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三守皇山大聖寺縁起

大聖寺は平安後期、堀川天皇の長治2年(1105)の創建で、開山は円入院阿闍梨法印、開基は甲斐源氏の祖新羅三郎義光公で、はじめ「義光山大聖寺」とよんでいました。
本堂に安置されている不動明王坐像は、弘法大師御作と伝えられています。この像は、はじめ宮中における加持祈祷のため清涼殿(せいりょうでん)に在りましたが、承安元年(1171)義光公の曾孫である加賀美次郎遠光公のかずかずの武功に対し、高倉天皇より下賜されたもので、御仏を拝戴したことは歴史的にも稀なことです。遠光公の優れた人柄が偲ばれる所以と言えます。
古記によれば、高倉天皇の承安元年に天皇が病におかかりになった際、加賀美次郎遠光が不動明王の加護を念じながら、鳴弦(めいげん)の術をなして平癒なされたことに始まり、遠光が不動明王を戴いて宮中を発ち、自領の甲斐国加賀美の地(現在の山梨県南アルプス市加賀美)へ富士川を遡ってお運びになる途路、当寺から一キロ程上った通称「日下がり」にさしかかると、公の曽祖父義光公ゆかりの大聖寺に「吾を安置せよ」と明王のお告げがあり、公は恐懼(きょうく)して御意に従い、堂を建てここに安置奉ったとの伝えです。
この時、高倉天皇より『三守皇山長光王院大聖明王寺』の勅額および近江国滋賀一郡を賜り、また加賀美家の家紋には「王」の字を入れることが許されたとあります。(大聖寺でも、三階菱の中に王の字の紋を使っています。)爾来、皇室の繁栄や国家安泰の祈願寺として重用され、宮中からは祈祷のための勅使派遣が行われたとのことです。
戦国時代に至り、甲斐の雄武田信玄公も信奉の志厚く、ここを祈願寺の一つとして帰依され、当時の寺領印書、朱印状、制札など数多くの文化財が残っています。また、江戸時代には三回にわたって不動明王の江戸「出開帳」が行われ、徳川家はじめ大名小名の参詣があったことが記録に残っています。こうして富士川流域の峡南地方に900年近くの長い間、まさに孤高ともいえるお姿で法燈をかかげ続けている事実は、無言のうちにこの不動明王の霊験を物語っていると言えます。
寺は真言宗醍醐派(総本山醍醐寺 京都府伏見区)の末寺で真言密教の秘法を伝え、加持祈祷・護摩修法や毎年4月29日の不動尊祭典に修される「柴燈大護摩供」は、県下で最も古い歴史をもっています。また寺には「大時ニ年(1127)十月廿日義光山大聖寺殿」の義光公の位牌のほか、大聖寺過去帳・源氏正統系図・小笠原氏系図などの貴重な文書や仏画、新羅義光・加賀美遠光・武田信玄の木造および画像などがあり、甲斐の歴史(特に甲斐源氏および武田氏)の原点に位置する重要な寺であるといえます。
三百余年を経過する本堂・客殿・庫裏・山門などの壮大な伽藍を擁し、三千余坪の広大な寺域は富士川に臨み緑なす山を背景にして、境内には高倉天皇勅使手植えの高野槙・義光公手植えの大欅・夢窓国師配石の築山と手植えの桜・信玄公手植えの紅梅などの銘木や、ブッポウソウをはじめとする野鳥の種類も多く、富士川舟運の衰退や地理的位置から往時の盛大さはないにしても、美しい自然に恵まれ閑静な寺の雰囲気は、かえって俗塵を払った別天地を再現しているように思います。
春先から増える「甲斐百八霊場めぐり」の遍路も、一年中途切れること無くあり、人々の根強い不動信仰に支えられ、また訪う人々に強い感銘を与えています。


少し画像が悪いのですが、
左から
武田信玄公
新羅三郎義光公
加賀美次郎遠光公


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