゃみが三度出て鼻水が湧いてくる。鼻をかむ。春先のアレルギーに幾分罹ってきたのだろう。僕のは重症ではない。平均以上の人が経験するアレルギーを、いっちょ前に僕も味わという程度である。
「殺人者はいかに・・・」は重い気持ちで読み終えた。事件を起こした本人たちの“ほんとうのこと”を引き出す著者は、弁護側からも検察側からも時には鬱陶しい存在になる。プライドの高い医者からも当然にある。裁判の調書なんてものには、およそ“ほんとう”がないらしい。なぜ、殺人してしまうに至ったのかを掘り下げて検証していくことに対して希薄である。殺人者を殺人者にしてしまう原因が必ずあるそうだ。だからといって、殺人を犯したものを許すことはできないだろう。ただ、この本を読みながら、殺人者側の心理状態を見つめていくことはあっても、殺された側には、例えば道を歩いていただけの人たちだったような場合など、第三者の僕が知るものなどはないのだ。このギャップは何なのだという、もやもやした花粉症のような思いだけは別側に絶えず浮かんでいた。

2011年2月22日Tuesday晴れ
油断大敵。
佐々井秀嶺「必生 闘う仏教」読了。佐々井氏は、初め真言宗智山派の僧として出家し、 その後インドに渡り、所謂仏教僧として、インドの下層階級仏教徒の解放のために活動をしている。既にインド国籍を取得しており、一昨年の帰国が40数年ぶりであったが、多分もう日本にくることはないという。彼の生き様はまさに「闘う仏教」の実践なのである。
僧の生き方も様々である。僕はこの大聖寺に居て、小さい宇宙を僕の持ち場と考えて僧を続けていくつもりである。今朝は4時半には目が覚めて、それから起きてお勤めをしたので、新しい本も50ページほど読むことができた。今朝は少し冷え込みがあった。気がついて庫裏の水道の蛇口も確かめたら、凍結直前だったようで難を逃れた。油断大敵。長谷川博一著「殺人者はいかに誕生したか」を読み始めた。臨床心理士の著者による、凶悪事件の犯人たちへの接見の記録である。しっかりと世の中を眺めていくこと。
八田の長谷寺の小暮住職から祭典の助法のはがきをいただいた。ありがたいことである。今年はなに気遣うことなく伺わせてもらうつもりである。

2011年2月21日Monday晴れ
あたたかい。
「あたたかい」を繰り返すようになって来た。ひと月ほど前は、「さぶっ!」「さっぶい」などと、毎朝本堂に渡る石畳の上で独り言を吐き捨てていた。「あたたい」に越したことはないので、あたたかいということは、特別「あったけー」とか言葉にすることはない。頭の中で反復させるだけだ。もう、水道が凍るようなことはないだろう。真冬が峠を越えたことを昨日の午後に見切ったので、二ヶ所の止水栓を開いた。冷たい凍えが合掌する指を先っちょに上ってくる感覚が一番嫌なんだけど、もうこれもきっとない。今朝は、「夜明けも早まってきたなー」と思った。水色に明けていく空の彼方に金星が光の粒子のように見えた。
メールをチェックする。なんとまあ、あらっ!というような方からのメールが届いていた。春なんだなぁと思えたり、穏やかなんだなぁと拝察したり。

2011年2月20日Sunday晴れくもり
一日作務。
今日はあまり気温が上がらなかった。なのでか、風も昨日のようには午後も吹かなくてよかった。午前中は昨日の続きで護摩木作り。昨日から久しぶりにフェダインを聴いた。これを好きな時代があったんだよね。今も好きだけど。小池龍之介著「坊主失格」読了。続いて佐々井秀嶺著「必生 闘う仏教」に移る。三冊続けて仏教物を読むことになった。全部視点が違うのだけれど。午後、護摩作りの後片付けをして、導師幣と五大明王の幣を作りかえる。昨日買ってきた色紙がちょうど4等分になったので4枚重ねにしたが少し厚くなった。来年は2枚でもいい。時間がかかってしまったので、今日はもうここまで。曇り空になってきて、静かな日曜の終わりになる。そろそろまた法螺貝を吹かなくちゃと、昨日の朝夕、今朝と吹いたのでまた今日もこれから。結構うまくコントロールできて鳴ってくれるので気分は上々。

2011年2月19日Saturday晴れ
細々とした作業を。
台所の天上から雨漏りがしてきたので、檀家の大工のM君に来てもらって状態を診てもらった。何とか彼がしてくれそうなのでお願いをした。朝から一日外に出ていた。大分風が吹いたようで、枯れ木が境内あちこちに落ちていたのを片付け、裏の竹林も見る。雪折れが何本かあり伐って片付ける。東京からHさんのところで墓参に来ていた。直接墓地に行くそのまま車が乗りつけられるので楽なのはわかるが、せっかく来られたのだから、寺側から参ってほしいものだとは思う。午後から久しぶりに護摩木を割る。続きはまた明日だ。それからサギソウを植え替えた。佐田さんから去年の夏もらったもので、鉢の苔をほぐしてみたら、16ほど球根があったので、ふたつの浅い鉢に、鹿沼土を敷いてその上にみず苔を敷き詰めて球根を置き、さらにみず苔で覆った。初めてなのでうまくいくかどうか。何事も経験を積んで上達する。書きながら、朝からのことを思い出すと忘れていたことがまだあった。和紙の里へ色紙を買いに行ってきた。五大明王の幣を作る。和紙の里ができてから、和紙の色紙があそこには豊富にあるので、それだけは重宝している。あと今日やることは夕のお勤めと頭を刈ること。
2011年2月18日Friday晴れ
風吹き、春急ぐ。
事務室の中に居ると、昼休み後の午後の時間は、陽が射して暑いくらい。外は少し風の強い日だったけれど、植物の営みは急ぐと思われた。朝出てきて、幾分陽は伸びたけれど、午後6時は宵の口になっているので、境内を見て歩くのは無理である。自ずと休日の日中が楽しみになる。燻っている人の心だってこの時期うきうきとしてくる気持ちに嘘はつけない。フキノトウがひょっとしたら食べられるかもしれない。サギソウの植え替えをしてみようと思う。図書館に行ったら、どうにも読みたい本のタイトルがあって3冊借りた。それから、池澤夏樹氏の編んだ「世界文学全集第3集」が石牟礼道子氏の「苦海浄土」三部作を納めたものであった。ページ上下組で800ページ近くある分厚い本だったが、借りたものを読み終えたらこれを読もうと決めた。想像だけど、年度の締めくくりにはいい本になるのだと思う。

2011年2月17日Thursday晴れくもり
懐かしく。
和光大学戦中秘話 1971-1975というところを見てしまったよ。僕が入学したのが1975年なので、ちょうど僕が入る前までの和光だ。プラサード書店の槙田さんも和光だった。美麻の遊学舎で彼にもあった。僕が入ったときも、入学式に真っ裸の男が学長の演壇の前を横切ったので、何年か続いていたのだろう。僕も実は高校3年のときに、下山のヨシヒト君の所でマージャンをして酒を飲んで、夜中表に出て国道を真っ裸で走った覚えがある。多分、僕の見たかった和光は、この写真にあるような和光だった。僕は5年通った後半僕は余り大学に行かずに終わった。5年間を通しても余り大学にまじめに通った記憶はない。その分大学を出てから、信州で暮らした一時期がとても大切な風景になった。でも楽しくこの写真を見ることができた。今の時代より貧しかったかもしれないが、他人の匂いを直に感じられるような時代ではあったと思える。
ネルケ無方著「迷える者の禅修業」を読了。個々に深く入り込む禅とイメージを僕が持ちすぎているのか、やはり少し僕なんかの生き方とは異なるような気がする。ただ、禅宗の僧侶も、自坊に帰れば、それほど僕なんかとも違わないような気がするけど。でも面白かった。続いて、小池龍之介著「坊主失格」を読み始めた。

2011年2月16日Wednesday晴れ
僧的寺生活。
今朝はとても冷たく感じられて、4時過ぎには冷気で目が覚め、5時10分ほど前に起床。消え残る雪や、湿った地面が凍てついてそんな冷たさに包まれているように感じられた。本堂も冷たかった。昨日、深沢七郎の傑作小説集4から「東京のプリンスたち」「かげろう囃子」を読み、今朝から借りてきたネルケ無方著「迷える者の禅修業」を読み始めた。日本の山間地の寺の住職を務めるドイツ人の書いた本である。禅に関わる外国人の修行(生き方)はもう僕なんかの目には、奇異に映るような面もある。それだけ純粋さを僕が失ってしまっているということなのか。でも、実際の僧的寺生活というのは、かなり厳しいものがあるんだよね。
先日葬儀をした東京のUさんに宛て、墓碑の件で手紙を書いた。

2011年2月15日Tuesday晴れ
雪折れ。
明け方には雪は止んでいた。東の空に明けの明星が煌々と輝いていた。いつも見てはいるが、今朝は「これはいいぞ」と金星が見えた。やがて夜が朝に変わると、あたたかい一日が始まる予感がした。長靴を履いて本堂に行き、帰って客殿でのお勤めを済ませ、台所に暖房を入れ、再び外に出て、娘に車を買ったので、車庫のない女房の車が外にあるので、エンジンを掛け雪を払った。除雪のタイヤブルが集落の道を歩いてきたけど、除くほどの積雪なんてない。
朝食後に墓地を見に行くと、案の定、雪折れの竹がひどい状態になっている。手が付けられない。休んででもからかわないと起せやしない。そんな時間はない。春の重い雪はこれが一番嫌だ。それでも空は青くて気持ちが清々する。
(20:00) 陽が出て暖かな一日になった。魚住昭著「野中広務 差別と権力」を夕べ読み終わる。1月に借りたんだけど、葬儀があったりして集中して読むことができなかったので時間がかかった。新しい本を3冊また借りてきた。図書館はいい。本を読むにはいい勤務場所だ。それ以上でも以下でもなし。

2011年2月14日Mondayくもり
夕より雪になる。
終業近くから雪が降り始めた。帰りの車では、家に近くになるほどフロントガラスに向かってくる雪粒が激しくなった。雪の帰り道は帰宅の車が両車線とも急いでいるので、いやぁだなぁとなる。娘にも、「雪の日もあるのだからな」と、就職後の通勤の注意を促す。午後8時を過ぎた。あたりはうっすらと白に覆われている。
昨日の梅のほころびが今夜にはまた、きゅっと絞まったのではないかと思うが、たいした降りでなければ明日はまた気温が上がるようだ。竹折れの光景だけは見たくない。
二人の旅行土産の焼酎を眺めて、正月に川口さんからいただいた島美人を飲む。本を読んで早く寝よう。

2011年2月13日Sunday晴れ
暖かな一日となる。
午後1時半以降に伺いますとのmailだったけど、結局来なかった。4時過ぎまで待ったけど来ないので、墓地に行って経をあげ塔婆を納めてきた。墓地はもう冷たい空気になっていた。都合が悪くなったとのmailも来ないし、こちらからの返事が届かなかったということではないはず。慎重ならばもう一度同じ用件のmailをくれてもよさそうだし。おそらくお医者さんなので、来れないような事態になっていたのかもしれない。
あたたかい一日になって、本も読みたかったけど、外ですることが忙しかった。午前中に一升瓶を片付けに行き、エビネを3つ買ってきた。Y電気さんと会い、缶コーヒーをご馳走になった。今日の日和では立ち話がしたくなる。車を上まで上げて、昨日早川に行って泥だらけだったので、思い切って洗車した。まあ簡単な洗いではあったけど、車を買ってから6年目にして初めてこんなに丁寧に車を洗った。
買ってきたエビネを少し大きめの鉢に植え替えた。何事も経験だけど、上手く着いて花開くといいけどな。メダカは、陽が射すと結構動きが活発になる。餌は3月に入ってからでいいとのことなので、もう少し様子見。サギソウの株分けも3月に入ってから。鉢植えで買ってきた福寿草がもう終盤なので、これはさて地に下ろしたほうがいいのだろうか。

2011年2月12日Saturdayくもり
今日も午後までパラパラと雪降り続いた。
気温上がらずに寒い一日。弁当でも買おうかとお昼に飯富まで出たが、そのまま車を早川方面へ走らせ、草塩温泉に入ってきた。東京で寿司店をされていた夫婦が移り住んで営業をしている。当然寿司が食べられる。先ずは腹ごしらえと、上握りとビールを一本。ご主人が何も言わないので、はじめ寿司屋にしては「無愛想だな」と思ったのだが事情が最後にわかった。僕は立ち上がって支払いをしようとすると、最後に味噌汁を飲んでいけと、僕のほうにお椀を見せながら手振りする。ジャガイモの味噌汁がとても温まった。支払いを済ませ「声帯を失くされているのですね」というと、胸の中から人工喉頭の補助具を取り出して説明してくれた。何年かぶりの草塩温泉で、こんなに熱い湯だったっけ?と思った。客は僕一人。46.5度もある。いやぁ気持ちいいのなんのって。寿司に温泉なんて、僕もにわか旅行気分で、喉頭がん患者を扱った石和鷹の小説を浸かりながら思い出したりした。よい一日。

2011年2月11日Friday
初雪。
台所で一日過ごす。一日雪降り続く。積雪はたいしたことない。もう随分前に、子供たちを八景島に連れて行った翌日大雪になり、東海道を各駅停車乗り継いで帰ってきたことがあった。それが2月11日だった。富士から、W家の二人寺を訪ねてくれる。先日のWさんの葬儀の布施を雪の中持ってきてくれる。護持会の積み立ても、「12月に納める分は生きていた分だから」と納めていってくれる。今後のことはまたご相談くださいと話した。雪は道ですかと尋ねると、「芝川辺りから雪になっている」とのことだった。二人はまだこれから葬儀の後始末がありますからと草々に引き上げていった。彼らのできる範囲の中で布施をしてくれたのだから、これはありがたく頂戴しておくほかない。

2011年2月10日Thursday晴れ
のんびり一人の夜だ。
今夜は一人だ。正確に言えば今夜から日曜の夕方まで一人だ。3日休んだので、今日はなんとなく職場に行く気持ちが重かったのだが、片付け仕事を一日しながら無事に済んだ。3連休となる。雪になるかもしれない予報。女房と娘は今朝早く出かけ、義兄たちと九州へ。母はこの間、デイサービスに預けた。もう失禁症状もひどいことになっている。わかっていて反抗しているのか、ただ単にそれを受け入れたくないのか、尿漏れ用のパンツなどをどうもあまり穿きたがらない。でもそれによって、身に着けているものや、部屋の中が相当ひどい臭気に満ちている。よわったものだ。こんな状況を僕は一人で乗り切ることはできない。
6時ちょっと前に帰宅。当然灯りはない。本堂でお勤めをして閉める。家に入って風呂を洗って、晩飯にする。ご飯は夕方炊けるようにセットしてくれてあった。酒を飲んで、ご飯を一杯。雪になったとしてもそれほどのことはなさそうだ。
東京の牛山さんより電話ある。3月5日に七七日忌と決める。

2011年2月9日Wednesday晴れ
葬儀終えて。
8時20分に当家へ。小降りにはなってきていたが、草履履きでカバンもあったので、ちょうど出勤する女房に送ってもらった。週間前の経を上げ、朝の挨拶をする。棺の中の個人に別れを告げて釘打ち。もうこの世へ決して戻ってはならない。釘打ちは大事な儀式である。火葬場について1時間半ほど。収骨して葬儀会場へ。火葬の間に雨が上がり、午後は一転良い天気になった。不動寺永啓と明王寺ご住職に助法いただいた。標さん、俗の仕事の方がメチャクチャ忙しいらしい。会うときはいつも忙しそうだ。二人ともまた仕事に戻るので、お布施をお渡ししてお帰りいただいた。2時20分頃から初七日。初七日法要の経を上げ、お話をして葬儀一切から解放される。日本酒をいただく。一時間ほどで閉じ、親族、組の皆さんらと墓地で納骨。墓地が寒いところなので、雪なんかがあるとなかなか解けないのだが、今年はそれがなくてよかった。11日には荒れ模様だといっているが、今日は無事に済んだ。
喪主と七七日忌のことや、今後の寺からの通知の送付先を甲府にするなどを確認した。また1件減ってしまった。村がちょっとずつちょっとずつ寂れていく。僕の感覚なんかでは、ちっとも住みにくいとは思わないし、いいところだと思うんだけど。あと、獣の出没さえ解決できたら、のんびりと暮らせる場所だと思うんだけどなぁ。そこそこ買い物できる店もあるし、インターネットは地球規模のバリアフリーだし。

2011年2月8日Tuesday晴れ
プリンター。
こんなときに限って起こってはならないことが起こるものである。昨日の夕方、葬儀関する書き物を印刷していたら、前触れもなくプリンターが動かなくなって、もう僕の知識じゃこれをなおすことができなくて、T屋さんに電話をした。どうやらもう十分にお役目を果たした年数のようだ。ヘッドが磨耗してしまうんですよねとか言ってたし。事情を話すと、何台かあるので、動作を確認して「明日の昼過ぎに届ける」と助けてくれた。今朝から最後の仕上げに、諷誦文を書いて(書くという行為ではなく、もう実際は書くことは、キーボードを打つことなんだが)11時過ぎに全部を仕上げたんである。そんで待ってましたのお助けマン、T屋さん現れ、代わりのプリンターをセットしていってくれた。このまま暫く拝借していてよいとのこと。ありがたい。助かった。今夜の次第も印刷し、午後3時半からの納棺にも、安堵して臨むことができた。
通夜も無事終え、7時過ぎに帰宅。今夜は早く寝る。

2011年2月7日Monday晴れ
また葬儀となる。
今朝の5時過ぎを「あったかいなぁ」と感じながらお勤めを済ませ、そうだ今週は金曜から連休になるから、何とかがんばって月曜の今日もがんばろうなんて思っていた。朝の読書をして僕がテレビを点けた6時50分頃。電話。女房も僕も「?」て感じだった。寺に早い遅い電話は、まさに?ということになる。女房が出て、「はいはい、そうなんですか」とか言っている。僕に代わってW田屋のおばさんの亡くなった知らせを、息子のMさんから伝えられる。日付の変わった直後になくなったとのことで、もう家に帰ってきているとのことだった。ご飯を食べて7時過ぎに枕経をあげに自宅へ自転車で向かう。組の人たちも経をあげている最中に弔問に来る。いったん家に帰り、飯幡を作り、9時半から葬儀社と打ち合わせ。終わって、職場へ。いつもの月曜の仕事を片付けて後は水曜まで休みをいただく。なんだか申し訳なく思うが、これが僕のAnother workなので仕方がない。もう54歳である僕は、いちいち弁解しないでそこを越えてしまう。すぐにとは言えないのだが、もう決心はできている。
午後、戒名を考える。おばさんの歩く姿などを思い出しながら。辞書を引いたり、外に出て暖かい日差しの境内に開いた水仙を眺めたりしながら、浄信院庭燭立洒大姉の戒名を付けた。

2011年2月6日Sunday晴れ
葬儀。
午後1時からWさんの葬儀。親族二人だけかと思っていたら、間際になって故人の年若い親族が5人ほどやってきた。組の人たちは早々と正午に寺に来たのだが、特別手伝ってもらうこともなく、女性たちは葬儀の始まると皆客殿にあがり坐っていた。遺影もなく、白木の位牌に書いた戒名を眺めながら葬儀の導師を務める。終わって生前の故人の思い出を少し話し、親族、組の人たちと納骨に。墓碑がないので、適当な場所に穴を掘って骨を納める。昨年の1月の故人の姉さんの横だ。雪がなくてよかった。午後から強い風が吹いた。葬儀を終えるまでは風が凪いでいてくれたので、客殿の戸も開けておけたので、葬儀を知って焼香に訪れてくれた会葬者にも、中に上がってもらわずに外から焼香がしてもらえた。比較的あたたかだったのでよかった。葬儀を終えてそのままそれぞれ帰っていく。こういう葬儀もある。
娘が卒業旅行していたイタリアから帰ってきた。午後4時半過ぎに帰ってきて、それを待って、本堂前で購入した新車のお祓いを済ませた。やることをやっておかなくちゃまた明日からサラリーマンだ。1月は土日のどちらかが、日直や選挙の事務だったりしたので、休日の2日を寺のことをたっぷりとした感じかなぁ。

2011年2月5日Saturday晴れ
護摩を焚く。
護摩壇の準備をして午前中護摩を焚く。船橋のSさんから厄除けの護摩を頼まれた。この方は、今年還暦を迎えるが「計都星」に当たり大凶の歳になる。「この年にあたるときは、何ごとも悪し。商売は損失または住居に心配事あり。秋冬は少し良し。」というのが計都星の運勢。
11時から甲府のS家の法事。今日は昨日のように気温が上がらない。昼も薄日だった。客殿での読経の後墓参。明日葬儀をするWさんの組の二人が、墓地に納骨の穴を掘りに来てくれていた。故人は少し偏屈者だったために、同じく身内の人たちも少し距離をおいてもいたのだが、そうはいっても、もう永遠のお別れをするときぐらい、兄弟姉妹一同参集して見送ることぐらいできないものなんだろうか。いささか情けなくなる。
午後護摩壇の片付けと本堂の掃除。時間をかけて念入りに掃除も済ませ荘厳も済ませた。気持ちがすっきりした。

2011年2月4日Friday晴れ
気温上がる。
立春の声を聴いたので、株価が世の中の動きに即応して変動するのと同じように、今日の日中は暑いくらいに気温が上がった。このまま、春に突入してくれると嬉しいが。
晩飯の後、塔婆、護摩の祈願札を書き、牛山家の過去帖に先日亡くなった奥さんの戒名を書き入れ、死亡から葬儀までの一連のことを控え帖に記した。過去帖に載った者はもう現在に戻ってくることはない。住職としての大事な仕事になる。

2011年2月3日Thursday晴れ
いつになったら収拾できるのか、土俵外の取り組みばっか賑わして。
大相撲んこまるよォ〜!ってなことになったな。何とか初場所を乗り切ったが、もしかしたら、初場所の終るのを待っていてくれたのかもしれないな。八百長疑惑事件の発覚に、今回NHKは早々と、「福祉相撲」中継を中止し、春場所の大相撲中継もまた怪しくなってきた。大相撲を国技として神聖化することにこそもう無理があるのかもしれない。角界に身を置く若者たちの考え方も変わってきているだろう。相撲界のしきたりというのは、素人の僕が言葉を挟むことはおかしいかもしれないが、今の若者には受け入れがたい古さに満ち満ちているのだろう。僕は結構子どものときから相撲を楽しんできたほうだと思う。役場に勤めてからも、本場所のあるときには、仕事の後、気の置けない同僚と居酒屋で飲みながら、星取表なんぞ眺めながら楽しんだもんだ。個人的には、今の理事長(放駒)の現役時代の魁傑(かいけつ)が好きだった。だから、やっと静まってきたかななんて思ってたのに、理事長が苦悩の表情で会見する姿には心が痛みます。ホントに、「大相撲んこまるよォ〜!」って叫びながら、村中に触れて回りたいぐらいなんである。

2011年2月2日Wednesday晴れ
寺を遊びたい。
二日休んだようなものなので、今日は午前中は片付け仕事に追われた。やっぱ体も疲れているんだな。日曜日にはもう一つ葬儀をしなければならない。土曜には法事。護摩を焚いて、還暦の厄払いの祈祷も頼まれている。
寺のことが続いて重なったりすると、やっぱりもう役場勤めも退く潮時かななんて思えてくる。一年を通してこんな風ではないが、そう思い込ませたい自分が顔をもたげてくる。明日はもう節分だ。歳をまた一つ重ねるわけだ。もう若くはないし、たいそうな夢があるわけでもない。そこそこに凡凡に生きることを続けたいだけなのだ。できればそこそこ健康で、寺を遊び極めていきたいと思うのだ。

2011年2月1日Tuesday晴れ
東京、葬儀。
ふかふかのベッドに寝ているのだが、かなしいかな、5時前にはもう目が覚めてしまう。でも、今日は起きなくてもよいのでテレビをつけて朝の時間を過ごす。7時過ぎに朝食へ。時節柄か、明らかに受験生と思しき、親子連れの姿が目立った。焼き鮭と、雑魚のふりかけでご飯3杯食べる。最後は、「もう少し盛ってちょうだい」とお願いして。腹いっぱいにはなったが、朝食バイキング2千円也の元はきっと取れていない。タクシー代をケチって、池袋から電車で「ときわ台」まで。早かったので、10時まで喫茶店で時間を潰す。車谷長吉「漂流物」を読む。今日読み終えた。先に読んだ「赤目四十八瀧心中未遂」は、引き込まれるようにして読み終えたので、この人の本ももう少し読みたい。
11時から葬儀告別式。終えて落合斎場へ。たくさんの炉が並び、次々と炉に遺体が差し込まれ、灰となっていく。炉前でお別れするグループ。骨を拾うグループ。控え室に案内する女性職員。エスカレーターで3階まで上がる僕たちを、各フロアの担当が、上階の係員に見上げながら、「牛山家でーす、お願いいたしまーす」みたいな声かけがある。僕の住む町で毎日こんなに焼かれてしまったら、まちはあっという間に消え去ってしまう。この斎場は過去にも来たことがあった。「ときわ会館」に戻って、初七日の法要をしてお斎となる。牛山さんも終えてほっとしてか、娘さんからお酒のOKがでて、美味そうにビールを飲む。「これから日が経つごとにきっと寂しさが増すかもしれませんね」と話すと、「そうですかね」とおっしゃったが、男なんてものは「しょうもない」生きもんである。午後4時の電車に乗るためにお別れして、重いケースを持って歩くのがいやになったので、池袋駅を新宿までに変更して南口で下ろしてもらった。4000円也。まあこれはこれでいい。家に帰ってすべてのものを片付けて飯。

2011年1月31日Monday 晴れ
東京、通夜。
12時20分の甲斐岩間からの電車で東京に向う。毎週月曜の温泉施設の料金回収なんかをしてから休みを取った。檀家のW家の方は、今日の午後火葬できることになったよう。まあこれで一安心。午後3時半過ぎに葬儀会場「ときわ会館」へ着く。白木の位牌に戒名を書いて少し横になって目を瞑る。なんか夕べから疲れている。
やがて牛山家の皆さん到着し挨拶を交わす。6時から通夜。終えてから戒名のお話をする。その後に通夜振る舞いを受ける。日本酒とてんぷら、寿司。故人の人柄などもご主人、娘さんから伺う。8時前にタクシーを呼んでもらって、予約していただいた池袋のメトロポリタンホテルへ。少し近辺を歩き、居酒屋で30分ほど飲んで帰る。

2011年1月30日Sunday 晴れ
まあ変わりもんだったよなぁ、炬燵で逝ってしまったWさん。でも彼らしい死に様かもしれない。
知事選の投票所の事務に一日当たる。現職と共産党系無所属の一騎打ちだったので、結果は選挙戦前から明白。なので関心も薄く、投票に訪れる人たちも低調だった。それにしても朝6時過ぎに出かけて、帰りは8時半頃に鳴るのだから、ながーいながーい一日なのだ。
午後女房から電話が入り、檀家のWさんが自宅で亡くなっていたのが発見されたと伝えられた。昨年の1月4日に、二人暮らしをしていた姉を亡くし、そう葬儀の後、「この人(弟Wさん)も、これから一人となって、そう長くは生きられないのではないか」と思っていたが、まさに現実となった。明日、明後日と、東京のUさんの奥さんの葬儀に出かけなければならないことを、組長さんに伝えておくように指示する。炬燵で死亡しているのが発見されたとのことだったので、警察が来たり、病院で検死がされたりしたようであった。経済的にも厳しい生活をしていた当人で、親戚もほとんど縁の遠い人だったので、お姉さんのときの葬儀で感じたこともあったので、駆けつけてくれた甥とケーターで話し、簡素にして寺で葬儀をすることを話す。帰宅して熱燗を一杯飲み始めていたら、遺体が自宅に戻ったとの連絡があり枕経に行く。葬儀社が棺も既に持ってきていたので納棺し、「僧不在でも荼毘に伏すことができる」と話し、とりあえず骨にしておいて、親族だけの葬儀を次の日曜の午後することに決める。

2011年1月29日Saturday 晴れ
東京の檀家に葬儀。
娘は今朝早くに、イタリア行きのため東京に戻っていった。休日の少し遅めのお勤めを終えて、節分の書き物などをしていたら電話。東京板橋区の檀家のUさん宅から。嫁いだ娘さんからで、「母が夕べなくなりました」と。向こうは、明日明後日を希望していたが、僕が明日知事選の事務があるため、31日、2月1日としてもらうことにした。さあ忙しい。今日は10時に車の6ヶ月点検があった。節分のお札などの書き物もあった。明日は6時過ぎから夜の8時過ぎまで家に居ることができない。通夜までに来てほしいとのことなので、月曜のお昼過ぎの電車で向かうことに決める。午前中、少し職場の仕事をしていける。でも、戒名を付けたり、諷誦文を考えたりは今日中に済ませなければならない。やっと午後からU家の葬儀のことにのみ。夕方戒名を付け終わる。晩飯に熱燗飲んで、これを書いた後に諷誦文や次第なんかを考えるつもり。

2011年1月28日Friday 晴れ
初不動。
寒さはこの正月毎朝のこと。初不動の今朝とてそれになんら変わりはない。昨日は、都留から山本さんとお連れの方が、新年のお札を持ちに来てくれたと女房から聞いた。この方ももう10年以上が経つ。最近はご両親の介護に時間を費やしているとかで、昨日も、介護サービスを利用して時間を作って来てくれたのだとか。
初不動を牧丘の妹弟子も今日、大滝の不動堂へ参るのだろう。真冬の、おそらく雪でもあれば融けずに残っているであろう山中の、この時期であれば人の訪うことはない不動堂で、地域の果樹の豊作の一年や、両親の健康長寿を、電気のないお堂の中で、蝋燭を灯し、経を読み祈るのであろう。誰にも知られない自らに課した行である。僕も今朝のお堂で、同じような気持ちでお勤めをした。お不動様と、天の月星だけが僕の行いを見ていた。
台所でストーブを点け、ポットの湯を沸かしかえし、熱い茶をすする。美味い梅干でもあったらなと思う。昨日から車谷長吉著「赤目四十八瀧心中未遂」を読み始めた。この作家は初めてだが、きっと図書館にあるものすべてを読みたい人だ。
初不動の朝がゆっくりゆっくり明けてくる。大学寮で一緒の親しい友人と、30日からイタリアへ卒業旅行に行くという娘が夕べ帰省していた。彼女も楽しい、収穫の多かった4年間に間もなく幕を下ろすのだ。また新しい時間が始まる。初不動に娘のことも祈った。祈ることがすべてなのだと思えた。

2011年1月27日Thursday 晴れ
水俣病のことなんてホントに知らなかった。
「下下戦記」を夕べ寝る前に読み終えた。このルポルタージュは凄かった。水俣病のことなんぞもう既に過去のことであると、僕は見過ごし、元々それほどの関心があったわけでもなく、哀しい事件としての捉え方しかしていなかったわけだけど。「水俣病」によって、命を奪われ、正常に生きる権利を奪われた人たちが居て、それから、水俣病によって言われなき差別を受けてきた人たちが居て、水銀に犯された魚を食べて飢えを凌ぐしかなかったという事実があったりしたこと、身体の不自由を超越して、身体や頭が大人になってゆき、性欲も出たり、当たり前に異性を好きになり、その異性と結ばれることを夢見るということ。壮絶な、そこに生きる若者たちの生き様が書かれている。僕には多分端から見ていることしかできないんだけど、それでも、僕はこういった事象に関しては、頭がボケてこない限り関心を持って僕の宇宙の中で考えて生きたいと思うのだ。
今朝の月はもう半月から鎌の刃になっているのだが、まん丸と同じような明るさで、世界を等しく照らしてくれているようであった。月明かりには嘘なんてない。姑息な生き方なぞしていたら、月明かりなんかとっくになっかのだこの星に。

2011年1月26日Wednesday 晴れ
月の明るさってのは、今の時期のものは、いにしえの時と同じなのだとおもえる。
なんてこの季節の早暁は透き通っているのだ。月明かりで4時40分の朝は明るい。寒さも格別だが、早起きは儲けもんと思うことのほうが多い。本も読める。とにかく静寂な時間を過ごせることがいい。
今日も一日知事選の期日膳投票事務、午後8時まで。46人が来た。現職と、対抗は共産党系無所属の新人候補なので、ほぼ結果は見えている。なので、今回の選挙はおそらく関心度も低いし、各選挙事務所だって、高齢者を投票所に輸送して送り込むなどという合戦もないようだ。結果は、もう見えている。どちらにも僕は関心がない。
一日、「下下戦記」読む。残り10ページまで読んで午後8時。今夜布団の中で最後を読むつもり。水俣病を患う若者たちの生活を初めて覗いてみた。小説にはない別な味わいがある。

2011年1月25日Tuesday 晴れ
今夜も通夜に行く。
今日も1時間早仕舞いさせてもらって、F翁の通夜に女房と行く。最近のホール葬は、この辺りでも町並みになって、ほぼ定刻にならなければ焼香をさせてもらえなくなってきたようだ。寒い中を外で待つなら、少々遅らせて終盤に間に合うように出かけたほうがいいのかも。F翁の息子さんにも待ち時間に外で会うことができた。「父が亡くなっても、正月のお札は私が引き継ぐから頼みます。実は私の息子が酉年なので、お不動様にはこれからも縁を持ちたい」と言ってくれた。お正月にも一家で詣でてくれたが、この「私の息子」さんは彼自慢の息子で医者なのである。
一月が長いような気がしてならない。なぜかと考えるとはっきりした感覚があるわけではないが、小正月行事が早めに済んでしまうと、月の後半を長く感じてしまうのかもしれない。
なんだかこのところ勤めに行くのがなんとなく重くなってきている。また、様々な思いが頭の中に蓄積してきたように感じる。

2011年1月24日Monday 晴れ
Fさん100歳で逝く。
職場内の回覧で、Fさんが亡くなったことを知った。満百歳。このFさん、酉年生まれで、守り本尊がお不動様だったので、毎年、新年のお札を頼まれていた。高齢のため、数年前からご本人が訪れることはなかったが、今年も息子さんが他が正月にはお参りに来てくれた。今日の夕も、知り合いのお父さんの通夜に行ってきた。今月はFさんも含めると葬儀(通夜)に行ったのは五つになる。厳寒に亡くなる人が多い。
韓国のソウルでは、暖房用電力需要が急増したため政府が非常事態を宣言し、「公共施設内の室温を18度以下に設定し、さらに午前と午後の1日2回、1時間暖房を止める試みを始め」たとのこと。「デパートなどの大型施設でも室温が20度以下に制限され、違反すれば罰金およそ22万円が科せられ」るそうだ。異常気象なのか。でも、昨日法事の後の墓参で外に出て、薄く氷の張った池を眺めながら、「おれらが子どもの頃は、氷の上に乗ったこともあったんだから、温暖化してるってこんかなぁ?」と、Mさんが話したけど、昔は今よりもっと寒かったってことだったんだろうか。耐えられないほどの寒さだったような記憶はないし、いまの室内の暖房環境のようには当然なってはいなかった。エアコン暖房なんてなかったし、ストーブだっていくつもなかった。電気コタツはあった。皆ひと部屋に集まって、こぢんまりと、省エネ暖房だったんだなぁ。
仕事を1時間早く切り上げて帰り、集落の知人のお父さんの通夜に行く。葬祭場の入り口脇で煙草を吸っているお坊さんが居るのが見えた。会場に入ろうとすると、「石田?」と声を掛けられた。その煙草坊主だった。高校の同級生の河内君だった。彼は隣りのN町役場に勤めていたが、数年前に退職し、今嘱託職員として継続しているという。彼は臨済宗の僧侶で、「何でお前が?」と問うと、喪主の旦那寺は前住が亡くなってから住職不在となり、法類である彼が葬儀や法事には来るのだとのことだった。煙草吸いの彼の歯は、やにで黒かった。髪もぼさぼさっとしていて、それでもどこか良寛さんをも彷彿とさせるような雰囲気があった。彼もまた、小さな寺の今を背負うているのである。

2011年1月23日Sunday 晴れくもり
法事1件。
今年初の法事。S家のおばあさんの一周忌。15人ほどが来寺。ヒーターで温めるも客殿は寒い。今年の冬は、畳に絨毯を敷くのをやめた。巻いてしまってあるので、どうしても端が捲くれてしまうのと、絨毯がなくてもそんなに法事もたくさんあるわけではないので、ストーブ焚けば十分だと思った。息子の同級生が一番歳の若い孫で居るが、彼ははるかに大台を超えている。去年葬儀に会ったときには、日本刀に魅せられているという話を聞いていたので、「コレクションは増えたかな」と訊くと、「鍔をいくつか買いました」という返事だった。皆それなりに個々の苦労や悩みを抱えながら、それでも日々の仕事をしているのだから、僕ももう少し頑張り、早く我が息子も自らの生活を自分で立てていってほしいと思う。
日本酒の熱燗をいただいて帰ってきて、庫裏の玄関で福寿草の開いているのを確認。濃い黄がいい。写真を後で撮ろうと思いながら、炬燵でうとうとしていると、午後2時過ぎくらいに波及に日が翳ってしまい、暗く雪でも落ちてきそうな空模様になってしまった。当然、福寿草は硬く閉じてしまった。客殿の後片付けやら済ませ、少し日曜日をのんびり。

2011年1月22日Saturday 晴れ
支所日直。
折りたたみコンテナに、色紙や糊入れ、幣の型紙、定規、CD,CDプレイヤー、デジカメな んかを入れ、一日を無駄に過ごさないために持っていく。知事選の期日前投票は旧町長室で。8時半から僕は僕の仕事を音楽聴きながら始める。西光寺と不動尊祭典のための幣やシメを切る。はかどってお昼ちょっと過ぎに予定の仕事を終る。これで安心。10時ごろにT兄ちゃんの家族が期日前投票に訪れる。T兄ちゃんには今年初めて会うのだったが、ちょうど良かった。体調もすこぶるいいようである。なんと言っても本人の気構えが大事だ。寒い時期でインフルエンザも流行ってきているようなので、体調管理が大切。家族みんなが気遣っている様子。僕も少しほっと安心した。
職員駐車場の隣の家の庭先では早くもロウバイが咲きはじめていた。夕べ帰ると、女房が鉢植えの福寿草が一つ開き始めたよと言ったが、日中家に居ないので、明るい時間に眺めることができない。明日の日曜にゆっくりと眺めてみよう。吉田司著「下下戦記」読み始める。水俣病を扱ったもの。
先週亡くなった、不動尊信者のSさんの奥さんから長く丁寧な電話をいただいた。話すうちにこちらもこみ上げてくるものがあった。祈ることだ祈ることだ。

2011年1月21日Friday 晴れ
読書。
西村賢太「暗渠の宿」「どうで死ぬ身の一踊り」は、昨日の知事選期日前投票事務に従事する12時間で読みきることができた。11時間半の時間中に訪れた選挙人は36人。まあほとんど何もすることがない暇つぶしに困る一日だったので、旬な西村氏の小説を読むには好機会であった。芥川賞受賞作を「新潮」で一昨日先に読んだが、正直僕には物足りないものという感想で、強烈な私小説の印象は到底受け得なかった。それで、図書館に置かれていた2冊の単行本を読んだのだがこれは面白かった。こちらのほうが僕には「私小説作家」西村賢太が実感された。大正後期の作家藤澤清造の没後の弟子と自らを称する西村氏。芥川賞受賞作「苦役列車」、単行本「暗渠の宿」収録のタイトル作と「けがれなき酒のへど」、「どうで死ぬ身の一踊り」のタイトル作と「墓前生活」「一夜」とも、見事に題材は自らの破滅型生活とでも形容するものとでもいおうか。これがまた僕にも身を切られるほどに切なくわかる。僕も破滅型の人生をいまもっておくっている。「苦役列車」にはそれを見ることが僕にはできなかった。読んでいて投げ出したくなる場面も多々あるが、もう何作か遡ってのものも読んでみたい。
夕べの帰りは8時半頃になっていたので、酒は飲まずに風呂に入って早めに床についた。「新潮」9月号掲載の、もう一つの芥川賞作、朝吹真理子「きことわ」を読み始めた。続きを朝から読み、今夜読み終えた。まるでキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」を聴いているかのような物語の流れは、読んでいて腹の中に波が打ち寄せては退いていくような起伏があり、僕の感覚では、終盤に少し大きな展開があり、突き上げるように隆起して、それが徐々に均されて平坦になっていくかのような。美しい映画の画面のような物語を読ませてもらった。静謐で、美しい小説。作者は受賞会見で「賞をちょうだいしたことに大変うれしい気持ちと畏怖との両方の気持ちが、ないまぜになっている状態です」と語った。「嬉しい気持ちとこんな賞をいただいて恐れ多いという気持ち」ですという表しではなく、“畏怖”ということばが何のためらいもなく口からこぼれるなんてのは、彼女の育ちの良さからくるものなんだろうなんて勝手に想像してしまった。たまたま見た、「ぴったんこカンカン」に天才子役として人気の芦田愛菜ちゃんが出ていて、彼女がもうちょっと大きくなったときに、少女時代の「貴子(きこ)」役でもやったらいいなぁなんて思った。

2011年1月20日Thursday 晴れ
大寒。
今朝は特別に寒さと冷たさを感じた。おそらく3時くらいから頬や耳に、この冬初めて感じる鋭い冷たさを感じてた。となると、「今朝は水道凍るかな?」という心配が頭をめぐって、もう深い眠りに落ち込むことができなかった。かといって積極的に起きてみようという気持ちは、足やからだの温みのなかに緩みきってたゆたっているのだ。
5時に起床。庫裏のトイレで放尿。洗面所でボイラー点火。蛇口を捻ると水は出る。これで十分。熱い湯で口をゆすぎ、顔を10回洗って本堂へ。外はやっぱり寒い。
お勤めを終えて台所でいつものようにストーブ、エアコン、暖房カーペットをセットして読書。朝吹真理子「流跡」を読んで6時半読み終える。これも難しい言い回しが多かった。内容はあまり僕には興味の持てそうにないもの。いちいち、Yahooで漢字の読みと意味を調べながら読むという語彙乏しき僕。大寒の朝の頭は余計にフリーズ(freeze)だ。さて今日は一日期日前投票事務。新しい本を読めるだろうか。

2011年1月19日Wednesday 晴れ
美女と野獣のダブル受賞が今期芥川賞。
昨日のこと。深沢七郎「甲州子守唄」読了。それから昼休みに図書館へ行く。前夜、芥川賞と直木賞の発表があったので、今までまったく食指が動かなかったが、「芥川賞受賞は美女と野獣」なんて見出しが気になって、ダブル受賞となった今回の二人の経歴などをもネットで見て読んでみたくなった。特に私小説にこだわって書き続けているという西村作品を読んでみたいと思った。西村賢太、朝吹真理子の受賞作は今から単行本が出るので、それぞれの作品の発表された「新潮」の12月号と9月号、それから塩吹氏のデビュー作の載った2009年10月号も借りてきた。それから収蔵していた西村氏の「暗渠の宿」「どうで死ぬ身の一踊」も併せて借りる。西村受賞作を夕べから読み始め、昼休みに読み終えた。文中の言葉使いに、ちょっと違和感を覚える。「結句」だとか、普段僕たちが使わない語を選んで著者は使っているようだ。作家のこだわりなのか、言葉の表現が古めかしく、それと、強烈な私小説との謳い文句ほどでもなく、素人の僕の読後感は、「これが芥川賞か?」といったものであった。続いて、潮吹氏のデビュー作「流跡」を読み始めた。中卒フリーターで逮捕歴のある西村氏と、片や幼稚舎から慶応で現役の大学院生で、仏文学者を父に持つ華麗なる一族の令嬢朝吹氏との対比は、マスコミが一番喜びそうな雛壇写真だ。まあどちらでもいい。とにかく読んでみるだけだ。
今朝も5時起床。起きるとすぐに排尿して洗面して着替えていたが、厳寒期の今、水道の凍結が一番心配なので、着替えてから客殿のトイレで小便をしてから、洗面所のボイラーを入れて顔を洗うようにしている。水が出ていればOK。水道を使えば、外の貯水タンクの水が動き、水面を凍らせてしまうことの予防になる。いろいろと一人の頭で気遣っているのである。

2011年1月18日Tuesday 晴れ
不動尊参り。
昨日の朝のことを書いておこう。寒くて思考回路も少しすべりが悪くなっているのだ。日曜は帰ってきたのが夜の8時半頃で、朝から本堂は閉めたままでおいたので、昨日の朝お勤めの後扉を開けると、階段にお酒と古いお札が置いてあった。すぐに滝本さんだということがわかった。都留の方で、お不動様をもう10年以上も参ってくれている。一月中に伺いますとのことであったが、ちょうど留守のときになってしまった。ゆうべ寒中見舞いも兼ねて礼状のはがきを書いた。
先日亡くなった石和のSさんもそうだけど、遠くからお不動様を参ってくれる人たちが何人かある。遡った時代には、近隣や静岡の方からも、講を作って参ってくれた頃もあったようだが、今はそんな時代は廃れてしまったが、それでも、「大聖寺のお不動様」のことを知って参ってくれて、それから熱心にお不動様を信仰してくれる人たちがあるのは住職としても身が引き締まる思いがする。新しい年の始まりに、僕もしっかりと寺を護り、お不動様に仕えようと心新たにする。

2011年1月17日Monday 晴れ
傍観ていいな、責任なくて。
阿久根市の市長選も終ったね。竹原さん今度は負けたね。でも864票差ってのはかなりの接戦でもあったのだろう。この人の政治手腕を讃える人たちも大勢居たわけだけど、如何にせん、あのワンマン振りには引いてしまうわ。新しい37歳の市長はこれから大変だと思う。傍観させてもらいます。
傍観したって、僕が阿久根に生きることはほぼ確実にない。
母は今日のデイ・サービスで、30分ほどのファミレスで外食をしたことが嬉しかったようである。「何を食べた?」と訊いても、うまく応えられなかったが、女房に言わすと、帰ってきてからの様子に少しそんな楽しかったことが垣間見えたのだそうな。僕らはこんな些細なことが「ホッ(^.^)」である。付かず離れずこれも傍観といえるだろうか。

2011年1月16日Sunday 晴れ
期日前投票事務。
毎日が「この冬一番」の寒さ。午後8時まで期日前投票の事務。外は風があって日中も寒かったようだ。現職と、直前に決まった共産党の新人とでは、もう結果は誰にも分かっているようなもの。こんな選挙にこの寒い一月、わざわざ投票に来る人なんてあるかっていうような思いもする。結局午後8時までに9人しか来なかった。おそらく投票率だって低調ではないだろうか。長い一日で本を読む。デニス・バンクス著「死ぬには良い日だ−オジブエ族の戦士と奇跡−」読了。「深沢七郎コレクション(流)」戌井昭人編の残りを読んでしまい、「深沢七郎傑作小説集(二)」を読み始める。(二)は、甲州子守唄だけである。面白い。年末から深沢七郎がマイ・ブームである。帰って遅い晩飯食いながら「江」みる。

2011年1月15日Saturday くもり
寒さにおろおろと泣く。
気温上がらずに冷え切った一日になった。午前中は体動かず。昼食後、法事の塔婆を書き、頭を刈って、先週の土曜のどんど焼きの後の灰の片づけをする。寒い寒い。何をするにも寒い。
朝、今日からのセンター試験受験に挑む或る兄弟のために祈った。それから、不動尊信者であったSさんの亡くなったことを伝え、冥福菩提を祈った。
なんということかという昨日だった。昼間ケータイに女房から電話があり、石和のSさんの奥さんから「主人が夕べ突然亡くなりました」との留守電が入っていたと。午後、3時間の時間休をもらって二人で自宅を訪ねた。Sさんも、元気でいたのに、突然具合が悪くなって、あっけなく逝ってしまったという。お不動様の信者で、恐らく僕がまだ遊んでいた頃からの縁のようで、最近は毎月訪れることが少なくなってはきていたものの、暮れにも奥さんと二人できて、父の墓にも参ってくれ、「元日には息子夫婦がお札をいただきに来ます」と、奥さんは毎年のことで南天の枝を持ち帰ったのだったのに。
明日の本葬にはいけないので、今日の夕には通夜に行く。年が明けて、もう縁のある方たちの葬儀が3件あった。寒いときに悲しみはいっそう悲しみが厚い。
エホバの証人が通夜に出かけるところに現れる。「こちらは仏教寺院ということはわかっていますが....」だとぉ!!!それなら来るな!こんな小さな田舎寺の住職にいまさら何故エホバの証人たちが説教をする??!僕が君たちのことに耳を傾けることは檀家や信者の皆さんの心の内に不安を生じさせることになる。奴ら、仏教人でもまったく見境なく訪ねるけれど、いい加減にして欲しい。僕もきみたちには何も意見するつもりはない。

2011年1月14日Friday 晴れ
こんな朝もある。
割と目覚めがよく、今朝の眠りはもうこれで十分とは思いながらも、5時15分過ぎくらいにはと思って起きたのだ。枕もとの目覚ましの針の大体の位置だけを眺めて起きた。メガネをかけていないので、位置もほとんど感覚だ。台所の時計も見なかった。そのまま客殿から本堂へと渡る。星々のきらめきが寒さをいっそう引き立てている。お勤めを済ませな堂の扉を開ける。外を眺めると、隣の角屋の2階に灯りがついているのに気がつく。海老原君でも来たのだろうか。客殿でのお勤めを済ませ、ストーブを点け、エアコンも入れる。暖房カーペットと、ノートPCもONにし、ボリュームのあるアメリカ・インディアンのノンフィクション「死ぬには良い日だ」を読み始める。パソコンの時刻が5:00だということに気づき、壁の時計を見上げると、まさにその時刻である。結局1時間早く4時過ぎには起きていたってこと。お陰で本のページも大分稼ぐことができた。
1月14日ってことは、ほんとの小正月だものな。朝の冷え込みが厳しいと夕べ聞いていたが、水道を凍らせることもなく。

2011年1月13日Thursday 晴れ
年金。
外の水道と庫裏の便所・洗面台を凍結させないようにとだけ、冷え込み察知用のアンテナをできるだけ研ぎ澄ませた状態にしている。外の水道は、便所と庫裏入口脇の水道で、外の2ヶ所は冬季中は使用していない。平日などにはおそらく訪れる人もほとんどないだろうから、何日か前から水道のメーターBoxで止栓している。これなら便所の手洗いの蛇口や水洗タンクの水を、ちょろちょろと流しっぱなしにしておく必要はない。朝、出かける前にBoxの栓を開いて、帰宅後に栓を閉めればいいだけなので、それほど負担にもならない。なぜもっと早くからこれをしなかったのか?きっと頭の中で描いてみると、「相当わずらわしいこと」と早合点して結論付けてしまっていたのだ。日常生活にはこんなことがよくあるもんな。
娘が年金手帳が見当たらないというので、昨年末に再交付の申請を僕が代わりに、渋谷年金事務所へ出しておいた。(娘は大学寮に住所を定めているので、渋谷年金事務所が管轄)。実は、息子の手帳も本人が保管しているのか怪しかったので、こちらは竜王年金事務所へ申請をしていた。扱う人口規模が渋谷に比べて圧倒的に少ないのかもしれないが、息子の手帳は申請後一週間くらいでうちに送られてきた。帰寮後、「手帳がまだ送られてこない」というので、今日問い合わせてみた。最近の年金事務所は応対も丁寧だ。調べて折り返し電話をくれた。「確かに、受け付けております。本日、再発行して郵送いたします」との応えだった。「日本年金機構」のHPを見ると、各都道府県の年金事務所が掲載してあって、親切に「相談窓口の混雑状況」なるページがあり、相談窓口の「時間帯別待ち時間」が載り、「ねんきんダイヤルの混雑予測」では1月の電話相談の混み具合予測があって、曜日・時間帯ごとの混雑予測が◎非常に混雑、○混雑、△やや混雑としてあった。でも、本当に年金納めていて、実際にもらえるのかなぁー?ってのが若い人たちの真実な気持ちなのかもしれないね。

2011年1月12日Wednesday 晴れ
今日女房も54歳になって、二人で併せて108煩悩の数になった。
5時半起床。毎日書くが、なんちゅー寒い毎朝だ。空の星々のなんちゅーくっきりときれいなことか。本堂は容赦なく冷え切って、背筋を伸ばさせる。おー、お不動様は厨子の内側から、俺の愚かですぐ挫けてしまいそうな心を見抜いておるわ。
出掛けにカレンダー見て、?1月12日って?、あー誕生日だったなぁと。54×2で、二人で百八煩悩の数になった。僕の煩悩は恐らく年齢をはるかに超えていそうなので、もっとたくさんの数字になるかもしれない。僕たちは、でも、まだまだ二人で助け合って生活をしていかなければならない。このこともまた、彼女に負う率の方がはるかに大きいと思うのだ。

2011年1月11日Tuesday 晴れ
タイガーマスク運動だって。
温泉施設へ先週の料金の回収に行く。12月14日から休業していたので、1月4日からの営業再開を待っていたご贔屓さんもたくさん居たようだ。8万円ほどを券売機から回収し、飲料自販機からも9千円近くの売り上げがあった。朝9時のオープンに必ず来るご近所さんもあるようだしな。
タイガーマスクを名乗る人物が、全国の児童養護施設などに暮らす今春の新小学一年生にランドセルを贈っているニュースが伝えられていたが、僕は同一人物だとか、同じ志を持った人たちの団体が行っている慈善事業だと考えていた。でもどうも違うようだ。最初の人物の善意の気持ちに感化された全国の篤志家の輪が広がっているようなのだ。山梨でも今日、3つの養護施設にランドセルが宅配便で届いたとのことだ。新春のニュースとしては面白い。明るいニュースないしね。芸能人の結婚ニュースなんてあんなつまらないものないもの。「タイガーマスク運動」って誰が名づけたんだか、晩飯時に女房は、「今年の流行語大賞だね」とコメントした。

2011年1月10日Monday 晴れ
寒くて思考回路が凍り付いてしまったのか。
なんちゅー寒い毎日なんだ。起きるのも嫌だ。落ち葉の布団の中に眠ってしまいたいほど。それでも少しは身体を動かさんとメシも不味い。本堂を正月バージョンから通常に戻す。客殿用の石油ヒーターに給油する。風呂を洗う。あとは本を読んで過ごす。夜今年初めての「酒場放浪記」。やっぱいいなぁ。美味い酒と美味い肴。風呂に入ろうとしたら、お袋がまだ入っている。どうも湯船につかりながら、眠っていたようだ。弱ったものだ。これが今年の我が家の始まりなのか、先が思いやられる。風呂に浸かっていても、冷えた回路は解けてゆるくならないのか、まったく、手を合わせて祈りたいような一日のおわり。こんなに坂道を転がる速度が速いとは思わなかった。

2011年1月9日Sunday 晴れ
蜂谷夫妻訪ねてくれる。
この三連休のほうが年始休暇よりのんびりできるようだ。訪れる人もないし。寒いことは寒い。昨日は外の便所を凍らせてしまって、2年ぶりに鰍沢の太業舎に来てもらって、便所のタンクのところの水の栓を取り替えてもらった。いつだったか忘れてしまったけど、暖冬で、「この冬は水道の破裂で呼び出されたことが一度もなかった」なんて、話してもらったことを思い出した。人の生きる世の仕組みなんて千差万別である。
11時を少し過ぎたころに獅子舞が来て、いつものように女房のコーヒーを飲んでいってもらった。後に続く者が少ないので、50を過ぎてまだ同志会の行事に参加している後輩たちを見ていると、申し訳ない思いが湧いてくる。まあ、僕なんかは幣をこしらえたりして後方支援が少しだけできてはいるが。
獅子舞を送って、ずっと放置してあった鳥に巣箱を柿木と、桜の木に取り付けた。どうなるのか少し楽しみ。お昼にしようかと思っているところへひょっこりと蜂谷夫婦が訪ねてくる。すみれちゃんを連れて。おととしの暮れ生まれでもう一歳を過ぎた。ニコニコと女房に抱かれたり、僕のCDをいじってみたり。蜂谷君に目元がよく似ていた。年の若い友人と会うのは元気が出る。年に2、3度くらいしか会わないのであるが、久成に来ると必ず訪ねてくれる、もしくは久成へ招待してくれる。昼はあたたかくて短い時間だったけど、近況を交換してよい再会だった。

2011年1月7日Friday 晴れ
今朝は久しぶりに5時起き。
寒くて寒すぎて布団を抜け出せなくなってきた。夕方は少し日が伸びてきたように思うが、朝は7時近くになっても暗さをもっている。
福岡哲司著「深沢七郎ラプソディ」を夕べ読了。著者は、山梨の高校教諭とのことであった。今朝からデニス・バンクス著「死ぬには良い日だ−オジブエ族の戦士と奇跡−」を読み始める。400ページ2段組の本なので相当のボリューム。デニス・バンクスは、80年から90年代購読していた「人間家族」誌上で名前をよく知っていた。アメリカ・インディアンであり、日本へもセイクレッド・ランのために何度も来日もしている。連休中にしっかりと読みたいものだ。
仕事を終えて帰ってからすぐに着替えて、K課長のお母さんの通夜に行く。6時半ちょっと前に会場に着いたのだが、さすがに寒い冬なので、皆早く訪れるのか、僕がついたときには焼香者が一人も居なかった。ちょうど谷間だったのかもしれないが。夕飯に粥。七草とはいかないが、胃にやさしい粥がうまかった。i

2011年1月6日Thursday 晴れ
甲府中央卸売市場へ。
食品衛生協会へ浴槽水の水質検査をしてもらうために朝施設で採水して届けてきた。この協会の隣りが食堂で、人気の鳥もつ煮なんて幟も出ている。実はこの場所、甲府市中央卸売市場内にあるので、きっと新鮮な刺身のどんぶり物なんかが、安価で提供されているんじゃないかと想像してしまった。いつか一度食べに来てみたいものだ。テレビでは、昨日の築地市場の初競りで、北海道・戸井産の342キロのマグロが、最高値の3249万円で競り落とされたことを伝えていた。購入した銀座の寿司屋では、到底元が取れるものではないが、新春のご祝儀を来店者に振舞うようなものだと話していた。握られたトロを口に運ぶリポーターの表情も自然と豊かな笑い顔になった。幸せな春の光景は、僕などには無縁ではあるが、これはこれでいいなと思った。
Kさんの告別式には女房に行ってもらった。昼は暖かな日だった。市川の葬祭ホールからは八ヶ岳の方までの眺望がきくので、広がる清々とした景色の中へ溶け込んでいけたのではないかと思っている。残された奥様や子ども、お孫さんのために、早くこの世への思いを断ち切ってしっかりと見守りをするKさんになってください。それから、蓮台に座して、大好きな骨董を手にとって愉しんでいてください。何れ僕も行きますから。

2011年1月5日Wednesday 晴れ
通夜。
Kさんの通夜に行く。仕事を1時間ほど早くしまって女房と葬祭ホールへ。6時10分ほど前に着いたが、もう駐車場はほぼいっぱい。焼香の列も5列が渋滞していた。祭壇の遺影のKさんは少し横向きの生前そのままの笑顔であった。まだこの事実を信じられない思いが湧いた。戻せない深い時間の果てに行ってしまった。焼香を終え奥様や息子さんに挨拶をしてホールの出口に足を進めると、「思い出」と書かれたボードにKさんの写真が10枚ほど貼ってあった。孫と遊ぶ満面の笑顔のKさんであった。女房が「八日市のお祭りの写真もある」というので僕も顔を近づけると、去年の不動尊祭典にご家族で来てくれた時に撮った写真が2枚貼ってあった。Kさん家族に、川口さん、秋山さんが一緒に楽しそうに写っていた。いっそう悲しみが這い上がってきて僕も女房も家に帰るまでほとんど会話がなかった。
向こうの世でも楽しめるように、収集した骨董を持っていってくれたらいいなと思う。

2011年1月4日Tuesday 晴れ
書き始められなくて。
正月になって1日、2日と、酒飲んだり、ダラダラと過ごしてしまって書き始められなかった。昨日の午後にでも書き始めようかと思っていたところへ、Kさんが旅行先の長野で心筋梗塞のために2日に亡くなったことを知らされた。何故だと信じられない気持ちで今もいっぱいである。昨年の3月に定年退職を迎え、これから趣味の骨董を愉しむつもりだと、よく話してくれていた。お孫さんも生まれ、去年の祭典には、ご家族でお孫さんを連れて、火渡りにも来てくれたのに。なんとあっけなく、バイバイの一言もなく逝ってしまうものなのか。Kさんと始めて会ったのは、僕が役場に入って水道の係りをしているときに、保健所の水道水の検査なんかをするのがKさんだった。その後職場も移ったりして会うこともなかったが、10年くらい前からだろうか、喜田の姉さんを介してまたお付き合いいただくようになった。酒も好く飲んだし、寺のLiveにも欠かさずに来てくれた。ここまで一気にキーを打ち込んで、この先が続けられなくなった。
今年最初の徒然の書き始めは、なんとも悲しいものになってしまった。