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『徒然日誌』 20010年1月から12月

2010年12月30日Thursday くもり
年末休暇二日目。
今朝も寒い。どんより雪でも降ってきそうな一日で終わる。風がないので、朝から鐘楼や三社権現、庚申堂にシメをつける。本堂の掃除。買ってきた餅や、檀家から届けられたお供え餅を各所に供える。護摩壇も準備万端。
夕べ遅く帰ってきた息子と昼飯に顔を合わせる。学生であるということは自由でのんびりだ。今夜もまた友達と出かけるという。しかし彼の友達はもうほとんどが社会人だ。妹の方が先に社会人となる。
母は今日今年最期のデイサービス。来年からは、スイミングもやめたことだし、もう一日行ったらどうだと夕べはなすと、行ってもいいような返事だった。嫌だという気持ちも、行きたいという気持ちもおそらく湧かないのであろう。言われるがままといったところか。週2回行ってくれたら、その分こちらも母を監視することからは解放されるし安心がある。幾つかの幣も作る。明日一日は静かに過ごせたらいい。

2010年12月28日Tuesday 晴れ
納め不動。
連日の冷え込みの厳しさに起きるのが辛い辛い。仕事納めなので起きる。朝のお勤めに、今年は博物館へもお出かけいただきありがとうございました。娘の就職もとりあえず何とか決まりありがとうございましたと礼をする。晦日にはまた新たな歳へのお願いをたくさんしなければならない。
見沢知廉著「調律の帝国」読了。監獄というところはこうも酷い所なのかと思い、麻原彰晃の精神肉体状態も、長い拘禁生活による反応の顕著な現われではないかとも思ってしまった。連合赤軍事件も、見境なく同志を痛めつけ、徹底糾弾して死に至らしめた。袴田事件の被告袴田巖氏は、警察のデッチあげが明白になってきているが、当の本人が拘禁症に陥っているために、自らの意思で再審に向かって積極的に動き出すことができないようである。支援者はこれをもどかしく感じるのだろうが、そこに居た者にしかわからない、正常な精神をも蝕んでしまうような状況なのだろう。正常な精神が保たれなくなるってことは一体どういうことだ。
と、呑気にこんなことを昼休みに書いていた。もうあと5分で仕事納めの陽が終わろうとする時間に女房から電話。「お母さんが帰ってきていない」。どういうことだ。火曜日はスイミングに行っている日なのに、電話したら今日は年末で休みだということだったらしい。「帰らせていただきます」と慌ただしく職場を出る。隣りのMさんも一緒に捜してくれる。スイミングの迎えのバスがないのなら、ちょっとずれた時間にある鰍沢行きの町営バスに乗った可能性がある。問い合わせると、まさに母らしき人物が終点まで乗ったということがわかり、すぐに鰍沢の山交バスまで行く。そこから先の足取りがつかめない。スイミングの場所まで行くも居ない。また戻って、山交バスで、母らしき人物がバスに乗った形跡はないか。わからない。受付の男性が近くにあるタクシー会社に問い合わせてくれた。わからいないが、一人の運転手から「お年寄りが40分ほど前に鰍沢駅方面に路上を歩いているのを見た」と情報が。すぐに走らすもわからず。そうこうするうちにケータイに連絡が。妹の旦那から、「いま寺に寄ったら、お母さん帰ってきています」と。嘘みたいなほんとの話。山交バスに礼をいい戻る。隣りにも礼をいう。本人は、「今日はよく歩いた」と、ご飯もお代わりをした。僕は頭の中で、年末の明日から捜索をしなけりゃならんのかと、激しい憂鬱な気分に落ち込んでいたが、まあやっとほっとした。僕はこれが日常これからも絶えず起こりうる事とはまだ思いたくない。今日のはスイミングが休みだと言うことを本人が承知していなかったことで起こったことである。それにしても、これからはもっとこちらも気持ちを引き締めてかからないといけないだろう。

2010年12月27日Monday 晴れ
風吹き荒れる。
今朝の風は十分に不安を掻き立てるものだった。夕べ遅くから吹き始めた風はおそらく午前4時前まで続いた。布団に居ながらも、耳を澄ませて大波の寄せるがごとく吹き荒れていく大風に、風以外の物音を感じ取ろうと眠れなかった。どうやら風も収まったようなので、5時前に起きて本堂に渡る。仰ぐと満天の星空。おなかの出っ張りのようなくっきりとした月が境内一面を明るく照らしていた。
朝食後にカメラを持って外に出て見回り。特に問題もないようだ。2年ほど前に、家のすぐ前に立っていた2本の杉を切った。今朝のような大風の日にはこの杉の葉が一面に降っていて、片付けに難儀をしたものだった。もう思い出の景色だね。
見沢知廉「七号病室」読了。同じく見沢の「調律の帝国」を読み始める。獄中にて書かれたもの。何せ獄での生活経験がなく、長期の独居房で拘禁状態の長かった著者のものは読むものにとっても苦痛を伴ってしまうものなのか。今年最後の本になるか。

2010年12月26日Sunday 晴れ
着々と。
寒い。急に寒さが厳しくなった。外の水道も凍り、今日からは水抜きをして夕には栓を止めた。外の水道のところの洗面器に張った氷が、夕方にもまだそのまま氷っていた。高校駅伝を見ながらお札を書いたり、シメを折ったり。年神様のシメもも交換してしまう。午後には早川へ墓参に行ってきた義姉兄が立ち寄る。娘の就職のお礼を言う。頭を刈る週末だったが、出勤があと2日なので、休みに入ってから刈ることにした。結局寒かったってことだ。なんとなく疲れた感じの休日。

2010年12月25日Saturday 晴れ
風強く一日終わる。
晴れてはいたが午前中から木枯らしが強く吹いた。門松を仕上げてしまおうと、墓地の方へ行き竹と南天と紅梅の固い蕾の枝を取ってくる。それから竹の根がほしくてスコップで小さなものを掘ってみる。先週用意しておいた松とで仕上げる。これで新年の外の準備よし。後は石灯篭に紙を貼って、シメを張るだけだ。
檀家も何軒か暮れの付け届けに来てくれる。皆変わらぬ人たちで、年ごとに僕も含めて歳をとる。喜多郎の「空海4」を終日流しておいた。芸能界のくだらんニュースばかりが流れている。北野武もそんなのと大して変わりないのか、あの人の動かなくなった右顔面を眺めていると、北野武という芸能人の裏と表がどうなっているのだろうと思えてくるが、そんなことを真剣に考えてちゃ駄目だと言う後ろ側からの声に、読みかけていた見沢知廉著「七号病室」を読み進める。休日の読書ははかどらない。

2010年12月24日Friday 晴れ
「方丈さんもお元気でね」。
朝車のエンジンを掛けると、「メリークリスマス」とカーナビからの声。「ふんッ!」て思いながら、いささか飲みすぎた夕べの酒を開けた窓の外に絞りきる。暮の支所は、訪れる人も少なめで、年末の片付けや車の洗車、タイヤ交換(実際に洗ったりするわけではなく、スタンドに車を持ち込むのだけど)なんかをする。博物館の特別展の展示図録を持ってケアハウスみのぶへ若尾さんを訪ねる。年末で顔見世にはちょうどいい。受付から部屋に電話を入れてもらって訪ねると、とても元気そうで、「これからタクシーで飯富病院へ行くところだった」というので、図録と女房からの差し入れを渡して短く会話して部屋を出た。若尾さんの最後の時のことを僕は託されている。まあこの分だと、まだまだ元気ですごせるだろう。今日も窓辺の机の上には習字の練習したあとが残っていた。書をするという楽しみを僕は持っていないが、母にも何かこのようなことがあったらよかったのかもしれないと思った。「方丈さんもお元気でね」と、僕も元気付けられたのだ。

2010年12月23日Thursday 晴れ
明王寺祭典。
少々疲れているのかもしれない。僕の同業者の兼業を余儀なくされている人たち。若松屋のおばちゃんの七七日忌の法事に行き、その後、毎年のことで、富士川町(増穂)の明王寺の冬至祭典のお手伝いに行く。もう最高のよい天気。僕なんかは決して働きすぎているわけでもないけど、頭も使いすぎているわけでもないけど、もうこのあたりで降りたいと思っている。次の停留所は2012年3月。バスを降りてから考えたいとも思うのだけど、今の時代はそうもいかないようなので、年が明けて、女房と相談しながら考えていきたいと思う。
おっともうひとつ、今日はナナオの三回忌だ。ナナオは何も手や背中に持っているものなんてなかったけれど、僕たちの目に映らないものすごくたくさんのものを平等に与えてくれたような気がする。僕はまだまだ目に見えるものがたくさん欲しくて仕方がない。ナナオはもう僕がこの世から消えるまで歳を取ることはない。僕の15歳からの友人は今日55歳になった。彼を知って39年が過ぎた。話すことも飲むこともほとんど無くなってしまったけれど、僕は彼の心の内を信じているので、生涯の友であることへの揺るぎなどは生じない。アー飲んで酔った。

2010年12月22日Wednesday 晴れ
冬至。
土日と読書をしなかったので、月曜から再び深沢七郎を読み始めている。面白い。朝から晩までだらだらと本を読んで過ごしたいな。正月はどうだろう。でも僕の場合酒を飲んでしまうからな。読書と酒の酔いは反比例するもんな。
昨日の午後からの雨が午前4時頃には上がったようで、5時過ぎのお勤めも傘を差さずに本堂まで渡れる。こういう朝は少しあたたかいように感じる。終えて、ストーブを付けてやかんをストーブにかけ、ノートPCを開いて昨日のさ日記を書いたり。夕べ夜の仕事をしながら、「Internet archive」で久しぶりに音源のDLをする。MP3でいいので、アップされていた日本のJAM系のバンドの幾つかを。Sadine Headなんかはとてもいかしたインストバンドだ。
今日は冬至で、夜天気がよければFull Moonを満喫できる。朝から楽しみ。

2010年12月21日Tuesday くもり
雨の降るのはいいよなぁ。
午後3時頃に門野の湯へ、漏水管修繕の仕事の捗りを見に行く。雨が少し降り始めていた。どんよりと冷たく寒い日で、建物の中とはいえ、暖房もない浴室の修繕箇所に作業する左官さんも大変だろうと感じた。それでも、もう一週間ほどしたら、一年の仕事を終えて、束の間かもしれないが、年末年始の解放された何日間が心の底で楽しみとなっていることだろうなとも思うと、滞ることなく進んで欲しいと。「雨がこんな風に今年みたいに、時々降るのはいいよなぁ」と所長が助手席で言葉にした。乾燥した冬の日々よりは、潤いがあって風邪の流行の抑制にもなるだろう。僕も同じ思いだ。寂しい光景ともいえるが、雨のあるのはいい。誰もが歩くことにさえ慎重になって、互いを思いやる気持ちになれるのではないか。何より、雨が降ると芯まで冷える寒さが和らいで少し温みを感じる。寒い日だったので、支所内はいつもより訪れる人も少なく静かに過ぎた。

2010年12月20日Monday 晴れ
YAZAWAタオルが宙を舞ったなぁ。
夕べWOWOWで矢沢永吉の生中継ライブを見た。なりきり永ちゃんが武道館を占拠していた。111回目の自身の武道館ライブということだった。途中のMCで、30前にタバコをやめたいきさつを話した。友人といったハワイで、眼球を見て占う占い師から、タバコをやめないと死ぬといわれ、明くる日からぴたっとやめたのだそうだ。職業を問われ、歌手だと話していたので彼自身、「死ぬ」という占い師の言葉が、実際の死を意味するものだったのか、いつまでも吸い続けていると歌手生命を絶たれるよということだったのかは、結局わからずじまいといっていたが、矢沢という人は、歌に命がけで、ステージもきっちりと決めてくる。健康や体型の維持やボイストレーニングや諸々に気遣っているだろうということがわかる。この徹した生き方は尊敬してしまう。夕べのライブへ行った若者たちの何人かは、「矢沢発言」で禁煙するかもしれない。アンコールを終えて袖に消えるとき、「今夜は美味いビール飲んで帰りな」ってなことを言ってた。武道館からの興奮を引きずって入った飲み屋で、先ずはビールで乾杯し、ぐいっと喉越しの生を味わって、胸ポケットから取り出したタバコに火をつけようとして、ふっと我に返り、「俺、タバコやめるわ」ってそんなドラマが夕べはいくつかあったかなぁ。

2010年12月19日Sunday 晴れ
やっと書き始めた。
気分が乗らないということでもないけど、新年の準備に身が入らなくて、ちょっとずつしか進まない。今日はやっとお札を書き始めた。午前中とお昼ご飯後に1時間ほど。その後気分転換に落ち葉掃き。女房と4時半まで掃く。「住職これが最後だな」と、落ち葉を掃く僕に声を掛けて言ってくれる檀家もある。それだけ僕たちがよく庭に出て何かをしているということを知ってくれているのであろう。今日はサルも出ず静かだった。最後の落ち葉掃きは何箇所にも火をつけて燃しきった。掃いた落ち葉を塵取りで取るときに腰を上げたら思いっきり松の枝に頭をぶつけた。血は出なかったがタンコブになった。坊主頭は頭をぶつけることに気をつけなくちゃならない。静かに日曜日が終わりになっていく。女房の友達が漬物を届けてくれた。静岡からもKさん墓参に来てくれる。甲府のWさんも、暮れの付け届けに来てくれる。何かと忙しなくなり始めた。

2010年12月18日Saturday 晴れ
金曜から土曜。
夕べの忘年会の酒が深く残っていて、おまけに両方の肩と腕とそれに首の後ろまでが、重石でも乗せられているかのように激しい加齢痛だった。忘年会は韮崎にあるお店で、増穂から高速を使っていった。高速を走って忘年会に行くなんてのは今まで一度も経験がない。それにお店の中の部屋も椅子席になっていて、快適に日本酒の熱燗で通してしまった。うまかったなぁ。
というわけで、今日できたことなんて書くにも値しないようなことでもあるが、先ず、門松用に取っておいた孟宗竹を鋸で斜めにカット。本堂2箇所と庫裏の入り口分の竹だけ準備。松を皆剪定してしまったので、こりゃぁまずったなと山に入るも最近は松が生えていないので、午後クルマで近くまで採りにいく。これで後は来週飾り付ければいいだろう。お昼近くから猿が集団で来た。彼らも生きるために必死なのだ。それにしても、猿が群れてのんびりと何かを食んでいる畑や道端に、人の気配がまったくないのだからなんとも寂しいものである。
夕方、渡辺さんが柚子をもいで訪ねてくれた。昨年も末に届けてくれた。ちょっとの間だったけど、話している間にも柚子の香りが漂ってくる。柚子の香りはおそらく誰もが好む匂いではないかと思う。酒をちょっと控えて晩飯を終える。

2010年12月16日Thursday くもり
死んでも生まれても同じ人間。
7時45分過ぎに家を出るのだが、今朝はどんよりと薄暗くて、山門の蛍光灯も集落の外灯もすべて点灯していた。冬枯れの朝だった。朝、深沢七郎「笛吹川」を読み終わる。こちらは通して会話で構成されている小説であったが、甲州弁丸出しの会話は面白く、著者の思いや人柄や生まれ故郷を愛する姿のようなものが伝わってきた。
今日は一日K税務署で研修会。演習問題など出されても、ことばの意味もわからず電卓を使おうにも使えず、ひたすら耐えて一日を過ごす。
「深沢七郎傑作小説集1」のあとがきの最後の一部をここに載せておきたいと思う。「誰が生れて、誰が死んだとか、全然新しい個人が生れたとか考えない。つまり、死んでも生れても同じ人間だということ、つまり、誰が生れても、誰が死んでも、人間たちは生きているのである。なんと、すばらしい考えかたではないだろうか。そんな魅力で私は『笛吹川』を書いたのである。人は生れて、死んで、歳月はたつのである。事件があっても、なくても、としつきは経って、なんの意味もなくすぎて行くということだと私は思う」。

2010年12月15日Wednesday 晴れ
風鐸。
今朝の5時は風が強く、本堂の四隅の風鐸が激しく揺れて鳴っていた。空は満点の星だったけれど、生暖かい強い風が吹いていた。お勤めが終わっても続いているので、本堂の正面は閉めたままにしておいた。この風が、しがみついている木の葉をみんな落してしまうだろう。お不動様が今朝は厨子の内側に座っているので、少しいつものお勤めより僕の気持ちも緊張していたかもしれない。なにか回りにうごめくようなものの気配が身体に感じられて、本堂も客殿も身体が震えた。
7時を回って、少し風も凪いで着たので本堂の扉を開ける。生温かい空気。御札の申込み昨日と今朝で2件。

2010年12月14日Tuesday 晴れ
鹿が来なくなればとりあえず僕はいい。
猿・猪・鹿など獣たちからの農作物の被害を防ぐために、集落内に獣除けの防護柵を設置することになり、地権者の承諾を得るために、この対策に関わる役員さんが夜訪ねてきた。寺のものも一筆あったのでハンコを押した。23年度末の完成を予定しているようだが、とにかく早くできあがって欲しいものである。猿なんかはきっと慣れてしまえば柵を越えてしまうかもしれないが、目下の僕の敵は鹿なので、鹿が里に降りてこなければいいと思っている。先日も、気がつけば、花桃の若い木がすっかり皮をむかれてしまっていた。せっかく植えた桜の苗もほとんど全滅である。これは鹿の仕業であるので、これを何とか防ぎたい。葉をつけて、小さな木でも花を咲かせてくれていた苗が、皮をむかれて芽を食べられた姿はあまりにも見るに忍びない。

2010年12月13日Monday
楢山節考を映画で見たこと。
温泉施設の漏水箇所が見つかったので、明日から臨時休業することに決めた。早い決断でよかった。明日は休まねばならない。お不動様が帰ってくる。寒くて冷えた雨の一日となった。明日もこんな感じなのだろうか。
夕べから深沢七郎を読み始めた。「楢山節考」から「笛吹川」に進んだ。「楢山節考」は改めて読んで、小品だがしっかりとした重みがあって、芯から感動を与えてくれる小説であった。終いの譜面も、いつ読んだのだったか思い出せないけど、「あー、この譜面見たことあるなぁ」。役場に入ってすぐの頃、2度目の映画化となった坂本スミ子と緒方拳のを増穂にまだあった映画館で、僕の上司だった係長と二人で見た。詳細は省きたい。まだまだのんびりとしたいい時代だったのかもしれない。

2010年12月12日Sunday 晴れ
「カムイ伝第二部」読了。
午後第二部全12巻を読み終える。これで年末のことに取り掛かる気分になった。第二部は猿や野犬の世界が半分もあったように思う。まだまだ続いている。第三部は構想中であるとか。でもいつ再開されるのかわからないのだ。きっと作者自身もそうなのかもしれない。この夏からカムイ伝を図書館で借りて、第二部はリクエストして図書購入していただいた。図書館を今後も大いに利用していきたいと思う。読書の楽しさを図書館が僕に改めて教えてくれた。
シメを切って、頭を刈って夕のお勤めをして、いつもの静かな日曜日。

2010年12月11日Saturday 晴れ
落ち葉掃く。
どうも「カムイ伝」を読み終えるまで何もする気になれないみたい。11巻に入ったので明日中には12巻まで読んでしまえるか。午後、久田子にヒサシさんがためてあった落ち葉の袋を持ちに来る。これでまた来年我が家にまた畑のものなどいただけるかもしれない。泡盛も一本もって行ってもらった。一時漫画を閉じて女房と落ち葉掃きをした。田島の義姉さんの畑用に二人でまた袋詰めした。まさに売るほどありますです。単純な作業がまた気持ちいい。詰めるばかりでなく、ちょっとは落ち葉焚きもしたりして、白い煙と匂いを楽しんで。静かな暮れの土曜の午後。娘を甲斐岩間へ迎えに行き、帰りがけに西嶋の町に入ってイルミネーションのさわりを覗いてきた。5時半頃だったのに、臨時の駐車場も車が埋まっていて歩いている人も大勢。年末の名所になったな。

2010年12月10日Friday 晴れ
金曜の夜、今夜も泡盛で晩酌。
檀家のSさんから泡盛6本セットを送っていただいた。勿論一升瓶である。3年ほど前、盆の棚経で世田谷のお家に行ったときに、「今は、毎晩二人でこれ(泡盛)を飲んでるんですよ」と、コックのついた泡盛専用の瓶サーバーから僕にも一杯くれて、「40度超えてますね、山梨なんかじゃなかなか売ってないですよ」というと、沖縄から取り寄せてるんだといい、その後年に2回ずつ僕にも送ってくれるようになった次第。夕べ久しぶりに飲んで、風呂上りにもう一杯を、女房が友人から貰ったという黒糖生姜飴舐めながらやると、こればまた馬鹿ウマ。やっぱあうんですねぇ。
温泉施設の重油の消費量が先月から異常で、何か原因があるだろうと昨日の午後から関係者に相談したり、施設のボイラー室を業者に確認してもらったりして原因がつかめた。どうも浴室の配管から湯が漏れているらしいのだ。それで、浴室でシャワーを使ったりしていると、常時低温の源泉が補給されるから、ボイラーが休まることなく燃え続けているってこと。まあとにかく原因が特定できたのでよかった。来週月曜の休館日に漏水箇所を突き止めることになった。そうか、今日はボーナスが出たんだっけな。僕はこういうことに無関心。

2010年12月9日Thursday 晴れ
風呂でのんびりすれば、腕や肩の加齢痛もいくらか癒えるだろうか。
今朝はお勤めを済ませてから、居間のホットカーペットの左側半分だけに通電させて、コタツの上のノートPCを立ち上げて、いつものように軽く音楽を流しながら本を読むんだけど、夕べ帰ってからMP3でDLした「Lennon Legend: The Very Best Of John Lennon」を流した。まだこの時間Johnは当時生きていたんだと思いながら、カムイ伝を読み進めた。8巻目に入った。少し前に、同じようにMP3で落としたボブ・マーリーやインナー・サークルをCDRに焼いて車の中で聞いたら、ベース音が僕の好みに良く鳴ったので、長く聞いていられるこのファイルで、Johnの11枚組みの企画CDボックス「SIGNATURE BOX」も、少し時間かかるかもしれないけど今DL中。
今朝は出勤してすぐに門野の湯へ行き、浴槽の湯の水質検査のため容器に採水した。書類を書いたりしていると、営業時間の9時前になると、もう3人のお年寄りが来た。話を聞いていると、今日はまだ何人か連れが来ることになっているようだった。朝からの風呂を楽しみながら、のんびりと一日をここで過ごすんだなと思いながら職場に戻ってきた。

2010年12月8日Wednesday くもり
毎年この日に鮮明に思い出していること。
ジョン・レノンは1980年12月8日22時50分に、ニューヨークで凶弾に倒れた。ジョンの事件の時間は現地時間であり、彼が撃たれて息を引き取った時刻、14時間の時差がある日本では12月9日の午後1時前ということになる。30年前の12月10日のおそらく午後3時以降にジョン・レノンの死を電話で伝えられた。僕は雪深い信州:美麻村の廃校の宿泊施設「遊学舎」に居た。彼の死を伝えてきたのは、何日か前に宿泊していったお客さんからだったように記憶する。その冬の師走は、地元の古老も覚えがないというほどの積雪があり、巡回に来た消防団からは、「早く雪下ろしをしないと校舎が潰れる」と注意を受けていた。青空が覗く日もあったけれど、来る日も来る日も、降り続く雪の鈍色の空だったような気がする。少し前に別の宿泊客が置いていってくれたジョンとヨーコの新作「ダブル・ファンタジー」は、食堂に置かれたターンテーブル上で連日回り続けていた。閉塞感を頭一杯に感じながら毎日毎日「ダブル・ファンタジー」を聞いて過ごした。12月9日の夜、僕たちスタッフは、厨房の灯油ストーブを囲みながらジョンとヨーコのために祈り、白馬錦を飲んだ。実は12月9日未明に、オーナー婦人の佳世さんに赤ちゃんが生まれていた。夜中に破水して、雪道を車を走らせて大町病院に運んだ。松尾君は酒を飲みながら、「赤ちゃんはジョンの生まれ変わりだね」と何度も何度も口にした。未熟児で生まれ、一ヶ月以上病院で過ごすことになった女の子は、父ヒトシさんから葉菜と名付けられ、佳世さんが一足先に退院してきてからも、彼女が搾った母乳を哺乳瓶に入れて僕がせっせと大町病院に届けた。ジョンの追悼の酒宴が終わりになり、深夜、別棟の階段下の倉庫(ねぐら)に戻り、僕は小さな明かりの下でインド香を焚き理趣経を読んだ。中に居る数人のスタッフは、皆それぞれに勝手に自分の塒(ねぐら)を決めていた。僕の居た階段下は、かつて跳び箱やマットが置いてあった。コンビニで売っている三角形のサンドイッチのパッケージの形をした空間であった。理趣経の初段にある「十七清浄句」は、ジョンとヨーコが交互に歌う「ダブル・ファンタジー」のように、清浄なる菩薩の境地を教えている。大学を出ても就職することを拒否して、入った寺をも出奔して信州の寒村に流れ着いたが、僕はかつての麻の産地で初めて自らの出家の大事を思い、経を読み祈ることを自発した。寺を離れ、袈裟も僧衣もなかったけれど、寺にあって僧らしく振舞うような生活から脱し、寺にあっては到底ならんであろう境地にたどり着いた心地を感じていた。
ジョン・レノン忌には、これらのことが今もって鮮明に思い出されるのだ。問われても応えられないが、震えている気持ちを持ち続けていたいといつも思っている。30年経ったいま、僕は生れた寺の住職になり、一片の後悔もなく、空海の血脈を授かった僧であることを我が道であったとは思っている。

2010年12月7日Tuesday くもり
夜になって雨。
この時期の雨は本当に冷たい。身体の芯にまで沁みてきそうに情けのない雨に思える。カムイ伝第二部を読み始めて、5巻目の途中になってやっとカムイ自身と、姉のナナや夫の正助が現れた。待っていたので、これから一気に12巻まで読破tだ。5巻までを返還して残りの6冊を借りてきた。これを読んでしまわないと暮れの準備にかかれそうにない。などと言い訳がましく、毎年先延ばし延ばしになってしまうのだ。
今日の午後はK税務署で、所得申告についての行政担当者への説明会があり、初心者の僕も参加してきた。来週あと終日の説明会と半日の説明会がある。難しい用語や計算方法や仕組みがあって、わかるというよりも、税に触ってきたというところだ。帰庁すると、所長より今月末までに自己申告書を提出するようにと。いろいろ考えてしまう。

2010年12月6日Monday 晴れ
お不動様に2ヵ月半ぶりに再会。
県立博物館の開館5周年記念特別展が最終日を迎え、午後2時半から休暇を取って女房と博物館へ行ってきた。行く途中に市川大門の丸井紙店に寄り、新年の来山者用に絵馬と破魔矢を買う。5時に閉館となる時間に中に入り、久しぶりでお不動様と再会。再び寺にお帰りいただくため、仏像から魂を抜く作法をする。職員の皆さんからは「長い期間ありがとうございました」とお礼される。このお不動様は大聖寺住職によって目が開かれていますと、来館者にも説明を加えてくれたようで、それを聞いた方々が手を合わせて拝していたというありがたいお話も聞くことができた。僕自身は少し寂しい思いがなかったわけではないが、無事お会いして、もう一週間後にお帰りになるということで心も穏やかになった。よい年の暮れと新年を迎えたいものだ。

2010年12月5日Sunday 晴れ
年賀状を印刷。
まあまだ早いかとも思うが、片付けてしまえばそれなりにひとつずつ済んでいくので、やってしまったほうが落ち着く。印刷だけ済ませてしまったので、あとは宛名のみでよい。プリンターを普段あまり使うことがないので、これの機嫌取りのほうが厄介なんである。カムイ伝第二部の3巻まで読み終わる。意外なことに3巻まではカムイはまったく現れない。いささか拍子抜けなのだが、途中で放り出すわけにはいかない。
なめこを少し収穫してお昼に味噌汁。もうおしまいかな?午後側溝の落ち葉の掃除。頭を刈って、お勤めをして、無事日曜に幕。

2010年12月4日Saturday 晴れ
支所日直。
夕べ喜田で飲みすぎ。日直で正月のシメなんかを切ってしまおうと考えていたけど、ほとんどはかどらず。それでも、コタツに寝転がって「それでもあなたの道を行け インディアンが語るナチュラル・ウィズダム」読了し、カムイ伝全集の2巻までを終える。帰りがけにこの3冊は図書館の返却ボックスに入れてくる。
支所は終日、業者による庁舎のガラスのクリーニング。16時30分に作業を終了。日の暮れが早い。今日は死亡届もなく、からだを休めるには十分な一日だった。ヴァンフォーレの今年最終ゲームも、0:0で終了。一部昇格を決め手から結局終いまで勝ちなし。これでは来期が危ぶまれる。所長はスタンドでため息でもこぼしたのではないか。明日の日曜に少し稼がねば。

2010年12月3日Friday くもり
カムイ伝第二部が読める。
雨は午前中で上がってけれど、期待していたほど気温は上がらず、薄暗いような一日で終わる。石和鷹著「茶湯寺で見た夢」夕べ布団の中で読み終え次の本、嵐山光三郎著「桃仙人 小説深沢七郎」に入り、今朝お勤めの後5時半から読み、出勤してから読み、読了。深沢七郎という人物を想像するに、まさにこのような人だったのだなというのがくっきりとムービーのようにわかる嵐山さんの本だった。これは持っていてもいい本だな。昼休みから「それでもあなたの道を行け インディアンが語るナチュラル・ウィズダム」ジョセフ・ブルチャック著(中沢新一+石川雄午訳)を読み始める。これで借りている図書館の本は終わりになる。インディアンという呼び方を蔑称だといわれ、Native American(アメリカンの先住民)と呼ぶべしといわれて久しかったが、今日ネットで見たら、いやいや彼らは自ら、「我々の民族名はインディアンである」と公式に議決表明している。」とある。アメリカ大陸の先住民族という呼び方のほうに彼らは違和感を感じるようだ。そうだよなぁ、先住民は失礼といえば失礼だな。彼らの島であり大陸であったわけだ。
今日はもっとしかしいいことがあったのだ。内線電話が鳴り受話器を取ると「図書館のYです」と。僕が要望していた『カムイ伝全集[第二部]』全12巻が今日入ると伝えてきてくれたのだ。なんと!図書として購入してくれたのだ。ありがたい。取っておいてくれるとの事で、とりあえず6巻までを借りた。さーて読むぞー!

2010年12月2日Thursday 晴れ
僕は海老蔵のような賑やかな場所での酒は苦手。
俄かに海老蔵が流行りだしている。事件の真相も、目撃者の証言やらから、海老蔵がどうも挑発して事の発端になったのではないかとまで急展開してきている。まあ海老蔵自身には興味はないが、世の中を渡るには、自分の立ち居地をよく眺めて知っていることが大事だ。「そういうこというなら『海老蔵にしちゃう』からなー」なんて使い方ね。こんなことで、全国の小学生たちに「海老蔵ゴッコ」ブームが到来するようなことになったら恥ずかしい。
天気は下り坂のような気配だ。もう今年はたいした収穫が望めそうにないナメコに、ちょっと雨でも来ればひと盛りしてくれそうな予感をもっているのだが。夕べはいただき物の椎茸と、船橋のSさんから届いたばかりの日本酒を封切って、いい夜だった。そのおかげで、布団の中で読もうとした本がまったく読めずに枕元にあって朝であった。昼休みこの本の貸し出し期間の延長を図書館にお願いし、今日は何も借りずに、これからはもっと慎重に1冊乃至2冊にしておこうと反省。
母の初めてのデイサービス利用は、何とか無事に終えたようである。彼女からは特別な感想などは聞かれなかったが、風呂も利用したようで、送ってきた職員から「お風呂が気持ちいいといってました」ということを女房が聞いたそうだ。先ずはめでたしめでたし。

2010年12月1日Wednesday 晴れ
師走入り。
今年最後の月に入った。臨時職員の事務などで今日は一日自分なりには忙しかったと思うがどうなんでしょう。源泉徴収票も全部配ってしまった。まっ、いいとしておこう。
トイレに掛けてある、毎年明王寺の冬至祭りのときにいただいてくる智山派のカレンダーをめくる。12月の法話のタイトルは「慈悲」である。こんなことが載っている。「慈−喜びを与えたいと願う心」「悲−苦しみを取り除きたいと願う心」。慈悲の心で結ばれたら、憎しみや争いはなくなり、平和な世界が必ず訪れる。皆が安らかに暮らすことができる。
そんなこたぁ当たり前だと思いがちだが、ほんとにそうなんだよね。わかっていても当たり前のことを作り上げていくことができないんだよね。武器を楽器に持ち替えようって、昌吉は言っていた。そこに近づいていく心を育てていきたいものだ。

2010年11月30日Tuesday 晴れ
いよいよ介護サービスの利用だ。
今朝は早起き。4時半の空は満天の星、くっきりと輝いて清浄なる天界。本堂に渡り、灯明を灯して勤行。今朝はたっぷりの時間を読書。石和鷹著「地獄は一定すみかぞかし」読了。著者は歌人・法華僧でもある福島泰樹の法昌寺に眠る。この本は、真宗大谷派の僧であった暁烏敏(あけがらすはや)を題材にした小説。名前だけは、大法輪なんかで知ってはいたけれども、傑僧でもあり一般常識に括ることのできない人間であった。闘病の中でこの長編作を最後の作品として書き上げた石和鷹に献杯だ。図書館への返却期日が迫っているので、急ぎ次の本、石和鷹著「茶湯寺で見た夢」読み始める。
母の介護保険サービス利用で、週一度近くのデイサービスに通ってみることとし、今日の夕方女房が契約を済ませてくれた。見学に一度行ってはいるが、実際に利用してみてのことはまだわからないが、本人からは「行きたくない」などの言葉は出てこない。通ってみて違う環境の中で時間を過ごしてみることがいい結果を生んでくれるとこちらもありがたい。

2010年11月29日Monday 晴れ
これも報道の自由の範疇なのですかと問いたい。
「龍馬伝」最終回良かったなぁ。少し長く楽しめたし、一年があっという間に終わってしまったかのような一抹の寂しさがあったなぁ。来年の大河ドラマも僕を引き込んでくれるだろうか。NHKがやっぱり一番よく見るな。朝の連続テレビ小説と日曜の大河ドラマは、随分と楽しませてくれる。Yahoo見てたら、「『龍馬伝』暗殺シーンに『愛媛知事選』当確テロップで苦情200件」なんて見出しを見た。僕は昨日の最終回、夕方4:15からの分を「坂の上の雲」と併せて録画しておいたので、こんなテロップは見ないで済んだ。2度目を見た時だって録画したものだったので知らなかった。そうだな、終盤のいいシーンの場面に流れたんじゃ、見ているほうは興ざめだよな。
暖かな一日だった。朝は阿手古沢の道路で3度だったからね。今朝はホンと布団を抜け出したくない月曜の朝で、それに冷え方もきつかった。5時半起き位になっちまったなぁ。せめて5時でなければ本が読み進められない。精進すること。
夕飯時のニュースで、県内の大学生の就職率が38%であると伝えた。驚きはしない、娘も都内の大学でこそあるが就職が決まっていない。気になるのは、「学生が大手企業にばかり眼を向けて、中小企業を見ていないからだ」というような伝え方だ。これとまったく同じことを先日の全国版でも伝えていた。これが僕にはよくわからない。では、中小企業は、担い手がなくて求人を積極的に行っているのだろうか?ニュースは、中小企業が求人をしているのだということを実際に把握しているのか?では、山梨県内の中小企業とは一体どういう会社なのか?具体的な名前が数社でも挙げてもらえたら、シュウカツもできようというものである。介護関係の求人くらいしか、峡南地域にはないのが現実なのに、何を根拠に「中小企業に眼を向けろ」といい、就職未内定者を揶揄するような報道をするのか。もう少ししっかりと本当のことが伝わったり、伝えられたりするだけの真剣さがほしいよね。

2010年11月28日Sunday 晴れ
護摩を焚く。
28日の不動尊縁日の護摩を焚く。朝食をとって、9時半からの秋葉社の火伏せの経に行く前に護摩を焚いた。娘の就職のこと、病気療養中のT 兄ちゃんのこと、Y家の息子たちの合格祈願などする。欲張ってはいけない。28日の護摩を焚けたのはよかった。多分もうこの次は大晦日の年越し護摩になる。
9時半に秋葉社に行く。皆待っていてくれる。法螺貝を吹いて、経をあげ、この冬の火災無きことを祈願する。お神酒を飲んでしばし談笑。帰って、午前中は護摩壇の片付けと掃除で過ぎる。もうあと2週間ちょっとでお不動様もお帰りになる。待ち遠しい。待ち遠しく思いながら本堂の掃除をする。風も少なく穏やかな日曜。暖かい。
午後少し休んで、洗った護摩壇の仏器などを荘厳する。その後落ち葉掃き。落ち葉を大きなビニール袋に詰める。もう20袋ほどがたまった。モミジも大分散り始めた。ケヤキはもうほとんど裸。少し焚き火もする。やはり僕は少し落ち葉を焚かないと気分が出ない。白い煙の立ち上るのを手を休めて眺めるのが落ち着くし好きだ。護摩を焚いて祈ることと、落ち葉焚きの煙を追いながら人を思うことも、僕には同じ祈りである。喜多郎を聞きながら、女房と会話をするわけでもなく、互いに落ち葉を静かに掃いていく。暗くなってきて、僕は夕のお勤めをするために少し早くしまう。彼女も僕のお勤めの終わるころには片付けにかかる。薄暗くなるとこの時期はもうあっという間だ。よい日曜の終わり。

2010年11月27日Saturday 晴れ
とってもいい天気。
一日とってもいい天気。煤払いもした。VarnaGhitaも外で聴いた。護摩の準備もした。少しは本も読めた。あたたかな少し強い陽射しがあって、紅葉もいい。メダカも瓶の中で元気に泳ぎまわる。ご朱印をくださいと訪れた夫婦が紅葉を褒めていってくれた。午後からはサルも来た。暖かな土曜を里に降りて遊びたかったのか。法螺貝もいい音で鳴った。頭も刈った。残っていた檀家への通知も歩いて配り終えた。竹林を長靴で歩いて気持ちがよかった。申し訳ないくらいに気持ちよく一日が過ごせた。HPも「新年の護摩札承ります」に更新。さて今年は申し込みがいくらかありますかねぇ。

2010年11月26日Friday 晴れ
VarnaGhita(バルナギータ)。
VarnaGhitaのalbum「Connection of Life」がティラキタから届いた。とても欲しかったalbumである。でも3,000円のCDには、ここもう何年もお金を出すためらいがある。高すぎると感じてしまう。VarnaGhitaのalbumは、メジャーな会社化のものではないので、どうしても少し高くなってしまうことはよくわかるのだが、どうしても買う決断にまで至らなかった。だが、ちょうど誕生日ということで、アジア雑貨のティラキタから「誕生日おめでとうで2割引しますよー」ってmailが入った。早速メッセージを嬉しくいただいて注文した。今夜届いたのを聴いている。女房は病院の厨房スタッフの忘年会で出かけた。焼酎をのんびりと飲みながら、内田ボブ/MABO雅弥/ジミー宮下からなる「VarnaGhita」を聴いている。ナーガ(長沢哲夫)の詩にボブが曲付けたものがこのalbumは多い。ナーガの朗読も収められている。彼は今も南のはずれの諏訪之瀬島に住む。ナナオ亡き弓の島に時々は詩の朗読にやってくるという。生きる場所や術は異なってはいても、僕にとっては特別なあこがれてしまう人たちである。もう数日で師走になる。ナナオの命日も来る。娘の就職のこと。母の初めてのデイサービス通いのことなど、決まって欲しいこと、どんな風に展開していくのだろうと思うことなど、大盛一杯の飯茶碗を目の前に差し出されているようだ。

2010年11月25日Thursday 晴れ
僕も暇つぶしで生きているような心であればいいのだな。
「生きているのはひまつぶし」深沢七郎著を朝読了。この人の生き方の礎となる思いが少しわかったような気がした。棚に放ったままになっていた古本の「深沢七郎傑作小説集全4巻」を近いうちに読み始めてみよう。次に「地獄は一定すみかぞかし 小説暁烏敏」石和鷹著を読み始める。ほんのちょっと前の勢いもさすがに萎えはじめてきてしまったのか、早起きが辛くなってきた。所詮こんな男なんである。
妹弟子からmail来る。おじも80歳を迎えたという。父を亡くした後、僕はこのおじや、父の弟である叔父に何かと頼る時間を過ごしてきている。この師父らの健康と長命を願わずにはいられない。それから、怠け者で気の短い僕は、年に何度かは挫けてしまいそうになり、落ち込んでしまうことがある。二人には鉄槌を下すほどの大河であって欲しいと思うのだ。弱い心と克己する心と、常に相反するような心の状態にあって、おそらく僕の人生なんてこんなレールのようなものが伸びていくだけで、何処にも到達しないだろうし、これでよかったなんてことにはならないだろう。仏陀やお大師様が歩き続けたように、まあお二人のような行脚には遠く及ばないかもしれないが、迷いつつ悩みつつ、あるがままの一日を歩いていくしかないのだろうきっと。

2010年11月24日Wednesday 晴れ
隣国の惨事に。
互いに十分に人を殺せるだけの武器を保有すれば、こういう事態は起こるべくして起こるということなのだろう。武器を捨てることができなければ、永久にこういうことは地球上から無くならないだろう。永久に、殺し合いの諍いが消滅するなんて事はないだろう。このくらい人間なんて惨めで低い生き物なのだ。なぜ終わらないのかということを考え続けるために宗教はあって、祈りは続けられているのだ。面目を保つための生きかたなどしたくはない。命令を下す者たちには、悲しみの感情というものはないのであろうか。残念である。

2010年11月23日Tuesday くもり
54歳になった。
昨日から降り続いた雨は雨脚が衰えることなく今朝2時頃まで降っていたのだろうか、雨音が止んだので、「雨が上がったな」と布団の中で感じていた。従姉から54歳を寿ぐメールが来ていた。去年は何かにとりつかれたように頻繁にメールがあったのに、今年はトンとこなかった。僕にメールを出さないことで何か神仏に願でもかけているのだろうかと勘ぐってしまう。まあどちらでもいいや。
午前中は檀家宛の年末の通知作り。それから中村元著「釈尊の生涯」読了。柔らかな優しい仏陀の本だった。すっきりと晴れない日だったし、雨で葉はだいぶ散ったが落ち葉掃きには向かない日だったので、テレビでも見ていようかと午後少しうとうとしながら見ていたけどつまらなくて外に出てみた。墓地への坂道と溝に落ち葉がいっぱいだったので、これだけは片付けてしまおうと少し精を出す。気持ちのいい時間を過ごした。雨がまたポツポツと落ちてきた。特別なことはなかったが、休みの日はいいなぁという感想。

2010年11月22日Monday
加齢痛。
加齢臭は聞いたことがあるが、この臭いが僕からも発せられているとはまだ感じたくないし、幸いあからさまにこのことを指摘されたことはない。では、加齢痛というものはあるだろうか?と、これを書いたところで、もしかしてと思って“加齢痛”を検索してみた。あるんだななんとこれが。まいったなぁ、ほんとにあったよ。まさに誰もが思うような痛みのことだ、加齢痛。で、僕にもこの加齢痛があるってことだ。1年か2年くらいになるだろうか、寝ていて、腕と肩に結構厳しい痛みを感じることがある。毎日ではないが、週に半分くらいはあるか。夕べ女房にこのことを話したら、似たような痛みはもうこの年になると、誰にもあるのが当たり前のようだ。加齢痛とつかず離れず、程よい距離を保ちながら暮らしていくのだな。
一日朝から雨。車で出たが、一宮さんのでUターンして傘を持った。一桁の温度で冷たく寒い一日。晩飯を終えた今もまだ衰えることなく降り続けている。明日には晴れると天気予報だが。明日目が覚めると54歳になっている。加齢痛という言葉を閃いたが、こんなこと当たり前に存在していたのだ。恐れ入りました。鍋の晩飯はとっても美味かった。美味かったので食っちまって、湯割り焼酎の入る隙間がなくなってしまった。

2010年11月21日Sunday 晴れ
秋深くなり、紅葉も進む。
隣りでも落ち葉掃きに精を出しているようで、午後からは白い煙がまっすぐに上がった。僕も石段や側溝の落ち葉掃きをする。夏以来のスピーカー外出しで喜多郎流しながら。昨日畑から移植したチョコレートコスモスが今朝イノシシに掘り返されて無残だったので、もう一度植えなおして、回りを竹と針金で囲った。この悪戯者にはうんざりである。午後から少し今日は本も読む。「釈尊の生涯」の後半がなかなか進まないので、借りてきた深沢七郎著「生きているのはひまつぶし」も平行して読み始めた。昨日も今朝も法螺貝の鳴りがとてもよかった。習練です。午前中富士宮より4名来山。不動明王の留守を残念がるも仕方がない。甲斐源氏の子孫であるかもしれない家系の方のようであったが、申し訳ないが僕にはあまり興味がない。明日行ったら明後日また休みだ。ゆっくりと2日間寺の秋を楽しめました。

2010年11月20日Saturday 晴れ
読書のできない休みの日。
午前中は墓地の落ち葉掃き。桜の古木の下で落ち葉焚き。折れた木や、秋の彼岸の頃の墓参にあげられたまま枯れてしまった檀家の墓からそれらもまとめてきて片付ける。今日は猿も来ていなくて、午前中は風もなく静かに晩秋の気を感じながら掃除。枯れ木を燃やして火があって、こういうときが至福だ。昨日休みを取ったせいで、今日が日曜のような気がしたが、今日が土曜、何か一日もうけたような感じ。午後は、畑のチョコレートコスモスを掘って、庫裏の玄関前のカリンの木のそばに移植した。花泥棒さんからの避難でもある。ここでしっかりとついてくれるといいけど。その後、庫裏の裏庭の落ち葉の掃除。ニシキギの紅葉もいい。今日は一日静かにじっくりと外の掃除。休みの日は本が読めない。外で、これをやってあれをやって、気がつくままに、便所の掃除になったり、なめこのほだ木を見に行ったり、紅葉を写真に収めたり、いろんなことを思いつくままにやっているとあっという間に一日が終わってしまうような感じ。とてものんびりと本など読んでいられない。夜の読書も休みの日は無理。酒を飲むということがのんびりと本を読む代わりになってしまう。

2010年11月19日Friday 晴れ
若松屋葬儀行く。
9時過ぎに三吉屋へ。おねえさんを乗せて葬祭ホールへ。親族大勢もうホールに集まっている。このホール実は今日がオープンして初の葬儀。初が102歳の嫗である。決して目出度いとまではいわなくとも、大大往生の102歳である。ロハで請け負っても今後の宣伝にでもなったのではないか。上上天気。11時から葬儀告別式。10分前倒しで願いたいと。僕は始まる前にお出でになった、お導師を務められる波木井山のご住職と式衆の皆さんに挨拶し、それから僕と故人との関係を話し、紫衣と七条袈裟で臨むことのお許しをいただく。11時10分前に始まり、12時10分に終了。戒名は、前住職による逆修であった。先に亡くなったおじさんが4期総代を務め、大本願人となっていたことによるものらしい。丁寧にお供養していただいた。久しぶりに日蓮宗の経を読んだ。今日改めて感じたことなんだけど、日蓮宗で日常読む経というのは比較的読みやすいのかもしれない。身延山のお膝もとの波木井では、今でも毎月隣保組みの家を持ち回りで、お題目を唱える夜があるらしい。こういう昔からの風習があって、だから在家の人たちも経に親しみがあり、僧侶と遜色ないほどに経を唱えられるのだ。若松屋のおばちゃんを送って、親戚という人たち(僕にはほとんどわからなかったりするので)とも顔合わせをしたりして、まあこういうお付き合いがいつまで続くのかなっていう気がしないでもないけど、母がまだこちらにも居るわけで、今日の日はよかったかなという感想。3時半過ぎに帰ってきて、本堂で夕のお勤めを早めに済ませ、落ち葉を掃こうという気持ちになって、ちょうど女房も所用から帰ってきて、「落ちが掃きをちょっとするわ」ときたので、俺もそのつもりだと、二人で夕の帳の下りるまで1時間ちょっと掃く。

2010年11月18日Thursday 晴れ
「会いたいけどなぁ...」。
事務室の中でもストーブを焚き始めた。エアコンの暖房だけでは室内を十分に暖められないのだろうか。灯油のストーブというのは、きれいに燃えてくれないと微妙に目に沁みてきたりする。ここがそうで、どうも気になって鼻水が誘われたりする。
夕べから「釈尊の生涯」を読み始めた。脈絡なく僕のひらめきのように読んでみたいと思う作家が浮かんできたり、こんな関係の本が読みたいと思ってみたり。この後は、深沢七郎、石和鷹あたりを少し齧りたい。
一人を認識しながら、大切な人たちを心に感じるとき、赤膚がむき出しのようなとても繊細で、生まれたての無垢な気持ちになれるものなんだ。昨日、僕は帰ってからも、Y兄ちゃんの言葉がずっと頭を離れなかった。「会いたいけどなぁ、会うことが俺自身も不安で怖いんだ、Tちゃんもあんまり人とは会いたくないらしいし」と。相手を思いやる気持ちがこんなにも切なく、深く悲しみを帯びて、不安にさえなるということ。年を重ねるごとに、垢やウンコがこびりついたような、頑なな角質層に蝕まれてくるけど、虚勢を張らずに生きることをよしと決めると、きっとこんな風に、誰も入ることのできない透明な心の水が底からコボコボと湧いてくるのだろうな。「仏法はあなたの心の内にある」というお大師様の言葉を、今日の僕はこんなことかもしれないと思う。

2010年11月17日Wednesday 晴れ
こんな坊主でも、親戚からは一目置かれるのである。
「チベットの死者の書」おおえまさのり訳、「植草甚一の研究」読了。寒い一日。昼休み当番を終えて弁当食ってから、若松屋へ行く。冷えて寒いので、102歳の嫗の亡骸は、からからとしているのであろうか、畳の上に敷いた布団に静かに寝ている。戒名が付けられて、白木の位牌が香炉の横に置かれていた。訪ねると、三姉妹と喪主であるY兄ちゃん夫婦が居間にいて、葬儀を請け負うJAの担当者と話していた。明後日が葬儀なので、おばちゃんにもう一度経をあげに行ったのだ。一昨日は体調を崩して臥せっていたY兄ちゃんにも会えてお悔やみの述べた。それから、告別式には、正装をして臨みたいと話すと皆それを喜んでくれた。おじさんが亡くなったときも、父が衣を着て座ってくれたのだと、マーコ姉ちゃんが話してくれた。「おかあちゃんには、永明が衣を着てくれるのは嬉しい」とってくれた。Y兄ちゃんは言葉も少なくコタツに居て、三姉妹がにぎやかに葬儀の打ち合わせをしていた。男は黙ってサッポロビールでも飲んでりゃいいか。この兄姉妹とこんなに話したことなんて記憶にない。自分で言うのはちょっと恥ずかしいが、親戚に僧侶が居ることを誇りに思っていてくれるのだ。僕にとってもありがたい。どんより薄暗く寒い側溝の蓋の上を歩いて午後の職場に戻った。
「チベットの死者の書」なんて難しくてよくわからなかった。わからなくても、これからの時間にまだ数回は読んでみようとは思う。寒い夜だ。満ちてゆく月はこんな夜にはくっきりと空に見える。

2010年11月16日Tuesday 晴れ
祈ること。時々は思い出してあげること。
冷え込みが厳しくなってきたので朝起きが辛くなってきた。5時半起床。本堂も冷え切っている。年をとることを重ねてきて、23日には54歳になる。涙腺の緩みもだらしなくなってくるのか。まあ一人の場所なので、憚ることはないのだが、勤行中に涙がこぼれてくる。理趣経を読みながらも、片隅には昨日の若松屋のおばちゃんの静かに眠った様子が浮かんできて、「永明が来てお経を上げてくれて、おかあちゃんが一番喜んでくれているわ」と言ってくれた近しい姉たちの言葉も思い出された。小学校3年生までを過ごした場所である。昭和31年に生まれて9歳までを過ごした。振り返ってみると、まだまだ貧しかった時代だったのだろうと思える。貧しかったけれど、隣り近所仲良く、50メートルと離れていなかった若松屋はもうひとつの家であった。懐かしい話を尊ぶようになる。なんだか、加齢臭を自ら発していることを認めているような気分に陥らないわけでもないけど、仕方がないんだね。
連勝のストップした白鵬関は、また今日の取り組みがはじめになる。再スタートできるうちは何度でもはじめ直したらいいのかもしれない。

2010年11月15日Monday 晴れ
自由にものが言えること。
アウン・サン・スー・チーさんの自宅軟禁が解かれた。当たり前の権利が行使できずに不自由であることほど憤りを感じることはない。嫌い!というだけで、幽閉してしまえるものなのか。夕べの龍馬伝でも、山内容堂に大政奉還建白書を書かせた後、後藤象二郎が立ち上がって龍馬に右手を差し伸べる場面があった。龍馬と手をしっかりと握り合う。土佐藩には武士であっても上士・下士の身分階級がはっきりしていた。脱藩して身の自由を得た龍馬であったからこそ、対等に発言できていたのだと思うが、これが人の世というものではないか。武士の身分も無くなるのかと山内容堂は龍馬に聞くが、龍馬は躊躇うことなく「そうだ」と応える。つまらないつっかい棒に寄りかかっている者ほど、いつまでも頭が切り替えられない。いつの世も同じことの繰り返しだ。中国の民主化だってそのとおりだ。百人いれば百の考え方が存在する。百の意見を等しくことが一番尊重すべきことなのだろう。これができない国は、いつまでも虚しい。劉暁波氏をすぐに開放すべし。中国のマスコミで飯を食っているやつらは、そのペンに何を込めて何を求めようとしているのか?白いノートに、白い色鉛筆で書いているのだとしたら、永遠にその思いは誰にも何も伝わってはこない。
若松屋のおばちゃんが102歳の天寿を全うした。仕事を1時間早くしまって寺に戻り着替えてから自宅に伺った。枕辺で観音経偈と般若心経をあげさせてもらった。マーコ姉ちゃん、ヨーコ姉ちゃん、ターちゃん3姉妹が弔問客を接待していた。懐かしい懐かしい場所だ。おじさんの葬儀は僕が役場に入ってすぐだったように記憶していて、いつだったか、「若松屋のおばちゃんて、死んだってこと聞かねぇなぁ」と考えたら、それから暫くしてからおばちゃんが百歳迎えて町長がお祝いに訪問するという予定を見たことがあった。身延に職場が変わってから、若松屋の前を毎日通っている。で、今日おばちゃんのことを知って、「本当にご無沙汰してしまいました」と経をあげてから頭を下げて謝った。ちょうど人の出入りが途切れていたので、ゆっくりしていけと言われ、1時間ほどを過ごした。懐かしい場所だった。
メールが来ていて、韮崎のYさんという方から。昨日身延山の帰りに寺に寄ってくれたということだが、留守をしていたので、御朱印も差し上げられずに失礼をした。訪う人のほとんどない寺なのに、こんなときに限ってこういうことがあるものだ。不思議は説明できない。秘密と一緒だね。次の機会にはしっかりとお迎えして差し上げたい。

2010年11月14日Sunday 晴れ
京都の秋に行く。
静岡駅から新幹線に乗り換える。品川から乗車していた娘と3人掛けの座席で合流。ウェスティン都ホテルに荷物を置き、大原の里へタクシーで。4時間ほどの貸切とする。運転手さんは愉快な人で、寂光院も三千院も丁寧に説明してくれたし、「ちょっと止まって!」と声かけてきては、写真を何枚も撮ってくれる。他の見学者に、撮る間だけちょっと空けて貰えますかなんて言葉も巧み。おかげでたくさんの写真が撮れた。黄砂で空は曇っていたし、紅葉もまだ始まりだったけど、訪れる機会はしょっちゅうあるわけではないので、これはこれでよかった。四条に出て夕食をとり、青蓮院の夜間特別拝観に行く。どこでも金がかかる。寺の景観を維持していくためには手入れもしなければならないのでお金はかかるのだろう。ぐるっと境内を拝観した最後に、不動堂が開けてあって、国宝の青不動の絵を外からではあったが拝することができた。まさかこの絵を見られるとは思っていなかったので、いい思い出となった。
一夜明けて今日は、ホテルの裏山が野鳥の探鳥路となっていて、30分ほど散歩してからバイキングの朝食。9時過ぎにチェックアウトして、歩きで南禅寺から哲学の道を銀閣寺まで歩く。途中道を反れて法然院にも寄る。ここは静かな寺。苔むした山門がなおいっそう静かさを引き立てている。銀閣寺は凄い人だ。修学旅行生もたくさんいる。お茶を飲んで、銀閣寺から真如堂まで歩く。女房は万歩計を付けていたので、2日間よく歩いた。真如堂は去年も来たんだけど、紅葉の見ごろは来週くらいになるのか、でも落ち着いた静かな時間でよかった。隣りの金戒光明寺の駐車場でタクシーを拾い京都駅へ。午後6時前には家に着く。夜の遅い寄託は次の日にきつい。録画しておいた「てっぱん」を見て、それから「龍馬伝」。

2010年11月13日Saturday 晴れ
チョコレートコスモス無残。
「だってほしかったんだもん」っていうことだけでは許せないような気がするね。昨日の朝サルの騒動で慌しかったが、出がけに畑の縁を歩くと、無残にもチョコレートコスモスが手折られて散らばっているではないか。せっかくいい花を咲かせてくれていたのに、これではあんまりだ。神も仏もないってもんだ。今回で3度目だ。花泥棒されるってのは、なんか一方で花愛好家にとっては勲章みたいなものだななんて、ちょっぴり嬉しかったりもしたが、なんのなんのそんなことは絶対にない。やっぱりこれはいけないことである。株から抜いてしまおうとしたようであるが抜けなかった。引っ張ったので、細いコスモスの首は皆千切れてしまった。だから通りすがりの犯行なんだ。はじめから盗っていくつもりできたら、スコップでも持って根こそぎ掘っていってしまうだろう。とりあえず、花を拾い集めて水を入れたバケツに非難させた。夕方帰ってきて、明日は京都行きなので、このままにしてはおけないから、朝顔の終わったコンテナに植えた。株分けや挿し木でも育つみたいだし、前回災難にあった花が、ちょうど今別のプランターで晩秋のチョコレート色の花を咲かせている。なんとか、育つといいけど。というわけで、いま朝5時40分。7時過ぎの富士川号に乗り、京都の秋へいざ行かん。

2010年11月12日Friday 晴れ
名前など付けられぬほどサルが来る。
あほな川柳のようなタイトルであるが今朝はまさにサルの襲来。(現在進行中)。ドスンという音で外を見ると境内から八幡神社付近にもいっぱい。ご飯を食べ終わってカメラを手に庫裏の面に出ると、なんと!イノシシまで一頭うろついているではないか。台所の女房をガラス戸を叩いて呼び、無事彼女もイノシシを目撃。あいにくイノシシはカメラに収めることはできなかった。イノシシも今朝のサルの多さに「オヨビデナイ、コレマッタシツレイイタシマシタ」とすたこら杜へ退散していったとさ。八幡神社の付近に?ぐ家人のない柿の木が何本かあって、それにサルが今朝は猛襲をかけていたのだ。いやぁ、今朝の後継は「見た!」者にしか語れない光景である。何せこれを書いている今だって、外はサルたちの騒々しくも忙しない生への営みが続けられている。

2010年11月11日Thursday 晴れ
育ちの良さ匂う植草甚一。
植草甚一面白い。1908年生まれ1979年没。この明治生まれのおっさんは、日本橋木綿問屋の一人息子。読んでいて、垢抜けていておしゃれで、なんというかその育ちのよさとでも形容するしかないのだろうか。買う本の冊数もはんぱじゃない。オーストラリアでは毎日本屋、古本屋へ出かけ、ダンボールに詰めて買っては、タクシーでホテルに運び込むというもの。何冊か以前に読んだことがあったが、また引き出して読み返してみようかなと思ったほど。まだ途中ですが。きっかけは何だったか忘れたが、あっそうか、「Torrentbit」で、Frank Zappaってアップされてるかなぁと検索したらたくさん出てきて、それで初めてザッパなるものを聴いたんだけど、これがなんとなく僕の好みにあって、パソコンで朝本読みながら聴いてるんだけど、これが植草氏の本には特によく似合うんだな。
職場では、今日は一日昨日からの続きで、土地異動通知のデータの打ち込み。夕方になってようやく終わり、明日の午前中でファイルまでできるだろう。

2010年11月10日Wednesday 晴れ
寒くなってきたので、今朝は通勤に袖なしのダウンジャケットを着た。
山尾三省・立松和平対談集「水晶の森に立つ樹について」は、昨日のうちに読了。実は、昨日本庁舎で補助金の会計検査があったので、朝から一日、検査員からの呼び出しがあればすぐに説明に行けるよう別室で待機していた。それで結局一冊読んでしまった。検査員からの呼び出しもなく、読書と会話の一日で終わったのだった。図書館の本がなくなったので、昼休み当番を終えてから弁当を食べて図書館に向かった。三省と立松氏の対談集がヒントになって、中村元著「釈尊の生涯」を借り、おおえまさのり訳「チベットの死者の書」、植草甚一「植草甚一の研究」を。先ず植草さんのを読み始める。少し軽いものを。植草さんのジャズの匂いやアメリカの匂いのする懐かしいエッセイを読み始める。
今朝は読む本が手元になかったので、10月11月号の大法輪を繰る。この本だけを定期購読しているが、隅々まで読むなんてことはほとんどない。早暁のJAZZをパソコンで聴きながら、あたたかいカーペットで読んだ。
本山から伝法学院の入学案内書類が届く。昭島に住む大学生が、来春、一年本山へ修行に行くという。お金もそれなりにかかります。藤井佐兵衛から「修験三時勤行式」届く。理智不二礼讃を自習しようと思っていたが、この経本の存在を知らなかった。

2010年11月9日Tuesday 晴れ
レリジョン。
今朝は4時半起き。月はなく空には星々。お勤めを静かにする。終わって読書。今朝から山尾三省・立松和平対談集「水晶の森に立つ樹について」を読み始める。お二人とも既に故人となったが、仏教者としての深く洞察する言葉がほとばしるように交わされている。朝のすっきりした頭に、すーっと染み込んでくるように感じてしまう。印象に残ったこと。レリジョン(religion)という宗教という英語があるが、ラテン語のレ・リジョンが語源になっていて、リジョンは結ぶ、レは繰り返すという意味なので、「もう一度結び直す」意味になる。宗教というものをこういう風に、religionから考えてみると面白い。「世間において失われてしまった自分自身と、もう一度本来の自分を結び直す」ということ。面白い。よい一日になりそうな気がする。

2010年11月8日Monday 晴れ
読書ペースを上げたい。
島田雅彦著「悪貨」、山尾三省著「水が流れている」読了。三省の本は、山下大明という写真家の写真に詩や散文が添えられたもの。悪貨は、純粋な小説だったのでホントに久しぶり。島田雅彦は初めて読んだ。ちょっと気になる作家だ。朝方の冷え込みも厳しくなってくるので、4時半起きがちょっとつらくなってきた。朝の読書時間でページを稼ぎたいのだから、なんとか5時前の起床は続けること。戒め。
午前中に本山へ電話をして、越石さんの修験得度の件と、来春傳法学院に学びたい寺院徒弟が居るので要項ができていたら送ってほしい旨を連絡した。修験得度は、本山まで出向かなくても県内の寺院で可能であるとの返事をもらったので、メールで本人にも連絡し、夜には玄法院のご住職にも連絡する。いい時期を見て、修験者としての得度式を山梨の仲間に手伝ってもらってしたらいいと思う。

2010年11月7日Sunday 晴れ
草刈り機しまう。
畑のコスモスを刈り、ガソリンを抜いて空ぶかしして2台の草刈り機を倉庫に片付けた。今年も春から秋までご苦労様でした。昨年に劣らず今年もあなた方二人は大活躍でした。本来なら、温泉にでもお連れして一晩その労をねぎらってあげたいところですが、シャイなお二人は口数も少なく、職人気質といいましょうか。「それでは御免ください」とさっさと倉庫に入っていかれてしまった。ゆっくり休んでくださいまし。お二人の分僕が今夜飲むことにいたしましょう。
昨日の午前と今日の午後護摩木を割り、山門の蛍光灯のカバーを洗い、ツツジの挿したのを3株地に下ろし、畑の生ゴミコンポストを別位置にずらし、メダカに餌をやり、暮れていく空を眺めて一日の終わり。楽しい夕べはもう昨日のこと。甲府の夜の街の明かりは賑やかだったなぁ。八日市場はなんて暗くて寂しいところだ。ひっそりと息をしている故郷。嫌いじゃないけど、たまには賑やかな場所での語らいの酒もいいな。
本山の管長が突然の交代である。まあこんな田舎にまではいきさつなんてものは当然入ってこないものなのであろうが、夕べちょっとそんな話を聞いていたのだ。そしたら、「神変」が届いていて、「『告示第1号』座主推薦委員会を総本山醍醐寺に招集する。『告示第2号』麻生文雄大僧正は、総本山醍醐寺座主を辞任した。『告示第3号』...辞任に伴い、後任座主に下記が就任した。(記)総本山醍醐寺代表役員座主 大僧正仲田順和。『臨時告示』...辞任に伴い、後任管長に下記が就任した。(前記と同じ)」。なんだかなぁ?でありました。異議なし!ではなく、興味なし!

2010年11月6日Saturday 晴れ
盆地を見下ろす瀧本院で。
甲府駅に午後1時半に到着。玄法院のご住職が来るまで迎えに来てくれる。玄法院からは、越石さんの車で、教昌寺副住職を拾って4人で向かう。ワインの新酒祭りがあちこちで開かれているためか道路がものすごく混んでいた。午後3時ちょっとすぎに塩山:瀧本院に到着。ご住職、副住職ご夫妻の歓待を受ける。出していただいたリンゴも家で作ったものとのこと。標高が高いので眺めは抜群にいい。その代わり少し寒い。先に来ていた上求寺貴永、少し遅れて到着の明王寺標さん。今日は法螺貝の勉強会ということで、玄法院坂本師の指導により習練する。法螺貝の深く響く音のように、焦らずゆっくりと、常に習練を欠かさないということが大事。終えて6時から甲府駅前の居酒屋で慰労会。こちらも大事。都合で参加できなかった行蔵院ご住職、謎の女性、此田君の奥さんとも初対面。賑やかに話して飲む。熱燗が旨い。極小さなサンガではあるが、かけがえのない同じ道の仲間である。名残惜しくも僕は一足早めに退席して夜の身延線に。今夜は乗り越しをなんとしても避けねばならない。無事甲斐岩間で下車。楽しい一日であった。
「極々身内の写真」  顔が映って困るじゃー消すよー。

2010年11月5日Friday 晴れ
仏像事故考。
県立博物館特別展に展示されている韮崎:願成寺の阿弥陀如来坐像の台座一部が輸送時に傷ついたという件で、学芸員のK氏から丁寧な手紙をいただいた。展覧会へ寺宝である仏像などを貸していただいている寺院に対して、不安を抱かせる事故を詫び、細心の注意を怠ることなくお返しするとの事であった。思いつくままに僕はK氏に返信をした。※今夜はまた、直接電話もいただいたところである。
これはあくまでも僕個人の思いである。作像されてから相当な年月が経っている。私たちの命が生まれ落ちた瞬間から死への時を刻み始めるのと同じように、仏像もまた作者が「これで十分」“just enough”と膝を打った瞬間から朽ちはじめているのだとしたら、故意による事故でもない限り、誰が責任を負うというようなことではないと考える。普段仏像は厨子に安置されていたりするので、動かすことなどはほとんど考えられない。このような特別の機会に動かした瞬間に、腕がもげたり、持ち上げたら足が外れちゃったなんて事は十分にありえるだろう。寺の人間だって、仏像の保存状態なんかにはほとんど無頓着である。さて仏像はこの事故をどう考えるだろうか。阿弥陀如来は、怒ったであろうか?仮にわが寺の不動明王の指が一本欠けてしまったとして、明王は運搬するものたちを呪うだろうか?否である。と、僕は考えたい。仏の世界はおそらくこのようなことにはいたって寛容であろう。誰がその事故に対して犯罪を犯したような責任を考える必要があろうか。旧い物は、その時代時代で修復されてもきている。今の時代だけが今この瞬間に存在していただけではない。幾時代もの積み重ねに今の瞬間がある。実は、大聖寺の不動明王も、よく見ると指が欠損していたりする。ただ、全体像からはそんなことは感じられない。歴史的な価値があるという見地からすると、そのままの状態が好ましいのだろうが、僕としたら、できれば新しい指を接いであげたいといつも心では思っている。不動明王が、僕たち衆生に慈悲の眼差しを向けてお救い下さるのなら、できるならば完璧なお姿であっていただきたいと思う。作像された当時のままがよいのではなくて、風雪に像が疲れてくればそこそこの修復が必要なのだ。現に寺にあった絵画の何幅かは、寺宝として歴代に語り継がれてきたのだろう、生前父がその傷みの進みを見て、なんとか修復したいと各方面に働きかけ、県の文化財指定を受け、住友財団の補助を受け、残りは県・町の補助金によって修復してきた。修復事業が始まる前に父は亡くなったが。焼津にある絵画の修復工房に持ち込むと、「この絵は何度も修復が繰り返されていますね」と話してくれた。ということだ。仏の世界のように、僕たちもおおらかな気持ちでこういう事態は考えようではないか。くだらんマスコミの重箱の隅をつつくようないやらしさなどは蹴散らせてしまえ!ということだ。特別展が成功に終わって、無事な姿で不動明王には戻ってきて欲しい。仮に、事故あればそれはそのときに、関わる者すべてで誠意を持って修復するということだ。それ以上も以下もないのではないかと考えた。疲れた。
こんな事件が過去にあった。1966年8月18日、京大生が広隆寺の弥勒菩薩像(国宝)の指を折るという事件が起きた。像が醸し出す端正な美しさに本能の命ずるままに引かれて頬ずりしようと台座に上がり、誤って右手薬指を折ってしまったのだ。それでも、弥勒菩薩はそんなことをいささかも感じさせずに、いまもって思慮深いお姿で微かな笑みをたたえておられる。

2010年11月4日Thursday 晴れ
交換レンズ。中古だけどね。
弁当を食べ終えて、2時間の休みを貰って「カメラのキタムラ」田富店へレンズの受け取りに行ってきた。望遠とマクロの中古品を買った。ヤフーオークションは、5千円以上は登録して会員にならないと参加できない。キタムラグループのサイトで検索したら、偶然にも静岡県内のショップ2店がヒットした。どちらも在庫と購入できることが確認できた。あとは、山梨にある最寄の店舗を指定すれば、そこに商品が届くという流れになっていた。昨日法事を済ませた後に、女房に交換レンズを買うことを正直に告白してお金を出してもらった。月を撮ってみること、花を近くで写してみることなど、楽しみが大きくなった。カメラはもうこれで最後にしようねと胸内に誓ったのである。
「ロック誕生〜ニッポンROCK40年〜」という番組をやっている。録画して全6回中の前半の3回を観た。30分なのがいささかというより、かなり不満である。日本のロックの歴史に関しては、やはり映像資料が少ないということなんだろうな。僕にとっては70年代の音楽がまったく色褪せてなどいない。まさに僕の中では“いまの音”そのものである。というか、僕の興味は時代を今遡りつつあるってのが本当のところ。この夏は、電化マイルス草創期のCDも何枚か買った。イベント情報誌「ぴあ」が創刊された頃だって、東西にたくさんの面白いバンドがあった。特に関西のがんばりは凄かった。今のように、ちょっとだけ懐が裕福になっていたら、レコードも買えたり、ライブにももっと行けただろうに。でも、切り詰めた生活の中からの足の運びが、つま先から頭のてっぺんまで体中を巡る感動を与えてくれたのかもしれないなとも思う。死ぬまで気持ちは僕もロッカーだ。

2010年11月3日Wednesday 晴れ
法事あり。
これが今年最後の法事になる予定。朝からいい天気になる。先週末は天気が悪かったし、せっかく寺に来て、墓参りをしてくれる人たちには、せめてよい天気であって欲しいと思う。今日は絶好の法事日和。
97歳の嫗の七七日忌。7人兄弟姉妹の一番上の長女だったというが、男たちは全滅で、今二人の6番7番の姉妹が残っていて、今日も法事に来てくれた。姉さんの歳を目指したいと、頼もしいことをおっしゃってくれた。昼から日本酒の冷をコップ酒で、皆さんが退けてから女房と片付け。僕はトイレの掃除もしてしまう。これで年末の掃除はしなくていいかも。ごろんとなってテレビを見ながらうたた寝。4時前に身体を持ち上げて外に出て朝顔のカーテンを片付け、客殿裏の樋の詰まりを掃除。夕のお勤めをして一日おしまい。

2010年11月2日Tuesday 晴れ
今朝の星空はみんなに見せてあげたかったな。
客殿から本堂に渡るとき外の石畳から空を仰ぐ。5時前の天上は満天の星空だった。見上げる空のやや東方に三日月がくっきりとあり、塵ひとつなさそうな空にたくさんの星々が煌いていた。眠気も欠伸もすーっと中空に巻き取られてしまい、ぶるっと震えて、星空と三日月に朝の祈りをして本堂に入った。観音扉を開けて、僕の今の思いをまたお不動様に話した。
夜が明けて、今7時を回り、奄美の歌を聴きながら書いている。太陽があがり、その輝きが緑の褪せはじめた無風のケヤキの葉を照らしている。秋と冬の間にある(ように僕は思っている)11月が僕は自分の誕生月でもあり好きだ。研ぎ澄まされたようないつもの年の11月である。

2010年11月1日Monday くもり晴れ
11月だ。
11月に入った。今日は師父の命日。ちょうど13年が過ぎたことになる。こうやって一年に一度否が応でも思い出す日がある。いやなことはない。諦めはついたけれど、本当は元に戻してほしいような気持ちではある。
夕方帰ると妹も墓参りに来てくれたようである。母は妹が来たことも気が付かなかったのか、わからなかったのか、関心が薄れてしまったのか。彼女にはもう虚しいような日々がただ流れていくことになるのかもしれない。申し訳ないが、母のことを心配している気持ちはそれほどない。娘の就職のこと。寺のこと。僕たちがここで如何にいつまで暮らしていけるかなど。60日経ってしまえばまた新しい年になり、僕は今月中に54歳になる。僕の持っている世界などちっちゃなものだ。よくわかっている。


2010年10月31日Sundayくもり
新聞なんてララーラーララララーラー。
雨は上がって午前中は気温も上がる。お昼前に本堂の護摩壇の掃除。それから次の護摩の準備も済ませてしまう。掃除をしながら、昨日の山梨日日新聞の記事のことを考えていた。県立博物館での特別展に運ばれた像の一部に傷がついたとのことであった。ちょっとショッキングな記事ではあった。もしかしたらうちの不動明王がそうであったのかもしれないのだから。始まって今ここになってなぜ新聞記事なのかということだ。寺側と輸送した日通、博物館側とはおそらく十分な話し合いがされ、修復についてのこともしっかりとなされているのだから、何も改めてこれを新聞報道しなくてもよいのではないかと思ったのだ。新聞はこの件をどうしても取り上げて、県民に報道しなければいけないのか。僕にはどうしても必要なことだとは思えない。県立博物館側から、この事故を新聞社に伝えたということなのだろうか?知っておきたいことや知らなくてもいいこともあるはずだ。「ほら、これもあるぞ!」「よく見ておけ、頭んなかにいれておけ!」なんて無理やり見せてもらいたくはない。新聞は伝えることが使命だから、あとは購読者が新聞記事も選択しながら読んだらいいという姿勢なのか。この記事だけは昨日から不愉快でならなかった。本堂掃除しながら、新聞取るのやめようかとさえ考えた。新聞なんてなくたっていい。ネットでいくらでも入ってくるし、サンニチだって、HP見りゃいいんだしって思ったね。

2010年10月30日Saturday
ずっと台風なんてなかったから、こんな雨もいいなぁと。
雨の中を娘が帰省。家は寒いらしい。彼女が帰ってきて居間にはエアコン暖房が入った。大降りの雨で風も吹いている。寒くて身体を動かすのさえ億劫で、護摩も焚こうかどうか午前中逡巡していたけど、午後から準備して3時から護摩を焚いた。夏の頃には熱かった炎が、今日は天気のせいもあったろうが、温かく深く身体の芯に沁みこんでくるような感じだった。T兄ちゃんの病気の回復と、娘の就職の祈願を主とした。焚き終えて本堂の回廊を一周すると、だいぶ風があるようで、廊下は雨でびょしょぬれになっている。台風なんてここ数年来なかったような気がする。多分逸れてしまったり、直撃を受けることはなかった。消防車がサイレンを鳴らしながら集落を巡回している。若かった頃は、台風で消防の詰め所に夜通し詰めていたこともあった。酒飲んだり、平坦な生活にこんなことのちょっとした変化が楽しかったものだ。
でも台風早く通過して、明日には秋の清々しい空をもたらしてくれ。頭を刈ってすっきり。本も少し読む。

2010年10月29日Friday くもり
さむいねぇ。
「寒いなぁ」というのが、この一週間くらいの会話になった。今朝は雨が上がっていて、今日は何とか持ちそうだが、土日は台風の影響で雨になるようなのだ。朝の読書で「カムイ伝15巻」読了。一部を読み終わったが、消化不良である完全に。二部をすぐにでも読み始めたい。図書館には「カムイ伝第二部」は置かれていない。リクエストして「絶対に所蔵すべき!」と訴えるか。おそらく僧などという者は、はじめは身分など低位置にあったのだと思う。忌み嫌われるような身分ではなかったかと僕は考えている。僧が認められてくると、僧は身分階級の中に組み込まれなかったのではないかと想像する。この世にあってこの世の者ではない。現に僕たちは出家をするときに、現実のこの世を離れて、戒名(僧名)をいただいて肉体の滅びるまでをこの世で暮らすこととなっている。差別する側(搾取階級)で非ず、こうやって生き続けてこられたことの或る意味では自由な置かれた場所を僕は、「僕にあっている」と感じている。「カムイ伝第二部」読みたいねぇ。
「東京番外地」森達也著を読み始める。森の著書はもう何冊目になるか。森氏の撮った「A」「A2」は、県立図書館には所蔵されている。借りることができるようだ。今年中には出不精解消に動いてみるか。晩飯後、YAZAWAのビデオ観る。

2010年10月28日Thursday
よく雨降る。寒い。
鈍色の一日。こんな日に外で働く人たちは大変だ。さぶいさぶい一日。郵便配達のバイクが雨の中を行く。下水道工事で道路を掘り返す作業員たちは雨合羽。雨には打たれないが、暖房のない事務室は寒い。夕べは録画しておいた「カムイ外伝」を観たが、なんてつまらない仕上がりであったという見終えた感想。「初めて生身の、本物のカムイと会ったような気がする。それをひしひしと感じる。−−白土三平」なーんて公式HPにあったけど、ほんとうかなぁ?映像にすることは難しいな。カムイ伝は、やっぱり漫画の中から洞察していくものなんだろうな。テレビ見ながら、いつもより余分に焼酎のお湯割を飲んだので、今朝は4時半起きはできなかった。ということで本も足踏み。まあこんな日もある。特別なできの人間ではない。
台風14号来るかもしれない。大きな雨や風は好まないけれど、台風の一度も来ない年というのもなんだか不吉な思いがする。そこそこにあることがあって、そこそこに生きているってのがいいんだ。夜、「反逆の時を生きて」読了。「カムイ伝」15巻に移る。

2010年10月27日Wednesday 晴れ
雲間に西の空に行く月のあかりに足元照らされて本堂へ。
4時半の中天に今朝は何日かぶりで星と月が見えた。たくさんの雲があり、「夜が明けたら真っ青な空ではないだろうか」と思わせた。つーんと刺すような冷たさがあった。夕べは10時前には寝てしまったので大分今朝は楽だった。というか、何度も目覚めてしまって、まだこんな時間かと夜が長いように思えていた。本のことや、現実の僕の周りでの出来事のことなどを、漠漠と頭の中で引き出してきては思いを馳せてみる。静かな朝の祈りをきちんとすることだ。(5:15
真っ青なとはいかないけれど、ほぼ予想していたような空が覗いている。札幌じゃ雪だと。僕も今朝は、長椅子の読書でなくて、今のホットカーペットの電気を入れて、上にブランケットを掛けた。それでも指先から冷たさが這ってきた。外の景色も緑の葉はシミが濃くなり、落ちるものは落ち始め、紅葉をはじめている。本ばかりでなく外の見回りや掃除もしなくちゃな。週末には護摩も焚かなければ。
僕に刺激されたようで、K氏も本をまた読み始めたようである。でも僕の読書なんて一過性のものかもしれませんよ。秋の夜の時間をお互いに共有しているようで、これはこれで嬉しいメール報告ではあった。よい一日になるよう。
(
20:32) 「汝を子に迎えん」読了。「反逆の時を生きて」臼井敏男著を読み始める。スピードアップね。昼休み当番だったので、午後1時になって弁当食べて図書館へ行く。1冊返して3冊借りる。2冊差し出したら、受付カウンターに「カムイ伝第1部」15巻(最終巻)が取り置きしてあった。読んでみたい本が次々と連鎖のように現れる。奇しくも、夕べ録画しておいたのが「カムイ外伝」。晩飯を食べながら、飲みながら観る。特撮ばかりが目立って映画の面白さはほとんどなし。これもまた、おそらく原作のマンガには敵わないのではないかと感じる。

2010年10月26日Tuesday くもり
トイレの流し忘れは困ります。
「永山則夫 ある表現者の使命」を朝読了。「汝を子に迎えん」松下竜一著を読み出す。今朝も4時半の空に星見えず。夕べ雨があって、出掛けも傘を持つ。午前中に天気回復し陽が出て暑くなる。メダカも元気。
車庫に向かう前に外のトイレを覗く。「流してない」。なぜ流さない?!わからん。嫌がらせか、単なる流し忘れか?今この国に生活する高齢者も大人も子どもも、便所を使った後、ウォシュレット機能があれば、水もしくは湯、それ以外はトイレットペーパー。これを使うことをわからないという人は想像するにほとんど居ないと思う。その後、流すという行為をすることだって当然わかっているはずである。もっとも、僕は知らんが、最新のトイレであれば、ドアを閉めて出ると自動で流してくれるようなこともあるかもしれない。が、が!寺の外便所である。事後に下を向けば、残っていることを否応なく見ることになり、まさかそれを確認しておきながらタンクの取っ手を回せないとは言わせない。流しましょう。頼むから流してください。
夕べ、WOWOWで録画した「ゼロの焦点」を観る。実は一度観始めたが、後半分を寝てしまっていた。広末涼子、中谷美紀、木村多江による映画。映画は131分。こういう限られた時間の中で、分厚いストーリーを映画に作ることはきっと難しいのだと思った。本であれば、読者は際限なくその場面場面を自分の中で映像化できるのだが、映画にはそういうことに制限がある。映画という表現手段について観終わった後こんなことを考えた。

2010年10月25日Monday くもり
ホットカーペット。
朝はとても寒い。4時半の空に星はない。お勤めして読書して、6時20分に宇佐美にガソリンを入れに行く。長距離トラック1台先客。傘をさしてしょぼ降る月曜の朝を出勤。大里で買ってきたメダカ今朝はまだ元気よ。いろいろ質問してきたのだ。瓶の水が深すぎるのではないか?「深さは関係ないです」と、きっぱりと否定されたので、昨日帰ってきてからまた満水にして、そこに新しいメダカ仲間を放した。
寒かったのに、午後には雨が止んで、2時過ぎ位から陽射しもあって気温が上がる。気温が上がるので、夕方から夜の冷え込みが体に凍みるのだ。実は土曜の夜から、ホットカーペットを使い始めた。去年からコタツの電気は入れずに、ホットカーペットの上にコタツを立てて使うという方法にした。これの方がコタツの外側も暖かい。これがあると、ついうっかり気持ちよく眠ってしまったりする。夕べは、カーペットに寝そべりながら、BSジャパンでBSミステリー「雪冤」を終いまで見てしまった。
今日は図書館が休みだったので、初めて「ブックポスト(返却ポスト)」を利用して1冊返した。前から利用してみたいと思っていたが、内部構造がどうなっているのか気になって、返却口から本を差し入れて、その本は、ドンッと底に落ちるのだろうかとか、何かクッションになるものが敷いてあるだろうかとか、ちょっと躊躇いがあったのであるが、とにかく今日使ってみた。ドンッと落ちる音はなかったので、はて?どんな構造になっているのかということが益々気になって仕方がない。まああまり深く考えてもどうせ埒が明かないので、本を読んで寝ることとする。

2010年10月24日Sunday くもり
法事一件。
午前中法事あり。今日は休みなので、ゆっくりと起きる。お勤めを済ませて、10時まで読書。今朝は曇り空。八幡神社の秋の祭典で、子供神輿が小学生や中学生の皆に担がれて村を歩いた。この場所で小さくとも続けていくことこそ大事。
雨のない法事でよかった。遠藤家の三回忌と七回忌。来週は法事はない。11月3日に次の法事があって、その後の予定はない。まあこのくらいがよい。網戸も洗って仕舞いたい。
午後甲府の玄法院を訪ねる。宗務所の引継ぎに行くが、印鑑とゴム印をひとつずつ預かって後は雑談。新住職も在宅であった。今夜枝豆で一杯やってくれると嬉しい。そうそう、甲府に出かけようとしたら、「イシダさーん」と駐車場から声がして振り向くと「power忍者」越石さん。バイクで南部方面まで出かけてきたそうな。「今日は寒いです」と。修験の得度のことは、事を急がず自然の理に任せるというようなお話し。それでいいでしょう。熟せば自然にそうなります。私たちには決してその場所に甘えるような生き方はできないのです。よい一日。

2010年10月23日Saturday 晴れ
彼も袴田事件を知っていた。
厚木から帰ってきて、海老原君も既に仕事から戻っているのを確認できたので、着替えてからお勤めをして法螺貝を習って、ケータイから「5時半からにしましょう」とメールする。程なく「了解」の返信。法事の施主からいただいた芋焼酎の湯割りを。旨い。彼とは久しぶりで、仕事のことや活動する元プロボクサー坂本博之氏との活動の事なども聞く。夏からの僕の読書のことを話し、やはりボクサーであった、死刑囚袴田巌氏のことを話すと、彼もこのことを知っていて、いくらかの関わりを持っているということも聞く。よかった。袴田氏の冤罪を確信して、彼の早期釈放(解放)に向けて力を合わせてくれている人たちが身近にも居た。「裁かれるのは我なり」山平重樹著読了。河出ブックス細見和之著「永山則夫 ある表現者の使命」を読み始める。
読むこと、祈ること、日々しっかりと怠らず続けること。

2010年10月22日Friday くもり
朝まだき、本堂で祈る。
4時15分起床。空に星は見えず。そして今朝も今曇り空。夕べその人の病のことを女房から聞かされた。重篤であるらしい。今朝は朝の勤行にその人を思いながら、病の平癒を御不動様に祈り願った。僕の祈りは、今坐っておられる県立博物館の展示室に届いたはずだ。宝前の太い灯明と経机に立てた1本の灯明の明かりで理趣経を読み進めながら、その人のことを思う。声が詰まり涙がこみ上げてくる。この儚い生き物の時間の仕方のないことを思う。僕だけの祈りの場所で、僕は時に涙することがある。すべての心の内をさらけ出すということは、本当に清浄な気持ちになれて、はばかることなく涙さえも落とせるのだ。この場所があるから僕は持ちこたえられているのかもしれない。病気平癒の護摩を焚こう。祈るしかない。この場所からその人の心の内へ。

2010年10月21日Thursday
女房も僕も、手分けしてできることから。
カムイ伝12巻読み終え13巻に入る。平行して「裁かれるのは我なり 袴田事件主任裁判官三十九年目の真実」山平重樹著も読み始める。今朝も4時半起床。お勤めを済ませてから読書。朝食(栗ご飯)の頃に雨降り始める。奄美大島じゃ大変な雨量で、高齢者の福祉施設での死亡者も出たと聞く。自然災害も弓の島を平均に舐めていってくれたら、こんな哀しい出来事は起こらないだろうにと思う。
女房は女房で彼女のできることを。僕は僕のできることを始めている。帰宅途中の車に電話が入り、飯富橋手前の路側帯に車を停め、40分ほど相手と話す。女房からの今日の行動の話も聞く。母に関わることである。こんなことがこれから益々増えていくのだろうと漠然と思い、荒野に佇む僕と女房の疲れた哀れな姿を想像してしまう。こんなものを慰めのように書いたって、何の慰めにも気休めにもならjん。あるのはボケてゆく母が存在するという現実だけだ。

2010年10月20日Wednesday くもり
著者印税百三十円。
森達也著「世界が完全に思考停止する前に」読了。久しく中断していた「カムイ伝全集第一部」12巻読み始める。今朝は4時過ぎに起きてしまう。星のない空は夜が明けて案の定今にも雨が落ちてきそうな朝だった。家をでる頃には静かな雨になった。寒くなった。長椅子に寝そべって本を読むにも、ブランケットでも欲しいくらい。お勤めの後5時頃から読書。今朝は不破・高岡duo「低音環境」を聴きながら。もう高岡君がこの寺で演奏をすることもないかもしれないと思いながら聴く。
同年齢の森氏の本を何作か読んだ。人間のできには大きな差があるだろうが、同じような考えを持っていることがわかって嬉しかった。今朝、60W電球の下で最後を読んだ。あとがきに、「この本の著者印税は一冊につき百三十円。今の段階で初版の部数はまだわからないけれど、でも少なく見積もっても、僕のこの本による収入は百万円プラスα。そのお金で、僕は電気代を支払ったり、イトーヨーカドーで葱や豆腐を買ったり、車のガソリン代を払ったりする。娘たちの学費も貯めねばならない。たまには回らない寿司だって食べてみたい。」と書く。でも、あとがきの前に載せられていた「濃密で哀しい光と影 沖縄旅行」のなかで、首里城からの帰りのモノレール車中で、「坊主頭の小柄な高校生」に、「あの・・・・、森さんですか?」と訊ねられて頷くと、森が撮ったオウム事件を題材にした作品「A」「A2」を見たといい、高校生は、「吃驚しました。人違いかと思ったけれど、思いきって声をかけて良かったです」といい、「その理由を彼は、吊革に掴まりながらたったままで説明し」た。以下本文を転載。

 「僕の家族は『エホバの証人』の信者なんです。でも僕は違います」 だから彼が幼い頃からずっと、家族間では信仰を巡っての諍いが絶えなかった。レンタルビデオ屋で「A」 と「A2」を見つけた彼は、まず自分が観て、次に家族にその視聴を薦めた。オウム真理教のドキュメンタリーなどとんでもないと最初は嫌悪感を示していた家族は、執拗な彼の懇願でしぶしぶビデオのスイッチを入れ、観終えた後には衝撃を受けたらしく、ずっと考え込んでいたという。「その後は家の中の雰囲気がずいぶん変わったんです。今日森さんに会ったと言ったら、母親はきっと大喜びしますよ」 しみじみ嬉しかった。作品を作って良かったと思うのはこんなときだ。

ウッドベースとチューバの指使い息遣いが目に浮かぶような「低音環境」を聴きながら、読み終わった後、からだは熱い震えを示した。一方で、森さんの本はすべて図書館の本であったなと、「印税」のことに少し後ろめたさも感じた。

2010年10月19日Tuesday 晴れ
さてさてどうしたものやら。
娘の就職のことで、別な動きが浮上してきた。これは何もすがるものをもたない僕たち夫婦にとってはありがたいことでもあるのだが。ただ、いろいろと調べてみるのだがはっきりしていないことがある。「新卒」の取り扱いである。就職未定学生が膨れ上がり、「新卒」という肩書きだけが欲しいがために、無駄に留年する学生がこれまた増加していると聞く。この「新卒」の扱いを、卒業後2年くらいは使用できる(?)、「新卒扱い」に使用じゃないかとか、企業はそういうことを申し合わせるべきだとか、そんなことが浮上しているが、今の時期は、企業の「採用情報」が、「平成23年4月採用者の選考は終わりました」というような、「採用情報閉鎖期間中」となっていて、例えば、卒業しても、来年新卒者扱いとして企業エントリーできるのか、はたまたそれは、一部の噂に過ぎず、何の根拠もないのかが明らかでないのだ。これはいささか困る。「新卒」という一杯のフレッシュジュースに年間学費をつぎ込むか、それをしないですむかの判断が今は不明である。当事者も親もまだまだ苦悩の日は続く。

2010年10月17日Sunday 晴れ
法事あり。
A家のおばあさんの一周忌。今朝は7時半から集落の道つくり。それから猿・猪・鹿などの被害を防ぐため、集落の山側に獣除けの電気柵を設置することが区から説明された。画期的なことだ。例えば、定年退職後に、ふるさとの古い家に帰ってとか、空き家を見つけて田舎に住んで、畑で野菜でも作りながらのんびりと過ごそうかという人たちに対して、この集落では、「ここにおいでよ」ということが今のままでは言えない。ここに生きている僕たちが、ここの集落に住み続けることの困難を一番よく知っている。「田舎はいいよねぇ」に値する田舎ではない。情けない。この電気柵が功を奏してくれるといいなと期待したい。鹿が桜の芽を食べてしまうことのない日のくることを、心底期待して待ちたいと思う。
よい法事でした。上のお兄ちゃんが結婚を決意してフィアンセを連れてきて、近しい親族に紹介をしてくれた。寺にとっても、葬儀だけではなく、こんなことが先祖の休む寺という場の中で紹介してもらえて嬉しかった。昼から美味い酒を飲ませてもらった。法事が終わって、片づけを手伝って、本を読もうとしたが1ページも読めずに眠ってしまう。午後3時半過ぎに目覚めて、顔を洗ってから「下山事件(シモヤマ・ケース)」残りの30ページを一気に読む。読了。
夕のお勤め、法螺貝習い一日を終える。昨日の母から一転して、昨日のことを覚えていない女になっている。難しい。

2010年10月16日Saturday 晴れ
そんなこんなの土曜日。
休みの日は遅起きだ。7時半からの「てっぱん」を見るためにはぎりぎりの6時40分頃に布団を出て、顔を洗って本堂のお勤め。客殿も済ませちょうど7時半になる。BSで「てっぱん」。8時半頃になって草刈りへ。午前中は草刈りや溝の泥上げや、除草剤の散布など。今日も日中は暑くなる。昼飯を食べて、その後に母を交えて話す。介護認定調査をしてもらったが、別な件で主治医に診断書を書いてもらったら「高度認知症」である。まあ診断書そのものがそのすべてを物語っているという決め付けはどうかとも思うが、このことも含めて母にしっかりとこちらの思いを伝える。彼女がどのくらいを果たして理解できたのかはわからないが、理解できたとしても、もう話しながら忘れていっているのかもしれないのだが、こちらの思いを伝える。つまり、母の金銭の管理についてである。僕の予想に相反してあっさりと「頼む」ということになったが、これとて、明日になれば「なんでじゃあぁぁぁあああ!!」ということにもなりかねん。ただ、もうすでに、ATMから自分でお金を引き出す行為すらできない。情けないが、こちらもそんな風になってしまう親はいささか忍びない。「俺やM(女房)さんに預けるのが嫌なら、E子(妹)に預けてもかまわんぞ」と話したら、これとてどこまでのことを理解してのこととかは判る術もないが、「お前でいい」という。かなり頑なな姿勢を保ちつつあったが、今日はなんだかあっさりで、こちらのほうがこのことで若干落ち込んだ。この話の後再び外へ。外の仕事をしていると気が紛れる。夕暮れまで外に居て、夕のお勤め。法螺貝を習っていま、早川義夫のDVD見ながら酒。今日の読書はほんの3ページほど。しかたないね。

2010年10月15日Friday 晴れ
早川義夫をやっぱ好きだなぁと思えた夜。
一時間早く仕事を切り上げて今夜は桜座へ早川義夫のliveを聴きにいってきた。女房と近くでラーメンを食べてから桜座へ。内藤君の家族も来ていた。壬生さんも間もなく現れる。5分くらい前に会場に入る。「少ないねぇ?」ってのが眺めまわした率直な感想。40人くらいだったろうか。でも少なくて当たり前なのかもしれない。早川義夫を知っている世代は、僕たちの世代なのだろうし、再び歌い始めてからだって、都会の人たちでもなければ、若い世代が早川さんを知ることなど無理なのかもしれない。ギターは、相棒の佐久間正英さん。「サルビアの花」からはじまる。長いこと聴いているが、生の早川さんは今夜が初めて。僕の学生時代には、彼はもう歌をやめて本屋の主人になっていたのだ。再び歌い始めてからの早川さんは、ラブソングがとてもいい。僕は好きだ。前後半のステージだったが、「この世で一番キレイなもの 」「いつか」なんかは、やっぱり生で聴けてよかったな。2時間ほどのステージが終わって、アンコールの最後の曲は「いい娘だね」。思わず口ずさんだね。フロアに出ると、すでに早川さんも出てきていた。早めに出たので、声をかけて一緒に写真を撮らせてもらった。女房は二人で、僕と壬生さんと三人で。いい夜だった。金曜の夜は明日が休みなので、明日への緊張もなく、ゆっくりでもいいやってな気分になる。夜の道を1時間弱ですいすいと家に戻った。また甲府にきたら絶対にいきたい。同じ目線で同じにおいを感じることのできるアーティストだ。

2010年10月14日Thursday 晴れ
セイタカアワダチソウ。
チリ鉱山落盤事故で閉じ込められた作業員たち33人全員の救出が完了したと伝えられた。僕が小さい頃にはまだ白黒テレビで、炭鉱の落盤事故で坑道に閉じ込められた人たち「全員絶望」なんてニュースが何度かあったような記憶があるが、こういう風に、縦穴を掘って救出できるなんてなぁ。地上に生還した作業員は、救出作業を見守る観衆を興奮して煽りつつ、拳を振り上げ「チリ万歳!」と叫ぶ姿だったり、妻や子に長いキスと抱擁をする姿だったり、ひざまずいて神に感謝の祈りを捧げる姿だったり。なんと既に映画化が決まっているそうだ。この稀代の出来事に巻き込まれた33人は、国内で英雄視され、彼らを商売の顔に使おうとする企業も現れていると聞く。どこの国も商魂はたくましい。これから予測される彼らを祭り上げる喧騒劇に翻弄されて、家族との生活バランスが崩れるなんて事のないようにしっかりとね。
セイタカアワダチソウの目立つ季節になってきた。休日に草刈したときにも何本か処分したが、今朝コスモスの中に黄色の花を見つけたので引き抜いた。年々増えていくようだ。僕の管理分をいくら退治しても、耕作放棄地にはセイタカアワダチソウのこんもりとした要塞が出現している。こんな風景があちこちに出現しているところで、いつまで僕は抵抗していけるのか。地下茎で増殖するセイタカアワダチソウ。地球の地下から生還した宇宙の小人たち。

2010年10月13日Wednesday 晴れ
小さな秋。小さな山梨・醍醐・僧伽。
今朝は早起きしてお勤めを済ませ、1時間ちょっと読書して「ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー」森達也著読了。読書ペースが少し落ちてきているが、まあ仕方がない。「下山事件(ケース)」森達也著を読みはじめた。
県のHPで山梨の宗教法人名簿H22の70ページ(2906法人)にもなるpdfファイルが公開されている。それを見てから事務を扱っている私学文書課に電話して、いくつかのことを訊ねてみた。先ず「名簿H22」は、宗教法人法に基づいた「書類の作成と備付け及び備付け書類の写しの提出」が今年出された法人であるのか?応えは否であった。2900もある法人すべてが毎年これを出しているなんて、まあ到底考えられないよね。一応催促の通知は出しているということであった。ただし、代表役員(寺にあっては住職)が病気などの場合、責任役員に連絡を取って、「例年どおり」とするようなケースもあるし、仮に代表役員が死亡していたとしても、法人側が毎年の書類を同じように出し続けていれば、それで済まされているということもあるということだ。
宗教法人の登記についても、代表役員が死亡していても、新しい代表役員を登記しなければ、死んだものが相変わらず寺院の代表役員(住職)のままになっていることになる。法務局だって追跡まではできない。真面目な者が馬鹿を見て、無関心でいい加減な者が、「ぜーんぜん困っていません!」てな構図になっているのだとしたら、半僧半俗に身を置き、互いを思いやり、手を携えあいながら、己の修行を続ける僕たちのような、極々小さな僧伽(サンガ)にある者には辛く悲しいことだ。

2010年10月12日Tuesday 晴れ
暑い日、日中は26度あった。
26度はさすがに暑い。身延地区は身延山御会式と万燈行列があるので、なんとなく地域が嬉しそう。支所でも役場職員の講が出場するので、時間給を取った有志たちが揃いの法被に決めて、夕暮れの身延山へと出かけていった。もう5時半の終業時には夜である。波木井橋を駐車場へと歩きながら、少し切ない気分になる。
宗務所長交代の、本山への書類を作りながら、行蔵院のご住職や、玄法院の新ご住職と話したり。15か寺しかない小さな醍醐派の集まりである。世代を交代してまたそれを細々とでも引き継いでいくということ。醍醐の人たちが必要ですという時代もまた来るかもしれない。

2010年10月11日Monday 晴れ
予定どおり草刈り。
予報どおりに好天気。朝から暑いくらい。8時から畑、民俗資料館前、客殿裏の庭などを済ませて午前中終わり。これでもう今日はいいかなと思いながら、昼食後は横になって本を読む。読みながら猛烈に眠くなる。もう少し刈っておこうかという気持ちになって、午後3時前から涼しくなりかけた竹林の前から刈り始め、中沢川沿いも刈ってしまう。これで9割方済んだ。来週の日曜に残りを済ませればホントウに今年の草刈りはおしまい。
後は網戸を洗って片付ける。まあこれは特に急ぐこともない。シャワーを浴びて、夕のお勤めを済ませ、法螺貝を習って、夕の水を植物に与え、mailを開けば、桜座から「早川義夫予約受け付けました」と。ということで、行蔵院ご住職、僕たちもlive行きます。生の早川義夫は初めてです。楽しみ。一日よく働いたあとの、白鶴の湯呑み茶碗酒。

2010年10月10日Sunday 晴れ
雨上がりよい法事なったと思う。
4時半過ぎに起きる。雨は止んだのかと期待していたが、本堂へ渡る外にはまだ雨が残っていた。早朝読書。9時前に千葉からEさんご夫妻みえて客殿で経をあげる。その後に墓地へ。「最近はまっているんですよ」というパンをおみやげにいただいた。11時からI田屋の法事。40人を越える大人数だったので、今日はちょっと考えて法事の次第なんかも皆さんに渡して一緒に経も読んでもらったり。午後2時から宗務所の会議があったので、法要後に法話をして墓参して終えた。女房も法事後の席に出かけたのでカレーのレトルトを急ぎ食べて甲府:行蔵院へ。早めに行って事前の相談事があった。雨が上がって、暑さを感じる午後となった。7人が集まって(全部で16寺院なのでいつもこんなもの)宗務所の会議。長くその職をお務めいただいた宗務所長が退任を申し出ていたので、今回は新任を決める必要があった。結局、僕がその職を引き受けることになった。少ない寺院ではあるけれど、一応、本山から「山梨宗務所」と認められているので、まあそれなりに務めなければとは思う。まあ何とかなるだろうというつもりでやっていくしかない。行蔵院のご住職が助けてくださる。帰りがけに「早川義夫聴きに行く?」と訊かれたので、「考え中」と応えた。「予約したよ僕は」と言ったので、「やっぱり甲府へ来たときには行っておくべきでしょうか」と言って、はっきりとした返事はしてこなかった。家に帰ってきて女房に話したら、「行こうよ」ということになり、僕もmailでの予約を済ませた。明日は今日よりも暑くなりそうだと。草を刈るぞ。

2010年10月9日Saturday
奔流よ、自信をもって流れゆけ。
先週末に残した畑の草刈りを済ませようと思っていたが、天気予報どおり朝からしょぼしょぼと雨だ。この雨では外のことをするのは諦めるしかない。明日は法事があり、午後宗務所の会議がある。明日も雨ということだ。月曜の振り替え休日が回復しそうなのでそこまで待つしかない。今日は一日草刈りをと考えていたのに予定が狂った。法事の準備や読書にでも使うか。
夕べ、今年のノーベル平和賞が中国の民主活動家:劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏(54)に与えられると知らされた。ところが氏は今、「国家政権転覆扇動罪で懲役11年、政治的権利剥奪2年の判決が確定し現在、遼寧省錦州市の刑務所に投獄されている」ということ。ノーベル賞委員会は、中国の民主化への闘争は、国際平和にとって十分に平和賞に値するとの判断を下したということだ。この痛快な報道は瞬く間に世界を旋回した。慌てた中国は、テレビ放送自体を黒塗りにして覆い隠すというとんでもない幼い行動をとった。中国のネット社会の凄さってあるじゃないか、HPが一夜で改竄されてしまっているとか。そんな国の若者たちが、黒塗りのテレビにうな垂れるとでも考えているのか、牛耳る者らこそ顔を黒塗りにされてしまったのだ。発言や書くことでの訴えに対して、捕らえて放り込んで留置して隔絶させてしまえなんてのは、歴史を後退するだけの愚かで幼稚な行為だ。自由に物言いあう中で、互いの考えを理解して伸びていくものではないのか。即時釈放すべきである。この賞の報道は大きな潮流を再び呼び起こすかもしれない。

2010年10月8日Friday 晴れ
県立博物館開館5周年記念特別展オープニング・セレモニー。
永山則夫著「死刑確定直前獄中日記」読了。森達也著「ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー」読み始める。森氏のHPを見たら、この本はぜひ読んでほしいと書いてあった。ちょうど図書館にも置いてあったので。
午後3時から県立博物館で、開館5周年記念特別展「甲斐源氏-列島を駆ける武士団-」のオープニング・セレモニーに招かれていってきた。もうひとつ、不動明王を開眼するという作法もあった。午後休みをもらって女房と出かけた。博物館に着いたのがちょうど午後2時20分。受付に行き、学芸員のKさんに案内されて館内に展示された本尊の前に行く。すぐに開眼供養をする。これで、訪れた方々に無償の愛と慈悲を与えてくださるだろう。
町の町長と議長も来てくれていた。それから身延山久遠寺の92世法主内野日総猊下にもお会いすることができた。学芸員の案内でゆっくりと展示品を鑑賞。明日からの展覧会に、大勢の人が訪れてくれることを願う。

2010年10月7日Thursday 晴れ
朝、読書。
今朝も天気がいい。7時20分過ぎ陽射しが体を温めてくれる。今朝も5時に起床。お勤めをして読書。永山則夫の獄中日記を読んでいるのだけれど、彼は拘置所での生活の中で、相当な学習をして、東京拘置所を「トーコーダイ」と言っていた。裁判中に、こんなやりとりをしている無駄な時間はない、俺は「トーコーダイ」で勉強したいんだと裁判長に言ったらしい。裁判長は「東京工業大学で勉強がしたいのか?」と言ったらしいが、永山の「トーコーダイ」は「東拘大」だった。相当な細かい神経の持ち主のようで、書く手紙は、必ず一部を複写してか同じものを書いてかわからないのだが手元に残したという。だから往復書簡のすべてのやり取りが克明にわかるのだそうだ。彼は僕になど遠く及ばない勉強をして深い思想や知識を得ていくのだが、ところどころ僕には共鳴できない箇所が日記にはある。外の支持者宛の手紙で「学習会で私の科学思想を学んでいくように」など、永山の思想を学ぶことによって社会がわかり、死刑廃止への道が開かれていくようなことを書いているが、僕にはどうにもこの辺の書きっぷりはいただけない。これは個人の感じ方だからどうしようもないのだけれど。まあこんなことは大した問題ではない。彼のように、大きく丸く変わっていけることが大事で、大いに賞賛に値することと思っている。こういう人間を、ある朝突然引き立てて刑場に持っていくようなことは、いくら考えても納得がいかない。朝読書は継続していくぞ。
(21:30) 午後銀行へ両替に行くと歳の離れた従兄の息子Tが居た。ちょうど歩いてきたとおりに彼の営む整骨院がある。入り口に贈答用の花一基置かれていたのを見ていた。「花があったなぁ、なんだ?」と訊くと、「店を始めてちょうど10年経って、親父が贈ってくれた」と話してくれた。帰りがけに改めて正面から見ると、「友人一同」の札が射してあった。実際には父親が贈ってくれたものだが、父は「友人一同」としたのだ。今でこそ付き合いは薄れているが、親子の思いが伝わってきて嬉しかった。
母の介護認定に面談があった。女房が同席してくれたのだが、さて結果はどういう風に出るのか。しかし、時間を経るごとに確かに、その症状は進行しているようだ。もう自分でキャッシュカードの暗証番号すら押せないようだ。晩飯の後、この母親の件も含めて妹に電話する。妹が出なかったが、兄(妹の夫、僕よりも年上)と暫く話した。互いのことなど、彼の健康のことなど、家族のことなど。彼は日蓮宗の僧侶であり、僧侶としての交わりは皆無であるが、いざというときには相談相手となってくれるだろうと思っている。秋の夜だなぁって感じか。

2010年10月6日Wednesday 晴れ
広い盆地の空を眺める。
暑い一日となる。支所では今日、身延山のお祭りが来週あるので、そのための準備があった。途中県からの電話で、温泉施設の件で連絡があり、久しぶりに県庁へと出かけた。別館3階の課へ行き、あれこれと指導を受けて帰ってきた。こういうものはあまり深く考えずに、ハイハイと片付けていくに限る、ような考えになってきている。甲府方面にもほんとに用事のあるときにしか行かないので、走っていると様子が変わってきていることがよくわかる。市庁舎も取り壊されて新庁舎建設のための準備が始まっているようだった。甲府の中心部から明らかに集客地は郊外へと移っている。3年後、5年後にはまたもっと違う様子に変化していくのだろう。盆地から見回す景色(富士、八ヶ岳)は変わらない。
帰りに本庁舎へ寄り、国勢調査の塊を次の担当へと手放す。これでホッ。「石田君ホントに久しぶりだなぁ」と声かけられて、通りかかった町長にも「おっ!?」というような。用のないところへ出かける必要はことさらないのだから仕方がない。

2010年10月5日Tuesday 晴れ
金木犀匂う。
参道入り口の一本「十月桜」に花がついていた。名前の通り正直に咲くものだ。昨日の帰り波木井橋を渡りながら甘い香りが流れてきたことを感じたが、今日図書館に行ってそれが「金木犀」の芳香であることがわかった。図書館の庭園には大きな金木犀が何本もあって、その香りが富士川からの夕の風に吹き上げられて波木井橋上にも届いていたのだきっと。花の香りに敏感になっている自分を「いいぞ!」と思ったが、永山則夫の「死刑確定直前獄中日記」を朝から読み始めていたので、図書館からまた歩きながらの戻り道に匂う香りに、「永山にはこの香りを感じるときはあったのだろうか?」と。
平日の昼を生きている場所にはまあ何もない。潜むこと。己の感情などというものは畳紙に包んでおく。たまたま花の香りを感じるような場面もあったかもしれないが、今は全くない。ただこの時間さえ自らを裏切っているような感情の昂ぶりが、マグマのようにぐつぐつと湧き上がってくる恐ろしい瞬間がある。いかんいかん。cool down cool down。
従兄より今月23日の法事の電話ある。ヒデちゃん来る。24日の法事に千葉のお兄さんが出席できなくなり、10日に来ることになったので、墓前で経をあげてほしいと頼みに来て、お兄さんからの塔婆料を置いていってくれる。塔婆書く。静かな夜。和歌森太郎著「山伏」読了。

2010年10月4日Monday 晴れ
青木理著「絞首刑」読了。
娘は二晩泊まってまた大学に戻っていった。学生寮での国勢調査の調査票を持ってきたので書き方を教えてあげた。息子のところにも配られているだろうが、もう2度目の調査を相模原でするのだな。彼からは何の音沙汰もない。何も聞こえてこなければ何とか順調に生活しているのだろう。過ごしやすい気候になってきた、雨量もかなりある。夏の間にもっと降ってくれたらよかったのに。本堂の裏手に下ろしたアジサイの挿し木苗が何本か枯れてしまった。まあ順調に緑化計画がはかどるとは思えない。にわか園芸家のような僕の思いがすんなりと叶ってしまったら専門家に申し訳ない。ゆっくりとここに住む間に増やしていきたいと思う。このことも聖なるの世界のことだ。
イノシシが境内を掘りまくっている。感心するほどにくまなく掘っている。俺にはとてもそこまでする根気はない。きっちりと朝の読書もできた。法事の塔婆を書く。今夜はちょうどいい温度で気持ちがいい。

2010年10月3日Sunday 晴れ
支所日直。
死亡届もなく平穏に日直が終わった。紅葉の時期にも少し早いし、観光の問い合わせもない。国勢調査のことを少しやって、後は音楽を聴きながら本を読む。足利事件で採用されたDNA鑑定が「精度が悪い」として、菅谷無期懲役囚が無罪放免されたが、これと同じ鑑定果により、一貫して無罪を主張してきた久間三千年死刑囚に、2008年10月に死刑が執行されていた。DNA鑑定には、疑問視する意見もあったのだが、警察も検察も押し切り、裁判所はその主張を全面的に認め、何の証拠もなく逮捕した久間氏を葬り去ってしまったのだ。執行の判をついた法務大臣は、この事件の経緯を果たして調べてみることをしたのであろうか。このまま事件そのものが闇に葬り去られてしまうのか。真犯人がもし別にいるのだとしたら、犯罪を行っていない人間を、一方的な自分たちの筋書きだけで裁判から死刑執行までのストーリーを書いたということになる。こんなことが許されていいものか。これでは正義に見方なんてどこにもいないではないかと言うことになる。聞く耳もたん人間が、犯罪者をでっちあげるということになる。
晩飯を終えて本格的な雨になってきた。不条理を徹底糾弾する雨となれ。

2010年10月2日Saturday 晴れ
草刈り。
畑の草刈り朝から夕まで。耕作をしていないただ草を刈るだけの畑の今年最後の草刈り。朝8時から午後4時半まで。昼前には国勢調査の調査票の回収に歩く。留守でない家はすべて用意してくれてあった。畑は参道の両側にあるが、片側の半分が残った。明日が日直なので、続きの仕上げは次の土曜日だ。今月は法事が多い。休みの日を大事にきめ細かく計画的に使うこと。先ずは国勢調査を早く仕上げる。読書は通常通り継続。網戸も今月中には洗ってしまいたい。
娘が帰ってきた。彼女は大学の寮で国勢調査だ。うーん微妙に感慨深い。酒を飲む。酔うまで。

2010年10月1日Friday 晴れ
後継者の新しい感覚で国が開かれんことを。
面構えはなるほどジョンイルのそれに瓜二つだ。キム・ジョンウン。ジョンイルの後継と決まった男は、この先、親父と同じようにこの閉塞感漂う国家の独裁者3号(北鮮組三代目)として揺るぎない地位に立ち続けることになるのか。おそらくこの国にだって、巨大マスゲームに参加しながらも、国の歩み方を決して正しいとは思わない人たちは相当数いるだろうと思う。Xdayとなる機を窺っているはずだ。それでなければこの国に生まれた大多数の国民たちは浮かばれない。飢えているという報道は決して嘘ではないと思う。国に共に生きる人たちを平らにする使命を怠っている。でもやがては自らの欲望の淵に溺死してしまうだろう。幼い頃から、広い外国の自由な暮らしも見てきているだろうと想像する。国家や私欲のために鍵を掛けるのではなく、明るいオープンな北朝鮮に方向転換していくよう祈りたい。

2010年9月30日Thursday
森達也著「死刑」読了。
著者は僕と同い年である。彼は「死刑廃止」側の視点で、死刑囚、刑務官、教誨師、弁護士など多くの関係者への取材を進める。被害者の側の人たちへの取材の中からは、やはり死刑は必要であるとの言葉が多い。著者はいくら反省のない極悪人の死刑囚であっても、「生きる価値のない人など認めない」と書く。人殺しをした者は死刑だとなれば、昭和の時代に兵役についていた者たちは死刑にならなければならない。国と国の戦であれば、国民すべてが殺人者であれば、みな「死刑」だ。
拘束され、不自由であり、刑の執行に震えながら、本を読むことや宗教を見つめる中から、過去の過ちを内省し、被害者への贖罪の日々を送るうちに、清浄なる魂へと脱皮してゆけるはずと信じたい。
朝少し降っていた雨が、午後からは本格的な降りになってきた。被害者になったことのない者の発言は、当事者からはそっぽを向かれてしまうかもしれない。被害者側も、自分が当事者になって初めて死刑のことを考えたというように、死刑のことは通常は遠い世界のことのように考えもしないことなのだ。僕自身は確固とした意見を持っているわけではないが、死刑制度には賛成できない。晩飯の後に国勢調査のことする。寒い夜だ。9月も晦日。
2010年9月29日Wednesday 晴れ
一定のリズムで生活しなければいけんな。
先週から敬老の日、秋分の日、二日の夏休みを含め、休むことが多かったので、怠惰な生活リズムを刻んでいた。休みの日の朝のお勤めは遅い時間にしていたり。夜明けも遅くなってきて、だいぶ寒さを感じるようになり、起きることが苦痛になり始めた。といっても、それを当たり前にしていてはいけないのだ。今朝は、4時頃に一度目覚めたが、心地よい温みに戻ってしまい起きたのは5時5分。お勤めを済ませ、30分ほど読書。これだけでもずいぶんと読める。
長袖シャツで出勤。昼休み当番だったので午後1時を過ぎてメシ。図書館へ2冊返還。2冊借りる、青木理著「絞首刑」、永山則夫著「死刑確定直前獄中日記」。ペース落とさずに読書しよう。
2010年9月28日Tuesday 晴れ
最後の夏休み、護摩を焚く。
夕べから今日午前中いっぱい、小止みになるときもあったけど、大分雨量があった。残り一日あった夏休みを28日の今日取って、お不動様の日に護摩を焚いた。早川の大滝の不動を訪ねようと思ってもいたが、26日に展開が変わって行けてしまえたし、今日を予定していたら雨で行けなかったと思うと、僕の思いや回りの動きが調子よくなっているような気分になってくる。8月の護摩と違って、暑くはなく、外は雨だったし、快適に護摩を焚くことができた。
夏の衣もここまでだ。午後には雨が上がる。読書をしてから本堂の掃除。夕の空は秋らしいいい空が覗いた。シャクティのビデオ見ながら、Sさんにいただいた岩手の酒「あさ開(びらき)」。日本酒はインディ・ミュージックにも合う。
2010年9月27日Monday くもり
15度。
午前8時過ぎ、R52阿手古沢温度計の表示15℃。寒いわけだ。気の乗らない月曜の朝、車のエンジン掛けて、車庫から出すときについでにヒーターも入れた。初暖房だ。ついこの間まで、35度を表示していたのだから、20度の温度差は身体にジーンと堪えるわけである。そうそう、半袖のシャツの上に作業上着も着て出かけた。身体が徐々に秋に慣れていくことが追いつかない寒さなんである。そうこうしている内に昼近くには雨が上がり、午後からは気温も上昇。暑いと感じるんだな。それからすっかりわすれていたのだが、終業後の6時過ぎから宮木勤労センターで職員の親睦のグラウンドゴルフ大会があった。まったく気乗りはしなかったが、昨日不在だった家4件を訪ねて国勢調査を依頼して出かけた。雨が再び降り始めてきていて、少しずつ雨脚が強くなる。3ゲームの日程を終了した8時過ぎには相当な降りになっていて逃げるように帰ってきた。明日、最後の夏休みを取ってあるのでのんびりと夜を。「酒場放浪記」も見る。
一方的な物言いは不適切だとは思うが、今回の検察の不祥事。それから、死刑に関する本を2冊読み終えたところで、冤罪と思われる事例もいくつかあるようだった。犯してもいない罪の犯人に仕立て上げられて死刑が確定してしまっている死刑囚にとっては、耐え難い屈辱の日々ということになる。裁判所は検察の描いたストーリーを鵜呑みにすることの方が圧倒的に多いようである。たまったもんじゃない。
2010年9月26日Sunday 晴れ
早川へお不動様分身に会いに。
8時35分に下部ホテルへ船橋のSさん迎えに行く。一路早川町大原野へ。まだ紅葉には早い。僕らが呼んでいる「大滝のお不動様」に会いに行く。今日は地元の神社の秋の祭典で、そのついでに春と秋、地元の方々が大滝のお不動様もきれいにしてくれている。大滝の前の巨岩にお不動様を勧請したSさんのご主人が亡くなってもう一年が経つ。高齢になって奥様は一度訪ねたいと僕に同行を求めてきた。実は来週最後の夏休みに訪ねようと思っていたところだったので、断る理由は何もなかった。女房も連れて行ってきたのだが、昨年寄り道が悪くなっていて、とてもSさんには行けそうになかった。僕だけが向かい、法螺貝を吹き、経をあげてきた。地元の若い衆3人がシメを取り替えたりしてくれていた。戻って神社の拝殿にも礼をしてから、公民館で宴となった。僕たちもゆっくりと話に加わりながら時間を過ごした。小学校が閉校の危機にあったとき、山村留学で2世帯が移住をしてきたと言うことだった。両世帯とも3人ずつの子供がいたので、一度に6人の児童が増えたことになったそうだ。その方たちか過疎の集落の若い担い手となっている。Sさんにはデジカメの写真を見せてあげた。「主人も喜んでいます」と喜んでくれた。大事にしたい場所である。でもなぁ、もうちょっと道がよくなるといいのだがなぁ。なかなか行政が金を出して整備してくれるということにはならないところである。リニア計画の話を聞くことができた。JRは着々と事を進めているようだ。
帰ってきてから、国勢調査の調査票を配る。5年前からここも人は減っている。
2010年9月25日Saturday 晴れ
秋晴れ。
甲府から彼岸の墓参に、もみじマークで高齢のEさんご夫妻。よくお参りしてくださる。午前中国勢調査の準備。何だかめんどくさくなってしまってなかなか進まない。明日には調査票を配ってしまわなければ。女房は運動会へ自分の出番の種目だけに行く。秋晴れで運動会には最高の日だ。午後2時前から2時間半ほど墓地の草を刈る。気持ちよく作業。汗もあまりかかない。これで墓地の草刈りは今年は終了となるな。頭を刈ってシャワーを浴びて夕のお勤め。明日、大滝のお不動さまに行くので久しぶりに法螺貝に水を飲ませて吹いてみる。思うように音が出ない。やっぱり通年で法螺貝を修練しなければいけないのだ。
洞川の西浦さんという方にメールをしたら、大峰山の戸閉め式があったそうだ。調べてみたら、大峰山は毎年5月3日が戸開け(山開き)で、9月23日が戸閉め(閉山)ということだった。こういうことは知らなかった。いつかもう一度大峰山にも行ってみたいものだ。
2010年9月23日Thursday
彼岸中日。
午前中から雨になる。あいにくの彼岸の中日。10時に三菱へ車の部品交換に行く。少しトラブルがあったようで、今日のは無料なんだけど、時間を無駄に使ってしまうことと、往復の燃料代はこちらの損となる。でも、実はメダカを少しだけ仕入れてきた。甕の水を半分以下にしてこれでまた様子を見てみる。これでだめだったらもう諦めるかな。
午後1時半から彼岸の法要。雨だから人が少なかったのか、雨だからもっと来てくれても良さそうなものにと言うべきか、参加者は女房を入れて3人。でもいいんです。僕が続けたいうちは誰も来なくたってやる。草刈りもできないので、国勢調査の事前準備をする。
「足音が近づく 死刑囚・小島重雄の秘密通信」読了。続いて「57人の死刑囚」(大塚公子著)に入る。死刑関連のもの3冊ばかり続けるつもり。
2010年9月22日Wednesday 晴れ
しぶとい夏が土俵際で残っている。
昼は暑かった。昼休み図書館を往復するだけでも汗だ。図書館は夏休みが終わって館内のも閑散としていたが、別天地のように涼しい。これだけはいける。1冊返して2冊借りた。若干読書スピードは落ちたが、何とか続けている。4時半起きもかろうじて継続中。
メダカがまたもや次々と逝ってしまう。いろいろ原因を考えてみるのだが、素人にはよくわからん。ただ、水面が広くて水深は浅い入れ物がよいらしいということが書いてあるので、甕に一杯に水を張っていることが要因ではないかと思い当たった。もうやめたらというのが家内の意見である。もう一度、これではないかということを検証してみたい気もするのだが。
2010年9月21日Tuesday 晴れ
一夜の寝床を施す。
夕べ7時半頃だったか、夕飯の後くつろいでいるところに、網戸の外から「こんばんは。何か食べさせてもらえませんか」と声。庫裏に回ってもらい招き入れる。Nさん61歳。職がなく、自転車で旅をしているのだと言う。旅の理由にはもっと重いものもあるようだが、それ以上を特に聞く必要も無かった。もう真っ暗なので、今晩は泊まっていったらどうかと話して食事を施した。テントを持っているのでどこでも露をしのげる場所であればいいと話したが、布団に寝てもらうことにした。シャワーも使えると。明日の朝4時半過ぎにお勤めをしますのでご一緒しますかと話しておいたが、今朝まだ暗いので、あえて起すこともないだろうと本堂にいると、暫くするとやってきた。お勤めを終えてご本尊にお会いしていただいた。Nさんに大きな力を与えてくれただろうと思う。朝食を一緒にとり、7時過ぎに自転車で旅に戻っていった。今朝も早くから猿が来ていた。真っ黒に日焼けした61歳は、とても精悍そうに見えた。「これからの季節、凌ぎやすくなりますから」と、富士川を上流に向かっていった。大分生まれの九州男児であった。
2010年9月20日Monday 晴れ
笛吹市へ葬儀の助法に。
彼岸の入り。葬儀の手伝いに出かける前に墓地を参る。ちらほらと墓参の方の姿。葬儀。まあこんなことが意外と続いていくものである。これは不思議なことで、何かが作用しているということもないだろうけれど、長い経験からすると、こんなことがある。叔父の寺の檀家の葬儀が今日あった。ここも正午からだったので、笛吹市の斎場に行くのに9時半過ぎに家を出た。甲府盆地の空は青い秋の空で、深呼吸して秋の空の匂いをもらった。夏の衣で冷房も十分に効いているホールでも、やはり汗をかく。経を腹の底からしっかりと唱えると身体はそれにつれて熱くなってくる。向かい合う従弟も時折ハンカチで拭う。3人の呼吸はいつものように外れることはない。布施を頂戴して土手の道を帰る。結局連休であっても、のんびりとポカーンと過ごすことにはならなかった。少し涼しくなってから、国勢調査の調査区の居住状況をあらかじめ調べておこうと歩いてきた。確実に人は減った。家も何軒も空き家になった。これが現実の八日市場である。アクアブルー飲みながら大相撲みている。これでおしまい。
2010年9月19日Sunday 晴れ
S家葬儀。
8時20分当家着。経をあげてから出棺。9時15分から火葬。僕は諸準備のためにいったん寺に戻る。極々身内だけの葬儀にして香典場も設けないとしていたが、どっこいそれがまずい状況になっているようで、葬儀屋さんと相談して、急遽客殿の外にも焼香台を置き、親族の若者が座る香典場も設ける。97歳の嫗はほとんど骨と皮のような最後の体躯だったので、ホントに一時間足らずで焼きあがってしまった。知らせを受けて火葬場で待っていた親戚の方々が15人ほど居られたので、40人ほどの人たちに骨を拾ってもらうことができた。正午から葬儀告別式。僧は僕一人。理趣経・諷誦文をして追弔和讃もする。納骨を済ませ、庫裏に戻って初七日の経をあげて御斎に。セレモニーホールの葬儀より、やはりおばあちゃんの拠り所となっていたお寺で葬儀ができてよかったのではないかと話した。息子さん兄弟も皆ここで葬儀ができてよかったと感想を述べてくれた。喪主は「四十九日もしっかりとやります。これからは護持会の付き合いもしっかりとやっていきます」と決意を述べてくれた。この言葉を信じたいと思っている。よい葬儀だった。
2010年9月18日Saturday 晴れ
戒名を考える。
早く目覚めてしまった。午前3時過ぎに起きた。葬儀の段取りや戒名を先ず付けなくてはという思いが頭の中をめぐっていた。葬儀のときには、いささかこちらも神経が昂ぶるのが常だ。台所で、ロッド・スチュアートを聴きながら、参考書を開き、先に亡くなっているご主人の戒名とのバランスも考えながら、故人の生前の人となりも思い浮かべながら考えた。割とひらめきでいってしまうようなところもあるんだけど、まあまあこれならいいだろうという戒名を考えた。
お勤めを済ませて、客殿の障子を外して会場の準備も少しする。今日は、午前中にバッテリー交換に行かなければならない。本当は今日、彼岸になるので墓地の草刈りをしようと予定していたのだが、この後早めにできるとこまでの草刈りをしようと思っている。午後には書き物があったり、納棺にも行かなければならない。忙しい一日になる。
2010年9月17日Friday 晴れ
葬儀になった。
檀家の96歳の方が亡くなって葬儀になった。だが、いろいろと事情がある檀家さんなので、こちらもまたちょっと複雑な気持ちでもあるのだが、亡くなった方には何も申すことはなく、僕としてもしっかりと引導してあげたいと思うのである。10年にもならないが、そのくらい近く、寺との音信がなかった。同じ町内に住んでいるのだが、転居しておられたので、住んでいる場所すら知らされていなかったのだ。事が起きたときにばかり、都合よく連絡してくるのかという気持ちにもなるが、あれこれ考えたり腹を立てていてもことが進まないので、アドバイスしながらなるべく負担の少なく済むように考えて、本人は既にセレモニーホールを予約していたのだが、この連休中にはホールがふさがっているとのことであったし、僕の予定もある。連休明けの平日を葬儀で休むのはできるだけ避けたかったので、ホールには、葬儀を行う住職の都合が悪いことを理由に話したら、先方のホールも、「それでは仕方がない」と快く承知してくれた。それで、日曜に寺で葬儀をすることとした。いわゆる親族だけの争議にしたいという喪主の希望もあったので。安易にセレモニーホールを使っても、出費がかさむだけだと思う。寺を使えば抑えられる。喪主がそのような細かなところまで、僕に相談しづらかったという事情もよくわかる。
2010年9月16日Thursday
かなりまとまった雨の一日になった。
夕べは「一刻者(いっこもん)」を買って帰ったので、前の晩録っておいた「WORLD HAPPINESS 2000」を見ながら。ついつい飲みすぎてしまった。Yellow Magic Orchestraやムーンライダースなどゆっくりと楽しめた。高田渡の息子(漣)は、いいミュージシャンになったな。でもこれからだよな、器用なだけじゃダメなんだきっと。おとといの夜から閃きで、ミシェル・ペトルチアーニを聴いている。いまオーソドックスなジャズを普段聴くことは少ないのだけど、涼しくなってきたのでちょっと聴いてみたくなった。小さな体躯ではあるが、ダイナミックな演奏を聞かせてくれるピアニストだった。一度だけ、Mt. Fuji Jazz Fes.で生を聴いたたことがあった。もう20年も前のことである。この人のは、折に触れて音を訪ねたいとは思う。雨は家に帰りつく頃にはあがった。週末は墓地の草刈をしなければならない。彼岸になる。覚せい剤というのは、断ち切ることができないものなんだな。田代まさしがまた捕まった。その写真もひどいもんだ。年は僕と同じ。げっそりとやつれて、頭頂部も透けて見える。まあ頭髪のことは別にしても、写真からはその疲れきった生活の一部始終がうかがえるような気がした。芸能界の華やかなときを一時期でも経験すると、現実と華やかな頃が大きなギャップとなって厭世観をもたらし、結局逃げてしまうということになるのだろうか。厳しいな。
2010年9月15日Wednesday くもり
重信房子も梶芽衣子も長い黒髪がよく似ていた。
朝3時前にポツポツと降り始めた雨が、4時前頃になって急に雨脚が強くなった。4時半に起きた頃には少し収まっていたが、いい雨だなぁと思いながら、雨なので客殿からスリッパで行けないため、庫裏の玄関を開けて傘をさして外に出た。ほとんど夜である。本堂の渡り廊下の電気を点けて本堂を開けて中に入る。いつものように灯明を点けて観音扉を開く。山門の蛍光灯の明かりが雨の朝まだきに、懐かしいものでも映し出すようにあった。
寝苦しい夜はだいぶ解消されたが、僕は結構外のちょっとした音にも反応がいいみたいで、わりと瞬時にそれが判断できりことが多い。例えば、早起きしなければならなくて目覚ましの鳴る時刻をセットして寝ても、間違いなく目覚ましが鳴る前に目が覚める。朝も大体居4時前くらいには一度覚めてしまうので、「あーあと40分くらい寝るか」なんて思って布団を掛けたりする。
一時間以上を読書する。6時前には雨は止んでしまった。重信房子「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」。パレスチナに赴いて赤軍兵士として、パレスチナ人民解放戦線(PFLP)に合流して闘争を続けてきた経緯が少しずつつかめてくる。イスラエルに対抗するには銃による闘争以外に道がなかったということなのだが、世界同時革命のためとはいえ、なぜ日本人がそこで戦わねばならなかったかということは到底僕には理解ができそうにない。アメリカが他国の喧嘩にちょっかい出して、事を大きくすることと同じようにしか思えないのだが。アラブの地でくつろぐ長い髪の重信さんの写真を見て、梶芽衣子が思い浮かんできた。調べてみたら、重信さんが梶芽衣子よりひとつ年上だけだった。この時代の女性の特徴的な風貌であったのかもしれない。
夜、重信本読了。本棚に積んであった挫折していた「怒りていう、逃亡には非ず 日本赤軍コマンド泉水博の流転」(松下竜一著)をまた初めから読み始めた。帰りの時間に降り始めた雨も今は止んだ。20時43分。
2010年9月14日Tuesday 晴れ
民主党代表選は管さんで再選。
植垣氏の本を今朝読了。この人はメチャクチャ頭がいいようで、専門である物理・数学、経理や絵画や音楽、あらゆる分野のことを自主学習していた。それから、自分の犯した誤りを十分に掘り下げて、でも決してひるむことなく、出獄した後の今も、彼の目指す世界建設のために活動をしていると聞く。すごい人だ。過去の罪は決して許されるものではないけれど、反省から仕切り直しをして歩き始めた姿勢は輝いているように思えた。変わっていけることゆうことだ。
今朝は庫裏の西側のサッシ戸は開けなかった。お勤めを終えて戻った庫裏も、玄関を網戸にすれば霧のような冷気がすぐに流れ込んできて“寒い”という感覚であった。昼休み図書館に二冊の本を返し、新たに「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」(重信房子著)、「近代日本の戦争と宗教」(小川原正道著)を借りた。この7月15日に東京高裁で懲役20年の刑が確定した重信さんが娘(メイ)さんが自分の娘であり、日本国籍を取得するために法務局に宛てて書いた上申書がこの「りんごの...」である。これから読み始めた。図書館の蔵書には限りがある。こちらが欲するものがすべて揃っているわけではないので、いくらか関連しそうなものを読み進めたいと思っている。それから所蔵するもので、挫折してしまったものもこの後再び挑戦してみようと思う。今の調子ならこれらも多分読めるような気がするし、読後感がまた楽しみでもある。
2010年9月13日Monday 晴れ
娘大学に戻り、秋の静かな寺になる。
4時半起床。ちょっと早すぎ非常識のような夜の朝。今朝は出かけるまでどんより。実際ほんのちょっと雨が舞ったりもした。娘は7時半頃の電車で大学に戻った。就職の厳しい時代を避けて通ることができない彼女たちは、否応なく大学4年生という時間を真剣に、逃避することなく向かっていかなければならない。親でありながら、言葉には出さないが、心の底深くに重く沈んでいるものがあるのだろうと思わずにはいられない。それからなんと自分自身の非力なことか。順調にいけば、この夏家でゆっくり過ごせた時間はもう来年にはないということになる。それぞれのもつ時間に水を撒いて育てていくのだ。
「連合赤軍27年目の証言」植垣康弘著、興味深く読み進めている。彼の最後は甲府刑務所暮らしだった。既に出所しているのだが、この本の元となる手紙を書いたのは獄中である。非常に前向きな生き様が文にしたためられていることを強く感じる。想像するに、やはり有刑期であり、そのトンネルの出口が数年先に見えていることは、植垣氏の生きることの一番の源になっていたのだと思う。こんなことは誰が考えてみたってそのとおりだろう。無期刑に服している吉野雅邦氏を書いた「氷の城−連合赤軍事件・吉野雅邦ノート」とはやはり少し違うものを感じてしまう。
9月も半月過ぎんとしている。暑い日のことも、10月の声を聞けば頭の片隅に追いやられてしまうだろう。本を読むこと。
2010年9月12日Sunday 晴れ
カルメン・マキも聴いたよ。
午前中、客殿裏庭の掃除。暑い暑い。カラカラになって落ちている桜の葉っぱ。墓地に行って、草の伸び具合を見る。来週の土日で刈ろうと思う。各家の墓地から盆幡を付けた野竹や枯れた花を片付ける。午前中でももう暑すぎるくらいに暑くて、外に出ている人なんて居ない。獣たちだって杜の奥の樹陰に身体を休めているのだきっと。
昼飯をそば食いに行く。国道の温度計は36度。娘は明日長い夏休みを終えて、卒論やもう少しがんばりたいという就活のための日々に戻っていく。冷房のよく効いた店で鳥もつと冷たいそばを食う。冷たいそばが食欲が減退する日には涼をがあって気持ちよく腹に落ちる。帰ってから読書。早めに夕のお勤めを済ませ、頭を刈って外を少し歩く。暑さのすこーし退いた境内にカルメン・マキが流れる。彼女のグイッと引いてくれるような歌に、彼女のような力強さを娘にも与えたいと思った。リコリスの開きが少ない今年を感じていたが、彼岸花が伸び始めてきた。もう間もなくだ。
2010年9月11日Saturday 晴れ
今日は暑くなって、台所にはまた冷房が入った。
午前中車の調子を見てもらいにミツビシへ。やはり問題があるようでそこを修理しなければならないとのこと。ついでに弱ってきているので交換したほうがよいといわれていたバッテリーも新しくすることにした。来週の土曜日に。終わって市川のJマートに行ってメダカを買ってきた。甕を洗って、庫裏の三和土(たたき)に据えた。さてどうだろうか。久しぶりにメダカの姿を見てほぼ満足。
本は今日から「連合赤軍27年目の証言」植垣康博著に移る。著者は26年に及ぶ拘置所・刑務所生活を終えて出所し、今は静岡でスナックを営んでいるらしい。近年結婚してお子さんももうけたらしい。出所後のインタビューを本にしたものであるが、連赤事件の法廷闘争にも、被告それぞれの考えや思惑があるようでこのことも興味深いものである。しっかりと読み進めたい。
午後、彼岸の塔婆を5本書く。檀家からの申し込み分は今のところ2軒。よろしくお願いしますよ。夕のお勤めを済ませて、その後バケツに水を汲んで植栽に水遣り。雨が降らなければもうまた、カラカラ状態に戻ってしまうようだ。自然界のなすことには黙って従っていることしかできないなぁ。
2010年9月10日Friday くもり
一気に気温が下降して、半ズボンでは寒いぞ。
朝のお勤めの後、作務衣から半ズボンに履き替えて外に出たり本を読む時間にあてている。いつものように今朝も、庫裏の西側の窓を網戸にして、玄関を開けて水遣りをして入り口も網戸に、台所と庫裏との繋ぎの戸は開けてあるので台所の東側の網戸からの風が流れている。長いすに寝そべりながら、昨日の朝からの「ありふれた老い」松下竜一著を手にとって読み始める。うん?いつもの朝と少し違う。台風が去って昨日からがくんと気温が下がり、今朝方も網戸全開では寒いと感じた。ランニングパンツの下の爪先から冷たさが這い上がってくるのを感じた。この冷たさを感じたのはこの夏の終わりになって初めてだ。これで秋への流れがいっそう速くなるか。暑さが落ち着けばまた昼休みのウォーキングも再開したい。うーん、本も読みたいしなぁ。でも本は朝の早起きを続けられれば確実に長編でも読み進むことができる。読書に1時間を費やせるということは、しっかりと本を読めるものだなといまさらになって驚いて、また重要なことだと思ったのだ。
松下氏が父親の老いと介護の日々を綴ったものであるが、僕にも老いて自らの内に閉じこもりつつ、なんとも厄介な母親がいる。この人が本当にわからなくなり、日常生活を自分の意思で営めなくなる日もそう遠くないことだろう。自分の老いのことも感じつつ、解放されるということは、命尽きて、存在を無にしてしまわないと始まらないのかもしれないと感じてくる。
2010年9月9日Thursday くもり
気温が5度くらい下がると、やはり過ごしやすく気分がいい。立松和平に感謝。
ただ単にこの世界に身をやつしているだけということに過ぎず、その時間が30年になろうとしているだけのことなのかもしれないのだが。立松和平「木喰」夕べ読了。いささか物足りなく感じたし、木喰の生きた時間や、彼の残した微笑佛のことを断片的に拾って仕上げてみた風な感は否めないような、「光の雨」を読んで感じたような満足感には遠く及ばなかった。それでも、後半になるにしたがって引きずり込まれていく自分を感じていたし、僕も、「こんな風には本が終わってほしくはない」くらいに、立松作品への入れ込みがあったのかもしれない。一日の雨で終わってしまったけれど、山も大地も川も、天からの恵をいただいて、今朝の曇りの朝の気持ちのよさといったら久しぶりだ。できればもう少し雨がほしい気もする。まだ夜の明けない4時半過ぎに、客殿から本堂への濡れている石畳を渡って本堂に向かい、脇から入って本堂正面の観音扉を開け、灯明を点して深く息を吸って理趣経を読む。木喰行道上人の読んだ理趣経は、時間の隔たりはあっても、おそらく寸分の違いもなくいまも真言僧の一番の根幹を成している。勤行を済ませ、幼い苗たちに水を汲んで届ける必要のない今朝は、庫裏の玄関を開けてあらためて外に出て、雨の過ぎた潤いのある境内を眺め、軒下の苔植えのサギソウの鉢には水を与えた。群舞していたサギソウも、残りは一羽になってしまった。こういう穏やかな心地でこれを書かせてくれた立松和平「木喰」にはやはり感謝をしなくてはならない。
2010年9月8日Wednesday
やっと雨に、頭少し冷えて徒然。
もう止んでしまっているのだが。よく一日降りました。褒美をあげましょう。朝からのことを。
内藤君から以前貰ったのだが、“積ん読”になっていた立松和平「木喰」を読んでいる。いつものように長椅子に寝そべって読んでいたのだが、6時少し前から屋根を叩くような音が聞こえ始めて、本を伏せて外に出たら池の表に雨の波紋が広がり水滴が跳ねていた。この前はいつだったのか思い出せないくらい、頭の記憶もからからに乾いてしまっていたのだ。久しぶりの雨。雨を両の腕、頭にもらった。木喰行道が歩く道々には、渇ききって飢饉に疲弊した村々があり、流行り病や飢えで死んでゆく者らが道端に転がっていたりもしたようだ。鼠衣を身に纏い、鑿でたくさんの仏を行く先々で彫った。雨を乞う仏もあったかもしれない。
傘を差して家を出るなんてのもこの前はいつだったろうか。雨に打たれて乾いた土からのにおいが沸き立っていた。喜田の姉さんからは久しぶりにメールが。「白菜や大根などの植え付けや播種が出来ず困っていましたので、本当に恵みの雨」だと。異常気象で野菜の価格も跳ね上がっていたようだし、それ以前に、野菜や果実の生育が順調にいっていないことが伝えられていたっけ。
北朝鮮じゃ、44年ぶりに朝鮮労働党代表者会議が開催されるとして、平壌がにわかに活気付いているらしい。ジョンイルの後継と噂されるジョンウンのこと。将軍様のプレゼントだというプチ遊園地みたいなものが夜な夜な賑わっているという平壌。テレビの解説者は、平壌と地方との格差が一段と顕著になってきたことの表れだという。イルミネーションに浮び上がった巨大な遊具に乗って興ずるプチブルどもには、自国の隅々までのことが心のどこかに赤点滅となって発光していないのであろうか。将軍様のプレゼントには、一国を思いやるという配慮が一切ない。おそらくそれは、彼が生きてきた時間の中に、貧者あることをわかっていても、あえて目を逸らしてきたのだと考える。そしてこれからもそうしていくことで、ジョンイル列車の暴走を停めずに、自己破綻(国家崩壊)へのストーリーを突き進むのだという頑固さなのかもしれないと思ってしまう。
2010年9月7日Tuesday 晴れ
デジカメが壊れてしまったので、当分は仕方がない。
アクシデントによりデジカメが壊れてしまったことを今朝気付いた。暑いので書くことに頭を費やすのはメンドクサイ。本を読んでいるほうがよほどましなのだということにも気付いた。4時半に起きお勤めを済ませて読書。4時半はまだ闇の中だ。娘が大学のゼミがあるから早く出かけるのだからという目覚ましに即座に反応してしまった。網戸のそばでタオルケットを掛けた。随分と涼しくなった。今朝の予報では、明日明後日と、台風の影響で久しぶりにまとまった雨が降るだろうと。降ってからのお楽しみといきたい。日照り続きで、アジサイの苗が萎れたり、眼をそらしていたら、ブルーベリーの一株、サツキの幾株かがアカく枯れ始めてきていた。水遣りをしたが、うまく回復してくれるかどうか。
2010年9月5日Sunday 晴れ
週末読書三昧。
これもひどい暑さのせいである。暑さのせいで、今年の夏は思いがけなく読書というものを再び賜った。「樺美智子 聖少女伝説」江刺昭子著読了。1960年6月15日の安保条約改定反対運動で国会突入してそこで22歳の命を落とした東大4年生のこと。樺美智子の名前は知っていたが、どのような思想をもって死んでいったのかは知らなかった。おそらく図書館の本でもなければ買って読むところにまではいかなかった。彼女が亡くなって50年の節目に書かれたものである。連合赤軍のことといい、個々の生きた時代に湧いた熱いエネルギーに突き動かされるような時代の背景があるような気がする。昨日の朝から今日の昼過ぎで読了。次の本もまた読み始めた。
暑くて何もできないのだが、午前中は野良着に着替えて百日紅の枝を下ろした。もう花も後半である。二連梯子を持ってきて、伸ばして上ってノコギリ、剪定バサミで2時間ほど作業してきれいにした。やはり僕は高いところは苦手だ。日差しを受けての汗よりも早く、背中からパンツの中までびっしょりと汗をかいていた。本当に高いところは苦手だ。でもこの木を片付けたので、今月末か来月初めに来てくれるシルバー人材センターの庭木剪定で、他の植栽にかかってもらえる。夕方になって少し涼しい風が吹いてきた。でも雨が降らなければだめだ。
2010年9月2日Thursday 晴れ
幾時代かがありまして。
夕べはちょっと涼しさがあった。新しい本を借りて読み始めた。「氷の城 連合赤軍事件・吉野雅邦ノート」大泉康雄著。著者は無期懲役で収監されている吉野の麹町小中学校時代の同級生で、高校大学時代も親交があり、活動家吉野を冷静な目で眺めてきた人物である。残暑の夏が去ったとしても、早起きが励行できさえすれば読書の時間は十分に確保できる。もうしばらく読み続けよう。
5年ぐらいの遅さだけなのに、彼らのように時代に向かって攻め込んでいく姿勢は僕にはなかったし、いくらかの興味はもったにしても、自らの生死をも賭した活動に身を置くことなんてとても考えも及ばなかった。でも考えてみれば、このような過激な政治闘争にかかわった若者は、列島の上空遥かから見下ろせば一握りに過ぎなかったのだから、異常といえば異常なのだろう。著者でさえも、変化してゆく友人に違和感を覚えたというようなことも書いている。たくさんの生き方が、それぞれの生きる場所や目的・目標のなかで育っていった時代なのだろう。いまあらためて過ぎた時代を読み返してみると、犯罪のことは別にして、生きるということにこんなにも激しく向かっていくという若い力や気持ちがびんびんと伝わってきて鳥肌が立ってくる。携帯電話もメールもない時代に、熱い思いの手紙を書き、公衆電話から愛を伝えたりしてきたのだ。そういう時代を真摯に生きた彼らなら、獄にあって、しっかりと過去の事を生ある限り考え続け、そしてまた祈り続けていけるのだろうと僕は思う。
夕べ、今夜と、本を読みながらBGMに冨田勲をかけている。NHK「新日本紀行」のテーマも収められている。きっとこのメロディーは、僕より年上の方なら皆誰でもが、そのメロディーを思い出すことができるだろうと思う。僕が喜多郎の信州八坂の家に居候しているとき、彼の持っていたテープの中にも「新日本紀行」があった。喜多郎は好きなメロディーだと話してくれた。1981年頃のことだったか。信州にはもうひとつの生き方を目指す若者たちがコミューンを形成したり、国家そのものに頼らぬ生き方を探求していたように今思う。
2010年9月1日Wednesday 晴れ
雨乞い。
たとえば夜10時半か11時頃に寝ようとする。暑いので、南向きの網戸のそばに座布団を枕にして寝転ぶのが最近の常である。だが風が止まっているので一向に快適などとはいえず、どこにごろんとなってもおんなじ温度の中に漂っているだけなのだ。網戸になっていても風が入ってくるわけではなく、ただ昼の熱だけがそのまま停滞しているのが11時頃になってもの情況。それでやっと今朝というか、日付が9月1日になって午前2時頃、地表の熱が収まってきて暗い夜によって冷やされて、少し冷たさを体感できるようになってきた。だから夜中の2時過ぎ位からでないと快適な睡眠をむさぼれないのが今の残暑の季節なのである。夜の明けも少し遅くなってきて、5時に起きると暗さが幾分残る。まず風呂場に行って水のシャワーを頭にしばらく掛けてから顔を洗うのが8月からの朝一番になっている。この後に勤行に行く。夕方帰って南側の網戸の外に水も撒いたりするのだが、この効果はどうもあまり感じられない。それから、晩飯食いながら、県内各地に大雨落雷注意報とかが出ているのを時々見るが、僕の住むあたりにはこれの影響はほとんどないといっていい。まったく降らない。寺の本尊である不動明王が「雨が嫌い」ということは、僕の集落ではみなが口にするのである。「お不動さんが雨が嫌いだからなぁ」と半ばあきらめ口調でつぶやくのである。雨の嫌いだというお不動様に、雨を乞うているのだが、根気よくお願いしてゆくより仕方ないか。
2010年8月31日Tuesday 晴れ
役立つはずもないが、書かなければこちらもいたたまれない気分になってくる。
夏季休暇帰省中の娘は今朝、就活のために高速バスで上京。2600円で新宿西口まで運んでいってくれるこの高速バスを、彼女はこの夏もう何度か利用しているようだ。暑いので、乗り換えな程よくクーラーの効いた快適なバス旅を、僕も一度味わってみたいとも思う。
休日から松下竜一「ビンボーひまあり」を読んでいる。自身が発行していた「草の根通信」のエッセイをまとめたものだが、大分県中津に生まれそこで終生すごした氏の日常がほのぼのと偲ばれる。多くの社会問題を題材とした作品を書き、自らもその闘争の中に身を置いてきた作家である。僕が秘かに生き方を見習いたいと思っていた作家である。既に2004年に他界しているのだが、彼の著作もまた少し振り返ってみたいという気持ちが沸いてきている。
出口(新たなスタート台)の見えない大学生の就職難のことが連日報道されている。卒業から3年は新卒扱いにするということを企業にお願いするとか言っているが、そのことがどれだけの就職率のアップにつながってゆくのかということは見えてはこない。現実に今この瞬間も足踏みしたままに闇の中でもがいている学生たちに、現政権(他も同じだろう)は到底救命ボートを差し向けることなどできないのではないか。娘はやっとひとつだけ貰った「内定」をお守りとして、もう少し頑張ってみたいと今日もまた熱風の街にヒールの音を響かせていった。内定は、まるで抽選にでも当たることのような厳しい戦線の実態なのだろう。考えれば考えるほど、親としての何もできないことのつらさを実感するばかりだ。

2010年8月30日Monday 晴れ
数字。
阿手古沢付近の温度計が、今朝は「おっ!30度か」と見た瞬間に31度に変わったのだ。車の時計は7時58分だった。今週もずっと暑い予報である。昨日の夕は、30分ほどかけて両手にバケツの水を何度も運んで本堂裏に下ろしたアジサイ苗に水遣りをした。今朝歩いて眺めると、姿を正して僕の好意に応えてくれていて嬉しかった。些細なことでも、手をかけてやれば微笑を返してくれるものなのである。
25万人。富士山への登山客の数だということだ。60日で25万人ということは、一日におよそ4150人が登っているということになる。こんなに登って山は生きていけるのだろうか?山は呼吸し続けられるのか。登山客が増えれば増えるだけ山道も荒れ、周囲の自然も壊れていくのだということは以前見たテレビでも伝えていた。自然を守るということは、自然界に入っていかないということが究極な保護である。テレビで見たのは富士山のことではなかったが、近年の登山ブームで、縦走ルートが途切れることのない登山者により踏み固められて、元に戻せない破壊につながっているという。
5兆桁。円周率の計算で、長野県の男性が作った記録だという。今までの記録が2兆7千億桁ということだから大幅な更新なのである。記録達成までに90日を要したというが、決して割り切ることのできない数字への飽くなき挑戦は、地球が燃え尽きてしまうまで続くのだろうな。
数字っていうのは不思議だ。その数字を見るだけで、体が熱くなってきたり、震えてきたり、やる気を起こしたりなくしたり。般若心経は262字である。この深遠な経を唱え終えることは今の僕にはないのである。命の鼓動止まるまで。

2010年8月29日Sunday 晴れ
本堂を掃除して気持ちを洗う。
午前中に、「レッド」の4巻まで(まだ以降は出ていないのだ)を読み終え、11時の鐘を撞いてから本堂の護摩の後を片付けて掃除。今日も昨日と同じ暑さ。この自然のなせるお仕置きのような暑さを、いつまで耐えていかなければならんのか。いい加減うんざりだ。汗をかいて本堂を掃除して、これはこれで気持ちを洗う心地よい汗。午後から松下竜一のエッセイを読み始める。松下氏も好きな作家だったが亡くなってしまったな。本を閉じて、堂内の荘厳用の樒をとり、頭を刈り、また本を読む。夕のお勤めをして日曜の終わり。

2010年8月28日Saturday 晴れ
8月不動。
28日の今日は幸い休日。お不動様の日に護摩を焚けるのはそんなにチャンスがない。今朝も暑さは十分にあったのだが、もちろん護摩を焚いた。今日は特別な飛騨。山尾三省の命日でもあった。それから昨日読み終えた「光の雨」を書いた立松和平への追悼と、連合赤軍事件で亡くなった者らの追悼、いま獄にある者らの日々安からんことなどを護摩に込めた。壇に上がって半加座しただけでもう汗が背中を伝う。点火すればいっそう熱く厚い。汗が流れて腹の底からの汗がこみ上げてきて噴出して、残暑の8月の護摩が焚けた。少しさっぱりとした。
午後からはカムイ伝10巻11巻を読む。それから、4巻まで仕入れた山本直樹のコミック「レッド」に流れる。暑い日続きであじさいの下ろした苗がほとんど萎れてきた。夕方何度もバケツで水を運ぶ。平常心を保つこと。

2010年8月27日Friday 晴れ
この澄めるこころ在るとは識らず来て。
死刑囚であり獄中歌人であった島秋人が、刑の執行前夜に残した歌に、「この澄めるこころ在るとは識らず来て刑死の明日に迫る夜温し」がある。連合赤軍リンチ事件により死刑の確定している坂口弘もまた短歌を詠んでいる。立松和平「光の雨」読了。470ページを超える本を閉じ深く息を吸い、深いため息が出た。革命に燃えた若者たちが、結局は革命戦に至る前に自爆崩壊してしまったということだ。山岳ベースの榛名山に集結したメンバー29人のうち、12人が総括による私刑死或いは死刑が執行されている。資金集めに森と永田の実質的トップがベースを離れなければ、次に総括されるのは坂口であったかもしれないし、明日は自分の番かもしれないという極限の恐怖の中で命の火をともし続けていた下位兵士らによる、森・永田・坂口への下克上となって崩壊していたかもしれない。結局何もなせずに、悪業によって塵となってしまったのだ。人間なんてみな、程度の差こそあるかもしれないが、「澄めるこころ在るとは識らず」に生きてきてしまっているのかもしれない。29人中12人の仲間をしに至らしめた行為は、まったく今僕が思えば笑っちゃうである。よくもまあ、こんなことが平然となされていたもので、それを取り囲む者たちもこの狂った行為に対して、腕を組んで反発するということができなかったのかと憤ってしまう。互いを信じて思いやる心がなければ、革命が成就しても、「お笑い北朝鮮」と同じになってしまうのではないかと考えてしまう。彼らの目的としていたものは何も見えず、ただこの事実だけが“あったこと”としてのみ時を生きている。オウムの事件についても似通う事例なのかもしれない。この国を変えて理想郷を建設することの参考にはならないけれど、人として如何に生くべきかということを問い直すときの実例としては、この事件の経過を知っておいてもいいだろう。悔しさを堪えながら亡くなっていった者ら、出所した者、獄にある者、命を絶った者すべてに、僕は僕に与えられた職での祈りを捧げようと思う。僕もまた「この澄めるこころ在るとは識らず来て」、いまなお「澄めるこころ在る」ことを知りながらも、病む心の闇の中を歩き続けているようなもの。
著者の立松和平は今年2月に亡くなっている。この連合赤軍を題材にした「光る雨」は、雑誌への掲載当初、盗作を指摘され、非を認めた彼はテレビでの活動などを自粛し、5年後に新たな小説として書き換えられたものである。著者にとっても思い出の作品であろうし、おそらく同時代を生きた者として、この事件を彼としては書かなければならないという使命感を持っていたのであろうと思う。以前からこの小説を読みたいとは思っていたが、ボリュームのある小説を読了させる自信もなかった。酷暑の夏が思いもかけず僕に、「怠惰に見送らずに本を読め」と肩を叩いてくれたのだ。立松氏にも、供養の香を捧げなければならない。奇しくも今日、東京拘置所の刑場が初公開された。死刑執行のまさにその場所が写真公開された。小説の「光る雨」は、2030年が舞台となっている。死刑制度が廃止されたことにより釈放された80歳の元死刑囚(玉井潔)が、アパートの隣に住む学生に事件の経過を話すという構成になっている。現実の日本はまだ死刑廃止とはなっていない。死刑が確定している坂口弘、永田洋子については、いつ刑の執行が告げられるかわからない。もう少し暑い夏の呼びかけに応えてみようと考えている。

2010年8月25日Wednesday 晴れ
いまこれを読むことに何を僕は求めるのか、読み取ろうとしたいのかはわからぬが。
深夜上流はだいぶ雨が降ったようだ。富士川は増量して濁流。おそらく午前0時を回った頃、遠く雷が何度か聞こえた。もっと近づいてきてここにも降らせてほしいと、虚ろな頭の中で願っていた。出勤途中、阿手古沢付近のデジタル温度計は30度であった。8時半過ぎに門野の湯へ所用に行き、帰りに船原付近の温度計は9時前ですでに33度を表示していた。衰えることのない強靭な夏ではないか。
立松和平「光る雨」を、どーんと重たい気分に陥りながらも、この40年前におきた連合赤軍事件を、僕なりの立松和平への追悼の意味もこめて読み進めている。事件発生の頃は僕はまだ中学から高校に入ったような時期であったので、学生運動の盛んな時期からは5年くらい遅れて生きてきたことになるかもしれない。1975年4月に、町田にある和光大学に入った。入ったばかりの4月、新入生歓迎の一連の行事の開催されている最中に、中核派と革マル派の内ゲバがあった。僕自身は共産党系の部落問題研究会に入り、その後民青へといくのだが、肌に合わずにサークルにも、そして大学にもいくことがほとんどなくなってしまった。新しい大学の和光は、確か創立10周年の頃で、僕は高校のときから、JACKSの早川義夫の通った大学に行きたいと決めていたのだった。和光は思っていたとおりの自由な大学だったが、大学よりも、東京でのひとりの生活で見るもの聞くものの面白さのほうが大学の魅力を上回った。部落研の頃は、ちょうどサイゴンが陥落してベトナム戦争が終結し、学内も華やいでいたように覚えている。戦闘的なやつらは僕の大学にもまだいた。竹槍やヘルメット、戦旗も堂々と翻っていた。大学3年目の頃だったか、迂闊にも奴らの数人と学内で接触してしまい、3時間ほど「かごめかごめ」状態で囲まれてつつかれてしまったことがあった。不条理を十分に認識しつつも、真の革命戦士たれと弁舌ふるう者らによって、死をもって自己総括して革命戦士を全うしろと殺されていく者たち。自己陶酔の極みを粛清と称して正当化した。いつの世でも、こんな風な、一時的に祀り上げられる者が出現したりするものだ。途中で自らの路線の誤りに気づいても、誤りを吐露したら自分が血祭りに上げられることになるという腹巻爆弾を抱えつつ物語があったのかもしれない。獄で自己批判するくらいの生き方しかできてこなかったということなのか。獄で悔い改めなければいけないような生き方をなぜしてこなければならなかったのか。こんなことで革命が起こせると信じていたのかお前は、本当に?自らに問いながら、遥かなときを座り続けてきた僧侶の心のありようにさえ本当があるという思いが強く強く生まれてくる。仲間を愛することからではなく、仲間を疑ってかかることから始まる革命ゴッコの結末のなんと哀れなものか。読み終わった時に僕はどういう感想を持つだろう。永田洋子の「十六の墓標」をもう一度読み返してみようという気持ちが起きるだろうか。続くよ暑い夏。

2010年8月24日Tuesday 晴れ
いつまで続くか読書。
今日図書館に行って、「カムイ伝」の10巻11巻をやっと借りることができた。立松和平の「光る雨」がちょうど半分になったので、あと3日くらいで終わるからその後にまた、10巻以降を読み始めよう。漫画から小説へと移り、こんなに熱心に読んでいるのは久しくないことだった。朝の勤行の後に、1時間ほど読書ができる。そのためには早寝早起きを励行しなければならない。処暑を越えても、暑さが落ち着く時期にはなりそうもない。9月も暑そうだとかいっている。
永山則夫が処刑された8月がゆく。山尾三省の命日が来る。人知れず暑さに亡くなっていった人たちがいる。いつだったか、知り合いのケーキ屋さんは、「暑い夏は商売があがったりです」とこぼしていた。なるほど確かにケーキには食指はむかないだろう。建物の中を通過する風はいくらか冷たさも感じるが、空の下の風は熱が下がらないままの不機嫌な風だ。本なんてものも、いつ興味がさめてしまうやら。夏の暑い熱に浮かされているのかもしれないし。

2010年8月23日Monday 晴れ
書くことさえ億劫になってくる暑さの夏だ。
こんなに猛暑続きというのも近年珍しいのじゃないか。暑すぎて、パソコンの前に座ることもいや、パソコンの電源を入れるのさえ億劫。土曜には娘と女房と小淵沢へ行ってきた。年に2回くらい行く。井筒屋でうなぎを食べて、アジア雑貨の更紗へ寄り、その後に高速を走り抜けて、牧丘の上求寺を訪ねる。7月に桃をたくさんいただいて、そのコンテナを返してきた。ブドウの時期にはまだ早いので、おじもおばも家に居て昼寝でもしていたのだろう。おじは容赦ないこの夏の暑さが堪えているのだろうか、また少し痩せたのかもしれない。帰り際に、土蔵の前に野晒しになっていた葡萄酒をもらってくる。「ダメだったら捨ててくれ」といわれた葡萄酒は、その存在を忘れられていたのか、からの一升瓶と一緒に野晒しになっていて、日光を浴びてあたたかだった。もらってきたのだが、とりあえず庫裏の涼しいところにおいて、暑さがひと段落した頃にでもいただいてみようかと考えている。
昨日は特に何もすることなく、午前中、立松和平「光る雨」読み始める。マイルスのアルバムを何枚かBGMにして。客殿の南北を開け放つと、風がよく通って涼しい心地で読書できた。午後2時に県立博物館の学芸員3名とカメラマン、町の教育委員会のS君来山。この秋の開館5周年記念特別展「甲斐源氏 列島を駆ける武士団」に貸し出す展示資料の撮影に来た。不動明王ほか義光公、遠光公、信玄公の絵画と像、甲斐源氏系図。本堂での撮影は、カメラマンの要望により堂内を締め切って行ったので、全員が汗びっしょりになりながら。作品にこだわるということも汗なのだ。午後2時から始めて5時過ぎに終了。冷たいお茶を一杯飲んでいただいてお別れ。甲斐源氏の系図について「書いた人は誰なんでしょう?」と学芸員に問うと、「おそらく江戸の初め頃、この寺の住職が書いたものと想像します」とのことだった。甲斐源氏の始祖になる新羅三郎義光が大聖寺を開基し、ひ孫に当たる加賀美次郎遠光が宮中守護の功績によって本尊の不動明王を下賜され、武田信玄の戦勝祈願の寺でもあったこの寺が、如何に甲斐源氏にとって重要であるかを、甲斐源氏の末裔や後世に伝えるために、300年位前の住職が書き記したものであると想像する。遥かな時間の経過が、ぐっと僕の手元に近づいてきてくれたような気分になってきて、夏の暑さと違う熱い思いが腹の底から感じてくるのだ。この寺を迷わないわけにはいかないような状況にはなってきているが、僕の迷いもまたこの寺の歴史の波間にあるのだということ。

2010年8月18日Wednesday 晴れ雷雨
足踏み。
昼休み当番だったので、13時から休憩に入り、図書館へ行った。「カムイ伝」の10巻が貸し出されていてこれがなかなか返ってこない。おんなじ時期にこの「カムイ伝」に興味を示した人はどんな人なのだろうと勝手に想像してみる。全15巻なのだが、10巻11巻が返らないので進めないで足踏みしている。仕方なくではないが、8月に逝った山尾三省を読んだり、今日は立松和平の「光の雨」を借りてきた。非常に強く冷房の効いた図書館は、夏休みの宿題でも仕上げるのだろうか、小学生も大勢だったし、受験勉強に勤しむ高校生らしき若者も何人か見られた。午後4時前頃からにわかに曇りだし、空は真っ暗になり、雷が激しく轟きはじめ大粒の雨に見舞われた。今日の雨は北からの雨で、飯富辺りはすごい降りだよっていう情報が先に入った。酷暑再来の数日だったので、アジサイの葉がまた萎れてきていたので、いい雨になった。

2010年8月17日Tuesday 晴れ
盂蘭盆法要と護持会総会。
8月16日午後2時からは毎年の習い。法要をしてその後総会。今年は護持会副会長の選出の年になっていたが、すんなりと決まってよかった。12名の出席であったが、毎年こんなもの。暑さが完全に復活したようで、客殿も開け放ってあるが熱風が行き交うだけであった。昨年から出している女房のピザは今年も好評。定番の刺身もやめた。どこの家でも多分食べ飽きているに違いないので。ビールのあとは焼酎を。皆帰った後ヒデちゃんとこれも毎年のように、取り留めのない話しながら、幾分心地よくなった風を受けながら飲む。
果てないもやもやが湧いてきて本堂で寝る。
今日も一日酷暑日。暑さのせいか来庁者も少なく、盆疲れが出てきて、眠い一日を過ごしてしまった。

2010年8月15日Sunday 晴れ
クーラー。
昨日の夜と、今日の夕方は居間(台所兼)のクーラーを入れている。湿気のない暑さとは違って、ねばねばとした嫌らしい暑さに耐えられない。それでも今日は出かけなくてもいい、何しなくていいというoffの日なので朝からのんびりと。山尾三省を読んだり、ウェザーリポートを聴いたり。15日の今日は寺を訪う人もない。ザリガニを釣りにきたり、境内を歩いている人は何組かあったけど。明日は午後から護持会の総会。午前中職場の用をちょっと片付けに行く。いまBSフジでDeep Purpleの2006年のモントルーでのliveをやってるんだけど、リッチーのギターもなければ、ジョン・ロードのハモンドもない。つまらないと感じるけど、夏の暑さをハードロックでぶっ飛ばせってことで見ている。敗戦記念日。毎年同じような番組が並ぶ。いい加減うんざりしてきて、役場の昼のサイレンも聞き飽きた。おそらくどの番組を見たって、そこに僕がこれはいいと思うような番組はない。毎年おんなじようなお涙ものの繰り返しだ。ロックでも聴いていたほうがよっぽど、そんな気持ちになる。そういう方法が見出せない奴らの哀れというものかと思ってしまう。山尾三省は「一円分の心といえども戦争を支持してはならない」(屋久島のウパニシャッド)と自らの思いを述べている。原爆の投下された日や8月15日だけが非戦を誓う日ではないということなのだと思う。一日だけの似非反戦論者が、明日には「軍隊を持つべき国家である、9条を問い直そう」とい論じるのである。

2010年8月14日Saturday くもり
外回り棚経。
7時15分に家を出る。下部から本栖湖へ山道を登る。前に車が3台詰まってしまい、思うように走れず、遠藤家に着いたのはちょうど8時。8時5分前くらいを考えていた。いつもは子どもさんの家族が帰省していてにぎやかなのだが、最後が今朝早くもう帰ったのだと言い、ご夫婦二人だけとなっていた。富士ヶ嶺の天気は曇り、少し肌寒くも感じた。あいにく富士山は望めず、精進湖から市川大門へ今度は峠を下る。市川から甲府へ。10時近くなり道も混んできたが暑くなくてよい。車の冷房は甲府からの帰り道をいれただけで済んだ。それでも蒸し暑くて肌着は汗を吸い、後半はなんだか着心地が悪かった。夜子沢から曙に入り後山2軒に。相変わらずの皆さん。曙から飯富、下山、伊沼、最後にT君の家で経をあげて棚経終了。雨が降り始めていて、傘をとりに戻ろうかと思ったが何とか済ますことができた。着物を脱ぎ楽な格好に着替えて、すべての片付けやらを済ませてビール。夜の盆のカラオケ会も居間でくつろぎながら遠くから聞こえる音だけでゴロンゴロン。さて明日はのんびりとするぞ。

2010年8月13日Friday 晴れ
棚経。
午後1時から今年の盆の棚経をはじめる。集落内の檀家回り。雨は上がったが、朝から湿気が多く蒸し暑い。白衣を着るともうそれだけで汗が体内から噴出してくるよう。自転車に乗っていざ。角屋からはじめる。今日の後、おばさんの高野山団参の思い出をしばらく聞く。高野山で十三仏の掛け軸を買ってきたのだと、今年もそれが盆棚の前に吊るされている。ほとんどの家が常温に任せたままで、クーラーの部屋のほうが少ない。汗が吹き出る。麦茶を飲む、汗が湧いてくる。今日の後に、少し話し相手になることも坊主の務め。耳の遠い高齢者だと会話は成立しない。互いの話しが一方通行だが、最後は互いににこっとしてさよならとなる。棚経を明日と勘違いしていた1軒を除いてすべて順調に終わる。うっかりのS宅も、5時半過ぎに伺っておしまい。朝から寺は久々の賑わい。見えている人、迎えられて家に帰る見えない人たちなど、この世とあの世が交差して賑やか。客殿から、波の盆やチベットのCDなどを終日流す。さて明日のために寝る。

2010年8月12日Thursday 晴れ
台風往って盆が来る。
台風4号の影響で今日も朝から雨だ。酷暑日が続いたので、この気温の低さはありがたい。高速道路はお盆に帰省する車の渋滞がピークに達しているらしい。出かけないことが一番だと思っている僕には縁のない話ではあるが、外回りの棚経の日だけは毎年のことながら辛く感じる。「今年から昭和の家に来てほしい」という檀家があり、いよいよ更に一日が厳しくなりそうだ。だいたい朝7時半に家を出て、帰ってくるのが夕の5時頃になる。
14日の夜には、集落の盆踊りがあるが、昨年もご祝儀だけを渡しに顔を出して、そのまま失礼してきた。疲れが赤点滅のピークに達してしまうのである。伺う家々で冷たいお茶を供されるのであるが、一瞬の涼しさは、炎天下に出るとまた元に戻り汗となって吹き出てくる。体力が奪われ、徐々に徐々にだるく疲れてくる。檀家の多い寺で、盆の始まる一週間も前から棚経に歩いている坊さんらだって、少なからず僕と似たように感じているのではなかろうか。さてがんばらねば。今夜は虫の鳴き声が聞こえたり、秋の気配十分にしている。

2010年8月11日Wednesday くもり
サルの来た朝。
朝の明けてくる時間が遅くなってきたように思う。4時半頃ではまだ薄暗さを感じるようになってきた。夕べも雨が続いていたし、今朝もまだ迷っているような天気であった。盆前なので、いまはいくら降っても僕のところはかまわない。棚経の時に雨でなければいい。できれば、過ごしやすい曇り空であってくれたらいいと望みはするが。
今朝はサルが出ていた。こちらが気がつかないでいると、奴らは静かに行動をしている。こちらがいったん気付いて外に出たりすると、一度は山側に退いて、繁みの中から吼えながらこちらを威嚇するのか、おちょくっているのか、木のてっぺんで大きく揺すってみたり、こちらが諦めて家に入るのを待っている。時には石を投げたり、他所からはロケット花火のヒューッという音が聞こえたりするが、こんなことも杜に潜む奴らは、こちらとのやり取りを楽しんでいるかのようであり、そう思うようになると、それを思う自分を情けなくなってくる。サルは今朝、家の前に一本だけある柿の木に登って、成長の過程にあるようやくピンポン玉ほどの大きさになった青い実を採って食べているのだ。この集団が形成されて群れが維持されている間は、必ずどこかの畑の作物や果樹が被害に遭っているということだ。女房が洗濯物を干しているそのほんの数メートルしか離れていないところに、サルが座って作物をむさぼっていたとしても、これは決して共存しているのではないと言うことだけは書いておきたい。

2010年8月10日Tuesday くもり
日常はあまり変わらないのだ。
元日から大晦日までの一年で、ここに書くことなんてそんなに目新しいことはない。冬から春になって、夏から秋へ移ってまた冬になる。桜の花が夏咲くことはないし、ひまわりが真冬に日に向かうこともない。ただ変わったことを書くのだとしたら、一年ずつ年を取るので、それによる気持ちの変化やものの見方の変化、昨日までのもやもやした思いが今日になって、突然納得できたりすることもある。そういう経年劣化していくことの避けられない頭でも、新鮮に変化をしていくことが、生きていくことの唯一の楽しみになってくるのかもしれない。
夕べ帰ってくると、「護摩を焚いて、私に憑いているものを祓ってほしい」というような電話がかかってきた。先方は話す元気もなく、鬱症状であることが読めたし、周りから進められたのだとも話した。過分に、症状を自らが進んでそういう状態にもっていってしまっているのではないかとも感じた。僕は「いわゆる除霊というようなことはできないし、そういうものの感じ方にはどちらかというと否定的である」ことを話した。いくらかかるかとも最初に切り出しにあったので、「金の問題ではないでしょう?」と、いまあなたはどうなりたいと言うことのほうが金よりも問題ではないかと話した。よく考えてからもう一度電話くださいと話したら、「そうします」と返事があって電話を切った。護摩を焚いてこの方の悩みの解決の一端を荷っても、それで解決するかなんて僕には確信はできない。そこに布施の多少なんぞは先ずもって僕には無関心のことである。気持ちの持ちように変化が現れたらいいのではないかと思う。

2010年8月9日Monday
土日のことなど。
夕べから降り始めた雨でだいぶ潤った感じがした。昨日あたりは、アジサイの苗たちが「もうほんとに参ってしまう」とぐったりとしな垂れていた。今朝は皆しっかりと頭を持ち上げて、艶よく一息ついていた。しっかりと根付くために水遣りが欠かせないことはわかるが、水道の水を頻繁に撒くのには少々のためらいがある。池の水も日照り続きで減ってきた。メダカの甕には、日よけの竹のざるをかぶせたのだが、とうとう4匹だけになってしまった。
ハイマツとヒイラギの刈込みをした。暑いので、休みの日も、外に出る時間は早朝か午後4時過ぎくらいになってしまう。檀家の皆さんも、盆前にそれぞれ、墓地にやってきてはお墓の掃除をしたりしていた。千葉からMさん来て法事をする。母親が一周忌、父親が3回忌、弟がちょうど7回忌になっていた。千葉から本当にご苦労さんであるが、念願の墓地も作ったので、そんなに苦にはならないみたいだ。頭の中では、もう盆が終わってのんびりと休みたいと考え始めている。週末、暑い日中は過ごしやすい庫裏で、寝転びながら「カムイ伝」5巻まで読了。息抜きに萩尾望都の「文藝別冊 萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母」も読む。少女マンガを読み漁った20代の頃の思い出がよみがえってきた。彼女の「11人いる!」というのが好きだったな。

2010年8月6日Friday 晴れ
なんとかならぬか。
国民年金の保険料の納付率が60%を割り込んだという新聞の見出し。我が家では大学生の子供二人が国民年金に加入しているが、僕自身が25歳になって働き始めるまで年金に加入していなかったので、せめて強制加入となった現在、僕にできることはしてあげようと、免除は受けずに納付をしている。息子の場合は、学生がまだ伸びそうなので、こちらの負担も続くことになりそうだ。娘の場合は、就職がなれば社会保険なりへの加入となるであろうから。止む無く離職する人たちが多く、国保や国民年金に加入しても、自分の財布から納めなければならない国民年金の保険料は、他の出費から一番後回しになるようで、免除申請をする人たちも多い。支える人たちの納付が実際に少なければ、これらの人たちが実際に支給を受ける年齢になったとき、果たして本当に年金が貰えるのであろうかと心配になってくる。こういう不安がまた、「いらねぇや!」っていう、納付率の低下を生んでいるのだろうな。学生たちが大学を出ても就職できずに、一年卒業を延期して就職活動のために大学に居残るケースも増えていると聞く。当然、授業料は支払わなければならず、保護者負担は無駄に増加するというわけだ。悪循環この上ない。

2010年8月5日Thursday 晴れ
出るわ出るわ。
100歳以上の所在不明者が8月4日調べで全国で57人に上った。外国のメディアは、長寿国の統計の不透明を報道している。僕はもっと丁寧にこの国の調査者はできていることと思っていたが、例えば、この秋に予定されている国勢調査にしてもそうだが、時代が進むごとに、個人情報などということで、世帯調査が難しくなっているので、こういうミスはこれからもあるだろう。小さな地域では、駐在所の警察官が世帯調査などを行っているが、(あまり感心はしないが)これとて、駐在所の統廃合などにより、大都市では難しくなるだろう。でも不思議に思うのは、同居しているはずの家族が、自分の父母の所在を「知らない」「わからない」と応えるケースである。記憶が薄らぐということもあろうが、いやぁ、でも最初から一緒に居なかったとか、いつ頃出て行った(どこどこの施設に入った)くらいのことは語れるであろうにと思うが。百歳以上人口の大国ならではのミステリーと片付けてしまっていいものか、また公務員の怠慢と叩かれるのは厳しいな。盆前に今年もお騒がせな事件だな。そういえば去年の今頃は、酒井法子失踪事件の渦中にあったのだな。

2010年8月4日Wednesday 晴れ
カムイ伝。
夕べ娘が夏休みで帰省した。先ずは「就職内定おめでとう」ってことになった。直接の本人から聞くと、やはり厳しい状況である。呑気に生きてきてしまったバカ親父は、こういうときに何の役にも立たない。ここ何日かメダカがずいぶんと死んでしまって、一桁になってしまった。原因は何だろうと思うが、思い当たる節もないし、原因にたどり着くことはできないだろう。
昨日ふと思って、図書館に行って「カムイ伝」を5巻まで借りてきた。白土三平のこの漫画、この夏にもう一度読み返そうと。毎日ゲゲゲの女房見ていて、「ガロ」とか思い出して、いまでも天袋にはさまっている古い「ガロ」に思いを馳せながら、白土三平が頭に浮かんできたのだ。「カムイ伝」を若い頃にどこで読んでいたのか、一部の完結まで読んでいたのかさえ忘れてしまったが、ここで性根をすえて読んでみようと思う。徒に過ごしてしまいそうな夏の頭に、灸をすえるのだ。
2010年8月3日Tuesday 晴れ
いくらなんでも。
年齢100歳に達する長寿者が増えてきているにしても、100歳から5年くらい経ったら、生存確認くらいした方がいいんじゃないか。110歳に到達していることを役所が確認したなら、せめて、この人物はどのように生活しているかぐらいは、民生委員を使ったり、福祉関係部署の職員が生活実態調査をするべきなんじゃないか。いまは個人情報云々の時代になったので、高齢者名簿などの作成はしていないが、社協に居たときには、敬老の日にあわせて、町内の80歳以上の高齢者名簿を作ったものだ。例えばこういう名簿の中に、111歳なんてあれば、当然皆の興味を引くに違いないし、生活や健康状態を詮索してみたくもなる。今回の二つのケースは、東京都内の人口密集地でのことだ。生きていようが死んでいようがわからない大都会だ。届けをしなければ永遠に生きている。高野山では弘法大師が今も生きていて、日に2回の食事が途切れることなく運ばれている。永遠に生き続けているという不思議とはちょっと違うな。もう死んでしまったのよと言えない、迷っている命たちがたくさんあるとしたら、何とかしてあげなければと思う。

2010年8月2日Monday 晴れ
うれしい連絡あり。
午後、銀行で両替をしようとしているところへ女房から電話があった。娘から連絡があり、就職内定をやっと一社からもらえたのだと。帰宅してテレビをつけると、夕方のニュースではちょうど、来春卒業の大学生の内定率は昨年同期をさらに下回って過去最悪であると伝えた。娘も相当に疲れていたようで、女房に「夏休みのシュウカツはしない」と宣言していたようだ。彼女の場合には、幸運にも一社の内定をもらうことができたということだが、同じ寮の同級生や友人たちのそのほとんどが、決まらない状況だという。こういう時代なので、この内定を心底喜んでばかり入られないのかもしれないが、女房は、お不動様にお礼参りをし、ほっとした様子で晩飯を食べた。就職活動にクタクタになり、「死にたい」と洩らす学生もいると聞く。大人も経済的に苦しくて、定年退職後も再就職口をさがして働ければならない時代であるが、若い者たちの働き口までをも脅かしているようであるとしたら、やるせない気持ちになる。

2010年8月1日Sunday 晴れ
留守のときに限って訪れる人もあるようで。
一日支所日直で留守をしていた。8月1日の日曜なので特にそうだったのかもしれないが、何人か訪うてくれたようである。日直のほうは死亡届もなく、涼しい室内で、ゆっくりと新聞を読んだり、ブルースを聞いたり。女房も今日は午前中から義祖母の13回忌の法事で出かけていたので、お相手のできなかった方もおられたようだ。月参りのSさんご夫妻、お久しぶりという感の都留のTさんご夫妻、それから甲府のKさんご夫妻も訪ねてくれたとのこと。檀家のWさんの妹さんも来てくれたとか。暑い日ではあっても、盆を迎えるつきの始まりに、お寺にお参りをしておきたいという思いもあるのかもしれない。ご苦労様でした。
朝メダカが二匹瓶の底に死んでいたが、帰ってきて餌をやろうとすると、また二匹死んでいた。これは水が合わないのか、暑さのせいなのか、原因はよくわからない。小さなプラの容器に入れたあるほうは、庫裏のたたきに置いてあるので、あまり気温の変化もなく過ごしやすいのかもしれない。メダカたちも本当は、放っておいて欲しいのだろう。どうしても可愛いので眺めてしまう。僕の勝手さが如実に現れた結果がこういうことになっているのかもしれないと反省。夜龍馬伝。いよいよ面白い。

2010年7月31日Saturday 晴れ
7月晦日。
明日はもう8月葉月だ。参道脇の畑の草刈りを済ませた。草を刈るだけの畑なのである。この畑の草を年に4回ほど刈らなければならない。盆の月をこれで過ごせる。もう一度9月末に刈れば畑の草も背伸びをしなくなる。明日が日直なので、今日やってしまおうと午前中と、午後3時から再開して終わった。焼けるような夏の日差しにめまいを覚えながらも、やることはやってしまわなければならない。草を刈りながら思いの世界に深く入る。
やっと少し涼しくなった台所で、井上陽水のliveを見ながら夕の酒。汗でカラカラになった指先にまで行き渡らんと、aqua blue2本スルーッと飲み干した。隣りの八幡神社の庭では、育成会が賑やかにバーベキューの夕べを始めた。僕も通ってきたのだが、大人が一番楽しみなのね。子供をダシに、賑やかに楽しく酒が飲めるってこと。

2010年7月29日Thursday
雨に洗われる。
職場の辺りは朝からいい雨になったのだ。風もあったし、雨量も十分に感じた。仕事を終えて帰るときにも降っていた。帰りながら、ワイパーの動きを遅くしてきた。でも、まさかそんなではないだろうと思っていたのだ。車から降り、その足で境内を歩いたのだが、朝まいたホースの水の後がそのままの地図を描いていて、雨がそんなに降らなかったことを示していた。がっかり。晩飯を食いながら「この辺はダメだねぇ」なんてこんな話をし始めたら、ポツポツと落ち始めた。午後9時を回ってまだ少し降っているので、いくらかは滲みてくれたかなと期待している。
法務大臣の昨日の死刑執行が、各方面に波紋を投げかけているようだ。法相は死刑廃止論者だったはずだと言い、選挙に落ちたのに、大臣を継続している者が死刑執行への署名をしたことは国民への裏切りであるとか。僕は法相が死刑の執行に立ち会ったことを、職務を全うしたと賛美もしたくないし、よくぞ執行したと支援する気も毛頭ない。深い意識の中で培ってきたわけでもないが、死刑には反対である。あきらかに殺すという行為に納得がいかないのである。ただ、識者たちが昨日の刑執行を各方面で述べていることの裏側には、多分に政治的なこととか、政権与野党の立場とかによる駆け引きのようなものが漂う感じで、僕は逆に白けてしまうのだ。凡愚の身であれば、犯した罪への反省や後悔、懺悔、被害者への謝罪する気持ちの変化は、個々に到達する時間は違うこともあろうが、一番大切なことは彼らを殺してしまうことではなく、そのことを気づかせてあげることなのだと思う。犯した罪に関して、時間を戻すことは絶対できないことだけれど、生きてさえあれば、その命の絶えるときまで、償い続けていくことは可能である。永山則夫も、自分をこんな風に育てた社会が悪いと言いながらも、犯した罪への償いは続けてきた。房に居ることによって、食べ切ることのない知識や教養を身につけ、まさに自己再生を果たしてきたのだ。今回執行された尾形某(33)は、「ほとんどの死刑囚は反省し、真剣に被害者のことを考えている」と語り、「自分は死を受け入れるため反省することをやめた」と控訴を取り下げた理由としたらしい。時は、人の心の平安を必ず回復させてくれるものだと思わずにはいられない。

2010年7月28日Wednesday 晴れ
死刑執行。
今日の読売新聞は、死刑囚への刑の執行が停まって1年になると報じていた。というわけでもないだろうが、2人に刑の執行がされたことをネットで知ることとなった。これで残る死刑囚は107人となり、執行の停止、自然死などがなければまた、刑が確定すれば死刑囚は増えていくことになる。はて?執行順などはどういう判断によるものなのかと調べてみたら、再審請求などをおこしていない者の内から、古い順に執行されているようであるが、池田小事件の犯人のように、事件発生から3年後には執行されているケースもある。
オウム真理教の一連の事件で収監されている者らに確定するのも、おそらく相当な時間がかかるのではないかと思う。時間が必要なんだな。安易に「反省の色無し」のようなことで、即決してしまっていいものだろうか。執行して事件を終わらせてしまえというのはあまりにも事務的なことのように思える。罪を償うということは、終わらせてしまうとか、これで決着したということではなく、忘れてしまった、無に解放されたとすることとも違うように思えるのだが。

2010年7月27日Tuesday 晴れ
定期受診。
痛風の痛みもなく、いいお薬にお陰さまで生かされている。今日は2ヶ月に一度の定期受診。しかしながら、暑さ続きというのは言い訳で、多量飲酒が留まらない。今日は血液検査があり、結果を見てから医師の診断があった。検査結果は、飲酒による(だろう)数値の値の高いもの意外は、まあまあいいでしょうとのことであった。どの位毎日飲みますかと問われ、ビールに焼酎3合と応える。まあ大体このくらいであろう。16歳を過ぎたころから飲み始めた酒歴は、もう40年に届かんとする。父が亡くなって、40歳を過ぎたころから、僕の酒量はいっそう増えてきた。寺のことを担う分だけ、反比例して酒量が増えた。酒が一番の友達のようになって来た。これもまた恥ずかしい話ではある。もうすでに、少量の酒では満足できず、多量の酒を飲まなければ収まらなくなってきているが、僕はそれでも、この生活が今の自分には一番しっくりときていて、寺のことや考えることなども、なんとかやり過ごせているのだと思っている。おそらくこれが、落ちていく始まりなのだと、医者には言われそうだが。

2010年7月26日Monday 晴れ
恥ずかしい。
無知である。いわゆる世間の極々当たり前なのだろうことに関して意外と知らないのである。今日、温泉施設の売上金を回収に行き、券売機に残しておくつり銭に、一万円札と五千円札が多く他の金種が少ないので、高額紙幣を持ち帰り郵便今日へ両替に行った。千円札、百円硬貨、十円硬貨を併せて310枚に替えてもらうお願いをした。いままでも、職場の金庫の両替に行ったことはあったが、そんなに枚数は多くなかったので手数料はかからなかったし、手数料がかかることを知らなかった。で、件の女性局員「郵便局は手数料がかかるんです、銀行さんに行かれたらどうでしょう」と切り出したので、「あっ、そうですか」と、歩いて100歩ほどの銀行支店に赴いた。窓口で「こういう風に両替をお願いしたいのですが」と書いた紙を見せると、両替票に書いてくれという。しばらく待つと、袋に入れられてカウンターに置かれ「手数料が210円かかります」と言われ、これに両替手数料を払う訳にはいかないと、謝って元のお金に戻してもらった。これ知らなかったんですねぇ。1枚から49枚までなら「無手数料」、50枚から300枚が105円、301枚から500枚が210円、...まだ続く。こういうことを知らない僕を、何となく本人である僕は恥ずかしかった。49枚までの小出しで両替をしていけばいいのだな。暑い暑い月曜に、両替手数料を沸騰した脳に焼き付けたのでした。

2010年7月25日Sunday 晴れ夕立
夕立。
待望の雨がやっと降ってきた。地面を叩く雨に土が飛び上がって、乾いた夏の香りが漂ってきた。雷がドカンと鳴った。激しい雨が見舞って、衛星放送が時々途切れる。やっと涼しい。遠くの音ばかりで、ここはまた今日も空振りなのかと思っていたら、やっと降ってくれた。涼しい夜が嬉しい。今日の「龍馬伝」はよかったなぁ。いよいよ薩長連合に向かうんだな。
フルムーンを浴槽から眺めながら、相当に疲れていることを感じた。暑さのせいなんだなきっと。外の仕事は体力を奪われる。そして飲むのでいっそうからだが疲れる。疲労回復できないでまた朝が始まる。これではいかん。今夜は早く寝て明日を迎えなければ。

2010年7月24日Saturday 晴れ
11時頃に従姉妹夫婦二組来山。
前夜調子に乗って焼酎をがぶ飲みしていたので、案の定土曜の朝は起きられない。寺も今日は休み。午前中体だるくて、暑いし、ボーっとして、高校野球見ながら半寝状態。そこへ従姉妹たち墓参に来る。この暑い時間帯を見計らってよくぞ来たもんだと。甲府からはわけないが、調布を出たのは実は7時だったそうだ。なるほど暑くなろうが夕立にあおうが、着くまでは気温や天候などは関係ないのだ。武満徹の「波の盆」流して歓迎してやる。お茶を飲んで、互いの子どもたちの近況など交換して、まあよくも似たりだ、いつまでどこまでわが子たちはのんびりとしておるのだというようなこと。
午後車の6ヶ月点検に。進められるままに、点検のサービスをしてもらって、30分の予定が1時間以上かかってしまった。で、最後に、「バッテリーがかなり弱っていますのでそろそろ交換したほうがいいかも」と。次の点検まで何とかもたせたいとこれはこちらの願い。帰ってから草刈り。猛暑猛暑で、日中は何もできないダルマ状態だ。汗かいてさっぱりして夜はまた酒。
思考する回路までは国家や独裁者が拘束することはできない。そういうことから考えると、金賢姫が日本人化教育や中国人化教育、韓国化教育を施されていても、18歳や20歳になっている成人であれば、いくら国は違えども、やろうとしていることややっていること、また自分がそういう役割を担う教育を受けていることに反発を感じないわけがないだろうと、イノシシ駆け回る田舎寺の住人は思うのだ。

2010年7月23日Friday 晴れ
除草剤散布2日目。
今朝も早起きで除草剤を散布する。これで大体よし。明日は今朝気になった庫裏の裏側の草を刈ろう。蝉の鳴き声も騒がしくいっそう暑さに拍車をかける。それでも今朝のケヤキはいつもより風にそよいでいる。一雨くればいいのだが。新早川橋の補修工事が終了して両車線での通行ができるようになった。この猛暑続きでは、待たされる側は相当ヒートアップしてしまうに違いない。旗振りの方たちも身の危険を感じていたのではないだろうか。先ずはよかった。
今朝は女房も早起きをして、暑さを避けて作業するには早朝しかないと、墓地の草取りに精を出した。朝から働くと、もうこれだけで一日が終わったような気分になってくる。上がるばかりの気温の中では、思考も身体も下降するばかりだ。さて、休み前の金曜を何とか乗り切ってしまえ。

2010年7月22日Thursday 晴れ
汗いっぱいの朝である。
とにかく暑い。暑くて目が覚めてしまう。3時半過ぎから今朝は網戸の横に寝転んだ。網戸になっていても風がないので暑いが少しずつ冷気のようなものを感じるようになる。4時ごろになるといっせいに蝉が鳴き始める。眠りと目覚めの狭間にいる僕は、静寂から瞬きの間に騒がしい蝉の朝へと導かれてしまった。5時15分前に起きて朝のお勤め。5時30分に終えてそのまま野良着に着替えて除草剤の散布作業をする。1時間かけて参道から駐車場、境内も少し散布できた。明日の朝もう1回やろうと思う。小中学校は今日から夏休みのようで、6時半から毎年恒例のウォーキングが始まっていた。シャワーを浴びて朝食をとるとまた汗が吹き出てきた。とにかく暑い。
夕べはやっと、見ず知らずの方への連絡が取れた。前日は残業だったそうな。今朝職場へ改めて電話をくれるとのこと。少しずつ盆の準備を始めていかなければならない。

2010年7月21日Wednesday 晴れ
塔婆書く。
5時前に起きてもそこには熱があるだけだ。夜から朝までずーっと暑い。起きぬけの身体は汗ばんでいて気持ちが悪い。お勤めを終わるともう汗ばんでくる。今日は外に出ずに庫裏の部屋で静かな朝、塔婆を書いた。こういう何でもないときの塔婆の字が、自分で言うのもおかしいが「うまく書けたな」と思えたりする。外に出ても中にあっても、静かな時間を過ごすのはいい。もう力不足は十分に感じているので、さてどうしようと思案したりもするが。暑さのせいは今朝もあり、ほとんど考えたくなくなってくる。
見ず知らずの人に夕べから電話をかけているが、どうも不在のようだ、今朝もかけているのだがまったく反応なし。また今夜電話かけるのかめんどくさい。

2010年7月20日Tuesday 晴れ
暑さのせい。
休みの日に溜まっていたビールと一升瓶の空瓶を河内屋へ持っていき、その後隣のコメリに寄った。メダカをすくう小さな網を買ったのだが、なんと!コメリにもメダカ売っていたのだ。一匹26円て札が貼ってあったけど、僕の行った日は売り切れたのか入荷がなかったのか残念ながらメダカは居らず。ペットコーナーを見ていたら、メダカの餌ってのも売っていた。メダカってブームなんだな。
連休明けの今日もまたうだるような暑さ。さすがに長い距離を歩く気にはなれず、休館日である文化会館の庭園の東屋で涼んだ。暑さに盛りを過ぎたアジサイが重そうにうなだれていた。もう花を落としてあげなきゃかわいそうだな。
韓国から金賢姫が来日して、拉致被害者の家族と会談するというが、会場は軽井沢の別荘。この別荘が鳩山前首相のものだっていうからなんとなくいやらしい。どうも暑い季節になると、“軽井沢”“別荘”という言葉に過剰反応してしまっていけねぇ。貧乏人の僻みだ、やっぱ。

2010年7月19日Monday 晴れ
海の日。
今日もはんぱなく暑かった。ちょっとゆっくりと5時半前に起きる。女房はウォーキングに。僕はお勤めに。6時頃にもう暑い。涼しいうちにメダカに朝の餌。甕の水温は桜の古木の陰で抑えられている。午前中と午後の時間護摩木を割る。今日はゆっくりと音楽を聞きながら。護摩木を作る時間も静かな考える時間。様々なことを思う。朝飯のときに、女房は娘の就職活動のことを話してくれた。暑さの夏をおろおろとゆく小さな女の子にお不動様の慈悲と加護を。
うだるような暑さの時間は眠りをむさぼって、3時過ぎから護摩木を割って片付けて、それから連休最後の草刈り。この暑さはホントにすごい。「海の日」だってのに、水難事故も多発したようだ。そのほとんどがちょっとした注意で避けられたことのように思うが。ロシアじゃやっぱり異常気象で暑い日が続いているらしい。水浴びてウォッカ飲んで亡くなる人が多数出ているそうだ。これもきっと避けられるよな。

2010年7月18日Sunday 晴れ
明日も休みの日曜日。
猿の食べ散らかしたとうもろこしの残りが、今朝は境内に5箇所くらいあった。作り手はそれを知っているだろうか?僕が育てたわけではないが、報われない、やりきれない気分になる。気温が上昇してくると、奴らの残した糞尿の匂いや、通り過ぎた後の体臭のようなものがゆらゆらと立ち上り、いっそう憂鬱な気分にさせる。
朝から暑すぎる夏が始まり、もう何をする気力もない。6時を待って草刈り用のガソリンを宇佐美に買いに行く。長距離トラックが2台開店を待っていた。ここは風呂に入れたりするようだから、夜を走った疲れを少し取っていくのだろうか。暑い夏でも、休むことなく働き続けなければならない。
僕も怠け心を閉じ込めて午後からは草刈りをする。夕が近づくにつれ、風も心地よく吹いてくる。寝転んで眺めていても嘆いていても草はお構いなしに伸びてくる。明日も休みなのでそのことだけが嬉しい日曜日。

2010年7月17日Saturday 晴れ
梅雨明け。
5時起床お勤め。休みであってもこの流れはできうる限りやり続けていること。自戒。二日酔いのときもあるがこのときばかりは起きられなければ仕方がない。書き始めはすばらしかったがこんなだらしのない人間である。今朝はきっちりとOK。久しぶりに喜多郎OASIS。朝を今日は休みなので、時間をあせることなくゆっくりと。朝食の後、ゲゲゲ見てから作業。参道の桜の無駄な枝を切り、庫裏裏の池周りの草刈り(中途半端で)。今日は11時から、西嶋青原院で船橋のSさんの一周忌法要に参列。午前中の時間が過ぎるごとに天気がよくなり、気温が上がり、おそらく梅雨が明けたのではないかと他の参列者とも話す。(まさにその通りであった)。下部ホテルにてお斉。法事の席も何軒かあるようだった。故人と父に関するお話をさせてもらい何とか切り抜ける。午後3時少し前に帰宅。酒も飲んでいたが、猿がすごく出ていたので着替えて外に出てそのまま夕方まで。庫裏裏の草刈りをすべて済ませた。いよいよ真夏になるか。ビール・焼酎いただいてようやく風の出てきて風通る部屋で涼みながら、もう一杯飲むか。

2010年7月16日Friday 晴れ
大相撲ダイジェスト。
大相撲中継がなくて、午後6時半からダイジェスト版が放送されているが、これが実に簡潔でいい。立会いまでの制限時間の塩まきを見なくて済むこの心地よさ。このダイジェスト版は、お勤めからお帰りになって晩酌やりながら見るのにはちょうどいいのではない.か。20分のダイジェスト見終わって50分から天気予報見て、7時のニュースへの流れは無駄がなくて実にすっきりしていて気持ちがいいなと感じている。熱い大相撲ファンではないけど、結果ぐらいは知りたいような僕にはこの時間帯にやってくれるダイジェスト版は大歓迎。これは中継が再開されてもこの時間にやってくんねぇかなあと切望するものである。それにしてもこういうときにはとことん災難に見舞われるんだな。昨日は、マス席で観戦中の男性が、立ち上がった後に突然倒れて死亡したという。これは実況中継があったら、きっと館内は騒然となっていただろうに。さすがにダイジェスト版ではこの件には触れてはいなかった。月曜から見ているが、上の席はガラガラだね。優勝争いが白熱してこない限り、こんな入りで終わってしまうよ。魁皇はよく頑張っていると見ていて感じる。

2010年7月15日Thursday 晴れ
護摩を焚き、葬儀の助法に行く。
宝竜寺の葬儀の手伝いを頼まれたので今日夏休みを取った。雨が通り過ぎて今日は暑い一日になった。正午からの葬儀だったため、出かける前に護摩を焚いた。気持ちよく早朝のお勤めをして、護摩の準備をして8時半過ぎから護摩。朝なのであまり暑くはならないだろうと高をくくっていたが、いやぁなんのなんの汗びっしょりになった。終えて、シャワーを浴びてさっぱりしてから昭和シティーホールへ。不動寺の叔父とも久しぶりに会えた。宝竜寺のご住職もお元気そう。前回のお声掛けには、どうしても仕事が抜けられなくてお断りしたので、新年度になってからの僕の葬儀は今回で2回目。そんなものである。冷房の効いたホールではあったが、夏の着物ではあっても、七条袈裟まで付けているとやはり汗は湧いてくる。お布施をいただいて帰ってきてから本堂の護摩壇の後片付けと掃除。これもまた蒸し暑いなかでたらーりと汗。汗をかきかきそうじして、腹の中から汗を出し切って、最後にはきっぱりと気持ちよく自己再生なったような気分。飲むにはまだ早く、女房がはじめていた$アジサイの剪定を僕もする。そんでメダカに餌やってきっちりと濃く過ごした一日の終わり。

2010年7月13日Tuesday
蜂に刺され、蚊に刺され。
6時半前に雨が降り始めた。僕はお勤めの後アジサイの剪定。萎れはじめた花を切り落とし、株の根元から枯れた枝にハサミを入れた。何箇所かやっているうちに最後の株に蜂がいて右手の甲を刺された。一瞬鋭い痛みが走る。特に身体の不調はないので安心。大分腫れてきているが時間が解決してくれるだろう。頭はやぶ蚊に刺され、今朝は雨の落ちる前に作業ははかどったけれど、痛い目痒い目にあった。女房は雨の前にウォーキングができてきっとラッキー。Sさんも僕がちょうど草をむしり始めているところ歩いてきて、「降り始めましたね」と。この方は、毎朝歩いていて、必ずお不動様に向かって手を合わせていかれるのである。僕はこういう人たちに支えられているのだと感ずる。同じようでも毎日が違う朝だということがわかる。

2010年7月12日Monday
喜納昌吉落選祝いだ。
雨の残っている朝で、メダカの甕は満水になっていた。柄杓で少し水位を下げるために汲み、その後に餌やり。浮き草がだいぶ繁殖してきたので、もうじき水面は草で埋まってしまうかもしれない。浮き草を処分するときは、河川に流さないでくださいとあった。生態系を変えてしまうかもしれないらしい。可燃ごみで出すか、掘って埋めてしまえばいいらしい。輸入されたカブトムシなどが捨てられて、知らない間にこの国の種と交配してしまっているとも聞く。
民主党がくぼんで、自民党がまた膨らんだ。珍しい物好きの国民は、“みんなの党”を持ち上げた。連立の片割れ国民新党は議席得られずもう虫の息だ。浮いたり沈んだり、笑ったりないたり、結局のところ、また元の木阿弥って構図になってるんだ。油断するとガツンと叩かれる。有権者がしっかりと鍵を握っているということになるのだろうか?でもこんな結果はおそらく誰もが想像していたはず。東京方面の棚経から帰ってきて、開票速報を見ながら、山梨県選挙区の得票の動きを興味深く見た。民主こしいしに、自民宮川は大善戦だった。まさかここまで伯仲するとは予想外。自民党支持者がしっかりとまとまりをみせて集票につなげたということなのだろう。民主党の喜納昌吉も、今回は比例区では及ばなかったね。もう国会議員はいいだろう。歌で平和を祈ろうぜ。

2010年7月11日Sunday くもり
東京棚経。
午後5時新宿発の特急あずさ間もなく発車。一日電車に揺られたくさん歩いて、くたびれた男が座席のシートにもたれて酒を飲みたい気持ちを抑えて、時間潰しにこれを打っている。始まりは例年通りに町田のK宅から。奥さんが仕事のため、娘さんが迎えてくれた。この方の子供たちも小4と小1になった。ここから世田谷のS宅へ。ここで昼食をご馳走になる。今日は泡盛の他に中国の酒マオタイ。強い酒でかーっと腹の中から熱くなる。毎年繰り返し、老いの話になる。あなた方が感じるように僕にも老いてくる悩みが生まれているのです。電車の吊り革にもたれて、昼の強い酒が余計に効いたのかドローンと腰も重くなった。甲府へ迎う電車のiPodはロッド・スチュアート。車窓は雨粒。また来年達者で来なければな。

2010年7月10日Saturday 晴れ
竹林整理。
昨日から夕べまでよく降った。よく降った翌朝はいい天気。夕べはWOWOWで録っておいた「蟹工船」を見る。とても現代風だわねってな映画に仕上がりになっていたように思う。蟹工船読んだなぁ。
9時半から外へ出て草刈りをした後竹林の整理を午前中。昼飯の後午睡をむさぼって午後2時半から5時まで続きを。竹林は大分きれいになった。きれいになったが、鹿の糞を僕も確認して複雑な気持ち。黙々と作業を続けながら、頭をめぐるいろんな思いは地球を一回りしたかもしれない。ここで生きていくということ。

2010年7月9日Friday
大雨、今夜いっぱい降り続けるようだ。
今日の支所は朝から昨日よりも多くの期日前投票に来る人たちがひっきりなし。昼前から雨になり、勢いのある降りが続いていたが投票に来る人たちの足は途絶えることなく終業時間まで続いた。おそらく午後8時までには昨日の数字は大幅に超えただろうと思う。何も雨の日に濡れてまで来ることはないと思うけど、これはきっと想像するに、各陣営とも中央からの指令を受けて、下部の選対の幹部たちがそれぞれに危機感を持って兜の緒を締めなおしていることの表れなのだろう。家でテレビを見てお茶飲んでいる高齢者を狙え!とか、投票所が少なくなって、出かけるのが億劫だと思っているお年寄りたちの票をもらおうとかの戦術なんだろう。
金曜のいつもよりぐっと気温の下がった夜の酒を飲みながら、僕は日曜は晴れてくれたらいいのにと願っている。

2010年7月8日Thursday 晴れ
期日前投票事務の3回目。
いよいよ終盤になってきたので、訪れる人の数も増えてきた。昨日119人だったので同じくらいはいくだろうと予想していたが、結局148人だった。最後に着た若い夫婦は、7時50分過ぎにやってきた。期日前に来るのだから、ある程度は自分の意思もしっかりと持ってくるのだろうと思うのだが、今日も何人か首を傾げたくなるような場面もあった。「二人は書けないんだな」とか、県選出議員選挙をどのように書けばよいのか分からないという女性も。選挙が初めてではないだろう年齢なのだが、こっちのほうが「どうなってるんだ?」と問いたくなるような。立会人の方たちと今日も定番?の、猿鹿猪の話もでた。約12時間一緒に居ると、同じ話題が再び盛り返してきたりする。こんな風にしながら、段々人間の頭の意識なんか薄れていってしまうんだろうな。僕はもう参院選終わりだよ。日曜は東京に棚経だ。

2010年7月7日Wednesday
雑感。
お昼前から雨が降り始め強くなった。昼休み当番だったが、この雨では、「別に今日でなくてもいいや」という人の足を止めるには十分。それでも、期日前投票に来る人たちはポツポツとあった。「来なくてもいいのに」なんて余計なことは思うだけにしておこう。
3ヶ月が過ぎて、昼休みのウォーキングは続いているが、下部支所のときのように写真を撮りたいと思う景色にここは乏しいような気がする。病院や事業所はいくつかあって、昼間人口は多いし、昼休みに歩いたり走ったりする人も見かけるが、歩くコースに楽しめる景色がない。道祖神などは見かけることはない。代わりに身延山のお膝元なので、「南無妙法蓮華経」の碑はよく見かける。日蓮に法縁をいただいている町はこれはこれでいい。胡散臭い新興宗教などが幅を利かす余地がないように思えるからだ。そういえば昨日の午後、団扇太鼓に題目を唱えながら身延山へ登山する声が外から聞こえた。高校時代には、身延駅から歩いてきた長い集団がしょっちゅうあったように記憶している。この長い信者集団は、いくつかのブロックに分かれていて、ブロックごとに指揮者がいて、唱和する「南無妙法蓮華経」を拡声器で唱え先導していた。高校時代には知らなかったのだが、大学に入ってからよくデモに出かけた。このデモの隊列や先導者の居ることが実によく似ていた。真言宗の「南無大師遍照金剛」は、歩くテンポには多分ならない。

2010年7月6日Tuesday くもり
東京は夕べ集中豪雨だったらしい。
今朝こんなニュースを見た。ゲリラ豪雨と言う奴の季節の始まりだ。山梨の八日市場は雨の匂いすらなかった。お勤めを済ませて今朝は集落内の檀家へ夕べの通知を配ってきた。自転車に乗って朝を走るのもたまには気持ちがいい。6時前だというのに、もう朝作りに精を出す老婆もいる。新聞配達の奥さんと暫し手を休めて朝の会話をしている。僕は「おはようございます」と声かけて通り過ぎる。涼しいうちに農作業をするのは身体にも精神にもきっといいのだ。朝早くの農作業も祈りの姿勢であると思う。神々しい姿に見える。寺にも最近は夏の野菜をあちこちで届けてくれる。僕たち家族はそれをありがたくいただく。獣避けの策を施しながら汗を流して作った作物を、寺に眠る多くの魂たちと共に僧侶の家族はいただく。今はまだ曇っているが、今日も暑くなるんだろうか?メダカへの餌やりと、花への水遣りのいつもの朝。

2010年7月5日Monday 晴れ
寺務。
日の暮れが遅いので、晩飯の後外に出て、今朝切ったアジサイを片付けたり、ツツジの挿し木苗を2本地におろしてみたり。ご飯の後片付けをした女房も外に来て、「外のほうが涼しくて気持ちE」と。ホントにそうだ。でも雨が降らないと、挿し木の苗がうまく根を下ろしてくれないような気がするので少し心配。暑い一日だったなぁ。
今夜は、護持会の通知を封筒に入れる作業。今月最終日曜の墓地の草刈の通知と、積立金の納入と盆の護持会総会の通知。ひと月なんて、過ぎてしまえばあっという間にやってくる。通知を詰めながら、少ない檀家がまた少し少なくなったように感じる。一人暮らしができずに、子供たちの住居に行ってしまった人なんかもいる。何を考えてもどうなるものでもないが、ため息は正直にこぼれる。

2010年7月4日Sunday 晴れ
今日もよく働いたぞ。
昨日は完全OFFとしたので、今日は平日モードで5時前から朝のお勤めをして、6時前には墓地の山側の草刈りを始め1時間ほどで終える。夕べの雨が上がって、暑い暑い一日となった。雨後の草刈りは汗と滴で身体も服もびっしょりになったけど、涼しい三文の徳の時間を貴重に使うことができた。朝食後、再び外へ。庫裏の裏庭のツツジの刈り込み。これで今年のツツジの刈り込みすべて終了。時期を外さずに、これで来年も花が待てるだろう。午後3時前から最後の一仕事。墓地参道と竹やぶの草刈り。大変だけど、でも結構僕はこの生活を楽しく過ごしている。未来など見ようなどとは思っていない。いまを、自分の立っている足元を見てここと遊び続けるのだ。

2010年7月3日Saturday くもり
醍醐夏の陣。
この名を付けた妹弟子はすばらしい。今年も夕べ夏の陣が開かれた。甲府駅前のうなぎ串焼きの店「ういち」へ。午後7時からで時間があったので、駅ビルのCDショップでイヤホンを買い、本屋で「レコード・コレクターズ」を買う。信玄公の像の横のベンチに腰掛けてイヤホンで久しぶりにiPodを聴きはじめたら、そこにpower忍者現る。再会の挨拶をしているとすぐに玄法院S師も来て店へ。このあたりは赤提灯の飲み屋が並んで、僕の酒好きの血が騒ぐような通りである。三々五々仲間たちが集まり始め、乾杯で飲み会に突入。なにせ4千円で2時間呑み放題というコースなので気合を入れていかないと。生を二つ飲んでから日本酒の冷たい奴を飲むこととした。これが美味くてかなり飲んだ。おそらく“冷や酒”ではなく、普通の酒を冷やしたものだと思う。僕は冷酒はちょっと強いので苦手だ。こういう酒が好き。坊さん中心の集まりに、明王寺S師は今年も女の子を誘ってきてくれた。Another workの部下である娘と同じくらいのギャルたち。一人は11月に子供が生まれると話してくれた。行蔵院M師は大峰山に修行に行ってきたことを話してくれた。西の覗き「覗いてきましたか?」と訊くと、「うんうん、覗いた!」と大峰山の感動を伝えてくれた。それから帰りに泊まったホテルが修学旅行生でいっぱいだったということも。放光寺K師とはアジサイの話も。幻のアジサイといわれる「七段花」が境内にあって、先日のテレビ放映を見たと話したら、「あーいう放送の後には、決まって花が切られているんですよ」と、そんなには怒っていなかったけれど話してくれた。僕もいつか挿し木用に一枝欲しいとおねだりをした。教昌寺K君、滝本院A君にもありがとう。いい夜でした。誘って一緒に行くはずだったTが風邪気味で行かなかったのが災いしたのか、帰りの電車で寝過ごしてしまい。気がついたら下部温泉に停まっているところだった。気がついて飛び降りすぐに女房に電話してこちらへ迎えに来てもらった。と、最後の落ちは大失敗の巻。

2010年7月1日Thursday 晴れ
7月始まり。
今朝も5時半過ぎから一時間弱枝切りなど働く。久しぶりにブライアン・イーノの「ミュージック・フォー・エアポート」聴きながら。朝の静寂にここは空港ではないけれどマッチしていた。2010年も今日から後半だ。夕べは海老原君来て話して飲む。外で働いている人の話は面白い。生活範囲の狭い僕と違って、弓の島のあちこちを駆け回って仕事をしているので、興味深くとても新鮮でいい。今朝彼も、夕べ話しておいたので水甕に泳ぐメダカを見に来てくれた。汗をかいてシャワーを浴びて今日は2度目の期日前投票の事務。夜8時まで。今日も外は暑そうだ。蒸し暑い梅雨の外を娘は就活しているのかと思うと、「そう無理をしなくてもいい」と声をかけてやりたい気持ちになってくる。年の後半の好い展開を期待したいものだ。

2010年6月30日Wednesday 晴れ
朝から暑い。
サッカーW杯、対パラグアイ戦惜しくもPKで敗退。夜11時頃ってのはもう僕にはどうにも自分で自分をコントロールできなくなる時間なので、サッカーをこれから見るっていうような決心にはならず寝てしまった。どうせ朝目覚めたときにはどちらかの結果が出ているのだ。ところが後半の10分過ぎくらいの時間に目が覚めた。何時だったか忘れたが、そのまま延長戦からPK戦までを見ることとなった(目を瞑ったりしながらではあったが)。惜しくも1本外して敗戦。でも南米の強豪国と試合は互角だったのだからな。そのまま眠って5時前に起床。お勤めを済ませ、池の周りのツツジで、1本だけ刈り残したのがあってそれを刈り、後は脚立を持ってきて梅や山茶花の伸びた枝を切る。今日は朝からいい天気で暑い。6時前に始めて1時間弱。爽快な気分で汗をかいて終了。6月最後の朝、半年の過ぎたことに感謝だ。

2010年6月28日Monday 晴れ
憂鬱なことがある。
姿を見たことはないのだけれど、どうも鹿が境内に来ている。それらしき糞は何度か見ている。真竹がいま美味い時期だけど、鹿が頭のところを食っているようだ。猿は今年は予想に反してきていないが、鹿がどうも気に食わん。桜の幼い苗も頭を食ってしまう。それで葉っぱは地上すれすれのところに伸びていて、成長するとどうも鹿がまたその伸びを止めてしまうようで、全く気に入らん。憂鬱の種が僕の頭の中で芽を出し始めた。畑にしても花にしても、獣たちとの棲み分けができなくなったこの生きる場所は、「抜けられません」の袋小路に追い詰められたようで歯痒い。
なんて暑い日だったんだ。

2010年6月27日Sunday くもり
ツツジ刈り込む。
一日雨が降ったりやんだり、サラサラだったり、ザーッと落ちてきたり。帰省した娘は就活。空の状態がいやらしいので、8時前にはツツジの刈り込みをはじめる。雨を気にしながらのときは、刈込み機でコードをうっかり切断してしまわないように気をつけながら。雨が降ってきて中断して頭を刈ってみたり。時間を無駄なく使う。アーこれで今日はダメかなーとゴロンとなって、昨日録っておいたアブドゥラ・イブラヒムの南アフリカでのドキュメンタリーを見る。アパルトヘイト政策により、国外での亡命生活を余儀なくされた時間を取り戻すべく、75歳の彼はいま故郷南アフリカを謳う。大地にピアノを置き早暁の平原を謳い、朱く暮れゆく草原を謳う。刻まれた皺はその差別された歴史の刻印だ。
午後2時過ぎから再び刈込み作業。池の周りから鐘楼、本堂脇、ブランコのところまで、9割がた済ませる。刈込んだはを片付けて5時過ぎに終了。龍馬見て、週末もこれにておしまい。

2010年6月26日Saturday くもり
休日出勤。
参院選の期日前投票事務従事のためこれから出勤。長い一日になる。いつも思うけど、期日前投票自体は認めるとしても、11時間半も長く開けておく必要があるか。仕事を終えてから来る人たちには午後8時はいいとしてもスタートは午後からでもいいのではないか。期日前を「期日前」と言わず、投票期間としたらどうか。そうすれば最終日の日曜は午後6時に投票を閉めてもいいのではないか。午後6時からであれば十分に開票を楽しめる。早く結果がわかる。と、そんな風に僕は思いますが。
曇った朝で、めだかに餌や利する時間にはちょっと落ちていたが、これから下り坂な天気なんだろうな。昨日の初日は、終業の5時半で5人しか投票がなかったそうだから出足はきっとこれからなんだ。今日もそんなには来ないだろうな、長い一日になる。

2010年6月25日Friday 晴れ
決勝トーナメント進出決まる。
デンマークに3−1で快勝。4時半前に起きた。サッカーのことは忘れていたが、テレビ点けたらちょうどハーフタイムだった。2−0で勝っているらしい。まだ後半がある。お勤めを済ませることとした。終えて戻って終盤を見始めた。PKを与えてしまい1点取られたが、最後にまた1点取り戻した。いやぁ強くなっているなってのが今朝の感想だ。岡田監督も胸を張っているようだ。前回大会優勝・準優勝のイタリア、フランスが1次リーグで敗退してしまうという波乱含みである。雲の彼方に何かがあるかもしれないような予感もしないでもない。それにしても、本田圭佑ってのは、試合中も落ち着いた判断ができているし、試合後のコメントも淡々としている。
さて、これから少しの朝を楽しみに外に出てくる。メダカの餌やりなど。

2010年6月24日Thursday 晴れ
雇われ導師の葬儀。
8時半に斎場へ。出棺前の経をあげ9時過ぎに火葬場へ。火葬場の雰囲気はだいぶよくなっている。再び斎場に戻り午後1時から葬儀告別式。それまでの間CDを小さな音で高橋アキのピアノで武満徹を聴く。今朝は4時に起きたので昼ごはんを食べてごろんとなっていると深い眠りに誘い込まれそうだった。3分前に斎場の席に着き始める。一人なので休むことなく、声を抑えることもできず、心地よい吹き降りる人工の風に包まれながら導師を務める。終えて控え室で喪主からお布施をいただく。「もし僕が必要でしたら連絡ください」と話すと「ぜひお願いします」とのことであった。こういう縁をできればものにしたい(檀家獲得につなげたい)と思うのである。下司に思われるかもしれないが、それでもいい、この寺には支えてくれる檀家が必要である。喪主には葬儀のことお礼を言われ僕もお手伝いさせてもらってよかったと話した。初七日の法話をして、献杯の後10分ほどで失礼して返ってきた。ころに風を当て、使ったものを片付けてから、また草刈りをした。本堂の裏を。「なんか大聖寺の住職は草刈りばっかりなんだな」と思われるかもしれないが、まさにそのとおりこの時期は草刈りばかりだ。土曜が選挙事務なので、昨日と今日の短い時間だけど草刈りは貴重だった。いい風が吹いている。日曜以来の酒が美味い。

2010年6月23日Wednesday 晴れ
通夜。
朝から雨。今日から明日まで休み。午前中葬儀に読む諷誦文を書く。昨日の夕方FAXで資料を送ってもらっていたが、パソコンで書きながら、自宅に電話して追加で質問や疑問点など話をさせてもらいながら、11時前には仕上げた。11時の鐘を撞いて休みの日の時間を少しのんびりとする。昼近くになって雨が上がり、そうなると何かをしなくちゃならない気分になってくる。納棺は4時からなので時間はある。コメリに欠けてしまった草刈機の安全ガードと、フェイスガードを買いに行く。二つともちょうどよいものがあった。帰ってきて、朝部屋の外の樋の詰まりが気になっていたので屋根に上がって掃除をする。ちょうどアピオの方が塔婆と位牌を持ちに来たので渡し、残った時間を草刈りする。始めるとついつい入れ込んでしまい、気がついて時計を見るともう3時25分になっていた。急いで片付けてシャワーを浴び、汗を拭き拭き忘れ物ないか確認して出かける。施主宅に着き、納棺の前に故人への授戒をする。6時から近くの葬祭場で通夜。アピオの夕飯の楽しみはサバの味噌煮。今日もおんなじ味でおいしくいただきました。蒸し暑い午後になったが、ホールは適度な温度に保たれていて快適に通夜の導師を務める。戒名の話をして帰ってくる。さあ明日もう一日しっかりと務めましょ。

2010年6月22日Tuesday くもり晴れ
寝足りないといったほうがいいのかな。
暑くて、蒸し暑くて暑い一日。今朝は少しばかり寝不足で午後はもう眠くて仕方がなかった。葬儀のことを考えたり、書き物を少ししたり、衣などの準備をしたり、戒名のことの下調べをしたりで床に就いたのが午前1時少し前。5時には起きたので4時間くらいか。4時間はちょっと短いかもしれんな。それでも、仕事に出かける前に少し葬儀の仕事ができたり、早起きは得だ。
今日は、4月からなかなか進まなかった問題がやっと手から離れてこれで解決の方向に進んだ。一安心で明日から葬儀の2連休。
大相撲は名古屋場所開催も危ぶまれるような状況にまで悪化してきているらしい。前代未聞だ、永谷園も懸賞の数を減らすらしいし、高見盛のがっくりと肩を落とすしぐさが目に浮かぶようだ。天下のNHKも、大相撲中継することを議論し始めているのだろうな。僕はしっかりと僕に任された役目を務めなければならない。どうも足がいてぇなぁと正座していた裾をはらうと、4センチほどの小さなムカデだった。しっかり刺されてちょっと腫れてきた。今年の初もんだ。まあこれも季節を感じさせるに十分な痛みだわな。

2010年6月21日Monday くもり
葬儀を頼まれる。
夕飯後、一年で一番昼の長い夏至の日を外で愉しんでいた。メダカを見たり、サツキの挿し木を池の端に3ヶ所下ろしたり。そしたら女房に呼ばれ、葬祭セレモニーのHさんから電話だと。話はこうだった。夕方亡くなった方がおられるのですが、故人の息子さん方は旦那寺を持っていません。亡くなられた故人が元々真言宗の檀家だったので、真言宗の寺院を紹介してほしいといわれたので大聖寺を紹介しました。これから枕経をあげに来てくれませんかと。ガッテン承知で着替えてお家に伺った。枕経を上げその後、組の方たちと葬儀の段取りをする話になった。施主からは葬儀もお願いしますと頼まれた。施主のお母さんは岡山で夫亡き後一人暮らしをしていたが、高齢のためこの5月に山梨の息子宅に呼び寄せたとのことだったが、既に病に冒されており、入院先のK病院で今日の夕方亡くなったとのことだった。まったくの初対面のお宅なので、組の方たちが帰ってから亡くなった方のお名前やら生年月日やら、先に亡くなっているご主人の位牌なども見せてもらい、打ち合わせをして帰ってきた。
僧侶は一人でよいということで、四十九日には岡山の夫の眠る霊園墓地に納骨する予定らしいので、葬儀までが今回の僕の役割ということになる。故人宅の近所に檀家のEさんの家があり、帰り間際にちょうどEさん夫婦も挨拶にこられた。明日は仕事だが、なんか久しぶりの葬儀で、衣替えして夏の坊主をしっかりと務めなくちゃな。

2010年6月20日Sunday くもり
結局雨さえ降らなければ外に出る。
天気は何だか落ち着いてしまったようで、関東近辺だけが天気がよい。護摩壇の片付けと本堂の掃除。大体ひと月に一度だから、毎日朝から夕まで本堂は開けてあるので埃が溜まっている。蒸し暑いので顔から汗がこぼれる。本堂の廊下には猿か犬のものだろうか糞が干からびていた。「こん畜生!」なんて声には出さず腹に思って掃除する。
雨を待っていても落ちてこず、風は雨が近いような涼しさなんだが、結局仕方なく再び2時前に外に出る。制定のバリカンを持ち出してツツジの刈り込みを始める。序の口の苅込だったが、結構捗って始めとしちゃ十分。結局雨が落ちてこなければ外に出て何かをしなくちゃいけない気持ちが先行するのだ。剪定の時期ってのは、いつでもいいというわけにはいかないので、これはこれで仕方のないことだ。今週の休日もよく働きました。メダカ眺めて、お勤め済ませて法螺貝吹いて、今日も一日ごくろうさん。

2010年6月19日Saturday くもり晴れ
護摩を焚く。
結局今日は雨にならなかった。それでも朝早くはまだ曇っていたので護摩を焚く準備をして9時過ぎから護摩。夏の衣になってもやはり夏の護摩は暑くて汗だくになる。檀の器も手で触ることができないくらいに熱くなる。娘の就職のことなど祈願した。メダカを買った甲府からの帰りにホームセンターに寄り、一輪車のタイヤとアジサイの花が終わって半額になっていた490円の鉢を二つ買う。帰って、一輪車のタイヤを交換。こんな簡単なことをずっとしないできたことがおかしかった。快適に物が運べる。二鉢のアジサイは、終わった花を落して本堂の裏山に植えた。雨が降ると思っていたのに、結局今日はいい天気になり暑い日になり、僕は午後の残った時間を竹やぶの整理に費やした。猿が居なくなったので、真竹がおいしそうに伸びている。汗をびっしょりかいてアクアブルーだ。
W杯サッカーを見たが、負けたけどいい試合だったし、一瞬のチャンスをものにしていく判断力や決断の俊敏さと、そういう風に仕掛けていく試合巧者たることが終盤に残れるチームの強さなんだろうな。いい試合でした。

2010年6月18日Friday くもり
辻井伸行を借りる。
雨が降り始めたので昼休み図書館に行きCDを漁ってみた。山ちゃんが外で一服していた。辻井伸行のデビューアルバムがあったのでそれを借りてきた。雨の音を聴きながら聴いている。言葉では言いようのない優しい気持ちになっている。金曜の解放された夜に。2009年6月、アメリカで開催された「ヴァンクライバーン国際ピアノコンクール」で優勝した盲目のピアニスト。欠けているところがあれば、それを補うに十分な加護をいただけるものなのだ。
午後からは雨の外を眺めながら仕事をした。山の緑が遠くなるにしたがって薄く白くなってゆき、ひっきりなしに車の往来はあるのだが、ほとんど気にもならずに静謐なひと時であったように思い出している。
M君から護摩を所望するメールが入ったが、26日がちょうど期日前投票事務従事になっているので無理だった。明日、明後日が雨なら護摩を焚く気分を作ろうと思う。だがちょっと書いておきたい。その人だけのために護摩を焚くということは、それなりの覚悟をもって臨むということなのではないか。こちらもそうであらねばならないし。風邪をひいたので医者に薬を処方してもらうというような感覚ではいけない。仏と願主の架け橋となって護摩を焚くのである。ちょっと護摩を焚いてほしいのでというようなわけにはいかないのだと思う。僕が毎月焚く護摩にあわせてそこに臨むのならそんなに難しいことを言うこともしないが、特別な護摩を願うなら、やはりそれなりのことを知らせてもらう必要がある。

2010年6月17日Thursday 晴れ
暑い、暑い。
支所の事務室は午前中は風がないので蒸し暑い。午後からは少し風がありよかったが。昼休みのウォーキングも今日のような炎天下は相当に堪える。それでもこの最中を、ランニングシャツとパンツで本格的にジョギングしている人もいるんだからすごい。この辺りは、企業は公的機関の出張所などもあり、昼休みに歩いている人は勿論だが、走っている人も何人かいる。下部支所近辺では僕ともう一人の人しか歩いているのを見たことはなかった。
大相撲はいったいどうなっているんだい。でもなぁ、稽古して食って寝て、大きな体を作っていくってのが力士だということも聞いたことあるし、ごろごろしている時間にトランプしたり花札して、小遣い銭を賭けるなんてことは、普通の日常にもあることだろうに。まあやったことはないが、野球賭博ってのはちょっといただけないが。それにしても、相撲界のこの不祥事というかお騒がせの頻発は、過去にはなかったことだし、なにかこういう風に転げ落ちていくような感じって、角界自体が、国技であるという神棚のような場所に存在しているものから解放されて、古い体質を脱皮したいという現れなんじゃないかという気もする。でもいかんなぁ、こんなことばかりで連日にぎわしちゃ。朝青龍がやめたって、相撲界は落ち着かないじゃないかっていわれてるぞ。

2010年6月16日Wednesday くもり
猿がきた。
6時過ぎからザーット大降りになってきたのでまさか猿が来ているのだとは思わなかったが、出勤近くになって小降りになってくると、遠くからキャー、キャーという久しぶりに聞く奴らの声が聞こえてきた。女房に「猿が来たな」と伝え、傘を差して墓地の竹林に行ってみる。裏山の杜の中にドサッという奴らの動く気配がし、墓地の向こうから叫び声が聞こえている。竹の子を食べられているかは確認できなかったけど、仕事に行っている間にやられるんだろうなと、幾分落胆した思いで車に乗り込んだ。雨が上がり、蒸し暑い午後になった。帰宅して女房に訊くと、竹の子は何本か収穫できたけど、食い散らかされた竹の子もあちこちにあったとのことであった。来なくていいなぁと思っていれば、ひょっこりとこちらの裏をかくように現れる。ほんとうに嫌な奴らだ。既に夕方には奴らの気配はなかったが、明朝はまたやってくるかもしれない。晩飯後、明るさの伸びた外をしばし楽しんだ。アジサイを見たり、草抜きをしてみたり。

2010年6月15日Tuesday
欲しくなる本なく筆を買う。
今日は昼休みに身延高校の前にある書店にいった。若かりし高校時代にはこの本屋へ行くくらいしか楽しみがなかった。フォークソングの月刊誌だったか「新譜ジャーナル」はよく買っていた。今でも数冊残っている。特に目当てがあったわけではないが、一度は行ってみようと思っていたのだが、興味を惹かれる雑誌はなかった。活気のない本屋だった。手ぶらで出てくるのがちょっといやだったので、小筆を4本買った。生徒数の減少により、教科書の独占販売も僕の頃に比べたらだいぶ落ち込んでいるのだろう。先日会った縁戚にあたるTくんも、娘さんは市川高校に行っていると聞いた。彼の家は、身延高校まで徒歩1分弱の場所にあるのに、これが現実だ。だが、こんなところでどちらがいいなんて比べているだけで納得しちまったら大変な思いをするというのが、本当の今である。自らの将来を見据えて進学することが求められてくる。大変だ。うちの女房も毎晩ネットサーフィンしながら、娘の就職情報収集に奔走している。

2010年6月14日Monday
入梅。
梅雨に入ったようだと発表された。確かにそんな一日だった。月曜の今日、支所は半日パソコンにトラブルがあって、住民票やなんかの発行業務がストップしてしまった。午後になってやっと復旧した。雨の朝で訪れる人も少なかったのでそれなりによかったのだが、「なんとかしろ!」と憤る人も居なくて、僕たちも用事に来る人たちも、パソコントラブルならしかたねぇなって思えるようになってきてしまっているんだな。もうこれがだめじゃ手も足も出ない、なおるまで待つしかない、世界の終焉だなんて思えるようにまでなりつつあるんじゃないか。
今夜、サッカーワールドカップの初戦が遅くに放映あるようだが、もう疲れてしまった僕には起きている気力はない。どうせ勝つか負けるかのどちらかの結果しか出ないのだ。

2010年6月13日Sunday くもり
「徒然」を書き終えるころに、雨が降りはじめて火照ったからだにはちょうどよい。
二日間思いっきり手抜きなしで働いたので、この夕方にはもう疲労困憊という奴ですな。夕の風が冷たくて気持ちよく、ロッド・スチュワートのハスキーボイスが、笹の葉を鳴らす風のように心地いいんですね。
今日は8時過ぎから残りの畑の草刈り、終わって資料館の生垣の刈ったのを片付けて畑で風に任せて火をつける。草の焼ける匂いも好きである。それから竹林へ行き雪折れの片づけを再開。女房は毛布をコインランドリーへ洗濯に行く。コインランドリーが近くにオープンしてから大分そこが好きなようである。
午後、WOWOWでアウトランダーという映画を見てから、女房と竹林で第2ラウンド。大分捗った。相当捗った。竹林に陽が差してきた。傘を差して歩けるくらいにまたなるかもしれない。もう後2回ほどでキレイになるような感じ。竹やぶから持ち出した竹が山のように2箇所に積まれた。これを片付けていくのは今は考えたくない。よく働きました。

2010年6月12日Saturday 晴れ
今日はよく一日働いた。
今週も草刈りだ。朝8時から参道脇の畑の草刈り。午前中かかって片側と、民俗資料館側を少し済ませ、頭を刈って昼食を済ませ、午後2時過ぎから続きを。はじめに資料館の生垣を刈込み機で整える。終わって資料館の前庭の草を刈り、その後に畑の草刈り。5時までかかって結局全部を済ませることはできなかったけれど、頭の中で描いていた計画よりは随分と捗った。暑い日で、昼に発泡酒を一本飲んで、ごろんとなったらもう眠くて仕方がなかった。疲れも押し寄せてきて、「いいや」と納得させてしまえば、こんなには捗らなかったかもしれない。暑かったので、2時からの草刈りは厳しかったので、生垣の刈込みをしたのがよかった。明日の天気がちょっと心配だけど、残りをはやく刈ってしまって、先週の続きの竹林の整理へいきたい。これが済めば来週はツツジの刈り込みだ。

2010年6月10日Thursday 晴れ
祈るしかない口蹄疫沈静。
口蹄疫が沈静化すると思っていたが、宮崎県の新たな市で症状のある牛が発見され、即座に殺処分されたらしい。よだれ等の典型的な症状を東京の検査機関に検体を送って調べてもらいながらも、今回は早めの判断で、殺処分したらしい。検査結果はもちろん陽性。宮崎県から鹿児島県に飛び火する可能性も十分に考えられるという。今後は家畜の症状を写真で判定して、感染の有無が出る前に見切り処分することもあるという。このニュースを見ながら、ちょうど去年の今頃のことを思い出した。豚インフルエンザの大流行のこと。インフルエンザか新型(豚)インフルエンザかの判定をせずに、風邪症状は「新型インフルと判断」というような通達が教育委員会にも下りてきていた。今回の家畜の伝染病も、感染が拡大することを思えば、いちいち東京の検査機関に検体を送ってその判断を待つというような悠長なことはしていられないのだろう。去年の新型インフルでも死者は出ていた。人間と家畜とを比べるわけにはいかないが、恐ろしくなるほどの頭数の牛や豚が既に、涙をこらえて殺処分されているのだ。あーまたしても僕には祈るしかない。

2010年6月9日Wednesday 晴れ
東京の棚経の通知出す。
鳩山から菅内閣に代わり、7月11日でほぼ決まりと思われていた参院選の投票日が、25日に先送りされるかもしれないと噂もあるが、早々と僕は、参院選の当日の選挙事務はできないと断ってある。東京方面の棚経だ。ちょっと早めだが休みに行くとなるとこの日しかない。今朝はがきを投函した。それでは、仮に7月25日となった場合には選挙事務ができるかというとこれもちょっと厳しいのである。毎年7月最終日曜を、お寺の環境整備の日と位置づけて、檀家の皆さんに来ていただいて墓地や境内の草刈りなどをしてもらっている。暑い時期なので、7時半頃から始めておよそ2時間くらいのものだが、投票所事務に行くとなると6時過ぎには家を出なければならない。なので25日になったとしても断らなければならん。
今朝家を出るときには本格的に雨になるかと思われたが、10時頃には雨が上がり、蒸し暑い午後になった。歩けないだろうと思っていたのだが、昼休みの当番をして午後1時過ぎから歩いた。国道のバイパス沿いを先週から歩きはじめた。長いボディの他県ナンバーの大型トラックが、道路の脇に車を停めている。昼寝をしているのであろうか。この時期午後は僕だって眠くなる。
選挙っていえば、AKB48総選挙ってのもあったらしい。最終で中間発表の1位、2位の順位が入れ替わったらしい。応援する男の子や女の子たちの組織票が影響したんだろうな。人気商売も支持母体がなければ生き残れない時代なんだな。売り出す側も、得点の少ない子はどんどん切っていけるって他人任せで気楽にやれるってもんか。少々気の毒に思えないこともない。

2010年6月8日Tuesday くもり
天気のように重い気分になっているんだな今日は。
梅雨に近づいてきたのか、昼にはぱらぱらと舞っていたり、今日は昼は一日どんよりだった。朝一番で温泉施設へ行き水質検査用に浴槽の湯を採水する。加温しているのだが、結構イオウのにおいが強い。開館前の掃除に来ていた職員の方に、漂白剤の残液がこぼれてズボンがダメになったことを伝える。一応伝えておかないとな。キャップさえしておいてくれたらいいのだ。
天気のように気分がやや下降気味だ。宗務所長からの宗務所長会議の報告と、先般の「退任したいとの申し出」が滝本院、行蔵院と回って送られてきた。今日はゆっくり宗務所長会議の資料を読ませていただいた。宗教法人大聖寺の代表役員(住職)である僕には、この寺が住居として提供されているわけではなく、あくまでも宗教活動をするために必要な場所に置いてもらっているということで、当然ながら、僕亡き後は、子供たちが後継となる資格を持たなければこの寺にとどまることはできないのである。檀家の少ない寺ではあっても、寺には護持会もある。跡継ぎがなければ、法人を解散してしまえばいいという寺ではないのである。あーこのことも、知らん振りしていようとは思っても、いつか重くのしかかってくるんだろうな。
宗教法人のことを今日はちょっとかじっていたので、ちょうど面白い記事をヤフーで見つけた。「日光東照宮などが5億円の申告漏れ」というもの。販売していた数珠や線香を非課税と理解していたらしいのだが、数珠や線香は一般の土産物屋でも売っているので、収益事業であり、納税対象となるということだった。お札なんかは宗教事業でいいんだけれど、数珠・線香なんかはどこでも売っているもんね。私の寺とは蟻と象さん100頭位の違いがあるんだろうけど。

2010年6月7日Monday 晴れ
ズボンが漂白剤で。
新しいズボンで出勤した。月曜の仕事で門野の湯へ料金回収に行き、最後にゴミを持ち帰る。網の袋に入ったプラスチックを持ち帰ったが、漂白剤の空ボトルにキャップがしてなかったらしく、気がついたときに、すでに右側のズボンの膝から下が見るも無残に白くなっていた。残った液体がこぼれて散ったのだ。新しいズボンも、朝穿いてから2時間ほどで漂白剤禍に見舞われることとなってしまった。残念である。ゼブラのハイマッキー(油性)で白い箇所を塗ってみたけど、まあ気休め程度にしかならん。まっ気にせず穿き続けるとしよう。

2010年6月5日Saturday 晴れ
車のお祓い一件。
午前9時から車のお祓い。M君夫妻で来る。お守りの中に名前を書いて入れるのだが、二人の名前を書いて入れてあげた。日産のキューブ。四角くてかわいい車だ。二人が帰った後すぐに、お不動さんの信者のYさんのご両親が見える。お祭りの際にこちらの手落ちがあったので、改めてお札を送ったことへのお礼に来てくれた。お礼などよいものを、またまたお布施までいただいてしまった。申し訳ないかたじけない。ありがたくいただく。
アジサイの苗を本堂の裏山に7本植える。その後、夏の仕事用のズボンを買いに。めんどくさいものだ。このサイズで適当に買ってこれないものか。
帰ってきて竹やぶ周りの草刈り。もうすぐ真竹のおいしい時期になる。猿やイノシシが出ないことを願う。竹やぶの折れ竹を片付ける。少しずつやっぱり片付けていかないといかんな。心地よく酒を呑む。

2010年6月4日Friday 晴れ
6月第一週が終わったぞ。
午後から温泉施設の源泉ポンプの入れ替えの関する経過とその事情説明がある。所長と二人で施設に行き、設置業者が県の担当課職員に現場の案内と説明を行ってくれた。午後2時過ぎで、にわか雨が少し降る。ほとんどの会話が全く耳を素通りするような、僕の能力の域外のもので、ふんふんと肯く首振りさえできなかった。書類の手直しを求められ、「一度で終わりというわけにはいかんもんだな」と所長と話しながら帰ってきた。
最近暑いので窓を開けてあるが、午後から風が強くなったりすると、どうも埃っぽくてかなわん。支所の前が未舗装の駐車場で、乾いているので砂が風で巻き上げられて吹き込んでくるように思える。
金曜の夜は誰にも邪魔されたくない解放の夜。この夜を楽しまないなんて僕の一週間の一番の楽しみの夜。

2010年6月3日Thursday 晴れ
欲。
欲があるので、少々のことは目をつぶって連立などと、イデオロギーの違いを棚上げにして腕組んでみたり寄り添ってみたりして、互いの匂いを感じあってみたりする。足りないものを満たそうと思うことが欲望というなら、皆が皆政権を取りたくて総理大臣の椅子の掛け心地を一度は味わいたいと思っているということなのか。欲望のために右であったり左であったり、時には右でも左でもないなどと言ってみたりするのか。
二度と再び過ちは繰り返しませんと言っておきながら、世界中の戦争に加担する国の軍事政策を支援するというのか。もっと戦争のことには弱腰になっていいのではないかと、僕は適当な思いをめぐらしている。「辞意表明から一夜明け、晴れ晴れとした表情で官邸に入る鳩山由紀夫首相」なんて写真入で。こんなにさばさばとできるものなんだろうか。
今夜冬の衣をしまった。夏の衣を出す。それから夏の改良服を1着注文。檀家のM君から新車のお祓いをして欲しいと電話ある。こういう電話はありがたい。住職の仕事が最近少なくなっていたのだ。こういうことも欲ということなのだろう。

2010年6月2日Wednesday 晴れ
定期受診。
午後2時から飯富病院で定期受診。今回は採血はない。今までの医師ではなく新しく赴任したらしい若い男性医師だった。2時になっていたが、遅い昼食を食べてきたばかりらしかった。医者も田舎の病院の医者は大変なんだ。「足の痛みはありますか?」と訊かれたので、「それは大丈夫です」と応え、その後、自分の飲酒のことについて話した。「無理をして頑張らないほうがいい」と、やさしく諭された。ダイエットして一ヶ月で5キロ痩せなくてもいいんですよ、2年かけて5キロ体重を減らすってことでいいですよとも。無理をせずに少しずつ環境改善していけばいいというようなことであったと思う。また2ヵ月後にこの医師の担当曜日に受診する予約を入れてきた。職場に戻る車の中で、今夜は少し飲もうかという気分になっていた。
で、25回目の結婚記念日の今日、しめ鯖をつまみに飲んだ。

2010年6月1日Tuesday 晴れ
6月である。
で、6月になったからどうということはない。ただ年が改まり、もう5ヶ月が過ぎたのだという時間の経過は感じる。5月を僕は長いように感じていた。連休があったりして遊んでいたし、草刈りも始めたし、でも長いなぁと感じていたのは、4月にはお祭りがあったり、仕事の部署が変わったりと、忙しなく過ごしていたので、5月が長いと感じるよりか4月を極端に短く感じたのではないかとも思う。
息子はもう通常のモードに戻っているのだろう。飄々とわが道を生きているのだ、音信はないように思える。娘は苦悩する日々の中で、時々ギターを爪弾きながら就職戦の策を練ったりしているのであろうか。
今朝はまた冷たい日であった。6時過ぎには太陽が顔を出したが、透明な糸のような雨がサラサラと降っていた。ツツジの挿し木苗を6本地に下ろした。2本ずつ一緒に3箇所に。サラサラとした雨は頭や顔を濡らすイほどではなく、朝の祝福の時に紛れ込んだ自分を感じていたので、何とも言えない幸福感があった。6月に入り何も変わるわけではなく、何かが変化するということもないだろうに。淡々と生き続けることのみである。
(20:56)支所では今日緑のカーテン作りのための準備をする。下の階の人たちにネットを張ってもらうのを手伝い、キュウリとゴーヤの苗を植える。昼飯を食って散歩をして眠くなる頃だったのでちょうどよかった。夕べBSで映画「誰も知らない」を見始めてしまい、零時過ぎまで。この映画、主演の柳楽優弥が、14歳の史上最年少で第57回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で最優秀主演男優賞を受賞した作品で、不在がちな母親に見放された4人の異父兄弟が都会で生きていくという内容で、眠かったが見始めたら途中でやめるにやめられなくなった。重い作品ではあったが、学校にも通わず、四角いアパートの一室でひっそりと生きながら、徐々に苦しくなっていく様子を、感情を抑えた演出とカメラが捉えているように感じた。

2010年5月30日Sunday くもり
連立離脱をおめでとう。
今朝は寒いくらいの朝で一日曇り。午前中庫裏の裏、裏の池周りの草刈り。作業するには暑くなくて今日のような日はいい。女房も外に出て黙々と草取りをする。法事や葬儀でもなければ、だいたい寺で僕たちがやっていることといったらこんなのが休みの日の過ごし方だ。昼食後WOWOWでひとつ映画を見て、気持ちのいい外に出てデッドをかけて護摩木を作る。あじさいも薄水色に色がついてきたものもある。サツキはピンクより、僕は濃い赤が好きだ。この赤をもっと増やしたいな。
「祝 連立離脱」。めでとう福島社民党。ついでに辻本さんにも嫌々ながらの副大臣をお辞めになれることおめでとう。社民党の連立離脱を否定的にいうメディアもあるようだけれど、僕は福島みづほという人の思いを尊重してあげたいと思う。ここだけは絶対に譲れないんですという部分。連立なんていずれ崩れるだろうと思っていた。この避けて通ることのできない踏み絵のような基地問題に、社民党は決然とNOが言えたではないか。民主党の中央に胡坐をかく「こしいし某」にパンチを見舞ってくれてよかったと僕は評価したいと思ってるんだ。

2010年5月29日Saturday 晴れ
僕にとっての値千金ということ。
ゆっくりのお勤めを済ませてから朝顔のカーテン用の竹を採りにいく。竹やぶに入ればもうそのひどさが気になって、一時間ほど折れた竹を片付ける。外にスピーカーを出して、Grateful Deadをかける。こんな日にはデッドのたゆたう音が一番しっくりくる。終わってからアジサイやツツジの成長などを見て回る。昨日の朝、思いつきでクロロウバイを挿してみた。育つだろうか。
昼ご飯の後少し休んでから犬走の横の溝をきれいにする。どくだみが白い花を付けて繁茂していたのが気になった。キレイにしながら更に欲が出て、この溝を思い切って少し深く掘ってみようと思う。元々溝は浅くはなかったはずだが、土が年月で堆積してきていて、ここ数年溝を流れる雨であふれた池の水で、土がしょっちゅう湿っているようになっていた。植えたツツジが根腐れしてしまったこともあったし、今日の土作業は値千金だったのだ。

2010年5月28日Friday 晴れ
もどかしいおもい、やるせないきもち。
渡船で渡っても、勤務先が甲府であれば、車がなければ通えないので同じことと、仕事を休まざるをえない苦しい胸の内が語られていた。そうだな。浜松市の「海の駅連絡会」が10人乗りの小型船を無償貸与すると運んできたが、大きすぎて湖に浮かべられずに断念したという記事も載っていた。遠くからも支援の申し出が寄せられているようだ。
大切なふるさとを護っている人たちは神にも近いのだ。住むことに困難は始終付き纏っていても、地神から護られ、信仰を持ち、何よりも果てのない自然界と一体になっていることこそ大切なのだ。YOMIURI ONLINEには、日用品・食料品の注文を取りに回る親父様の写真も掲載されていた。他所で学業や仕事に精出す集落出身の方々もみな心配しているであろう。
宮崎県の高鍋農業高校でも、感染の疑いが確認された実習用の牛や豚が殺処分された。学校の寮生たちのブログには、畜産科の生徒の書き込みもあり、彼らの率直な思いや全国から寄せられるコメントに励まされているとある。寮生全員で殺処分のある前夜千羽鶴を折り一緒に埋めてもらったそうである。何もできないが、こちらヤマナシ・ミノブ・ダイショウジ、お不動様に祈る朝々です。

2010年5月27日Thursday 晴れ
ほら、態度で示そうよ。
韓国と北朝鮮の関係がにわかに緊張してきたり、連立内閣内では、米軍普天間飛行場移設問題で、社民党の福島党首が久しぶりに“NO”発言だ。いまさら本当に朝鮮半島ではドンパチが始まるのだろうか?北の連中は本気でやりたいと思っているだろうが(独裁者がやれと言えば渋々ということなのかもしれないが)、華やかさでは先端を行く大韓民国民は、本当に戦争の始まることなんて望んじゃいないだろう。この時代に、国と国と民と民が殺し合うなんて愚かなことを、真剣に考えている奴なんて存在するのだろうか。この弓の島だって65年戦はしていないのだ。飽きもせずに戦を続けているおバカちゃんは、人助けの旗を掲げながら?、他人様の家に勝手に上がりこんで平和のためと称しては、乱暴を働いている米国くらいのものだろう。社民党はその前の結社で、何のために自民党政権と戦ってきたのだ。民主党の中身なんてものは自民党の亜流に過ぎないのだから、連立なんていう、少し尻を温くしたいスケベ根性出してはいかんのじゃないか。違うものは違うとはっきり態度で示さなきゃな。
天気が不順なのでこんな風に世の中も迷走しているのか、夜9時半を回ってまた雨が大きく屋根を叩いている。浴槽に浸かりながら、雨の音と外の空気を味わいながら風呂に入った。昼休みにも歩き始めて雨が落ちてきて、「あそこまで歩いたときに強くなったら困るな」と思って決断の引き返しをしたのだった。三浦久さんの30年前のアルバムがCDで再発されて懐かしく買った。影響を受けたレナード・コーエンのことも歌っている。「三浦久/ポジティブリー寺町通り」。週末は晴れなくてもよいから、雨のない日であって欲しい。

2010年5月26日Wednesday くもり
天候不順。
今日も午後から雨だ。「関東甲信、夜にかけ雷雨に注意。」ってYahoo。夜になって予報どおりに降ってきた。
月曜日から、担当する温泉施設の許認可申請にかかる書類や濃度測定や揚湯試験のことなどで、業者の方や財政課の職員の皆さんとのやり取りが頻繁にあって、やっと今日の午後になって道筋が見えてきたような。初めてのことで何もわからず、前任は新婚旅行で欧州の空だというし。雨になった外の薄暗い景色を眺めながら、県のホームページから資料を検索したり、揚湯試験とはなんぞや?と、おそらく生まれて初めて耳にしたような言葉について調べたりしながら、補正予算要求の資料を作ったりして過ごした。
今日またこんなに雨であれば、雨畑の県道の土砂崩落の復旧は足踏みとなるだろう。厳しいな。Mさんの心中を察すると辛い。インターネットは往来が分断されることがないので、先方の状況は把握できるのだが、何せクルマが行き来できなくて、長引けば食料調達や病気の心配も出てくる。77世帯160人の孤立の早期解消を祈ります。

2010年5月25日Tuesday くもり
朝顔を育てる。
二日続きの雨が上がり、今朝は天候が回復したかのようだが、どうなんだろう。また曇り始めたみたいだ。夕べは眠いんだけどなんとなく寝そびれてしまい。1時過ぎまで変わりゆくアフリカ、ルワンダの状況なんかに見入ってしまった。なかなか寝付けなくて、それで、考えていたら、布団をかけずに冷たさを感じていると寝付けなさそうに思え、暑かったが我慢して布団を首まで引き寄せると、知らぬ間に眠れたようだった。「あったかくしてねなさい」ってのはやっぱり根拠があるんだね。睡眠不足だなぁと思いながら5時には起きる。4時間に満たない眠りだったが、今朝は比較的気持ちよく起きることができた。お勤めの後、芽の伸び始めた朝顔を外に下ろした。朝顔を育てて小さな緑を作ろうと思う。
書き手の心の微妙な変化を見逃さない読者も居るようだ。特別に下降気味でもないのだが、祭典が終わったあとの5月ってのは、なんとなく毎年穴が開いたような気分になっていることは確かだ。5月病ってことでしょうか。

2010年5月23日Sunday
結婚披露宴。
午後から、MKくんの結婚披露宴に。雨の一日。甲府も久しぶりだ。会場の席について話をしていると、係員の女性から、「どうぞ飲んで食べ始めてください。今日はこういう風にはじめるということになっていますので」と促され、乾杯もせずに始めちゃっていいのかと、若干戸惑いながらもそれではと、テーブルで乾杯して始めた。始めてしまえばもう止まらないのである。主賓の挨拶もほとんど耳に入らなくて。地元の仲間たちとも、最近はほとんど交わることがないので、久しぶりに話をして楽しく飲んだ。
帰りのバスの中でも、伊沼のKさんと話しができてよかった。高橋君を家まで女房に頼んで送ってもらって帰宅。たまには結婚式もいいもんだな。会場は15年ほど前にYくんがやはり結婚した場所であった。そのとき僕がちょうど同志会長だったので、お祝いの一言を述べたことを思い出した。

2010年5月22日Saturday 晴れ
支所日直、死亡届3件受理。
何もないことを願って、はっぴいえんどを聴きながら、新聞と大法輪を読んでいたら、11時になって、死亡届が2件同時にくる。何とか自力で処理しようと頑張ったが、1件、火葬が隣町の火葬場であったため、その書類の作り方がわからず、結局休み中のH君を電話で呼び出してしまった。何とか終えて、H君が帰り、小便にいっていると、「こんちわー」の声、急いで戻ると、先程とは別の葬儀社の方が、死亡届を右手にひらひらさせていた。
思わず「おっ!またか」と言っちまった。この処理はすんなりといった。3件の死亡届の受理なんてのは初めてだ。受理後に、弔電の事務や新聞社へのFAXなどしていたら、昼食は午後1時過ぎになってしまった。まあこれもいい経験。きっとあしたの日直は何もないことだろう?

2010年5月21日Friday 晴れ
大快晴。
7時20分。部屋の中はもう20度を超えている。外だってそんなに変わりはしないと思う。どんどん気温が上がっているに違いない。お勤めの後ゴミ出しに行き、それから、ツツジの挿し木を何本か地に下ろしたり、植え替えをしてみたり、終わったツツジの剪定をしてみたり、その剪定で落とした何本かをまた挿してみたりと。早起きができればこんな平日でも十分に時間が取れるものだ。もう少し気分が高まってくると、6時頃から30分くらい草刈をしたときもあるので、そんなことも始めたくなるかもしれない。
暑くなる。季節は夏に移りつつあるが、鳩山首相のテレビ映りはさっぱり冴えない。視線は下がり気味で、その焦点はどこに向けられているのかはっきりしない。彼の迷いや悩みがそのまま映し出されている。或る日プイッと辞めちまった安倍晋三がこんな風だったかもしれないなぁなんて思ってみたり。僕にその決断をどういう風にせいなんてことは言えない。ただ、彼だけの責任ではなく、こんなことは自民党であっても同じことなんだ。米軍の基地は嫌だという思いがすべてなんだろうと思う。僕は僕の小さな一日を始めるよ。

2010年5月20日Thursday くもり
口蹄疫心配。
5時に起きたときはしょぼしょぼだったのに、本堂でお勤めをしている間に、屋根を叩く音が大きく早くなってくるのがわかった。終えて、渡り廊下から石畳を、からだを丸めて滑らぬように客殿に戻った。客殿を済ませ、長靴、傘で外を回る。体調1センチに満たない大きさのヒキガエルの幼蛙があちこちに、ちょろちょろと動いている。雨の風景にやけにいい感じで溶け込んでいる。書いているいま(7:25)、雨は止んでいる。
アジサイもこれから色づき始めるんだろうな。口蹄疫で殺処分される牛や豚などの家畜の量は、僕の想像の域をはるかに超える。檀家にも、富士ヶ嶺で酪農をしている方がいるので僕も心配をしている。酪農家の経営ということを詳しくは知らないのだが、事業投資にも金がかかるだろうし、おそらく大きなお金の出入りがあるのではないかと考える。儲けも大きいけれど、こういうときの損失も莫大であるというような。生き物を相手に暮らすということは、家族全員のこまやかな心遣いが必要だろう。不安のさなかにあると思うと心配である。早い終息宣言が出ることを祈りたい。
(19:30) 帰ってきてから水遣りをする。外の便所の水道を使おうといってみると、ドアが開いているので閉めようとしたら、なんと!ウンコが流されずにたっぷりと便器に残っているではないか。タンクの水を一気に流すも、便器に少し残ったので、ホースをつないで、急遽また便所掃除となった。どういう奴だ使った人は。うっかり流さんではないだろう。確信犯か?じゃ、使った人は、手を洗わずに帰っただろうか?否、きっと洗面所で洗って帰ったはずだ。野路での立小便なら仕方がないが、ウンコしてさっぱりして、尻を拭いた手を洗わないはずがない。便所の道に反した行為はいつか罰が当たる。便器の底から腕が伸びてきて、尻の穴から腕が突っ込まれて、内臓まですべて持っていかれる。

2010年5月18日Tuesday 晴れ
スイングジャーナル休刊。
今朝はゆっくりと朝を楽しめた。今日午後から甲府で就活するという娘のこともお不動様にお願いした。ホントウに無力であるのだ親なんてものは。水遣りや散歩。今朝は珍しく新聞も早く届けられ、「おっ!」という記事。「スイングジャーナル休刊へ」だ。山中湖でMt.Fuji Jazz Fes.のある頃は、毎月この月刊誌を買っていたこともあったなぁ。NくんもY宮さんもこの本が好きだったよなぁ。この雑誌の休刊の記事を目にして、またまた娘の就職の可能性と絡めて考えてしまうと、やっぱり複雑な気持ちになってくる。SJがとりあえず休刊とはなっても、Jazzは自由の象徴だ。まあ、でもSJって正統派Jazz雑誌って感は否めなかったけどね。

2010年5月16日Sunday 晴れ
若者2名来山。
あらかじめの連絡があったので、集落の環境整備には女房に出てもらい来山者を待った。外の便所をのぞくと、かなり汚れていたので長靴に履き替えて徹底的に掃除。終わる頃に2名の若者やってくる。本堂の内陣に招きいれ、そのまま少し僕は外に出る。お不動様と静かに対峙してもらいたいと思ったからだ。外に出て二人と話す。とても好青年であった。こんな人に寺を継いでもらえたらというような気持ちが少し湧いた。
夕べ瀧本院のご住職と話した。宗務所長からの退任したいという申し出の手紙をもらっていたので。ご高齢でもあり、そろそろそのことをこちらも真剣に考えなくてはならない時期だとは思うが。宗務所長会議は、毎年5月の連休明けにあり、仮に行くにしても「あれだけ休んだのに、まだ足りないのかい?」なんて、皮肉を言われてしまいそうだ。屋台骨のない、志だけの集団のようなものが山梨の醍醐かもしれない。

2010年5月15日Saturday 晴れ
護摩を焚く。
夕べの帰りは午前1時過ぎだったらしいからもう今日になっていたわけだ。こんなに遅くまで遊んでいたのは何年かぶりだ。焼肉の後カラオケまで行った。こちらもまた5年?いや10年ぶりくらいになるのではないか。所々の記憶しかないのだが、ジュリーやキヨシローを歌わせてもらった。それから、30年間「どうなのかなぁ?」と思っていたことの真相を確かめることができて、これはこれでよかった。若い人は凄い。生ビールを頼んで先ずは焼肉を食べはじめたが、やはり「白いご飯」で肉を食いたいという欲望は抑えきれないようで、中ジョッキをひとつ飲むと、とりあえずのメシに走った。これを食い終わると何事もなかったかのように飲みを再開した。僕にもそんな頃はあったんだろうか。若いってことは素晴らしい。
午後護摩を焚いた。女房は娘のために私も護摩に参座したいと本堂に来た。気温が上がりいよいよ夏の護摩になってきた。本堂の掃除を済ませ、喜多郎を聞きながら居るとカメラマン来て少し話す。彼も夕べ甲府で飲んだということだった。若い奴らの話もした。色んな若い奴らが居て、これはこれでいいのかもしれない。

2010年5月14日Friday 晴れ
いっそう緑が映える。朝。
前夜に少し雨があり、そんな翌朝は新緑がいっそう鮮やかに映える。太陽が昇り陽射しも強く青空も果てなくある。朝早く起きるのもこんな朝なら楽しみである。ひんやりとした本堂と客殿でのお勤めを済ませ、長靴を履いて外に出る。墓地から樒を採ってきて、明日焚く護摩の六器に樒を盛って荘厳する。境内をぐるっと歩き、その後思い立って、アジサイの挿し木の大きなのを6本ばかり本堂裏に植えてみた。雨を吸った地なら定着するかもしれない。またそれを期待して、祈って。以前鹿(多分そうだと思っているのだが?)に桜の苗の花芽や葉を食べられてしまい、その後、下から大きな葉が出てきていたのに、それがまた食べられてしまっていた。サルもイノシシもひどい奴らだが、いま僕が最も嫌だと思うのは鹿である。鹿は花を食べてしまう。先日も身延山のシャガの花を鹿が食べてしまい花がないと新聞に載っていた。こういう話題は震えるように寒くなってしまう。サルやイノシシはこの眼で見ているが、鹿はまだこの目で確認していないが、先ず間違いなくこの寺の山にも出没している。糞も見ている。私たちが生きていく上でのささやかな幸せを、鹿が齧ってしまうのには我慢がならない気分だ。ただ、今その原因となる私たちの罪があろうことを想像してここに書いても何の解決にもならないと思うので書くつもりはない。無事にアジサイの苗が育ってくれることを祈るのみだ。
2010年5月13日Thursday 晴れ
支所は蚊が異常発生中。
今週はじめから蚊が異常発生している。大振りの蚊で刺されると異常にかゆい。いったいどこに発生する源があるのか?蚊取り線香を炊いたり、EMを撒いたり、シューッとしたり。蚊のシーズンが来るとはいえ、ちょっとまだ早いんじゃないですか。竹薮のある我が家でさえ、まだ蚊はいない。いつだったか見たテレビで、都会では一年中蚊の発生するところがあり、そこがビルのボイラー室のようなところだったような気がする。温度や場所により、生きるものにとって好条件であるところを、生きるという本能が見つけ出すということなんだろうか。
風呂から出ると雨が降り始めている。遠藤賢司を1枚だけ聴いた後、浅川マキの夜になる。

2010年5月12日Wednesday 晴れ
浅川マキ。
新早川橋の補強改修工事が始まったので、帰りが大渋滞だった。このうんざりする時間が9月まで続くことになりそう。今日午後は大分気温が上がったのではないか。帰りには気持ちのよい風景が見られた。
浅川マキが亡くなったことから、東芝で奮起して彼女が生前に10枚組の「自選作品集」を再発していたものが、今回また発売されたので、2万円だが飛びついてしまった。パソコンで少し聴きはじめた。このアルバムを少しずつ聴きながら、「浅川マキ」が本当に亡くなったことを実感していくのかもしれない。「いつだって身軽なあたしじゃない♪」って歌う浅川マキを、永遠の暗黒に送ってあげたいような気分になる。

2010年5月11日Tuesday
ストーブの朝。
今朝は寒い。夕べから少し降ったり止んだりしていて、5時に起きるとまた降り始めていた。雨脚は速くはないが、身体を震えさせるには十分なほど。台所ではストーブを点けている。こんな日があるからまだ仕舞えないんだな。
お勤めを終えてから日曜に永代墓地の開眼をする千葉のMさんのための塔婆を書く。静かな朝に気持ちをこめて丁寧に仕上げることができた。何かと向かい合っている時間が好きである。筆を洗いに外の洗い場に出て、しばらく雨の朝を眺める。きょうは楽しいことがあるだろうか?こんな日は家に居て、布団に包まりながらCDでも聞いていたいな。

2010年5月10日Monday 晴れ
モリアオガエルの産卵も間もなくあるだろう。
今朝、鳴き声がしきりに聞こえたので、彼らの命の営みも始まっているのだろう。いつもの5月。ある朝突然にいくつもの泡の塊がモミジの枝に出現する。今年も間もなくだな。
午後6時から、Mくんと待ち合わせて、税金を滞納している家庭を何件か訪ねる。滞納している者に非があるのであるなら、納付を促す僕らが後ろめたさを感じる必要はないのだが、なんとなく気の重い役目である。一昨年から始まった夜間徴収。“滞納”の布団の上に寝転がって鼻ほじっているような人たちばかりではないのだ。厳しい時代だな。娘の就職のことも頭を離れない。終えて帰ってきて晩飯のあと、Yahooを見ると、女子柔道の谷亮子が今夏の参院選に民主党の比例代表候補で出馬すると出ていた。なに考えているんだか、野球選手OBの出馬もあるようで。票の取れる人気者たちを当選させて、一握りの奴らが政治を好き勝手にこね回すって図だ。モリアオガエルの神秘からはほど遠い、愚行というしかないな。

2010年5月9日Sunday 晴れ
ケヤキの青葉サラサラと鳴る。
午後5時の町の無線から音楽が流れる。それに呼応してあちこちの犬が吠える。僕も女房もそれぞれのお気に入りに水をやる。見上げると大ケヤキはもう緑満開となり、夕の風にサラサラと音を立てている。音が降ってくると僕たちはとてつもない幸福感に満たされる。詩人のように言葉が紡ぎ出せそうな気がしてくるから不思議だ。よい週末でありました。
今日も午前中墓地の草刈りをして、今年の第1回目は無事終了。2台の草刈り機も、よいエンジン音でよく働いてくれました。

2010年5月8日Saturday 晴れ
墓地の草刈。
昨日一日で雨が終わってくれて朝からいい天気。ガソリンを買いに行き、午前午後と墓地の草を刈る。まだそんなに背丈がなく、比較的簡単に済ますことができた。汗をかいて久しぶりに草刈を充実した気分で味わった。お昼にそばを食べたくて、住民健診を受けてきた女房と梅平の安曇野に行ってきた。ちょうど品書きに季節のセリそばがあり、二人ともそれにした。僕は生ビールとお酒を2合呑む。はじめに「お客様クルマは大丈夫ですか?」と訊かれたので、「大丈夫家内がしますので」と応えた。今こんな風にお店もお客さんに聞くんだな。酒のつまみはもちろん鳥モツで。そばもつまみも酒も働いたあとでうまかった。休憩をして午後の草刈のエネルギー源となった。墓地で今夜の酒の肴用にとノビルを採った。美味い。

2010年5月6日Thursday 晴れ
「もんじゅ」がまた動き始めたぞ。
高速増殖炉「もんじゅ」が14年5ヶ月ぶりに再び動き出した。原発に反対したキヨシローの一周忌の5月。反骨のヒッピー山田塊也(PON)が旅立ったばかりの5月。「♪もんじゅを停めよ!母なる大地が泣いている♪」と歌う朴保にしっかりと反原発のメッセージを出し続けてほしいと願わずにはいられない。いやらしく、聞きたくないニュースを連休明けに聞くことになってしまった。
休みボケでほとんど乗り気のなく一日を過ごす。それでもやることはちゃんとあったので。今日も暑くて、昼休みを歩いたが風も強く、埃っぽくて快適ではなかったけれど、30分くらいかけて歩けるコースをひとつ開拓した。帰って晩飯はカレー。今夜は久しぶりに飲まず。

2010年5月5日Wednesday 晴れ
こどもの日。
こどもの日の今朝、お勤めを終えてからゴミステーションに、ミックス紙を出しに行って戻ると檀家のSさんがちょうど訪ねてきた。6時15分ころ。早いんだみんな。柏餅を届けてくれた。僕はスピーカーを外に出して喜多郎を流していたが、「いい音楽ですね」といわれた。僕も昨日から喜多郎やFar East Family Bandを久しぶりに聴いて「いいなぁ」と思っていたのだ。柏餅が届けられて、客殿にも女房が供えて連休最後の日は、今日も暑く終わった。こどもの日でも、特に子供たちの声が聞こえたり、姿を見かけることもなかったが、それぞれに楽しんでいりゃいいんだ。
夕方花たちに水遣りをして仕舞う。「二日行けばまた休みだ」なんて頭は考えているんだけど。

2010年5月4日Tuesday 晴れ
今日も一日のんびりと。
午前中、挿し木で育てたサツキの苗などを地におろした。緑化計画を進捗させるためには、冒険も必要だし時間も惜しい。祈りながら、お不動様の力をいただけることも期待しながら植えていく。アジサイの挿し木苗は、梅雨近くになったら山側に植えてみたいと思う。ほの暗いような陰の場所に、青いアジサイがたくさん開いたらさぞや雰囲気の出ることであろう。それから、もっと先の希望としては、ミツバツツジが増えたら、裏山におろしてみたいと思う。人知れず咲くミツバツツジを思うとその計画を急ぎたくなる。
自然には迷いがない。花が開けば蜂たちが忙しくそこに群がってくる。種を繋いでいくために、本能のままに活動を始める。迷いのないこの自然に教わることの毎日だ。よい連休になった。
休み中に寺を訪ねる人もぽつぽつとあり、今日は市川から父の教え子だという方も訪ねてくださった。訊かれるままにこの寺で生きることを少しお話させてもらった。もう一日休みを大切に楽しみたいと思う。

2010年5月3日Monday 晴れ
今日は家で休みを楽しむ。
娘は今日の午後東京へ戻る。学校生活と就職活動の日々がまた再開だ。女房と祈り続ける日々だ。午前中網戸を入れる。一気に初夏の状態に切り替わったかのように暑い。部屋には風を入れたくなった。24枚の網戸を入れる。客殿の大きな網戸は風で滑って動かないように調整をする。これで一仕事終わり。スピーカーを外に出して「バングラデッシュ・コンサート」のライブなどを聴く。午後から風が強くなり、埃っぽくなった。ちょっと雨でも欲しいか。
午後4時に佐田家に向かい、佐田家守護神「三国院大神」の法要をする。早川の山菜祭りの帰りのクルマなどで、国道はのろのろ運転だった。法螺貝を吹き、20分ほど神道、仏教、修験混ざっての祭祀をする。終わってお茶をいただきながら30分ほどお話をして帰ってくる。まだ明日も明後日も休みだなんて夢のようだなぁ。覚めないでほしい夢であってほしいなぁ。

2010年5月2日Sunday 晴れ
昨日今日と、連休を外で遊ぶ。
小淵沢インターで下りたのだが、僕のクルマの他すべてETC搭載車で、お金を払っているのは僕のクルマだけ。なんという時代になったのだ。八ヶ岳アウトレットへ。駐車場がいっぱいで、町営の無料駐車場から松林を歩いた。このあたりはまだ桜が見ごろだった。僕には特別に行きたい店があるわけではなかったが、今日は行ってみてよかった。山アジサイの変わった苗と、ウツギを買った。どこも混雑していて、この連休は相当の稼ぎがあるのじゃないか。帰ってきてから苗を地におろした。しっかりと根付いて育ってくれることを祈る。寺の中も、障子や襖を入れて、普段と変わらない静かな寺に戻った。

2010年4月30日Friday 晴れ
午後から仕事に行ってよかった、来客の多い月末でした。
ゆっくりと起床。打って変わってもう上天気。祭りの後の寺はなんとなく埃っぽい。まずはトイレの掃除をして他の片付けに移る。外のトイレも雨の昨日の名残で泥だらけだった。午前中をゆっくりとできるものから片付け。疲れが残っていて、フットワークは重い。昼食後に出勤。いつも、祭りの前日と祭りの翌日は休んでいるが、どうせ明日から長い休みになるので、片付けは何とかなるので午後から仕事にした。僕を含めて4人が休んでいたので、3人の支所はてんてこ舞いの状態だった。僕なんかまだぜんぜん戦力にはならないのだが、それでも誰も居ないよりはましだったようだ。勝手に、きっと閑散として暇なのではないかと思って出かけたのだが、「おー、いいところに来てくれた!」ってな感じだった。仕事を片付け6時過ぎに支所を出た。波木井橋を歩きながらすれ違った老人に「ごくろうさん」と声かけられた。なんだかさわやかな夕方で、いい気分になった。

2010年4月29日Thursday 晴れ
祭典無事終了。
朝5時に起きると、想像だにしなかった風が吹いていた。吹流しが真横に流れていた。お勤めを済ませ外の風を感じると雨が降ってきそうな予感。まさかあそこまで降るとは思わなかった。檀家の皆さんが竹を取ってきて、柴燈護摩道場の結界をし、シメを付け終えるころから降り始め、雨脚は速くなる。ざんざん降りとなり、もう手も足も出ない、ひたすら雨の上がるを我慢してみているほかない。天気予報は、確実に昼ごろから晴れると言い切っているのだ。手伝ってくれる僧侶方が集まるころから天候が回復してくる。上がってはまた落ちてくるような天気のやり取りがあり、それでも柴燈護摩に移るときには快晴。午後1時から、不動寺の住職に内陣の護摩を焚いていただく。終わって僕が少しお話させていただき、それから外に出てメインの柴燈へ流れる。大風にもならずよい護摩法要になったのではないか。
東京から若い友人蜂谷夫婦も赤ちゃんを連れて祭りに来てくれる。それから川口家ご家族、小林薬局のご家族、喜田の姉さんも、内藤君も。皆に支えられたお祭りである、ホントに。
終わって僧侶方とゆっくり飲む。飲みながら熱く語ってしまった。少し語り過ぎたかもしれない。でも、この皆さんは僕にとってはとても大切人たちであり、ソウル・ブラザーである。僕は僕が住職をしている間は、この祭典を今までのように形を変えずに続けていきたい。bluesのような祭りでありたい。シティ感覚な今風にアレンジするようなお祭りには変えたいとは思わない。変化のないものを継承していきたい。ありがとうございました。ありがとうございました。それから、女房にも。娘にも。それから今回は特に息子にも。彼なりに家のことを考えてくれて手伝ってくれたのだと思う。ありがとう。

2010年4月28日Wednesday 晴れ
今朝は3時半前に起きてしまったので、もう眠い眠い。
夕べの旨い酒にすっかり命までも飲み込まれて、風呂にも入らずに寝てしまった。目が覚めてしまったので午前3時半過ぎに起きて、まだ温かい風呂に浸かり、その後居間でお札を書く、中島みゆきを聴きながら。曲と曲の間の無音の刹那に、外の激しい雨音が聞こえて、それが鶏の首でも絞めるような悲鳴に僕には思えて切なかった。祭りは明日ではあるが、この雨はいただけない雨であった。
午前中も雨は止みそうで止むことなく、緩急つけながら降り続いた。護摩を焚こうと思う気持ちが10時過ぎまでなかなか盛り上がらなかったが、11時から護摩を焚いた。午後になって雨が上がり、青空が見えて、護摩壇に桧を盛り準備した。仕上げて、外のトイレの掃除をして、本堂の護摩の後を片付けて、明日の護摩の準備をして、風もなさそうなので、夕飯後に鐘楼にシメも張り、よく一日働きました。女房も娘もよく一日働きました。多分今日この国で一番働いたのは僕たち家族ではなかったかなと思うくらい。発泡酒と焼酎を飲んで祭りの前夜を祝い、メールが来ていた東京の若い友人夫婦の明日の来山を楽しみに今夜はもうこれくらいで。

2010年4月27日Tuesday
雨、雨、雨、雨。
日曜日に採ってもらったヒノキの葉を「濡れても大丈夫、バリバリ燃えてしまうし、水かけたりもするんだから」と、ここに停めておいてもいいという隣りの兄さんの好意に甘えて、本堂の横に荷台に積んだまま、シートもかけずにあるのだが、まあ、一日よく降っている。それも十分に雨量もある。また寒い春の日に逆戻りで、職場から雨の外を恨めしく少し後悔しながら眺めていた。「早起きしたんだから、ブルーシートかけてくりゃよかったかな」と。
まあ後は晴れてくれたらいいのだ。晴れなくてもせめて雨が落ちなければ良い。通常の天気より少し心配するぐらいのほうがいいと思うのは、この時期午後から強い風が吹く。富士川を吹き上がってくる風が護摩の火に挑みかかる。道場がちょっと狭くて、でも僕は少し大きな火が炊きたくて、そんな相反する中で、大きな炎になると、鐘楼の屋根先を舐めたりする。だから、少し天候が変わってたほうが、風向きが変わったり、風が凪いだりすることもあるので、そんなことを密かに期待しているのだ。

2010年4月26日Monday 晴れ
雨だけだなぁ、心配は。
朝から午後2時過ぎまで門野の湯に行く。休館日なのだが、身体障害者福祉開の会議があってその後風呂に入るということで、毎年開けてあげているのだという。社協の高橋君も同行していて久しぶりに会う。元気そう。お風呂の準備に、K池さんが早くから来てくれていた。K池さんともゆっくり話す。宮城ナンバーの4WDに乗っていて、ちょっと話すイントネーションが違う。でも人のよさそうな方である。60をちょっと越えているのかもしれない。
戻ってから仕事。定時に終えて帰宅。明日からまた雨になりそう。晩飯の後、書いたお札を整理する。護摩に使うさす股にカンマンの梵字を巻いたり。客殿、庫裏の襖や障子を外し、いよいよ寺の中も祭りモードになってきた。御札の申し込みもチョコチョコとある。まだまだ承りますよう。電話もかかってくる。天候だけですわい。

2010年4月25日Sunday 晴れ
祭典準備。
午前8時から祭典の準備。他所からの檀家も来てくれる。天候は良好で、準備もすんなりと運んだ。当日まで時間があるので、竹の準備は当日になり、護摩壇の桧も当日か僕に時間があったら前日に支度しようと思う。今年は檀家の皆さんが桧を採ってきてくれたので、これだけは楽であった。八日市のほうの準備も今日午前中に。手際よくテントも幟も準備された。もう何が気になるといえば天候のことだけなのである。どうも当日までにはまだ雨がありそうだ。今日も夕方の時間になってから大分強い風が吹いている。湿り気のある風で、雨になるならお早めにとご案内してしまいたい気持ちになる。いよいよ一年に一度のお祭りが来るのだなぁと気持ちも引き締まってくる。よいお祭りにしたい。

2010年4月24日Saturday 晴れ
緑化計画進行。
午前中境内の草刈をする。今年初めての草刈機のエンジン音。今年もまた始まってしまった。草刈が9月まで続く。11時過ぎまで参道から畑、本堂の周辺、庫裏裏の庭まで一気にやっつける。久しぶりの草刈機で、しばらく腕の震えがあったり。今日は天候が回復するのだと期待していたが、午前中は曇っていて時折雨も舞う。暑くはないので、野良作業にはありがたい日和。でも、こう天気が悪いと29日の当日の天気のことだけが気になってくる。こればっかりはホントに神頼みだ。
11時半過ぎに女房と出かける。どうしても行ってみたかった。「道の駅なるさわ」へ。ミツバツツジを見に。行く途中、下部の道の駅に立ち寄る。タラの芽、コゴミなどを買う。これらの春の幸のことをうかつにも忘れていた。でも、今夜は満喫。「道の駅なるさわ」のミツバツツジはまだ三分程度だったかもしれないが、でも行ってみて良かった。お祭りの準備もあるけれど、時間を見つけて今日は出かけてよかった。女房と二人で食券を買って「天玉そば」を食った。祭りの裏方を支えてくれる彼女に、少しのんびりした時間をあげられたかなと。溶岩樹海でミツバツツジを見た後、直売所でミツバツツジ3本、フジザクラ1本、ウンゼンツツジ1本を買う。帰ってきてそれを植える。この子達が大きくなる頃にはもう僕はいないかもしれないと思いながら。でもそれでもいい。大聖寺緑化計画は進む。

2010年4月22日Thursday
来年はもっと就職難ですと。
大降りだった。午後新しい部署の仕事の事務で、K林務環境事務所へ出向いた。2階の環境課を訪ねる。前任者から県の事務所の担当者が代わったことを教えてもらっていたので、名刺を持っていき挨拶をした。事務の話が終わって挨拶をして別れ間際に、「石田さん、M保健所の時に会っていますね」といわれた。そうか、どこかで会ったことがあったように思っていたのだが、やはり接点があったのだ。僕は飲酒過多により、人の名前を覚えられない、会ってもすぐ忘れてしまう。これは長年の飲酒によるものだと勝手に信じている。支所に帰ってから去年の県職員録を開くと、本課の課長をされていた方だった。再任用ということらしい。
今朝の新聞で、「来春大卒求人二割減」とあったので、実は朝から女房とこの記事の話になっていて、娘の就職のことがさらに案じられる思いだった。帰って「今日こんな人と会ったよ」と話したら、再任用なんかしなければいいのにという話題になった。少しずつ細く小さくなってゆく者たちにではなく、これから伸びてゆきたい思いでイノチをする者たちに開けた明日であってほしいと僕も願う。最早娘ひとりだけのことではないと思いながら、でも実は大バカもんである。

2010年4月21日Wednesday 晴れ
明日の朝にはまた新しい緑が増えているだろう。
昼休み当番だったので午後1時を過ぎてから、気温の上がった春を歩く。ハナミズキが咲き始めていてこれも可憐。花も薄桃ばかりではなく、白に近いような、薄緑をしているかのような、そんな花びらがあって楽しめる。ただ、身延支所の近くで見るのは家の庭のハナミズキなので、あまり近くに寄って眺めるわけにもいかない。写真を撮るのも気が引けるので残念。35分くらいで歩ける方向のひとつが大体つかめてきた。一年間居る間にいくつくらいの散歩道を開拓できるだろうか。
こんな風に花に心を奪われるってのは過去にはなかったことだし、もっと早く、花に生活の時間をつぎ込んでおけばよかったなと正直思う。毎朝、毎夕、挿し木のアジサイを眺めるけど、緑の芽が出て伸びてくるのが早い。生きることだけを求めているような純真さが伝わってくる。人生が終盤にならなければ、凡人には何も見えてこないのかな。今日も帰宅して玄関前の椅子にバッグを置いて、そのまま10分くらい花を眺めたり、水をやったり、周りを歩いたり。短い時間でも僕の気持ちが納得する時間が一番いいのだ。

2010年4月20日Tuesday くもり
了見の狭い発言はやめたいね。
石原慎太郎はかつて持論の中で、日本人のルーツは、列島を囲む多くの国々から及んでいて、アメリカ以上の合衆国であるといっておきながら、民族主義的な発言がどうも気に食わん。今回の「帰化」発言もそうだ。帰化もいいじゃぁねぇか。日本人という括りの中で世の中を眺めてみれば、もう僕らより年齢の低い世代は、黄色の肌を持った者がニッポン人であるという観念は薄れてきているんじゃないかと思う。国籍を取得すれば、白い人であろうが黒い人であろうがニッポン人である。参政権を持つってこともあるだろう。
「与党幹部の親に帰化した経緯を持つ者が多い」発言は、まったくのナンセンスで、それがどうしたっていうような、小学生の学級内での日常のトラブル程度のことではないか。挙句は水掛けられた社民党の福島瑞穂が「両親も私も帰化人ではない」だ。馬鹿か!?といってやりたい。些細なことかもしれないが、どうも僕はこれらのことについて、微塵でも「悪しきこと」を想像させるような発言は気になるし、聞くに堪えない思いを強くする。了見の狭い発言はやめたいね。国家も国境もないところから、いのちの水の一滴は流れたんだからね。僕はあまりこういうことにこだわりながら生きたいとは思わないね。

2010年4月19日Monday 晴れ
ニッポンという不可解。
新党ブームだね。「たちあがれ日本」「日本創新党」なんてのが最近でたね。日本創新党ってのは、結成幹部が山田宏、中田宏、さいとう弘だったので、「新党三人ヒロシ」かななんて思ったね。やけに力んでる名前がじゃないか。鼓舞するような。力こぶのような。僕なんか絶対日本なんて字は使わないな。そういやぁと思い出してみたら、意外に「日本」を使っていたのは、日本共産党であり日本社会党だったんだな。ニッポンという言葉の響きに、とてつもなくデカイ狭小さを感じてしまう。龍馬伝を楽しみに見ている。脱藩したことによって人間が大きくなり、のびのびと自由な発想ができるようになる。目線の高さが均一になれば、自ずから相手を敬うようになり愛が生まれる、ような気がする。

2010年4月18日Sunday 晴れ
雪をいただく富士だった。
富士ヶ嶺の遠藤家の回忌法要があった。出かけるまでの風のない時間を見計らって除草剤を参道の道草に散布した。からだを洗い流して着替えて10時5分前に出発。本栖道を上がり、本栖のトンネルを抜けると正面に雪をいただいた真っ白な富士があり、道路も除雪車が雪かきをしたようでたくさんの雪が残っていた。寒いだろうか時になっていたが今日はあたたかかった。春の雪景色に観光客がしきりにシャッターを押していた。帰りに本栖からの富士を撮ろうと思ったので施主宅への道を急いだが、結局帰りの本栖湖からの富士は、霞がかかって見ることができなかった。あーあ大失敗だった。午前中の静かなときがきっといい時間なんだ。法事を済ませて、富士の見える共同墓地へ。その後、鳴沢村で食事会。遠藤さんは今年10回目の四国遍路に出るそうだ。お金もかかるようではあるが、それ以上に得ることのほうが大きいようだ。四国遍路に魅せられた後半人生を謳歌している。正直羨ましい気もするが、今は僕は僕の役割のためにしっかりと寺で務めをする。今日は酒が飲めなかった。遠藤家の皆さんは皆酒がいけるので、僕が今日クルマで飲まないことを残念だといってくれた。酒好きな僕は今日ここで飲んでしまったら、お祭り前の週末坊主の仕事を果たせない。今日は我慢。牛肉も出たりのおいしい食事をいただいて帰ってきた。お土産もたくさんいただき、帰りがけにビールも2本「帰って飲め!」と持たせてくれた。今これを飲んでいる。
帰ってくると女房は昨日の続きの草取りをしていた。僕も着替えてから外の仕事をする。午後5時の町の夕のチャイムが鳴る頃までかかって、柴燈護摩壇の下準備を済ませることができた。上出来だ。よい週末を、しっかりと、きっちりと、中身厚く過ごすことができたと自惚れて酒。

2010年4月17日Saturday 晴れ
御札書きにいそしむ。
朝まで雨が降り続いた。休みの楽しみは遅い起床。7時半に起きて外を見ると霙の降った名残があった。寒い。夕べ、女房と三田佳子の半生を振り返るテレビを見ながら、ストーブを使い切るつもりでいたけど、起きてすぐにまた灯油を補給した。ちょっとしまえない寒さだ。雨は上がったが外は冷たい。外の仕事はできない。切り替えて午前中お札を書く。朴保のアルバムを聞きながら。もちろんストーブを付けて。一段落して11時半ころ女房とお祭り用の酒を仕入れに行く。一升瓶の空き瓶も15本処分する。相当の酒飲みだ。昼はラーメン。少し昼休みしてお札書きの続きを。4時過ぎまでかかって、ここまで受け付けた分、寺院のもの、檀家分書き上げる。朴保を今日はゆっくりと聞くことができた。この在日のロッカーをたくさんの人たちに聞いてもらいたいと思う。お札は70本ほど書いた。あたたかくなった午後、女房は境内の草取りに出た。彼女は彼女の仕事をしてくれている。夕べ、夫婦は毎日16分会話をすればいいといっていたが、おそらく僕たちは毎日5分足らずではないかと思う。僕は黙って自分のことをするほうが好きだし、会話がなくても互いを思いやることでいいと思っている。今僕がこれを書いていても、言葉のやり取りはないが、お互いに大切に思う人には変わりないだろう。

2010年4月16日Friday
本当のことを伝えない国なんて成長がない。
中国青海省の地震報道にまた政府の圧力がかかっているという。政府の対応を批判する記事は書くな。学校の倒壊などの不名誉な報道は控えよ。役人の現地視察の報道は積極的に取り上げよ。笑っちゃう。中国は10歩進んでいるように見えても、こんなときに千歩後退する。隠そうとする、隠して閉じ込めてしまおうとする閉鎖的な体制を露わにしてなんと情けないことか。こんな箝口令を布いて、それがホントに口封じに繋がると思っているのだろうか?こんな恥ずかしい情報はすぐに地球を一周して、挙げ句には「なんと愚かな地球人たち」と宇宙にまで情報は届いている。
自由にものが言えない国に成長はないと僕は思う。中国が経済成長をして、いま飛ぶ鳥を落とす勢いで発展し続けているといっても、それを底辺で支えているのは多くの一般労働者だと思う。ピラミッドの頂点に居座る経済界や国家を動かす者らは、結局、「中国」を隠れ蓑にして搾取や私腹を肥やすことに躍起になっているだけなのではないか。こういう国はさむい、さむい。
「寒い」と訴えても、「火力燃料に乏しいことを想像させるような発言、報道は打ち首!」などとなってしまっては、中国に生まれた誇りを失ってしまう。そういう統制を布く奴らは、国家に忠誠を誓いながら、自ら墓穴を掘っている大笑い者といえる。

2010年4月15日Thursday
まーあよく降るわ。
今朝はもう8時半過ぎから雨になる。起きぬけも冷えていて本堂も寒い。白シャツでは寒いのでまた薄いトレーナーにした。夕べ、カメラマンと飲んだ酒が少し残っていた。
この冷たい春で野菜が値上がりしているといい、冬物をしまえないので、通常なら冬物のクリーニングで大忙しの店が暇なんだそうだ。この寒さで商売あがったりの業種があることはわかったが、酒好きの僕のように、熱燗が恋しい人たちは仕事を終えての一杯やおでんを楽しんでいるのではないか。だからこんなお店は意外と儲かっていたりしてね。温かいうどん屋もいいだろう。今夜うちの晩御飯もうどんだった。うどんは酒を飲みながらでもいけるので、僕のような呑兵衛にはもってこいの食べ物。天気予報だと明日のほうが今日よりも冷えて雨も続きそうだと。
晩御飯の後、あたたかいカーペットに寝転びながら女房の買った「二度づけ醤油の、こく深さ。」“技のこだ割り”という煎餅を食べる。これは美味かった。香ばしい匂いが脳を刺激した。「亀田製菓」の亀田は、ちょっとあの連中を想像させたが。

2010年4月14日Wednesday 晴れ
その場所への道端にはヒメシャガが咲いていた。
昼休み当番をしてから外に出た。今日は少しゆとりがあったので時間を見ながら歩いてみた。期の歩いたヤマブキの道を波木井川沿いに歩く。それから、もうひとつ行ってみたい場所があった。35,6年前の高校3年のとき、学校のあるときはほぼ毎日通った場所。高校西の入り口を出て塩沢橋を渡り、すぐを左の山道に入る。150mほど行くと沢に出る。沢に降りてその堰堤の下でタバコを吸った。毎日、7,8人でたらたらとそこまで行って、2本か3本、馬鹿話をしながらタバコを吸った。なぜその場所になったのか覚えていないが、とにかくそこまで毎日歩いていった。ハイライト、チェリー、ショートホープ、セブンスターなんかを吸っていたように思う。確かにその場所は残っていたが、もう往時の匂いはなかった。もちろんその当時の吸殻なんぞはもちろん。この仲間たちとは相当に気があっていて、夏休みにキャンプに行ったり、父に頼まれて、劇団の裏方のアルバイトに行ったり、Y君の家でしょっちゅうマージャンをして酒も飲んだ。Y君は何を急いだのか、大学に入るとすぐにいい子を見つけて子供ができて結婚し、30歳であっさりと向こうに逝ってしまった。いまその友人たちと会うことはほとんどないが、たのしかった思い出はいつも僕の内なる引き出しにある。汗を少しかいて支所に戻り、顔を洗って後半の仕事を始めた。その時にはもう53歳のおっさんに僕を戻して。

2010年4月13日Tuesday 晴れ
ヤマブキの道。
波木井川沿いの道に今ヤマブキがいっぱい。歩いていたら、中富からの同僚の二人と会う。そうか、こんな風に昼休み歩いている人いるんだな。常葉では僕の他にもう一人だけいつも会う男性がいた。言葉を交わしたことはなかったが、この人以外には誰一人歩いている人はいなかったと思う。身延支所の周りには、銀行、郵便局、県や国の出先機関、電力会社、病院、その他の会社などがあるので、昼間人口はとても多いように感じる。お昼時間になると、食事をとりに店に向かう人の流れもある。
今日は暑くなると夕べの天気予報だったけど、実際には午後から風が出てまた薄日になった。おっ、そうだ。今朝。伊沼のJAの前で交通検問が行われていた。年度を跨ぐ期間しばらくこの光景を忘れていたが、何台か捕まっていた。油断していたら捕まる。飯富橋に近づいたら、携帯使用を止める、シートベルトを再確認など。この鬼門で捕獲されてしまったら、せっかくの新しい朝が台無しだ。一日が、チーンと瞬間で終わってしまう。僕なら、解放されたらそのままUターンして、朝から酒になってしまうかもしれない。愚か者の思いつくようなことである。風呂から出てもう午後10時半。今夜は7時過ぎから3時間もお札を書いたり、幣を作ったり、柴燈護摩で使う弓(檀家のNさんが作ってくれたもの)の手入れをしたり。きっちりと今日を働きましたとさ。

2010年4月12日Monday
雨の日は雨のことばかりを思っていても仕方がない。
もう今朝は雨だ。寒い。なかなかストーブが片付けられない。昨日はあんなに暑かったのに寒戻りだ。門野の湯へ券売機の料金を回収に行くが、寒くて寒くて、雨の中をゴミ袋の回収などもあり参った。桜はもうほぼ葉桜。桜の季節なんて過ぎてしまえば一瞬の出来事のようだ。一瞬を待つことになぜこんなに心が躍るのか?そして僕の心は、もう桜を打ち捨てて、アジサイの季節へと駆け出している。心躍る出来事も、死に至ればすべてが無に帰ってしまう。巡りきて過ぎ去ってゆき、気が付けば白髪の爺さんになっている。無であることのために生まれて生きているなんて、なんて無駄な生き物なんだ。
娘が東京へ戻り、また静かになった。今夜早めに休んで、明日の夜からは祭りの準備をはじめることとしよう。

2010年4月11日Sunday 晴れ
今日は夕方でもTシャツ一枚で平気だ。
甲府:華光院の祭典に行く。娘の就職試験があったので、女房と娘も一緒に甲府へ。ある場所で別れる。華光院にはすでに皆さん参集していて、道場で打ち合わせなんぞをしていた。ご住職はというと、足を引きずっている。骨折しているとのことで、今日の大祇師は副住職が行う。こんなことがきっかけになったりして、世代交代していくようなことがある。曲録に居て進行を見守るご住職を時々僕は見ていた。華光院の柴燈護摩は午前中に行われるので、風の強くない時間帯で、大きな護摩壇が作ってあってもそんなに心配がない。今年は玄法院の副住職が祭りに出仕。斧作法は、背の高い師であればこそのような見事。私の寺にも昨年から来ていただいている。
すべて終了して、お昼をご馳走になって12時半ころ失礼する。ご住職には、足を早く直して29日のお祭りにお手伝いいただけることをお願いする。
家に帰るとちょうど、沼津から小林さん墓参りに来ていた。暑い日になり、小林さんゆっくりと墓掃除もしていかれた。白足袋を洗い、修験衣体を風に当ててからしまう。祭りの護摩用の小木も三把作る。五大明王などの幣も仕上げる。昨日今日、結構忙しく充実した週末でした。

2010年4月10日Saturday 晴れ
法事一件。
10時から甲府:佐田家の七七日忌。大人9名子ども2名。納骨も済ませる。二人の子供も法要の最中は静か。こういう仏事をよく見て育つのだ。教えられて学習するのではなく、大人のすることを見ながら実践学習していくのだ。法事に参加してこういうことを自然に学んでいくってことが最近は薄くなってきたのかもしれないな。
法事を終えて川原へ野竹を採りに行く。午前中は風も凪いで天気もよく、富士川の川原も気持ちよかった。今日は車の往来が多いように見えた。こんなよい天気を出かけようなんて家族が多いのだな。野竹は祭典の幣串用に。帰って寸法を測って切って先を割る。ひとつ準備が済んだ。昼飯の後、上田さん来さん。この方は仏像を泡洗浄して仏像のもつ本来の輝きや色彩を蘇えらすというような仕事をされている。実際に叔父の寺の仏像も拝見したが、見事なものである。今日は不動明王を拝観したいとのことでお見えになった。パソコンのデスクトップの画像にするのだと、お不動様をデジカメに納めていかれた。「え?ホントに写真撮ってもいいんですか?」「どうぞお撮り下さい。」。爽やかな若者だ。秋の県立博物館の5周年記念展に出品する信玄像他の小さな像をクリーニングできたらいいなと考えてもいるのだが、先立つものがちょっと厳しいので目下思案中である。こんなときにスポンサーになってくれる方ってないのだろうか。募集中でーす。
上田さんが帰って、今度は下山の円崎さんへビデオデッキやら旧いアンプやら10台ほど廃棄に持ち込む。事務所で奥さんに「道沿いの紅い花はサクラですか」と訊くと、「桃です」と。この紅が先週から気になっていたので訊いてみてよかった。円崎さんのご主人が実生から育てていて、これを数年前から道沿いに植え続けているということだった。実は今日も植えに行ってるとのことで、今度うちの寺にも少しいただきたいと話して帰ってきた。サクラより花持ちもよいらしく、とにかく鮮やかな紅は脳裏に焼きついて離れない。頭を刈って一日を締めくくって、よい一日でした。

2010年4月9日Friday 晴れ
K先生は主治医ということではなかったのだ、主治医の定義はいつになるのか?
昼歩いて、Y姉ちゃんと会ったので”ひとっぱなし”する。懐かしい。この独身で過ごした姉さんはキレイ。若い頃は川原でダンプカーを乗り回し、踊り、琴、三味線の師範でもある。僕も高校3年のとき、いっとき琴を習ったことがあった。母の事を訊かれるが適当に応じる。この人は我が家のたんこぶ。
午後2時20分の予約で時間休をもらって飯富病院へ。持病の痛風の定期点検。でもこんなものが持病であったはずはない。すべては僕の自堕落の成果である。尿酸値は範囲内であったが、中性脂肪の値が異常に高い。でも、この女医は、(こういうお馬鹿な奴に対して、コメントなんかいちいちしないのだ)「今日の尿酸値は正常でしたよ」でさらりと流したのは、もう50を越えた僕には、あっぱれというしかない。「あなたの検診は今日が最後です」と告げられていまこれを書いておりますが、どうもありがとうございました。

2010年4月8日Thursday 晴れ
檀家のWさんを訪ねる。
昼休み歩いていたら、親戚のTとバッタリ。「なにやってるでぇ?」て、「実は4月から支所に来ている」と。じゃ、またなと手を振る。整骨院を自営する頑張り屋だ。別れた後、もう少し時間が大丈夫そうなので、支所の向かいにある「ケアハウスみのぶ」に足を運んだ。檀家のWさんが入居している。受付を済ませ部屋を訪ねる。お元気そうだ。突然の訪問をとても喜んでくれた。身延支所勤務になったことを伝え、「これからは時々うかがいます」と話す。今秋、県立文学館の特別展に不動明王を出すことを、年賀状を読んで気にしていたらしく、何かさせてほしいとのことだったが、ほんものの出開帳をするような大変な事業ではないということを伝えると、お不動様の宝前にお酒でも上げてくださいと包んでくださった。こちらもそんなつもりではなかったが、有難く頂戴してきた。
Wさん、相変わらず書道の勉強に勤しんでいる様子。こればかりは真似ができない。もう90歳になるような年齢だとは思うが、肉体の衰えは仕方がないにしても、意識や精神がシャキッとしているのは実にすばらしい。訪ねてほんとに良かった。

2010年4月7日Wednesday くもり
不満足でも、足ると知ることもまた肝要。
午後から雨になるかもしれないといっていたので、傘を持って出かけようとしたら、もう雨脚が速くなっていた。身延支所の周辺はまだ雨が落ちていなかったので、ずいぶんと違うものだなぁと改めて実感。玄関から車庫まで僕は傘を差したのだから。結局、雨になることはなく一日が終わった。でも、はれたのは昨日だけで、気分が高揚するような晴れの日はなかなか訪れてはくれない。
昼休みの窓口当番の日で、今日はまた少しここでの仕事を覚えた。焦らずにゆっくりとだ。6時少し前に帰宅。すぐに家に入らずに、境内を歩いて花木の育ちを眺めている。滑り台の脇に植えた「虎の尾」という紅い花の桜の花芽が膨らんできていたので楽しみにしていたら、今日帰って見たら、花の紅い膨らみが消えていた。下に落ちたわけでもない。想像するに鹿ではないかと僕は勘繰っている。お気に入りの生活の場が、この獣たちの悪戯に荒らされてしまうのだけは絶対に納得いかない。それでも、この幼木が枯れずに気丈に育ってくれたらと願うだけだ。前に進み続けることが当たり前の思い上がりを諌めるように、落とし穴に落してくるのも森羅万象であれば仕方がない。

2010年4月6日Tuesday 晴れ
中国の死刑執行を非難するのはお門違いな気もするがな。
鳩山ほかこの国の識者が、死刑執行は残念だといっていたが、この国自体が死刑制度を布いているのに、中国が中国で法を犯した赤野死刑囚にそれを執行することを非難するのはおかしいんじゃないかと思う。死刑制度に僕は反対である。またどうも安易に死刑を安売りする中国のお国柄も感心はできない。2009年だけで千人以上の死刑執行がなされたと聞く。でもこれは別問題であって、国家がその法を布いている限り、どんな刑罰が下ろうとも仕方がないといわざるを得ないのではないか。ましてや、この国においても、(民主党政権になってからのことはわからんが)年に何人かの死刑がきっちりと執行されてきているではないか。他の国の死刑執行を非難するのではなく、こういう非人道的な行いを学習して、てめぇの国の振りを直すってことではないだろうか。この国を動かしている馬鹿どもの、まさに壊死状態の感覚と思わざるを得ない。こういうところももっと議論して仕分けしてみろといってやりたい。
きょうの午後、身延支所に出生届けに来所した僧侶の方がいた。会話を聞いていると双子のお子さんのようだった。僕は窓口にいたことがないので、子供が生まれて届けに来る人たちを見ることが少なかった。いまこの町は人口1万5千ちょっとで、年間の出生児の数も70人を欠けている。子供が生まれるということは町全体の喜びであると思う。僕が今日感じた嬉しかったことは、届けに来ていた若い僧侶である父親が、とても幸せそうな穏やかな顔をしていたということだ。先々のことを案ずる翳など微塵も感じさせない若者の、未来だけを見据える瞳の先に、光あらんことを祈りたいと思う。

2010年4月5日Monday
3日目。
ほんとうに雨がよく降る。こうよく降ると、祭典当日のことがもう気になり始めている。こればかりはなんともならないのだが。午前中、前任者のM君にもう一度同行してもらい、新人のK君を伴って門野の湯の集金に。対岸の壁にミツバツツジますます鮮やかにあり、これを眺めただけでも儲けもん。
ほんの少しずつ解りかけ、反芻しながら頭の中に叩き込んでゆく。夕方仕事が終わってから、支所職員の事務の打ち合わせ。課長から主担当、副担当の仕事など、窓口職員としての接客態度などへの話しあり。6時半少し前に支所を出る。波木井橋には欄干に蛍光灯が埋め込まれている。雨が止んで薄暗くなった橋の上を歩きながら、この灯りは、家恋しさを増幅させるなと感じた。3日目無事終わる。なるほど、ここは人が途切れない。明日は今日よりもうちょっと進化するように。
少しずつお祭りのお札の申込が入り始めた。のんびりもしていられない。どこかでちょっとやる気を出して、また今年の祭典と向き合わなければ。

2010年4月4日Sunday 晴れくもり
枝垂桜にまつわる、おぞましいお話など。
日曜なので、少し遅い朝のお勤めであったが、支所の日直なのでそうそう遅くまでぐずぐずしているわけにもいかなかった。終えて本堂を出ると、檀家のSさんが僕を待っていて、「方丈さんに訊きたいことがある」という。手には枝垂桜の枝が握られていた。ご主人のところへお参りに行く途中だ。「枝垂桜には霊が付くということを人から聞いたので、伐ってしまおうかと考えているがどうなのか?」ということだった。はて?そのようなことは初めて聞いた。なるほどその形は柳にお化けと同じようなことを想像させないでもない。よくもまあ、世の中の人というものは次から次へとそのような根拠の無いことを考えては吹き散らすものだ。僕は、あそこの枝垂れがと指差しながら、今年初めて花を付けたことを話した。それから身延山は枝垂桜で有名なこと。枝垂桜が不吉を想像させるものならこんなに愛されないだろうということ。せっかくご主人が植えた桜を今伐ってしまうのは惜しいし、それはご主人にとっても悲しいことである。そのような根も葉もない噂話をいちいち気にすることはないと伝えた。心和ませてくれるものが、不安に陥れるなんてことはないのだ。馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、Sさんがほっとした顔をされてお墓へと歩いていくのを送った。みな弱い生き物だから、指針が欲しいのだということはわかる。だけどこんな話を真顔で伝える奴は、おれおれ詐欺と一緒だぜ。こういうチェーンは、常識ある者はそこで切らなきゃな。桜伐るよりそっちが先だ。

2010年4月3日Saturday 晴れ
石屋さんと話す。
千葉の望月さんの永代供養墓地建立のため、10時から地取りの供養と今日を上げた。石材店のMさんも時間に来てくれる。雨が上がってよかった。終えて、庫裏でお茶を飲んでいってもらった。何度かお会いしたことはあったが、ゆっくりと話をするようなことはなかったが、今日はお茶を飲みながら、お互いを理解するような話しができた。Mさんとは過去に何度か会っていたが、僕が覚えていなかっただけで、Mさんは僕のことをよく覚えていたらしい。急逝したお兄さんの後をついで石材店を営んでいる。僕の寺は檀家も少なく、新しく入檀する人などまずない。この辺りは日蓮宗のお膝元なので、身延町に一軒しかない真言宗に、わざわざ縁をもとうなどと考える人なんてない。それでもね、これを投げ出してしまうなんてことはできないのよ。寺の歴史と規模だけでMさんも、この寺が裕福な寺であることを想像していたようだ。僕が本音を漏らすうちに、理解するしか仕方なくなっていったようだ。彼は「私は相当変人です」と話した。「僕も変わり者ですよ」と打ち明けた。聞いていた女房は、僕とMさんが同じ匂いを持つ生き物のように感じたのかもしれない、笑った。30分くらいだったけど、Mさんと話して僕の今日一日は満足だった。墓地のできあがりが楽しみ。予算は最低であるけれど、きっと満足のいくいい仕事をきっとしてくれるであろうと信じている。墓ができたら、父も喜んでくれると思う。父は、「かよちゃん」の眠ることになった墓地をきっと、永明ありがとうと言ってくれるに違いない。

2010年4月2日Friday
2日目。
朝、雨が残る。駐車場から支所に向かうときに波木井橋を渡るが、風が強く傘を両手で支えながら。支所長、新人のKくんがモップ掃除をしていた。今まで、下部支所にはMくんという雑用専門の男性がいたので、帰りのごみ出しくらいしかしていなかった。手持ち無沙汰に新聞を綴じる。昨日の仕事の続き。今日はでも昨日ほどの来庁者はなく、手数料もいつもより少ないとのことだった。午後になって突然Wさん現れる。一昨日県庁を退職されたばかりなのに、もう今日には新しい名刺を持って訪ねてくださったのだ。まあ、別に僕を訪ねることはそのついでのことだったとは思うが、「あの人は今度はどんなところでどんなことをするのだろう」みたいなものか。正直ちょっと後ろめたさもあったが、会ってしまってほっとしたような気分を後になって感じた。縁をいただいて、こんな年下の僕にまで気を使ってくださって、お不動様やお大師様に、ほんとうに生かされているのだと感じる。
身延山の桜に関する問い合わせがひっきりなしにかかってくる。観光課では3月26日が満開とし、すでに散り始めているのだということを、何件かの問い合わせに僕も応える。「鹿児島からですか!?」などという問い合わせに応える支所長の声も聞かれた。そういえば、身延山は枝垂桜が有名なので、この辺りをクルマで走ったり歩いたりしていても、一軒に一本くらい枝垂れが植えられているように思える。今日は、6時過ぎには帰宅できた。32点くらいもらえたであろうか。

2010年4月1日Thursday
今日はまあ30点ぐらいだろうか、なんて勝手に採点。
出掛けにもう雨が始まっていて、何だか不安。昨日帰りに、「明日飯富橋を左折しないだろうか?」なんて考えていたけど、今朝はまったく飯富橋にとらわれることなく通り過ぎて身延支所まで一直線。荷物のコンテナを置いて、300メートル程離れた駐車場に。これはちょっとめんどくさいなぁ。
皆さんに挨拶をして9時半過ぎに門野の湯へ。職員の方の3月の出勤簿をもらってくる。ミツバツツジノ話をしたら、「もっとたくさんあったのに、どうも風呂に入りながら目星を付けて、後で採りに行ったのではないか」と。採りに行けない高いところが残っているのだ。
年度末年度初めの支所は大忙しで、今朝も始業時から訪れる人たくさん。戦力外の僕はほとんど何も分からず、できず、電話も取ることができない。ひと月ぐらい居たら何か少しできるようになるだろうか。正午の鐘が鳴っても、窓口が途切れないので弁当を開けるのも気が引けて、日直室に逃げ込んで弁当にありつく。これは昼休みにウォーキングするなんてできないかもしれないなぁと。30点ぐらいの一日を終えて雨の道を帰る。女房に今日一日を話す。彼女は彼女で僕のことを心配してくれているのであろう。また明日だ。

2010年3月31日Wednesday 晴れ
常葉に別れを告げる。
下部支所というよりも、ぼくにとっては常葉という地名に思い出が残った。今日は一日残務処理。年度末が最後の日となって、ここ数日教職員の異動のために、学校の事務職から会計伝票の回ってくる数も結構多かった。ハンコを押すだけでも時間がかかる。僕は自分に関係する事務処理を片付けていくことだけで、終業時間までそれに追われたという感じだったかな。今日の昼はとうとう歩く気分になれず、郵便局へ行ったついでに、近くをチョロッと歩いただけで、支所ウォーキングに幕を下ろした。まあ生きているってのはこんなもんだ。
やはり異動するE君と、すべてのことを片付けて、僕はK君に引継ぎを済ませ、生涯学習課のみんな、下部支所のみんなにも礼を言って、コンテナを抱えて支所を後にした。もう、おそらくこの場所に戻ってくることはないだろう。
明日また、僕の別な場所での「支所の日々」がはじまる。

2010年3月30日Tuesday 晴れ
片付け、残務処理など。
折りたたみのコンテナを持っていき、引き出しの中の私物や必要のないものを片付ける。パソコンがあるので、いまはもう国語辞典なんか重たい固形物と化してしまっていたので、捨てることにした。これも時代の流れだ。こんなことをしながらも並行して、引継ぎ書に思いつくままに加えたり、片付けられる事務、新年度早々に処理しなければならない事務の下準備などを進めた。会計システムが新しくなるので、実は去年までできた、4月に変わる前に3月末には新年度の会計伝票の処理ができたことが、今年はまだ新システムが使えないので進めることができない。
それでも残り一日で何とかなりそうだ。支所勤めの内藤君とは、一年の同じ箱の中だったけど、特に話しをすることもなく終わってしまったなぁ。これが少し悔いが残る。一回ぐらい飲む機会を持てばよかったなぁ。
明日から2日、お家の用で休むというMさんに礼とさよならをいい帰宅した。年度途中で職員の休職があり、Mさんには他部署から異動してきてもらった。何でこんなに寒いのか?と天に問いたくなるような夕の寒さだ。

2010年3月29日Monday 晴れ
さあ最後の3日間の始まりだ。
9時に豊岡小へ行き、退職となる用務員と町単教諭の事務処理のためサインなど貰う。閉校となる学校には、引越し業者が忙しく動いていて、教職員の皆さんもそれぞれの異動準備に忙しそう。学校の後身延支所に行きK君から事務の引継ぎを受ける。先ず、月曜が休業日である門野の湯へ行き、先週分の入館者の売上金を回収する。券売機から売上金を回収する。外へ出ると、川を挟んだ向かいの山に鮮やかに、あれは間違いなくこの時期ではミツバツツジだろう濃い紫の花が何ヶ所かに眺められた。
午後通常の仕事に戻り、こちらの仕事を引き継いだり、残務整理をしたり。今夜の学校統合の説明会にはもう出なくてよかったので早く帰ってくる。「さむいなぁ」と交わすのが、夫婦の会話になった。娘は今日また上京したようだ。

2010年3月28日Sunday 晴れ
今日も一日、たっぷり。
甲府の玄法院の春の大祭に行く。早く着いてしまったが、ご住職とお話し。ご住職は僕の亡くなった父と同い年なので、うーーん、親父が生きていたら今どんなだろうなとか考えてしまう。
壬生和尚もお見えになる。うーん、やっぱり、まだこのコスプレを自分のものとするには時間がかかるようだ。袴を着けるのに、上着のまといが結構面倒くさい。これは数を踏むしかない。50で修験デビューなのでこれはそれなりの覚悟を要するのだ。(これを読んでいると思うので)、着付けの練習は必須です。でも、一浪した息子さんが無事希望校に入られたことは、羨ましいと感じた。それから、パワーニンジャもチリンチリン現れて、あたたかくなれば腰の痛みも癒えるかと。祭典が終わって、エルク経由、市川三郷町:妙学寺経由で帰ってくる。エルクは店長と会えた。妙学寺は、全部施錠でちょっと困った。でもまだ今日の自分の予定があったので帰ってきた。帰って、すぐに着替えて本堂で護摩を焚く。僕の通常の護摩は二段護摩なので一時間もかからない。よい護摩が焚けた。僕の知る者たちすべての4月からのよいこと、元気を願った。
護摩の後、頭を刈り、本堂の掃除をして一日を閉める。よい一日でした。自らの感想。

2010年3月27日Saturday くもり
一日忙しく終わる。
11時から佐田家の法事。七七日忌。朝天気もよく暖かくなると思っていたが、時間が経つにしたがって翳ってきて、花曇りとでもいうのか寒くなる。午後の来客の予定があったので、お斎の席は失礼させてもらった。お話しをして、納骨も兼ねた墓参へ。老桜満開の墓地。
お昼ごはんの後午後1時過ぎに大阪の佐田さんと、次男一家来山。夕べは下部温泉に泊まったのだと。二人目のお子さんが生まれて初めての墓参。次男の方はパイロットをされている。お父さんが話すには、兄よりもこの弟のほうが仏心あるのだと。弟が墓地の継承をしてもいいのかと問われたので、一向にそれは構わないと応えた。客殿でお経を上げてから墓参。なるほど、墓前に膝を折って、丁寧に線香に火をつけて、ご先祖様と話をしておられた。パイロットという職業は、多くの乗客の命を預かるということなので、そんなことも、信心深さとなっているのかなと想像した。本堂でお不動様も開帳して差し上げた。一家が帰った後、客殿の絨毯を片付け、便所の掃除をする。
午後4時少し前に、千葉から望月さん来山。永代供養の墓地を建てるため。飯富の望月石材店にも来ていただいて、諸事を相談。5月中旬までに建立してもらうこととなる。施主の経済状況などもお話して、石材店には大分ご無理をお願いしてしまった。最後に建立場所を決めてお別れする。一日忙しく終わる。

2010年3月26日Friday 晴れ
思い出づくり。
今日は弁当を持たずに清風軒で昼飯をした。名物のカツカレーを食べておこうと思った。名物というのか?巨大なカツカレー。ただ、これをたいらげる自身がなかったので、「ご飯は少なくお願いします」で頼んだ。5年間の支所勤めの間に、何度かこの店で昼飯を食べた。決して美味いといえるような店ではないけれど、この店で、だらだらと、モツの煮込みを肴に焼酎の湯割りでも飲みたいと思った。間食して、やっと青の見えた空の下を歩いた。
午後1時半から僕には最後となる定例教育委員会。教育委員にも異動を課長が伝えてくれる。午後3時から学校の教職員の離任式。何人もの先生方と挨拶を交わす。5年間を短いと感じてしまう瞬間。誰にもわからないだろうけど、この5年間は、僕にとってはいままでの役場勤めの間で一番の思い出になる時間だった。これを書いている今も、時間を遡れば、熱いものがこみ上げてくる。離任式の後、教育委員会の会議録を仕上げる。これでよし!なかなか仕事が片付かなくて、引き継ぐ目の前のリーダーに、「ごめんね」と思いながら一日を終える。

2010年3月25日Thursday
雨、雨、雨にうんざりだ。
今朝4時少し前に防災無線のサイレンが鳴り、西嶋地内の民家火災の放送があった。夕べからの雨は降り続いていた。これだけ雨が降っていれば、延焼などはなく済むだろうと思った。5時前に起きてお勤めをする。お勤めを済ませて5時45分に出かけた。ちょうど鎮火の放送があった。通勤届けを出すため身延支所までの距離と時間を計ってきた。10.2km、12分だった。時間は早朝で車がすいていたこともあるかもしれない。でもまあ、それほどの違いはないだろう。下部支所に通うのと同じくらいの時間だ。距離は下部の方が少ないように思う。
雨は今日も一日降り続くという。桜も足踏みか。エドヒガンは雨で散り始めた。こういう天候で散らされてしまうのは、老いた桜の一年に一度の開花を待つ僕にとっては少し辛く寂しい。惜しいと思う。
子供たちが今夜帰ってくる。

2010年3月24日Wednesday
親も子も新しい年を迎えるか。
雨は上がっているが、今日はまた天気が悪そうだ。夕べは珍しく、子供らから女房に電話がかかってきていた。二人とも明日帰ってくるようだ。息子は昨日が、修士課程を終えた学位授与式だったようだ。自動車の免許更新のために帰るという。娘は、就活のついでの帰省らしい。子供らにも間もなく4月だ。息子は新たな4年間の勉強の場所へと踏み込んで行く。親戚中を思い返してみてもこんな奴は思い当たらない。娘は4年生の総括の年になる。就職は今にもましてさらに厳しいことが伝えられる。それをずしりと負いながら、就活の海に漕ぎ出している娘に、霧晴れて港の見えてくることを祈ろう。更にもう一年しっかりと勉強してチャレンジするという報告も入った。身内への祈りばかりではいけないが、少しばかりこちらのことに重きを置きたい気分なった。28日、午前中の玄法院での祭典から戻ったら、お不動様への祈りの護摩を焚くのだ。

2010年3月23日Tuesday くもり
年度末異動内示。
午後の課長会議から帰った課長から年度末の職員の異動内示が伝えられた。5年を過ごした下部支所と僕もお別れになった。4月からは身延支所に勤めることとなった。どんな仕事が待っているのか今はわからないけれど、何とかこなしていかなければならない。身延は幼い僕が育った場所だ。波木井川の流れには、たっぷりと小学校3年生までを過ごした思い出がある。下部支所に勤務場所があることになったとき、友人の内藤君が中富の勤務になり、僕が下部に勤めることに不思議な感じがしたが、身延に勤めることにも不思議な思いがしたり、懐かしい場所を訪ねるような思いもしている。
年度末までに次の者への引継ぎもしなければならない。これがどうも苦手だ。教育委員会の異動の事務処理もしなければならない。残り一週間の支所勤めと、常葉の風景をしっかりと心に残そうと思う。

2010年3月22日Tuesday 晴れ
LED蛍光灯。
若い頃にこの集落の日蓮宗の寺にいたという、今は市川三郷町の妙学寺のご住職が、町を明るくしたいと、集落の街灯すべてをLEDの蛍光灯と交換してくれた。なおかつ、お寺も明るくしたいと、私の寺の外灯までも、新しいLED蛍光灯に交換してくれた。それから5年分に相当する電気料も負担してくれるというのである。今朝、庫裏、本堂、山門の外灯を、業者が新しいものと交換していってくれた。夕方それぞれが点灯した。ありがたいことである。誰にでもできることではない。でも、こんな風に、できる方ができることをやってくださることは、ありがたく頂戴することがいい。以前、お会いする機会のあったとき、ご住職は、「おじい様には大変にお世話になりました」とお話ししてくださった。 宗派は違っていても、同じ仏教徒として、根底に流れているものは交わりのあるものなのだと思う。感謝、感謝。

2010年3月21日Sunday 晴れ
大風見舞う。
朝方まで吹いて降った風と雨。バケツは飛ばされ、サクラの太い枝も何本か折れた。午前中も吹き荒れ、墓参の人たちも多かったが、風が吹いて大変だったよう。天野さん10時に来山して、建立した水子地蔵の法事を客殿でする。雨を予想して開眼は昨日しておいた。お地蔵様を立てたことを大変に喜んでおられた。以前、水子の位牌を作ったときも喜んでいたが今日はまた格別のようだった。お菓子やヤクルトを買い込んできてお供えした。陽の目を見ることなく亡くなっていった命のことは、いくつになっても忘れることにできない思い出なのだろう。お墓参りをして、「後はごゆっくり」と話して寺に戻った。家庭にはそれぞれいろいろな事情がある。僕のところもそんなことはあるし、檀家にだってまたそれぞれなのだ。いっぺんにたくさんの事を望むのではなく、できるときに一つずつ作っていったり、解決していくこともある。それからそういうことができるようになって来る時期というものもあるのだ。天野さんもこの時期を待っていたのだと思うと、この彼岸とサクラの風景は、また、忘れられない思い出になるのだろうと想像した。

2010年3月20日Saturday 晴れ
豊岡小閉校式。
よい天候に恵まれ豊岡小の閉校式。135年の歴史に幕を下ろすにふさわしい春の暖かな午前中であった。一部は閉校式典。たくさんの挨拶があり、最後に校長から町長に校旗が返納された。二部は1時間40分の児童の歌により学校の歴史をたどった。体育館いっぱいの人で溢れた。外のグラウンドの駐車場もちょうど満杯になり、地元の方々はもちろんのこと、春の連休を使って、墓参りと母校の閉校式に参加しようと、たくさんの帰省者もあったようである。式典後に同窓会をするという声も聞かれた。僕は校歌をうたうことはできなかったが、大合唱を聞きながら、一人ひとりの思いを想像していた。最後にステージの児童の「豊岡小学校ありがとう、さようなら」でフィナーレ。会場をなかなか離れられない人たちのかたまりが長く体育館のあちこちに残った。隣の公民館で昼食と、閉校式典実行委員会の解散会があって、その後片付け。PTAなどの大勢の手があり、午後2時半くらいには何もなかったかのような、静かなだだっぴろい体育館に戻った。もうここでこんなに大勢の声を聞くこともないだろう体育館。建物が生きているとしたら、声なき声で悲しみの震動をしていたのだろう。
学校が閉じるのは実に悲しいことだ。いつまでもそこに止まっていてはいけないのかもしれないが、今日くらいは皆寂しさを本当に寂しいといって酒飲んでいいのではないかと思った。

2010年3月19日Friday 晴れ
豊岡小の閉校記念式の準備。
結局一日このことで終わった。何か損をしたとか、デスクワークが先延ばしになったというような思いはなかった。40人に満たない全校児童の小学校が明日閉校になる。一昨日卒業式を終えたばかりの6年生が下級生を引っ張りながら、135年の歴史ある学校を閉じるため、一生懸命にそれに取り組んでいる姿勢はとても美しかった。合掌のステージの練習では、先生方も熱が入っているものだから、児童は余計に真剣になり、リハーサルの今日でも、涙を流してしまう下級生もあった。大人になると感動の新鮮さはなくなるが、こういう場面は申し分なくいい。明日はもらい泣きの一青窈になってしまうかもしれない。

2010年3月18日Thursday 晴れ
彼岸の入り。
春彼岸の入り。今朝は5時ちょっと前に起きる。さすがにこの時間はまだ暗い。本堂も冷えている。お勤めを済ませ、彼岸のための寺の用意。位牌堂前の廊下に、お参りようの焼香台・香炉を準備。無縁仏、歴代住職、頼まれていた塔婆を携えて墓地で経をあげる。ゆっくりと朝が幕を開けてくる。午後の遅い時間から天気が下り坂になるとか。
昨日、八田:長谷寺の小暮住職から電話があり、今日の「観音祭り」に予定していた方が出仕できなくなったので来てくれないかと頼まれた。今年は3月議会も終わっていたし、課長に話し、折り返し行かせてもらいますと返事をした。ご本尊の十一面観世音菩薩の祭典である。朝1時間仕事をして、午後帰ってから2時間仕事をするという綱渡りのような勤務をする。

2010年3月17日Wednesday 晴れ
歩く。
明日は彼岸の入りである。外のトイレを掃除。そんなに大勢の墓参があるわけではないが、僕に準備しておくこととしたら、使いたいとおもった人に気持ちよく使っていただける環境を整えておくことくらい。
朝の境内は特に静か。桜はあちこち咲きはじめている。エドヒガンの枝垂れも開花した。週末は見ごろになるであろう。桜の花ばかりではなく、進路や就職の花が開くことを祈る人たちは、この国にどれだけの数居ることだろう。サクラサケ!路頭に迷うことなく航行できるよう、小さな生き物たちの、ささやかな願いのその先を、香の先の灯りでも良し、照らし導きたまえ。法螺貝を吹いて連帯の呼びかけをする。

2010年3月16日Tuesday 晴れ
歩く。
午前中少し雨が残っていたけれど、昼前には上がり、昼休みは気温も上がりウォーキング日和。上着を脱ぐのを忘れて、途中から脱いで抱えて歩いた。風は少し強くこれがまた腹の底まで気持ちいい。年度末で周りが騒がしくなったり、学校関係の臨時職員の次年度の方向が入ったりで、少しバタバタしている。バタバタしているけれど、さて、この俺はどうなるのかというところがまだわからないので、どちらにハンドルを切ろうか決断できないのである。課長さん方の異動内示があったことを課長会議の報告で知った。

2010年3月15日Monday くもり
春彼岸もうすぐ。
午後からさぶくなったなと感じていたら、夜になって風が吹いてきて、雨が降り始めた。明日の晩に書こうかと思っていた何枚かの彼岸会の供養塔婆を、檀家からの電話でまた1本追加となったので書くことにした。書き終えて筆を洗いに外に出たら、春の雨が吹き荒れていた。庫裏の入り口の戸もびしょ濡れだ。塔婆を書きながら、家々の人たちのことを想像してみた。念願かなって水子地蔵を建立することになったAさん、これを楽しみにしているんだろうな。高槻のSさん、今月27日に次男夫婦と遠路来てくれることになっている。甲府のSさん、弟さんが亡くなってから2週間経って、気持ちは少し落ち着いただろうか。藤沢のWさん、電話で足を骨折したことを女房に話したそうだけれど、暖かくなれば経過もよくなるでしょう。後山のEさん、お義父さんの17回忌、お寺でも供養しておきます。従姉のY、さてさて3月も半分過ぎまして、どんな風になっているのですかね。気分転換に彼岸の墓参りってのもいいかもしれないよ。

2010年3月14日Sunday 晴れ
市川で柴燈護摩を。
山を背負っているので、入れば入るほど今回の雪の影響がわかってしまう。かなり片付けたと思っていたのに、杉の細いのが根元から折れていたり、椿やもみじはあちこちで枝を無残に落としている。市川三郷の西光寺の祭典に行く前にも2時間余り片付けに費やした。
11時過ぎに西光寺へ着き、松鶴院ご住職、瀧本院の玄聖師と再会。お二人に助けてもらいながら毎年の護摩を無事に焚き終えた。地元の方々も毎年これを楽しみにしてくれているようだ。祭りは今年で20回になった。僕も父から受け継ぎ、松鶴院さんも、初めの2回はお父様だったようだ。瀧本院は昨年から玄聖さんが祭りに来てくれるようになった。これから3人で何年やっていけるかわからないが、喜ばれるような法要を続けたいと思う。西光寺も、今年は後継の若い方が祭りに加わった。人もまた流れていくのだ。今年は強い風邪もなく衣への火の粉の害も少なく済んだ。袴の正面は穴だらけである。もう何年かしたら、西光寺祭典用に新調しなければならないかも。3月の祭りはホントに春を呼ぶという感が強い。よい祭りでした。

2010年3月13日Saturday 晴れ
法事あり、暖かい風吹く。
平山家の法事あり。東京、川崎からご親族10名来山。一時間ほど滞在してお帰り。こんな田舎までよく来てくださる。僕もしっかりとお勤めしなければいけない。お昼前少し曇っていたけど外のほうが暖かかった。お帰りになった後、強い風が吹く。春の天気は落ち着きがない。昼飯を食べて、甲府の華光院に向かう。鈴木僧正居られて、通夜にも葬儀にも伺えなかった非礼を詫びてご焼香させていただく。春先のこととて、各寺院で週末は祭典が多い時期なので、もう少しゆとりをもって葬儀をしたかったが、こんな日程になったのだとお話ししてくれた。来月の祭典にお邪魔することなど話して退く。帰宅後に雪折れの竹などを焼却。5時までかかって何とかきれいに。竹林のなかも、本腰を入れて片付けなければならない。これはもう12年越しの僕の課題。でもなぁ、なかなか進まないのよ。
法螺貝を練習して一日を終わる。明日は市川三郷町、西光寺の祭典。しっかりと務めるぞ。

2010年3月12日Friday 晴れ
我が母校は。
新聞で昨日の県立高校の合格者発表の学校別の定員数を見た。我が母校の身延高校は、普通科80人、理数科30人の110人である。3クラスしかない。これが上級学年も同じであれば、全校で9クラス、330人くらいしか在校しないということだ。僕が昭和47年に入学した学年は、普通科5、商業科4の9クラスだった。45人学級で405人、全校で1200人居たのだ。卒業して35年が経つ。この長い年月のことをしみじみと思ってしまうなぁ。生まれて生きたものにやがて死が訪れるように、学校にもその役目を終わりにする時期が来るのかもしれないな。来週の土曜には、豊岡小学校が閉校となる。どこかで生き方を間違えてきたような気もするが、それが何故いけなかったのか、今の風景など誰も想像できなかったのだ。よくわからない僕の頭だが、確かな現実が目の前にあって、その現実と並んで僕も今ここで生きているということだ。学校のことばかりではない。でも、決してここを悲しみの場所だと僕は思うつもりはない。数の多少で決めるべきものではないと思うからだ。

2010年3月11日Thursday 晴れ
気温上がれば雪解けも早い。
屋根の雪もほとんど落ちた。物売りの集団が列を成して歩いているかのような音で雪が解けて高いところから低いところへ流れてゆく。地下に沈んでゆく融水。教育委員の会議が昨日今日とあって、今日は最後に会食があるのでそれをまた夜迎えにいってきた。これも5回目だ。5年目の三月。というわけで少し早めに仕事を切り上げさせてもらった。帰って雪折れの竹を切ったり片付けたり。池の端の椿と山茶花も、太いところからバキッと折れていたので、ノコギリで枝を落とし片付け。本堂の賽銭箱の前に、屋根から滑り落ちた雪が30センチほど積もっていたのでスコップで片付ける。この4月小学校へ入る近所の女の子が一人で遊んでいた。5時半頃まで作業して今日は夕のお勤めも。本間龍演師の法螺を聞いたので、今日は法螺も吹く。我ながら今日のはよかったと。よく鳴る日と焦れば焦るほど鳴らないときもあったりで、この辺が僕のような俄かほら吹きとの違いなのだ。師は、いつだって、乙(おつ)音(低い音)も甲(かん)音(高い音)も、何のためらいもなく吹き分けることができる。もっと日々精進しなければいけない。夜増穂まで迎えにいき、各自を家に送り届け、今夜は飲まずにそのまま日曜日の西光寺の祭りのための準備。
葬式はまだ続いていて、昨日の朝の新聞で華光院のS僧正のお母さんの亡くなったことを知ったが、今夜と明日の通夜にも告別式にも伺うことができない。土曜の午前中のH家の法事が済んだら、午後甲府まで行ってこようと考えている。こういう年って初めてだ。残りの9ヶ月を想像するだけで震えがきそうな気分になってくる。

2010年3月10日Wednesday くもり
カーポートをつぶしてしまった。
ぶったまげた。こんなに降ってくれるとは。まさかの昨日の夕からの雪だった。小粒だったのでまったく呑気に夜を送ってしまった。昨日帰って竹林や周囲を見回って、竹折れもあることは認めていたが、今朝になって歩いてみて相当ひどいことになっていた。外の便所の脇にある女房の車用のカーポートが倒れていた。L字を逆さにしたような一辺だけを2本の柱で支える簡単なものだから、以前も雪の日には片方を竹で支えたりしていたが、昨日はそれをまったく思わずに、この重い雪でつぶしてしまった。つぶされたのではなく、こちらのミスでつぶしてしまったのだ。昨年暮れに母の車を廃車にしたので、2台止められる車庫に女房の車は止めておいたので、車への被害は避けられた。
重い重い雪で、竹折れもひどいものだ。朝眺めるだけで1,2本持ち上げたが、そのままで家に戻った。椿やもみじの枝も何本も折れて落ちている。
墓地の道を40分ほどかけて1本開けた。彼岸が来る。土曜には法事がある。道を開けておかないと、墓地は寒い場所なので雪が解けない。下着を着替えるほどの汗をかいて雪かき。これも楽しい修行である。
今日は息子の誕生日である。24歳になった。また来月からは学生を継続する。もう親のこちらも勝手にしやがれってな気分である。好きなことを、勉強したいことをできるかぎり応援しようと決めた。相模原も雪だったのだろうか。

2010年3月9日Tuesday
もう雨が落ち始めている。
いい加減にしてくれといいたくなるような春の天候不順だ。昨日も気温上がらず、今朝はもう池の面に雨が模様を描き始めた。場所によっては雪のところもありそうだとか。
まあ今は百歩譲って雨を認めることとしよう。でもな、14日の日曜だけは雨だけは降らせずに願いたい。市川の西光寺の秋葉山の祭典がある。火伏せのお祭りだから雨も有りかもしれないが、できることなら、雨なく外での護摩の修法を済ませたい。予報だけをみると晴れマークもあるので期待しているけど。
法印さんの葬儀のお手伝いをして布施をいただいたので、思い出を残そうと「伝説の立螺師 本間龍演の法螺(かい)」のCDを買った。腹の底に染み入る法螺貝をじっくりと聞いた。僕には修験者として生きる道も、僧として生きることも中途半端で終わりそうだけど、生涯を学びながらこの世界に置きたいと思う。法螺もしっかりと学ばなければいけない。

2010年3月8日Monday くもり
桜のことなど。
葬儀続きが実は今日もあった。隣町の教育委員長のご母堂様の葬儀があり、3月議会中のため教育長も課長も行けないので代理でご焼香してきた。さすがに今日は黒服で。
今朝はだいぶ寒かった。シャツを着ないで寝てしまったので、朝の着替えもお勤めも寒さに凍えた。山を見ると白くなっていた。雨の上がる頃に高いところは雪になったのだろう。
春は進んでいるので、早咲きの桜も梅もいい景色になってきた。父の植えた枝垂桜が1本あり、もう4m位のいい高さに成長していて、枝の垂れも一人前なんだけど花をつけない。咲かずの枝垂れなんて聞いたことがない。3年ほど前、女房と「花付けてないよなぁ、見たことないよなぁ」って話しになって、それから毎年春にはこの枝垂れを観察してきたが花は咲かない。葉は勢いよく茂るのだけど花は去年もとうとう付かなかった。それが今年の枝の先には、まだ素人の僕にははっきりとは断言できないんだけれど、花芽のような微かな桃色が見える。花を咲かせてくれるといいが、祈りつつ見守ることにしよう。紅梅の古木は、勢いがなくなって、花も少ししか付けない年が2.3年続いたが、棒状の打ち込む栄養剤を周辺に打ったら、去年、今年も花の付きが明らかに違う。栄養剤が効いているんだとしか考えられない。悲喜交々に展開する大聖寺の緑化計画の一端。

2010年3月7日Sunday
不動寺祭典。
一日雨は降り続いた。不動寺から帰る夕方になっても雨脚は強く、「いったいどうなってんだ?」っていう気分になる。23回目になる祭典。ちょうど僕が30歳のときに始めたお祭りになる。東京から赤井の叔母さん、貴永と一緒に上求寺のおじさん夫婦も来てくれた。お元気で会えることが一番。親戚であれば、言葉にしなくてもいい、相手の間や呼吸もよくわかる。終わって後をゆっくりといただく。不動寺が終わって、来月末は家のお祭りでの再会を約す。
今月は土日が、法事・祭典が後2回ずつ。千葉のMさんからも永代墓地建立連絡があり、こちらも何とかなりそう。雨はちょっともうお腹いっぱいだ。暖かい日差しの外を歩きたい。

2010年3月6日Saturday
葬儀あり。
天候は毎日変わる。暑さ寒さが寄せる波のよう。朝パワー忍者から長文のメール届く。彼の腰の調子も三寒四温で春になれば回復することを祈る。
S家の葬儀、午後1時から。午前中、諷誦文を考える。何とか間に合う。一時間かけて葬儀の一切。受戒も行いながら。終わって初七日のおとき。寒い日だったので僕は熱燗をいただく。1時間ほど飲んで食べてお話。七七日忌のことなど打ち合わせて散会。今週も忙しく終わった。お帰りの後、僕はトイレ掃除をしてこれPC。明日は不動寺の祭典。貧乏暇なしってのはよく言ったものだ。どん底の貧乏ではないものの、決して裕福ではない。でも、寺のことをしている自分は心裕福。

2010年3月5日Friday 晴れ
春は眠い。
今日は気温も上がった。なんかちょっと疲れ気味なんだけど金曜日を乗り切り。昼休みは清澤に行って、清澤寺の上にある紅梅と白梅の2本の梅の花を愛でてきた。今年は少し訪ねる時期が遅かったようで、もうだいぶ散り始めていた。それでもこの並ぶ紅白は美しい。3月には毎年、「これで最後になるかもなぁ」と思いながら眺めるのだ。今年もまた然り。栃代線の県道には、土木作業の人達が、道路の端に寝そべって昼休みをしていた。猫も軒端で寝そべっていたし、春は眠たい。昨日葬儀を終えた後、衣を脱いでお茶を一口飲んだら、僕はもう眠くて仕方がなかった。明日の朝は「春眠暁を覚えず」の眠りを貪ってしまおうか。

2010年3月4日Thursday くもり
葬儀終えて帰山。
東京の昭島で吉祥寺の中島和尚の葬儀の導師を務める。昨日の午後甲府駅から中島師のご親戚の小暮住職と上京した。ビジネスホテルへチェック・インした後、ご自宅での納棺にも少し立会い葬祭場へ。塔婆・位牌を書き、小暮さんと打ち合わせをして6時から通夜。古儀の醍醐派と、新義真言宗の智山派の小暮さんとは理趣経の読みが異なるので、あわせることができない。なんで同じ真言宗なのに、経の読みに差があるのか?勝手なものだ。通夜を無事務めて、東京の葬儀ではよくある通夜振る舞い。お酒とお寿司をいただく。ご遺族やご親戚の方ともちょっとゆっくりとお話。失礼してホテルに戻り、小暮さんと居酒屋へ。焼き鳥で1時間ほど飲んで引き上げ。
今朝は9時に葬祭場へ入り10時半から葬儀。今日は茨城からやはりご親戚の豊山派のご住職がお見えになり一緒にお勤め。醍醐からは滝本院ご住職が来てくれる。滞りなく終わり、お昼をご馳走になって、瀧本院副住職の車にて甲斐岩間まで送ってもらう。少々疲れた。帰ってきて荷物を片付けてから甲府のSさんのとこの葬儀の準備に入る。位牌・塔婆を書き、客殿や初七日の席のテーブルを準備したり。本堂を開けて夕にお勤め。それでもこんなことにとても満足した思いを感じる。

2010年3月3日Wednesday くもり
なんとこんなに忙しい春なのだろう。葬儀は続く。
八日市場の今朝は曇っている。重たい空の下で少し抑えられたような気分だ。ゲコゲコと、自らの営み以外に責任のないヒキガエルの鳴き声が白々しい。昨日は朝から思いがけない連絡を受けたりでとても忙しなかった。職場では臨時職員の採用面接会を午前中済ませた。臨時職員とはいってもこういう公的機関の採用なので、リストラされてなかなか次の仕事への道の開けない人たちには関心が高いことがよくわかった。皆真剣であった。
面接開の準備をしていると携帯に滝本院のご住職から電話。一宮の吉祥寺のご住職が亡くなられた事が伝えられ、葬儀に行ってもらえないかということであった。予定を見て何とかなりそうなのでOKの返事をして、昼休みに詳しく話を聞くこととした。結局話は次のような展開となった。山梨にご親戚の寺院もあるが、吉祥寺が醍醐派の寺であるため、醍醐に導師を務めてほしいとの希望で、僕と滝本院が葬儀会場の東京昭島へ出向き、導師を僕が務めることになった。4日の10時半からの葬儀のため、当日向かうには余りも時間がなさ過ぎるので、前日から行って通夜に出て、故人のことも少し伺いと思った。故人とはそんなに深くお付き合いがあったわけではない。故人もまた半僧半俗の人であり、通常の住まいは東京にあった。
久しぶりに12時過ぎまで起きていた。諷誦文や次第の流れを考えたり、一緒に行くご親戚の長谷寺のご住職と電話で連絡取ったり。何とかなりそう。でもこれだけでは夕べは済まなかった。帰宅後、荷造りをしていると甲府のSさんから電話が入り、横浜で一人暮らしをしていた弟さんが亡くなり、火葬を明日(3日)横浜で済ませるので、葬儀を頼みたいとのこと。日曜は叔父の寺の祭りがあるので、土曜の午後1時から寺で葬儀をするということで話を受けた。大忙しである。仕事を休むことが続き、ちょっと気が引けるが、もうこれは僕の役割として乗り切ってしまうほかない。よい葬儀のために今日出かける。

2010年3月2日Tuesday くもり
その行為はさほど国家に影響を与えるというような行為ではないにしても...、祈ること。
客殿から本堂へ行くにはいったん外に出なければならない。厳寒期を過ぎたのでこれも苦にはならなくなってきた。早暁の池からヒキガエルの鳴き声が今朝初めて聞かれた。夕べの雨が上がって、今朝もあたたかな朝だ。うっすらと夜が明けていく時間の流れを、僕は厨子の扉の向こうにおわすお不動様と向き合いながら、一心に経を読む。「何もできんけど、俺には読むことしかできないっすよ」みたいな、毎朝毎朝僕は新発意の気持ちで向き合う。
地球の各地で大きな地震が発生して、甚大な被害を被っている。働きたくても働けない人たちが町にあふれている。娘の就職のことも気になるが、まだまだ彼女の思いなどと、一家の大黒柱が路頭に迷う人たちの切なる思いとは比べ物にならないだろう。新しい旅立ちのときが「不安いっぱい」ではなんとも悲しい。大きな光につながる世の中であって欲しいと願わずにはいられない。そのためにも僕は小さな田舎寺から、毎日祈り続けるしかない。

2010年3月1日Monday 晴れ
3月1日は高校の卒業式だ。俺にもこの日があった。
また夜になって雨だ。昼休みは久しぶりに日向山の墓地の上までのぼった。3月に入ったので、シャツを着ることにして、ダウンも脱いだ。歩きは腕まくりして汗をかきながら、気持ちのいい少し強い風を受けながら。南向きの土手のタンポポの黄が鮮やかによかった。月初めの伝票をたくさん処理して一日終わり。今夜は統合する学校の統合に向けた準備会の最後の集まりがあった。1時間ほどで終わる。昼の暑さは嘘だったかのような雨が夕方から降り始めた。三寒四温というのか、三歩進んで二歩下がるというのか、一日ゆっくりと一歩というのか。会議に行く前ちょっと家に帰って、法事の塔婆を書いたり、切り物をしたり。時間を大切に、済ませられるときに事を済ませて片付けていくのが僕流。9時ちょっと前に帰宅。カレーの晩御飯を食べて、これを書きながら、月曜のお楽しみ「吉田類の酒場放浪記」。飲まずとも飲んだ気分。いいですなぁ。

2010年2月28日Sunday晴れ
午後暑い日になる。
午前中で雨が上がり、午後からは天気がよくなり暑くなった。午前中早い時間に護摩を焚き、11時前から護摩壇を片付けながら本堂の掃除。2月最後はお不動様の日。気持ちよく片付けと掃除を終えお昼。樒を荘厳するのはゆっくりしようと思いながら、WOWOWの映画を見始めたが、あまりにも天気がよくなってきたので本堂のことを済ませてしまってから、富士川の土手へ野竹を取りにいく。天気が良かったら行こうと思っていたが朝から雨だったので、来週にしようと思っていた。でも半袖でもいいような気温の高いいい天気になってきたので、富士川もいいなと出かけた。野竹は3月14日の市川三郷の西光寺の祭典の幣串にする。野竹を切って、割って、それから護摩木も少し割り、以前から気になっていた石畳の三つの石の歪みを、スコップとツルハシでもって整える。汗をかいて、満足な気分。早めに夕のお勤めに行くと、都留の月参りのTさんご夫妻ちょうど来山。頭を刈ってからだを洗って、井上陽水見ながらAsahiクールドラフト。
上求寺の貴永からは次のようなメールが届いていた。「春祭典です。一人祭典も3度目の2月28日です。朝から祭典のお参りにみえる方々やお札の依頼やらで登るのが遅くなっていました。隣の山の木が切られ、雨による土砂が参道に流れ込んでしまい、道が山に返ってしまうカ所もありました。それでも法螺とともに登りいい汗かきました。昨年よりお守り下さる梵天様、五大明王様の力を頂きながら祭典とご祈願勤めました。来年こその思いを噛み締めています」。離れてはいても、我らの心はひとつぞ!の思いする夜である。

2010年2月27日Saturday くもり
ゆっくりゆっくり、だな。
雨は随分と降った。今日は一日雨だと思っていたのに、午前中雨が上がって少し陽も射してきたので、参道の溝の掃除をする。底のコンクリートがもうほとんど剥げてしまって、土が見えているので溝に草が生えてきている。乾いたときには取りづらいが、こういう雨上がりの時には容易に根こそぎ取ることができるのでチャンスである。1時間半ほどかけてきれいにした。一輪車に山盛りいっぱい。これでお祭りの頃まできれいでいられるんじゃいかと密かに期待。雨上がりを女房はフキノトウを採りに。小笊に一盛り採ってくる。椎茸ももうちょっと待っていたいのが6個ほど生っている。こちらも楽しみだ。紫ツツジの花が一つ膨らみ始めた。午前中二人ともそれぞれ稼いだ。お昼ご飯になったらやっぱり雨がまた降り始めた。女房は急いで洗濯物を取り込み、僕は炬燵の脇にごろんと寝転んだ。マオちゃんがヨナチャンがもなく、寺の日。彼岸の法要の案内のはがきも印刷して、如月の月にもバイバイ。カレンダーめくったら、なんだかきっちりとけじめつけなきゃななんて気持ちが湧いてきた。
娘の県内の企業面接一発目は、今日通知が届いて残念ながらの結果。まあぼちぼち、ゆっくりゆっくりな。

2010年2月26日Friday くもり
スーホの白い馬。
甲府のエルクで、「スーホの白い馬」の朗読と、馬頭琴の演奏会に行ってきた。この物語は、モンゴルの楽器馬頭琴が生まれることになった伝説をがベースになっている秘話である。午後7時開演の会場にはおそらく100人以上の人。子供も大勢。エルクのスタッフもこの盛況にはだいぶ驚いていたようだ。「こんなに子供が店に来たのは初めてだ」とも。僕たちは開演の3分ほど前に何とか到着。始まった。モンゴルの衣装に身を包んだ語り手が、モンゴルの草原をイメージさせるインストルメンタル曲をバックに、絵本を広げながら語り始める。時にやさしく、時には大きく身を震わせながら感情いっぱいに物語を伝える。帰りながらの道で考えていた。タイトルの「スーホの白い馬」のとおり、スーホに拾われ命を助けられた白い馬には、「名前がない」。普通は大体名前があって当たり前なのに何故だろうと考えた。この物語の作者はスーホの白い馬に意図的に名前を冠しなかったのではないか。観客の大人や子供をグイッと物語の感動世界に引き込んでいく語り手の伝えたいことを勝手に想像してみた。スーホの白い馬は、どんな人の心の中にもあるもので、それは自由に想像して膨らませていっていいもので、子供は子供の純粋な心の中で涙を流して、自分の胸の内で「白い馬」を大切にしたらいいのだろうと思った。女房にも「白い馬」がきっと見えたに違いない。店の商品を移動させて、ボランティアのようなこの催しを開いてくれたエルクのスタッフにも「白い馬」が見えたのではないか。「息子から電話が会の途中にかかってきてたようだけど、出ることができなかった」と、女房に従姉は帰り際に伝えたという。彼女も今の彼女の心のうちにある「白い馬」のことを思ったことであろう。
妹と話すことはなかった。朝から妹とその友人の馬頭琴奏者に随行していた亭主とも、わずかなやり取りをしただけだったけれど、二人が望む思いが伝わったような気がした。

2010年2月25日Thursday 晴れ
はるいちなんだろうか。
午後から風が強い。富士川をゴーと這い上がってくるような冷たくて強い南風。中学生を乗せるバスが都合悪くなったので、ワゴン車の運転をしたので、済ませたら少し早く帰ってこられた。夕のお勤めもできて、本堂の扉を閉めるとき、風が強いので、扉を閉めるのに少し手間取った。福寿草と節分草の間に、寒さ除けの落ち葉を少し厚く敷き詰めてやった。陽が伸びてきたので、外のことをする時間が長くもてるようになった。新聞代の集金に来たAさんの山門のケヤキ脇に停めた自転車が風で倒された。今日は少しだけ皆早足だ。
春の風を歩くと、毎年、西岡恭蔵の歌を知らぬうちに口ずさんでいる。1999年の4月に彼は、さっさとこの世に見切りをつけて、春風に乗って去っていってしまった。

2010年2月24日Wednesday 晴れ
寒さは緩むが就職は厳しい。
今朝のお勤めは、娘の面接試験の滑らかなることをチョイトお祈りする。最近は朝の明けも早まり、昼も長くなった。朝の冷え込みも辛くはなくなってきている。外の水道も水を落さなくてもそろそろいいかもしれない。2月はもう今週末で終わる。
帰ってきてから「どうだった?」と訊くと、特にコメントも内容であったが、やはり受験者は多いようで、集団面接だったらしい。これが1次審査となり、改めてまた試験になるようだが、次に進めるのかどうか。テレビや新聞からばかりでなく、実際に子供の就活を眺めているだけでその厳しいことがよくわかる。
教育テレビ「知る楽」の高田渡特集の最後の4回目が今夜で終わった。彼の生き様の最後は、ホントウの芸人(唄うたい)のように、しっかりとステージを務め抜いて、病に倒れて逝ったのだということがよくわかった。生きている場所は違うことはわかっているが、そういう精神を僕も保ち続けたいと思う。これが僕の生き方なのだということを貫けていけたら素晴らしい。

2010年2月23日Tuesday 晴れ
就職活動。
地元企業の就職面接を受けるために娘が帰ってきた。正月以来なので久しぶりである。いま部屋を借りて都内で就活中なのだが、今のところは特別な進行はないようだ。4年生の就職も困難な状況のようで、こういう時代にぶつかってしまった子供たちの不安を思うと、何もしてあげることのできない力不足を恥ずかしく思うばかりだ。
年末に帰宅したときに車の中でかけていた森田童子を「いいね」といっていたので、CDを用意してあげた。こんなことでも力にはなるか?
どうやら暖かくなって、花粉も飛び始めたようだ。花粉ばかりではなく、彼女たちが大きくはばたいて飛び立ってくれることが親としては望みなんだが。

2010年2月22日Monday 晴れ
JAフルーツ山梨やすらぎホール。
フルーツ山梨なんて、香ってくるような名前だな。葬祭ホールもフルーツの名のように甘い香りになるだろうかと期待したが、そこはそういう訳にはいきませんでしたな。しっかりと香のかおりが漂いました。2時間仕事をして6時間の時間休を貰い葬儀へ。今日は10度を越えて日中は暑いくらい。向かう車中も暖房を切った。盆地の360度の景色と青空がよかった。今日は日蓮宗の今日の載った本を持参したので、僧侶方に合わせて小さな声でお唱えすることができた。途中、叔父と僕には、祭壇での焼香を案内していただいた。日蓮宗の僧侶ではないが、波木井育ちの僕には、ひょっとしたら、日蓮宗のお経が幾分染み付いているのかもしれない。日蓮宗のお膝もとの人たちは、僧侶がいなくても葬儀ができるくらい、皆日常に経がある。それと、経本を読む術というようなものが備わってきているのだ。読み方やテンポなども、大体感覚でつかめてしまう。初七日も、僧侶方の隣に座らせていただいた。叔父と今日は少し話すことができた。帰りに、上求寺の叔父叔母に挨拶。二人とも「泊りがけで出かけて来い」と、いつも僕を気にかけてくれる。ありがたい。自分たちの健康のことを心配するのが一番なのに、僕なんかのことより。赤井の伯母さんにも挨拶。陽の長くなった土手道を一時間少しかけて帰ってきた。夕のお勤めをして本堂を閉め、衣を脱いで、一日ご苦労様でしたと褒美の酒の時間。Rod Stewart のSoulbookというアルバムを聴きながら。

2010年2月21日Sunday くもり
法事、通夜。
午前中に法事一件。土日と朝の冷えがあって、池も氷が張った。いささか寂しい七七日忌で、他にもきょうだいがいるということなのに、葬儀のときから、ひとりの妹とひとりの甥が務めた。今日も然り。この二人も決して積極的に関わりたいわけではなく、他に“姉”“伯母”の葬儀を仕切る者がいないのでといった風。こういう葬儀は、寺としても僧としてもなかなか厄介。それでもこちらのやることだけはやって、無事七七日忌まで終える。ただ無頓着にもほどがあるといっては失礼かもしれないが、墓参の線香さえ持参していなくて、女房に「忘れてしまったので、ください」で済ませてしまったらしい。
午後4時半過ぎに家を出て、女房と塩山市の葬祭場に向かう。所ちがえば色々で、ここでは通夜の記帳が求められた。親族の末席に座った。隣りには叔父が。叔父はそうでもないのだろうが、僕はこの親戚の方々のほぼ9割強を「知らない」のだ。いくらかの場違いな落ち着かない気持ちながら通夜に臨む。勝手に想像して、「禅宗」の我が家の宗教という本を持参したが、予想が外れ日蓮宗だった。明日はこの本の「日蓮宗」を持っていかなければ。叔父と僕と、僧形のふたりが親族の中に座るということは、親戚の皆さんにとっては嬉しいことなのかもしれない。僕も在家であったら、お坊さんが親戚にいるのはなにか“ありがたい”という気持ちになるだろう。代表で僧侶になったのかもしれない。家の中で誰かひとりが出家して、それを親族が皆で支えるという図なのかもしれない。
帰り道、コンビニで弁当を買って遅い夕食をとった。明日また僕だけは葬儀に参列。

2010年2月20日Saturday 晴れ
50年目の命日。
女房のお父さんの命日のことは何日か前に聞いていた。去年、4姉兄妹で50回忌をしたのだった。だからちょうど今日でなくなって50年が経ったことになる。親爺さまのブログに塩澤寺の厄除け地蔵尊のことが書いてあったが、この亡き義父は、厄除け地蔵に参った直後に、雨畑への配達途中で落石に遭い、2月20日にあっけなく逝ってしまったのだ。一番下の女房はわずか3歳であった。大日如来の世界の出来事は、時に非情と思わざるをえないこともある。諸行無常を生きながらえて、高校のクラスメイトであった僕たちは、その10年後に再会し結婚した。この出会いも、ひょっとしたら非情だったり無情の出会いであったかもしれない。お義父さんの命日、僕たちは53歳である。息子は3月に24歳、娘は21歳。長兄と墓参を済ませた女房の心を訊こうとは思わないが、もしなんか話しが出たら静かに聞いてやろうとおもう。
午前中はからだを休めた。午後は護摩木を割り、外の仕事。頭も刈る。母の言動や行動は、ホントウなのかウソなのかわからないことが多くなってきた。生きていること、生きていること、生きてゆくこと、いのち生かされていること、果てない疑問符のような。

2010年2月19日Friday 晴れ
死んでいようが生きていようが思いが同じならばこれもありだろう。
「皆様の美と健康に、甘くて美味しい愛媛みかんはいかがですか」と連呼しながら、どっさりとみかんを荷台に積んだクルマが清澤を流していた。ひっそりと静かな集落は、そのクルマ到着を心弾ませて待ち構えているようなことはなく、どん詰まりの道辻でスピーカーからの明るいエンドレスな口上と裏腹に、めんどくさそうにハンドルを切替す運転手の浮かぬ顔だけが印象に残った。これを書きながら思い出した。春先のことだったかはちょっと定かでないが、金魚売りの声が聞こえると、僕はもう居ても立っても居られなくなって、母方の祖母から金を無心すると、山門から参道をまっすぐ走って、まだ遠くに居る金魚売りを待ったものだ。買った金魚は大抵育ったためしはなく、また次の機会に同じように僕は金魚売りの遠い姿を待つのだった。
祖父の配偶者、父の母の実家の、父の従弟が亡くなった。そう長くはないだろうことを知らされてはいた。父の亡くなった後、その方とは叔父の寺で何度か会うことがあった。新年になってから檀家の葬儀が2件あり、法縁の寺の葬儀、親戚の葬儀とこんなことが続く。今日歩きながら、上求寺の叔父と電話で話し、月曜の本葬に参列する旨伝えた。祖母の実家との縁も、この辺りで区切りとさせてもらおうとも思う。これはお互い様である。新しい縁はまた別にそれぞれに生まれてきているのだ。「永城さん(祖父)が、こういう親戚付き合いを一手に引き受けてくれていたんだな」と懐かしく思った。祖父は、自分の生まれ在所に出かけるのだから、こちらの縁は楽しみだったろうし、自分が皆のまとめ役になってやらなければならんという気持ちも強かったろうし、とても大切にしてきたことだと思う。もう少し父が生きていてくれたらなぁと、仕方のないことを悲しんでみたりもする。また、頭に閃いた。いつか祖父の縁者の大事な場所に献花するときに、「永城・永知・永明」のあの世とこの世の時空を超えた連名で供えてもいいかもしれない。

2010年2月18日Thursday 晴れ
雪のち青空。
昼前には久しぶりに熱のある陽が射し、朝の雪の風景もあっという間に消え去ってしまった。空は青鮮やかに晴れ渡り、弁当の後のウォーキングは僕も久しぶりに汗ばんだ。こんな天気がやっぱりいいな。
午後からは、新年度からの新会計システムの説明会。わからないことも多かったが、実際をしながら覚えていくしかないだろう。今のシステムは20年使っていたのだという。なるほどな、日進月歩のこの世界から見たら、20年はいくらか足踏みになっていたのかもしれないな。
従姉から伯母の明日の命日に塔婆供養をしてくれとメールが入っていたので、帰ってきてから塔婆を書いた。明日の朝供養することとする。今夜またこれから学校統合関係の会議がある。昼の暖かさが、今夜の冷え込みを呼んでいるのかもしれない。それにしても今日の夕方外を眺めたら、随分と陽が長くなったなと感じた。心細く思いながらの帰り道とも間もなくサヨナラだ。従姉も僕も伯母の逝った年齢と同じになった。安心や楽しいと思う日々には程遠いように感じてもいるが、でもまあ、そこそこに生きている。子らのことを思いながらまだまだ僕たちは、伯母ちゃんのような潔いサヨナラは言えないんだ。もうしばらく、この世にしがみついているよ。あなたの孫らに大きな春を呼び込んでくださいな。

2010年2月17日Wednesday くもり
一日気分悪く過ごしてしまった。
休み明けの出勤日には、思いがけない出来事が待っていることがあったりする。こういうのって不思議なんだよね。始業過ぎにI町の教育委員会から電話が入り、またもや教員OBの死亡に関しての栄典事務の連絡であった。死亡された方やその後遺族には別段こちらからのコメントはないのであるが、上部機関のこちらへの対応に一日腹立たしかった。まさに自分たちの身を守らんがためというのか、ダメ押しの連絡までこちらの上司にまでしてくる。いい加減にこちらも電話の応対で切れた。「じゃ、あなたのところへ先方から電話をするようにお願いしましょうか。」「いや、それは私たちの仕事ではないので結構です」って?、ほんじゃ、黙ってこちらからの報告を受け入れたらどうか。
如何ともしがたいことがある。そういうことじゃないのかと思う。誰もこの内容を解らんと思うけど、僕だけが解ればいいことなんだ、おわり。

2010年2月16日Tuesday
今日も雨。
朝からまたしょぼしょぼと雨。こんな天気がもう一週間近く続いている。いい加減に腐る。女房はまたコインランドリーへ乾燥機にかけに持っていくのだと話す。出かけるまでの時間をステレオ周りの整理。テープデッキもDATも取ってしまった。多分全部動かない。アンプとCDプレイヤーとMDデッキだけになってすっきり。もっと早くに手を付けておけばよかった。
10時半集合で葬儀会場に行く。僕以外は全員が高野山真言宗の方々。宝寿院の先代の住職が祖父のいとこだったという法縁によって僕も末席に加えさせていただいた。法善寺のご住職とも久しぶりにお会いする。お父様の名誉住職が本日の導師。故人と同い年で93歳になるという。矍鑠として声もよく通り生涯現役僧侶であるのだなと思う。通夜よりも大勢の式衆で、お経もとてもよかった。ここに醍醐は僕一人なのが不思議であり、帰り道はなんだか忘れられた寺の住職であるかのような、少々落ち込んだ気分にもなる。天気のせいだな。そう、天気のせいだ。嘆いても仕方がない、仕方のないことを考えても仕方がない。僕は僕の道を進むのみだ。

2010年2月15日Monday くもり
通夜に行く。
市川の宝寿院のおばあさんの通夜に行ってきた。月曜の今日も一日寒い日。朝からの雨はお昼近くには小康状態となっていたが、とても外を歩くような気分にはなれなかった。3時間の時間休と明日の休暇をもらって帰ってきた。通夜に出かける前の時間をステレオ周りの掃除を始めてしまい、結構大掛かりになって片付けるものは取り外して処分することとした。チューナーもタイマーも外し、ビデオデッキも必要ないので取り外した。さっぱりと片付いた。綿のような厚い層になった埃が大量にあった。
5時過ぎに出かけてJA西八代のクリスタルホールへ。光勝寺さん始め市川の僧侶方と会い、そのまま会場の席に着かせていただいた。通夜の法要は、宝寿院のご親戚や弟子の方たちによって執行されていた。相当な弔問者があり、6時からの通夜が終了したときには7時20分になっていた。久しぶりに大勢の中で経を唱えて気持ちがよかった。普段は一人だし、最近の葬儀は3人が多いので、読経がホールに響くというのは味わう機会が少ない。僕自身も故人のように、経を堪能させていただいた思い。明日の本葬もちょっと楽しみ。

2010年2月14日Sunday くもり
今日も結局気温上がらず寒い日。
今日は天気がよくなりそうだと早起きをして午前中早くから護摩木を割る。陽も出てきたので、気温も上がってくるぞと期待していたが、お昼が近づくにつれて尻つぼみで、結局午後からはまた寒い曇りの日となった。お昼ごはんの後、冬季五輪の女子モーグルの上村愛子を応援するも結局4位に終わり、メダルに届かず。でもこれは明らかに3位と4位の差が素人目にもわかったので仕方がない。一発勝負の世界は、いくつもの番狂わせもあって、時の運のようなものを感じた。でも4年に一度しか機会のない五輪のメダルは何物にも替えがたいようだ。
テレビを消してから墓地を見回り、供えてある花の枯れたものを片付けたり。女房はたくさんのフキノトウを探してくる。今夜は天ぷらとフキ味噌で一杯だ。

2010年2月13日Saturday くもり
久しぶりにお出かけを。
土曜の朝はゆっくりと。今日もどんよりと落ち込んで天気が悪かった。女房は溜まった洗濯物を、昨日から決めていたようで、飯富のコインランドリーへ持ち込んで洗濯をしてきた。洗いから乾燥まで済んで、一時間後の終了時間を見計らって持ちにいき、満足げに帰ってきた。
僕は午前中、梵字の本を繰って少し勉強をする。11時過ぎに出かける。エルクで女房が新しいウォーキング用の靴を買いたいとのことで。エルクのヒトシさんに靴を見繕ってもらいながら、自然写真家の牛山さんという方の話を聞き、来週エルクである馬頭琴と物語の朗読会への誘いも受ける。僕はベルトを一本買った。以前ズボンを買ったときに、ベルトを買ったのだが、切って調節できないベルトで、異状の長いもので、とても穴を開けるにもひどくなってしまいそうで、女房に「だから、ちゃんと手にとって巻いてから買わないからでしょ」と叱られた。実はその前に、夏に、エルクで買ったマムートのキャップも被ってみずに買ったので、実は坊主頭の僕にはサイズがちょっと大きかったのだ。僕はどうもこの辺のところのことが分かっていない。帽子やベルトなんて、大きさの違いがあるなんてことまったく考えていなかった。今日のベルトはしっかりとしっくりときました。

2010年2月12日Friday くもり
掛け時計。
部屋の掛け時計が動かなくなってしばらく放っておいたが、先週外して処分した。時間が気になるとどうしても柱の上を眺めてしまう。やはり不便だ。動かなくなったのは近頃流行りの電波時計というヤツで、自動的に時刻修正を行うという優れものだが、うちで買ったのは初代、2代目とも一年くらいで動かなくなってしまった。当たりはずれがあるのか、女房がまたどこかで買ってくるというので、Amazonで捜してみようということになった。売れているという時計を見たら、カシオのアナログ時計が2,100円→980円。アナログでいいということになり、送料も無料。カード決裁して、もう翌日の昨日の午後には時計が届いた。便利で迅速なAmazonさん。朝見上げると、そこには働く時計が時間通りにいい仕事してくれてました。
今日も天気悪く寒い日であった。

2010年2月11日Thursday
無事に送る。
朝から少し雨。一日こんな天気で終わった。葬儀は無事に死んだ。火葬場は三つの火葬が入っていて人も大勢。寒かったので、火葬の間に喪主とMasa○っちゃんとワンカップを4本飲む。息子と同級生のTくんは、最近に本当の収集に凝っているとのことで、うんちくも拝聴する。なかなか面白い。
不動寺の叔父さん永啓を迎えて3人で葬儀。安心のトリオである。宝寿院のおばあさんが亡くなったことを知らされる。来週の火曜の葬儀とのことで、ここにも行かなければならないだろう。初七日を終え、お話をして帰ってくる。あー今日は祝日だったのだと、ボーっと思いながら酒を飲む。BSで井上陽水を見ながら飲む。
ご遺族から、よいお話をありがとう、よい戒名ですと、こういう言葉は嬉しい。

2010年2月10日Wednesday くもり
さば味噌はいい味なんだけどなぁ。
6時からの通夜の導師を務めて帰ってきた。祭壇を向いているので、通夜への参列者がどのくらいあったのかはわからない。温風が真上から落ちてきて、終盤には汗ばんで、頬を汗が伝い始めた。こういうのって困るんだよな。僕だけのことではないので。暑いのとか寒いのって、何とか平均に身体で調整できるようにならないもんかね。司会の女性の方は昨年の秋の葬儀に一度一緒になっていた。で、そのときに疑問に思っていたことをストレートに彼女に質問したら、こちらの誤解であったことが確認できた。事の発端は、ア○オセレモニーホールの職員にあるようだ。アピオといえば、今日も控え室に入ると、青いスリッパが1足、赤いスリッパが5足用意されていて、前回、これはおかしいんじゃないか?と進言したのに、まったく聞き入れた様子もなく改善されていなかった。通常、僕の寺の葬儀に限って書くと、導師が緋の衣を着る。導師以外の助僧は紫を着る。なので、スリッパは、導師用の赤は1足でよい。逆に青のスリッパが複数必要なのである。紫の衣の人が赤いスリッパを履くのじゃ変だろう。これを前回説明した。おそらくどの宗派の僧侶もこの件に関しては同じではないかと思うのだが、「私たちには解らないんです。本部が決めることですから」が今日の応えだったが、そんなこんじゃ、いつまで経っても改善されないわ。怒る気もなれなかったが、食事のさば味噌だけは今日も外れなく美味かった。ア○オで認めるところは僕の中じゃ、伯○さんとさば味噌だけだ。

2010年2月9日Tuesday 晴れ
戒名を付けることにもひらめきを僕は大事にする。
勤途中をSさん宅へ寄り飯幡を渡す。少し雨が落ちたような朝の土。出勤すると隣の席のNは、昨日からの山火事への出動の続きであるらしい。僕は今日の仕事を午後2時半で切り上げることにして、昨日の会議の会議録をとりあえずのこととしてイヤホンの人となる。聞き取りながら議事録をつくり、平行して細々としたことへの対応などなど。天気が下り坂のようで、寒さはひと段落。これは今の時間(19:25)も同じ。今夜は暖房器具を使用していない。
帰宅後に塔婆、位牌を書く。故人の戒名は夕べから考えていて、眠りにつきながら、朝方に目覚める中でほとんどできあがってはいた。後は、参考書を見ながら、字の使い方や、これでいいだろうかとか確認する作業が残っていた。でも、ほぼ夢の中での戒名をベースに決めることができた。満84歳で亡くなった故人は、丑年生まれの方であった。今年は丑の後の寅で、故人はちょうど十二支を七周したことになる。節分・立春から数日経ったばかりで、「節」という字が今回の戒名を付ける鍵となった。よい戒名が付けられたのではないかと自分では思っている。後は明日、諷誦文を作ればなんとかなりそう。しっかりと務めたい。

2010年2月8日Monday 晴れ
また檀家に葬儀だ。
午後から定例教育委員会。4時45分頃までかかる。途中Mさんが連絡に来て、「奥さんから檀家の方が亡くなったと知らせがありました」と。終わってすぐに電話すると、伊沼のSさんとこのお母さんだった。書類を片付けて急いで戻り、着替えて枕経に向かう。静かに穏やかそうに85歳の媼は眠っておられた。経をあげ、組の方たち、葬祭センターの方と日取りの打ち合わせ。11日の葬儀と決める。ちょうど祭日だ。昨年の秋から葬儀が4つ目。今年に入って2つ目。高齢の方が多いってことか。また葬儀になったっていう感想は、檀家が寺のある地区の内外併せても50軒に満たない寺だからだ。
カレーの匂いが脳を刺激してお腹が減ってきたので夕食を済ませ、7時半からの学校統合の説明会にも間に合った。9時前に帰宅でき、先週は見逃してしまった「吉田類の酒場放浪記」を見る。今夜は休肝日とする。頭の中は、戒名のことをいろいろと考え始めている。

2010年2月7日Sunday 晴れ
何とかなって欲しい。
寺の蝋梅もひとつふたつ開き始めた。今朝は池に氷が張った。自動車のオイル漏れかもしれないの再チェックに10時にミツビシの営業所へ行く。点検の後、直接僕も説明に臨んで問題ないことを確認。甲府盆地に入るこの辺り、午前中にもかかわらず今日はひどい強風。たまらんなぁ。
家に帰って、洗面所のパイプの詰まりを掃除する。髪の毛が絡まって詰まっていた。きれいに取り除き、久しぶりに渦を巻いて気持ちよく流れる水の行方を追いかけた。何でもないことのように思われるかもしれないけれど、僕みたいな変人は、こんなことがずっしりと気になって、重くのしかかって、気分がほとんど深度300メートルのような気分になってしまうのだ。
千葉のMさんから電話があり、マンションの買い手がつき、永代供養墓をここに建てたい旨の連絡がある。僕はいつでもいいですよと応え、午後、飯富の望月石材店へ相談に出向く。「○○万円くらい出せますか?」と問われて、「うーん、どうでしょうかね、本人に連絡とって確かめます」という話しで今日は終わる。きっとでも何とかなるのだと思いたい。頭を刈って一日終わり。

2010年2月6日Saturday 晴れ
支所日直。
下部支所の日直だった。異動になればこれが最後の日直になるのかもしれない。土曜の朝はゆっくり寝ているのだが今朝は通常の起床。夕べ、S小の学校統合の説明会を半年振りに再開し、相当辛らつなご意見を拝聴してきたので、いささか体も重かったが、日直をずる休みするわけにはいかない。
今日は、電気の点検業者以外は死亡届もなく、職員の訪れもなく静かに過ぎた。3月の西光寺の柴燈護摩と、4月の寺の祭典のための幣やシメなどを切って準備を済ませた。日直ってのは起きていなければならないので、必然、時間を有効に使う必要がある。宿直は、頂点に達したら睡眠をとるので、飲むしかないような気がする(昔は)。だから、支所の日直は僕にとっては大変に貴重な一日で、おそらく僕ぐらい日直を充実して使う職員はいないんじゃないかなと思ってしまう。使っている時間にしていることは寺の仕事のことだけなのだが。
帰ると、西光寺から3月14日が祭典である連絡があったと女房から伝えられ、助法を頼む松鶴院と滝本院に連絡する。不動寺からも3月7日が祭典である旨の連絡が入る。いよいよ春だなぁ。なんとなく心弾むって感じだなぁ。

2010年2月5日Friday 晴れ
定期受診。
「お正月はお酒をたくさん飲みましたか?」なんてさりげなく探りを入れながら、女医の定期診察が始まった。「足は痛くありませんでしたか?」「一錠で済んでいるので頑張ってますね」なんて、励まされているのか?「ハイッ、上にあがります」なんて声かけられて、ちょうどいい高さで触診。「膝を立ててください」と聴診器。「次は4月ですね。次回は血液検査しますから」と、こちらが今回は血液検査がないことを承知で不摂生していることも全部お見通しのような。
診察代払って、薬局でちょうど60日分の「いつもの薬ですね、石田さん」などと言われて、陽の薄くなった午後を幾分肩落として駐車場から帰る。でもこれで2ヵ月後まで、なんとなくほっとした気分。不思議だ。

2010年2月4日Thursday 晴れ
朝青龍引退。
立春の今朝は冷えていた。「あっ!やっちまったかな?」と思いながら6時前に起床。お勤め前に庫裏の水道の確認。何とか無事であった。小学生たちは3学期が始まってから少し登校する時間が遅くなっているようだ。僕の部屋の前を大体いつも7時40分くらいに通るのだが、今は50分を過ぎてから通ることが多い。僕が駐車場に行く時間と遭遇することが多くなっている。「おはようございます」と言われて、「ハイ、おはよう」と声を返して車に乗り込む。
衝撃的な報道があった。まさか!!の朝青龍の引退である。“asashouryuu”朝青龍と打って、イッパツで「朝青龍」と変換できる人物が引退するのであるから、彼はそれなりに実績を相撲界に残したのである。きっとここまで事態が大きく展開して追い込んでくることまで想像していなかったのではないか。テレビでも言っていたけど、僕も前回の不祥事の時もそう思った。師匠の高砂親方(朝潮太郎)の指導能力の低さがこういう結果までもっていってしまったのだと思う。師匠自体も「大ちゃん」なんてちやほやされて角界で生きてきていて、おそらく指導力なんてものは最低なんだろうな。まっ、さっぱりして、彼のことだから、明日の朝起きたら、次の売り出しやマスコミからのオファーへの対応なんかを考えるんだと思うけど。

2010年2月3日Wednesday 晴れ
節分。
朝食後に時間があったので、裏山に入って樅の小枝を取り、本堂の渡り廊下の前にある柊も一枝。節分の魔除けにする。帰ってきてから焼いたイワシの頭を刺して戸口に付けた。年中行事をこなしていくというのは、めんどくさいと思うときもあるけど、終えた後には何だかほっとして、また生かされるような気分になれる。今日はあたたかい日で、空も真っ青で豆まき日和だった。身延山の節分会に参加した上司が、豆と福銭を貰ってきて配ってくれた。
我が家でも、帰宅後に本堂で豆まきをした。もう暗くなっている時間に、本堂から豆をまく。「福は内」だけでいいのだ。本堂一番高いところに、鬼板が睨みをきかせている。鬼に外へ出かけられては困るのがわが寺である。普段、鬼の怖さを感じたことはないが、福も感じることはない。でも、今年は福が欲し
いと思う。自分の家族のこともあるが、もうどうにか福の神に大活躍して欲しいと願わずにいられない。

2010年2月2日Tuesday 晴れ
忙しなく一日過ぎる。
いやあ、こんなに忙しないとは。これはまさに8時間の仕事ではこなせないという奴かも。なぜかということを書くつもりはないが、やらなければならない事務や時期がある。
雪の止んだ翌朝は車の運転が嫌だ。ほとんど積雪はなかったが、道路の凍結が心配だった。案の定、宮木から一色の集落に入ると雪が残っていたし凍っている。ゆっくりと走り、出口の集落から支所への道をそろそろと走った。
今日は気温も上がらず、帰りには冷えを感じた。明日の朝はまた冷え込むようだ。民主党の皆さんは、政権を取るということに慣れていないので、追い込まれているよう。小沢さんも段々追い込まれて、パーンと割れてしまいそう。雪景色なんか楽しむ余裕なんてきっとないね。高速道路の一部無料化の試行に、増穂からの区間が入っている。ちょっとは使えるかも試練が、危機的経済状況にありながら、こんなことをしていていいんかいな?と思ってしまう。

2010年2月1日Monday くもり
初雪になった。
女房は朝早く娘のところへ上京。就活のために短期に部屋を借りるのである。午後7時半過ぎに帰ってくる。八日市場の雪はそれほどではなく、常葉のあたりのほうがよく降るのかもしれない。帰り道の鳩打隧道から一色への道は、もう既に何本もの竹が道にかぶさって垂れていた。
でも雪はいいな。年に一度は雪の風景を見たいものだ。2年前の節分の日に、支所の日直をしていて雪だった。2月は案外雪が多いのかもしれない。
同僚のKくんのお母さんの葬儀も雪の前に終わってよかった。彼のやらなければならないだろうことを、皆で手分けしてやろうと話す。でも、うまく情報を探したり、見つけたり、引き出すことができない。明日もまた精を出してみよう。
女房が早く出かけたので、今日は弁当ナシで、久しぶりに食堂でチャーシュー麺を。お世辞にもきれいとは言えない店だけれど、まあたまには店で食うのもいいなと。満足で、暖かくなったお腹を叩きながら歩いた。

2010年1月31日Sunday くもり
法事一件。
10時半からTさんの法事。天候が下り坂でなかなか陽が出ない。法事後に、Sさん宅へ毎年差し上げている立春のお札を持っていく。家の裏の畑の紅梅と白梅に、3分くらいの花がついていた。「日当たりがいいんですね」と話してまた歩いて帰ってきた。帰ってきて境内のアジサイやつつじの成長を観察していると、一台の車が上がってきた。「ここに置いてもいいですか?」と訊くので、できれば駐車場に置いてもらいたいこと、駐車場において、参堂を歩きながら、お不動様を参拝するという気持ちを作ってきて欲しいと話した。本堂の前まで車を乗り付けるってのはやはり感心できない、僕は。旧甲西町の厚芝姓の方で、甲府にお住まいらしい。叔父の不動寺の檀家が厚芝姓なので、祖父のことなどを覚えていて、近くまで来たので、奥さんと二人で訪ねてきたとのことだった。お開帳をしてお寺の話をさせてもらった。お二人に引き続いて、power忍者現るであった。本堂に上がっていただき法楽をして、しばらく座ってお話しをする。今日は今から、玄法院での護摩に参座するのだとか。あくまでも軽い身のこなしなのである。さわやかな風が吹いていったようないい心地になって昼食をとった。午後少し休んでから護摩木作り。間もなく立春。少し裏山を歩く。午後5時に下山のセレモニーホールに行き、同僚のお母さんの通夜の香典場に座る。礼服を数年ぶりに着る。今は、葬儀はもちろんだが、結婚式にも着物なので、何だか変な気持ち。でも着られてよかった。太って着られなかったらやばかったぜ。帰ってきて、初ふきのとうの天ぷら。苦味が実にいい。これだこれだ、これですよ。春だなぁ。

2010年1月30日Saturday 晴れ
たくさんのことあり。
あたたかい土曜だった。今日は隣りの八幡神社のケヤキの枯れ枝の伐採作業が午後5時近くまで行われた。ケヤキの枝もだったが、樫木を伐ってもらいたかったので、計画があると聞いたときからお願いしていた。樫の枝が神社側にも大きくなっていたし、寺の庫裏の裏側にも大きく張り出していて、この茂る葉っぱが固くて、大量に落ちると、溝を詰まらせたりして僕を今まで悩ませていた。今日はすっかりきれいに伐ってもらって、これからは少し楽になるようだ。
今朝はお勤めの後、大津に住む檀家さんの七回忌の経をあげ、懇ろに供養した。小さなお嬢さんを残して逝かれた娘さんであった。お兄さんから、先日、家族が行けないので供養を頼みたいとメールが入っていた。午前中に女房は墓にお花を供え、昼食の後に塔婆を持ってお墓参りしようと思っていた。そうしたら、なんとお母さんが1時前に大津から来てくれたのだ。「天気もよかったので、娘のために出かけてきました」と。よかったよかった。墓前での供養もすることができた。
午前中、梅の枝の剪定をし、午後には、「節分」からの札を貼り変えた。夕のお勤めを済ませてから散髪。今朝、課長から同じ課の同僚のお母さんの亡くなったという連絡があった。明日の通夜にはお手伝いに行かなければならないかもしれない。
おっと忘れてはならない。今日は娘の誕生日。21歳になった。すべての事がうまくいくように願いたいが、せめて大学4年の今年、就職先が決まってくれることを祈りましょう。

2010年1月29日Friday 晴れ
朝青龍って人は。
この人は土俵の内外でとにかく話題の絶えない人だな。初場所で優勝したものに、場所途中の場外騒動で、実は一般人とのトラブルだったことがわかり、一転また槍玉に上がっている。任期の終わった横綱審議委員の内館牧子との確執は実に面白かったが、相撲という国技も、時代の流れで変わりつつあるのは仕方のないことなのだろうか。礼を常に重んじる国民と、日常にそういうことを重んじる必要のない国民には、なかなか理解できないことなのだろう。この国に50年を超えて暮らしているが、僕にもこの礼ということはなかなかに辛い。相撲で稼ぐなら、相撲道の精神に従えか。まわし一本の尻だしスタイルを、もうこの国の若者たちの多くは肯定しなくなっているらしい。現に、新弟子検査を受ける者がものすごく少なくなってきているそうだ。だから外国から人材を集めて、親方たちは自分の部屋の存続や隆盛のために躍起になっているのだ。朝青龍はモンゴルに居たら、こんなには時の人とはならなかっただろう。いま相撲界は、余りにも外国からの相撲取りが増えすぎて、部屋における外国人枠が決められているらしい。ね、日本人なんて、ほっときゃゼロに近くなっちまうのよ。野球中継もすっかり減ってしまったスポーツ番組で、唯一、午後3時頃から3時間も一ヶ月おきに15日間ライブで中継してるんだものな。うーわからんわからん。まとめようがない。やめるやめる。朝青龍って人は、僕にもこんなことを書かせるなんて。
でも今夜は、パワー忍者からも元気なメールをもらったし、今年もまんざら捨てたもんじゃないでしょう。まだ始まったばかりですし。

2010年1月28日Thursday
初不動。
正月28日は初不動。今朝6時を回ったころに雨が降り始めた。大粒の雨が音を立てて屋根を叩いている。乾燥して昨日も県内では幾つかの火事もあったようだし、雨で一息入れられるかもしれない。寒さが緩んで春が進む。
本堂で「初不動」のお不動様にじっくり向き合って、こちらの願い事の成就も祈願させてもらった。朝食をとりながら女房から、今日娘が「就職活動デビュー」で、ある企業の集団面接とやらに臨むことを聞いた。なかなか思うようにはいかないかもしれないが、なんとか一年の間に実を結んで欲しいと願う。結局は自分のことになるのだし、母親は母親の祈りを日々続け、僕は僕の祈りを続けるだけだ。リクルートスーツを着込んで出かける姿が見えるようだ。

2010年1月27日Wednesday 晴れ
どうやら。
今年は庚寅(かのえとら)の歳である。僕は申(さる)である。寅と申は、冲(チュウ)の関係にあるらしい。冲とは向かい合うということだが、今年の要注意の生まれは申年なのだそうだ。寅から数えて七番目に位置するのが申で、七冲といい、闘っている状態なんだとか。災いの多い年になるのかもしれないが、節分の始まりなので、いまから少し心して用心することに心がけよう。...と、「心」を3度も使っちまった。

2010年1月26日Tuesday 晴れ
最後の琵琶盲僧逝く。
今朝の新聞の死亡欄で、「最後の琵琶盲僧」永田法順師の亡くなったことを知った。享年74歳。冥福を祈りたい。実は新年になってから、カーステレオには、壬生さんからいただいた、師の和讃のCDが入っていた。弥勅和讃、弘法大師和讃、入定和讃、弘法大師母御前の和讃、光明真言和讃が、浪花節のように深い声で、テンポよく歌われる。彼のことを知ったのは新聞の記事だったが、たまたま行蔵院の壬生住職も同じ時期に永田法順のことを知ったらしく、程なくして僕にその作品のコピーを送ってくれたりした。昭和20年には北九州に120人の琵琶盲僧が、たった一人になってしまい、師は、その後継を切望していたのだが、果たしてどうだったのであろうか。盲僧から盲僧への口伝で引き継がれてきた伝統が途切れてしまうのは、なんとも切ない。
一年中を檀家回りで過ごし、加持祈祷をし、経をあげ、琵琶をもって釈文を唱える。日常のあらゆるすべてが、視力のない師匠から視力のない弟子への身体全部を使って伝えられるのである。教え込まれるのである。丸暗記するのである。琵琶を背負い、杖一本で、千軒の檀家を来る日も来る日も訪ねて僧のことをしてきたのだ。瞽女も然り。悲しい運命を背負った者たち(こういう風に決め付けるのはいけないのかもしれないが)から語られる言葉の説得力に、僕たちの先人は癒されてきたのだし、琵琶僧たちに、託してきたのだものな。

2010年1月25日Monday 晴れ
一月最後の月曜の朝。
夜が白み始めてくる。寒さが足踏みしているのか5時半に起きるのもそんなに苦にならない。この時期何が大変かと感じるのが、洗濯だ。女房がパートへの出掛け前に洗濯物を干してゆくのが、冷たそうで一番大変そう。太陽の出ていないまだ灰色がかった朝の外に、吊るされてゆくシャツやパンツも、「まだ干されたくねぇよ」って、身をよじるような声が聞こえてきそうだ。
ここのところ静かな森の獣たちはどこに潜んでいるのか?奴らも耐えている時期なのか。一週間の始まり。一月も最終週だ。31日がちょうど日曜で終わる。今日は新年度予算のヒアリングがある。この3月に定年を迎える県の課長が、酒気帯び運転で逮捕されたってニュースは週末のショックだったな。ゴールがもう目の前に見えているのに。指折り数えたら、後何日なんてわかるんだよね。現実的なこと考えると、懲戒免職になったら退職金も貰えなくなるってのは、本人も家族にとっても相当なダメージだよな。でも、こういうことを相変わらず続けていたっていうのか、わかっていなかったっていうのは、それ以上に問題だよな。きっと、気持ちを引き締めるようになんて通達があるんだろうな。僕にも、「夢であって欲しかったな」ってことがたくさんあったな。

2010年1月24日Sunday 晴れ
佳い一日でした。
護摩木を割り、ほとんど外で過ごした。墓参、甲府のEさん家族。帰りにお茶を出す。来山者、2組4人。あたたかな日になると、心うきうきと少し遠出をしたくなるのだろうか、1組の方は芳名帖に小淵沢の住所が書かれていた。1組はお守りを買ってくれた。賽銭箱には217円。午後には少し風が出てきたが、溝もきれいに掃いてよい一日だった。午後4時56分、外は少し曇り始めた。いつものこと、頭を刈って、シャワーを浴びて、夕のお勤めには法螺貝も吹いて、いま、浜田真理子を聴きながらこれを。私の子供たちもあそこの子供たちも、しっかりと相模原や東京の空の下で今日を生きただろうか。受験生のことも気になるなぁ。
仏に皆さんよりちょっと近い場所で、密やかに祈る楽しみ。今日のような日には、お不動様も耳を傾けてくれるような気がした。

2010年1月23日Saturday 晴れ
車検。
10時に三菱へ車検に車を持ってゆく。実に当たりもよくてさわやかで丁寧。民間企業ってのは、ホント軒並みこんな風になっているのかな。いま車検も一日で終わるのが当たり前になっているのか、夕方6時には仕上がり。もし次に車を買うことがあれば、また三菱で買おうと思う。女房のも買い換えるとしたらここでいいんじゃないか。生き残るのも、仕事にありつくのも、皆真剣に生きることをひしひしと感じているからなんだろうな。
「ウェルかめ」が、ちょうど寺の長男と父親との確執を取り上げていて、実は僕も、そして女房も、「まるで家のようだわ」ってなことになっている。なるほど、見ているとまったくそのとおりのように感じる。あーあ、こんなことをいちいち考え始めるとまた憂鬱になってくる。船橋のSさんに寒中見舞いを出した。あたたかくなれば、気持ちもまた明るくなるかもしれませんねと。

2010年1月22日Friday 晴れ
浅川マキのこと再び。
「浅川マキさんを悼む」と題した加藤登紀子さんの追悼文が、今日のサンニチ新聞に載っていた。おそらく他の地方紙にも同じ記事が載ることではあろう。1968年「蠍座」で加藤さんは浅川マキを聴き、「ライブの後、私は雨の中を泣きながら歩いた」と語り、「嵐のような時代の中を生き抜こうとしている者たちの心の底をうずかせる、重くきっぱりとした反世界の歌だった」と回想している。1968年、僕は12歳の6年生。父から浅川マキを労音のコンサートで聴いたことがあると教えてもらったのが、中学1年だったか?長谷川きよしの「別れのサンバ」のEPを買ったのも、この頃だった。
加藤さんは、学生運動のリーダーであった藤本敏夫の子を宿し、結婚、子育て、暮らしを見据えながら、音楽活動を継続するが、浅川マキは「家庭のにおいや、子供の気配が苦手だった」らしく、二人の関係にも距離が出てきたらしかった。でも、加藤さんも、「マキが『マキであること』から逃げ出すことなく、挑発的なトークやライブ演奏で、彼女らしい世界を全うしているのを確かめてきた」と書いてある。
こんな風に、彼女を愛して語ってくれる人たちが周りにいるのは幸せだ。浅川マキを僕たちは語り継ごうではないか。今日、職場でもN君と彼女を話しをしたところだ。
浅川マキの初期のアルバムのCDがヤフーオークションに出品されていて、実は何枚かに参加をしたのだが落札することはできなかった。金に糸目をつけないような参加者があり、サラリーマンの僕には「これ以上は無理」と涙するばかりであった。5年か6年位前、今は無くなってしまった甲府の「バードランド」という中古屋さんに、マキのCDが大量に並んでいたことがあった。すべて3000円を超えた値段だったと思う。皆欲しいと思ったが、悩みに悩んで「浅川マキ ライヴ 夜」と「マイ・マン」の2枚を買った。いまとなっては、ちょっと悔いが残るが仕方がない。いまは、YouTubeで結構聴けるもんね。彼女の歌が僕に残してくれたことの真実を抱き続けるのだ。彼女は彼女の世界を全うして終わった。素晴らしい。歌の力。素晴らしい、う・た・の・ち・か・ら。

2010年1月21日Thursday 晴れ
職員健診。
年末からの風邪もほぼ癒えて、朝のお勤めでも咳き込むこともなくなった。床暖房の会場はあたたかい。ここに10年前から6年前まで5年間過ごした。胃がん検診車では、バリウムを飲んだ後の撮影で、身体を右左腹ばい、天地逆さなど、あらゆる角度から撮られた。撮影に入る前に、事務の方がこれから入る人の年齢を告げるのである。「53歳です」と。で、僕の場合はまだこれに耐えられると判断したのか、「ゲップしないで我慢してくださいよ」で、脳天逆さ落としあり。朝ごはんをどうしようかとも考えたが、去年、下剤を飲んだ後の排便がなかなかなくて不快だったので、帰って軽く食べて、便意をもよおしたので出してから出勤した。雨が昼過ぎにもパラパラとあって、それでも陽気はぬくとかったので歩いた。全国的に大寒の昨日は気温が上がったようで、都会ではアイ
スクリームがよく売れたらしい。女房とも話したが、このあたりは特別な暑さは昨日感じなかった。アイスクリームも食べたいとは思わなかったし、健診を控えて、酒も慎んだのだ。で、今夜は飲んだ。

2010年1月20日Wednesday 晴れ
でも寒いよ。
今朝はあたたかいだとか、日中は15度から20度近くになるところもあるとか、5時過ぎのテレビがしゃべっているのを聞きながら5時半を回って起きた。確かに布団を抜けるのが嫌ではなかったが、本堂の時間はいつもと変わらないくらいに冷えていて寒い。金剛合掌する指先に冷たさが上がってくる。
首都圏の小学校の私立中学の入学試験があるらしい。5人に一人が私学を受験する昨今らしい。不況など関係ないのであろうか、若い時の投資を有名大学から就職に結びつかせることができれば、親としては安上がりということだろうか。それでも今年は、インフルエンザ対策で、マンモス受験校を避ける傾向があったり、負担経費の軽減のため、肩慣らしのお受験などは慎み、受験校を絞る傾向にあるようだと伝えていた。なるほどなぁ、微妙にこの不況は影響しているのだな。まあ、それでもこの国のこんな状況は、まだまだのんびりしているように感じるな。

2010年1月19日Tuesday 晴れ
老いてゆく。
女房のパート所得の確定申告の書類を作りながらBSで「スカイ・オブ・ラブ」という香港映画を見る。夜なんかじっとテレビを見ることは少ないが、結局引き込まれて見てしまった。年をとってくるとこんな切ないストーリーに単純に弱くなってくる。老いてゆく自分を認めることがたまらなく嫌になってくる。浅川マキを今日の行き帰り車の中で聴いた。ライブ盤は、まだ彼女の高音がくっきりとしていたが、あの人はしっかりと自分の立ち位置をわきまえていて、その場所を離れようとすることはなかった。淺川マキの唄う場所には、時代が変わっても、いつも彼女の歌を求める人たちが帰っていけるところだったんだ。もう少し浅川マキの生歌に触れたかったな。悔いはいつも終わってからだ。

2010年1月18日Monday 晴れ
浅川マキ死す。
浅川マキの訃報が飛び込んできた。「17日夜、滞在先の名古屋市のホテル自室で倒れているのが見つかり、その後死亡が確認された」と。享年67歳。幾つになったのかなんて事はいつも考えたことはなかった。相当な年齢になっているのだろうな位の思いしかなかった。早すぎるのか、よく生きたというべきなのかわからぬが、でも悲しい。
思えばちょうど一年前の1月24日(土)に、甲府の桜座で彼女を聴いた。ソロの歌ではじまり、終盤にセシル・モンローがドラムスで入った。懐かしく聴いた。早川のMさんの車で連れて行ってもらったので、僕は遠慮なく飲みながら彼女のブルースを聴けたのだ。同じ下部支所に居るN君に浅川マキの死を伝えた。こんな寒い一月に、なにも逝かなくてもよいものを。こんな風に歌い続けてきた歌い手はもう居なくなってしまうのだ。マイルスやジェリー・ガルシアやジャニスなんかと同等の位置にいたのだ。予告なく突然に飛び込んでくるニュースって、こんな風に重く悲しいことばかりだな。服喪のマキって感じだったな。ステージ衣装がそのまま彼女の旅立ちの服になるのだろうな。出不精の僕が女房を誘って、それからMさんまで誘って桜座へ行ったんだものな。年の初めに大切なものを失ってしまった。速證佛果菩提。

2010年1月17日Sunday 晴れ
あたたかなうちに頭を刈る。
それでも石の床になっている風呂場は寒い。気合を入れて刈ってしまうという奴だ。これで一週間にキリを付けるというか、一週間の始まりにカツを入れるというか、そんなとこ。
ゆっくり起きて、午前中あたたかくなってから本堂の護摩壇の片付けと掃除。樒も新しく換える。本堂をきれいにすると終わったあとが何ともこちらの気分がいい。夏場なら、きれいになった本堂で1時間ほど大の字に昼寝をする。今日は風もなく、日中は気温も上がっていい日曜だった。1月の後半が始まるな。

2010年1月16日Saturday 晴れ
水道凍結。
庫裏の水道が今朝は凍ってしまっていた。迂闊でした。この冬初めての凍結。用心してかからなければ。今日は休みだったからよかったものの、平日だったら何かあったら大変。これからが凍結に気をつけなければならない時期。気温が上がってきてお昼前には融けて開通。
午後1時半から「GlassEye」Eくんのために護摩を焚く。お母さんも一緒に初めての護摩を観戦。檀家の人たちなんてほとんど本堂に上がったこともなければ、まして、護摩を焚くのなんか見たこともないのだ。寂しいとは思うが、見に来てくれとまでは言いたくはない。護摩の恩恵に浴したいという人たちは他に居るものだ。
午後3時過ぎに日が翳ってしまうと一気に冷えてきた。今夜は凍結に気をつけなければ。

2010年1月15日Friday 晴れ
午後から定例の教育委員会あり。
今日は新年度予算の説明と、教育委員会の事務事業の評価について議会に報告する案件についても説明した。いつもの定例会は、教育委員と生涯学習課長、学校教育課の3人が出席して進めるのだが、今日は、予算説明などがあったため、全員で20名での会議となった。
今日の午後もあたたかかったので、会議室の暖房も一箇所だけ点けて、会議のやり取りを録音するには音もうるさくなくてちょうどよかった。生涯学習課の事業は多岐にわたっているので、各担当からの予算説明や事務事業についての評価を聞くのは、あらためて「なるほどなぁ」とか、「ほぉー、そうだったのか」みたいな感想が僕にはあった。押しなべて皆、丁寧に説明し、僕なんかが一番あっさりと「例年となんら変わりなく、特段にはありません」みたいなものであった。早く終わって欲しいと思っていたら、途中で急展開があり、そんな風になってしまったのだ。定時に帰ってこられてよかった。今夜は、久しぶりにホッピーで焼酎飲んでご機嫌、大いにご機嫌。

2010年1月14日Thursday 晴れ
53歳、母親を送る男。
小学校からの同級生Wのお母さんが亡くなり、帰宅後通夜に行ってきた。明日の葬儀には教育委員会の定例会があり行けない。Wとは仲がよかったので中学校や高校時代にはよく家に遊びに行き、お母さんやお父さんからもよくしていただいた。Wとはお互いに社会に出た後には疎遠になっていたが、消防団の分団長を務めるときに一緒になったので、分団会議の後などにも飲みにいった。普段特に会うこともなく、何もなければ「あいつも元気だろう」ぐらいで済んでしまうのだが、今夜は彼の顔を見てよかった。高齢のお父さんに代わり参列者に挨拶をする姿は、あいつも11月生まれで一緒だったな、53歳の男の姿なんだなと感じさせてくれた。奴ともいずれまたゆっくりと会う機会があることを信じたい。

2010年1月13日Wednesday 晴れ
お金というもの。
また政府から経済対策の特別交付金が配られるらしい。それにしても何ともよくわからないように、誰がそれを提案して決めているのかよくわからないが、風呂の湯がこぼれる如く、いとも簡単に配られるものだと思う。これで本当に経済の活性化や不況を乗り切るきっかけになるだろうか。僕には到底それを思えない。おそらく一部の企業や人間たちしかその恩恵を受けないのではないか。失業者が溢れている公園から彼らが消え去ることはないだろう。そのくらいこういうばら撒く巨額の金は、役立たないものではないのか。貰えるものは貰ってしまえ、小さなものは買うな、どうせなら大きなものを買え、まだ残っているから食えるときに食っておこうみたいな。
何も見えてこないこの列島のほんとの寒さよ。

2010年1月12日Tuesday
「心の時代」に相応しい坊さん。
こんな記事を読んだ。なるほどよくわかる。なれるよう努力と問いを続ける。坊主丸儲けには多分この寺ではなれない。その点は指をさされることはないだろう。もう10年か15年位後に、僕はこの寺の後継を誰か望む人がおれば譲りたいと考えている。未練がないわけではないが、未練をもつことのほうが恥ずかしいことだと考えるようになった。
僧侶を辞めるつもりは毛頭ないが、静かな祈りの場所としての庵でもあれば入って暮らしてみたい。祖父、父とおよそ100年が、僕たちに任された時間であったのだと思えばいい。1000年の場所に100年はできすぎなのかもしれない。53歳になった女房の誕生日に、いつまで一緒に居られるか、また新しい展開があってもいいかななんてことを考えた。子らよ!早く飛び立て。

2010年1月11日Monday くもり
レッドクリフ三昧。
実はWOWOWで「レッドクリフ」のPart1、Part2を見始めたら動けなくなって、山梨学院のサッカーの決勝戦も、終わってから結果を知ったのだ。山梨県人の正しい今日の祝日の過ごし方に僕は泥を塗ってしまったのかもしれない。まあいいや。久しぶりに壮大な中国歴史映画を堪能した。何故こうも激しく命を奪いあう歴史を、性懲りなく続ける生き物なのだ。
女房は朝7時の電車で上京し、娘と待ち合わせて就活のアパートの契約と、アパートもついでに眺めてくると。午後、彼女の誕生日が明日なので、飯富のDさん、「明日来られないから」と、たくさんのプレゼントを持ってきてくれる。

2010年1月10日Sunday 晴れ
休みの日はゆっくり寝坊に限る。
こんな日が永遠に続けばいいなんて思いながら、ゆっくりと起きる。雑煮を食べて満足。たくさん食べたので昼ご飯時にも食欲を感ぜず。11時に獅子舞が来る。いつものメンバーがよく頑張ってくれている。小学生たちも何人もリュックを背負って着いてきていた。皆もう各家からもらったお菓子や果物でいっぱいのようだった。僕のところでは毎年女房がコーヒーで接待する。雪のときもあるのだから今日は風もなくてあたたかな日。去年は娘の成人式だったのだ。一年は早い。彼女たちには一年がもっと早く過ぎて欲しいのかもしれないが、僕たち夫婦にはこれ以上早い一年なら、付いていくのに精一杯かもしれない。

2010年1月9日Saturday 晴れ
正月気分を終わりにする。
朝ゆっくりと起きる。寒い。朝食後にお勤め。女房は9時に久田子へ一周忌の法事に兄姉たちと一緒に出かける。午前中も早い時間は体を動かすのが億劫で、パソコンをしたり。10時過ぎから正月のお供えや門松の片付け、それから年末年始に古札が返ってきたので、どんど焼きで炊き上げてしまう用意。破魔矢からは鈴を外す。
昼食はレトルトカレー。今年初カレー。そろそろカレーやラーメンもいい。意外と最近食べなくなったのは餅だ。雑煮なんかほとんど食べていない。明日の朝は雑煮にしてもらおう。
寺の耕作放棄地が毎年のどんど焼きの場所で、同志会が午後に準備。出来上がったところへ門松などを持ち込む。そうそう、その前に高校サッカーの山梨学院の試合を見たんだ。2:0で勝って、なんと明後日の決勝へ。すごい!サッカーの前半が終わったところで、意を決して頭を刈る。12日ぶりの散発。あたたかい昼で気持ちよく頭が刈れた。その後、本堂の渡り廊下のところに屋根から下りている樋の支えを修復。我流ね我流。止まってりゃいいのよ。こんなのが一番苦手だ。でも、これを済ませて今日は充実した一日。

2010年1月8日Friday 晴れ
何とか2日目の仕事終え。
昨日よりは今日のほうが身体も楽。おかしなもんだ。明日からまた3連休なんてことを考えていれば仕事もはかどる。単純な頭の構造なのだ。
朝の冷たい空気の中の勤行ではまだ咳が出てしまう。肺の中がにごっているのか。娘のアパート探しにもやっと決着がついた。少々高いのもこれは我慢だ。月曜に女房が上京して60日間の賃貸契約をしてくることになった。レオパレス21のマンスリー契約というもの。
今の時代、仮に就職できたとしても、それが長期に勤められることができるのかどうか、考え始めたらキリがない。ほうとうの晩飯と日本酒で、これはこれで最高の夜なんだがなぁ。

2010年1月7日Thursday 晴れ
仕事始め。
結局、年末年始と9日間休んでしまったので、今日が僕の仕事始め。体は重く、仕事をする気分に高まっていかない状態だったが、やらなければならないことが幾つかあり、そういう点では、自分で自分を押さなければならなかったのでよかった。会議にかける新年度予算書案の分厚いのをコピーして教育委員に送ったり、臨時職員の給与支払報告書の作成に入ったり。年末の風邪がなかなか抜け切らなくて、午後からはマスクをして過ごした。
一日は長いように感じたが、帰る家のあることのほうが嬉しかった。こういう当たり前のことの繰り返しを、中断されてしまった人たちが大勢いるのだ。娘の就活のために部屋探しのことなどを夜女房と進める。今夜は久々にのんびりと、ごろんとテレビ見ながら煎餅食べたり。風邪を治すように暖かくして寝る。

2010年1月6日Wednesday 晴れ
葬儀終える。
日中は風もなく、比較的暖かな陽気の中で葬儀をすることができた。客殿を開け放っていてもストーブ1台でも寒くはなかった。親族も10人ほど駆けつけて参列してくれた。喪主はとうとう今日も体調思わしくなく欠席をした。甥にあたるK君が代わりを気丈にも務めた。
初七日まで終え、すべての片づけが済んで寺は何もなかったかのように、また静かな正月に戻った。夕方、K君と故人の一番下の妹さんが来てくれた。七七日忌の事など話した。ここには書けないこともあるが、僕の中でそれを受け入れられるかどうかの問題である。檀家の寺の関係を保ち続けてゆく間には、波の高低もあるだろう。僕は僕のできることを精一杯してあげたので、いい葬儀だったと自負している。

2010年1月5日Tuesday 晴れ
通夜。
今朝も風が吹き荒れている。夕べも夜半から雨と風が強かった。午前6時過ぎはまだ月が煌々とあり、風は凪いでいたが、また8時を前にして大きな風が吹き始めた。葬儀の準備をするにも寒い日になりそうだ。
娘を甲斐岩間駅まで送る。今月いっぱいの授業のあとは、春休みに入り、就職活動を春休み中始めるのだと意気込んでいる。4年生の就職の決定状況も数字は悪いらしい。3が日の明けた昨日のニュースでも、仕事始めのハローワークに、求職者が殺到していると伝えた。今朝の風はこんな時代を象徴しているかのように、僕の胸にも冷気のように凍みこんでくる。
寒い夜であったが通夜を無事終える。いささか寂しい通夜ではあった。親族の集まりも悪く、これは一体なんだと思うしかなかったが、これを寺の僕が嘆いても仕方が無い。自分のやることだけをやるだけなのだ。
弟である喪主の落胆がわからないわけでもないが、やはり気持ちを切り替えてしっかりと葬儀を勤め上げるべきではないか。家庭の事情はそれぞれのことなので、それを理由にしてはならないと思うが、死者をしっかりと送る務めは家族、僧侶、近所の皆さんとてそんなに違いは無いのではないか。明日の葬儀、しっかりと進めなくてはなぁ。

2010年1月4日Monday くもり
新春早々檀家に葬儀。
新年早々また大変なことになった。今日は新年のお札を檀家に配るので休みを取っていたが、富士ヶ嶺から甲府へ下る精進湖線の途中で娘から電話が入り、檀家のWさんが今寺に来ていて、お姉さんが今朝方なくなったのだと知らせてくる。もう引き返すことはできないので、甲府周辺を回ってしまってから戻ると伝えた。朝7時半に家を出たので、本栖湖からの富士は望めなかった。富士ヶ嶺の道路はマイナス1度。甲府盆地へ下ってやっと陽の光が出た。寺に戻り枕経の支度をして出かけると、午後1時に組の人たちが集まることになっているからと、僕は町内と村内の檀家周りの続きを済ませてしまう。弟さんはほとんど何もできていず、親戚も二人だけで、葬儀社を頼むことすら始まっていなかった。寒い部屋の中で1時間半ほど組の人たちを含めて相談し、日取りを決め、経費の負担を減らすために、通夜からの葬儀一切を寺でやってしまおうということになった。
仕事始めの今日を休んで、結局また明日あさってと休暇を取ることになった。どうもこういうことが後ろめたい。過去にも正月の葬儀がなかったわけではないが、僧侶の役割を胸を張って、「休ませてください、ご理解願います。」と言いにくい自分をいつも見てしまう。よい葬儀になればいいと思う。

2010年1月2日Saturday 晴れ
穏やか正月二日。
皇居の一般参賀ではないが、今年も同じように川口、秋山、佐野家の皆さん寺を訪ねてくれる。正月2日の寺の行事のようにもなってきた。大いに話して飲む。秋山、川口両家にまた新しい家族が生まれたので、今年のお祭りにはお二人のお子さんを抱いて護摩壇を渡らなければならない。こんなことが嬉しいんだなぁ。僕にもいつか自分の孫を抱くこともあるのだろうか。
今日は昨日の風も凪いで、正月らしい穏やかな一日。箱根駅伝は、山梨学院が大健闘で2位に入ったので明日の復路はこれまた楽しみ

2010年1月1日Friday 晴れ
新年明けましておめでとうございます。
晦日の夜の護摩も無事に済んで、今朝はいつに無くぐっすりと寝入ってしまったようで、時計は8時を指そうとしていた。急いで起きてお勤めと、本堂の護摩壇のあとの掃除。毎年の元旦の朝の僕のなすべきことを済ませ、女房との屠蘇。子供たちは夢の中だ。10時から集落の互例会。珍しく強い風が吹く。結局一日中元旦の嵐は吹き続け、僕は夕方の本堂にも掃除機をかけた。こんなに風の強い元旦は記憶にない。互例会後、同志会の新年会へ。今年の会長は佐田君。暮れに会えなかったので、少しゆっくりと飲み話す。M君の息子は、就職の内定が保留になっているのだそうだ。これは本人にとってどっちつかずで相当に厳しそう。保留が取り消しとなれば、就職先は比較的安定したところである。元日の寺へ、市川三郷町から遠藤さんご一家、甲府から坂本土建の社長ご夫妻など来山。如何にこの不況を乗り切ろうなどということも話す。まったくどうなっちまうんだろうか。
今年一年の幕開けを象徴するかのような大荒れの元旦は、僕たちに不安を絶えず忘れるなとでも言いたげであった。ありがたいことでは決して無いが、これに逆らってゆくしかないのだ。僕の娘も荒波に漕ぎ出してゆくのだ。僕はこの寺でひたすら祈る。祈ることが僕の使命だ。寺の年越しに望んでくれた甲府の柳澤一家やご友人、都留から毎年来てくれる蔦木さん、滝本さん、その他大勢の方々のために、祈りの日々をあ・る・く。